20021120日(2)第2回の「あり方懇談会」の議事録で、「学部の自治の根幹は教員人事にあり、現行法の範囲内で米国の大学にあるような学長のもとに一定の組織を置き、各学部で決められない制度を作り、横浜市が教育公務員特例法の範囲においてもドラスティックに変えていく必要がある」との箇所は、その後の複数の情報からすると、本来の懇談会開催時間(14:00―17:00)とされていた時間の終了後、すなわち、学長以下の教学の大学関係者が会場を去った後(17:00―17:30)に行われた発言のようである。その当否は,いずれ何らかの形で詳細な議事録が出されることがあれば確認できるだろう。

 

ただ、学部教授会の自治を人事に関して取り去ってもいいという発言と結びつくような主張は、座長の橋爪大三郎氏が、すでに何年も前に著書のなかで主張していたことだというご教示があった。「あり方懇談会」の委員を選んだ責任者は、実にすごい人を選び、座長に据えたものだ。「選ぶ人」と「選ばれる人」の相互関係を確認しておくことが重要だ。「分身のような人を選んだものだ」。

私もこの橋爪著を手に入れて、実際に検討してみたいと思っているが、「あり方懇談会」の性格や考え方に疑念と危惧を持っている人のためにご教示いただいた数箇所を紹介すると、つぎのようである。

 

書「橋爪大三郎の社会学講義2,夏目書房,1997年」の中で

「「教授会の自治」のぬるま湯につかっていて,教授たちのあいだに競争原理がまるで働いていない.(p.63)」.[1]

 

「教授たちは,いったん手にした人事や予算の実権[2]しがみついて放さない.このような組織防衛の心理に大義名分を与えているのが,「教授会の自治」の看板だ.その実それは,競争なし,業績なしでも大学をクビにならないための隠れみのにほかならない.故渡辺美智雄氏は『新保守革命』で,国立大学を民営化しようと提言しているが、さっさとやってほしいものだ[3].教授たちが国家公務員であるおかげで,レイオフ年限付きの雇用もできないし,あべこべに給料をはずむこともできない.(p.65,66)」.

 

「教授会の自治とは,何だろうか.そのポイントは,人事権にある.誰を教授,助教授にするかは,教授会の権限だ・・・.そしていったん教授・助教授のポストにつけば,よほどのことがない限り(つまり,研究者として無能だったり,教育者として不適格だったりしたぐらいでは),その椅子を追われない.日本の大学教師の椅子は,アメリカの教授(たいていの場合,まず年限のあるポストにつき,実力が認められてから,終身のポストをうる)に比べると,信じられないくらい安定している.こんな具合で,大学教授にはまったく競争原理が働かない.その結果,日本の大学は,目をおおうばかりの惨状を呈することになる.(p.88).」

 

「どうして,これほど,大学教授の身分が手厚く保護されう(ママ)のだろう?「学問の自由」のためだともいう.政治権力が介入して,教授を辞職させたりすることがないように.しかし,学問の自由は,研究も教育もしないで教授の地位にあぐらをかき,むだ飯を喰い,後進の道をふさぎ,学生に迷惑をかける[4]自由ではない.しかるべき人材にしかるべきポストを用意する[5]こと(したがって当然,自分の能力を証明できない者にはポストが与えられないこと)のはずだ.教授会の自治は,学問の自由を実現するための,必要条件でも十分条件でもない.(p.88)」.

 

「・・・教授会の自治は「学問をしない自由」ではあっても,「学問の自由」とあまり関係がない.学問をする意欲と能力のある人びと[6]にどんどん学問をやらせ,彼らに優先的に研究費とポストを配分する―これが「学問の自由」であろう.(p.89)」.

 

「政治権力が大学教授を弾圧しようとして,目を光らせている―そんな時代は,とっくに過去のものになった.・・・学問の自由とは,大学の自由化を意味する.わが国も,大学の自由化[7]に向けて,大きく踏み出すときにきた.(p.89,90)」.

 

「大学改革が叫ばれるようになって久しいのに,めぼしい成果があがらないのはなぜか.それは,「教授会の自治」をかくれみのに,現状にぬくぬくと安住する人びとが重い腰をあげないからである.(p.90)」.

 

 橋爪大三郎氏が「デストロイヤーだ」との噂を教えてくれた人は,ここまで具体的な彼の発言を教えてくれなかったが、以上の紹介箇所を見ると、「教授会自治」廃棄・破壊論者(デストロイヤー)であることは確実だ。もしも,このような「教授会自治」を敵視する彼の発言を知っていたのなら、もう少し前に教えて欲しかった、というのが現在の気持ちである。「競争原理」の導入、これが彼の提言である。市場での競争の論理を大学内部(人事・予算)の第1の原理にしようというわけだろう。そこからするとバリバリの新自由主義者ということになるかもしれない。



[1] 「多産な」仕事ぶりの橋爪氏は、一体誰と競争しているのか? 学部内の教授たちと激しい競争を展開しているのか? ご本人の仕事の多彩性・多産性は、教授会内部の教授たちとの競争で生まれるのか? 大学教員・研究者の競争は、対象に則して、学界レベル、全国レベル、そして世界レベルであるのではないか? どこにいても、学界、全国、世界、幾世紀もの科学の到達点との格闘を念頭に置き、ライヴァルを想定して活動している研究者はいるのではないか? 橋爪氏は、なにかの鬱屈した思いを「教授会自治」批判ではらそうとしているのではないか?

[2] 「人事や予算の実権」というが、少なくとも,こと市立大学に関しては、学則上予算の見積もりに関することが評議会審議事項となっているが、私の得ている情報では、いちども審議されたことはない。つまり、予算に関しては「見積もり」に関してさえ、大学の最高意思決定機関としての評議会からは実権が奪われていたというのが実情である。橋爪氏は,一体どこの大学で、教授会がどのような予算上の実権を持っていたというのだろうか?むしろ逆で、大学の教授会にはいっさい予算上の実権がなかったのではないか?だからこそ、責任もなかったのではないか?

 人事に関して言えば、学問・科学の業績を評価できるのは専門家集団しかないのではなかろうか?素人の役人が評価できるというのか? 専門家集団としての教授会の審議権がないとすれば、だれが個々の人間の学問・科学の力量、業績を判断するのだろうか? 「外部評価」を導入するのが時代の趨勢のようだが、金科玉条とされる「外部評価」も、その委員の選出などに当って社会的説明責任を果たせるようにしないと、つまり「外部評価」機関自体を評価することがないと、学問に素人の人々から外部評価委員が構成されるようになったりすれば、まったくだめな(学問外的な)評価が下されることになってしまうだろう。

 他方で、この間ノーベル賞に輝いた人びとも、従来の日本のシステムのなかでしかるべき評価を受けてきた人であり、多くの優秀な人びとが従来の教授会自治のシステムでも選抜されていた。橋爪氏の主張はきわめて一面的な主張のように感じられる。

 橋爪氏の主張は、レイオフや年限付き雇用を自由にできる制度の導入であり、教育公務員特例法を廃止してしまえという主張のようだ。そのチャンスとして、大学の独立行政法人化を推進しようとしているのではなかろうか。

[3] これで見ると、橋爪氏は「新保守革命」の、少なくとも国立大学民営化の信奉者であり、その実行を求めている人のようだ。民営化されている大学、すなわち私学は、そんなにすぐれているのだろうか? 私学もピンキリではないか? 経営者・理事会専制体制の大学からすぐれた研究教育業績は出ているか?私学でもすぐれた大学ほど大学の自治、教授会の自治はしっかりしていないか? 競争原理の導入、外部評価など、大学人がなすべきことは多いと思われるが、それにしても、あまりにも極端な主張ではないか。

[4]大学批判でよく出されるどぎつい批判と同じだが、はたして、どのような実証的データをもっているのだろうか?これは、事実に即して正すべき問題だ。ただ、私の経験では、研究はするが教育は熱心ではない、とか、教育はやるが、研究をほとんどしないとか、研究と教育はしないが大学の行政的なことには熱心だとか、売れっ子になって外の(もうかる)仕事ばかり熱心だが学内のさまざまの仕事は手を抜くとか、実にいろいろのタイプがあるように思う。それぞれのタイプの人は他のタイプの人に対して、競争的ではないかもしれないが、すくなくとも批判的ではある。互いに陰に陽に非難しあっている。大学教員の人間類型は橋爪氏の言うほど単純ではない。この間、橋爪氏の仕事ぶりの一端を知ることになったが、橋本氏は学内行政でも多大の時間を使っているのだろうか? 橋爪研究室HPや新聞などで拝見するかぎり、学外のさまざまの会合や講演にも多大の時間を割き、さらに横浜市のために懇談会座長もひきうけ、と学外活動ははたから見てものすごい。著書のどこかに、学内行政を担当する人を擁護する文章があったと記憶する。とすれば、ご本人は学内行政(雑務)はいっさいやっていないのではなかろうか? 研究も教育も熱心で、さらに学内の行政的実務もよくやるという理想的な人(超人?)が少ないのは、普通の人間の能力、活動可能時間を考えるとき、ある意味では必然ではないか、とも思われる。水準以上の人はどこにも少数はいる。逆もそうである。多様性の統合として、大学は総体として力量を発揮すべきなのだろう。大学・大学人にも総合評価が必要だろう。橋爪氏は多分自分の仕事の「激しく、多産で、多彩な」活動ぶりを誇りとし規準として、全国の教授の「ぬるま湯」に浸かったかにみられる低い活動水準を怒っているのであろう。自分の業績に絶対的自信を持っている人だということは確実のようだ。何を、どのようなスタンスで批判するかにその人のスケール・水準が出てくるように思われる。

[5] どのような手順で? どのようなシステムで? だれが「しかるべき人材」だと判断するのか、判断できるのか? 判断・判定の主体とシステムは? そして、その主体とシステムが「しかるべき人材」だと判断したことの証明・検証はだれが、どのように行うのか? 人材評価における民主主義的原理と手順はいかなるものか? 人の業績評価については、独裁的システムでいいというのか?

[6] だれが、どのようなシステムで選ぶのか? 判断の主体とシステムは?  

[7] 何のこと? 民営化? 教授会自治の剥奪!