2002年10月19日
評議会における事務局責任者の職場放棄、学長命令不服従に関し、教員有志の声明(上記アピール1を参照されたい)を公開、多くの方が賛同メールを一楽先生まで寄せられることを期待する。
この間の評議会での事務局責任者の横暴ぶりを知った高名な先生が、留守中の大学で「どのように事態が進行したのかを知りたくて」、日誌を読んでくださった。「概要をつかむことができ」、「有用な情報を発信してくださり,大変有難い」とエールを送ってくださった。これほどうれしいことはない。
その先生のお考えでは、「評議会が紛糾したすべての根源は,民主主義・学問・真理とは何かを真剣に考えたこともなく,これらが人類共通の尊い遺産であるとの認識もなく,したがって,畏敬の念も持たない,はなはだしく知性の欠落した人間が権限(しかも,正式ではない違法なもの)を握っており,教員の側にもそのような人間にすりよることで利益を得ようとする権利意識の欠落した人間がいることにあるのではないでしょうか.人事凍結の他に,大学改革戦略会議の擬似民主性(メンバーの選び方や情報の不透明性),研究奨励交付金配分の配分方法の不透明性(重点領域の決め方や選考方法),あるいは,今回強引に押し付けようとしている海外出張基準など,言い出したらきりがない位にいろいろおかしなことがあります」と。
専門研究で最先端の仕事をする傍ら、最近の大学の危機現象に心を痛め、大学問題(学問の自由と大学の自治など)に深い関心を持ち、広い読書をなさっており、本日誌から、「橋爪大三郎さんが『民主主義は人類が生み出した最高の制度である』という本を書いていて、推薦されていることを知り,これぞまさしく私の読むべき本であると思い,本日早速注文した」とも伝えてくださった。橋爪氏は、同書のどこかで「言葉の力」、したがって理性の力、理性が人の心をつかむ力を信じることが民主主義の一つの重要な前提だという意味の事をのべていたが、彼の精神の象徴的発現部分であるいくつかの言葉の鮮烈さが力を持ったことがこの事例でも実証されたように感じる。
この先生が直接関わる場でも、従来の「長い議論や民主的な手続きをすっかり反古にするようなやり方に憤慨」されることが積み重なっているようで、日本で(そして、まさに本学で)は、まだまだ「民主主義とは何か」を真剣に考えたことがない人が多い、だから「基本的人権を無視しても気がつかない」と総括されている。「議論するだけで和を乱す」として徹底的な議論や分析を避ける風潮を打破していく必要があるとの御見解に共鳴する。日本にはまだ,「本物の民主主義」だけでなく「本物の科学・学問」も根付いていないのではないかというのは、その通りだろう。われわれ一人一人に、この問題が付きつけられている。
数日前に紹介した遠山茂樹名誉教授の主張のように、輸入学問で外国の説ばかりを急いで導入する明治以来の風潮、日本(と世界)の現実(の諸問題)に根ざしたところから科学研究の課題を発掘する精神の弱さなども、学問研究における民主主義の不徹底と深い関係があるだろう。直面している大学改革を巡る諸問題を通じて、少しでもわが大学の(ひいては日本の)学問のあり方が根底から問いなおされることがあるとすれば、これはすばらしいことだ。われわれ一人一人の民主主義の質、したがってまた科学研究の質が根底から問いなおされているというべきでだろう。
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2002年10月21日
早速、橋爪著の上記『民主主義』を手に入れられて、通勤電車で読み始められたとのお知らせをいただいた。
同時に、先日のメールでも指摘していただいたヴォルフレンの著作から、重要なポイントを紹介していただいた。本日誌に興味を持たれる方のために、紹介しておきたい(赤字強調は引用者・永岑)。
コメントは痛烈な批判であり、身の引き締まる思いがする。
「アカウンタビリティ」は、われわれ一人一人に求められている。拱手傍観はその対極にあるということではないか?
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先日お話したヴァン・ウォルフレンさんの「日本/権力構造の謎」(ハヤカワ文庫,1994年)のあとがき解説中(下巻,p.486)でも,・・・中田市政のキーワードである「改革」について,「改革とは,(日本の官僚独裁機構を意味する)〈システム〉との戦い,権力との戦いである.そうした改革の課題を,日本人にメッセージとして送り届けた書物,それがこの『日本/権力構造の謎』なのである.」と述べて,官僚独裁機構との戦いが「改革」の本質であると指摘しています.
また,中田市政のもう一つのキーワード「アカウンタビリティ(説明責任)の必要性」についても,ヴァン・ウォルフレンさんはベストセラーになった別の著書「人間を幸福にしない日本というシステム」(新潮OH!文庫,新訳決定版,2000年)の中で,「ものごとを変えるためのメカニズムは,民主主義に不可欠の,ある考えかたがなければ存在しえない.それは「アカウンタビリティ(説明責任)」という考え方である.」(p.91)
「彼ら(日本の官僚)に欠けているのは,(レスポンシビリティではなく)アカウンタビリティのほうなのだ.アカウンタビリティが欠けているというのは,自分たちが何をしているのか,なぜそうしているのかを,自分の所属する省庁以外の人に説明するよう求められていないという意味だ.何が日本にとってよいことだと思うか,なぜそう思うのか.官僚はそれを説明するよう要求されていないため,自分の属する省庁の利益を超えた広い見地からものごとを考えられないのである.」(p.96)
「アカウンタビリティ(説明責任)のあるシステムの重要な点は,恣意的かつ非公式の権力を排し,古い政策がもはや人びとの利益にならないとわかったとき,新しい政策を採用しやすくすることである.」(p.98)
「日本の官僚制度の本質的な特徴は,各省庁が自分たちの縄張り・・・・・のなかでは好きなことができるところだ.しかも,自分たちの決定について説明する必要がない.それぞれの省庁が法を起草し,その法を思いどおりに解釈する権限をもっている.さらに,許認可を与えたり与えなかったりし,それとなく脅したりすることで,法を執行する権限ももっている.」(p.98)
「・・・・・自分たちのしていることを誰にも説明する必要がないため,日本の国民にとって生死にかかわるような多くの問題が考慮すらされないという危険な結果が生じている.役人が自分たちのしていることの説明を求められなければ,自分の行動を充分に分析する能力が身につかず,したがって国の運命を左右するきわめて重大な問題を認識できないからである.」(p.101)
これらの指摘は,最近の横浜市大の事務官僚による恣意的強権発動が原因となって生じている一連の異常事態を,横浜市大の事務官僚(および,教員側管理者)がどのように説明するのかという,まさに「アカウンタビリティ(説明責任)」が問われていることを意味しているのではないでしょうか.
また,横浜市大の最近の現状が,中田市政が目指している「アカウンタビリティ(説明責任)」を必要とする「改革」(すなわち,橋爪大三郎さんやヴァン・ウォルフレンさんのご指摘にあるような「改革」)の対極にあることを示しているのではないでしょうか.