2002118日 総合理学研究科の歴史的決議・・・昨日の総合理学・八景研究科委員会は、伝えられるところでは、以下のような見解をまとめ、決議したようである。その趣旨は、
「1.10月16日の評議会で起きた事務局員の途中退席という異常事態は大変遺憾であり、
責任を明確化されたい。
2.この事態を「学長声明」という形で収拾することは
容認できない。この責任の明確化について、評議会の審議を要請する」と。

 

自然科学系の総合理学研究科は、大学の将来を左右する重大な問題で、時機を失することなく、すばらしい見識を示したものだ。この責任明確化を求める見解は、出席者30名中、賛成、24名で決議されたようである。挙手ということなので問題の所在の明確な認識と勇気が必要だったはずだが、賛成の手を上げた人がこのように圧倒的多数だったことに敬意を表したい。

 

この間、有志19名の署名で「大学の異常事態を訴える」声明をだしたが、それについては、「少数のものがブツブツいっている」と鼻であしらっているかに伝えられているが(もしそうでなければ、みずから文書で明確に所信を表明すべきだろう[1].それが誠実なやり方だろう)、今回の総合理学研究科の決議の重みを学内外関係者は決して無視することはできないだろう。評議会総合理学研究科のこの圧倒的多数による決議を踏まえて、責任明確化の審議を行わなければならないだろう。

 

評議会という大学の最高意思決定機関に籍を置く人々は、その態度が学内学外から注目されているのであり、個々人がどのような態度をとったかは天下周知のこととなる。その個々人の責任を深く認識してもらいたいものだ。他人の影に隠れることは、評議員ともなると許されないことだろう。自分を選出した人々に対する責任からだけでも、明確な行動をとるべきだろう。

 

8時すぎまで続いた商学部教授会でも、総務部長の責任、事務局長の責任を追及する発言、したがって内容的には総合理学研究科決議と同じ発言が相次いだ。だが今回は、評議会における責任明確化決議にまではいたらなかった。しかし、たくさん出された商学部教授会メンバーの発言をしっかり踏まえれば、商学部評議員が次回評議会で大学人として全学的見地に立って「大所高所から」どのような行動をとるべきか、はっきりしているといえよう。すなわち、総合理学研究科の見解に連帯して、大学の最高意思決定機関たる評議会の尊厳と権威を明確にし、その審議において事務局責任者の法秩序無視に関する責任明確化を議論する、処分を求める決議をするといったことにならざるを得ないだろう。

 

昨日の教授会に提出された「学長声明(修正版)」においては、当然のことながら、抗議の意思を明確に表明して退場した現将来構想委員長の主張に配慮せざるを得なかった。すなわち、将来構想委員会にこれまでの大学(「設置者」権限をご都合主義的に主張し、「設置者」責任に対する深い自覚のない事務局責任者)の無為の責任転嫁する部分は表現が変更されていた。修正版では、「将来構想委員会は大学改革に対する諮問に対して年々答申を行ってきましたが、本学は実質的な成果を上げることなく今日に至りました」となっている。

今度は、どこに主体的責任があるかは曖昧にしている。

 

本学を構成するわれわれ一人ひとりに、責任の所在の問題がつきつけられている。学長や学部・研究所の執行部を選挙する権限をもっている大学人が、それに対応する責任を持っていることは明確な事実だ。

と同時に、「成果を上げることなく今日に至」ったとするなら、どうしてそのようにしておいたのか、本学を設置している横浜市の責任の問題も提起されている。権限に伴う責任もあるはずだ。設置者権限には設置者責任が伴うはずだ。それが市民的民主的感覚である。

大学と市との関係をどのようにすれば、お互いにとって発展的なものになるのかが問われている。「あり方懇談会」はそのことを問いなおす意味があろうが、現在のような大学評議会無視(その端的な象徴的行動としての評議会からの事務局員総退場の指揮と実行)を平気で行う事務局責任者が選んだ委員から構成されているとすれば、明るい大学らしい答申が出てくることは期待できないかもしれない。第2回議事録から見られるように、その兆候はすでに歴然としている。大学人が重大な不信感を持つような人事構成と改革検討システムは、問題だ。

大学人には事務局長・総務部長に関する人事権はないかもしれないが、この間、大学で発生している問題はいろいろなルートで人事権を持つ市長および大学担当助役にはわかっているはずであり、適切な処理が望まれる。市長や大学担当助役は、学長に対して直接、現在の問題について事実確認をしただろうか? それとも大学の最高責任者である学長直接話し合うことはないのか?

 

ともあれ、10月30日の評議会で学長が表明した時の声明内容は、すでに本日誌(11月1日付)で紹介したように、「悪いのは将来構想委員会」といういい方だったので、その不適切さに気付いたわけだ。学長声明は当然にも事務局責任者が目を通したものであり、文書表現も事務局責任者が退場したときに発した捨て台詞そのままのところがある。将来構想委員会の任務と責任範囲すら明確に認識していない人々が、学長を支えるべき事務局責任者だということを、学長声明の「案」と「修正版」との違いは証明している。「落下傘部隊」と称される由縁だ。

逆にいえば、大学改革においては、和田さんが紹介してくれた日本経済新聞の記事が指摘しているように、大学独自の専門性を持った職員・事務局員が養成され、しかるべき長期にわたって責任を持つようにしなければならないということだろう。

 

次回教授会で議論されることになった将来構想委員会の大学改革プラン(案)では、大学運営会議などにおける大学教員の役割が明記されているようであり、今後、大学管理運営における大学教員の指導性・責任性を制度的システム的に明確にし、また保障していく必要があろう。先に紹介した鞠さんの意見がまとめているように、人事権・予算権と結合した責任体制の構築が必要だということである。

他方で、教授会などの機能がどこにいったのか、組織図は明らかにしていない。専門家集団としての教授会の人事・予算に関する審議権がいっさいないとすると、単なる専門学校になってしまい、大学ではなくなるだろう。学問の自由や大学の自治はまったくなくなってしまうであろう。それは人類が幾多の悲劇から創造してきた大学という制度の生命を奪うものとなろう。

 

外部組織としての「大学評議会」なる組織は、現在の各学部・研究所を基礎にして選出された評議員を含むのかどうか、不明確である。すくなくとも、今回の案では、「大学評議会」は外部組織として位置付けられているので、その組織図から見れば、大学内部との関係を切断するようになっている。とすれば、大学の最高意思決定機関としての評議会を廃止するということになる。

将来構想委員会のプラン(案)における「研究院」の審議項目、審議事項などが、従来の教授会の審議権・審議事項とどのような関係にあるか、重大な問題となろう。

将来構想委員会プランの審議手順が今後問題になってこよう。

教授会、評議会で十分に検討され煮詰められていない将来構想委員会の案をそのままで懇談会に出してしまうことが妥当かどうか、問題が残るだろう。拙速主義の弊害に大学人は警戒を強める必要があろう。

『世界』2002年12月号・大学改革問題特集を一読してみたが、現在の市大に対する「改革」攻勢との共通点が浮かび上がってくる。現在の「改革」のあり方は、先進国日本としてのあり方からすれば、夢のない嘆かわしいもののように見えてくる。根本的なところでおかしいような感じを受ける。先進国となった日本が科学の発展を担う大学を通じて世界において果たすべき多大な役割(世界的貢献・人類的貢献・科学の発展)を、国公立大学の再定義によって明確に位置付けるべきではないか、と考えられる。現在進められている独立行政法人化の動きは、大学の研究教育を本当に発展させるとの説得力を持っているようには感じられない。

 



[1] 総合理学研究科の佐藤真彦先生のご指摘で、ウォルフレン(オランダ人、六〇年代から長期にわたって日本に滞在し、ジャーナリスト活動、現在はアムステルダム大学教授・比較政治経済制度)の一連の著作に目をとおしているところだが、ウォルフレンの幾つかの指摘はきわめて説得的である。

彼によれば、日本の深刻な問題のひとつの原因は、権力を持っている官僚がみずからの行動と政策についてきちんと説明責任を果たしていない、ということである。民主主義の不徹底ということである。官僚は口頭発言だけで拒否権を行使し、非協力・不利益措置をちらつかせ予感させつつ……。人事案件ではて提案文書を「関内」に持っていかない、というやり方。少なくとも大学の多くの人は、「関内」との連絡部署としての事務局責任者からの不利益措置を恐れている。恣意性・不当性には断固として抗議すべきだが、私の見聞ではそのような気風はあまり見うけられない、みずからの行動の痕跡を文書で残すことを極力回避している。たとえば、この間の人事凍結政策の強行の場合もそうである。残っている証拠文書は、「学長見解」だけであり、それを引き出すに至った事務局責任者の圧力(それにきちんと抗し得なかった商学部執行部にも「学長見解」作成の責任があるといわれている)は、表面からは消えうせている。役人は、自分では説明責任を果たさず、「立場の弱いもの」には何度も何度も説明責任を求める。多くの人は、思いあたる事例がいくつもあろう。

ウォルフレンが日本人に呼びかけ訴えているように、民主主義の発展・深化は、われわれ一人一人の自覚によって実現していくしかないだろう。本当の構造改革は、この点にあるだろう。日本近代化の不徹底を鋭く指摘しつづけた丸山真男が「永続革命としての民主主義革命」の必要性を主張するときの意味も、それだろう。根本的な意識・認識の変化が「革命」の意味だから、大学人はそうとう根本からものごとを考え直さなければならないということになろう。大学にとって根本とは、学問・科学の研究教育であり、そのあり方、その自由な創造的発展ということだろう。この基準に照らして、現在の改革論議の当不当を検証する必要があるのだろう。いやはや大変なことだ。

『日本/権力構造の謎』をはじめとするウォルフレンのたくさんの書物が版を重ねていることからみて、日本人のなかに、民主主義意識が根強く成熟してきていることを期待しよう。最近、学会(政治経済学・経済史学会=旧土地制度史学会)の報告で、福田泰雄一橋大学教授の存在を知り、彼の報告を聴いた。そこで彼の『現代日本の分配構造―生活貧困化の経済理論―』青木書店、2002年を知った。それを取り寄せてみると、「第6章、政・官・財の癒着と未熟な民主主義」の「第1節 K.v.ウォルフレンの日本権力構造論」で、ウォルフレンが取り上げられており、驚いた。サービス残業(=不払い労働)に見られる日本人の長時間・超過労働は、まさに人間の尊厳、人間的生活が十分に守られない民主主義の未成熟と相関関係にあるとの主張は、説得的である。サービス残業=不払い労働時間の多さに関しては、福田著「第1章 企業中心社会の分配構造」の「第3節 長時間労働と過労死」の統計が説得的である。

日本が、貿易差額説的な重商主義シンドロームに絡みとられている、現代日本はいまなお重商主義国家だ、というウォルフレンの指摘(『ウォルフレン教授のやさしい日本経済』)ダイヤモンド社、2002年)も、味わい深い。ワークシェアリングの先進国オランダの実情が、政治経済学・経済史学会(旧土地制度史学会)でもとりあげられていたが、オランダ人ならではの指摘とも言えよう。オランダの民主主義の成熟度から学ぶ必要もあろう。