20036月の日誌

 

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2003630(4) 改革検討委員会・学長の改革姿勢に若干の変化かという指摘を読んで(藤山委員長・教員組合の要望書、平商学部教授の県政混乱関連時評)、この間、検討委員会の内部討議に関する「緘口令が敷かれている」ような事態からして、半信半疑であるが、指摘の通りなら、建設的発展的な構想が出てくる可能性があり、その点では期待したい。

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2003630(3) 国立大学法人法案がもたらす帰結としての地方国立大学の存亡の危機を全国の知事に訴える檄文が公開され、それが伝えられた。下記にコピーしておこう。

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賛同者の皆様。

既に「事務局」から、各地の知事・首長への働きかけをお願いしておりますが、筑波大の鬼界さんから、知事宛の「檄文」が公開されておりますので、以下に掲載いたします。
また、佐賀大の豊島さんからのアピールを掲載いたします。
各地での働きかけが、大変に重要になっていると思われます。

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稀代の悪法「国立大学法人法案」に反対し、地方国立大学を存亡の危機から救おう!

全国の知事の皆さん。私たちは「国立大学法人法」に反対する国立大学教員です。この悪法による国立大学の破壊、とりわけ地方国立大学の破壊を未然に防ぐために、法案に反対する声を直ちに上げられるよう強く訴えます。
 事態は7月3日にも参議院文教科学委員会で法案が強行採決されるという危機的な状況にあります。

1.「国立大学法人法」は国民が支える国立大学を官僚が滅茶苦茶にする悪法です。
 すでにご存知かと思いますが、現在国会で審議中の「国立大学法人法案」(法人法)は本来行政機関の効率化のために制定された「独立行政法人通則法」とそれに基づく「中期目標」、「中期計画」、「評価委員会」という制度をほとんどそのまま国立大学に適用しようというものです。数値化可能な単純業務の効率化のためのこうした制度が、数値化不可能な高等教育と創造的研究を社会的任務とする大学に全く不向きなものであることは言うまでもありません。結果として大学は中央官僚の「評価」に従属することになり、自主性と自発性を失った国立大学の教育と研究の質は壊滅的な打撃を受けることが予想されています。そればかりではありません。法人化を機に全国の大学に500を超える役員ポストが天下り先として新設され、彼らの高給をまかなうために学費が値上げされるという信じられないような制度が今国立大学に導入されようとしています。

2. 法人法は地方国立大学を故なく存亡の危機に追い込もうとしています。

 このように法人法は、中央官僚が国立大学を好きに操った上に食い物にすることを許すとんでもない悪法ですが、とりわけそれは地方国立大学を故なく圧迫し、存亡の危機へ追い込むものであり、この点を強く知事の皆さんに訴えたいのです。すでに文科省は「重点化」という名のもとに地方国立大学を犠牲にして旧帝大(+筑波大)に資金をつぎ込むという政策を続けています。例として東京大学大と鹿児島大学を比較するなら、平成三年度に前者の決算額が後者の決算額の3.7倍であったのに対し、平成10年度においてこの比率は5.5倍に達しています。鹿児島大学の決算額に対する国庫支出の占める割合が50%であるのに対し、東京大学では80%に達します。
 このように「重点化」の実態とは都市部大規模大学に潤沢な資金を回すために地方国立大学を徐々に切り捨ててゆくことに他なりません。これは長期的に見るなら、地方から知的資源と若者を枯渇させることであり、文科省の官僚に勝手にこんなことをする権限はありません。そして法人法はこうした政策を更に組織的かつ自動的に遂行するための装置なのです。この法律により国は国立大学に対する財政的義務を負わなくなります。国から国立大学全体への総支出は固定され、しかもそれが固定部(「標準運営費交付金」)と変動部(「特定運営費交付金」)に分けられ、後者が文科省の「評価」に応じて再配分されるという仕組みです。国立大学は限られたパイを奪い合う無意味な争いを強いられることになります。それが文科省のいう「競争的手法」の実態です。それは10人の子供に8人分の食料しか与えずに、彼らに互いに傷つけあうことを強いる残酷な仕打ちです。それは大学が本来行うべき教育と研究の質を巡る競争とは全く無縁な、不必要なサバイバルゲームです。しかも「重点化」の経過を見るならこれは「出来レース」であり、地方大学の血と肉をもぎ取り、官僚の愛する旧帝大(+筑波大)に与えることを容易にする仕掛けであることは明らかです。それは地方国立大学という子供を合法的に栄養失調から死に至らしめることを可能にする悪魔的装置なのです。
 事実今年1月に法案概要が明らかになったとき、33の国立大学の学長から批判的な意見書が提出されましたが、そのほとんどは大都市圏外の地方国立大学であり、旧帝大(+筑波大)は一校も含まれていません。地方大学の危機感は極めて強いものなのです。しかも旧帝大から選出される国大協幹部はこれらの意見書を実質的に握りつぶしています。都市部大規模大学幹部と文科省がぐるになって国民と地方国立大学の生き血を吸うという構図がはっきりと見えます。

3. 地方国立大学は日本再生のためのかけがえのない知的拠点であり、国と国民が培ってきた宝です。我々はそれを守らなければなりません。

 我々がこれから築いてゆかなければならない21世紀の日本社会がこれまでのものと根本的に異なることは誰の目にも明らかです。それは様々な社会的資源を中央に集中させ効率的に運用するという高度成長期のモデルやそれを支えた中央官僚制が無意味となる社会です。それは 社会の持つ文化的・社会的多様性が社会の活力の基礎となるような社会です。日本がこうした社会として持続するためには、各地方・地域が固有の知的・文化的資源を保有し、それによって固有の知と人を生み出してゆくこと、そうして生み出されたものが中央に吸い取られることなく地方に定着すること、そしてそれらを通じ各地方が世界と直結することが不可欠です。こうした地方のあり方を考えるなら、日本の国民がこれまで培ってきた全国に張り巡らされた97の国立大学という見事なネットワークこそ新たな日本社会を築く上での重要な鍵となる社会的資源であることは明らかでしょう。高度成長期、それは親から顧みられず、少々埃をかぶっているものも中にはあるかもしれません。しかし我々が今すべきなのはそれを廃棄することではなく、必要な投資を十分にし、各地域の知的文化的拠点として再び輝かせることです。かつて城や藩校が各地域の人々の誇りであったように、各国立大学が人々の誇りとなり、各地域再生の拠点として人々を結び合わせる知の広場となるときにのみ、出口の見えない閉塞の中にある日本社会の真の再生が始まります。そうした希望を守るためにも、地方国立大学は守らなければなりません。知事の皆さんのすばやい行動を訴えます。事態は切迫しています。


  「国立大学関係者の歴史的役割」という考えは誇大妄想でしょうか?
                      佐賀大学 豊島耕一

 国立大学の独法化がいよいよ決定的な段階を迎えています.今,ここでどうしても国
立大学の教職員の同僚の皆さんに訴えたいことがあります.少なくとも3日の強行採決
を止めさせるために,何かの行動を起こしていただけないでしょうか.

 政府の当初のもくろみではとっくに法案が国会を通過していたと思われるこの時期,
それを前提にしたと思われる文書が公表されており,独法化されたらどうなるかという
ことがはっきりと目に見えるようになってきました.例えば,「国立大学法人教職員数試算基準(案)」によれば大幅な教職員リストラの可能性が見えています.筑波大学で配布された文書には,すでに言われていた「理事」への大量天下りや,高額の給与支払いによる財政圧迫という未来が具体的に読み取れます.
 国会の論戦もこの法案の重大な問題点をさまざまに明らかにしました.また,櫻井よ
しこ氏をはじめとして,ジャーナリストも問題の核心に迫るリポートをしています.
 ところが,当事者である国立大学教職員のこの問題への発言や行動の規模は,これに
対して大きく見劣りがするように思われます.さまざまなキャンペーンへの参加者は,
増えているとは言え数千人規模に留まっています.このような決定的な時期に,当事者
である教職員の皆さんに是非ともお願いしたいのは,少なくともこの法案が何を意味するかを国民全体に向かって証言していただきたいのです.さらには,この悪法を--われわれ国立大学に職を持つ者にとってだけでなく,国民全体にとっての悪法を--阻止するために,何かの行動を起こしていただきたいのです.これだけで阻止できるかどうか分かりませんが,少なくとも必要なことではないでしょうか.

 参議院文教科学委員会の与野党差は圧倒的ではなく,委員長を除くと11対9と二名
差です.また,保守新党の熊谷代表は記者会見で,「結果としてこれら大学の自治や学
問研究の自立を損ない,官僚支配になってしまうのではないか」と述べて,この法案に問題があることを認めています[1].委員会メンバーへのファクスは,大きな効果を持つと思われます.
 私は先週末,与党メンバーに「国立大学教官有志要望書 [2] をファクスで送りましたが,話し中はほとんどなく,この時期にもかかわらずあまり使われていないと感じられました.

 ここで,「法人化」というものが一体どのような性質の問題なのかを,今一度考えて
いただけないでしょうか.業績評価が一層厳しくなるだろうとか,天下り役人が来るだ
ろうとか,独立採算を迫られるだろうとか,あるいは実益に結びつかない基礎学問が衰
退するだろうとか,はたしてそれだけの問題にとどまるのかどうか,ということを是非考えていただきたいと思います.これらもたしかに重要な問題ではありますが,私は,独法化にはこれらのレベルをはるかに超えた,全社会的な重大問題が含まれていると思います.つまり,もし独法化が実施されれば,そのような「大学」を持つこの社会というものは恐ろしく劣化した社会になってしまうというという意味で,全社会的な問題ではないかと思うのです.学問の発展が阻害されるだけではありません.その根底にあるべき「学問の自由」が阻害されるということは,社会のあらゆる分野・場面において,長期的に様々の文化的,社会的,政治的な後退現象を引き起こすと思われます.

 裁判所が「独立行政法人」化されることを想像して下さい.「裁判・判決の質の向上
に関する事項」が法務大臣(?)から「中期目標」として与えられ,それを法務省が評
価し,それによって裁判所の予算が決められる,あるいは改廃も検討される.このよう
なシステムは,中学校で教わった「三権分立」を覚えている人なら,すぐに馬鹿げたことだと思うでしょう.そして,もしそんなことが行われれば,社会の恐ろしい劣化をもたらすということを,自由が奪われた恐ろしい社会をもたらすであろうことをだれでも容易に想像するでしょう.
 しかし「国立大学法人法案」が規定する国立大学への文部科学省の統制は,「学問の自由」という憲法的原理を覆すという点で,何らこれと違うところはないのです.

 他の様々な問題点が平面的に並べられたことで,これまでこの問題の重大性が見えな
くなっていたのではないでしょうか.しかし国会審議はそれを暴き出しました.法案審
議の冒頭,4月3日の衆議院本会議の質問で民主党会派の山口壯議員は,「中期目標」
制度について,「戦前の日本にも存在しなかった,文部科学省が大学をコントロールし得る仕組み」であり,憲法二十三条の学問の自由及び大学の自治を侵しかねないと断じました. 「学問の自由,大学の自治」はこれまで長い間,単なるお題目と受け取られていたように思います.しかし今やこれが国会審議の焦点となっているのです.
 問題の核心は誰の目にも明らかになったのです.大学関係者にとって,その擁護がまさに目の前の現実的課題になっているのです.
 アメリカの60年代の公民権運動の指導者,マーティン・ルーサー・キング牧師の次
の言葉を,我々は今や深くかみしめるべきではないでしょうか.

究極的に悪いのは,悪人の残忍さではない.良識ある人々の沈黙である.」

 私たち大学関係者は,これから,実に歴史的な数日間,あるいは数週間を迎えようと
しているのです.国立大学を「大学」として存在させ続けるのか,それとも外見は変わ
らないが,単なる文部科学省系の特殊法人に変えてしまうのか,という明治以来の重大
な岐路において,私たちはその当事者の役割を与えられているのです.それともこのような危機感は,この問題に関わりすぎた者たちの幻想なのでしょうか,誇大妄想なのでしょうか?

 最後に,この文書を目にされた国会議員の皆様に申し上げます.特に,法案に賛成し
ておられる,あるいは賛成されるかもしれない与党議員の方々に訴えます.皆様は,ど
れほど恐ろしい決定にコミットしようとしているのかを理解して頂きたいと思います.
それに気付かれたとき,はたしてそのような無謀な決定であっても,「党議拘束」の方が優先されるべきなのでしょうか.どうか,個人の良心を最終的な判断基準としていただくようお願いします.(03.6.30)
[1] http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/web030518hosyusintou.html
  http://www.hoshushintoh.com/kisha/k030513.html
[2] http://ac-net.org/dgh/03/626-youseisho.php
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「国立大学法人法案」に反対する意見広告の会
e-mail --- qahoujin@magellan.c.u-tokyo.ac.jp
Web    --- http://www.geocities.jp/houjinka/index.html
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2003630(2) 東京大学理学部教官有志の国立大学法人化法案批判をはじめ、ますます広く現在の法案の問題点が認識され意見表明されている。国公立大学通信から、上記部分をコピーしておこう。この有志声明が参照を求めている理学部HPをはじめて知り、アクセスした。ニュートリノ天文学(あるいはニュートリノ天体物理学)を創始した小柴教授とその研究業績・研究室、それを支えた理学部の誇りと使命感が伝わってくる。基礎科学の重要性との関連での文部科学省への意見表明・現在の国立大学法人法案批判(中期目標を文部科学大臣が策定することの危険性など)も、世界的な研究をになう研究教育の専門家の発言だけに重みがある。

 

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参議院文教科学委員      先生

平成15年6月21

 

国立大学法人化法案に関する要望書(1ページ)

東京大学 理学系研究科 物理学専攻 教官有志11

 

 文教科学委員の諸先生方には、わが国の教育と研究に関する国政に多大なご尽力を賜り、深甚の感謝を表明いたします。とくに今国会では、いったん衆議院を通過した国立大学法人法案に、参議院にて慎重なご審議を重ねて頂いておりますことは、「良識の府」としての参議院の役割を如実に示すものとして、感銘を深くしております。

 

 私たちは、ノーベル物理学賞に輝いた小柴昌俊名誉教授をはじめとする諸先輩の後を継ぎ、重責と自負をもって日本の高等教育と基礎科学研究に日夜、微力を尽くしております。もとより私たちは、現在の国立大学が抱える多くの問題を重々に認識しており、それに対して当物理学教室は1993年、全国に先がけて外部評価を実施し、また私たちの属する理学部は全国理学部のトップを切って大学院重点化を行うなど、様々な自助努力を続けてまいりました。

 

もちろん、より抜本的な国立大学の改革が必要なことは、申すまでもありません。しかし各界識者の皆様が随所で表明しておられます通り、今回の法人化に対しては、私たち教育研究の現場に身を捧げる立場からも、深い懸念を禁じえません。国の長期展望の礎は、教育を通じた人材の養成であり、また長期的に見て、科学技術立国としての日本の経済と産業の基盤を支えるものは、研究者による自由で創造的な基礎科学の研究活動であります。この重大な意味をもつ教育と学術研究は、国家百年の計があってこそ成り立つものであり、「中期目標・中期計画」という近視眼的な視点では、とうてい良く律し切れるものではありません。じっさい今回の法人化の手本となったイギリスでは、制度改革に伴う問題点が徐々に噴き出しつつあり、深刻な反省の声が上がっていると耳にしております。

 

 今回の法案では、私たち理学系研究科のホームページで指摘していますように、将来に深刻な影響を及ぼす可能性のある数多くの重大問題が、未解決のまま積み残されています(*)。国家百年の計を無視してH16年から法人化を強行しますと、明治維新以来、終戦の大混乱も乗り越え諸先輩が営々として築き上げて来た、世界に誇る日本の高等教育と学術研究の体制は危機に瀕し、わが国の将来に対し、とり返しのつかない重大な過誤を招く危険

が高いと危惧します。もちろん私たちは、いかなる場合にも、教育と学術研究という高貴な使命に全力を尽くす所存ではありますが、賢明な議員の皆様方には、ぜひとも叡慮を尽くして頂き、国家の未来をこのような危険に曝すことを未然に回避して頂きますよう、ここに強く要望いたします。

 

* http://www.s.u-tokyo.ac.jp/index-ja_ip.html

 

東京大学 理学系研究科 物理学専攻

教授 牧島一夫他10名

 

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2003630日 国立大学法人法案反対・4次意見広告がだされることになった。賛同者が増え、賛同カンパが増えたようで、社会の認識に深化拡大を反映しているようだ。法案に反対の「日刊ゲンダイ」(タブロイド紙の「日刊ゲンダイ」)にも意見広告を載せることになったとか。国民の税金で意地してきた大学が本当に国民のためになるのか、世界で誇り得る研究教育業績を達成できる組織に改革出きるのか、国民意識のいっそうの覚醒に期待したい。今朝は、本学教員組合も学生に大学改革への意見を出すように意見書用紙を配布していた。一番重要な大学教育の当事者=現役学生をそっちのけにした密室での改革論議は、不毛であり非生産的であろう。

 

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皆様。

既に御案内の通り、7月1日「毎日新聞」掲載予定の意見広告は、最終的な校正も終了いたしました。
「意見掲載」の「著名人」につきましては、いろいろな候補者名を提供いただき、有り難うございました。
いただいた候補者の内、相当数の方はこちらから連絡を致しました。
(ただし、依頼状送付(速達)はほぼ先週の土・日で、原稿締切は木曜深夜という慌ただしさでした。)
最終的には既にご連絡しました通りです。
櫻井さんの「意見」は前回と同じものですが、実は新しいものをお願いしたところ、可能なら用意する、とおっしゃって下さいましたが、時間的余裕をお持ちでないので新規は御無理でした。
そこで、前回と同じものを掲載しております。
多数の候補者がまだおりますし、当会の知名度・信頼度は急速に増大していますので、少なくとも新規の「意見掲載」に関しては、5次も可能な状況が生まれています。

引き続き第4次の縮小版を、タブロイド紙の「日刊ゲンダイ」に掲載したく思っています。
これは、
1 予算的に全国紙の2割程度で済むこと。
2 この間「日刊ゲンダイ」が、法案に批判的な記事を繰り返し載せていること。
3 掲載までの時間的余裕が無いが、比較的小回りが利く、と思われること。
などの理由に依るものです。

一番大きな理由は2であって、これまでも意見広告の度に各紙に記事依頼はしていたのですが、2のような状況から、比較的大きく記事にしてくれる可能性があり、特に「記事依頼」を強くお願いしようと考えるからです。

*掲載が実現した場合、更に追加的な経費が必要ですので、一層のご支援をお願い申しあげます。


   掲載紙 毎日新聞朝刊全国版全面。
   予定日 7月1日(火)
  ***
   賛同・カンパの申し込み方法
   ----------------------------------------
   氏名     「漢字」  
   氏名     「ひらがな」 
   連絡先住所・FAX   会計報告を要する方のみ
   連絡先メールアドレス  賛同者連絡を希望する方のみ
   醵金の口数  「何口」または「何千円」(1口5千円です。)
   ----------------------------------------
   *今回も3次意見広告同様、氏名掲載はありませんので、全く連絡を必要とされない方は、カンパだけでも結構です。
   メールの宛先  houjinka@magellan.c.u-tokyo.ac.jp
   FAXの宛先  03−3813−1565

   *入金の方法 
   ・郵便振替口座『「法人法案」事務局』00190−9−702697
    なお、郵便振替口座の用紙を利用されて、直接連絡していただいても、
    結構です。
   ・銀行口座 東京三菱銀行 渋谷支店 口座番号 3348763
    口座名 法人法案事務局

*以下に「毎日」横井記者の「記者ノート」を掲載いたします。

 この記事は、記者の不勉強ぶりがあまりにも露骨に現れていて、毎日新聞社のためにも惜しまれます。
1 「国立大学改革」と「法人化」とこのたびの「法人法案」を全く混同していること。2 突然「私立大学」を持ち出している所に、法案の「国立大学法人」と私立学校に関わる「学校法人」を、とにかく「法人だ」と言う点で混同していること。3 その他、全文に渡って、「国立大学法人法案」を読んだことが無い、またこの間の国会審議を全く取材していないという形跡が濃厚であって、新聞の社会的使命をどのように考えているのか、疑問を感じざるを得ないこと。

 上記の問題点などを電話で、毎日新聞社会部統括副部長に「抗議」として伝えました。以後の措置については、改めて電話で統括副部長に連絡するつもりです。

抗議先は:fax:03-3212-0005, tel:03-3212-0321 清水(教育関係の責任者) または「社会部統括副部長」宛です。

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毎日新聞記者ノート「国立大学教員よ 甘えるな」(横井信洋)

「国立大学を来年4月から独立法人化するための法案が国会で審議されている。声高に反対する教職員は甘えているのではないかと思うことがある。「身分が安定した公務員のままがいいと」だだをこねているようにも聞こえるからだ。
 
法人化すれば、「学問の自由」「大学の自治」が侵されるという。では私立大学に自由や自治はないのか。そもそも国立大は法案第一条にある「国民の要請にこたえる」大学だったと胸を張れるだろうか。法人化後も経費の大半は税金でまかなわれる。配分の前後に評価を受け、説明のつく使い方を求められるのは当然だと思う。

 
今の国立大は文部科学省の出先機関の色合いが強い。法人格を持って独立し、責任を負う体制のほうが分りやすい。自らを「大学人」と称する人たちには、法人化をチャンスと受けて立つ意識を持ってほしい。

 
確かに法案では国の関与の大きさや評価の客観性が危ぶまれ、経営能力のある学長がどれだけいるのかなど疑問も多い。だが、法人化の是非と実際の運用の仕方は別ではないか。単に現状維持を求めるような主張は説得力を欠く。」(横井信洋)

*以下は、「国公立大学通信」からの転用です。

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毎日新聞編集部 様

               茨城大学 小島純一
               (jkrte@mx.ibaraki.ac.jp)

突然のメールにて失礼いたします。

ここ20年間ほど浮気することなく貴紙を購読してきました。これは、いろいろな「おまけ」を使って購読者を拡大するようなことはせず、他紙に比較して誠実な紙面づくりをされている姿勢がうかがえたからです。
しかしながら、日本の将来にとって非常に大事な問題を内在している「国立大学法人関連法案」に関してほとんど無視をされている姿勢、さらに623日の横井信洋記者の「記者ノート」にはがっかりするばかりです。
確かに、大学人(特に国立大学人)からの発言は限られたものだし、状況をわからない方には単に現状が変わることに反対しているだけ、と受け取られるかもしれません。一方で、この法案の国会での審議が2週間以上にわたって停止していたこと、どのような問題があって審議が停止していたのか、そして法案の中身が何か、を伝えた大手新聞があったでしょうか?「記者ノート」にしろ、分析はまったくなされておらず、文部科学大臣の国会答弁の丸写しといっても過言ではありません。審議が停止していたこと、そしていったい何が問題で審議が停止していたのか、国会で十分な審議がなされているのか、これらのことに関する事実をまず報道した上で、「国立大学教員よ甘えるな」とのご意見を表明されるのであれば、それはそれで貴紙記者の意見表明として結構なことと思います。
しかし、法案の内容、国会審議がどうなっていて、どのような問題があるのか等々は報道せず、文部科学省の広報部とでもなったかのようなプロパガンダをされるのがはいかがなものでしょうか。もし、貴紙が文部科学省広報部になり下がったのでないのであれば、以下のことについて早急に報道するべきです。
(1)国立大学法人関連法案の国会審議がこれまでどのように進んできて、どのような審議がなされてきたか。これを示せば、法案の内容についてはほとんど審議されていないことがおわかりになると思います。参院文教科学委員会が止まったのも、法案内容が問題ということで止まったわけではありません。
(2)余裕があればの話ですが、法案を吟味し、本当に問題がないのかを分析し、その分析結果に基づいた、記者、貴紙の法案に対する見解を述べられてはいかがでしょうか。

私なりに、同法案を考えてみましたが、とにかくモラルハザードを生む内容であるとの結論にいたりました。
横井記者のように誤解されると困るので、まず申し上げたいのが、国立大学の法人化そのものに反対の方もいるでしょうが、多くの方は現在審議されている法人法案に反対しているということです。

<文部科学大臣が6年間の中期目標を定め(第30条)、計画を認可すること(第31条) − 短期間で、組織として結果を出すことが求められる、文部科学大臣の定めた目標にそった結果がでなければ運営交付金の削減、大学が廃止になることもある。
(1)大学での教育は、安易に(教員の負担が少なくてすむ)結果がでる、単なる知識・技術の詰め込みになるでしょう。

<教育におけるモラルハザード>
(2)研究においては連帯責任的に結果(業績)を出さなければならず、個々人はこじんまりとした、短期結論型の研究のみに専念することになるでしょう。長期的視点にたって研究されている方は干されるでしょう。<研究におけるモラルハザード>
(3)長期的もしくは結果のみえない基礎研究は消滅していく。短期決戦型の研究のみが「花形」となり、そこでは人手不足解消のため、教育の名の下での学生の研究補助者としての奴隷化が進むでしょう。つまり、産業にすぐ結びつく研究が、低廉もしく無報酬で学生をこき使うことで行われることになるでしょう。<学問におけるモラルハザード>

<大学の設置者を法人とすること(第2条) = 国が財政責任を負うことを放棄する。時々の情勢で、どのようにでもできることに等しい。運営交付金=支出 − 収入>
求められるのは、運営交付金をいかに減らすか。支出は教職員給与、教育用資料・消耗品購入費など、収入は学生納付金が中心。
(1)教職員の削減 = サービスの低下 過重労働 <労働におけるモラルハザード>(2)学生納付金の高騰。教育を受ける機会を所得に基づいて差別化することを国家が推進する <国政のモラルハザード>

<役員の任命:学長は、学長自身を含めることのできる学長選考会議で選考し、文部科学大臣が任命する(第12条)、幹事は文部科学大臣が任命する(第12条8)、理事は学長が任命する(第13条)>
(1)文部科学大臣によるトップ人事の統制、教員・事務職員ポストを削って官僚の天下りポストとなるであろう幹事・理事ポストを確保。<行政におけるモラルハザード>
(2)学長の精神的世襲制。<行政におけるモラルハザード>

<教職員の非公務員(附則第4条)>
(1)教員にあっては大幅な兼業が認められる。これまでは教育公務員特例法を隠れ蓑に、一部教員によって行われていた、"パート教員化"を公然と行うことが保証される。時間をかけて、人対人で行われるべき教育に弊害をきたす。<教育におけるモラルハザード>(2)公務員試験に合格してきた一般職員の公務員身分を一方的に剥奪する。<雇用におけるモラルハザード>

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「国立大学法人法案」に反対する意見広告の会
e-mail --- qahoujin@magellan.c.u-tokyo.ac.jp
Web    --- http://www.geocities.jp/houjinka/index.html
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2003628日 国立大学法人法案反対の第4次意見広告が出される事に決まった。その知らせをコピーしておきたい。

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「意見広告」賛同者の皆様、

  
昨日、夜遅くまでかかって、意見広告のゲラ校正を行いました。紙面は、ほぼ完成しています。本日6月28日にもう一度、見直し、最終稿となる予定です。執筆依頼に関しては、皆様方より、たくさんのご意見をいただきました。どうもありがとうございました。結局、意見広告に原稿を書いていただいたのは、

赤川次郎 (作家)
櫻井よしこ (ジャーナリスト)
ノーム・チョムスキー (マサチューセッツ工科大学教授、生成文法の創始者)
森重文 (京都大学数理解析研究所教授、1990年フィールズ賞受賞)
森村誠一 (作家)
山口二郎 (北海道大学法学研究科教授)

の6名の皆様方です。これに、茨城県のある主婦の方から「意見広告の会」あてに寄せられたご意見を載せています。
では、7月1日に毎日新聞紙面でお会いしましょう。
                                               
「法人法案」事務局
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「国立大学法人法案」に反対する意見広告の会
e-mail --- qahoujin@magellan.c.u-tokyo.ac.jp
Web    --- http://www.geocities.jp/houjinka/index.html
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2003627日 国立大学法人法案の審議では、文部科学省の「お詫び」答弁が相次いだようである。以下は、法人法案に反対する新聞意見広告に賛同した人に送られてきた情報である。

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賛同人の皆様、

 
参議院の委員会の様子をお伝えします。
「法人法案」事務局
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国会審議情報(626日参議院文教科学委員会)

  6
26日午前10時、16日ぶりに参議院文教科学委員会が再開されました。冒頭、審議ストップの原因となった前回答弁に関して、遠山文科大臣が「お詫び」を述べました。

 「お詫び」の内容を要約すれば、

(1)
学部・研究科・附置研の中期目標・中期計画の資料を「各大学の判断」で   提出していると答弁したが、その資料については全ての大学に提出を依頼したものであり、訂正し、お詫びする。
 
(2)12
月資料は、大学側(国立大学協会)の求めに応じて出したものであり、記   載内容についても従来の文科省の答弁と矛盾しない。学部等の資料は、背   景を理解するための「参考情報」である。

(3)12
月資料は、その性格やスケジュールについての(大学側の)誤解があり、   結果的に関係者に過度の負担を招いたとの「指摘があることについては」誠に遺憾である。資料の正確な趣旨を大学に徹底したい。

(4)12
月資料は準備作業であるが、これが文科省の名義であったために、中期   目標・中期計画そのものの作成が進められている、とか、国会審議の尊重   という点から問題だ、と指摘されたことについては遺憾であり、お詫びす
  
る。

 
要するに、文科省は単なる「準備作業」と考えていたのに、大学が(あるいは学長以外が)大きな誤解をして、中期目標・中期計画作業に従事したのだという説明でした。文書が広まるにつれて趣旨が曖昧になった、ということだそうです。

 
質疑では、法案成立前の準備作業の可否をめぐり攻防がありました。文科省は完全に意思統一してきたとみえ、法案の審議や法の成立以前から法人化の準備をするのは行政の責任として当然であり、特に大幅な設置形態の変更で不安をもつ大学の要望に応えて準備を行っているという論理でした。この準備作業は当然、大学が要望しているという二つの論理を崩すことが必要です。
 
 民主党と共産党は、各大学で大規模な準備作業が進行していること、教職員数の試算基準や人件費の試算単価表などが作られていること、移行経費を予算化・配分し、コンピュータ会計システムの入札まで行っていることなどを挙げ、「法律の執行行為を先行させることは大問題」「何が何でも来年4月スタートという姿勢をとる限り、国会軽視・無視は続く。それでは審議できない」「法案が成立してから準備を開始するのが筋だ」と厳しく追及しました。また、国連(自由党)は、そもそもなぜ独立行政法人制度を準用しなければならないのかと批判しました。国連の西岡議員は、特に2分間の発言を求め、「13万人の職
員、特に一般職員から公務員の身分を剥奪する法的根拠があるのか。これを次回質問したい」と述べました。

 こうした野党の追及に対して、文科相、副大臣、高等教育局長は、「法案提出にともなう準備行為の範囲」「国会軽視などまったくしていない。審議を尊重している」「来年4月にむけて遺漏のないよう、できる準備をできるだけ進めているだけ」などの答弁を繰り返しました。

 また本日の委員会では、今までにも増して、暴言や取り消し、「お詫び」が続出しました。
 
総務省の審議会の評価をめぐって、櫻井議員に対して、年次評価と中期計画終了時の評価を混同して答弁した点について、河村副大臣と総務省の担当官が「お詫び」。

林議員に対する副大臣答弁「新会計システムの導入は法人への移行を想定していることは否定しないが、法人化しなくても必要なこと。前倒しして進めている。労働安全衛生法対応だって今からやっている」「『前倒し』は取り消し」(労働安全衛生法対応は人事院規則に今でも違反しているから行うのは当然だが、企業会計原則に基づく会計システムは現在では不要であることを同一視した)

副大臣「法人化自体ダメというなら見解の相違としか言いようがない」「取り消し」。

大臣「(中期目標の問題に関する櫻井議員の追及に対して)その論点は、これまでの審議で繰り返し答弁してきた。先生は差し替えでいらしているから今までの審議をご存知ないかもしれないが」委員長が不穏当な発言とし、大臣は「取り消します」。
 
 
与党はすでに昨日の理事懇談会で、71日の委員会における審議打ち切り・採決を提案していました。本日の委員会後の理事懇談会でも、次回71日の採決を提案しており、野党は一致してこれに強く反発しています。今後の審議日程は明日10時からの参院本会議終了後に開かれる理事懇談会で決まる予定です。
 
 
なお、共同通信の記事と本日の東京新聞の記事全文(社会面を含む)を転載しておきます。

共同通信ニュース 2003626

文科相が再三陳謝 16日ぶり再開の参院文教委

 国立大を国の直轄から独立した法人にする国立大法人法案を審議している参院文教科学委員会は二十六日、審議を十六日ぶりに再開した。遠山敦子文科相が、空転のきっかけとなった今月十日の自らの答弁を訂正、謝罪した。だが、その後の質疑で再び答弁を取り消す事態となり、遠山氏は何度も頭を下げた。

 今月十日、民主党の桜井充氏が、法人化後に各大学ごとに策定する中期目標に関連し「文科省は学部学科や付属研究所ごとに、具体的な業績などを提出するよう大学側に文書で求めており、大学は準備作業で大変だ」と追及。遠山氏は「提出は各大学の判断」と答弁したが、桜井氏は「納得できない」と質問を中断、審議が空転していた。                      

 与野党折衝で、遠山氏が答弁ミスを認めることで折り合いが付き、遠山氏は「すべての大学に(文書の)提出を依頼していた。答弁を訂正し、おわびする」と陳謝。大学側の準備作業についても「過度の負担を招き遺憾」と述べた。 
 ところが再開後の質疑で桜井氏が「法人化で研究の自由が奪われる」と指摘すると、遠山氏は「これまで十分議論し、そういうことはないと再三お答えした」と強調。「(桜井氏は)途中から、突然委員になったので(知らないのではないか)」とも指摘した。

 これに対して大野つや子同委員長が「不穏当な発言があった」と注意。遠山氏は「取り消させていただく」と再び陳謝せざるを得なかった。


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『東京新聞』2003626日付

 法人化で数百人天下り
 国立大「役員」に官僚出身者
 交付金や業績評価 国との調整役に

 大学側構想
 国立大学などを国の行政機関から離す来春の独立法人化に伴い、各大学に新設される役員ポストに、文部科学省などの官僚出身者が多数選任される見込みであることが二十五日、大学関係者らの話で分かった。国からの予算獲得などをめぐる大学間競争に備えるためで、こうした「天下り」は全国で数百人規模に上るとみられる。法人化は大学の自主性を高めるとされるが、経営の管理や立案能力に乏しい大学が、官主導の運営に陥る懸念も広がっている。(=関連29面)

 法人化後は、学長と学長が任命した理事、文科相が任命した監事が役員となって、民間の経営手法を取り入れながら大学経営を主導する。

 役員数は大学の規模などによって異なるが、一大学につき四−九人。今秋の統合後の八十七大学・二短大で、計五百三人が予定されている。

 大学関係者らによるとこの役員ポストに文部科学、総務、財務など各省庁の官僚出身者を迎える構想がある。予算として配分される運営交付金の配分や、業績評価などを握る国との調整役として、転換期の即戦力とするためだ。法人化法案はまだ参議院で審議中だが、既に「いい人材がほしい」と大学側から打診を受けている省もある。

 例えば、国立大学のモデル校といわれる筑波大の場合、役員数は最大の九人だが、全員、副学長の兼務ではなく学外者を予定している。「このうち数人は、マネジメントや財務などにたけた官僚出身者が見込まれている」(同大関係者)という。

 複数の大学では経営力アップのため、文科省から出向中の大学事務局長を、理事(役員)に「格上げ」する案も浮上しているという。

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29面)
 官主導 揺らぐ自主性
 大学は「パイプ」求め
 国立大法人 天下り問題 『転換期、仕方ない』

 国立大学法人化を前に明らかになった、官僚出身者の役員ポストへの大量「天下り構想」。霞が関のある省の幹部は「既に大学側からの派遣要請が来ている」と認めた。法人化後は業績評価と予算配分が連動し、大学の経営能力が問われる。「失敗すればスクラップもあり得る」という不安と危機感が、天下り先を求める官側の思惑と一致し、国とのパイプを求める動きにつながっている。大学の自主性と独立性を揺るがしかねない構想にも、大学関係者からは「転換期を乗り切るには仕方ない」というあきらめの声も聞かれる。

 「背に腹は代えられない」とある大学の幹部。「今の大学に経営や計画立案のプロは少ない。立ち上がりの過渡期に、国とのパイプや運営のノウハウを持った官僚出身者が、経営の中枢に入るのは仕方ない」。官僚を役員として迎えることが大学にとって、もろ刃の剣であることを知りながら、そう話す。

 別の大学関係者は「問題は最初の中期計画が終了する六年後」とみる。一度、「官」が得たポストは経営が安定した後も後輩に引き継がれ、指定席となる可能性が十分にあるからだ。

 来年度予算の概算要求に向けて、各大学が見積もった役員(学長、理事、監事)の給与や諸手当などの人件費の試算では、学長や理事が約千九百万−千七百万円、監事が約千四百万−千三百万円となっている。こうした多額の支出は小規模な地方大学にとっては負担が重く、副学長が理事を兼務するケースも多い。ある大学の教授は「役員の人件費は、将来、大学にとって重い負担になる。教授のリストラや授業料値上げなども検討されることになるだろう」と懸念する。

 一方、官の側。ある省の担当者は「私たちだってばかではない。世論の批判がある中で、簡単に天下りができるとは考えていない」と言う。

 しかし、別の省の幹部は「法人化で失敗すれば、大学経営陣の責任追及もあり得る。官僚出身者を役員に迎えることを天下りとみるかどうか、評価は分かれると思うが、要請があれば、大学側が求める人材を派遣することにつながるだろう」と、中央省庁が人材供給源になるのは必然、との見方を示す。

 絡み合う大学と官の思惑。こうして官主導のレールが敷かれていけば、大学改革をうたった法人化のあるべき姿をゆがめることになりかねない。

 

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2003626(2) 各県知事、各県議会などに対し地域から、地域文化のために、地域産業のために、地域住民のために、地方大学=地元国立大学を守る運動を盛り上げ、それとの連携で問題の多い現在の「国立大学法人法案」を、効率主義=市場主義による縮小・合併統合路線を導くであろう現法案を、廃案に追い込もうとする次の呼びかけは、説得的である。以下、その主張をコピーしておきたい。

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意見広告、ご賛同の皆様、
本日、26日、委員会審議が開かれていますので、夕方頃に「4次」の
最終決定を致します。

一部の方々への第3次の新聞発送が送れておりますが、思いがけないほどの多数の方々から賛同を頂戴しましたので、新聞不足、引き続いて封筒不足、再び新聞不足が生じました。まだ、30人ほど未送の方が残っています。これは全くランダムな形で残ってしまいました。新聞はもはや手に入らないために、一部の方には広告社で作ってもらったコピー版をお送りせざるを得なくなりました。ご了承下さいますようお願い申しあげます。

*** 知事・市長・地元国会議員への働きかけを ***
「意見広告の会」事務局は広告を出すお世話をするのが仕事ですから、以下の呼びかけは僭越にも当たりますが、是非とも各地で実現していただきたい事柄です。
 明日の国会質問にも現れるかも知れませんが、よほどの大都市部以外は、法人法案は、一見「自由で公正な競争」の外観をまとって、地方国立大学の統廃合を狙っていると思います。
 この点を私たちの広告も、あまり具体的に指摘してきませんでした。
少子化時代の大学間競争は、入学者の獲得競争の形で現れると思われます。
(今までは、大学の「売り手市場」だったため、それは激烈には表面化しませんでした。)
 文科省が目標の決定・計画の認可・省内委員会の評価の形で、運営費交付金の配分を決定できることにご注意下さい。
 ここで低く評価され運営交付金の額を減少させられた大学は、言葉は悪いですか、「貧乏大学」のレッテルを貼られ、競争力が低下しやがて定員割れ現象を引き起こすでしょう。受験者数の減少・定員割れは、一見公正な自由競争の結果という外観を持ってしまいます。
 ですから文科省は、運営費交付金のさじ加減一つで、「自由で公正な競争」の敗残者として特定の大学を統廃合に導くことができるわけです。
どの県のどの大学がその道を歩むかまでは分かりません。
しかし、少子化の波は100%押し寄せてくるわけですから、どこかは必ずその運命をたどるものと思われます。
地方国立大学の学長達が心配しているのもその点でしょう。
 しかし、100%自分の所が危ないわけでもない、何とか生き延びられるかもしれない、いま文科省に逆らったら、真っ先につぶされてしまう、という期待と恐れによって、大きな声で「反対」を叫べないのだと思います。
 昔、赤紙一つで戦地に送り込まれた兵士たちと、同じような心境にあるとも言えます(戦死するのは10人に1人か2人だろう、自分は何とかなるかも)。
もちろん、ただぼんやりしているだけ、という学長もいるかも知れませんが。
地方国立大学は、多く県庁所在地にあって、その地は旧藩以来のその地方の文化の中心だったと思います。
それが、外部資金ももちろんなかなか調達できないで、必ず何%かの比率でつぶされると思われます。

 以上の状況に、多少なりとも愛郷心のある知事・市長・地元選出国会議員は、反応するはずです。
(もちろん、中央省庁の回し者のような知事もいるでしょうが)
 各地の地方新聞の方が(共同通信はその代表)、総じてまともな議論を行っているのも、そのような危機感を共有しやすいからだと思います。
 私たちの望みは、単に6/26や7/1の採決を阻止することではありません。
 このまま7/28の会期末へ進めば、いずれどこかで採決されてしまう可能性は高いと思われます。
 延長国会へのなだれ込みは、一つには私たちの獲得した勝利とも言えますが、会期はたっぷりと生じてしまいましたから、待っているのは結局敗北です。国会対策と意見広告だけではそれを阻止できないと思います。

 ただし、各県・各市の首長、与党を含めた国会議員などが、例えば反対声明を出せば流れは変わってくると思います。
 本気で廃案を考えるのなら、賛同の皆様がそれを行わなければ、廃案など勝ち取れるものではありません。
 各地で、働きかけを是非行って下さいますようお願いする理由です。
 具体的には、まず国会野党の県会議員、市会議員を通じて最後に首長にコンタクトを取る方法があります。
無所属議員も人を選べば良い結果が出る可能性があります。
一部の県会・市会議員は親切に話に乗ってくれると思います。
また、次の国立大学の学長は、国大協で幹部批判をしています。
ここから話を進めることもできるかと思います。

朝日新聞の記事より
国立大の存亡の問題なのに法案が通過してから見解を出すのは不見識」(滋賀大)、
法人化で権限が集中する学長が集まっているのだから、審議中に見解を出すべきだ
(宇都宮大)などだ。

他に2つあったはずですが、新聞からでは分かりません。
首都圏ネット、全国ネットへメールしたり、意見広告に出ている当会の電話番号に電話したりしてみて下さい。
有益な情報が得られるはずです。
(当事務局はその種の情報には詳しくありません)

鳥取県の片山知事・長野県の田中知事など簡単に中央省庁に屈服しない知事・市長などもいるはずです。
(ちなみに田中知事は、先日知事室に電話を入れたところ、7/2までアイスランドへ出張中とのこと)
郷土の文化的中心が危ない、と言えば関心を引く首長がいるはずです。彼らは忙しくて、法人法案のことなど頭に入っていないケースも多いと思われます。
 各地の方々は国会傍聴もままならず、意見広告にも結局カンパするだけで歯がみしていらっしゃる方も多いと思います。
危ない大学から行動を起こすのは、地元エゴだ、一種の抵抗勢力と考えられてしまうのでは、などとためらっている方々も多いかも知れません。
しかし、少なくとも江戸時代から営々と築き上げられてきた地元文化を守ることが、どうして地元エゴでしょうか
 各地の多様で豊かな地元文化の存在が、日本全体の活力をもたらしたことは明治維新とその後の経過を見れば明らかです。
画一的な社会・生態系よりも多様な社会・生態系の方が、強いのです。
 また、中央官僚の暴走(軍隊は官僚組織です)が日本に惨めな敗戦を、アジアの悲惨な戦争被害をもたらしたことも明らかです。

 当方は、各地の各地でのご努力がこの法案の廃案をもたらす最大の力ではないか、と考えております
 幸い、各地各地の人々については、ある程度意見広告の氏名掲載でお分かりになると思います。
 かつての自由民権運動は、それぞれの地域で強力な運動を組織化することに成功しましたが、個別的に明治藩閥政府に撃破されてしまいました。
 その原因の一つに、政府だけが官僚的伝達網や郵便・電信・電話(やや時代が下りますが)などの通信手段を持っていたことがあげられると思います。
 今はコンピュータのネットがありますから、各地の運動を繋げることが可能です。
メール・アドレスは個人情報ですから、それぞれの地域の(例えば同一県内の)人々に連絡を取りたいと思われる場合でも、こちらで把握しているメール・アドレスをお教えすることはできません
 しかし、当事務局にまずメールを下されば、特定の県内などの人々にのみ、こちらからメールを流すことは可能です。

どうか危機意識と愛郷心をもって、各地各地の知事などに働きかけをして下さることを、熱く期待いたします。
                 「意見広告の会」事務局
======================================================
「国立大学法人法案」に反対する意見広告の会
e-mail --- qahoujin@magellan.c.u-tokyo.ac.jp
Web    --- http://www.geocities.jp/houjinka/index.html
======================================================

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2003626日 全国的大新聞より、地方新聞の方が地域に根ざし、市民の顔が見えているのか「大学の自律・自治」の重要性に対する認識がたかいところがある。現在の国立大学法人法案の問題点をきちんと報道する「神戸新聞」の記事がその一例である。独立行政法人化反対首都圏ネットワークの記事から引用しておこう。

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独行法反対首都圏ネットワーク


国立大法人/「自主、自律」の尊重こそ  
 .『神戸新聞』社説  2003624日付 
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『神戸新聞』社説  2003624日付
国立大法人/「自主、自律」の尊重こそ[1]

 「国立大学法人法案」の参院審議は大詰め[2]を迎えているが、これが成立すれば、来年四月から、すべての国立大学が法人化され、八十九の国立大学法人が誕生する。
 法人化によって、最も変わるのは、いわゆる「大学経営」のスタイルだ。旧態依然の組織、閉鎖的な研究体制、社会との隔絶…。従来からのマイナスイメージを払拭(ふつしよく)するため、民間企業並みの「開かれた経営体制」を敷き、これによって大学に、より強い自由と独立性を与えるのが法人化の狙いだとされてきた
 この「大学の自由・自治と独立性」という、学問、研究における最大のよりどころをめぐり、法人化論議が続いた。法案は大学に法人格を与える、だから自由と独立性は担保される、というのが政府説明だ。
 もっともな説明だが、実態は違う

大学法人は、研究、経営に関して「中期目標」「中期計画」を文部科学省に提出する。それにもとづき「評価委員会」が開かれ、文科相が予算配分や教育・経営計画を指示することになるのだが、このシステムは、旧来制度と基本的には同じようなものだ。
 むしろ、例えは悪いが、省庁と特殊法人との“主従関係”に似て、従来以上に強い文科省の介入[3]も予測される。自由度は、拡大しない。共同通信の全国国立大学長アンケートでも、この点を懸念する声が75%にも達している。
 同時に、外部委員を交えた審査では、評価されにくい地味な研究、長期にわたる基礎研究などが敬遠され、その結果、学部や地域格差が広まることも予想される。
 学費の値上げも懸念材料だ。アンケートでは、半数の学長が値上げもありうると答えている。国立の安い授業料[4]というイメージもなくなるだろうか。
 もちろん(1)学長[5]のリーダーシップの強化と意思決定の迅速化(2)競争による研究体制の活性化(3)外部刺激による組織運営[6]の刷新(4)地域との連携強化(5)社会的ニーズへの接近―など、法人化を機に得られるメリットもある。
 しかし、最も大切なことは、大学の信頼性ということだ。それは、何者にも左右されない、確固とした研究体制を貫き、エネルギッシュな組織を持続させることで得られる。法人化は、それを促す方向に作用しなければならない。文科省の介入は、排除されるべきである。
 法人化されようがされまいが、大学の基本は変わらない。前向きの「自律・自由・独立性」が確保されてこそ、大学の信頼性は高くなるはずだ。

 

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2003625日(2

広島県の三つの大学の統合案・「新広島県立大構想」とその提出のし方http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/web030624tyuugokusinnbun.html

をみると、地方自治体の役人の考えることは、どうしてこうも画一的なのか、と思う。横浜市の「あり方懇」答申とおなじである。「統合」ということなら、誰でも思いつくということか。時流に乗っているので、抵抗感なく、もっともらしく打ち出せるということか。「三つを一つに」(広島の場合、三つの大学を一つの大学に、「あり方懇」の場合、三学部を一つの学部に)、「五つを三つに」(広島の場合、五学部を三学部に)というのは、実に簡単だ(歴史や実績、学問内容、教授陣、カリキュラム体系、設置基準、社会的な魅力・発展性などを考えなければ)。それを強引に拙速に(広島の場合2ヶ月間で事務局が提案)やろうとする。

思考・手法の画一性と平凡さは、「あり方懇」答申(従ってその下書きを書いた事務当局責任者)が見習ったもの=習性となっているものだろうが、この間の改革に関係する官僚の特質で、彼らと大学の独立性・創造性・自由とはそもそも合わないということなのだろうか。画一性と平凡さに押しつぶされがんじがらめにされた大学などは大学ではない。卒業生市民の現場体験を元にした提言[7]の創造性・発展的提案と対比して、「お役人」の発想の貧困さ=単純さを確認する必要がある。

いま検討中のはずの本学の「改革」(「改学」?)案に関して、同様なことが起きるのではないかと危惧する。「いまは緘口令が引かれている」とのことで、この間、大学内外で改革構想について行われた種種の提言や批判が、どのように熟慮されどのように反映されているのか、まったく大学教員にさえもわからないようになっている。公開されている議事「概要」は、何が議論になったかのタイトルがわかるだけで、どのような議論が闘わされたのか、皆目ないようは公開されていない。審議経過を情報公開するというのが、市長の「改学」に関わる方針ではなかったか? そんなことはお構いなしに、ただただ9月までの期限だけをまもるべく邁進しているかのごとくである。「制限時間内に何とか答案を書く」(「答え」=「あり方懇」答申がわかっていることに必死になる受験勉強秀才)ということか?

その答案のでき具合は?

途中で情報公開し、大学内外の批判を仰がなくていい答案が出きるか? その態度は傲慢ではないか?

軌道修正が可能な段階で、大学内外にたたき台を提示し、建設的意見を吸収しなくていいのか?

教授会にもしかるべき検討を求めることをいっさいしていない現状からして、現在は、少数(教員7名、事務局7名)だけの作業である。ある要人の話では、これまでと同じように「時間切れ」とごり押ししてしまうつもりでしょう、と。

そういうことか?

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2003625日 

総合理学研究科・佐藤真彦教授のHP学問の自由と大学の自治の危機問題には、豊島耕一・佐賀大学教授(国立大学法人法案反対全国ネットワーク)宛てのチョムスキーMIT教授のメッセージ:「国立大学法人法案は世界全体にとっても極めて有害」03-6-23が掲載された。日本の国立大学が官僚統制下に置かれ、自律性・自立性が弱められること(大学人が「中期計画」「中期目標」、学長選挙その他を通じる官僚統制=予算統制で自由な研究教育ができなくなること)は、世界の科学の独立と自由な発展のためにもマイナスだという指摘は、貴重である。以下にコピーしておきたい。

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チョムスキー教授のメッセージ
著名なMITのチョムスキー教授から,法人法案を批判するメッセージが寄せられましたので紹介します.
________________________________
               2003年6月23日付けメール, 訳 鬼界彰夫
親愛なる豊島教授
現在審議中の国立大学法人法案に関して送っていただいた資料を読んで、私は憂慮を感じました。この問題と提案されている法案に関する詳細な知識がないので、私には細部にわたる意見を述べることはできません。しかしこうした不十分な情報しかもたない私の立場からも、この法案は大学とその教員の独立性を損ない、それらを官僚的決定に従属させるのではないかと思われます。そしてこうした従属は単に日本の高等教育と知的文化にとってのみならず、世界における日本の役割の重要性を考えるなら、世界全体にとっても極めて有害なものです。私はこうした重大な問題が十分慎重に考慮されること、そしていかなる大学改革も
独立性と創造性を抑圧し制限するためでなく、それらを活気づけるために設計されることを希望します。そして事がそのように運ばれるであろうと信じています。
                                 敬具
                          ノーム・チョムスキー
________________________________(原文)
Dear Prof. Toyoshima,
 I have read with some distress about the Bill of National University Corporations that is now under consideration. Lacking a sufficiently close knowledge of the issues and proposals, I am reluctant to write any detailed comments. But from this distance, it seems as though the Bill might
compromise the independence of the universities and their faculties and subordinate them to bureaucratic decisions in ways that would be most unhealthy, not only for higher education and intellectual culture in Japan, but also for the world at large, given Japan’s critical role in international society. I hope and trust that due consideration is being given to these very important matters, and that any reforms will be designed to invigorate independence and creativity, not to stifle and restrict it.

Sincerely yours,
Noam Chomsky

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なお、国立大学法人法案を巡る事態は緊迫しているようである。以下、北大の辻下徹氏の連絡をコピーしておこう。

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皆様、

転送します。参加できる方はお願いします。
                                「法人法案」事務局
======================================================
 櫻井よしこ氏(ジャーナリスト)、加藤秀樹氏(構想日本代表、慶應義塾大学教授)の呼びかけによって、明日25日に国会内集会が開かれます。松井孝典氏(東京大学教授)も発言されます。
   
日時: 625(水曜日)午前1030分〜1200
   
会場: 参議院議員会館第1会議室
    http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.44.44.6N35.40.25.3&ZM=11
先週16日に開催された「国立大学法人法案を考える国会内集会」において共有され広がりつつある認識が、この集会に,国会議員・大学関係者・市民・報道関係者の方々が多数集うことによりさら深められ、日本の高等教育の将来に甚大な被害を与えることが判明した国立大学法人法案の強行採決を許さない世論の高まりを招来することが期待されます。多くの方々が参加されますよう、お願いいたします。
 なお、翌日26日(木曜日)午前に審議再開が予定されている文教科学委員会において、審議を尽さず強行採決するような、国会の存在意義を否定するような蛮行を許さず、世紀に一度の大改革に不可欠な慎重審議を求める世論の表出として、多くの市民、報道関係者、大学関係者の方々が傍聴されますよう、一国立大学教員としてお願いいたします。

辻下

 

          それにしても、新聞という公器を担う新聞記者の見識は、恐るべき低さである[8]。一般民衆は、一方的一面的な新聞記者の報道にどっぷりつけられているのである。

--------- 

皆様、
  
以下のようなメイルを毎日新聞社あてに送りました。
                                     「法人法案」事務局
======================================================
毎日新聞 編集部
毎日新聞記者 横井信洋

                       
国立大学法人法案に反対する意見広告の会
                        http://www.geocities.jp/houjinka

 突然のお便りにて、失礼いたします。

 私たちは「国立大学法人法案に反対する意見広告の会」です。すでに、4月23日の朝日新聞朝刊、5月21日の毎日新聞朝刊、6月10日の読売新聞にて、国立大学法人法案の廃案を求める意見を広告してきました。

 さて、貴紙は2003年6月23日朝刊の記者ノートに横井記者のエッセー「国立大学教員よ甘えるな」[1]を掲載しました。国立大学法人法案の国会審議の現状について報道していない貴紙が、横井記者の主観的感想だけを数百万人の読者に伝えることは、貴社もその会員として加盟している日本新聞協会の新聞倫理綱領[2]にある「自由と責任」「正確と公正」に悖り、国会審議に偏った影響力を与える恐れがありますので、早急の対応を申し入れします。
 ご存知と思いますが、現在、国立大学法人法案に重大な問題点があることが国会審議で次々と明らかになり、国立大学内では法人化の賛否を越えて法案を危惧する声が湧きあがっています。その危惧の中でも次の諸点が問題となっています。(1)大学が財務省・総務省・文部科学省・経済産業省等の中央省庁全体により統制され、憲法と教育基本法に保障された大学における学問の自由がそこなわれること。(2)さらにその統制を大学の内側から支えるものとして、学長への異常な権限の集中が法的に義務付けられること。(3)基盤的予算の削減が加速し、国立大学は産業界に直接役立つ研究を優先することを財政的に余儀なくされ、基礎的科学、人文・社会科学などの部門を大幅に縮小し、場合によっては廃止せざるを得なくなる恐れがあること。(4) 教育が軽視されてしまうこと。(5)学費の大幅な値上げがもたらされ、教育の機会均等が一層破壊されて
しまうこと。(6)大学が高級官僚の天下り先として、構造的腐敗の温床とされる危険があることなどです。

 6月10日の参議院文教科学委員会において、文科省が法案成立を前提とした「通達」を国立大学にしていたことが明かとなり、余りに徹底した国会無視に審議が停止したままです。言うまでもなく、これは三権分立を国家の基盤とする憲法をないがしろにする重大な背任行為ですので、報道関係者の動きによっては文科大臣の責任問題にすら発展しかねないもので、これだけでも法案を廃案とするにたる世論が形成されるに十分な材料があると言うことができますが、それを危惧した与党が、今週にも強行採決をしかねない切迫した状況にあります。しかし、貴紙は文科省と与党を助けるがごとく、この状況を報道することなく、横井記者の法案批判への揶揄に近い「主観的感想」を読者に提供しまし
た。この感想は、現在の「法案批判」を法人化批判と混同した、横井記者の現状誤認を暴露するもので、氏の記者としての資質を疑わせるものですが、このような偏った報道がもたらす政治的影響力は量り知れないものです。このことを編集者はどの程度意識しておられるのでしょうか。

 日本新聞協会の「新聞倫理要綱」の冒頭に「おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。」とありますが、これを二重に無視しているのが、国立大学法人法案についての貴紙の報道姿勢です。

 横井記者の記者ノートの内容が当該問題についての「責任ある論評」であるとは到底言えませんが、偏った主観的印象でもそれを「表現」し数百万人の毎日新聞講読者に伝える「表現の自由」はあるのかもしれません。しかし、数百万人の毎日新聞講読者には、その偏った感想以外には国立大学法人法案についての情報や、国会審議の内容を伝えない、という驚くべき報道姿勢を鑑みれば、「(表現の自由の)行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。」という項目は明白に無視されています。これは、自由に表現したことが数百万人に伝わる、という報道関係者特有の「責任」の重さに戦慄すべきである、という趣旨の項目ではないのでしょうか。

さらに、国会審議での紛糾を一切報道せず、国民全体に大きな影響を与える法案が成立しかねない状況にあることを国民に知らせず、法案成立に加勢することは、「正確と公正」という項目に明白に違反することも言うまでもありません。

そこで貴紙に、25日までに以下のこと報道することを申し入れします。
(1)国会審議が中断している状況と、その理由を正確に報道すること。
(2)会期内での審議で明確にされた法案の問題点について整理して報道すること。
 なお、横井氏は3月31日にも、同じ欄に「こんな文科省はいらない」という感想を書かれています。それで「公正」になるというものではありません。というのは、このノート自身の内容がやはり記者にはあるまじき種類の雑言罵詈にすぎないからです。すなわち、その「文科省批判」は、市場原理への抵抗を批判しているのではなく、 抵抗の仕方が拙いと言って小馬鹿にしているだけです。大学への市場原理の導入で高等教育と学術研究が崩壊した国の例などを通して「市場原理の問題性」を読者に伝えようともせず、高見の見物の揶揄を数百万人に伝えることは記者として鎮むべきものです。

(*)呼掛け人
(
北大) 辻下徹 中尾繁 増子捷二 山口二郎 渡邉信久 (東北大) 川本隆史 (千葉大) 小沢弘明 栗田禎子 佐藤和夫 南塚信吾 三宅晶子 (千葉短期大学) 佐分利 豊 (群馬大) 近藤義臣 (埼玉大) 暉峻淑子 (一橋大)鵜飼哲 藤岡貞彦 平子友長 (東大) 飯山賢治 市野川容孝 伊藤正直 浦辺徹郎 小野擴邦 姜尚中 門脇俊介 空閑重則 神野志隆光 小林正彦 小森陽一 近藤成一 高橋哲哉 田端博邦 野村剛史 蜂巣泉 増田一夫 (東工大) 井上淳 (東外大) 岩崎稔 中野敏男 (法政大) 山本茂 (成城大) 中村敬  (新潟大) 世取山洋介 (富山大) 浜本伸治 (金沢大) 鈴木恒雄 西田美昭 (信州大) 小坂共栄 (名大) 池内了 植田健男 小林邦彦 高倍鉄子 森英樹 (京大) 岡真理 駒込武 齋藤恭司 間宮陽介 池田浩士 (大阪大学) 冨山一郎 (近畿大) 大越愛子 (神戸市看護大) 松葉祥一
(
岡山大) 白井浩子 (山口大) 牧野哲 (愛媛大) 赤間道夫 松野尾裕 (松山大) 大内裕和 (佐賀大) 豊島耕一 (大分大) 中野昌宏 (琉球大) 永井實 賀数清孝 (一般) 岡本厚

この件の連絡先:
  
辻下 徹(北海道大学大学院理学研究科),tjst@ac-net.org
   tel/fax 011-706-3823(univ)
   tel/fax 011-852-7618(home)
   tel: 080-5715-3963

追伸 ほぼ同文の申し入れは、世話人代表の野村剛史氏(東京大学)から、別の経路でお届けする手配をしております。

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[1] 2003.6.23
毎日新聞記者ノート「国立大学教員よ 甘えるな」

「国立大学を来年4月から独立法人化するための法案が国会で審議されている。声高に反対する教職員は甘えているのではないかと思うことがある。「身分が安定した公務員のままがいいえと」だだをこねているようにも聞こえるからだ。

 
法人化すれば、「学問の自由」「大学の自治」が侵されるという。では私立大学に自由や自治はないのか。そもそも国立大は法案第一条にある「国民の要請にこたえる」大学だったと胸を張れるだろうか。法人化後も経費の大半は税金でまかなわれる。配分の前後に評価を受け、説明のつく使い方を求められるのは当然だと思う。

 
今の国立大は文部科学省の出先機関の色合いが強い。法人格を持って独立し、責任を負う体制のほうが分りやすい。自らを「大学人」と称する人たちには、法人化をチャンスと受けて立つ意識を持ってほしい。

 
確かに法案では国の関与の大きさや評価の客観性が危ぶまれ、経営能力のある学長がどれだけいるのかなど疑問も多い。だが、法人化の是非と実際の運用の仕方は別ではないか。単に現状維持を求めるような主張は説得力を欠く。」
(横井信洋)


[2]
新聞倫理綱領 2000(平成12)年621日制定

 21世紀を迎え、日本新聞協会の加盟社はあらためて新聞の使命を認識し、豊かで平和な未来のために力を尽くすことを誓い、新しい倫理綱領を定める。
 国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。
 おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。
 編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。
 自由と責任 表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。
 正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
 独立と寛容 新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。
 人権の尊重 新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
 品格と節度 公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。
 新聞倫理綱領は昭和21723日、日本新聞協会の創立に当たって制定されたもので、社会・メディア状況が激変するなか、旧綱領の基本精神を継承し、21世紀にふさわしいものとして、平成12年に現在の新聞倫理綱領が制定されました。

[3]
『毎日新聞』記者ノート  2003331日付 こんな文科省いらない
 この1年近く、国立大の法人化や教育基本法の改正、構造改革特区などの問題を取材し、文部科学省は不要だと確信した。ビジョンや説明能力に欠ける集団に思えるからだ。

 一連の教育改革は同省がビジョンを描いて進めたというより、市場原理の導入を求める外圧に屈したのが実態である。改革派はデータを示し、「民間や地方に任せて競争すれば、教育の質が高まり、選択肢が増える。経済効果がある」と主張する。文科省はこれに抵抗するが、対案を示さないので説得力がない。
     
 選択には自己責任が伴い、それを徹底すれば、貧困や親の無理解などで選択能力に欠ける家庭と、そうでない家庭の格差が拡大する可能性がある。「競争一辺倒の社会より、公的な関与を残すほうがこれだけ経済損失は少ない」などと反論すればいいと思うが、そういう発想はないようだ。
     
 基本法改正に合わせて作成する教育振興基本計画では「いじめや校内暴力を5年で半減する」という。もともと確たるデータもないのに、半減したことをどう立証するのか。達成できたかどうか検証できない目標を例示するようでは先が思いやられる。【横井信洋】
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2003623日(6) ボックスに横浜市従業員組合の「わたしたちの「大学改革」基本要旨」が入っていた。その一つ一つの柱に異論はなく、問題は、その一つ一つの柱を実現していくため諸条件を改善・構築・創出すること、そのための予算の確保だろう[9]

とりわけ、「大学の自治の名において行われる『教授会』などの論議については、基本的に学生の傍聴を認める。合わせて、学生の要望意見を大学運営に生かす努力を行うこと」という「情報公開」の要求は、それが実現すれば、日本ではじめての、まさに「オンリーワン」の改革ということになるのではなかろうか?市会の各種委員会への市民への公開と合わせ、教授会や評議会の公開は、できるだけ実現すべきもののように思う。

教員組合の基本理念の実現のためにも、経営の視点、ヒト・モノ・カネの裏づけが必要だが、それをどうするか、と言った問題に触れられていないが、この従業員労働組合の「改革」提言も、その経営的視点をどうするかがぬけていることが気にかかる[10]

「市民の会」には、「市民の夕べ」で市民の視点から大学の発展方向を提言した小林貞雄氏の発言が、新しく掲載されている。小林さんの紹介を通じて佐久市の先進的取り組みの実績を知ったが、今回はじめて、佐久市長の講演記録を読んでみた。予防医学の重要性を教えられる。たくさん考えるべきことがある(たとえば「350万円で3億円節約」といったすばらしい改善ポイント)。日本全国が見習うべき「予防医学」「予防介護」の模範であろう。

大学病院への批判[11]、佐久市長が医師資格を持つ専門家として、大学病院の実態をわれわれ一般市民よりも知りうる立場・批判的に検討しうる立場にあるだけに、説得力がある。大学病院の合理的な経営改善[12]のためには、この佐久市長の講演のなかから汲み取り得る部分(合理的な指摘)がいくつもあると思われる。大学教員のコスト意識の欠如(「カルテへのつけ忘れ、カルテ点検の欠如」)は、研究・教育と経営を機械的に切り離す従来のシステムのなかでは必然化されてきたが、それこそ改善していくべきであろう。大学の研究教育にふさわしい経営的合理性の追求は必要だろう。

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2003623日(5)教員組合委員長・藤山教授から、大学改革の基本理念の文章を頂戴した。大学、そして本学のこれまでの歴史を踏まえて、大学の使命や社会的責任を明確に文章化したものであり、そうした使命の達成における大学の自治・自立・自律の重要性を主張するものである。基本的論理と理念内容のご提案に賛同する。

「国立大学法人法案」や「地方独立行政法人法案」が、「羊頭狗肉であり、換骨奪胎で」、大学の自律性・自立性・自治に関して、うたい文句とはまさに逆に、官僚支配を強化する危険性が指摘され、批判の声が高まっている。

公立大学協会の「公立大学法人」を求める方向性も、まさに、大学の自立性・自律性・自治を新しい時代にふさわしい形で発展させる事を掲げているのであり、これまでの直営方式・直営形態が持ってきた大学の従属性の批判的克服の課題意識であり、問題の要点は、それが法案等の制度設計において本当に実現されるか、ということである。

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2003623日(4) 総合理学研究科・佐藤真彦教授のHP櫻井よしこ氏の「国立大学法人法案」批判の記事が掲載されていた(首都圏ネットワーク記事の転載である)。住基ネット法における問題とおなじ問題を国立大学法人法案で指摘している。

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独行法反対首都圏ネットワーク


大学法人化の呆れた国会答弁 
 .週間新潮6/12:櫻井よしこ 
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週間新潮 2003.6.12 p142-143
連載コラム 第71回 櫻井よしこ 日本のルネッサンス

          
大学法人化の呆れた国会答弁
 
「この法案は、一言で申し上げますと、羊頭狗肉、換骨奪胎法案であります」「火事場泥棒と申し上げてもいい。騙し討ちと申し上げてもいいと思います」
 
民主党鈴木寛参議院議員の言葉鋭い批判に対し、遠山敦子文部科学大臣は頼を紅潮させて反論した。
 
「火事場泥棒して何かやるというような類ではございません。どうぞ取り消していただきたい」
 
これは529日、参院文教科学委員会での応酬である。国立大学法人法案は、あっという間に衆議院を通過し、今、参議院で審議中だ。遠山大臣は国立大学法人化を、「日本の学制度の大転換点になる大変重要なもの」と位置づけ、強硬な中央突破の姿勢を崩してはいない。遠山大臣が法人化の意味を語った。
 
「諸規制を緩和して、国立大学がより大きな自主性、自律性、自己責任の下でこれまで以上に創意工夫を重ね、教育研究の高度化或いは個性豊かな大学作りを可能にするための法人化であります」
 
大学法人化の議論の歴史を語り続けた遠山大臣は「私が心を尽く
して答弁」したことの真意を酌み取ってほしいとも訴えた。
 
対して鈴木寛議員が応えたのが冒頭の火事場泥棒発言だったのだ。遠山氏が抗議したように、良識の府であるはずの参議院には、或いは相応しくない表現かもしれない。だが、もしそうなら、遠山氏の誤魔化し発言は、もっと相応しくない
  国立大学法人法案のどこをどう読めば、遠山答弁にある国立大学の自主自律や創意工夫が生まれてくるのか。
 
最大の問題点の一つは、6年間で大学が達成すべき中期目標を文科大臣が定めるとした第30条である。第30条の中期目標の筆頭に、教育研究に関する事項が挙げられている。この点についてすでに大学関係者らから厳しい批判が相次いでいる。

                
遠山敦子文科相の詭弁
 
お茶の水女子大学教授の藤原正彦氏は「先進国のどこに、大臣即ち実質的には官僚が大学の中期目標を指図するところがあろうか」と書いた(510日「産経新聞」正論欄『文科官僚の過剰介入に潜む学問の危機』)。
 
早稲田大学教授の長谷川眞理子氏も「全国立大学の教育研究の方針を認可するような文部科学省、文部科学大臣とは、一体どんな実績のある立派な組織であり、人なのだろうか?」と反問した(61日「朝日新間」時流自論欄『学問殺す国立大学法人化』)。
 
京都大学教授の佐和隆光氏は「国立大学法人化は、当初の意図に反して、科学・学術研究の中央集権的な『計画』と『統制』をその骨子としている。言い換えれば、法人法案は国立大学の『ソビエト化』を目指している」と書いた(527日「朝日新聞」私の視点欄『国立大法人化大学を「ソビエト化」させるな』)。
 
鈴木寛議員も、文科大臣が決めるとした大学の中期目標に教育研究の質の向上が含まれていることの問題点を繰り返し質した。すると遠山大臣は次のように答えたのだ。
 
「国立大学法人の意見を聴き、或いは尊重しということでございますから、実際的には大学が定める、或いは大学の原案をベースに決めていくわけです。私の今言っております実際的にはというところを、是非とも将来にわたって記録に残しておいていただきたい」
 
鈴木寛議員がすかさず反論した。「実際的にとおっしやるんだったら、その通り書けばいいと私は申し上げているんですよ。法律を作るということはそういうことですよ。未来永劫、この条文をその時々の当事者が参照します。その法文にり忠実に大学行政をやっていこうというときに、一番立ち返るところが法文でありますから、法文を(真意に沿って)きちっと直せばいいのです」
 
鈴木議員の言う通りである。法律上は文科大臣が大学の研究の中期目標を定めると書いておきながら、「実際的には大学が定める」のだから受け入れてほしい、就中、文科大臣がそう言うのだから、それを「将来にわたって記録に残」すのだから心配無用と言う答弁
を、一体誰が信用できるのだろうか。

                
官僚が教育を喰い潰す
 
私たちはつい、1年前のことを想い出す必要がある。住基ネットの導入には「個人情報の保護に万全を期するため、速やかに、所要の措置を講ずる」という条件が、故小渕恵三首相が3度にわたる国会答弁で述べたことによってつけられた。しかし、福田康夫官房長
官らが、小渕首相の答弁は行政府の長としての「認識」を示したものに過ぎないとして、これを無視したのは記憶に新しい。
 
一国の首相が3度にわたり答弁し、改正住民基本台帳法附別第l条の・という法律に定められながら、この国の政府と官僚たちはいとも簡単、かつ、完全にこの法律を無視した。そのことを思えぱ、一閣僚の答弁が如何ほどの確約となり得るのかと問わざるを得ない。
遠山大臣の「実際的には大学自身が中期目標を定め」との言葉が真意なら、その通りに法律を作るべきだ。そうしないのは言葉とは裏腹に、別の意図、国立大学への支配を強めたいとする意図があると思わざるを得ない。
 
法案には、遠山大臣の説明とは正反対の大学支配への文科省の意図が見え見えである。たとえば理事の数である。大学運営の項点に立つのが役員会である。役員会は学長と監事2名及び理事によって構成される。学長と監事2名は文科大臣が任命し、理事の数は大学毎になんと、法律で定められている。たとえば筑波大学、神戸大学、九州大学の理事は8名、北海道大学や東京大学は7名だ。広島大学や岡山大学む7名である一方で、お茶の水女子大や一橋大学は4 名である。
 
一体全体、この数の根拠は何か。そもそも法律で政府が理事の数を決める必要などない。大学自身が決めればよいのだ。にも 拘わらず、法律で数を決めるのは天下り先のポスト獲得が目的の一つとしか思えない。
 
昨年度独立行政法人に移行した9省庁57法人を例にとると、独法化以前は90だった指定職(理事)の数が独法化以降は264名で、実に3倍だ。内、常勤理事はl45名、その97% 140名が官僚出身で、見事に天下り先が増えたのだ。要する給与は年間289900万円である。
 
「大学へのこのような縛りは日本にかつて存在したことがなく、勿論現行制度にもない」という鈴木議員の批判に、遠山大臣は答弁した。
 
「大学の自主性、自律性を守りながら国費を投入し、そのことに責任を持つということの表れの法文でございます。御埋解をいただきたい」
 
氏の答弁のなんと官僚的なことか。隅から隅まで官僚の発想と言葉しか出てない参議院での質疑応答。決して質問に正面から答えない不誠実。この国の官僚たちが大学教育を蝕み喰い喰い潰していく音が聞こえてくる。」

 

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櫻井よしこ氏への疑問(ながみね):

 「官僚たち」の作成した法案を衆議院で採決して通してしまったのは、政府与党ではないか? 

官僚よりも問題なのは、政府与党ではないのか?

政府与党は、法案の問題点をどのように検討しているのか?

 

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2003623日(3) 力の弱い保育園、仕事と子育てで大変な若い保護者にひどい仕打ちの突然の民営化に関する批判が、矢吹教授HP平教授が公開している。若い保護者の悲痛な叫び声が聞こえてくる感じがする。昨年以来の市大問題で大変になったことを考えると、民営化対象となった保育園の人々の大変さがよくわかる感じがする。

巨大な横浜市が、少数の(4つの)力の弱い保育園に突然民営化を押しつける、という手法は、決して認められるべきではなかろう。まさに、弱者を各個撃破的に攻撃するというやり方であろう。抵抗力の弱い少数者への攻撃、マイノリティを抑圧(戦時期に入ればついには抹殺へ)していくナチス期のやり方(ユダヤ人だけではなく、同性愛者、ジプシー、社会主義者その他の少数者が抑圧された)と類似している。社会の豊かさは、少数者をどこまで保護できるかにかかっている。社会と思想・発想・貧しさが、マイノリティを生け贄にする。

なぜ4つの保育園が選ばれたのか?その合理的根拠は? 保育園民営化は、横浜市の発展にとって本当に必要なのか? 見なおすべき赤字(みなとみらいの空き地、利用率が悪くて困っている国際会議場など、まずきちんと市が努力すべき赤字)削減対象はほかにあるのではないか?

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2003623日(2)学生組織による事件(28歳の早稲田大学の学生ほか5人が逮捕)で、その組織では本学学生も幹部を[13]つとめている、といったが流れている。すでに、その事実を発見した(?)学生は学長や多くの本学教員にも訴えているようである。学生課などが事実関係を調査し、必要ならしかるべき委員会(学生活動委員会、セクハラ委員会など)にその審議を依頼することになろう。現在流れている「噂」は、事実関係によっては、場合によっては、名指しされ写真を公開された学生の名誉毀損になることも十分ありうる。そうしたことを踏まえて、教授会などでも必要ならば議論されることになろう。

刑事的事件を起こした学生5人とその学生たちが運営している組織との関係をどのように判定すべきか。企業における社長・重役の犯罪行為と他の重役との関係、さらに関係しなかった重役たちや平社員との区別・責任関係は、しかるべき司直の手によって調査と法的処理が行われるであろう。それと同じようなことが、大学のなすべき範囲でなされるであろう。

 

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2003623日 国立大学法人法案を巡る記事が、東京新聞に出たようだ。以下に、コピーしておきたい。

----- 独立行政法人反対首都圏ネットワークからの情報である。--------

皆様、
 
情報を二つお知らせします。
(1)
『東京新聞』621日付朝刊に国会審議の現状について、長文の報道が出ま   した。現物は、カラー写真入りです。記事は末尾に貼り付けます。各大学   等で宣伝にお使い下さい。

(2)6
19日夜、Yahoo!の掲示板に「国立大学法人化問題」というトピックスが   出現しました(まだ、投稿はないようですが)
  
ニュースは、
   http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/national_universities/
  
掲示板は、同ページの左下をご覧下さい。

『東京新聞』2003621日付 核心

国立大学法人化、文科省立ち往生
参院で「まさかの抵抗」法案審議ストップ10
大学への資料提出指示「国会軽視の事前介入
文科相謝罪で打開の道探る

 文部科学省が参院の抵抗に遭って立ち往生している。来春の国立大学法人化に向け命運をかける「国立大学法人法案」の参院審議で、遠山敦子文部科学相が答弁に窮して今月十日から審議がストップしたままなのだ。法人化後に各大学が定める中期目標や計画について、同省が法の成立前に詳細な資料提出を大学側に「指示」していたことが発覚し、追及側は「国会軽視の事前介入だ。審議未了で廃案へ」と気炎を吐く。一方、追い込まれた文科相は来週、答弁を訂正する異例の「おわび」で空転打開を図るが、すんなり再開となるか。(社会部・佐藤直子)

不測事態
 「ちょっとこれ、委員長、大臣の答弁の内容と出されている資料とまったく違う。今の答弁がいかに不適切かということを、これ、今のままじゃ審議できません」

 今月十日の参院文教科学委員会。桜井充氏(民主)が「問題資料」を手にかざしながら厳しい口調で遠山文科相に迫った。委員長に審議の中止を求めると、議場は騒然となった。

 桜井氏が問題にしたのは「国立大学法人(仮称)の中期目標・中期計画の項目等について(案)」と題したA4判の資料。同省が昨年十二月、法人化を控えた各大学に対して記載、提出を求めたもので、大学の基本理念や長期目標のほか、中期計画については数値目標や達成時期なども盛り込むよう指示していた。

 来年四月の法人化を控え、今後の予算査定(二〇〇五年度)にも大きくかかわる中期目標や中期計画だが、桜井氏が問題にしたのは、国会審議の半年以上前から文科省が学部学科ごとの具体的な計画事項までを「参考資料」として提出するよう求めていたことだった。

 「事前関与型の典型じゃないですか」とかみつく桜井氏に対し、遠山文科相は「参考資料(の提出)は各大学の判断でしている」とかわした。しかし桜井氏がひるまず「(資料には)文部科学省に提出してくださいとある。選択事項じゃない」と突っ込んで審議は中断。十日後の今も再開していない。

問題山積

 「明治以来の大学改革」との大号令で進められる国立大学法人化。「大学の自由度を高める」とし、予算配分に競争原理を導入、大学間競争を促すと強調されるが、一方で、大学関係者は行財政改革の一環として始まったこともあり、「今まで以上に文科省の関与が強まる」と猛反発する。

 中期目標や六年単位の計画が大臣の認可となるため、法人化ではなく「文科省立大学化」とやゆされるゆえんだ。ノーベル賞学者の小柴昌俊東大名誉教授も「短期で成果の見込めない基礎研究分野などは先細りしかない。研究に対する国家統制だ」と危機感を強める。

 桜井氏自身、内科臨床医として十年間研究に携わり、今も月二回、仙台市内で診療に当たる。「母校の大学関係者らは今、中期計画を各学科ごとに書かされ、その書き直しに追われて仕事ができない状況と聞く。文科省は中期計画について『漠としたものでいい』と説明していたが、実態は様式や分量まで事細かに求められていた」と憤る。

 各大学に配布した昨年十二月は、公式にはまだ各大学が準備に入った段階。
中期目標や中期計画を審議する第三者機関の「評価委員会」が設立されるのは今年十月だ。桜井氏は「これでは評価委員会は単なる形式にすぎない」と批判。
同省は各大学に提出を求めていた資料を桜井氏の質疑後、回収した。

廃案免れたが
 「審議ストップ」。先月、衆院は難なく通過していただけに、参院でまさかの展開にも「審議止まっちゃった」と周囲に軽口をたたく余裕を見せていた遠山文科相だが、二十日の閣議後会見では「責任を感じている。(審議再開を)足踏みして待っている」と神妙な顔。

 今国会の会期末は本来なら十八日だったが、イラク関連法案による会期延長に救われ、現在のところ「審議未了による廃案」は免れた。文教科学委員会の理事会が調整に入り、早ければ二十六日にも審議再開が見込まれる。冒頭、遠山文科相が資料の作成経緯などについて説明、「『各大学の判断で』と答弁したのは誤り」と訂正し、さらに「資料の性格や作成スケジュールなどの面で配慮が十分でなく、関係者に過度の負担を招いた。国会の審議尊重を怠った」と謝罪を予定している。

 (メモ)国立大学法人法案
 99の国立大学を国の機関から離し、独立法人とする法案。学長の権限を強化して運営に民間経営の手法を導入したり、文科省に置かれる評価委員会が教育や研究の業績を評価し、国が交付する運営費の額に反映させる。大学ごとに6年を期間とする中期目標を定め、各大学は中期目標を達成するための計画を作成、文科相の認可を受ける。今秋の統廃合により来年4月に法人化されるのは89大学。将来の民営化を危ぐする大学側の意向を反映して、法案名から「独立」の2文字は削られた。

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2003621日(2) 拙速な「改革」押し付けの手法が、いたる所で問題を引き起こしつつあるようで、新たにまた市労連関係の情報が報じられている。

本学の全学検討委員会は、こうした市全体の状況をよく見ながら、拙速な構想などはまとめないように、叡智を発揮してもらいたい。全学検討委員会が「あり方懇」答申に内実において屈服してしまえば、すべての責任は大学側に押しつけられる。「大学が自ら求めたこと」として、「あり方懇」答申のひどい内容が具体化されることになる。

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2003621日 読売新聞に掲載した訴え・賛同した意見広告の全文を、以下にコピーしておこう。

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読売新聞6月10日全面広告 テキスト

「国立大学法人法案」の廃案を訴えます!

国民の皆さん
現在国会で審議中の国立大学法人法案は、
短期的な知の果実を強引に摘み取ろうとして、
日本社会の再生に必要な国立大学という
全国97本の大切な樹を枯らすものです。

● この法案は人材と知識の効率的生産を急ぐ余り、文部科学省による全国の国立大学の集中的コントロールという時代錯誤の方法を導入しようとするものです。それは創造的な人材と知識を生み出すために最も大切な自発性と創造的精神を大学から奪うものです。

● いま日本の大学は、高等教育と研究の質においてこそ互いに競い合い、高め合わなければならない時です。しかしこの法案とその背景にある文部科学省の「遠山プラン」は、国立大学を書類上の数合わせと見当違いな生き残り競争に駆り立て、根本から疲弊させようとしています。

● この法案は、国立大学を誤った方向に導くだけではありません。国立大学を強引に中央省庁の天下り先にすることによって、大混乱に陥れようとしています。

● 日本社会再生の起点となるために、国立大学自身が大きく生まれ変わらなければなりません。

しかし今必要な変化は、各大学、そして各教員の自発性に基づくことによってのみ可能です。それは、上からの強制によって生み出せるものではありません。

法案にはこれだけの問題があります

1.大学が官僚=国の統制下におかれ、学問の自由がそこなわれます。
「法案」は国立大学の「独立」「民営化」とは、全く関係がありません。

 国会で審議中の「国立大学法人法案」では、各大学の教育・研究をはじめとした一切の目標(「中期目標」と呼ばれています)が、「文部科学大臣が定める」ものとされています。各大学の自主性・独立性は全く認められていません。こんなことは、戦前にもなかったことでした。また「法案」では、その目標を達成するための措置・予算などのプラン(中期計画)も、文部科学省の「認可」事項となっています。「国立大学法人法案」は、中央省庁の「許認可権」をできるだけ縮小しようとする行財政改革の本来の理念に、全く逆行する法案です。

2.大学が高級官僚の天下り先となり、構造的腐敗の温床になりかねません。

 「法案」によれば、国立大学などに全国で500名を越す「理事・監事」などの「役員」が、新たに生まれます。この人達の給与に教育・研究・運営に必要な費用が回されて、結局国民の税金(「法人」への「交付金」)や学生納付金(授業料など)が使われます。しかも、決定権や認可権を中央省庁に握られた各大学は、いわゆる「中央との太いパイプ」を求めて、あたかも多くの特殊法人のように、学長を含めた理事などに天下り高級官僚を迎え始めるに違いありません。こんな高級官僚の人生設計のための仕組みが、どうして国立大学の改革になるのでしょうか。

3.学長の独裁をチェックする仕組みがありません。

 法案では、大学の学長の権限が強大です。学長は、各国立大学法人の内部の「学長選考会議」が選考します。ところが、この「学長選考会議」の委員の過半を、学長が決定することが可能です。つまり学長は、自分を含めた次の学長を決定することができるのです。これは独裁国家の仕組みと同じです。仮に学長が問題を引き起こしたとしても、大学の構成員や市民がそれをチェックすることはできません。

4.大学の財政基盤が不安定となり、授業料の大幅な値上げがもたらされます。

 財政基盤が不安定なまま、授業料などが各大学でまちまちになってしまいます。特に理科系の学部・学科を中心に、学生納付金(授業料・施設費など)の大幅な値上げが予想されます。地方の中小大学のように財政基盤の弱い大学では、特にそのことが顕著に現れます。今の国立大学の比較的低廉な学費が高騰したら、「教育の機会均等」の理念は一体どこへ行ってしまうでしょう。

5.お金儲け目当ての研究が優先され、基礎的科学・人文社会科学の研究や学生の教育が切り捨てられてしまいます。

 学問・研究の成果は、長い目で見てゆくしか判断のできない性格を持っています。「法案」が定める「経営協議会」や「役員会」がトップダウン(上からの命令)で目前の成果をあおっても、真の成果は期待できないのです。また、現在の日本の学問・研究の水準は悪条件の下(高等教育・研究の関連予算は欧米諸国のGDP比の半分程度で、OECD加盟国中最低)にあっても、決して諸外国に見劣りするものではありません。おまけに大学評価に直結しにくい学生の教育面は、「法案」の成果主義では軽視されてしまいます。一部のプロジェクト研究にばかり予算をそそぎ込もうとする「法案」の考え方は、日本の学問・文化に百年の禍根を残します。

6.この「法案」は、「違法・脱法」行為を行わない限り、実施することが不可能な「欠陥法案」です。

 国立大学協会は、5月7日、「国立大学法人化特別委員会委員長」の名で、会員校に検討要請の文書を送付しました。驚いたことにその内容は、「労働基準法」「労働安全衛生法」などの届け出義務や罰則規定の適用について、「運用上の配慮」を関係行政庁にお願いしようというものです。「労働基準法」や「労働安全衛生法」は、会社・法人など、どのような事業所でも必ず守らなければならず、違反すれば使用者が刑事罰に処せられる刑罰法規です。立場の弱い「定員外職員」の人たちの失業問題も懸念されます。

 「法案」は、種々の違法・脱法行為が認められなければ、実施することができない「欠陥法案」なのです。


「国立大学法人法」用語解説 ―国立大学がどうなろうとしているのかわかります―(太字語は解説があります)

学校法人

私立学校法によって定められている法人(つまり団体)。私立学校(大学を含む)の設置を目的とする。学校法人の長とそれが設立する私立学校の長は本来異なる人物であることが望ましいが、実際には同一人物である場合もある。

 

国立大学法人

国立大学法人法(法人法と略す)により新たに定められる法人。国立大学の設置を目的とする。この法律によれば国立大学の長は必ずそれを設置する国立大学法人の長と同一人物でなければならない。学校法人と国立大学法人を比べると、この法律の特異さがわかる。

 

独立行政法人

行革の一環として造幣局、大学入試センター等のように業務が単純で数値的に評価できる国の機関の業務効率化のために導入された制度。数値化の難しい教育と創造的研究という目的を持つ大学にとっては、不向きな制度。現在の国立大学法人法案は、大学を造幣局のような組織とみなすという発想に基づいている。

 

中期目標

「独立行政法人通則法」に示されているコンセプト。各独立行政法人が3−5年の間に達成すべき目標を所轄大臣が定め、それを実行する計画を独立行政法人の長が中期計画として大臣に提出することになっている。法人法はこの制度を、期間を6年に延長するだけでそのまま大学に適用している。それは大学を文部科学省の子会社とみなすことを意味している。

 

国大協

国立大学協会の略称。形式的には全国の国立大学を会員とする組織だが、実質的には国立大学の学長からなる組織。1950年に戦前の大学と国家の関係に対する反省の上に立ち、学問の自由と大学の自治を守るという精神のもとに設立された。大学法人化問題では当初大学人としての立場から様々な要求を行っていたが、文部科学省をはじめとする中央官庁への妥協を繰り返した結果、法人法には多くの不満を持つにもかかわらず「ノー」と言う勇気を失い大学を衰退させる張本人になりつつある。なお本日から国大協の定例総会が開かれるが、法人法について話し合わないことを国大協幹部は決めている。

 

遠山プラン

2001年6月に文科省が発表した国立大学改造計画。具体的な目標として「特許数を10年後に1500件に」とか「社会人キャリアアップ100万人計画」のように数字だけを並べ、高等教育の質に関する言及は皆無。大学の教育研究を数値化してとらえようとする文科省の考え方を象徴している。

 

大学の設置者

学校教育法の定める制度。同法は教育機関の設置者は、その機関の教育条件の整備の経費負担義務を負うと定めている。法人法により国立大学の設置者は国から各大学法人に変わることになり、国は国立大学に対する財政的責任を負わなくてよくなる。各大学の学長は交付金の為に文科省の意に従わざるを得ない立場に自動的に追い込まれる仕組みになっている。

 

大学の自律性

文科省は法人法により大学の自律性が高まると言っている。しかし大学はこの法律によって経済的自立を強いられるに過ぎず(=設置者が国から大学法人にかわる)、教育研究の運営については今よりも文科省に従属する(=中期目標を文科大臣が定める)。これは世界でも希な制度。

 

役員会

法人法において、大学の運営上最も大きな権限を持つ組織。学長と学長が任命する理事から構成される。2002年3月の法案最終報告で「理事」は「副学長」と呼ばれ、明確な役割が定められていたが、法案の作成過程で、中央省庁の圧力によって「理事」という曖昧な存在に置き換えられた経緯がある。全国で400以上の理事ポストが法人法により創出される。「理事」という曖昧な名は天下り先として最適。なお各大学の理事定員数が、法人法「別表1」という人目につきにくい箇所で定められている。

 

評価委員会

法人法が、各国立大学の業務実績を評価する組織として定めている委員会。文部科学省の内部に設置される。通則法は、評価委員会の評価に基づき文科大臣が各大学の「組織と業務全般を検討し必要な措置を講ずる」としており、大学の運営費交付金は評価委員会の評価に応じて配分されることになる。文科省や国大協は評価委員の評価を「第三者評価」と呼ぶが、これは日本語の誤用。本来の第三者評価とは、専門誌、シンクタンク、マスコミ、高校教育関係者、予備校など、大学自身とも政府とも違った独立の第三者による評価のこと。

 

非公務員化

法人法による大きな変化の一つが大学教職員の非公務員化。その結果新たに労働基準法や労働安全衛生法が国立大学に適用されることになるが、国立大学の研究室の相当数がこれらの法規の定める基準を満たしておらず、法人法が実施される来年4月には大半の国立大学が違法状態に置かれることがほぼ確実視されている。この問題はなお国会で審議中。国大協は、これらの法規の適用に関する「配慮」を関係省庁に要請する文書を5月初旬に各大学に配布したが、それが違法行為の黙認要請であることに気づき、文書を修正しようと試みている。


池内 了(名古屋大学 大学院理学研究科)

 自然科学の研究は未知のものを相手にしている。それだけに、どのような成果がでるかはわからないまま船出をする。幸運によって大発見につながる場合も、積み上げた労苦が報われない場合もある。それを予め知ることができないからこそ研究を続けているのかもしれない。しかし、法人化によって中期計画を組まねばならず、それに従っての研究は近視眼的な成果主義に追いやられるばかりで、大きな目標を掲げた研究は廃れてしまうだろう。また、そのような研究者によって育てられた若手は、さらに近場の成果主義に走ることが習い性になっていくだろう。10年、20年の単位で見たとき、基礎科学の地盤は浅くなり、本当の科学力を身につけた人材が払底してしまうことになりかねない。科学の成果は、金で買えるものではないし、ましてや研究者を成果主義に追いつめて得られるものでもない。法人化によって、大学が安手の論文生産工場と化し、視野の広い大きな夢を抱く研究者が消えていけば、日本はどのような国になるのだろうか、それを最も憂慮している。

 

井上ひさし(作 家)

 戦前戦中の、あのガチガチの国家主義の時代にも「大学の自治」がありました。それは東京帝国大学の例を見ても一目で判ります。大正一二年(一九二三)九月の関東大震災で全建物面積の三分の一を失ったとき、全教授と全助教授が投票で移転先を決めて、その結果を大蔵大臣に提出しました。ちなみに一位が近郊(陸軍代々木練兵場)で一五一票、二位が本郷居据りで一三一票、三位が郊外(三鷹)で一〇三票でした。つまり教授会にそれだけの力があったのです。もっとも近郊移転は陸軍省の猛反対で実現はしませんでしたが。

 大正八年(一九一九)には、それまで二十年間つづいていた優等生への恩賜の銀時計の下賜が、教師と学生たちの声で廃止されました。理由は、天皇が行幸になると、大学構内に警備のための警察官が大勢やってくる。そのこと自体が大学の自治を乱すからというものでした。

 このような例はまだまだありますが、紙幅がないのでもう一つだけ書きます。昭和二〇年(一九四五)六月、帝都防衛司令部が本郷キャンパスの使用を申し入れてきた。幕僚以下三〇〇〇人の兵士で、ここを使うというのです。当時の内田祥三総長は、「ここでは一日も欠かすことのできない教育研究を行っているのであり、自分たち学問の道を歩む者たちの死場所でもある。動くわけには行きません」と断わった。――ところがいま、一片の法律で、総長・学長を大臣が任命し、また解任できるという途方もないことが行われようとしています。そんなことになれば、「大学の自治」も「学問の自由」もただの画餅、戦前戦中よりもさらにひどいガチガチ国家主義の時代になってしまうのでしょうか。

 

櫻井よしこ(ジャーナリスト)

 国立大学法人化で、大学の教育・研究目標を六年単位で区切って中期目標とし、それを文部科学大臣が決めるようになるのだそうだ。

 全国でいずれ八七になる国立大学の教育・研究の中期的概要を決定する能力が、一体、文科大臣や文科官僚にあるのか問うのさえ赤面の至りで、答えは明白だ。

 にも拘わらず、日本の大学教育・研究は、いまや彼らの狭量な支配の下に置かれようとしている。国費を投入するからには、国として責任をもたなければならないからだと遠山大臣は力説する。しかし、これまでも、今も、国立大学に国費は投入されてきた。それでも教育・研究目標を、政治や行政が決めるなどという愚かなことはかつてなかった。政治家も官僚も犯してはならない知の領域の重要性を辛うじて認識していたからである。

 それが今回の法人化議論でたがが外れ、世界に類例のない、政治と行政による学問の支配が法制化されようとしている。

 学問への支配は、大学の人事の支配によって更に息苦しいまでに強化される。法人化された大学では学長の任命権も解任権も文科大臣が握ることになる。生殺与奪の力を文科大臣に握られてしまえば、学長は文科省の意向に従わざるを得なくなり、大学の自立の精神は土台から揺らぐ。理事の数まで、大学毎にこと細かに法律によって決められてしまう制度のなかで、大学の自由裁量は絶望的に損なわれていく。文科省の顔色を忖度しながら行われている現在の大学運営は、法人化以降は更に蝕まれ、文科省の指導に決定的に隷属する形で行われるようになるだろう。

 大学の自主自立と独創性を高め、学問を深めると説明された国立大学法人化は、その建前とは裏腹に、自主自立と独創性を大学から奪い取り、大学教育と学問を殺してしまうだろう。

 経済政策で間違っても、産業政策で間違っても、やり直しは可能だ。しかし教育政策における間違いは決してやり直しがきかない。日本の未来の可能性を喰い潰してしまうこの大学法人化に、心から反対する所以である。

 

田中弘允(前鹿児島大学学長 医学博士)

 私は、国立大の独法化に反対です。独法化は、大学を官僚統制と市場原理という二重のくびきの下に置き、学間の自由な展開を阻害し、財源の確保の為に企業化するからです。これは、将来のための多様な知の形成と創造力ある人材の育成という大学の本質的な役割の遂行を阻害します。

 私達国民は、本来の社会的公共的使命を達成するにふさわしい自由闊達な大学を、社会的共通資本として育てなければならないと思います。

 本法案は、それとは正反対の方向を目指しています。後世に大きな付けを残してはなりません。

 選良の皆様一人ひとりに、未来を見据えた長期的視点と世界や日本全体を視野に入れた大所高所からの思慮深い判断が、いま国民から期待されています。

 

間宮陽介(京都大学 大学院 人間・環境学研究科)

 国立大学の独立行政法人化を実現させようとしている政党、文科省、国立大学協会の方々は、ほんとうにこの「改革」が学問・研究の自由度を高め、その水準を飛躍的に向上させると信じているのだろうか。私はいまだ彼ら諸氏の口から納得のいく説明を聞いたことがない。大学間の競争を高める?そうかもしれない。しかしそのとき、大学を超えた研究者の協働はかえって損なわれるであろう。学問・研究上の競争とは理論や学説をめぐる競争であって、大学間のビジネス競争とはなんの関係もない。

 彼らは、独立行政法人化の効能を信じているというより、信じようと必死につとめているように見える。法人化に最初は反対した国大協は、バスの発車が不可避と見るや、バスに乗り遅れることをおそれ、法人化がもたらす利益の分け前に与ろうと必死になっている。

 大学は自らをもっと外に開いていかなければならない。大学人は自己保身に汲々としてはならない。国立大学の法人化はこのようなもっともな批判に応えるように見えて、そのじつは大学を内に閉ざす。対外的な広報活動は活発になるだろうが、開放的なのは外見のみである。

 われわれ大学人に求められているのは、「バスに乗り遅れるな」ではなく、バスを発車させないことである。そのうえで、真摯に自己改革につとめていくことである。

 

リチャード・ゴンブリッチ Richard Gombrich (オックスフォード大学ベイリオル・カレッジ教授 サンスクリット学、仏教哲学)

 日本の真の友人たちと同様、学問の自由に影響を及ぼすようなやり方で国立大学を「改革」するという政府の提案には、私も失望しています。官僚や政治家に学問的、知的活動を支配する権力を与えるこのような動きは、悲惨な結果をもたらし得るだけであることを、歴史は繰り返し示しています。

 

 

 

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2003620(2) 教員組合が「地方独立行政法人法案」反対の声明を出した。大学の自治や学問の自由を根底から脅かす可能性のある諸問題を指摘している。学問の自由、学問・科学以外の不当な支配や介入をはねのけることが可能なシステムがあってこそ、生き生きとした科学研究が可能である。現在の「独立行政法人化」(法案)は、そのような大学の自主的自立的発展、科学・学問の自由な発展を蝕む危険性が非常に高いものである。なぜか?以下に、声明をコピーしておこう。

法案自体がいかに大学の自治や学問の自由を危険に曝すかを端的に示すのは、衆議院における法案決議の付帯決議事項である。「大学の自治や学問の自由に十分配慮して」などという付帯決議をつけなければならないこと自体、何が予測されるかを示している。はじめからそのような危険が分かっている法案を強引に採決しているのである。一昨年以来のわが大学で横行した学則無視、教育基本法無視、教授会決定無視といった一連の自体を顧みるとき、まさにその危険性について、十分に検討しておく必要があろう。

公立大学協会は「公立大学法人化への取り組み(報告)http://www.kodaikyo.jp/report/h14hojinreport.pdfにおいて、現在の公立大学の「直営方式」の問題を踏まえて、大学の21世紀における使命を達成する手段として、自律化・自立化・独立化の手段として「公立大学法人」化を位置付けているが、その法的制度的実現は、容易ならざる努力と各方面における意識改革・前提条件の積み重ねが必要であろう。大学に関する十分な歴史的総括のないまま、「廃校」の脅迫をちらつかせながら、直営方式だった意識に乗っかって、強引に「抜本的改革」を強制するような自治体・行政当局のもとでは、あらゆる改革が萎縮し、内容貧困なものになろう。

昨年以来の強引な「あり方懇」、事務局のやり方・答申内容は、現行の直営形態のマイナスの現象が、一挙に出たものであり、公立大学協会に属している大学として恥ずかしいような態度であることが、「公立大学法人化への取り組み(報告)」を通読しただけでも明らかになるであろう。本学の場合、公立大学協会の全国水準にも達していない意識水準ではないかと恐れる(現学長はきちんと公立大学協会に参加して議論しているのか?前学長だけが相談役で出席しているだけか?)。「オンリーワン」が、全国のわらいものとなる「オンリーワン」であることのないよう、全学検討委員会には期待したい。

ただ、「基本的考え方」の根本スタンスが、75年の歴史を全否定するような文章(教授会でも指摘があったように「市が有する意義のある大学に生まれ変わる」という総懺悔的文章のひどさ・・・それなら、これまで本学は「市が有する意義のある大学」ではなかった、ということを原案作成の事務局、学長を議長とする評議会が認めたということである、これは歴史無視であり、「あり方懇」答申からの攻撃に対し卑屈ではないか? それとも日本語さえきちんとしていないのか? 佐藤真彦教授がかつて本学首脳部各方面における「思考停止状態」を鋭く指摘したが、まさに「思考停止状態」で「基本的考え方」を議論し決定したのか? いや正確には議論しなかったのか?)であることから、期待はむなしいかもしれない。

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「地方独立行政法人法案」に反対する声明

<わずか1日の審議で衆議院を通過!>

 「地方独立行政法人法案」は、わずか1日の審議で、しかも、大学関係者の参考人質疑も行わずに衆議院での採決が行われ、参議院に回されました。

<本人の意思を無視して非公務員に移行>

 法人化した場合、公立大学の教職員は自動的に法人の職員とされ公務員としての身分を失うことになります。しかも、6年毎の「評価」の結果、業績不振の理由などで法人自体が解散になれば身分は保障されなくなります。このような職員の身分の移動という重要な変更が本人意思の確認をせずに行われることは重大です。

<著しく脅かされる学問研究の自由>

公立大学法人においては設立団体(自治体)の長が法人の業務に関し「中期目標」を定め、法人はこれを「中期計画」「年度計画」として具体化し、「評価委員会」の評価を受けることになります。「地方独立法人は、設立団体の規則で定めるところにより、中期目標の期間における業務の実績について、評価委員会の評価を受けなければならない」(第30条)とされています。

そして、大学については評価機関による評価の「特例」として、学校教育法に定める「認証評価機関の教育及び研究の状況についての評価を踏まえることとする」(第79条)と、評価の客観性を担保するかのような規定を置いています。しかし、この「認証評価機関」を「認証」する主体は、文部科学省であり(学校教育法第69条の4)、その意味で、厳密には評価の第三者性は担保できているとはいえません。こうした「評価」ののちに、自治体の長は事業の継続の有無をも含めて検討するとされています。これでは、学問研究の自由と大学の自立性を極めて大きく侵害することになってしまいます。

<行政当局による統制強化>

 「法案」では組織・運営等については法定していないものが多く、それらについては議会で定める「定款」によるものとしており、大学の自立的な対応によるよりも行政当局と議会の判断が優先される可能性が極めて高いといえます。その点でも今後の統制強化への懸念は増幅されざるを得ません。

「学長となる理事長」の任命は、「当該公立大学法人の申出に基づいて、設立団体の長」が行ない(第71条2)、この「申出」は、当該公立大学法人の設置する大学におかれる「選考機関」の選考によって行われることになっています(第71条3)。そして、この「選考機関」は、大学におかれる「経営審議機関」と「教育研究審議機関」の構成員によって構成されるものとされています。そして、この「選考機関」「経営審議機関」「教育研究審議機関」はそれぞれ「定款」が定めるものとされています。自治体の裁量余地の大きい「定款」の定めに依存するこれらの「機関」の性格によっては極めて専断的な人事制度になる可能性が強まります。それは大学の活性化を著しく阻害することになるでしょう。

<学費の大幅な値上げ?>

法人化は、設立団体(自治体)の財政責任を曖昧なものとします。現在でさえも不十分な大学の運営にとっての必要経費が、一層劣悪な条件の下に晒されることは必死です。学生の授業料の大幅な値上げと学生数の増大によって対応せざるを得なくなりますと、国民の教育の機会均等を大きく損ない、また、マスプロ教育などによる教育環境の悪化が懸念されます。

 以上、本法案は大学における教育と研究の展開にとって極めて大きな問題点を持つものであり私たちはこの法案に反対の立場を表明するものです。国会において十分に慎重な審議を行うことを求めます。

2003619

                      横浜市立大学教員組合執行委員会

 

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国立大学法人法案に対する国立大学人文系学部長の声明も、国立大学法人法案やそれよりも地方自治体の行政の長の権限が強い公立大学法人法案に対する危険性の指摘として、重要である。

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[5] 6/13 国立大学17大学人文系学部長会議から文部科学大臣への要望書

   http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/030619jinmongakubutyou17.htm

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文部科学大臣 遠山敦子 殿

平成15年6月13日

 

国立大学の法人化に向けての要望

                    国立17大学人文系学部長会議

 

 平成15年5月22日〜23日、山形大学において開催された第58回国立17大学人文系学部長会議において法人化の検討状況及び法人化後の人文系学部の在り方について協議致しました。現在、国会で審議中の国立大学法人法案の内容を踏まえて、各大学より提出された意見の主要な意見を貴省へご報告し、国立大学の法人化に向け17大学人文系学部長会議として以下の要望を行うことで終了した次第であります。よろしくご賢察のほどおねがい申し上げます。

 

                               

 

1 現在、国会で審議中の国立大学法人法案は、大学の自主性・自律性をこれまで以上に保障し、「わが国の高等教育及び学術研究の水準向上と均衡ある発展を図る」(第1条)ことを目的として制定するものとされている。しかし、今回の法案では、国による大学の中期目標の策定及び中期計画の認可とその評価に基づく運営費交付金の配分、そしてそれを制度的に支えるものとして大学経営の視点を重視した新しい組織運営体制の導入等、大学の運営に競争原理が大幅に取り入れられており、これを押し進めれば、財政的基盤の弱い地方国立大学や研究が実用的成果に直接結びつき難い基礎科学、人文系学部の衰退につ

ながることが危惧される

 

2 第58回会議においては、主にこのような観点から、法人化後の大学全体の中における人文系学部の位置、役割について意見交換がなされた。とりわけ、学問の性格上、実用性・効率性の視点からの研究及び評価になじみ難いところから、学内における人文系学部の地位の低下に対する懸念が共通して表明され、それへの対応の在り方ないし論理が議論された。そして、結論的には、(1)学術研究の発展にとって、文系、理系を問わず基礎的学問分野を重視すべきことの普遍的価値性を認識すること、(2)社会に対し、教養を備えた有為の人材を高等教育で養成することの重要性と、それに対する人文系学部の社会的使命、(3)地域社会における個性ある文化の創造・発展に果たしてきた役割の継承・発展という3点において、今後における人文系学部の役割・使命及び発展の契機を見出すべきことが共通認識とされた。

 

3(1)20世紀において自然科学は、驚異的な発展を遂げ、科学技術の飛躍的な進歩を生み出した。しかし、他方では環境問題に象徴されるように、経済効率性優先の思想が生み出した負の遺産は後世に大きな課題を残した。21世紀を迎えた今、我々は人間本来の在り方を根本的に問い直す時に直面している。

ここに、自然科学と人文・社会科学の調和のとれた発展を確保し、そのなかで、人間本位の哲学に立脚した学術の創造的発展とそれを基盤とした高等教育の推進が強く要請される所以が存すると考える。その意味において、人間及び人間社会の本質及び在り方を研究対象とする人文系学部の担うべき役割は、今日ますますその重要性を深めているといえる。

 

(2)人間社会の営みは文化にあり、文化なくして国家は有り得ない。その意味で、人文系の学問領域には、時代を超えた普遍的存在意義があるといえよう。地方の大学は、地域社会の学術文化の拠点であり、我々は、この志をもって教育研究機関としての役割を遂行する使命があるものと認識している。法人化により競争原理のみを優先した方向に走れば、落ち着いた環境において育まれるべき真の意味での文化は育ち得ないであろう。

 

(3)法案の目的とする「個性ある大学の創出」、「大学の自主性、自律性の確保」は、競争原理に立脚した実用性・効率性の重視だけではなく、基礎的、長期的学問分野を重視し、「学問の自由」に立脚した学術研究の自主性・自律性を保障し得る大学においてこそ実現可能になるものと考える。

 

 文部科学省におかれては、以上のことをご賢察の上、国家百年の計に基づいた学術及び高等教育施策を遂行せられることを切に要望するものである。

 

国立17大学人文系学部長

 

(弘前大学人文学部長 藁科勝之、岩手大学人文社会科学部長 高塚龍之、山形大学人文学部長 高木紘一、福島大学行政社会学部長 松野光伸、茨城大学人文学部長 村中知子、埼玉大学教養学部長 岡崎勝世、富山大学人文学部長 山口幸祐、信州大学人文学部長 大島征二、静岡大学人文学部長 山本義彦、三重大学人文学部長 渡邉悌爾、島根大学法文学部長 松井幸夫、山口大学人文学部長 田中晋、徳島大学総合科学部長 熊谷正憲、愛媛大学法文学部長 今泉元司、高知大学人文学部長 松永健二、鹿児島大学法文学部長 辰村吉康、琉球大学法文学部長 伊禮恒孝、以上17学部長)

 

 

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2003620日 総合理学研究科・佐藤真彦教授HP「学問の自由と大学の自治の危機問題」で、「国公立大学通信抄 2003.06.19() 全文:http://ac-net.org/kd/03/619.html」を読んだ。「市民の会」の67日「市民の夕べ」のダイジェスト版報告も掲載されていた。通信は、公立大学も明示的に含むものとなったようである。その冒頭の部分だけは、ここにコピーしておこう。

 

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横浜市大を考える市民の会が主催した6/6の「市民の夕べ」で井上ひさし氏が「市民の問題を、大学が全て考えなくてはいけない。人権・自由・平和・憲法の問題も全て。」と語られたことが伝えられています[7]。内閣府の総合科学技術会議と文科省を通し、産業界が大学セクタ全体に、法的・財政的制度改変や身分変更等、あらゆる手段を駆使して強制しようとしている「国と企業の受託研究所」という役割は、市井の人々が大学に期待しているものとは全く異質のものであることを鮮明に意識させてくれる言葉です。

 

いまは人権・自由・平和・憲法のために戦っている大学人は、国公私を問わず、います。メディアが「情報産業」に変身し、人権・自由・平和・憲法を守ることを主な使命とする存在であることをやめてしまった現在[8][9]、そういう方々の活動は、日本社会の最後の砦の一つとなっているのではないでしょうか。

 

メディアの「変身」は、少数の幹部によるトップダウンな経営体制が原因と推測される場合があります。読売新聞については社の世論「社論」と紙面との乖離が1982年に突然始まったことが指摘されています[9-1]。また、NHK会長の「続投」[10]が予想されているようですが、ETV2001番組改変事件についての国会証言[8-2] (01.3.16) と、「放送と人権等権利に関する委員会機構」決定[8](03.3.30) とは両立しそうもありませんので、国会偽証罪も成立する可能性があります。「人権・自由・平和・憲法」には無関心な方が今後もNHKに大きな影響力を持ちつづけることは公共放送機関としてのNHKの使命がさらに衰退していくのではないかと一視聴者として危惧します。なお、NHK経営委員会には大学セクタから4名が参加しています[10]

 

 

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2003618日 すでに、各方面から中田市長の政治姿勢が問題にされている(「市民の会」「ご意見箱」閉鎖等に伴い矢吹教授はかつてのように「YABUKI's China Watch Room」に大学改革関連情報を復活された)。市立大学の大学人としては、中田市長の大学に対するこの間の態度に疑問を抱かざるを得なくなっている。市政に関する問題と重なり合って、あらたに中田市長の外遊と大学改革の関連性が問題になっている。その指摘によれば、大規模な投資を必要とする「特別区」構想に横浜市が乗ろうとするもののようである。

横浜市に次の時代のための産業基盤を構築することは必要なことだろう。いやむしろ、カジノ誘致構想のような発想に比べれば、世界の科学の最先端・産業の最先端を横浜市内に樹立していくという発想は、重要であり、21世紀のあるべき姿だろう。

しかし、産業が栄えて市民が困窮に苦しむ、市民の豊かな文化の中心たるべき大学が衰退するという結果になってはならないだろう。

一体科学の最先端を担うのは誰か?

科学の最先端を切り開く場合、いま流行の生体超分子や遺伝子研究だけをやっていればいいのか?

いま科学の最先端を開いていた人達は、かつてはどのような分野のどのような仕事をしていたのか?

世界の文化に対する関心や理解のない自然科学人間だけで科学の最先端は切り開けるのか?

科学の最先端を切り開くためには、社会の総合力のアップが必要なのではないか? 「知」の特定分野だけの突出した発達は長期的に持続するのか?

「特区」構想の今後の展開を見ていくと同時に、本学の改革がどのような影響を受けるのか、見極める必要がありそうだ。

それにつけても大学人は、大学の歴史、本学の最近十年ほどの発展史をきちんと踏まえ、見識を持って財政危機状況における短期的構想と21世紀を見渡した中・長期的構想を整理し、市長・市議会・市民に提示していく必要があろう。

「改学宣言」でも学長との会談(57)でも、市長は「まず大学が構想を示すように」といっているのであり、大学内部の独自な歴史的発展を踏まえた構想をこそ示すべきである。財政的余裕がないときに、大胆な改革などどうしてできるか?奇をてらう必要はなく、着実な発展構想を示すべきだろう。昨年秋に強行した「学部事務室の廃止=人員削減と事務の合理化」にあわせて、大学の教学システム・研究教育体制までも理念なき解体縮小においこんでしまうのは、「プロクルステスのベッド[14]」ということになろう。

大学内部が出す構想において、学長「怪文書」のように「あり方懇」に屈服していたのでは、厳しい歴史の審判を受けざるを得ないであろう。大学人が気をつけなければならないのは、「改学」構想を打ち出した人が責任を問われることなく大学からいなくなってしまう(「改革」ノ結果が出るのは責任を問うことができないような年月が経ってから)、ということである。若い人々(大学人もまた今後入学してくるであろう人々も)こそは、本学の二〇年後、三〇年後を担うことになる。「全学検討委員会」の委員の責任は重い。

 

国立大学法人法案との関係では、佐藤真彦氏が紹介している週刊『ダイヤモンド』2003年5月24日号の櫻井よしこ氏の発言が貴重である。また、豊島耕一氏の韓国ソウルにおける発言も重要である。

 

-----リンクが切れたときのことを考え、念の為、以下にコピーしておこう。--------- 

新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 「不要なポストを大幅増設! 官僚の天下り先拡大を狙う国立大学法人法の卑しさ」

 

全員ではないが、官僚には許しがたい人びとが多い。法案立案で彼らが目指すのは、自己利益以外なにもないとさえ思えるからだ。
 一例が、今、国会で審議中の国立大学の法人化だ。「国立大学法人法」を読み、 遠山敦子文部科学大臣の国会発言を検証して見えてくるのは、
信じがたい偽善の構造である。
 遠山大臣は、「高い理想を狙いとして」「束縛から大学を解放し」「自律的、主体的」に大学を機能させたいと、述べた。
 東京大学卒、文部省出身の遠山大臣が、国立大学法人法を読解できないはずがない。理解したうえでの右の発言なら、
国民への背信だと言わざるをえない。なぜなら、同法案は、遠山発言とは正反対の結果をもたらすと思われるからだ。
 法案どおりに国立大学が法人化されれば、
大学はさらに自律性と主体性を失い、強い束縛を受けることになる。大学は文科省はじめ各省庁からの天下り集団の定着先ともなりかねない。

たとえば役員会である。役員会は学長と監事2人および法に定められた数の理事によって構成するとされている。驚くことに、文科省は各大学が役員会に入れるべき理事の数まで決めて、法律で明記したのだ。
 ここまで決めて、なにが「自律的、主体的」大学運営なものか。国立大学の幹部が憤慨した。「なぜ、役員会の理事の数まで文科省が指定するのか。学長も監事2人も、文科大臣が任命する人事です。文科省は学長の任命権のみならず解任権も握ります。学長は文科省の思惑に沿う人物でなければクビにされかねないのです。また、各大学に2人ずつ置かれる監事も文科大臣の任命です。これが官僚の天下りポストにならない保証はありません。
理事は学長が任命しますが、文科省の意向を忖度(そんたく)して、官僚OBを入れないとは限りません[15]。じつにこの人事制度は、天下りポストの拡大と定着につながると疑われても仕方がないのです」

 大学の意思決定機関は、この役員会だけではない。別に経営協議会と教育研究評議会が設けられる予定だ。
 経営協議会は、学長を頂点に学長の指名する理事と職員で構成されるが、学外者が半分以上でなければならないとされている。同協議会は法人化された国立大学の経営をチェックする役割だが、大学経営と企業経営は決して同列には論じられない。他分野の企業と同じ考えで大学経営を評価しようとすれば、すぐに結果や効果を生み出さない分野、たとえば京都大学のインド哲学などは真っ先に篩(ふる)い落とされるだろう。歴史学も同じである。

 
大学の予算は、教育、研究の特質において、一見壮大なムダと思われるものを包含するものでなければならない。今行なわれている研究が今役立たなければならないというような考え方では、高等教育も研究も、真の成果を上げることはできないからだ。

 後者の教育研究評議会は、教員人事、学生の指導などとともに大学の教育研究に関する重要事項を手がけることになっている。だが、役員会、経営協議会、教育研究評議会の三つの組織が大学の業務をどのように切り分けて担当するのか。
研究、教育、経営がきれいに切り分けられるはずがなく[16]3つの組織は屋上屋になることが十分、考えられる。
 また、成果を評価するのに2つの評価委員会を設けたのも、屋上屋である。加えて、大学共同利用機関法人を新設して、研究のための施設や設備を共同利用するのだそうだ。
 「大学の自律と言いながら全大学で共同で物資を購入したりせよと言うのです。言動の不一致もはなはだしい」(前出・国立大学幹部)
 国立大学法人化から見えてくるのは、不必要な機関とポストの大幅増設である。そこには、遠山大臣の言葉とは裏腹の、
官僚たちのポストを増やそうと企(たくら)む卑(いや)しい心が見えてくるのだ。

 

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2003617日 昨日の国会の様子が伝えられた。下記にコピーしておこう。

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「意見広告」御賛同の皆様。

本日、西日本各地の3次賛同の方々に掲載新聞を発行いたしました。
新聞社から送られてきた新聞が少なかったために、一部の方々には未発送であります。
入手次第引き続いて発送いたします。

次の***以下のような報告が入っております。
これで、延長国会に入りますが、事務局としてはこの局面にどのように対処すべきか、はなはだ憂鬱であります。
皆様の御提言をお待ちいたします。

***
国立大学法人法案、会期内に成立せず

 10日以来審議中断していた参議院文教科学委員会の理事懇談会が1618 30分から開かれました。与党理事は、17日委員会を開催し採決を行うよう主張しましたが、会期の延長に反対する野党が「延長が提起されている以上、明日の審議には応じられない」と反論しました。その結果、17日委員会は開催されず、法案の会期内成立は不可能となったわけです。理事懇談会の日程も決まっていません。本来、会期は18日までであり、ここで法案は廃案とすべきですが、政府・文科省は延長国会に入るや、一気に強行採決を行う危険性があります。
19
日か遅くとも24日には再開される委員会に対する警戒を強め、法案の廃案めざし、闘い抜きましょう。

国会内集会、170名以上の参加で大成功、櫻井よしこさんら、法案反対を訴える

 国立大学法人法案と大学に未来を考える国会内集会が、161230分より参議院議員会館第一会議室で行われました。会場は満員で立ち見の参加者も出るほどとなり、熱気に包まれました。参加者は170名をこえました。

 はじめに、呼びかけ人の櫻井よしこさん、小林正彦さんから国立大学法人法案の問題点について、会場への訴えがあり、ついで、衆参両院の民主党、共産党、国連(国会改革連絡会議)の各会派の多くの議員および議員秘書の方々から、これまでの国会審議の特徴と廃案を目指す取り組みについて紹介がありました。つづいて、意見広告の会から、広告への反響が紹介されました。各大学からは、大学の現場が抱える問題点と乖離するだけでなく、現場の状況をさらに悪化させることになる法人法案への反対意見の表明が相次ぎました。

 会場では、NPO法人や学生代表からの発言もあり、市民・学生の立場から今回の法人法案をとらえ直す視点の重要性が浮き彫りとなりました。横浜市立大学[17]や東京都立大学など、公立大学の独立行政法人化問題を抱える大学からは、公立大学の問題と国立大学の問題を結合して考えることを求める声があがりました。

 集会では集会宣言が採択され、即座に議員への要請行動が行われました。これが理事懇談会の結果に大きな影響を与えたことはまちがいありません。集会にはこれまでになく広い立場の人々が参加したことを強調しておきたいと思います。
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    集会宣言

 わたしたち、「6.16国立大学法人化を考える会」参加者は、この集りを通じて、 あらためて国立大学法人化法案の深刻な難点を確認することとなりました。
 ところが、聞くところによると、理不尽な会期延長問題をめぐって、農水、厚生労 働、総務などの諸委員会までストップしているなかで、ひとり文教科学委員会のみが開催されんかの気配があります。わたしたち集会参加者は、参議院議員の良識に強く 訴え、この欠陥法案を廃案とされるよう求めます。近々の委員会において、審議がうち切られ、採決が強行されるという事態がゆめゆめ起こらないよう、要求します。こ れら二点を、第一会議室を埋める170名の集会参加者の総意として決議します。                              
                 
「6.16国立大学法人化を考える会」参加者一同
                      2003年6月16日 於 参議院
議員会館第一会議室
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*なお、会として会場内でカンパ活動を行い、その場で約6万円のカンパを頂き、更に相当数の方が、郵便振替用紙を持ち帰られました。

「法人法案」事務局

 

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2003616日 国立大学法人法案の審議が大詰めを迎えた。与党が十分な審議をしないで採決強行を行おうとしているようであり、独立行政法人化反対のネットワークからの国会傍聴への呼びかけがあった。本日は、大学院と学部の講義・演習がいくつもあり、公立大学の運命にも大きな影響の出る法案審議の場に行くことができないのは、残念である。これとも関連し、元東大副学長で現在は東京大学職員組合の委員長をしている小林正彦氏の貴重な運動総括・第二幕への提言「第二幕にむけて」がある(農学部教授でご専門は生物学とか、それとも関係するのか上記文書の最後に生物学、進化論の見地からの批判的コメントが付いている)。これをここにコピーして、熟読玩味したい。

 

また、本学の改革問題との関係では、NHK首都圏ネットワークが無視した井上ひさし講演内容を紹介しつつ示された総合理学研究科・佐藤真彦教授の公開意見が鋭い。「あり方懇」答申をこれが設置者の意志[18]なんだとして「脅かす」市長発言とこれに従う学長の態度は、映像を通じて多くの市民が目にしている。「市民の会」の運営委員からの呼びかけもあってたくさんの人がビデオにとっているであろう。

市長の年齢の倍近い年月を耐え抜いてきた市立大学の頂点にたつ学長は、その重大な責務を態度で示しただろうか?

大学に関する見識、大学の歴史に関するきちんとした認識を持っていることも示さない市長(わずか4年間しか市民から行政担当の責任を与えられていない市長)に対する大学長としての毅然たる態度があったであろうか? 学長の後ろには、大学の歴史、科学の歴史、人類の歴史(それらへの深い洞察)があることを感じさせたであろうか?

佐藤先生がご指摘のようにあの映像のかもし出す雰囲気、市長の態度と学長の「卑屈な」態度の相互関係をよくみてみる必要がある。この学長の態度では、「あり方懇」全面屈服のみじめな大学改革案が、出てくることは十分考えられる。その危惧は、突飛なものだろうか? 例の学長怪文書は、それを暗示するのではなかろうか。

佐藤真彦氏の公開意見も、念の為(何らかの理由によるリンク切断の場合に備えて)、小林正彦氏の試案の後にコピーしておこう。

 

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「第二幕に向けて(第一幕総括)」

東職委員長試案

 

 国立大学法人法案の衆院における審議は、文科委員会の強行採決と本会議での形式的な質疑と採決で終った。国会審議の第一幕が下りてしまったいま、第二幕に向けてこの間の活動を総括し、第二幕における逆転劇の演出の糧としてみたい。

 

総括の第一にあげるのは、国立大学法人法案が国民の関心事になっていないことである。

 

 私立大学の教員は国立大学の教員を羨み、地方国立大学の教員は旧帝大の教員を羨み、旧帝大の教員は欧米の大学教員を羨み、総じて研究室の狭隘と研究費の不足を比較において嘆き愚痴をこぼすという構造がもう50年も続いている。こういう教員の愚痴を聞くたびにその大学の悪しき運営ぶりが感じられ、その教員を含めて大学の将来に暗いものを感じ、同時にその指導を受ける学生の不幸を思わざるを得ない。こういう教員の愚痴を聞いたとき国民はどう思うだろうか。また、他国民はどう思うだろうか。

 実は国会対策の最中に、さる議員の秘書の方が、「私は大学を出ていないから大学のことは良く解らないが、国公私立を含めて大学はもっと変わらねばいけないのではないか。我々高卒のものが尊敬するに足る人材が大学からたくさん輩出されていれば、もっと世の中が良くなっているのではないか。」と話して下さった。これは、私が「今回の国立大学の教員の主張は、広く国民の理解を得るには程遠いような気がするが、どうですか。」と問いかけたことに答えたものだが、実に明快で示唆に富む一言であると思う。また、国民の代表である国会議員からは、「古手の議員より若手議員の中に大学改革の推進派が多いことは、社会の進歩に対する大学の変革の遅さを物語っているのではないか。」「教授会の自治による大学運営が社会に対して開かれていないという批判にどう答えるのか。」「国立大学の側からの大学改革の理想像、あるべき大学像を示すべきではないか。」「ノーベル賞受賞小柴さんらがITER見直しの嘆願書を出したが、研究者のああいった形での貢献を社会は望んでいる。平和や人権、環境等を守ろうとする市民の運動や要求に大学人が十分応えているとはいえない現状をどう考えるか。」という意見が寄せられた。 国立大学法人法案についても、国民の過半数は大学に通ったことのない人たちであるという根本認識を持って対処しなければならない。また、大学に通ったことのある人のうちでも7割は私立大学であるのだから、学問の自由が奪われる、権利が奪われると、国立大学の教員が声を大にして叫べば叫ぶほど、同情するどころか「ざまぁみろ」と思う人がほとんどであると認識してかからねばならないのである。 要は、国会活動の第二幕の成否は、如何に国民に対し説明できるかということにかかっているのであるが、そのためには国民や国会に対する認識を大学人側が改める必要があり、同時に、国民・社会と大学の繋がりについて独自の考え方を示す必要がある。 この点に関しては、私は甚だ悲観的である。50年もの間、教授会の自治の名の下に培ってきた非民主的な意識は、そう急には変わらないような気がするからである。「非民主的な意識」などというと相当な反発が予想され、袋叩きにあいそうであるが、教授会の構成員は大学構成員全体の1/3程度であり、大学の意思決定機関である評議会に関しては、全構成員の約1/4の者が評議員の選挙権を持ち、約1/8の者が事実上の被選挙権をもつに過ぎないという実態を示すだけでも、論拠になり得るのではないかと思う。また、民主的教員と思われる者でも、組合活動に職の関係を持ち込んだりしていることもあり、教員の中には事務職員や技術職員等々の職員の能力のなさを嘆く者が多い。これらは、教員は恵まれた環境になくてはならないという思い上がりの意識[19]があるからで、教育研究医療等の支援職員といわれるこれらの人々は、教育研究医療を支援するのであって教員や医師を個別に支援する者ではないという道理すらも心得ていないのである。

 

○第二に、大学が沈黙し、その存在を自己否定していることである。

 

 大学の自治は、「政治上、宗教上その他の権力または勢力の干渉を受けることなく全構成員の意志に基づいて研究と教育の自由を行使すること」(広辞苑)である。この自由を行使することに対し、国民が期待しているのは何であろうか。それは産業界に貢献できるような、もしくはノーベル賞を授与されるような具体的研究成果であろうか。あるいは世の中をリードするエリート市民を輩出することであろうか[20] 庶民が一義的に期待しているのは、何ものも恐れず、何ものにもこびず、おもねず、何ものに対してもはっきりとものを言うことではないかと思う。そういう意味では、何時の時代にも、何ごとにも大学の存在の真価が問われ続けているということができ、大学にとって一時の沈黙も、自らの存在を否定する致命的なことと思わなければならない。 この間、国立大学協会は沈黙を続けている。このことは、国立大学の存在を否定していることに他ならないのだが、それはもはや国立大学である必要がないという意思表示なのであろうか。あるいは自分たちに係ることなので発言を控えているという、一見奥ゆかしく、その実無責任さの表れなのであろうか。いずれにせよ、この沈黙は、設置形態の如何を問わず大学としての存在を自己否定していることなのである。 現在の国立大学に自治とボトムアップが保障されているなら、その体制をもっているうちに個々の構成員が意志を表明し、大学の声を構築する必要がある。構成員の中でも助教授以上の教員は大学の意志決定に関与し得る特権を有しているのであるから、権利を執行する義務がある。法案に賛成するならその理由を、反対するならその理由を、はっきりと声にしない限りは、国民もその代表者たる国会議員も判断のしようがないのではないか。 賛否は別として、これだけ大学からの声が出ないということは、大学教員のボトムアップの体制(教授会の自治)に欠陥があるのではないかと考えられても不思議はない。民主的といいながら、実はボトムアップの体制には、ボトムの声を受け止め具体化する強力なトップリーダーの存在が重要であることを、今の大学の制度は如実に物語ってしまっているのではないか。そのトップリーダーも自分達で選んだとなると少しは忸怩たるものがあっても良いのではないか。 要するに、大学の構成員の意志を声にして発することが重要であるが、国民的視点は、法案に反対なら反対で、賛成なら賛成で、大学として、あるいは国大協としてその意志表示がないのが不思議でならないと思っているのであり、大学が意志表示も出来ないことは、現今の国立大学の教授会の自治が如何に未熟なものであるかということを実証していると思うのではないか。 

 ○第三に、国民的視点を最も強く持ち得る職員組合が、国民的感覚を発揮できていないことである。

 

 この法案の悪い点を突くとしたら、この法案が成立すると国民にとってどれだけ不都合なことが生じるかということを示さねばならない。これが示せるのは、我が身の不遇の愚痴をこぼす者ではなく、自分らの自由と権利が奪われると叫ぶ者では決してない。これが示せるのは、大学の意志決定に関与し得る教員であれば、自分らの至らなさが、教員以外の職員の国家公務員の身分を奪いそうになっていることに青ざめ、解雇により職そのものを奪われようとしている非常勤職員が2万人以上もいることに悲憤を覚える者であろうと思う。また、教員以外の構成員であれば、その属する職員組織が国民的支持を得られるような活動をしているかどうかという視点を常に持ち続けている者であると思う。

 かつて、病院の看護婦さんの労働争議に立ち会ったことがあるが、その時の当事者は、ある意味では昔の教員の思想信条の対立の犠牲者であり、教員たちが転進してしまったあと、看護婦さんが借りてきた言葉でことを論じていることが気になった。全ての者が、自分で考え、自分の言葉で、自分の意志を表現しあうようでなければ、本当の自治などありようがない。

 大学の職員組合が、なぜ学問の自由をこの法案に対する問題の中心におくのであろうか。国家公務員の身分が奪われ非公務員として生きていくとに対する危機感からの意見が出て然るべきであり、国民的視点はそこから発してくるような気がする。職業選択の自由は、公務員の職を選択した者には与えられていないとでもいうのであろうか。

 そもそも、職場組織を最下部として何層もの上部組織をもつ日本の労組の構造自体が、現代社会にそぐわない陳腐なものであり、数の力が結集できても、意志決定の多層システムが行動を曖昧なものにし、上意下達の指示待ち活動を続けさせる結果になっている。しかも、その上意を決定するトップ集団が頼りなくては、大衆運動など盛り上がりようがなく、国民的視点を定めることなど不可能なのである

 最初に、教員の愚痴を「他国民」が聞いたらどう思うだろうか、といったが、日本より10分の1以下の安い賃金で働いている他国の労働者が聞いたら、「これは絶好のチャンス」と思うに違いない。そういう人々が近隣に日本人の10倍以上もいて、日本の労働市場を虎視眈々と狙っているということも、今後は認識しておく必要がある。「これからは非公務員型ということで、優れた外国人の登用ということも可能になるのでありまして・・・」と自分の言葉で語れない大臣がアンチョコを読み上げているではないか。

 

○第二幕に向かって

 

 こう考えてくると、もはや絶望的であると思うかも知れないが、こんなことで諦めるようでは大学人の真価が問われるばかりか実力が問われてしまう。

 まがりなりにも国会は国民の代表で構成されているのであるから、どんな悪法でも9割の議員が賛成して衆議院を通過したとなれば、これを国民の意志として真摯に受け容れなくてはならない。国立大学法人法案についても、国民の過半数は大学に通ったことのない人たちであるという根本認識を持って対処するなら、所属政党がどこであれ、国会議員は国民の代表であり、たくさんの法案を調べその正邪を国民の目線で見極めねばならないのであるから、大学人が力をあわせて彼らの活動を支えることによって悪法案を質すべきであり、大学教員がしがちな議員の活動能力に対する批判や評論はこの際無益であると思わねばならない。今の局面は、国民の代表と力を合わせて少しでも法案の不備を糺すことにより、国民の理解を得なければならないのであり、それをなせば、一条の光明が良識の府である参議院を照らすと信じることが大切である。

 自由が奪われる、権利が奪われると、国立大学の教員が声を大にして叫べば叫ぶほど、日頃の行いが悪いからだと思う人が大半であると認識してかからねば、国会活動の第二幕も失敗に終わり、法案がそのまま成立してしまうだろう。万一、そうなったときに、自分たちの自由と権利は闘ってでも守るという大学が現れたら、その大学こそが今世紀に生き残れる真の大学になり得るのではないかと私は思う。「自由と権利は国民の不断の努力によって保持されなくてはならない」と憲法第10条は述べている

 日本国憲法が、その総体をもって言っているのは、「デュープロセスを踏むことが民主主義の基本であり、その結果として国民の自由と権利が保障される。」ということである[21]。今やこの「デュープロセスを踏むこと」が国会ばかりでなくあちこちで無視されてきている。大学全体としても、部局においても、自分たちの将来を左右する法案や理想の大学を謳う大学憲章に対する議論と意思決定がなされていないのは、デュープロセスを踏むという民主主義の基本を怠っていることであり、自分たちの自由と権利を放棄していることに他ならないのである。憲法を知っている人はいるが憲法を理解している人は少ないのと同様に、民主主義を知っている人はいるが民主主義を理解している人は少ないといえるのではないかと思う。民主主義が自由をもたらし、自由が自尊心を生み、自主性、自立性を育む。だからこそ大学に、自由がなくてはならず、民主的な仕組みが不可欠なのである。 少なくとも言えることは、今の国立大学の仕組み(教授会の自治等)は、このままでは決して民主的ではないということであり、今審議されている法案によって作り上げられる国立大学もまた、このままでは民主的なものになり得ないということである。 「自由と権利は所与のものでなく、不断の努力によって維持するものだ」という憲法の教えに従えば、やや後退してしまった理想の国立大学作りは、これから始まるといっても良いのではないか。今、一部の独立行政法人では、よりよい独立行政法人を作り上げるため、主役の法人と主務官庁と評価委員会がスクラムを組んで地歩を進め始めている。当然、主役の中の全ての構成員が、不断の努力によってより良いものを作ろうとする意識に立つことが先決であり、協調と共存の仕組み、すなわち互いの自由と権利を尊重する仕組みが不可欠の要因としてそこに存在している。この仕組みを確立し維持するのは、法人の全ての構成員であり、その自主自律の枠の中で、経営者も労働者も一構成員としての自覚を持って、法人を進化させて行く必要がある。「進化」は試行錯誤であり、単に所与の形を整えるものではない。 法案の審議・成立は終着点ではなく、始発点である。そういう意味では第一幕、第二幕は理想の大学作りのウォーミングアップであり、十分なウォーミングアップを怠ると取り返しのつかない怪我を招くことになる。このためには、国会における十分な審議を期待するばかりでなく、大学人の一人一人が意識を持って、より良い組織作りのために知恵を働かせることが極めて重要なことなのである。一番恐れるべきことは、現在の国立大学のように当事者が何も考えなくなり、組織を進化させることを怠り始めることである。 生物は進化し、ヒト(生物学上の呼称)は進化の先端に位置したが、人間(社会的存在としての人)は少しも進化していない[22]。それゆえ、人間は同じ過ちを繰り返す。  東職ホームページに戻る

 

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「市長をつぎの選挙で落とせばよい」に割れんばかりの拍手

― 6月7日「市民の会」集会井上ひさし氏 特別講演『都市の中の大学』 ―

2003年6月15日

総合理学研究科 佐藤真彦

6月7日の「市民の会」集会では,NHKの報道(首都圏ネットワーク「特集 どう進む公立大学改革,6月12日放映」が完全無視した井上ひさし氏の特別講演『都市の中の大学』とそのメッセージ「中田市長をつぎの選挙で落とせばよい」に対して,割れんばかりの大きな拍手が満員の客席から期せずしておこった.

 

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6月12日放映のNHK首都圏ネットワーク,「特集 どう進む公立大学改革」を見た.

6月7日の「市民の会」集会の一部始終をNHK横浜支局が熱心に取材していたので,楽しみにしていたが肩透かしをくらったような気分に陥った.

「市民の会」ホームページの「事務局だより」http://www8.big.or.jp/~y-shimin/index2.html では,集会の様子を『「長谷川代表が答申への疑問点を訴える場面、この改革は経済性に重点を置き研究教育の体制が今までと比べてよくなる保証が必ずしも見えてこない、と述べている場面が放映されました。また、「1141億円の負債」に対する横浜市と市民の会の考え方の相違点をまとめた表が提示され、最後に今後の大学改革のスケジュールをまとめた形での報道でした。』と述べているが,NHKの報道としては.両陣営のバランスに最大限の配慮をした結果なのかも知れない.

にもかかわらず,期待はずれの感を味わった最大の理由は,6月7日の集会における最重要の取材対象であったはずの井上ひさし氏とその特別講演『都市の中の大学』の内容に,何故か,全くふれることなく完全無視したからである.

 

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NHKの報道では,冒頭で,去る5月7日の市長メッセージ『改学宣言』のドタバタ劇http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/giman030514.htm の際に,小川学長を市庁舎に呼びつけて滔々とまくしたてている中田市長の顔が大写しにされた.

 

大学が何もしなければ,このままではだめだよ[23]と言っているわけで.何もしないのだったら,こうするよと.要は,設置者(市長)としての意志を示しているわけで.・・・ていう風に何度も言ってきて,大学がしっかりと自分で考えるのも,それが基本なんだから.」[24]

 

さらに,小川学長の卑屈そのものに映る態度とせりふが続いた

 

「改革案の先頭に立って私がやりますので,まあ,何かまた,ぶっ倒れそうになりましたら,市長のお力をお借りしたいと思いますので,どうぞよろしくお願い致します.」

 

これでは,中田市長の言いなりの改革案,つまり,全国にその悪名を轟かせた『あり方懇答申』http://www.yokohama-cu.ac.jp/arikata/toushin.html 通りの改革案が出てくるのは目に見えている.

 

NHKの報道でも放映されたが,事務局が去る6月5日にわざわざ記者発表

http://www.yokohama-cu.ac.jp/daigakukaikaku/daigaku/daigaku_kaikaku/project_r.pdfしてプロパガンダに精を出し,また,市民アンケートとシンポジウム開催のために1500万円もの特別予算(血税)をつぎ込んでしゃにむに推進しようとしている“横浜市大改革計画『プロジェクトR』”

http://www.yokohama-cu.ac.jp/daigakukaikaku/daigaku/daigaku_kaikaku/dk00.html の茶番劇をあくまでも演じ続けるつもりらしい

 

事務局が“愛称”を募集して決めたと主張し,また,NHKの人気番組『プロジェクトX』のプラスイメージに“擬態”したと思われる『プロジェクトR』の正体は,その根拠となる秘密文書『部外秘資料』http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/page036.html の存在とともに,その欺瞞的実体のすべてが,すでに,白日の下に赤裸々に暴露http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/giman030514.htm されているにもかかわらずである.

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ところで,井上氏の特別講演『都市の中の大学』の面白くてしかも深いその内容については,すで荻原昭英氏が趣きのある文章で簡潔にまとめているhttp://yoogi53.hp.infoseek.co.jp/essay299.htm ので,ここでは無味乾燥となることを承知で,井上氏のメッセージの中から勝手に以下の3点を取り出して箇条書きにする.

 

(1)従来からのギルド(職人の同業組合)ではものの作り方・技術を教えるのに対して,自分たちが新しく創立した学生と教師の結合体・連合体であるウニベルシタス(ボローニャ大学の起源,井上氏は“大学団”と呼ぶことを提唱)では,なぜ約束や法律を守らねばならないのかなど,抽象的なものの考え方・概念・思想等を教える.つまり市民は,言論の自由・思想の自由・人権・平和・戦争とは何かなどを常に考えたりしていられないので,大学が市民にかわって考える.知りたいことがあれば大学に聞けばよい,困ったときに大学に相談する,そういう大学にならねばならない.

 

(2)大学も変わるべきだが,いちばん変わらなければならないのは市民.市民は立ち上がるべき.(橋爪大三郎氏のような)http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/page035.html 外部からの学者に言いたいことを言われて黙っている市民とそういうことを言わせる市の両方が悪い.おかしなことを言う市長は,つぎの選挙で落とせばよい.

 

(3)ボローニャ大学のウンベルト・エーコが,後にノーベル文学賞を受賞することになる若き劇作家のダリオ・フォーを呼んで,自由な活動の場を提供することで,ボローニャ市が演劇で町おこしをしたように,市民に先行して市民のために考えるシンクタンクの学者集団がいないとダメ.これを手放しては歴史の汚点となる.たとえば,公立大学で初めての演劇学部を作るとよい.日本にはまだないから,今なら早い者勝ち.

 

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中でも,井上氏が休憩時間を利用して,フロアー最前列から呼びかけた(3)の「公立大学で初めての演劇学部を作るとよい.日本にはまだないから,今なら早い者勝ち.」という提言は,具体的でかつ斬新なアイデアであり,このような提言を真剣に聞く耳を大学首脳と市長は是非持って欲しいものだ.

 

また,(2)の「おかしなことを言う市長は,つぎの選挙で落とせばよい」では,500名近くの聴衆で埋め尽くされた満員の客席から割れんばかりの大きな拍手が期せずしておこった事実を,中田市長や小川学長はよく考えるべきである.これこそ,井上氏が真に伝えたかったメッセージの一つだろう.

 

ちなみに,ある卒業生は「私は毎日あの世で静かに眠っている諸先輩や同級生にこの事態と現状を報告しております.天国の皆さんからも怨嗟の声が私の耳に届いております.・・・政治家が一般人の声を無視して政治を行えば必ずその報いを受けることをお忘れなく!」http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/page078.html と述べている.

 

また,「市民の会」集会を大成功に導いたパワーの源泉は,権力の横暴に抗議して立ち上がった草の根レベルの運動に共感して,全くの無報酬でエールを送ってくれた井上氏をはじめとする多くの良心的な知識人からの暖かい支援のほかに,一万数千人に上る卒業生や「市民の会」会員への案内状の送付など,2ヶ月間にわたる準備作業を献身的に行った卒業生・市民・学生を中心とする50名以上のボランティア集団の熱意結集した力に負うところが大きい[25]

 

これらはすべて,「市民の会」運動の今後の発展のための貴重な経験と財産になることは間違いない.

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2003613(2) 「井戸端」の投稿に関し、「大阪市立大学に見習いたい」とのコメントがあった。大学改革の内情と全国の動向に私などよりかなり詳しい人のように見うけられる。矢吹先生への執拗な質問攻勢には首を傾げるが、ともあれひとまず「大阪市立大学」HPを検索し、改革関連ページをちょっと見てみた(改革基本方針:

         http://www.osaka-cu.ac.jp/KaikakuKihonHousin/index.htmlなど)

なるほど、大阪市立大学はわが大学より数段先をいっているという感じである。創立120年を誇るだけのことはある。わが大学は75年だから、50年ほど先輩ということだ。大学改革の本学の全学検討委員会の皆さんが、このような大阪市立大学などの事例を見ながら(もちろんその作業はやってくださっているのだろうが)、本学の歴史と独自性を加味しつつ、横浜国大との連携構想などを発展させ、壮大な展望と当面の着実な改革を立案することを期待したい。今朝からの「議論の広場」の展開は、建設的な議論になっているか気になる。私の理解では、日本キリスト教会の方方と市民の会との間では話し合いがあり、調整が済んだものと思っていた。でも、相当こじれているようだ。


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2003613日 国立大学法人に関する意見広告第3(読売新聞610)に賛同したが、それを見た茨城県の主婦の方からのメールが知らされた。国立大学・公立大学に意義と重要性を考える素材ともなる。コピーしておこう。

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 読売新聞の意見広告を見て、大変驚きました。法案には絶対反対です。

 私は1主婦として現在小学4年と1年の子供を育てています。進学塾も私立の中学もない田舎の子供たちにとって、これ以上教育を受ける権利を奪わないで下さい。 現在でさえゆとり教育の名のもと、教育内容の3割削減を強行している文部科学省の考えにはついて行けません。

 もっと子供たちの声を聞いてください。実際の子供たちはもっと学びたがっています。大人の勝手な解釈で子供たちの学びの場を奪わないで下さい。先日、我が家の小1の娘が「ねえ、お母さん、このまま小学校で勉強してて、大学に行けるの?」と、聞いてきました。どうしてと聞くと、「だって簡単すぎるんだけど、お医者さんになれる?」「塾に言ってないと無理だよね」と・・・。自分の夢が学校の勉強だけでかなうのかと、小1にして、子供心にも思ったようです。小4の息子は往復3時間もかけて首都圏提携塾に通っています。やはり彼にも夢があり夢の実現のためには小学校の勉強だけでは無理と考えているようです。塾に通い始めた頃、自分の学校では教えてくれない内容が塾ではおしえてくれるから楽しいし、おもしろいと。また、どうして自分の学校では教えてくれない内容がこんなにも多いのかと。いつも不思議そうに言っていました。自分の学びたい学問を教えてくれる大学に入ること。それは産業として国益にはつながらないかもしれませんが国立大学で自分の興味のある分野を突き詰めること。そんな子供たちの夢をつぶさないで下さい。他の子供たちの中にも、同じようなことを言っている子が大勢います。公立の小・中・高から学ぶべきことを奪って今度は国立大学からも奪おうとしているのではないでしょうか?
 もし、大学が国によって法人化されたならば、国益を最優先する学問のみにお金が使われ、中期・長期計画というような枠の中では、国益になるかどうかわからない学問に興味を持った子供たちはきりすてられてしまうのでしょうか?企業のように利益を追求する団体の中においては、最優先事項だと思いますが、学問において、この論理をあてはめるのは、絶対危険です。もし、学びたい学問によって、学ぶ為にかかる
学費が高額になれば 学ぶこと自体をあきらめなければなりません。子供たちの未来にとって、こんな残酷なことはありません。日本の未来とってもマイナスであると思われます。また、私たちが収めている税金をなぜ、天下り文部官僚の理事・幹事職の給与にあてなければならないのか。現在その職種がなくても国立大学の運営にはなんら支障がないのですから、その分の予算を研究費・開発費に回してあげたほうがよ
ほど子供たちのためになると考えます。
 私たちのような地方に住んでいる小市民が国に対して意見を言えることなんてないと思っていました。声にならない声がたくさんあることと思います。今回の意見広告を見るまでは国会でこんなことが審議されているなんて知る由もなく・・・。知らなかったというのは、おそろしいことです。意見広告を出していただき有難う御座いました。影ながら支援致します。どうぞ、法案反対にご尽力下さいますようお願い致し
ます。

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以下についても、よろしくお願い申しあげます。
会期延長による更なる長期戦の可能性もございます。
新たな手段を講じなくてはいけないかも知れません。
是非とも、ご支援をよろしくお願い申しあげます。
国会情勢は、至急お知り合いなどにお流し下さいますよう。

*第3次「意見広告」について
 掲載紙 6月10日「読売新聞」朝刊 東京本社版 全面。
     エリア 中部・北陸地方以東
    *関西地区以西の方には、ただちには御覧になってはいただけません。
     申し訳ありませんが、ご了承をお願い申しあげます。
     これらの地区の3次賛同申し込みの方々には、掲載紙をお送り致します。
       
*本日ホームページへの貼り付けを完了しております。
         
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今回の意見広告(読売新聞東日本版)には、1000万円を超える費用がかかっております。
そのため、一市民に過ぎない一部の「呼びかけ人」の高額の資金提供によって基金を準備しています。
また、相当数の賛同者の方々からご支援をいただいております。
少しでも負担を軽くする意味で、どうか皆様の浄財をご提供下さいますよう、お願い申しあげます。

どうぞ、改めてご賛同の上、御拠金をお願い申しあげます

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2003612日 「産学」より「市民」より、学生のことをまず考えて欲しい、学生セミナーハウスを学内に建設して欲しい、との意見が出された。「井戸端」への投稿であるとはいえ、若干あらっぽい文章で気になるが、ともあれ、それに対して、以下のように投稿し、私なりの考えを示した。

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何が、産学だ、何が市民だ。
まずは、学生だろ。OB(ほとんどが商学部)が出した金なんだから学生用の建物に使えよ。
中央の経済学部は、各ゼミが自分のゼミ室持ってるんだぜ。
もちろん事務室や理科の実験室みたいにクーラー付きで作ってくれよ。

http://www.econ.tamacc.chuo-u.ac.jp/html/gakubuguide/zemi.pdf


 

本校舎にクーラーを! 商2年 - 2003/06/11(Wed) 23:00 No.375

 

 

 

 

 

 

つうかまず本校舎にクーラー入れて下さい!
前期試験は蒸し風呂です!

 

 


 

ゼミ室充実はきちんと政策化すべきこと 永岑三千輝 - 2003/06/12(Thu) 09:59 No.376

  HomePage

 

 

 

 

 

 

ゼミ室充実はきちんと政策化すべきこと

 厳しいご指摘です。
 理科の実験室に当るのは、商学部ではゼミ室でしょうね。
 そのゼミ室が、きちんと一ゼミ一室あれば、それはすばらしいでしょうね(アトホームな関係の構築、相互の信頼関係などからすれば、1ゼミ1室が原則ですね。管理などの責任問題があるでしょうが、最低限、コース別くらいには欲しいですね)。ゼミ室には、理科の実験室とおなじようにクーラーもつけて欲しいというのは、よく理解できます。
 私ははじめて、中央の上記ページをクリックして、見て驚きました。少人数教育、その実現の場としての1ゼミ1ゼミ室、いっていることとやっていることが対応していますね。上記情報は非常にインパクト・説得力があります。
 ただ、私が納得してもしょうがないので、問題は学長・大学執行部であり、その関内に対する説明力(説明のための情報収集力)でしょうね。 
 そうした点で、大学事務局の熟練・経験の蓄積・情報の蓄積が必要でしょうね。その気になれば、中央大学まで出かけて、現場調査をしてみればいいですね。行動力も必要ですね。


 もちろん、大講義室のクーラー設置も必要ですね。これはたしか2年ほど前、事務局も理解を示し、関内に持っていき、市長決済までがんばったはずです。ただ、そのときは、市立の小中高の設備水準との関係で認められなかったかに聞いています。こんな情報もキチンと学生諸君には知らされていないでしょうね。
 大学改革論議から学生が「排除」されていることと同じ問題があります。
 ゼミ室の充実ということであれば、大学独自の施設であり、その気になれば、説得可能でしょうね。目の前にいる学生を思いやる気持ち、大学内の学生の勉学施設を充実しようという熱意の問題でしょう。
 2年くらいで転々としていく人(そのために上の目が気になるタイプの人人事システムからしてそうならざるを得ない)に、長期的な粘り強い構想・情報の蓄積は期待できるでしょうか? 
 長期的に腰を落ち着けて学生・院生と接触しているのは教員ですが、教員の予算に関する発言力はどうなっていますか?
 一楽先生がご指摘のように、学則では評議会の審議事項に「予算の見積もり」という項目があるのですが、一度も審議されたことはないということです。
 私が、評議会審議規則が無視されていると指摘してからでももう何年にもなりますが、「教員は商品だ」、「商品は口出しするな」と某「辣腕」事務局責任者が単刀直入に現状をそのまま吐露していたくらいですから、実際のことは、少なくとも多くの教員はご存知の通りでしょう。
 今回の「産学連携センター」は、教員に相談があったでしょうか?評議会で議論されたでしょうか?
 一楽先生が問題にしているのはまさにその根本的なことです。事務局が「理解」すれば、実現できる。事務局が「理解」しなければ、実現できない。その事務局のメンタリティは? 沈黙の評議員のメンタリティは? それらはなぜ現状のようになっているのか?
 「ゼミ室充実を」という意見は、商学部教授会では何度も出された意見です。それがなぜ実現しないのでしょうか?
 この問題を考える必要があると思います。

 

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2003611(2) 一楽先生の御意見「議論の広場」No.286産学連携センターを市民科学センターに」に関連して、次のものを投稿(No.287)

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市民科学センターこそ創設すべき!

 75周年記念事業は、数年前に募金に応じた頃には、学生のためのセミナーハウス建設でした。多くの大学が学生のセミナーハウスをすでにいくつか持っており、本学の学生はそれを持っていないので、この点でもかわいそうだという感じがしておりましたので、セミナーハウス建設は素直に同意できたものでした。
 ところが、今回の計画では、ご指摘のように「産学連携センター」となってしまっています。大学の研究教育の享受者である学生が合宿などで重要な場となる学生のセミナーハウスのことはどうなったのでしょうか?
 
 その問題点はさておくとしても、75周年記念学内施設の名称は、一楽先生ご提案のように「市民科学センター」が最もふさわしいと思います。
 産学の連携が市民科学のなかにあって当然いいのですが、設置主体=市民の大学の記念事業としては、広く市民一般に重大な関心のある問題を大学各学部のスタッフとともに研究するということが大切であり、ご提案に賛成です。
 「産学」だけでは狭すぎると思います。

 次の問題点は、一楽先生ご指摘のようにこうした重要な問題が評議会できちんと議論されていないと言うことです。ハコモノを作る前提としての理念や構想こそは評議会(その前提としての教授会)で議論しておくべき問題です。

 大学改革についても、同じことがあります。
 学生が行ったアンケート調査結果によれば、回答した圧倒的多数の学生が大学改革に関する説明が大学からはないとしています。事実公式の説明は学生に対して一度も行われていないのではないでしょうか。
 学部がなくなってしまえば、就職などに決定的に不利になるといった学生の不安は重要です。大学を希望する高校生などにも重大な影響を与えると多くの教員が指摘しています。

 先日の「市民の夕べ」で国大の北川教授がおっしゃっていたように、文部科学省に国大の「教養学部」案を持っていったら「成功しているのは東大だけですよ」と一笑に付されたといっていました(正確な講演内容はいずれテープを起こしたが出るでしょう)。全学検討委員会は、このような学内外の意見を十分に検討しているでしょうか?

 これまでの大学改革検討案は、「学府・院」構想にしても言葉だけが先行し内容が不明確な上に(大学設置基準に合致しないものだというのは多くの関係者すら発言していましたが)、「あり方懇談会」(その答申)の圧力に押された側面がつよく、学生や市民の要望や意識を調査し、構想に組み入れたものではありません。

 現在どのような案を全学検討委員会(その幹事会)が検討しているのかわれわれ普通の教員にも分かりませんが、「市民の観点」に立つと言うときの「市民」が学生とともに、不在であるという点も大きな問題でしょう

 

 

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2003611(1) 国立大学法人法案のいい加減さ(中期目標・中期計画等の作成に関わる干渉)の問題が、明らかになって国会は紛糾している。法案成立以前にこのような細かな行政的統制を可能にする中期目標・中期計画などの作成が義務付けられ、文部科学大臣の承認を得なければならないとなると、大学の自由な研究はだめになり、大学教員の大切な研究教育時間のなかから無駄な膨大な時間が、中期目標・中期計画の作成につぎ込まれることになる。

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「法人法案」意見広告賛同者の皆様
最新の情報です。転送させていただきます。
          「法人法案」事務局
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末尾に、本日の文教科学委員会の模様を伝える「法人化反対連絡会」のニュースを転送します。櫻井議員の追及は、当該文書「国立大学法人(仮称)の中期目標・中期計画の項目等について()(平成1412月文部科学省)が、きわめて詳細な規定を書き込むよう指示していること、この文書はこれまでの文科省の答弁と完全に矛盾すること、この文書が法案の与党審査よりはるか前に出されていることから、野党だけでなく与党を含めて、立法府をないがしろにし、行政を優先させるものであること、などに関するものでした。

 
驚くべきは、文部科学省が、委員会中断を収拾するために、同文書の大学からの回収を提案してきたことです。この提案は、これに費されてきた厖大な労力と時間を無にするものであること(私自身、何度も書かされています)、言葉を換えれば、一度の国会質問でくつがえるような根拠のないものであったこと、中期目標・中期計画という制度の根幹について、文科省がまったく理解していないこと、などを示すものです。
 
この問題がどう収拾されるか、注視したいと思います。

 
なお、本日の国大協総会で会長佐々木毅(東京大学)、副会長石弘光(一橋大学)、副会長梶山千里(九州大学)という新執行部が決定したと聞いています
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610日文教科学委員会】
 審議中断のまま散会 文科省答弁の信頼性のなさ露わに

 本日の委員会では5党派6名が質疑に立つ予定でしたが、3人目の櫻井議員(民主)の質疑中、審議が中断しました
 櫻井議員は、文科省が昨年12月に各大学へ配布した中期目標・中期計画についての指示文書(「未定稿」)を取り上げ、「これまで文科省は、中期目標・中期計画は全学的なもので学科や研究室など細部まで定めるものではない、介入・統制につながらないと答弁してきたが、この文書では詳細に作成するよう指示している。答弁とは違うではないか」と追求、紛糾しました。
 審議はそのまま中断、休憩となり、理事懇談会で調整が行われましたが、再開予定時間を2時間以上過ぎても議事が整わず、休憩のまま散会という事態になりました。

 理事懇談会では、「指示文書を回収して全大学に謝罪する」などといった提案もされましたが、野党は納得せず、これ以上質疑はできないと散会になりました。
 衆参を通じて最も大きな論点となってきた根本的な問題に対する答弁と、実際が違うという、国会無視どころか国会愚弄と言わざるを得ない文科省の姿勢が、またもや露呈したといえます。
 これにより、自民が主張している12日採決は難航する見通しとなりました。
 今後の日程は明日11時より開かれる理事懇談会で調整されることになっています

【今後の動き】 12日委員会の傍聴行動を!
 「法人法案」は審議すればするほど様々な問題が露呈しています。法案のもつ構造的欠陥、16年スタートありきの無理なスケジュールなど、いかんともしがたい問題が明らかになったと言えます。

 政府・文科省は当初、衆参各3日ほどの審議で終了、5月中には成立との見通しを立てていましたが、急速に広がる反対世論と運動によって完全に粉砕された格好になっています。

 国会傍聴、文科委員への廃案要請など、取り組みを強めるようお願いします。
 12日の委員会は午前10時から午後4時頃まで行われる見込みです。
 また委員会後に「反対連絡会」緊急集会を行います。傍聴とあわせて参加をお願いします。

 12日16時頃〜 社会文化会館(参議院そば) 3F 第1会議室

 

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200369日 「横浜市立大学および附属2病院の存続・発展を求める市民の夕べ」大盛況・大成功の内に多くの感動を残して終わった(活動報告ダイジェスト版)ことはすばらしい。本学卒業生の荻原氏も当日の井上ひさし講演「都市の中の大学」要旨(エッセイ299)をまとめて公開されている。

この井上ひさし氏の基調講演をはじめ、柳澤悠氏の話(3学部解体などということを強行したら取り返しがつかなくなる)、小林貞雄さんの生き生きとした花の絵で分かりやすく発展構想をしめした具体的提言、そして、八二歳の元市議会議長大久保氏の迫力ある1955年頃の大学存続運動説明、その他市民の意見表明など、すべてが私には有意義で、心温まる内容だった。

「市民の夕べ」は、大学を維持発展させる主体としての市民、大学人(本学および国大や地域の諸大学)、そして議会、行政当局のそれぞれの責任を改めて問いなおすものとなった。

それにつけても、「市民の会」の「夕べ」で各方面から出される意見に謙虚に耳を傾けようという姿勢は、学長以下大学執行部にはないようだ。これこそが一番の問題だろう。学長はどこから学生や市民や卒業生、その他の改革に対する要望を把握するのだろうか?「全学検討委員会」では、「市民の視点」を掲げているが、その市民とは一体どこの誰か?

ともあれ、教員は「命をかけて下さい」、「商学部教授会はしっかり教授会決議をあげてください」などという市民の痛切な訴えがずしんと重くのしかかった。市民が求めているものは何か? よくよく深く広く気持ちを開いて、熟慮検討する必要があろう。

 

とりわけ重要だと思ったのは、学生諸君の動向で、1200枚のアンケートを配り、3学部統合や学費値上げなどについて質問した、その結果の報告である。四五〇名(その回収アンケート用紙の束をかかげながらの有志発言だった)もが自発的に回答を寄せたようで、この回収率の高さは、相当なものである。しかも、3学部解体・国際教養学部への統合案には、84.3%の学生が反対であり、「学費値上げによる収支バランス」の主張(学長・怪文書の「基本的考え方」)に関しても72.5%ほどの学生が反対という結果だとのことである(正確なアンケート内容と結果は「市民の会」のページに公開)。

その結果は、私が、「市民の会」の「市議会議員アンケート」を二つのクラスで行った結果と合致する(教養ゼミ・アンケート、西洋経済史・アンケート)。

「あり方懇談会」、それをお膳立てした「辣腕」事務局、そのバックにあると思われる新自由主義的路線の主導者たちは、この学生の反対意識をきちんと見据えなければならない。

また、「あり方懇」路線にいつのまにか押されて内実的に屈服した形ばかりの改革構想を捻出している人々も、今一度、大学の歴史をじっくり振り返り、また現在の学生や卒業生の意識をしっかりかみ締めなおす必要があろう。

「市民の会」も市民に対するアンケートを行うとか。どのようなことを市大に期待しているのか。多くの市民に話しかけ、要望や期待をかいてもらうならば、すばらしいのではないか?

その前に、「市大に期待すること」「市大への要望」といったことを市民の会に投稿してもらうのはどうだろうか?

-----------この発想から、「市民の会」「議論の広場」に投稿No.279---------------

「市民の夕べ」の成功を跳躍点に市民の大学への希望を集める改革提言箱の設置は?

 行政当局のアンケートが予定されているが、大変な予算をかけながら、質問対象者は一面的になることは十分予想される。うわさでは、一部企業に対してのみの調査だとか。
 学生アンケートも学生主導で行われたようであり、3学部解体縮小・統合に、回答者の8割以上の学生が反対だそうである。
 井上ひさし氏の強調していた市民のニーズと大学の関係だが、やはり市民に、大学に対してどのような希望や要望をもっているかを述べてもらうことは大切だろう。
 「市民の会」の「ご意見箱」の新しい箱として、「市民からの大学への要望」、「市民の求める学部・学科」、「市民の改革提言」といった箱を創設するのはどうだろうか? 

 こうした箱も議論の場になってしまうかもしれないが、主たる内容を改革提言に絞ってもらうのである。提言集だけを載せることにし、議論が投稿されれば、管理人責任で、「議論の場」や「井戸端」(匿名の場合)に移してもらえばいいのではないか。
 「市民の会」として大々的なアンケートを行うことも予定されているかにうかがっているが、ただちに可能な「提言箱」設置も、市民の希望や要望を知る上では、意味があるのではないか?
 大学と市民が結びつきを広げる上で、「市民の会」の意義は大きいと思われる。精神的連帯の構築が重要である。
 すでに、「議論の広場」や「井戸端」では、小林貞雄さんの提言のほか、法学部、薬学部などの提言があった

 「市民の夕べ」では、井上ひさし氏が、人間にとっての余暇・自由時間の過ごし方の大切さを指摘され、演劇の重要性を強調された。国公立大学で最初に演劇科・演劇学部などを作るべきだ、文化関係の学部・学科をこそ発展させるべきだ、と。
 横浜国大の北川教授からは、文部科学省による国大教育人間科学部取り潰し(東京学芸大学との統合)に対する闘いの報告があった。800万人神奈川県民がいるところに、なぜ教員養成の学部=教育人間科学部が必要でないのか?

 少子化の時代とはいえ、次の時代をになう教育にこそもっともっと力を注ぐべきであり、地域に根ざした教育人間科学の学部が神奈川県にあって当然である。神奈川県民、横浜市民は、教育学部を取り潰そうとする文部科学省のやり方に反対し、大きな運動になり、当面、文部科学省は統合案を後ろに引っ込めている段階のようである。市民はこの問題に深く関心を持ち、地域密着型・地域貢献型教育学部の一方的な統合案には怒りの声をあげる必要があろう。
 北川教授は、国大に医学部がなく、市大には工学部や教育学部がない、国大と市大を合わせて有機的に連携すれば、総合大として完成する、「十年-二〇年かけて、横浜総合大学を創設しよう」と提言した。
 いずれも私は非常に貴重な意見だと感じた。大学に求めるものがなにかを具体的に示していると考える。
 こうした建設的提言だけを一覧できるように、ひとまとめにしておく作業はどうしても必要だろう。

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200367日 一昨日の教授会では、「市長からのメッセージ」や「全学改革検討委員会」のメンバー表など、すでに大学HPなどで公表されている資料外配布された。検討委員会文書(「基本的考え方」)が、事務局作成のものであり、その諸箇条が学則規定に違反するの出はないか、と指摘された。また、委員の平均年齢が高く、数年で大学を去るような人が中心に真剣な検討が行えるのか、という指摘もあった。また、総ざんげ的な文章表現の箇所については、評議員全員が辞職すべき内容だとの厳しい指摘もあった。学部長は、ちらっとひとこと「学府・院構想で行くという線で一致している」と発言したが、その意味内容についてはきちんとした説明がなかった。学科会などで議論したときにも、また他学部の人の話でも、「学府・院」の内容理解がまちまちで、構想の理念もはっきりせず、それぞれの学部や学科が自分の利害に合わせて「学府・院」構想を解釈してくるのが実情であった。

市民、市議会、市長(行政当局)が納得しうるような「改学」の発展的な構想であるかどうか、市当局がどのていどしっかり肩入れする予定のものか?

おそらくは「学府・院」構想の中身自体がまだ煮詰まっていない、ということを意味するのだろう[26]。したがって、学部長や評議員からの趣旨説明やきちんとした正面からの問題提起はないまま、上のひとことで終わってしまった。

「市民の会」の決起集会や、市当局が行うというシンポジウムやアンケートの結果待ち、ということなのだろうか。それならば、「全学検討委員会」はまた「受動的」であるということになるが。

市当局(関内)が行うシンポジウムやアンケートに関しては、その操作性・意図性に対する深刻な危惧が指摘された。

行政当局の意図に沿った人物とアンケートが行われれば、「あり方懇」と同じように、結論は、3学部解体・縮小、学費値上げ、独立行政法人化(法案も成立していないのに!また法案を検討もしていないのに!)、任期制などが出てくるであろう、と。

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200366(2) 佐藤真彦先生のHPをみて、早稲田大学政経学部教授長谷川真理子「学問殺す国立大学法人化」『朝日新聞』6月一日付を見つけた。新聞で読んで感動したものだが、まだ読んでいない人のために、ここにリンクを張らせていただこう。

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200366日 昨日は定例教授会。二つほど記録に留めておこう。

ひとつは、入試広報関係の仕事に教員がどのように関わるかが問題となった。各種受験予備校(民間営利企業)主催のセミナーに出席することの妥当性をめぐる議論である。受験予備校は非常にたくさんあるが特定の大手予備校・大手新聞社などのセミナーだけに「出店無料だから」と参加するというのはいかがなものか、など疑問点は多い。武道館を利用した巨大な受験案内の催しも、主として私立大学が自分の宣伝費を出して行うものであり、国公立大学は例外的にしか参加していない。私立大学志向の受験生と国公立志向の受験生とではちがいがある(受験科目等の関係で最初から関心外)ので、市大のガイダンスデスクに訪れる受験生はきわめてわずかである。

国公立大学の使命は、私立大学とそのような宣伝面でおなじ土俵で競争するのではなく、むしろ血税に支えられた研究教育機関として、本務である研究教育面で質の水準とその向上、大学評価の水準とその向上などをつうじてこそ、社会的承認を得てきたのであり、その研究教育の質という基本スタンスを忘れるべきではないだろう。教員の仕事の時間的配分をめぐっては、広報宣伝活動など学問の研究教育とは違った仕事への配分との間で、ぎりぎりの緊張関係があるとみなければならない。

全教員がその研究成果を新聞や種々の雑誌(学術的非学術的各種)で、あるいは大学のHP等で公開し、全国どこからでも本学の教員に付いて知ることができるようにするなど、教員がみずからの専門を生かした専門研究内容の啓蒙活動としての大学の広報宣伝活動は、十分にありうるだろう[27]。それは今後ますます豊かに行うべきだろう。

いままでやってきたから、と安易に、十分な効果のことも考えずに民間営利企業ガイダンスに参加しつづけるのは、この本当に大切なことに目を閉じることを意味しないか? 商学部の昨年度の決定は、そのような問題提起をはらんでいる。

私立大学とおなじ土俵で宣伝活動をやる(やらなければならない)と浮き足立つこと自体、国公立大学の存立意義を忘れ、すでに「民営化」された発想ではないか。そんなことを設置主体である横浜市民は望んでいるのか?アメリカは州立大学が8割かなにかの学生を抱えているという。州立大学も宣伝活動をやっているのであろうか? ご存知の方に教えていただきたい。

民間営利事業会社のガイダンス・セミナーに、毎年のように各種委員割り当てで選ばれてきた教員が、他学部のシステムなどをよく知らないままで交代で全学を代表してセミナーやガイダンスに出向き説明するというのでは、受験生に十分な説明ができないことも多い。労多くして効果は少ないといわなければならない。

私立大学の多くは専門の熟練した入試広報課員が対応している。本学もせっかく入試課を創設したのであり、全学的見地でそのような事務局としての経験の蓄積で受験生の質問などにも答えるべきだろうという声は教授会で強いものだった。入試課をそのような意味と課題で発展させるべきだ。

民間営利事業主催のガイサンスなどの催し物で市大のことを知った入学生は、学生アンケートによれば非常に少ない。私立大学中心の大規模ガイダンスでわざわざ公立大学のことに関心を持って立ち寄る学生は非常に少ない。

むしろ、パンフレットの大学案内や予備校の指導、インターネットの大学案内などが重要な大学認知の手段になっている。大学案内をできるだけたくさんの予備校に発送することなどの方が効果があるのではないか(費用対効果の検討)。そして、インターネットなどを通じる大学の研究教育の紹介・公開こそは、全国からアクセスが可能なものであり、これこそ充実すべきだろう。

ともあれ、商学部は昨年教授会で、「商学部としては今後、基本的に民間営利企業主催のセミナーには出席しない」と確認した(200252日「ミニ・オープンスクール開催=負担増に伴う負担軽減措置」:入試委員会・入試委員長文書・教授会配布承認文書)。

ただ、国際文化学部など他学部の動向などもあり、今年度は、管理職(評議員)である「入試委員長が一回だけ」、商学部希望の受験者が多そうなセミナー(ガイダンス)に参加するということが委員長の申し出もあって例外的に認められた。

教授会の議論で強調され確認されたように、今年度、事務組織再編で学部事務室もなくなり、さまざまの事務的仕事が昨年以上に増え研究教育という教員の本務遂行の上で種々の圧迫が増えており、教員の利用可能時間を考えると、安易な妥協は許されない、ということである[28]

 

もうひとつは、割愛願いが出たことである。昨年度は早稲田大学大学院と中央大学文学部から割愛願いが出て承認された。今回は、東京都立大学法学部からの割愛願いであった。このところ各大学がロースクール創設に必死になっており、その余波が多くの大学の法学部・法学関係者を直撃しているということである。しかるべき大学・学部から割愛願いが出ること、それは本人がそれを承諾しよりよい研究教育環境を求めて出ていくことを意味し、また本人の業績がそれだけ「社会的学界的に」(その意味合いはいろいろあろうが)認められていること、相手大学がしかるべき業績審査で外部評価を行いパスしたことを証明するものでもある。外地留学者に対する帰国後在籍期間の義務化(明文化)などが行われた後でもあり、「経営的視点」を打ち出した事務局がどのような反応を示すのか、いくつかの論点をクリアしておくべきであり、若干の議論があった。結論的には教授会としてはまったく異論なく承認。ただちに、後任人事の作業に入ることになった。

現在の本学の状況 (すなわち落ち着いて研究教育に専念できない現状)から考えると、さまざまのリクルートのターゲットになることは十分考えられるであろう。いままで以上に多くの教員が潜在的には脱出願望をもつようになっているであろう。市当局、大学事務局は、そのあたりのことをよく考えるべきであろう。

昨年度の戦略会議、そして「あり方懇」では、「任期制」など不安定雇用を提案し、「そんなことをすればますますいい人が逃げ出しますよ」という意見に対し、ある事務局責任者は、「それで結構。全部入れ替わってもいい」などと豪語したということである。その現場にいたわけではないが、十分ありうると思わせるところに問題があろう。またある大学教学責任者は、「任期制があると若手は勉強するんですよね」と会議で発言し、私が直接耳にしたかぎりでも、「不況でいくらでもいい人が来ますよ」といっていた。

競争的環境でできるだけよい研究を行うのは、大学教員の本務であろう。しかし、研究者における競争とはなにか? 

教員の研究には学界の批判がある。批判こそが研究における推進力であり、それこそ研究内在的なものではなかろうか[29]

昨日の日誌にも触れた浅島氏は、「自然の神秘が面白くて研究に没頭した」とどこかに書いていたが、このような自然(動物)対象と学問に内在的な動機を軸にしながら学界の水準をフォローし批判しつつ研究してこなかった人は、外在的な鞭と恐怖の圧力下で研究を続けてきたということだろうか。外在的精神的束縛を受けた、その意味で不自由な人の研究、そのような人の業績は、ほんとうはどんな水準のものか?

 

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200365日 東大総合文化研究科長・教養学部長浅島教授から、総合理学研究科・佐藤真彦先生あてご返事があり、その一部「市民の会」に関わるところを教えていただいた。

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ご返事よれば、「国立大学法人化にしても、『市大のあり方懇』にしても日本の学問や大学が壊れていくことに大変、心配しています。長い間かかってきて育てあげてきたものが、この数年で次々と壊れていく現実をみると、ここで何とかしなければならないと思っています。」と。

 

まさに連帯のメッセージである。

ただ、6月7日は先約(動物学会理事会+学内の法人化問題に関する委員会・委員長浅島氏)があり,『大変残念ですが、先約があるため欠席いたします。お互いによい大学づくりのために頑張りましょう。』と。

ご多忙だろうとは思っていたが、「法人化問題」で東大駒場の叡智を集めて、ご奮闘いただくであろうから、すばらしい。

 

浅島教授には、東大で多いにがんばっていただき、少しでも「国立大学法人」法案の問題性が多くの人の目にとまるように、そして廃案の運動が盛り上がるように、それがかなわなくても、法案修正で問題性が少なくなくなるように、また、仮に一部修正で法案が通っても、その法律のもとで最大限大学の自治や学問の自由が発揮されるようなシステム構築に、ご奮闘いただくよう期待しよう。われわれもその一端に連なることにしよう。

 

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200363日 67日の市民集会が近づき、市民・学生・卒業生・現役OB教職員の関心も高まってきているようである。自分(市民として、学生として、卒業生として、現役とOBの教職員などとしての自分)の大学を発展させよう、どのように発展させたらいいか叡智を集めよう、これが「市民の会」に結集している人の最大公約数の気持ちだろう。

先日も、関内と関係が深く、重要人物といろいろパイプを持っているある人が、「関内でもいつになく大学に関心が寄せられている」と話していた。市当局(行政当局)も、大学に対しどのようなスタンスと政策で臨むのか、問われているのであり、大学改革問題への関心の高まりは当然である。

これとも関連するだろうが、「井戸端」では、「市民の会」に結集している教員諸個人と日本社会の政治諸潮流・宗教的諸潮流との関係が「噂話」や「議論」、「推論」の話題となり、「市民の会」に参加し関心を持っている人の政治意識やイデオロギーの広がり・多様性が浮かび上がる意見交換が行われている。

「市民の会」としては、参加者個々人の考え方や行動がどうあれ(それは個々人の自由であって、諸個人それぞれの具体的問題関心から様々の政治的思想的潮流とそれぞれの問題に応じて共通項やその時々の意見の一致や連帯関係を持つことは当然であり不思議ではない[30])、上記のような「市民の会」としての一致点、すなわち、75年の伝統と発展の歴史を持つ大学をこの財政難の時代においてなお、21世紀全体を見渡すぐらいの目線の高さと視野の広さ「市民の会」声明文運動方針を参照されたい)から、どのようにして維持発展させるべきかを考える、という基本的スタンスで可能な限りの総力を結集しようとしているのであり、その基本的スタンスこそ大切にすべきだろう。また、たとえどのような政治的潮流・宗教的潮流であれ、市大の三学部の解体縮小に反対し、市大の維持発展のために貢献しようとしてくださる人々すべてを「市民の会」は大歓迎する態度だと信じる。その貢献度に応じて感謝し、大学発展という基本精神での連帯の気持ちを強めるだろう。

75年間、経済事情が悪いときにも、国家からの補助が十分でないにしても、また東京のベッドタウンという性格からして財政収入の点で不利であっても、何とか耐えて、市民が維持し発展させてきた本学を、いっそう発展させよう[31]ではないか、それだけの価値がある、それだけの蓄積・実績がある、ここに「市民の会」に結集した人々の共通の思いがあるだろう。この輪を広げ、連帯を強いものにしていこう、これがわたしの理解する運動方針である(各人、上の「市民の会」の声明文や運動方針、長谷川会長のメッセージなどを見ていただきたい)

この基本的スタンスにおいて一致でき、市大の発展にいくぶんなりとも貢献できるならば、「横浜市大を考える市民の会」のひとつの重要な目的は達成されるであろう。

 

「井戸端」の投稿ニュースNo.243では、66日に東大で国立大学法人法案を考える大集会が行われるようである。参加してみたい気持ちはあるが、時間的にちょっと無理。誰か参加されたら報告を聴きたい。おそらく独立行政法人化反対首都圏ネットワークなどに報告も出ることだろうから、それを読むことにしよう。ここまで書いて、念の為に関連記事が出ているかと上記ネットワークにアクセスしてみた。確かにそれは出ていた。6・6国立大学の法人化を考える夕べ

だがそれより前に、偶然にも、浅島誠の名前が飛びこんできた。

浅島教授こそは、日本の最先端を行く世界的業績を上げた研究者として著名な方であり、その著名な業績こそ、「金はないが自由だ」とされた横浜市立大学に在籍中に十数年かけて成し遂げた発見によるものであった。浅島氏はその世界的業績をもって東大に移られた。市大が誇るべきOB教員だ[32]

この浅島誠氏が現在は、東大総合文化研究科長・教養学部長をなさっているのだ。その浅島教授が研究科長として発表した国立大学法人法案の批判をコピーしておこう(下記、枠内を参照)

「市民の会」に結集している教員の方で誰か浅島教授とコンタクトを持ちつづけている人(あるいは連絡が可能な人)はいないのだろうか?[33] かつて十数年間在籍した本学の重大危機、存亡の危機(その脅かし[34])、三学部の解体・縮小かそれとも発展かの重要な時期だけに、是非とも「市民の会」の67日の集会にも参加してもらいたいものだ[35]

 

なお、上記ネットワーク情報によれば、参議院の議論で民主党の鈴木議員が「法人法案批判」の鋭い意見を表明している。本学小川学長や中田市長は、このような法案として提出された「国立大学法人」なるものをみずから十分検討したうえで、「独立行政法人化を踏まえて」改革を進めるとか、「独立行政法人化だけは実現を」とかいっているのであろうか?

民主党鈴木寛議員のいうように、「今回の国立大学改革についても、当初、政府からは、国立大学に対して独立の法人格が付与され、より自律的で機動的な運営が確保されるようになりますとか、事前規制ではなく第三者評価導入による事後チェック方式に移行しますといった方針が説明されていましたので、私も、「知の時代」の主役である大学の発展にとって、有意義な第一歩となると期待しておりました。ところが、法案をみて、期待完全に裏切られました
 大学ごとに法人格は付与されるものの、自律的運営や事後チェック・第三者評価とは逆行し、霞ヶ関による大学自治への介入を推し進める内容となっています。即ち、各大学の中期目標は文部科学省が定め、財務省にまで協議することになっています。財務省は、いずれにしても、毎年の予算編成で、予算査定をするわけですから、それに加えて、6年間にわたる中期目標や中期計画を事前に口出しするいわれは全くありません。予算単年度主義のなかで、将来の予算をコミットできるわけでもないですし、目標や計画が、予算制約によってはじめからシュリンクした内容になってしまいます。・・」

 

「独立行政法人」という名称だけを見て、勝手な思い込みをしていないか?

法案準備過程で議論された前宣伝だけを信じてはいないか?

「法案をみて、期待完全に裏切られました」という民主党議員がいるということ自体、ご存知か?

法案によって大学がどのようになるのか、じっくり検討したうえで、学長や市長として責任ある発言や態度を示されるよう期待するものである。また、われわれ大学人も、そのような検討をしなければならないだろう。

 

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独行法反対首都圏ネットワーク

東京大学総合文化研究科の意見
  平成15526 大学院総合文化研究科長・教養学部長
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http://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/hojinka-iken-j.html
(大学公式HPでの意見公開!!)

 
浅島誠大学院総合文化研究科長・教養学部長は527日の学部長会議において、以下の報告をいたしました。
 
「国立大学法人法案」について東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授会で表明された意見について 東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授会は、現在国会で審議中の「国立大学法人法案」について、4月24日および5月22日に討議を行いましたが、その際教授会構成員の多くから、教育・研究の責任を担う者として、主として以下の点をめぐり同法案に対して強い懸念が表明されました。
 
1) 教育・研究にかかわる「中期目標」の最終決定権が文部科学大臣にあり、教育・研究についての知的資源を保持している大学自身が「中期目標」を自主的に決定できる形になっていない点。

2) 学長の選考が、学長自身の指名する学外者を多く含む「学長選考会議」で行われることになっており、教育・研究の現場の意見を直接反映する選考方法になっていない点。
3) 教授会など大学本来の任務である教育・研究を教員が自律的に担う制度の尊重についての言及がなく、経営が教育・研究の質の保持や向上を第一の目標として行われるべきであることが示されていない点。
4) 経営面が重視されることによって、利益や応用に直結しない基礎的研究が軽視される懸念がある点。
5) 社会からの公正な大学評価が行われる上で、「国立大学法人評価委員会」が文部科学省に設置されるという仕組みの妥当性に問題がある点。
 さらに、法人化に伴って適用される労働基準法、労働安全衛生法等に適合する体制が準備できていない点についても懸念が表明されました。

私は、大学院総合文化研究科長・教養学部長として、以上の教授会の意見を重く受け止めましたので、ここに報告いたします。

        
平成15526日 大学院総合文化研究科長・教養学部長 浅島 誠

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200362日 わが大学の運命も左右することになる国立大学法人法案に関して、参議院における審議の段階ではあるが、廃案・修正を目指した運動が展開しつつある。総合理学研究科・佐藤真彦先生のHP佐賀大学の豊島耕一教授の講演(515日、東大駒場)が出ていた。すばらしい内容なので、ここにもリンクを張らせていただこう。



[1] 自律・自主の尊重が法文で明確に規定され、保障されなければならない。

 その点で、現在の法案は、むしろ前代未聞、世界初の「官僚統制」の強化の見本ではないか、というのが指摘されている問題点である。

 羊頭狗肉、換骨奪胎、ということである。

 

[2] 一体、衆議院で採決されるまでに何時間議論されたのか?

 参議院の文教委員会で一体何時間議論されたのか?

 議員の数の論理で押し切ろうとしているだけでは、内容のある「審議」はまったく詰められていないというのが実態だろう。

 ニュージーランドの新自由主義的改革のように、国民、各地域の県民が知らないうちに法律をとうそうとしてるのが現在のやり方である。

 

 

[3] 市直営形態の市大が、学則の評議会審議事項(「予算の見積もり」)という規定を一貫して無視してきた実態とその根拠をよく考えてみる必要がある。

 

[4][4] いかなる学問分野(自然科学、医学や理学、人文科学)であろうと学問を志し、能力さえあれば、厳しいハードル(受験)を通過しさえすれば、たとえ親に資力がなくとも、能力を開花させる事が出きる、親の経済力、地域の経済格差にかかわりなく(国公立大学は全国にできるだけ多くのチャンスを与えるように各地域になければならない、授業料だけではなく生活費負担が勉学チャンスをめぐる競争の阻害要因となる)、チャレンジの機会を与えよう、個々人の能力の前に機会は均等にしよう、能力させあれば勉学=能力開発のチャンスは与えよう、個々人間の能力の優劣をめぐる自由競争はいくらでもやってください=合格のハードルは高く厳しい=能力の高い個人が選ばれるというのが公教育における機会均等の原則である。

その「個々人の能力の開花=社会・地域・世界への貢献」によって、国民は報われる、血税は報われるというのが国公立大学の理念である。

 「安い授業料」、学問分野を問わず一律の授業料というのは、公的大学の理念と使命の実現である。

これは、「あり方懇」の市場主義的理念とは逆の理念である。

 

日本全国にたくさんの私立大学があることから考え、全国民的経済力との関係で効率孤の悪い分野にこそ、公的資金を投じなければならない。

高度科学技術の発達という現代社会の段階からすれば、大学院における高度科学研究こそ公的大学がもっともっと力を入れるべきであろう。 

 

 

[5] 学長の目が上にばかり言っているようではだめだろう。

 学長が官僚的であり、「お上」に追随するだけの精神構造ではだめだろう。

 学長の選出が、「お上」の意向で左右されるような制度ではだめだろう。

 そのような危険性をはらんだのが現在の「国立大学法人法案」である。

 

[6] 大学の自律・自治と外部からの介入との壮語関係が問題となる。

 学長という権力者を選ぶシステムに外部から半数以上が入ることが、大学の自律自主にとって脅威とならないか? 「法案」の問題点はここにもある。

 

 

[7] 「市民の会」お便りコーナーの投稿の数々、例えば最新の623日に投稿された次の意見:

 

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Date: 2003-06-23 (Mon)

 小生は、あるメーカーで社員教育を担当していました。また、現在も企業の人事担当者と面会することの多い活動をしております。

 経済のグローバル化に伴い、日本の企業で必要とされる人材は、大学院レベルの最先端の高度な専門知識や専門技術を身に付けた人です。特に、ハイテクメーカー間の競争は研究開発競争が中心になり、世界の巨大企業と激しい競争に打ち勝っていかなければ、生存できなくなります。
 資源の乏しい日本で、人々が豊かな生活をしていくためには、単にコストダウンするだけでなく、付加価値の高い製品やサービスを開発していく必要があり、そのために、ますます高度な知的財産を発明・開発していく必要があります。それには、技術系の学生は、大学院の博士課程を履修するくらいでなければなりません。事務系の学生でも、大学院のロースクールやMBAの専門科目を履修する必要が高まります。

 このような状況から勘案しますと、
今回提出された市大の改革案は、時代の要請にまったく逆行するものであります。極論かもしれませんが、教養課程レベルの科目などは、高校普通科に毛が生えたようなもので、独学でも習得できます。ですので、教養課程しかない大学は無用だと存じます。
 横浜市が世界レベルのサッカー競技場やプロ野球用の球場の建設と運営のために資金を出すのも結構ですが、それ以上に
有為な人材育成と世界に誇れる研究のために資金を出すことのほうが大事なことであると存じます。

 話は1959年頃に戻りますが、その頃も横浜市の財政が苦しいとの理由から、市大の合理化案が同市のほうから出されました。それに対して、市大関係者がいろいろと改革・改善に努力され、そのかいがあって、現在の大学まで築き上げてこられた訳です。
横浜市には市大の建学の精神や大学運営のしっかりした理念があるのかどうか疑われます。市の財政がちょっと苦しいからと言って、簡単に廃校や縮小、または質的なレベルダウンをするようなことがあってはならないと存じます。もしそのようなことをしたら、今までの関係者をたましたことになります。このようなことは断じて許せません。

 

[8] 軽軽に「国立大学法人法案」を論ずるより、小柴昌俊氏はじめ、科学の分野創造的な世界的業績を上げた人々の法案に対する意見をできるだけ広く集め、新聞紙上で公開していく、といったことをやるべきであろう。

 

そのいい例(国公私立大学通信 2003.06.20(金)http://ac-net.org/kd/03/620.htmlより引用):

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 6/12 岐阜新聞:小柴さん、国立大法人化に懸念 

http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/wev030619gifusinbunn.html

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岐阜新聞2003612日付

 「基礎科学」置き去りに 小柴さん、国立大法人化に懸念

 一律の評価期間を批判

 

 国会で審議中の国立大法人化について、ノーベル物理学賞受賞の小柴昌俊・東大名誉教授(76)が十一日までに共同通信のインタビューに応じ「法人化されて独立採算となると、四、五年以内に産業への見返りがないような研究は冷や飯を食わざるを得ない。理学部や文学部の仕事はどうなるのか」と強い懸念を示した

 小柴氏は「基礎科学は成果を出すまでに五十年、百年かかることもある。五、六年の期間に利益を出すかどうかですべて処理されたら困る。一律に判定を下すことは考えた方がいい。画一性は時に害を及ぼす」と強調。

 法人化した各大学が、文部科学相が示す期間六年の「中期目標」に沿って研究・教育面などの「中期計画」を立てる仕組みに疑問を示した。

 以前から基礎科学の重要性を訴えてきた小柴氏は「二、三年後にもうけがぶら下がっている研究ではないけれども、中には大きな見返りを出すものもある」と指摘。

 「十九世紀に発見された電子が二十世紀後半にエレクトロニクスという大産業に発展した。こういう例はいくらでもある。科学は対象の魅力や面白さで研究するもの。役に立つ、立たないというスケールだけで処理されたら困る」と話した。

 「見返りがないかもしれない基礎科学は国レベルで支えるしかない景気に関係なく、継続的にサポートすべきだ。人類共通の知的財産を増やすことにつながる」とも。

 小柴氏は基礎科学分野を応援する財団設立に取り組んでおり「ぜひ応援してほしい」と訴えた。

 

[1-1] 国レベルの支援継続を 小柴さん一問一答

 小柴昌俊氏との一問一答は次の通り。

 

国立大法人化はどんな影響があるか

 「独立した法人になると、当然のこととして大学は採算を考えるようになる。短期間で産業に見返りを出せないような研究は冷や飯を食わざるを得ないだろう。理学部や文学部の仕事はどうなるのか」

 

基礎科学はどうか

 「短期間で見返りが出るような研究なら企業が応援することもあるだろうが、基礎科学は成果を出すまでに五十年、百年かかることもある。役に立つ、立たないだけですべて処理されたら困る」

 

各大学を評価する期間は六年だが

 「すべての大学の研究が五、六年の期間に利益のある結果を出すかどうかで処理されたら困る。処理してはいけない分野もあることを認識してもらわないと。一律に同じ時間で判定するという方法は考え直した方がいい。画一性はときに害を及ぼすことがある」

 

文科相が大学の中期目標を決めるが。

 「科学というのは研究対象の面白さで取り組むもの。人類全体の科学知識に貢献できるかで価値が判断される。役に立つか立たないかだけで判断されては困る。アカデミックフリーダム(学問の自由)という言葉があるが、学者たちの判断力やモラルを信頼しなければならない分野がある

 

以前から基礎科学の重要性を訴えてきたが。

 「二、三年先にもうけがぶら下っているような研究ではないが、時には大きな見返りがあるものもある。十九世紀に発見された電子が二十世紀にエレクトロニクスという大変な大産業に発展した。こういう例はいくらでもある。基礎科学は人類共通の知的財産を増やすことにもつながる。景気に関係なく継続的に支えることが必要で、頼むところは国家レベルのサポートしかない」

 

基礎科学を応援する財団の設立に取り組んでいるが。

 「国民的レベルで応援してもらいたい」

 

 

[9] たとえば、地域とのかかわりから見た学生の教育」に関連する「高校から大学への転換期教育を重視する」ということを考えても、それを行うためには、ヒト、モノ、カネが必要となる。従来のままのヒト、モノ、カネでは、すなわち従来どおりの大学の教職員がおなじ施設、おなじ予算で上記の仕事を増やすとすれば、これまで行っていた仕事の量を削る、施設の稼動状態で学生の勉学条件が劣悪化する、と言った影響が出てこよう。

 ヒト、モノ、カネに無頓着な議論は、真の意味での改革に結びつかない。研究教育のい向上をその精神的・人的・物的裏づけとともに考えなければならない。大学人には、その意味での思考の変革が求められているのではなかろうか。

 

[10] 予算決算の情報公開は、その一つの素材となろう。

 また、従業員の作業に関する「自己点検」「自己評価」といった事がない点も気になる。事務局責任者が人員削減を強行しても、職員の事務作業の悪化、学生・院生・教員の研究教育へのサービスの低下は問題ないのか。

学生サービスに関する点で、教員の研究教育支援体制において、この点は必要ではなかろうか? 研究教育体制は、事務を担う従業員の仕事があって成立する以上、その重要要件の社会的評価(学生・教員・市民からの)は問題となろう。

事務局責任者の評価が、どのように行われるべきか、これこそ重大問題だろう。

 

[11] たとえば、佐久市長の200212月の次の講演部分・・・・「そしてもうひとつ、長野県でいちばん医療費が下がる、その要素は何かというと、医師会の自浄作用がものすごく強いところだな、と。私は以前公務員で、転々としておりました。新潟県にもおりました、山形県にもおりました。山形県も、医師会の自浄作用の強いところですね。医療費等に対して非常に敏感なところです。県によって、審査の甘いところもありますよね。長野県がよく医療費が低い、低いっていいますが、その原因のひとつに、医師会の自浄作用がものすごく強い、という感じがいたします。
 だいたい皆さん、審査委員なんかの話を聞いていて、大学病院から出てくるレセプトなんてすごいですよね。1000万円くらいのやつがあるでしょ。だいたい1週間に毎日レントゲンを撮って、その被害の方が大きくなると思うんですよ。なんでそんなものをバッサバッサ切らないんだって言うんですが、遠慮して切れないんですよ、審査委員が。そんなことをやっているから日本の医療がおかしくなっていくと思うんですよ。毎日レントゲン浴びてごらんなさいよ、その被害の方がどのくらい大きいか。大学病院のレセプトは遠慮して審査しないから、1000万円くらいのがどんどんでてくる。やり方によっては、もっと医療費を減らすってことができると思うんですよ。」

 

 

[12] この点での、「自治体病院を甘やかしすぎる」という佐久市長の提言も検討に値する。市立病院の安易な「民営化」ではなく、合理的経営改善は十分ありうるように思われる。

 「自治体病院を甘やかし過ぎる

長野県佐久市長 三浦 大助


 自治体病院の経営は、赤字が当たりまえのようにいわれてきた。しかも、この赤字経営を「名誉ある赤字」だと胸を張る院長もいるということも聞いている。これが私立病院だったら倒産、閉院である。もちろん、病院経営というのは難しいし、公的病院としての役割りが私立病院とは異なることぐらい承知の上での私の提言である。
 市町村長の中には、院長さまにすべてお任せというところが多い。市町村長として病院経営にお金を出しているのであるから、口も出すのも当然のことではないかと思う。病院の管理者である市町村長は、病院経理の中味もよく調べた方がよい。まず、診察時のカルテの記入漏れ、つまりつけ落しに気付くだろう。若い医師に経営感覚など余りないのが普通だから、生活指導料のようなものをつけ落してしまいやすい
 私のまちでも400床の市立病院を持っているが、黒字経営を続けている。どんなに立派な先生でも、院長になったら経営に徹してもらわなければ困る。私は院長には、「赤字にしたら即刻辞めて下さい」と言っている。一度、カルテの再点検をやらせてみて驚いた。診察時のカルテへの記載漏れがばかにならないのである。病院も企業会計である一方、時には「名誉ある赤字」になるような高度な医療も必要だろう。看護婦養成のような不採算部門も抱えている。だからといって、市町村長が「先生、先生」と甘やかすのもよくない。経営者である以上、口も出すべきだと思う。公立病院は、国からの交付税などによって、財政措置がされていることは一般的には知られていない。
 先立って、ある新聞に、「地域の医師会費を、病院会計の中から肩替りをして払っているのはおかしいではないか」という記事が載っていた。地域の医師会費は個人で払うべきものである。同じ病院内の看護婦や薬剤師は、自分たちの団体の会費は個人で払っている。「なぜ医師会費だけを病院会計の中から面倒をみなければならないのか理解できない」と指摘されるのは当然のことではないか。昔の医師不足の時代の名残りかもしれないが、このような医師の特権が許される時代ではない。病院が赤字だと騒ぐ前に、市町村長は大いに口も出して病院経営を見直すべきだと思う。


厚生福祉(時事通信社2001より)
2002年2月26日

 

 

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[13]  625日にさる要人から聞いたところでは、問題の学生はすでにかなり前に「退学」しているということで、少なくとも現在は本学学生ではない。そのような調査の点では事務(学生課?)は抜かりない、ということだった。

したがって、現在は本学の学生ではなく退学したものが、あたかも現在、本学学生であるかのように名乗り宣伝しているとすれば、本学の名声と信用を利用してイヴェント企画に若い人々を呼び寄せることに一役買っているとすれば、その経歴・学歴・身分詐称という点で、本学の立場からは名誉毀損を問題とすることもありうるだろう。

今後の調査を見守りたい。

 

[14] プロクルステス‐の‐しんだい【―の寝台】

(プロクルステス(Prokrustes)はギリシア神話に登場する強盗で、捕えた旅人を寝台の大きさに合せて伸ばしたり切ったりしたことから) 個々の事情を無視して強引に基準にあてはめることのたとえ[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

 

[15] 現在、わが大学で進行している事態は、この先行事例ではないだろうか?

 「関内」とのパイプを武器に、学長・評議会は事務局に屈服させられている(みずから従順に従っている)のではなかろうか?

 大学の自立性はあるのだろうか?

 

[16] ここに実質的な官僚独裁が入りこむ余地がある。昨年11月の事務機構改革のやり方はその典型的なやり方ではないか。

 

[17] どなたがいってくださったのだろう。ご報告を期待したい。

 

[18] つまり、あり方懇談会答申が、設置者を名乗る市長の意志なのである。

 真の意味での大学の設置者は、市民である。市長は、市民から4年間の限定期間つきで、市の行政を任されただけの行政の責任者であるに過ぎない。

 しかも、市長は、市長選挙に当って明確な大学政策を市民に提示したわけではない。

 あり方懇談会の答申をいまだに(5月になっても)「設置者の意志」と表明しつづけるとすれば、大学人はここに重大な問題を見なければならない。

 

[19] 教員も職員も、その職務に応じで適切な仕事環境・労働条件のもとになければならない。

教員と職員は研究教育職と事務職という分業関係にあり、その有機的な分業関係・連帯関係を高度に発展させる必要がある。あいまいななーなーの関係(相互に馴れ合う意識、他方では足を引っ張り合う意識、相互不信)は、許されるべきではない。全体として教職員が一帯となって大学の使命=研究教育の実質的効果・成果をあげる、その成果を社会に説明する、という責任があるだろう。

 

[20] 「国民」の意識はその生活形態ととも実に多様であり、「産業界への貢献」も、「ノーベル賞、それに匹敵する仕事」も、「世の中をリードするエリート市民の輩出」も、期待のななかにあると思われる。

 これらすべての期待にこたえるためにこそ、大学の自治や学問の自由は保障されなければならない。創造的発展的学問、未知の世界・未知の水準を切り開くためには、自由がなければならない。自由と徹底的な科学的批判が保障されていなければならない。それが、人類史における科学発展史の悲喜劇の教えるところではないか?

 各人が真理と考え、真実と考えるところを自由に表明できること、その自由な表明内容が、公開の場で批判の対象となり、検証と対象となること、そのなかで本物が勝ち抜いていくこと、これが重要だということだろう。

 

非学問的な考慮や権力へのおもねり、非科学的な力、学問の外からの影響がないときにこそ、諸研究者相互間の科学的競争=批判=理性と理性のぶつかり合いが純粋な理想的な形で行われる、できるだけそれを実現しよう、その最も理想的な場が、大学という場ではないか、そのようなものとして大学を構築し発展させるべきではないか?

 

[21] 現在の日本は、この民主主義の基本原理が、無視されつづけている、ということではないか?一〇〇年以上の歴史をもつ国立大学の法人化が、ほとんど議論らしい議論をしないで成立しようとしているこの異常さ。

 有事法制の審議と成立のあり方など、あまりの無風状態に、言葉もない。

 

[22] これほどつよく主張しないと、大学人のいまの生ぬるい沈黙状態は理解できない、ということだろう。

 

[23] 「あり方懇談会」答申そのままの口調ではないか?

 

[24] これまでの市大の歴史を辿り、市当局がどのような姿勢で望んできたか、この総括も大切である。文理学部を改組して、国際文化学部と理学部に発展的に改組し、総合大学へのみちを1歩1歩と歩んで来た歴史と、今回の「あり方懇」答申とはどのように整合するのか? 

 この十年間には、経済学研究科に博士課程も増設された。また、市と国との連携で、鶴見キャンパスもできた。鶴見キャンパス・連携大学院は、市当局の企画が大学に持ちこまれたというのが実態であり、大学内部の自立的内在的発展の結果として鶴見キャンパスができたのではない。

 このようなこの十年間の発展を市長はどのように踏まえたうで、「あり方懇」答申を評価するのか、肝心のことはなにも示されていない。

 

[25] 市当局は、1000万円をかけてアンケートをやるとか。どのていどの人件費をかけるのか知らないが、「市民の会」に結集し成功に導いたボランティアの人々(市民、卒業生、現役・OBの教員、学生など)の献身的作業は、金銭で表わすことができないとしても、その実作業時間を「市民の会夕べ」で発言した女性参加者の時給(たしか780円とおっしゃっていた)で換算しても、大変な額に相当するのではなかろうか? この女性からは、「大学の先生はもっとたくさんもらっているでしょうから、がんばって」と厳しい発言だった。

 ボランティア活動の力の結集とその創造的発揮が持つ社会的意義は感動的である。それは「市民の夕べ」の全体の雰囲気がかもし出していた。大きな活力を、すくなくとも私はあの場の雰囲気から得ることができた。

 

[26] 学長「怪文書」のような3学部解体に屈したような再編であれば、惨めな「改学」におわるだろう。3学部を解体し、3学部をいくつかのコースに再編するという案なのだから。

 学府の概念をどうするか?

 学府を学部を発展させたものとするのかどうか?

 ビジネス科学学府、経済学府、グローバル地域学府、国際文化学府、法学府、都市政策学府、数理学府、生命科学学府、理工学府といったかたちで、学部・大学院一貫の「学府」をいくつか創設するのか、それともそうでないのか?

 検討しようにも、学府・院構想が学部・大学院システムを発展させているのかどうかなどまったくはっきりしない。

 伝統が確立し、社会的に認知された学部システムを打ち壊すとすれば、それなりの説得的な学問的科学的構想が示される必要があろう。

 

[27] 逆に悪い面としては、新聞やテレビに出ていれば評判がいい、という一面的な評価がちまたに溢れているということである。

学術水準と新聞・テレビ登場回数とは必ずしも対応しない。多くの人はそのことを認識してもいるが。

いずれにしろ、大学の総合力が問題になってくる。せっかく持っているものがあるとすれば、各人に合った形で、その可能な限りの公開が求められているということだろう。

 

[28] 「入試委員長が一回だけ」参加するということが、委員会での議論の到達点であり、最終的には教授会でもこれが認められたということである。

 

[29] 学界活動をしているかどうか、それが大学教員評価においてはひとつの重要な判断基準になる。学界で活動するためには、研究の仕事を続けていなければならない。

社会的に発言力を持つ(新聞・雑誌、書籍、各種講座類に登場する)ためには、研究を蓄積していなければならない。そうしたことの成果をできるだけ市民にも分かる形で、示すことが必要だろう。

 

[30] ある雑誌に、一度、自分の専門研究に関係してインタヴューに応じたからといって、必ずしも、その雑誌自体(その発行主体の主義主張やイデオロギー)を全面的に承認している、賛同している、広告塔になっている、とまでいうことにはならないだろう。

「宣伝に与した」側面・要素がゼロではないが、インタヴューで主張した内容自体は自分の研究成果の公開宣伝・社会への啓蒙活動という面も含んでおり、ギブ・アンド・テイクであって、さしあたりは、両者の主張の接点=共通項がある特定問題について一つ・一回あった、というにすぎないだろう。(もっといえば、インタヴュー内容が実はそれを掲載した雑誌の存在そのものへの疑問を抱かせる批判的で啓蒙的側面すらはらんでいるかもしれない。何がきっかけとなって、当該雑誌やその記事を載せた主体への批判が巻き起こってくるかもしれないので。)

 ただ、その特定問題は、「市民の会」の基本目標(市大の維持発展)とはまったく関係のない事柄であり、「市民の会」の運動と関係ない以上、「雑音」として、「市民の会」ではいずれ取り上げられることもなくなろう。(67日追記:「井戸端」には、かなり執拗な投稿者がいるようである。67日午後追記:私のコメントを読まれたようで、問題学会が引き起こしている勧誘等にまつわるHPのご紹介ご指摘があった。確かにそこで問題になっているようなことを体験している人々は、深い憤りをもち、関係雑誌に記事を誰が書くかということも重大な関心事ということはよく分かる。だが、「市民の会」にはそうでない人々もかなりいるかもしれない。矢吹先生は、「市民の会」の基本目的にそって大活躍されている。「市民の会」の基本目的にそった今日の集会の成功をのぞみたい。)

 

 私にとってのこの論争からの利益は、何日かぶりに矢吹先生のHPにアクセスし、『中国から日本が見える』の立花隆の書評が目にとまり、それを読み、面白そうなので、本文を通読したことである。

現在の中国のダイナミックな「ワイルド資本主義」、高度成長期の資本主義の様相をおぼろげながらつかみ得たことである。さすが中国経済論、現代中国論の専門家だけあって、鋭い指摘、通常流布している言説に対する批判的指摘がふんだんにあり、一挙に最後まで読めた。この現地情報に即したリアルな情報なら、日本の様々の政治潮流の人が聞いてみたいと思うであろう。

そして、それが現状批判の強烈な効果を発揮し、利用したと思ったものが実は利用されたということになるかもしれない。 

 

[31] 法学部増設など「進めよう」との提案、この「攻め」の姿勢は大切だ。「井戸端」におけるこのような「攻め」の建設的な提案は気持ちがいい。

大学事務当局も、このような建設的な「攻め」の仕事で大学と教員を支え、一生の思い出となるようないい仕事を大学に残すべきではないか?

大学教員が生き生きと活性化し研究教育で実績を上げ、いい学生や大学院生を送りだすな大学を創出することに貢献しなければ、大学における事務局の意義はないであろう。

 

[32] ほかにもたくさんいらっしゃるので、正確には、「市大が誇るべきOB教員の一人だ」とすべきだろうが、本文としては、元のまま残しておきたい。

 

[33] うれしい驚き! 日誌に書いたことは意味があった。

まったく驚いたことに、ごく身近に親しい方がいらっしゃったのだ。なんと、われわれ「市民の会」の中心メンバーのお一人、総合理学研究科の佐藤真彦教授が、浅島誠氏と大学院時代の同級生だったのである。いまそのお知らせをいただいた。

佐藤真彦先生は昨日の内に、高杉元学長・井口泰泉氏・浅野洋氏ほかが呼びかけ人となった「大学人の会」の『横浜市民への訴え』や私の日誌をコピーして、浅島先生にお送りくださり、67日の「市民の会」集会への参加も呼びかけてくださった。

このようにして全国的に連帯の輪が広まることは、すばらしい。

 

本文中に引用した 東京大学大学院総合文化研究科長・教養学部長としての声明は、東大駒場の大学公式ページ冒頭に掲載されている。公式なこうした声明が連鎖反応を呼んで、国立大学法人法案反対の声が一挙に高まることを期待したい。

 

佐藤先生のご教示によれば、浅島氏は、「現在,動物学会の会長でもあり,数年前には紫綬褒章のほか,100年以上の伝統を持つ動物学会の歴史上2人目という学士院賞を受賞」されたそうで、「その発言には重みがあるはず」と。

佐藤先生とともに、浅島氏が横浜市大問題に対しても何か発言してくれることを期待したい。

 

[34] 不当な乱暴な脅かしによって強制した「改革」などにいいものはあるだろうか?

 すばらしい理念、発展の可能性を示す内発的発展的改革でなくてはならない。

 全学大学改革検討委員会が、理念と構想においてどのような立派な発展的なたたき台を額内外に示すか?

 

 

[35] 浅島氏からのご返事が、総合理学研究科・佐藤真彦先生に寄せられ、「市民の会」に関係する部分をお教えいただいたので紹介しておこう。

 

それによれば、「国立大学法人化にしても、『市大のあり方懇』にしても日本の学問や大学が壊れていくことに大変、心配しています。長い間かかってきて育てあげてきたものが、この数年で次々と壊れていく現実をみると、ここで何とかしなければならないと思っています。」と。

 

まさに連帯のメッセージである。

ただ、6月7日は先約(動物学会理事会+学内の法人化問題に関する委員会・委員長
浅島氏)があり,『大変残念ですが、先約があるため欠席いたします。お互いによい大学づくりのために頑張りましょう。』と。

 

浅島教授には、東大で多いにがんばっていただき、少しでも「国立大学法人」法案の問題性がなくなるように、また、仮に一部修正で法案が通っても、その法律のもとで最大限大学の自治や学問の自由が発揮されるようなシステム構築に、ご奮闘いただくよう期待しよう。