20021212日 学科会において来年度の開講科目、その負担などが議論となった。ここでもはっきりしたことは、「社会構造論」の補充人事をやらないことに伴う負担増の問題であった。そのしわ寄せがどのような帰結をもたらすのか、問題を直視しておく必要がある。各種委員の分担などパンク状態であり、そうとう無理なことになりそうである。それはそれで、無理なことになったことが証拠として残るわけで(たとえば各種委員会の人数の削減措置や一人の教員の委員職務数の増加など)、入試・教務等何かの事件発生に際しては、きちんとカウントされるべきこと、責任所在の明確化が問題になろう。

経済学科会では、今回の「凍結」措置そのものの問題性を踏まえて、教養ゼミ開設数をカリキュラム改正時当初予定の8コマにすべきではないか、という提案があたった。これに対しては、少人数教育ということでずっと9コマ開設してきたので、その趣旨を曲げることはできないとのまっとうな結論に最終的にはなった。

しかし、この点で学生に対するサービスを低下させないようにする教員の努力は、逆に、ほかの点での負担増を引き受けることになるわけで、それはまたそれで研究教育に割くことが可能な時間を削ることに変わりはない。目に見えない負担増が、今回のような消耗な議論の時間(今回だけで20人ほどが2時間ほど貴重な研究時間・教育準備間を失った、普通の時間を無駄なこと・非生産的なことにしか費やしていないような人々のみが、この喪失をなんとも感じないだろう。教員が消耗しても何も感じない人物、それはどのような人物か?も含めて、教員の研究時間・教育準備時間と精神力を蝕んでいる。それは、別の形で(目に見える形になるか目には見えない形かは別として)、学生教育の質に跳ね返らざるをえない。われわれの精神的肉体的力量=仕事能力は限られているからである。あるところで無理をすれば、別のところにしわ寄せが来る。仕事総量と人間力量の総量との相互関係は厳然として存在する。仕事とそれをこなすべき主体の力量総量との内在的合理的関係は、無視しようとしても無視しえないものである。聞く耳を持たなければ、負担増の付けがどこかにくるだけであり、いつの時点かで爆発するだけであろう。

したがって、真の合理化なくしては、研究教育の向上改善も「地域貢献」も不可能である。表面を繕うことだけはできるだろうが、それは本物ではないであろう。