20021011日(2

社会構造論」人事の公募手続きは、まだ不当にもそのまま放置されているようである。そのことからくるさまざまのマイナスの結果に、だれがどのように責任を取るつもりか? 関係者には「あり方懇談会」の座長・橋爪大三郎教授の「社会学講義」でもしっかり読んでもらいたい。学長には、自分から進んで優秀な「社会構造論」の人材を集めるために関係各方面に督促・激励するほどになってもらいたいものだ。つじつまの合わない恣意的で強引な理由で「凍結」という暴挙がいつまでも続けられては、学生や教員が全体としてさまざまの迷惑をこうむることになる。

 

 橋爪大三郎『社会学講義』夏目書房から、現代的教養として経済学科、商学部にこれまで長年社会構造論を基幹科目として置いてきたことの意味、「社会構造論」ポストの設置が商学部カリキュラム体系でも必要不可欠なことをわかりやすく説明するものとして、若干の引用をしておこう

 

社会学は大事な学問だ・・・社会学の巨人たち−マルクスもヴェーバーも、デュルケムも、政治経済人類学法学哲学芸術・・・おおよそ社会に関係のある学問すべてを真剣に研究し、それらを総合して自分の学説をこしらえた。そうした先人の仕事には、社会の成り立ちと作動法則に関する、深い智恵が秘められている。・・・・いま大切なのは、「政治学」「経済学」「社会学」といった枠に閉じこもった、たんなる知識ではない・・・それよりむしろ、民主主義と市場経済はどういう関係があるのかとか、社会と宗教はどういう風に絡まっているのかといった、社会の見取図だ・・・いわゆる学問の枠にこだわっていては、そういう大事なところが見えてこない。当然、応用も効かない。この情報化の時代、たんなる知識だったらいくらでも手に入る。大事なのは、一見すると互いに無関係なことがら(たとえば、政治のある現象と、宗教のある概念)が、本当はどういう繋がりをもっているか、といったことなのだ。・・・」(同書、24ページ)

 

「社会構造」論の重要性・・・「実際に、社会学はどういうふうに学問の体裁をなしていったのだろう? まず、社会関係を「一つの固定したパターン」として取りだし、これを説明変数(原因みたいなもの)に据えて、社会現象を説明するというのが、だれでも考えつく最初のやり方である。この「社会関係の固定したパターン」のことを、社会構造という。社会構造がわかっていれば、一人一人の人間の行動は、かなり予測可能になる。社会構造は、定義上、あまり変化するものではない.社会によって少しずつ違うので、『文化』といってもかまわない」と。そして、「社会学は、いまのべた『社会構造』が、どのように形成されたのかを説明したいと考える」。(同、1718ページ)

 

社会学の中で、相対的に不変的な社会構造が最も基礎的なものであることは明確である。社会構造をめぐる諸学説がある。社会構造論を時間をかけ、諸学説を検討しながら、学生諸君に教えることが重要になる。社会学を学び、社会構造論を学ぶことは、経済、経営、法、政治などの意味を全社会・全人間関係のなかに位置付けることになり、個々の専門分野・個別領域の学問の相互連関を明らかにし、それらを学ぶ意義も理解できるようになる。

商学部はこの科目の重要性をきちんと評価し、何十年にわたって基幹的科目として置いてきた。大学院修士課程で修士(社会学)の学位を出す上でも不可欠なポストだ。それを「理解できない」といわれて、どうすればいいのか?このようなかたちでのサボタージュは許されることか? 

専門研究者とその集団としての経済学科、商学部の意見が、専門家ではない人に無視されるようでは、大学ではなくなる。そこでは、教授の自由、研究の自由など大学の本質的要素はなくなるのではなかろうか? またそれに屈するような人々ばかりでは、大学の学問の自由はなくなるのではなかろうか?教学は破壊されるのではないか? 大学の本質=理性を破壊する恣意性を、われわれは許してはならだろう。