大学改革のあり方に関し、ある教員から寄せられた意見

‐商学部などは独立行政法人化・民営化でもいいのではないか[1]、との御意見‐

 

いつも先生の「大学問題日誌」で勉強させていただいております[2]

昨日、先生のサイトで、鞠先生のご意見を読みました。国公立大学の事務が、私立大学含む民間より非効率であるという意見[3]には、日頃お世話になっていることは分かっていながらも、私も同じ感想を持っています。

 

一つ気になるのは、「大学のあり方を考える懇談会」が医学部と病院以外は民営化でよいのではないかと、いっていることに対する皆さんの反応です。そもそも公的補助というのは、採算ベースにのらない機関に対して行われるものだとすれば、医学部や病院が市営として残る対象となるのは、理論的に正しいのではないでしょうか?商学部は単体でも黒字達成できるのでしょうし、むしろ誇りに思ってよいのではないかと思うのですが[4]。。。それに、民間的な発想では、教員は収益を生む資源です。勿論これまでのやり方では通用しないこともあるのでしょうが、むしろ一段の効率化が求められて大変なのは、コスト部門である本社機構(事務サイド)なのではないか、という気がします。といっても、おそらく現実には、人員調整は、市の他の機関に回る、ということで、解決できる問題なのではないかと思うのですが。

 

私は民間企業と独立行政法人両方で働いた経験もありますので、他の先生方が、なぜそんなに独法化や民営化に反対するのか、疑問に思うところもあります[5]。確かに、民間の研究所で働いていたときには、利益に直結するために、市場を意識した研究活動を行うなど、研究内容に制約がありました。これに対し、独立行政法人で働いた経験からは、やり方次第では、民の利潤追求と官の非効率性をうまく避けて、両方の良い面をとる[6]ことも現実に可能なのだということを知りました。

 

大学改革でどの大学も大変な時期ではありますが、前向きな対応によって、危機をプラスに転換することも、皆さんのお知恵次第では不可能ではないのではないかと、考えています。個人的な感想ですが、普段から皆さんと少し考え方が違っているのではないかと思っているところを書かせていただきました。これからも、宜しくお願い申し上げます。

 



[1] よくいわれる「親方・日の丸」的依存体質を脱却して、直接に社会的な説明責任を果たすような自立的大学を構築する手段として、独立行政法人化はありうることであろう。大学の使命を実現する上で、その具体的あり方の当否が問題となる。

[2] 「勉強」といわれると赤面。ただ、いろいろな情報や意見が入ってくるので、参考にしていただければ幸いである。水面下でいろいろ愚痴や不満を言ったりするより、こうした形での公然とした意見表明が、叩き台として、議論の素材としてあってもいいのではないかというところである。HomePageで意見表明や情報交換が可能になったわけで、現代の武器を大学内外の意思形成・世論形成において利用しない手はない、と言う立場である。意見交換のためと「主観的に勝手に」思いこんでメールを送りつけ、実際には迷惑メールと同じになって相手の人を「辟易」させることも多いが、その点HPでの意見表明なら、読みたい人・関心がある人だけがアクセスするわけで、迷惑度も少ないだろう。読みたくない人、関心のない人はそもそもアクセスしないだろうから。 

[3] 永岑注: ばかげた形式主義で頭に来ることがしばしばで、この点は共鳴。最近の事例では、入試問題作成に関する形式主義(句読点問題)。大学入試問題も「行政文書だ」との決め付けで、学問内容、学科の特殊性を抜きに、またその十分な検討も抜きに、形式主義を押し付けてきた点。そのことによる教員サイドの精神的消耗。これだけだと何でもない様だが、このようなばかげた些末主義が積み重なると、重要な点が忘れ去られることになる。医学部の患者取り違え事件なども、日ごろの些末主義が昂じて、関係者の注意力が本質的に重要なところに向けられなかったところにあるのではないかと、感じている。

[4] 永岑注:商学部も、公表された経費(約90万円)と学生からの収入(約60万円)とを比較すると、一人あたり30万円のマイナスになり、黒字化するためには、授業料を30万円アップしなければならない、と言うのが現実。

[5] 永岑注:民営化してしまえば、私立大学との違いをどのように定義するかが、問題になるのではないだろうか。現在問題になっている国立大学法人も公立大学法人も、完全な私学とは違い、国家や公共団体の財政的支援を基礎に、理念上は、研究・教育条件が私学よりもいいということになっているのではないだろうか?

[6] 永岑注:まさにこれが少なくとも建前としては、国立大学法人化や公立大学法人化の論理となっているように思われる。どこまで実現できるか、その実現のための組織はどうあるべきか、これが問題となろう。