2002年11月15日 歴史・社会・語学3コース関係者会議と経済学科会で、将来構想が話し合われた。歴史・社会・語学3コース関係者会議は、三つの学問分野の近接性と総合性を踏まえて「グローバル地域」コースを立ち上げるべきだと結論した。それは、学部と大学の将来構想を射程に入れたものである。学部・大学の将来構想では、この数年、少しずつ検討されてきた幾つかの構想から、学府・院構想のひとつが当面の到達点として出された。この図式化されたプランには幾多の問題がはらまれているが、12月の「あり方懇談会」までにまとめるという時間的強制によって、方向性のみがある程度の了解を得たというところだろう。実際にこの図式化されたプランの具体的諸項目を設置規準や現行法規その他との適合性、あるいは大学の自主性・自立性・自律性(要としての人事と予算)や科学・学問の研究と教育の責任と権限の相互関係、研究教育の自由で創造的な発展という規準に照らして、はたして妥当かどうかに関しては、具体的な検討はまったく行われていない。学科会の数十分の検討で、そのようなことは不可能である。大学人がどの程度の自覚を持って、今後このプランをつめていけるのか、問題山積であり、大変な課題が前途にはあるように思われる。漏れてくるさまざまの情報では、事務局責任者はおよそ大学らしからぬいろいろな発言(たとえば任期制導入[1]、あるいは「本学は研究などしないで教育に専念すればいい[2]」など大学のあり方・本質に関して)をしているようであり、それがそのままとなれば、大学は大学でなくなってしまうであろう。「横浜市に大学を持つ資格なし」とささやかれていることが本当になってしまうか、立派な21世紀型の大学を創造できるか、研究教育に責任を持つ大学人は、真剣に「自分の利益」、「自分の安全」を考えていかなければならないだろう。あるいは、そんなことはお構いなし、各人が「自分の仕事」に没頭し、総生産物(研究教育における総生産物)を全体として増やせば、結局のところ、市大の設置形態や人事・予算制度、研究教育条件などどうなっても、社会全体としては大局においてはいいということになるのか?[3]
学部別収支に関する貴重な情報を得た。「商学部は黒字ではないか」と大雑把に計算してみたこともあるが、今回、和田さんから頂戴した情報で裏づけられたように思われる。すでに、本日誌(5月30日付け)でも紹介している点と関連するが、都留文化大学の教員が講師として総合演習で報告したさいに大学財政における地方交付税交付金の意義と重要性が指摘されていた。その関連データが web:http://www.shimonoseki-cu.ac.jp/~nishida/zaisei.htmで見つかったのである。
下関市立大学の西田さんというこのページ作成者の調査によれば、「公立大学の経済学部では、基準財政需要額の算定にあたって、学生1人あたり
374,000円(平成12年度)が算入されている」。
和田さんの言うように、横浜市は商学部の学生が1人存在することによって37万4千円の交付金を国から得ていることになる。第2回「あり方懇」で配布されながらも、まだwebには出されていない事務当局作成資料(平成13年度)によると、商学部の学生一人あたりの経費は87万8千円、学生一人あたり収入は57万7千円、したがって差額は1人あたり30万1千円。
つまり、横浜市は、商学部があることによって毎年学生1人あたり約7万3千円の利益を得ていることになる(国からの37万4千円の交付金と30万1千円の差額)、と。確かに和田さんのご指摘通りだと思われる。もし、この計算通りで他にカウントするべきものがなければ、商学部の学生諸君は、「市から30万円あまりの補助をもらっているのだ」と考える必要がないことになる。
この黒字がどこで使われているのか考えてみる必要があると私も思う。それは、確かに、中田市長が、「予算より決算が重要」と発言していることにも対応する姿勢であろう。ただ、そのようなコスト計算、収支計算は、そもそもこれまで市当局、大学当局はきちんとやっていないのではあるまいか? 今後確認が必要になろう。
商学部は社会科学系学部としてと「黒字」学部でありうるとして、他の学部や研究所の収支構造はどうなっているのだろう。他の学部にはどの程度の補助(交付税)支給があるのだろう。財政構造は、今後予想される独立行政法人化論議においては、決定的に重要な論点のひとつになろう。市の財政が苦しいこと、財政問題が今回の大学改革の強行的推進の一つの理由とされているので、そのあたりのデータを今後きちんとさせていく必要があろう。
同時に、人類や世界に貢献する学問・科学の推進において「国際港都」を称する人口350万の巨大都市・グローバル都市・横浜市が、主体的にどの程度の負担を担うのが妥当とするのか(今日の横浜市・横浜市民が人類史と世界の諸科学からどれほどのものを享受していると認識しているかと深く関わる)、設置主体=市民の考えを調査し明らかにしていく必要があろう。
[1] 「あり方懇談会」議事録概要は、任期制についても言及している。はたしてどのような答申になるか? 大学における経営責任はどうなるか? 外部に設置されるものとされる「大学評議会」は、どのような責任を負うのか? 大学に対して超越的に審判を下すだけなら、外部の「大学評議会」独裁になってしまい、研究と教学を担うべき大学の自立性はなくなるだろう。大学評議会の選出規準、選出方法が問題になってこよう。
[2] 研究と教育の相即不離の関係を知らない素人の発想。研究した成果を教育で伝えることができる。研究抜きの教育はありえない。日々の研究(研究時間など物質的諸条件)が保証されない限り、教育内容は枯渇する。
[3] アダム・スミスの有名な「見えざる手」の主張は、それを正当化するか?
文脈抜きで「見えざる手」だけが横行するので、彼の文脈をみておこう。スミスは言う。「あらゆる社会の年々の収入は、つねにその勤労の年々の全生産物の交換価値と正確に等しい。否むしろ、この交換価値とまったく同一物なのである。それゆえ、あらゆる個人は、自分の資本を国内の勤労の維持に使用すること、従ってまた、その生産物が最大限に多くの価値をもちうるようにこの勤労を方向づけること、この双方のためにできるだけ努力するのであるから、あらゆる個人は、必然的に、この社会の年々の生産物をできるだけ多くしようと骨折ることになるのである。いうまでもなく、通例彼は、公共の利益を促進しようと意図してもいないし、自分がそれをどれだけ促進しつつあるのかを知ってもいない。外国の勤労の維持よりも国内の勤労のそれを好むことによって、彼はただ自分の安全だけを意図するに過ぎぬし、また、その生産物が最大の価値を持ちうるようなし方でこの勤労を方向付けることによって、彼はただ自分の利得だけを意図するにすぎぬのであるが、しかもかれは、この場合でも、他の多くの場合とおなじように、見えない手に導かれ、自分が全然意図してもみなかった目的を促進するようになるのである。彼がこの目的を全然意図してもみなかったということは、必ずしも常にその社会にとってこれを意図するよりも悪いことではない。かれは、自分の利益を追求することによって、実際に社会の利益を促進しようとする場合よりも、より有効にそれを促進する場合がしばしばある。私は、公共の幸福のために商売しているというふりをする人々が幸福をおおいに増進させたなどという話を聞いたことがない。・・・」(岩波版・大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』T、679―680.)
大学人にとって、「自分の利益」、「自分の安全」とは何か? アダム・スミスに従えば、われわれは「自分の利益」、「自分の安全」をこそ真剣に徹底的に追求しなければならない。だから、各大学人が何を「自分の利益」、「自分の安全」と考えるかが決定的に重要な問題となる。研究教育の成果、この「生産物が最大の価値を持ちうるようなし方でこの勤労を方向付ける」には、大学・大学人の自立性・自律性・権限と責任は必要ないことか? それともそれらは死活に関わる決定的に重要な問題か?