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2003年7月31日(2) 改革プラン策定員会は市民や学生の意見をどのように集めるのか、大問題であると思い、7月20日の「シンポジウム」の際の参加者意見も即座に大学HPで公開すべきだと主張してきた。それと関連して、「横浜市立大学 学生アンケート:〈市大学生用>〉なるアンケート用紙を本日入手した。
例のリボーンと称するロゴマークはついているが、一体誰が、どのようや規模でやっているのか、責任主体を明確にしないアンケート用紙である。24日から実施しているという話である。
一体、24日からアンケートをやって、何人から集めるのか? どれだけのデータが集まるのか? 個々の質問項目もさることながら、非常に誘導的意図的なアンケート項目があるので、それをここに紹介して、大学内外の注意を喚起しておこう。
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「市立大学では、現在大学改革に向けた取り組みが行われておりますが、改革を検討・実施するにあたって、次の設問にお答えください。
7.もし、大学入学後に、文系か理系かを選択できたり、専攻分野やコースを選択することができたら、あなたはどう思いますか。
@とてもよいと思う Aわりとよいと思う Bどちらともいえない Cあまりよいと思わない Dぜんぜんよいと思わない
8.アメリカの大学の中には、学部4年間はどの分野にも共通する幅広い教養教育(リベラルアーツ)を総合的に学び、さらに専門分野を学びたい人は各分野の大学院やロースクールなどの専門大学院に進学するシステムがあります。日本でもこのようなリベラルアーツを専門にする大学があればよいとあなたは思いますか。
@ とてもよいと思う Aわりとよいと思う Bどちらともいえない Cあまりよいと思わない Dぜんぜんよいと思わない」
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アメリカの大学体系を全体として示して、アメリカにおけるリベラルアーツ系大学がどのような位置にあるのかをきちんと示さないで、何とかリベラルアーツ賛成の数(3学部・解体縮小=統合の「あり方懇路線」への賛同者)を集めようとしていると受け取れないか? ある方向に誘導するような質問になっていないだろうか?
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2003年7月31日 昨日の日誌で学部長説明を掲載したが、これに対する「匿名者」からの反論が寄せられたので、それを昨日の日誌の末尾に掲載した。また、推敲を重ねて、若干の文章や注を書き加えた。
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2003年7月30日(2) 7月28日付で入手した匿名情報(告発)に関して、商学部長から先ほど、直接、「あの匿名情報は事実誤認である」との指摘を受けた。商学部長によれば、学部長は商学部教授会の決定を文章化し、各学部に知らせる[1]と同時に、非常勤に関しても学部教授会の決定(今回アンケートは行わない旨)を知らせる文書を配布したということである(学部長名の非常勤講師各位へのお知らせの文書も見せてもらった)。すなわち教授会の議論を踏まえ、7月9日からの拙速な実施はしないこと、非常勤講師や他学部にも問題提起を行い、商学部の決定を関係各位にお知らせした、というご説明であった。教授会議事録でも確認されることになろうが、そのような行動をとったと学部長から説明いただいたので、匿名情報は不正確な部分を含んでいる、ということをここで明らかにしておきたい。
ただ今回の不正確な部分を含む憶測が広がったのは、国際文化学部声明のような明確な形で情報を学生と教職員に公開しなかったことにある。匿名氏その他多くの人の不信感はまさにそこに起因する。
商学部長の説明は、少なくとも一般の学生や教職員には伝わっていない。そのような不充分な情報伝達の結果であったということだけは確実である。他学部と事務のどこにどのように伝えたのか、学生にはどのように伝えたのか、問題はその具体的な行動にある。
7月3日定例教授会で、1時間から1時間半ほどの議論のなかで煮詰まってきたのは、「今回のアンケートは実施しない」という商学部の議論の到達点=決議を「それではどのように他学部や学生に知らせますか」ということだった。
そこで、議事録を元に教授会で出された問題点を整理し、キチンと論点を明確にした文書(なぜ今回のアンケートを商学部は実施しないかを理路整然と説明する文書)を作成し、それを各学部教員・非常勤のボックスにいれるべきだと私が発言し、何人かが同じような発言をしたと思われる。「決議文とその趣旨説明、論理の明晰さこそ、全学を説得するものだ、それこそ必要だ、それを全学に配布すべきだ」と私は主張した。
学生・教職員への周知徹底には別の方法もありうるが、学部長(それを補佐する評議員)は、どのような周知徹底の方法をとったであろうか、いつの時点でそれを行ったであろうか、その行動の証拠はなにか?
学部長・評議員によって、そのような一般学生・教職員向けの声明文の配布・掲示がなされなかったことは事実である。(いまに至るまで)
教授会の議論の展開からすれば、学生・教員・職員に関わる教授会決定は、迅速適正に(今回の場合は7月3日教授会直後に、したがって7月4日には)実施すべきであった。「今回のアンケート」実施予定日からすれば、遅くとも7月9日までには、他学部への周知徹底・掲示・教員ボックスへの決議文の配布などを行うべきであった。
学生・教職員に明確に声明文で周知徹底しておけば、憶測を呼ぶことも混乱も他学部教員の怒りを呼ぶこともなかった。
学部長からの教授会での正式なご説明は次回21日の臨時教授会あるいは9月定例教授会で行われるであろう[2]。
なお、匿名氏からは、以下のような反論が寄せられたので、公開しておこう。事実関係は、きちんと調査して、正確なところを明らかにして行く必要があるからである。(7月31日加筆)
--------匿名氏からの反論(7月31日付け)----------
永岑先生が川内学部長から、私がお送りし掲載していただいた情報は「不正確」ないし「誤報」という指摘を受けた旨とその断り書きの昨30日付けの記事を見ました。これは、匿名とはいえ私の名誉と永岑先生の『大学問題日誌』やその他の先生方のホームページの信頼性を損なうものですので、ここで川内学部長らに反論しておきます。
先の川内学部長らの意図的な「職務怠慢」の情報は、先週24日木曜日の段階で、確実な情報源のある教員から文書で私が得たものを、そのまま書き直したもので、大筋の事実関係は正しいと私は確信しています(いうまでもなく、火のない所に煙は立ちません)。というのは、その時期の段階で、教授会決定の翌日付で同様の文書を作成・発表した国際文化学部とは対照的に、商学部では教授会から3週間経っても何らの文書も配布されず[3]、教授会決定に対応したという情報もいっさい伝わってきてはいなかったので、不審に思った私が情報を収集して、そのあまりにもひどい実態を知って永岑先生宛てに告発したからです。
私の憶測では、川内学部長ら商学部評議員は、さる28日の永岑先生はじめのホームページの記事を見て[4]、あわてて口裏を合わせて文書を作成するなど、辻褄を合わせたのではないでしょうか?その点でいえば、1ヵ月近く経ってようやく教授会決定が履行されたことには結果したので、企業・役所の不正行為の「内部告発」が奨励され保護される昨今では、私の行動は大変な社会的意義があったと自負しています。
その点で、これ以上、川内学部長らが「水掛け論」を望むなら、来たる8月21日に予定されている臨時教授会で、徹底的な「事実解明」の論争をいたしましょう。以上、反論と関係者の名誉のためにご一報しました。川内学部長らの言い分と並べて、この文章も掲載していただければ幸いです。
7月31日
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2003年7月30日 7月20日のシンポジウムに学生をレポート提出を義務付けて動員したのではないかという噂に関して、新しい情報(佐藤真彦教授HP参照)がもたらされている(関連記事:矢吹教授HP)。大学改革をどのような姿勢で行うのか、ということにも関係してくるものであり、今後の展開に注目したい。
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2003年7月29日 昨日付けで学部長名による臨時教授会開催の通知が出された。8月21日木曜日13時からである。議題は、1、大学改革,2,その他、となっている。
第一の問題は、この臨時教授会にどのような提案と資料とが出されるのかということである。これまでのように問答無用、時間切れ、で強引に押しとおそうとするのか(たとえば教授会議事録開示問題における対応)、それとも少なくとも臨時教授会1週間前には、きちんとした提案なり資料を教員には配布して(すなわち同時に学内外に公開して)、きちんと考えをまとめる時間を与えるのか、ということである。それは改革プラン策定委員会の委員長である学長の最低限の義務だと思われる。その義務に関しては、まさに学長自身が選挙公約した姿勢、すなわちintegrity(廉直・誠実)が試される。
第二の問題は、そもそもそのような提案においては、一体どのような学内の合意形成のための前段階・手続きがあったのかということである。5月以来いっさいそのような具体的な提案はなく、改革プラン策定幹事会の秘密主義は徹底しており、「完全黙秘」で、改革ブラン策定の全体会議にも具体的なものは提示されていないという。なんら大学人、そして、学生・卒業生,市民、教職員の現役・OBOGが議論の素材と出きるものを提示してこなかったという現実をどうするか、ということである。完全黙秘状態は、改革プラン全体会議にも貫徹しているのか、少なくとも一般教員,学生,市民にはいっさい先日の情報は伝わっていない。改革プラン全体会議も、秘密主義に手を貸したということか?
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2003年7月28日 7月定例教授会の審議経過にもとづく決定(6月の自己点検評価委員会で決められアンケートは前年度委員会からの引継ぎにおいて適正さを欠き、手続的にも時期的にも質問項目に関しても重大な問題をはらんでおり、今回の全学授業評価アンケートは行わない、学部長・評議員がしかるべく教授会決議を文章化して他学部や非常勤講師などに周知徹底する)が、商学部の学部長・評議員によって無視されているのではないか、学部長不信任に値するのではないかということが問題になっている。下記に掲げるような匿名情報が寄せられたので、掲載しておこう。
その前に一言すれば、私も,教授会終了後、教授会の議論の経過をまとめてこの日誌(7月4日)で公開しており、学部長名の声明(教授会決議の説明)が公開されていないことを不審に思っていた。下記情報が正確だとすると(多分そうだと思うが)、やはりきちんとした対応がなされず、しかも、評議会でも教授会審議結果に基づく毅然とした発言などがなされなかったようである。こうしたことは、きわめて遺憾である。
これに引き換え、国際文化学部では、授業評価アンケートなどを積極的に行うべきだという立場の黒川学部長でさえ、学部のさまざまの意見を踏まえて、今回のアンケートの手続き的問題を熟慮して、下記情報にあるように、「今回のアンケートは行わない」と全学に公開(国際文化学部声明:授業評価問題)した。当然のこととはいえ、教授会審議にもとづくその大学人らしい毅然たる態度(明快な論旨)に、改めて敬意を表しておきたい。いずれにしろ,きちんとした事実関係の明確化は,商学部9月定例教授会(臨時教授会が開かれなければ)の重要問題となろう。
私の見るところでは,@教授会のメンバーは教授会での議論とその到達点(決議)を踏まえ、A問題のある全学授業評価アンケートを行わなかったし、Bまたその情報を(非公式? 何らかの形で?)得た関係事務当局[5]もアンケート用紙などの配布を行わなかった、ということである。
商学部の場合、問題は,Cそのような教授会決議をきちんと文章化し,D学生と教授会メンバー,非常勤講師、他学部関係者(なぜなら商学部の学生は一般教育科目をはじめとしてたくさんの科目で他学部の教員の講義を受けている)等に周知徹底する義務を果たさなかったこと、E教授会決議を明文化し連絡すする仕事を託された学部長・評議員が,その職務を遂行しなかった、ということであろう。この点が、今後、問題となることだろう[6]。
* **********匿名意見・情報[7]**********
さる7月3日の商学部教授会では、学部としては今回の全学統一の「授業評価」に関する学生アンケートを行わないこと、その理由書を川内学部長と評議員が決議文として取りまとめて、他部局の教授会や非常勤講師に伝える、という決定がなされました。そして、翌週10日の国際文化学部教授会では、この商学部教授会決定とはまったく独立に、上記と同じような対応が決定され、黒川国際文化学部長名の「アンケート中止の通知文」が翌日の11日付で学生や非常勤講師向けに掲示されました[8]。
ところが、最初に同様の対応を決定した商学部では、教授会から3週間以上すぎても、まだ「教授会決議」は発表されていません[9]し、その周知の機会であった7月定例の全学評議会でも何も行われずに10日ほど経ってしまいました。しかるに、部局長会議などの場では、川内学部長は「商学部教授会では全学授業評価アンケートの件では、何も決めていない[10]」と虚偽を言い張り、国際文化学部がひとり孤立するような状況になったということです。それで国際文化学部の黒川学部長はじめ評議員その他の教員は、川内商学部長らの「背信行為」に憤慨しているそうです。
商学部の川内学部長ら評議員の「職務怠慢」の原因は、もっぱら事務局との関係で、以下のように言われています。すなわち、商法担当の川内学部長の法律分野で、同じ7月教授会で民法担当の教授の他大学からの割愛願が承認され後任を採用することになりました。この人事案件に対して事務局が「割愛人事」にまで介入・圧力をちらつかせたということで、これ自体がまたしても非常に重大な問題が発生しました。
これにすっかり縮みあがった川内学部長と同じ法律の島田評議員らが他の評議員と謀って、「教授会で全学授業評価アンケートの不承認の決定はなかった[11]」と、事務局や他部局に公言しているということです。しかし、以上の教授会決定に反する川内学部長らの「不法行為」は、今後の教授会で再度問題にされるのはもちろんです。そして、その決定がされた厳然たる事実は、この全学アンケートの実施を取り仕切り推進した事務局企画課を通じて、商学部教員にはアンケート実施の手引きや学生配布用紙がいっさい配られなかった[12]ことからも明らかです。
川内学部長はじめ評議員は、以上のような教授会からの「不信任事由」に相当する不法行為を働きながら、彼らは以前から商学部が主催する各種催し物に、自分たちのゼミ学生を「レポート提出義務づけのうえの動員」を行ってきました。さる7月20日の大学主催のシンポジウムには、その噂とともに大量の学生が出席していたということで、その噂はまず彼らの従来の行動から間違いありません。これも任意の出席の勧めならともかく、成績認定の条件を付けたならば教員の「職権乱用」に当たるもので、それに協力した評議員以外の商学部教員も含めて、あわせてここで告発しておきたいと思います。
(追記:日誌による意見公開は大学改革・大学制度改革・大学問題に関する大学人・研究者教育者としての仕事であるが、研究上の仕事の合間に時々見直しては添削する。総合理学研究科・佐藤真彦教授HPには少し前の段階のヴァージョンが引用されている。上記日誌は、それにかなり加筆している。その後、29日までの間に、矢吹教授HPにも本日誌が引用された。念のため一言。)
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2003年7月27日 佐々木毅学長の大学・評議会に対する信任要請に対して、東大評議会がどのような態度をとったか、その態度に関するマスコミ誤報問題で、 「意見広告」事務局から次のような情報が寄せられたので、コピーしておきたい。
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朝日新聞、NHKなどの虚偽報道について。
皆様。
24日に開かれた東大評議会について、事実に反する報道がなされています。
取材力・分析力の欠如によるものか、悪意によるものか分かりませんが、東大の評議会について、簡単に次の2点を指摘いたします。
1
「国公立大通信」より
その内容は、たとえば「NHKオンライン」によれば、「東京大学は、35年ぶりに学長の信任投票を行い、佐々木学長が信任されました。来年4月から国立大学が国立大学法人に移行することを受けて学長の権限が強まることから、今後ほかの大学でもこうした動きが出てきそうです。」とするものです。
これは、多くの人が騙されている点ですが、東大ではかつて一度も学長の信任投票など
ということは行われたことはありません。
総長は教授会構成員の直接選挙で選ばれており、これを評議会が信任することなどとい
う事は本来の評議会の議事に全くなじまない性格を持っています。
ところが、だれがこの様な虚偽を流し始めたのか分かりませんが、佐々木総長が「信任
」を求めた時点で、「1968年以来異例の」という表現が出現しています。
1968年は、ご存知の通り東大紛争の大渦中でした。
10月に当時の大河内総長が学内混乱の責任を取って辞任し、急遽加藤一郎氏が8学部
長会議で「総長事務取り扱い」として選出されました。選挙をしていないのですから、加藤氏が総長職に就くことなどできるはずもないことです。
これを評議会が取りあえず「信任」し、以後加藤氏は総長職を「代行」として勤めるよ
うになったのです。すなわち、加藤氏は選挙で選ばれていなかったから、しかも当時の混乱した状況でただちに総長選挙を行うことがまず不可能だったため、「代行」として評議会が認めたに過ぎなかったわけです。
当時の報道に接していた方々は、テレビ・新聞などに「加藤総長代行」が盛んに登場し
ていたことを覚えていらっしゃるはずです。
ありもしない「35年ぶり」の信任投票などと述べることは、マスコミの取材力、調査
能力の乏しさを暴露しているだけの話です。
2
第二点についてはまた改めて、詳しいニュースを流しますが、東大職組の声明を次ぎに掲載しておきます。
「評議会は信任投票を拒否!
評議会は「大学構成員の意見を十分聞きながら、最高意志決定機関としての権能を有効・的確に発揮する。」ことを宣言!
7月24日に開催された臨時評議会は、総長の要請した信任投票を拒否し、所信表明にいう本学の状況を共通理解としつつも、法人化に向けて、審議決定機関としての自らの責任を全うする決意を表明した。
東京大学職員組合は、評議会の見識を讃える。
東京大学職員組合は、総長の所信における「包括的な授権」の求めに対し「国立大学は、こうした状況においてこそ決然として民主的な大学の自治を守り通すべきではないのか」という訴えを各部局教授会と評議会に対し行ってきたが、臨時評議会は「法人化に向けて、審議決定機関としての自らの責任を全うする決意を表明する。」と決議したのである。
東京大学職員組合は、法人化に向けて審議決定機関としての自らの責任を全うする決意を表明した評議会決議を高く評価し、東京大学評議会が、法人化に係る諸問題を「大学構成員の意見を十分聞きながら、最高意志決定機関としての権能を有効・的確に発揮する。」ことを期待してやまない。」 「意見広告」事務局
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「国立大学法人法案」に反対する意見広告の会
e-mail --- qahoujin@magellan.c.u-tokyo.ac.jp
Web --- http://www.geocities.jp/houjinka/index.html
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2003年7月25日(2) NHK報道、新聞報道(私が見たのは「朝日」)などの誤報のひどさ! 佐藤真彦教授HPの「New メディアの情報操作(北海道大学 辻下徹氏ホームページより)を 拝見して、この重要極まりない不正確報道を知った。新聞報道などからは、東大評議会は佐々木総長の所信表明(全権委任を求める内容)を承認し、信任投票で四一名全員一致で承認した,と受け取った。
しかし、そんなことではなかったのだ。むしろまったく逆なのだ。
東大評議会は、信任投票を拒否し,大学の最高意思決定期間としての見識を示し、大学の最高意思決定機関として責任をとる,その機能を発揮する主体的決意を表明したのだ。
私も、「評議会の見識を讃える」。
■東職声明: |
評議会は信任投票を拒否! 7月24日に開催された臨時評議会は、総長の要請した信任投票を拒否し、所信表明にいう本学の状況を共通理解としつつも、法人化に向けて、審議決定機関としての自らの責任を全うする決意を表明した。 東京大学職員組合は、評議会の見識を讃える。 東京大学職員組合は、法人化に向けて審議決定機関としての自らの責任を全うする決意を表明した評議会決議を高く評価し、東京大学評議会が、法人化に係る諸問題を「大学構成員の意見を十分聞きながら、最高意志決定機関としての権能を有効・的確に発揮する。」ことを期待してやまない。 |
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2003年7月25日 国立大学法人法の成立に関わり、「意見広告賛同者」に事務局が新しい情報を送ってくれた。下記にコピーしておきたい。COEの審査などにおける文部科学省の審査が「職権乱用」と学問の自由への介入の問題をはらんでいる,という指摘は注意が必要だろう。「先端的研究への公的資金の集中投資」(例えば,カミオカンデとかハワイの昴望遠鏡とかはその典型であろう)という社会的世界的要請との兼ね合いをどのようにするか、大学人が考えていくべき重い問題であることは事実だろう。
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賛同者の皆様、
幾つかの投稿、記事などをご紹介いたします。
ゆとりがあれば、なるべく皆様の多様な御意見をこのメールで流させていただきます。
個人情報の保護のため、メーリングリストにするつもりはありませんので、ご了承下さい。
以下の投稿・記事に関係して、官僚天下りばかりでなく、マスコミ関係者の「国立大学法人」への準天下りの可能性の指摘が気になります。
これを含めて「国立大学法人」のモニター活動の必要性が痛感されます。各大学の、理事、監事、経営協議会などの人員の具体的特定・キャリアは、それぞれの大学の方でないと分かりにくいものがあります。全貌を国民的に明らかにしてゆく必要があると思います。
それが、本当の「開かれた大学」の姿でしょう。
それができるのが、「意見広告の会」です。
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[2] 黒田清「批判ができない新聞」
日本との対話:不服の諸相 ロナルド・ドーア編 岩波書店 94年
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黒田清*「(p.298〜 批判ができない新聞)日本のメディアは(中略)本来は現実批判がもとにあったと思うんですが、気がついたら、批判できないようになっている。
非常に大きいのは、政治についての批判がぎりぎりのところでできなくなったことです。不幸なことに高度成長で日本の新聞社は読者も増える、ページ数も増えるなど、いろいろなことで社屋を大きくしなければならなくなって、特に東京で社屋の土地が無かったから、自民党に頼んで国有地を安く売ってもらった。読売、朝日、毎日、産経、みんなそうです。とても大きな借りを作ってしまった。だから新聞記者が一生懸命何かを書こうと思っても、中枢のところで握手をしていますから、突破できない。
もう一つは、日本の新聞社の経営は、自己資金が少ない。たとえば朝日や読売にしても、資本金は一億か一億五千万、いま増資して三億とか五億とか、せいぜいその程度でしょう。そして銀行は、新聞社と手を結んでおいたらいいということで、ずっと貸していた。この10年ほどで、その借入金が一桁か二桁、また増えたわけです。これはご存知のようにコンピュータシステムをとりいれたからです。そうなると金融機関に対するチェックは非常に甘くなりますね。だから、そのあと、土地問題、不動産問題、銀行の不正融資と、表に出ているのは知れたもので、さらにひどいことが金融機関をめぐってはやられていますよ。けれども、新聞はさわっていませんね」(p.303)「・・・はずかしいけれど、そう言われてもしかたないと思いますよ。特に私
は読売新聞にいましたから。読売新聞の幹部がどういう考えで新聞をつくっているかというのは、社内に発表される社内報で知っていますから。それに私自身が辞める前は編集局次長で首脳会議に何年か出席していたわけですからね。その時に驚いたのは、新聞記者、ジャーナリスト、マスコミの役割は−−あの人たちにはジャーナリストもマスコミもみんな一緒です−−政府が行政を行うのをサポートすることだ、と言われたことです。私は三十年以上政府権力をチェックするという考え方だったんですけれど、最後の数年は、サポートするんだとトップは考えて紙面を作るようになっていた」
ある賛同者の御意見です。
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前略 このほど4月から「意見広告」の活動に一人の賛同者として参加してきた者ですが、「法案」可決後の活動として、以下の件をご提案します。おそらくすでに呼びかけ人の方々や多くの賛同者から提案が出ていることと存じますが、ご検討いただければ幸いです。
1.23の付帯決議付きで「法案」が成立した以上、そしてこの「23の付帯決議」こそが、この間の私たちの運動の成果ですから、同決議を軸として、どのように私たちの権利、とりわけ「学問の自由」を守っていくのかについて具体的な企画を練ること。
2.「学問の自由」という言葉は、大変重要な言葉ですが、あまりに抽象的で一般の人に「いまさら何を、古くさいこと」と言われそうでもあります。
ここ数年の文科省の動き(とくに人文・社会科学系)をみていると、研究者の「学問の中身」にまで、介入してきています。とりわけ、科研費の配分のいびつさにその傾向が強く現れており、「21世紀COE」はその典型です。そもその日本の全大学の学問の中心拠点を文科省の「統制」のもとで決定・発展させていくとい発想に、例の「中期目標・中期計画」と同様に文科省の「職権濫用」がみえ隠れします。したがって、これから「学問の自由」を守るために、科研費、とくに「21世紀COE」がもつ問題性などについて検討していくべきだと思います。そして文科省による研究の「統制」を容認するような「政策」が持続しないよう、積極的な働きかけを行なうべきだと考えます。
3.各国立大学で法人化に向けての動きが加速化されていくはずですが、その過程で、「23の付帯決議」を無視したり、踏みにじるような動きが少しでも見られた場合、そうした実例を「意見広告の会」が集約し、適宜、野党を通して「文教委員会」で取りあげるよう要請する執拗な取り組みが不可欠だと思います。いうまでもなく、こうした活動は、1,2年で済むようなものではなく、いまのような危機の時代において、「学問の自由」を守るための恒久的な働きかけと異議申し立てとなるはずです。そのためのネットワークは、この半年足らずの間に全国にはりめぐらされたはずです。そうしたネットワークを持続させ、「個々の問題」を「孤立化」させず、共有するための「場」(インターネット上)を構想していただけたら幸いです。
4.この間、わたくしは、友人である、海外の研究者に「法案」の問題性と私たちの闘いをお知らせしてきました。多くの方々が精一杯のエールを送って下さいました。日本の大学の問題は、私たち日本人だけの問題ではないと思います。また、海外の研究者の関心と異議申し立ては、文科省や同省に政策提言している研究者たちも脅威を感じるはずです。この意味で、海外の研究者に大学をめぐる情勢を送る組織的な方法をご考案いただければ幸いです。
「意見広告」事務局
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「国立大学法人法案」に反対する意見広告の会
e-mail --- qahoujin@magellan.c.u-tokyo.ac.jp
Web --- http://www.geocities.jp/houjinka/index.html
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2003年7月24日 ボックスに「横浜市大に期待する市民シンポジウム」(第1回・5月14日)の報告集が入っていた。参加できなかったので,興味深く通読した。小山内美江子氏のトーク「学校をつくる」をはじめ、市民の提言すべて貴重な内容を含んでいる。「市民に貢献する横浜市立大学を目指すなら,まず市民の声を聞くべきだ」というのが最も重要なところだろう。事務局は横浜市従業員労働組合大学支部(電話045‐241‐0005)にあるようなので、大学支部HPなどを開設し,この報告をはじめ情報を迅速に広く公開して欲しいものである。
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2003年7月23日 一楽教授が7月20日シンポジウムの報告を書いている。佐藤真彦教授HPで確認した。矢吹教授HPにも同報告が掲載されている[13]。
国立大学・公立大学と私立大学を区別しない清成発言の問題性(私のシンポジウム報告ではこの点に言及していない),および、とくに学長発言の重大な問題性についての厳しい批判が印象的である。
一楽報告が明らかにしている重要点は、「学長怪文書」,「学長声明」を市長が冒頭に利用したということであり、まさに,この「学長怪文書」こそは、いくつもの学部の批判決議が出された文書だということである。そのような批判をどのように大学改革プラン策定員会は組みこむのか、問題はそこにある。幹事会が秘密主義を続けているということは、こうした正式のいくつもの教授会決議等に反することをやっているからともとれる。学長「怪文書」の責任をプラン策定幹事会も引きうけるということか?
いずれにしろ,市民,学生・卒業生,OBOG教職員が、7月20日当日の市長、清成氏をはじめとする各講演・報告を自分の眼と頭で確認できるよう、全文をすみやかに大学HPに掲示すべきだろう。そして、主催者側のこうした報告や講演に対する参加者の反応・意見もきちんと公開すべきだろう。市民的合意を欠如したやり方をやるのは、今後の改革の非正統性をますます暴露していくことになろう。
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2003年7月21日 昨日は、大学主催の「大学改革を考えるシンポジウム」があった。今日は振り替え休日だが、このHPに関心を持ち、大学改革の行方に関心を持つて読んでくださる方のために、一参加者として報告しておこう[14]。
参加者を増やすために佐藤真彦教授HPの情報では医学部などに大量動員をかけたそうだし、学生にも「レポート提出」(成績評価)を武器に大量動員したという噂も流れている。いずれその真偽の程も明らかになってこよう[15]。事実の問題として、会場は立ち見参加者がいるほど満杯状態であった。最初、たくさんの招待席が用意されていたが、招待された人はあまりこなかったようで、普通の市民が次々と座ることになった。
市長は、このシンポジウムで「市民からの意見をどしどし出すように」と発言していた。誰か録音を取っていた人は、是非その部分を正確にHTML形式で(また録音の音声とともに)公開して欲しいものである。
市長の発言からして、参加者の会場発言も一定の時間を取って容認すると予測した。しかし、その期待ははずれた。実際には、会場からの意見表明や応答をいっさいみとめないやり方だった。
なぜ、市民の生の声を恐れるのか? 「生まれ変われ」をスローガンにしながら、官僚的形式主義的精神の根本的転換を自らやるべき学長ほかの責任者が、「生まれ変わって」いないことをはっきりと露呈することになったのではないか? 目はまだまだ上に向き、市民に向いていないのではないか? 目線はどこをむいているか?
指導するものが率先して「生まれ変わって」いることを態度で示さないで(胸に改革ロゴマークはつけているが)、指導されるものに「生まれ変われ」と命令形のスローガンを掲げることは、欺瞞的ではないか?
このシンポジウムのやり方に対しては、会場の各方面から怒りの声が噴出した。「先ほど市長のいったことと違うではないか」など、大きな批判の声が巻き起こり、会場全体が一時は騒然とした。学生や教職員・一般市民に対する説明をこれまでいっさいやってこなかった秘密主義・非民主的手法・非市民的やり方が、そのような会場の批判的発言からは強く出された。これまで一度も学長が教職員や市民・学生と対話する姿勢を見せなかったことが批判の根底にあるようだった。会場からは学長に明確な説明を求める声も繰り返し出された。今後、何回か市民に対する説明集会・公開討論会を開催すべきだとの主張も出された[16]。
このような会場参加者・市民の生の声を聞こうとしない態度は今後改革案の具体的提出に当っては、許されないだろう。
市民とともに大学を作り上げていくためには、せっかく集まった多くの市民の生の声をしっかり聞く耳と場を持つ必要があろう。それこそ、シンポジウムのやり方にも貫徹した「市民の視点」であろう。
生の声を出させないやり方に代わるものとして、文書による意見表明を求めた。アンケート形式で、多くの人が書いていたようである。こうした方式をとった以上、せっかく多くの市民・参加者が書いた市民意見の公開は義務であろう。参加者の多くの市民は、ほかの市民がどのような意見を持っているのか、大きな関心があるだろう。それこそが会場発言を求める人々の希望だった。ほかの人の意見も聞いてみたい。主催者側の一方的ではない意見を言いたい、と。大学側の一方的意見、大学側が選んだシンポジウム討論者だけの意見ではなく、まさに市民の多様な意見こそ、シンポジウム討論者との生き生きとしたやりとりこそは、市民の関心を高め、市大を市民の大学として発展させる起動力となるであろう。
その市民の声をはたしてきちんとHPで公開するかどうか。これまた伏せてしまうのかどうか。大学当局に都合のよさそうな意見だけをピックアップするようなことになるのかどうか?今後の大学当局の態度を見てみよう。市民の声=意見をワープロですべて文書化し、学内外に公開し、市民・学生・OBOG教職員・卒業生すべてに改革論議に参加するチャンスと素材を提供することは簡単なことであり、1500万円もの予算を取っている以上、やるべきことだろう。改革立案の段階から、市民との応答があることこそ、市民が関心を盛り上げる必要条件だろう。
そうしたものを十分公開した上で、さらにもう一度は、大学側と市民との対話集会、市民公開シンポジウムをやるべきだろう。また、改革の進展度に応じて、その後も、「大学に対する市民の希望」を議論するシンポジウムは必要だろう。
清成氏の報告、あるいは、各討論者の発言もきちんとHTML文書にして、大学HPで市民と全国民に公開することは当然[17]であり、その早急な公開も義務であろう。
有隣堂社長の篠崎氏は、法人化賛成の立場から、教学と経営をわけることを主張した。(山の手学園だったかの経営者として、経営を手放したくないという動機もあるのかもしれない。あるいは教育と経営を分離して経営を握っている自分の現在の立場の正当化ということであるのかもしれない。)だが、今回基調報告・記念報告をした法政大学総長は理事長をも兼ねる。その基調報告を聴いたあとで、なお教学と経営を分離することを主張したわけである。
清成氏は、きくところによれば、西洋経済史の高橋幸八郎ゼミの学生時代に研究者の道を志したが家庭の事情等で官僚になる道を選んだ。しかし、学問研究との接点を持ちつづけ、中小企業論、ドイツ中間層問題・ドイツ経済史の研究を蓄積し、法政大学に迎えられることになった。そのような研究志向と研究実績があるからこそ、多くの研究者を結集して日本ベンチャー学会をたちあげることができ、その会長をつとめるなど研究者を組織する能力をもち、研究の大切さを認識しているからこそ、また、官僚としての実務処理能力があるからこそ、そして後でも触れるような綜合的で統合的な民主的姿勢があるからこそ、四〇年間も学部創設がなかった法政大学で(その発展的増設への潜在エネルギーが大学内に充満して蓄積していたともいえるが)、清成総長のもと、学内の英知を結集することが可能となり、その結集に成功し、5学部も増設し、日本のトップの志願者増を勝ち取っている。有名私立大学をはじめ、軒並み志願者の大幅減の日本の大学社会で画期的なことと注目されている。
法政大学の成功は清成氏の資質もあるだろうが、清成氏を見いだし、選び出した法政大学の人々とその危機意識・現代的課題意識、相互の連帯関係があるだろう。そして、そこでの経営と教学の統合システムにもあるだろう。
経営と教学を分離すれば、教員・教学サイドのコスト意識・経営責任意識・自己責任の認識・自立的精神・社会的説明責任の意識など形成されようがない[18]。篠崎氏はその肝心のことは理解していないようである。それは、篠崎氏が研究者ではないことが決定的な背景だろう。また、高等学校までの経営と大学経営の根本的違いも理解されていないのであろう[19]。
そもそも大学経営を不当に難しいものと想定すること自体、問題である。現在、事務局責任者が大学についてまったく知らなくても、2‐3年間だけ、ほかの部局から回ってきて勤めても、基礎的な経営事務は処理してきたのであり、難しいはずがない。基礎的な経理関係は、一般職員がそれこそ勤勉に市民的道徳性と練達性で処理しているからである。予算決算の公開原則を可能な限り徹底すれば、財務体制の問題等はほとんど問題なくなろう。どこが非効率的か等、社会の厳しい指摘を受けられるように可能な限り公開すればいい。その場合、株式会社の情報公開は参考になろう。民間営利企業がやれるほどの経理公開を、「ステークホルダー[20]」である市民、学生、教職員に行っても当然であろう。
大学の経営などは、民間営利企業の難しさから考えれば、比較にならないほど容易なものとみなければならない。多くの私学をみればわかるように、市場原理の厳しい私学でさえ、大学教員が経営も握っているというのが実情である。国立大学法人や公立大学法人の経営が私学より容易なのは、すぐさま予測できることである。いい人材を集め、いい教育といい研究プロジェクトを支援していけば、現代人は大学に集まるであろう。現代世界がますます科学技術と文化とを求めるとすれば、その受け皿として大学が発展する可能性はいくらでもあるというべきだろう。問題は、いい人材を選抜する環境を作るかどうか、いい研究プロジェクトを支援できるかどうかであろう。清成氏の著書にはその基本点も繰り返し出てくる。
問題は政策的な経営構想・発展構想であり、どのような学部を増設するか、どのような研究科を増設するか、どこに研究の重点をおくか、教育のどこに予算を重点的に配分するか、どのように研究者を組織するかと言った点である。そうしたことこそ難しい。全学的合意・社会的合意を得る作業こそ、じつは大変難しいことである。だが、そうした点こそは、研究者集団こそがきっちり議論を重ね、広く社会の意見を聞きながら、行っていくべきものである[21]。そして、市民シンポジウムや議会における説明など、広く社会的説明責任を果たすなかで、実現すべきものを実現していくということにある。市民に対する公開の説明をこそ、大学人はやっていかなければならない。傲慢な力づくの品性のない「辣腕」事務局責任者のようなやり方(「あり方懇答申など各種答申がそれに振り回されていることを忘れてはならない)は大学をだめにしてしまう。
清成氏の基調講演の優れた点は、法政大学の改革成功のポイントをかいつまんでまとめたところであった。150人もの教員による改革検討会議で、じっくり議論し、総花的ではあっても「もれなく論点が出された」ということを強調していた。そのなかから、重点的なものを選び出していけばいいという手法の紹介は、たいせつにしなければならない。これは、秘密に少人数で改革案を作成してしまおうという姿勢とは違う。
大学改革の方向性、経営の方向性をきちんと全学的に議論したということ、「迂遠なようでも」(清成氏が何回か使った言葉)全学的合意形成のための民主的議論を積み重ねることを清成氏は強調した。この点は、何回かにわたって批判的に検討した清成氏の著書にも何回か出てくることである。「迂遠なようでも」市民・学生・卒業生・教職員との対話の姿勢をもち、各種対話集会を広く行うべきだろう。
(7月22日大幅加筆)
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2003年7月18日 まさに今朝の新聞でCOEの採択結果が報道された。清成氏は、国立大学偏重を一貫して主張するが、本日発表のCOE採択情報を見ると、私学もなかなか健闘しているではないか。ただ、旧帝国大系を中心とする国立大学、そして私立大学でも早稲田・慶応など巨大総合私学ががんばっていることは明らかである。国立・公立・私立を問わず、基本的に長い歴史と大きな規模をもち多くの実績を持った大学の中のプロジェクト集団(研究者集団)が選ばれているように思われる。つまり、競争条件はイコールではなく、最初から、大学間に大きなギャップがあるのである。その大きなギャップ・格差の拡大をCOEプロジェクトが推進するという側面もあろう。
そのようなCOE制度導入の初発の競争条件の格差の問題性(日本全体のバランスのとれた発展戦略からの問題性)を別とすれば、「いい人材といい研究プロジェクト」と思われるもの(今回の審査者によって、そのように評価されたもの)が一応はCOEに選ばれたといえるだろう。
問題は、そのような評価が本当に当っているかどうか?
数多くのプロジェクトが不採択になった(国立、公立、私立の採択率が公開されている)のであり、不採択となったプロジェクトの関係者は、採択プロジェクトが本当に成果を上げているかどうか、本当に期待される世界的レヴェルの仕事をしているかどうか、しっかり監視する必要があろう。ただ、数年のプロジェクト期間で本当に成果が出るのかどうかは、それ自体が問題でもある。ともあれ、COE構想の真価・意義は成果によって検証されなければならない。審査者が審査される[22]。科研費の場合に審査者は審査終了後公開される。今回のCOEプロジェクトに関しても、まさに審査員は全員公開すべきであろう。
本学では、COEに1件だけ医学部・生命科学関係のプロジェクトが採択されたようである。当然であろうし、またこの間、改革問題で繰り返し明らかにしてきたように、長年にわたる膨大な市税投入=市民の支援=市民の期待=地域貢献=学問的貢献といった諸要因から考えて、必然でもあろう。市大で医学部のプロジェクトがCOEから落ちるようでは、まさに「廃校」という選択肢が求められるであろう。
本学は、医学部以外の諸学部は、いつか以前にも書いたが、「医学部付属[23]」とさえ評されるほどに、医学部・その付属病院に設備費も経常費も、人的にも予算上も、圧倒的部分が割り振られて厳しい(ある意味で肩身の狭い)状態におかれているからである。
清成氏は、「センター・オブ・エクセレンスの構築」を一節に立てている。冒頭、「大学には様々なタイプがある。研究型大学と教育型大学に大別できるが、後者には教養教育を重視する大学と職業人教育に重点を置く大学がある。もちろん、これらを組み合わせた総合大学もある」(132ページ)と。
本学の場合、現時点では、COEに採択された医学部が研究型大学のしての資格を認定されたに留まる。今後、ほかの学部をどのように発展させるのか、これが問題だ。
「わが国においては、国際的に競争力を有する研究型大学が十分に育っていない。ここでいう研究型大学とは、自然科学の分野において、基礎研究を組織的、系統的に行い、大学に固有の領域を確立している大学をいう。アメリカにおいては、一九七〇年代の初頭に、連邦がいくつかの大学に基礎研究の資金を投入し、研究拠点の形成を図った。こうした拠点が「センター・オブ・エクセレンス」と呼ばれたのである。その後、州政府などが提唱した産学官の連携によって研究開発拠点として「センター・オブ・エクセレンス」の形成を進める動きが続いた」(132ページ)と。
アメリカのような世界最大・最先端を行く国でさえ、最先端の研究拠点を構築するためには、「連邦」の資金を集中的に投入する必要があるのである。つまり、現代も、長期的世界的戦略から最先端の科学技術を開拓していこうとするなら、公的資金の集中的投入が必要だということであろう。
清成氏によれば、法政大学もCOEにチャレンジし、昨年度(平成14年度)に「日本発信の国際日本学の構築」が選ばれたそうである。ただその場合にも、重要なポイントは、「歴史の古い大学として、これまで蓄積してきた研究成果を基礎にして研究型大学としての性格を強めることは、生き残りの上できわめて重要である」としている点であろう。
本学に関していえば、「蓄積してきた研究成果を基礎にして研究型大学としての性格を強める」という志向は、すくなくとも商学部ではCOEにチャレンジしたので(残念ながら不採択だったが)、あるといえよう。本学がチャレンジしたもう1件は、鶴見の連携大学院関係で膨大な市費を投じた新キャンパス(二百億円とか、土地、設備のほか新たなポスト・何十人もの教員も含めて)であり、今後、研究成果を蓄積して研究型大学としての本学の独自性を強化する方向に進む可能性はある。
清成氏は、「研究型大学[24]の必要性」を強調している。「日本に真の研究型大学はない」という。そして、「先進国にとって基礎研究を行う研究型大学は必要不可欠な存在であろう。基礎研究はマーケット・メカニズムに乗らないため、日本の国際競争力を維持するためには、国立か私立かを問わず、そうした研究型大学に国が政策的に研究資金を重点配分することはまさに必要なことだと思う」としている。固定的な「研究型大学」にたいしてではなく、研究型プロジェクトに資金投入するという政策、そして研究型大学を増やして一句という戦略は、重要だとみとめている訳だ。
清成氏は、「アメリカはそのあたりが非常にはっきりしていて、上位の研究型大学はほとんど私学になっている。『USニューズ。アンド・ワールドリポート』の大学ランキングによると、研究型大学のトップ30のうち二十四大学が私学だ。しかも、19位までは私学が独占している。つまり、第三者による評価に基づいて、設置形態に関係なく競争的な研究資金が配分されている。そうすると結果的には、私学のほうが自由なため、上位に上がってくるわけである」と(134-135ページ)。
「自由なため」上位に上がってくるとすると、まさに、その自由度をどのようにして高めるか、それこそが大切だということになる。
国立大学の民営化を主張する論拠として清成氏は、国立大学(公立大学もであろう)の場合、「各部局におけるイニシアティヴの欠如と集団無責任体制がひどい」「コスト意識がない」「教育軽視、学生不在の大学運営が横行している」「教官のパフォーマンスについての組織的評価が行われていない」「外部組織(企業、他の大学、自治体など)との連携協力が足りない」「文化財としての大学という自己認識が欠如している」という国立大学事務局幹部の指摘を引用している。現象としての問題点指摘はおおかれすくなかれ当っている。
問題は、そうした諸現象がどうして発生したかということである。官僚主義的非民主的体制というのが一番の問題だろう。「コスト意識」、コスト計算に責任を持つシステムであるときはじめて生まれる。経営は事務官(しかも公立大学の場合、数年で入れ替わる事務官、大学経営に習熟していない事務官)に、教学は教員にという完全分割体制では、コスト意識が発生しようがない。
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2003年7月17日 清成氏の議論の問題点について、昨日の日誌と重なるが、もう少し見ておこう。国公私立大学間の競争の「イコール・フッティング」論に係る問題である。そもそも、「イコール・フッティング」は何を意味するのか? なぜカタカナを使うのか?
明確な日本語では表現できないのか?
「競争条件のイコール・フッティング」(91ページ)では、「活性化を進めるためには、大学間に競争原理を導入すればよい。国公私立と言った設置形態を超えて、競争条件をイコール・フッティングにする必要がある」といった使い方である。
そこで意味することを暗示させるのは、「財政資金の投入」を国公立・私立とも平等に公正に偏らず、「イコール・フッティング」にということである。
すなわち、上の文章に続けて、「それでは、わが国の現状はどうか。学生の約四分の三は私立大学が引きうけているにもかかわらず、財政資金は圧倒的に国立大学に投入されている。平成一三年度における学生一人当り国費負担額を見ると、国立大学は私立大学の16.7倍という水準にある。科学研究費の投入も、国立大学に偏っている」(91ページ)と。
すでに昨日も書いたが、私学と国立の単純な平板な(すなわち学問分野・科学分野抜きの)比較ではなく、学問分野・科学分野における国際比較(すくなくともG7における比較)で計算基準を明確にし、経費計算をするべきだろう。「多いこと」と「偏っている」こととは別である。
「偏っている」というためには、適正な基準を示さなければならない。
「科研費」は学界専門研究者による審査システムを通じて、審査され、配分されてきた。その審査システムのどこに問題があるか、配分の仕方のどこに問題があるか、改善はどこをどのようにすればいいか、適切に指摘する必要があろう。
国立大学が「多いから」、「偏っている」というのは、適正な基準を示さないかぎり、ひがみ根性にとられるのではないか?
私立大学の研究者でも、科研費応募が制限されているわけではない。
申請者数は、私学と国立や公立でどうなっているか?
国立、公立、私立で、申請者(申請件)数と採択件数の相互関係はどうなっているか?
申請内容と審査結果の対応関係はどうなっているか?
採否の審査(システム)にはどのような問題点があるか?
科研費採択研究はどのように公開されているか?
科研費成果が公開されていないものはどのくらいあるか?
公開された成果のどこが不当・不公正であるか?
自然科学系・医学系・最先端部門系が集中している国立大学に科研費の投入される割合が多くなるのは、むしろ、自然のように思える。本学の科研費配分状況を見ると、圧倒的部分が医学部、次いで理学部関係である。文科系は1件1年当りせいぜい100万円から150万円だが、医学系・理科系は500万、1000万、数千万円もざらである。
科研費の圧倒的部分が国立大学に配分されていることと学問分野・科学分野との相互関係はないのか?
「私立大学に財政資金を投入すれば、基礎研究も実学でない分野も、十分に可能である。とりわけ競争的研究資金は、設置形態にかかわりなく、大学を公正に競争させ配分すべきである」(92ページ)という点を科研費配分などについていえば、その通りであろう。
科研費の場合、申請はオープンである(私立大学にも、機会の平等は確保されている)。
公正さはどうか。「公正な」審査ではないというなら、その点をきちんと論証しなければならないのではないか。文科系ではすでにかなり私学の研究者の採択率が高くなってはいないか?
現在のシステムの問題点があれば、適正に修正し、研究者間(大学間)の自由競争を促進すべきであることは言うまでもない。その場合の公正さは、研究の質と予算を的確に評価する度合いによって実現されるであろう。それがなかなか難しいことはいうまでもない。それぞれの学界における批判を通じて、学界の総力をあげてそれを実現していくしかない。
「現に、アメリカにおいては、連邦政府の研究開発資金は私立大学にかなり投入されている。2000年の状況を見ると、トップ30大学のうち私立大学は14校に達し、投入額は全体の50%に及んでいる。州立大学に劣らないのである。上位にランクされている大学は、ジョンズ・ホプキンス、スタンフォード、ペンシルバニア、MIT、コーネル、ワシントン、デューク、ハーバードなどの名門大学である。
ジョンズ・ホプキンス大学は一貫して第1位を占めており、2000年の収入に占める連邦政府の研究開発補助金は42%に達している。人材を集めて研究成果を上げ、年々増加する多額の補助金を獲得しているのである。私立大学は基礎研究になじまないという見解は明らかに誤りである」と。たしかに。
だが、ここで最も大切なことは、「人材を集めて研究成果を上げ[25]、年々増加する多額の補助金を獲得している」という部分である。私立が州立かにかかわりなく、いい人材といい研究に対して補助金が与えられる(その合理性・審査や成果の公開性=検証可能性・明瞭性が必要だろう)、というシステムが重要である。
わが国の場合、国立と公立、私立を問わず、「いい人材といい研究成果にしかるべき多額の補助金」が与えられていないのかどうか、その検証が大切である。
清成氏が「国立に偏っている」と不当性・不公正を強調する以上、「いい人材・いい研究」に不当・不公正にも科研費が配分されていないことを証明しなければならないだろう。
「わが国において科学技術立国を実現するためには、国立大学偏重を改め、私立大学の振興を図るべきであろう」というのは、「偏重」が正鵠を射ているかぎりで、妥当するであろう。「偏重」の科学的合理的説明こそは、国民が求めるものだろう。
この文脈で、「旧帝国大学系の国立大学に蓄積されているさまざまなストックを十分に活用するためには、よりいっそうの民営化をはかることが有効である。大学間の公正な競争こそ望ましい」という主張は、説得力に欠ける。なぜここに民営化論を持ち出す合理性があるのか。清成氏の議論は、「民営化論」先にありきである。
国公立大学にたいする官僚支配・官僚統制には問題がある。「自由な私立大学」はその点ですばらしい。愚かしい小役人的形式主義[26]の問題性はしばしば感じるところである。国立大学協会による国立大学法人法批判、公立大学法人法批判の論点[27]も、まさにここに関わる。予算配分を武器に、非科学的非学問的統制が官僚によって行われる危険性、大学の自主性・自立性・自由を阻害する幾多の官僚主義と形式主義の危険性、これこそが問題とされている。
現在の公的大学のシステムが、自由で創造的な研究を阻害している面があるとすれば、そのような側面を撤廃することこそは重要である。
「産学官連携ベンチャー振興の課題」(p.93ff)では、世界の最先端を行く基礎研究の重要性、それへの重点的資金投入が必要だとする。
「わが国の経済発展がキャッチアップ型であったため、長い間先進技術は外国から導入されてきた。そのために基礎研究が重視されず、国の研究支出も抑えられてきた。基礎研究が弱いから、応用研究、開発へと展開しない。どうしてもシーズが不足する。他方、企業は製品開発や生産技術の改良を重視する。そのための資金は豊富であるから、開発し公の人材は企業に偏ってしまう。シーズの多くは外国の研究型大学に依存することになる。基礎研究について、わが国はフリーライダー(ただ乗り)であると外国から非難されてきた」(93‐94ページ)と。
1.「国立大学に財政資金が偏っている」
2.「国立大学は民営化すべきだ。」
2.「基礎研究が重視されず、国の研究支出も抑えられてきた。」
この3つの主張を合わせると、大々的に国立大学(公立大学)の民営化[28]を行い、あわせて私学への国庫補助を増大すべきだということになる。
だが、そのことと、「基礎研究の重視」とは整合するか?
「わが国の問題を解決するためには、迂遠なようでも研究型大学を形成するとともに、産と学のインターフェイスにおいて活動するサービス産業の形成をはからなければならない。ここでいう研究型大学とは、基礎研究を組織的・系統的に行い、固有の研究領域を確立している大学をいう。研究型大学の数は、アメリカではほぼ二〇〇校に達している。上位には、ジョンズ・ホプキンス大学、MIT(マサチューセッツ工科大学)、スタンフォード大学、ハーバード大学などの私立大学が位置している。これにたいして、わが国では国際競争力を有する研究型大学は皆無に等しい。それでも、1995年には科学技術基本法が制定され、基礎研究が重視されるようになっている。さらに、2001年に発表された「遠山プラン」は、研究型大学の形成を意図している。順調に進めば、今後しだいにシーズが生みだされることが期待される」(94-95ページ)と。
アメリカの研究型大学二〇〇校が、どのような大学であり、そのような規模と予算で、どのような学問分野からなっているか、清成氏は具体的には述べていない。だが、仮に単純に人口比で日本が半分だとすると100校くらいの研究型大学が必要となろう。「わが国では国際競争力を有する研究型大学は皆無に等しい」というのなら、まさにその創出にこそ全力をあげるべきだろう。そのためには従来とは比較にならないほどの国家や地方公共団体の公的資金投入が必要ではないだろうか?
その点、清成氏 も「官が緊急にやらなければならないことは、新産業創出のための資金の特別枠を設けることである」といっているではないか。つまり、私的企業や私立大学の現状の予算・現状の財政構造では、そのような戦略的長期的な資金投入はできないということである。現代でも、国家資金、公的資金の戦略的投入が必要だということである。
本学に関していえば、公立大学として、まさにそのような「研究型大学」を目指すべきではなかろうか? 公的資金=市民の血税を投入されていることは、そのような期待があるからではないか?
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2003年7月16日(2) 総合理学研究科・佐藤真彦教授のHPに、ネットワーク管理者、大学のネットワークシステムの対外的責任体制に関する商学部、看護短大、理学部、国際文化学部の決議がまとめて掲載されている。昨年秋から今年三月までに強行された事務機構改革がいかに大学らしからぬ問題をはらんでいるかの典型例である。大学の本質や使命がまったくわかっていない事務機構いじりの側面があるのである。現在、「緘口令」を敷いて検討中の改革プランが、そのような深刻な問題をはらんでいないかどうか。
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2003年7月16日 生協書籍部に清成忠男『大淘汰時代の大学自立・活性化戦略』(東洋経済、2003年6月19日刊行)が置かれていた。激しい私学間競争に加えて、国立大学法人などが誕生することを見込んでの現代大学論である。私学の責任者としての奮闘[29]の経験から、大学の自己責任を強調し、国公立大の「法人化や教職員の非公務員化に疑問を感じる」ことを批判している。私学経営の厳しさはわかる。その観点からする国公立大学への注文にも説得的な論点が数多くある。しかし、問題点も多くみられる。
清成氏は日本における国公立大学の意義を歴史的にどのように評価するのか?
「かつてはたしかに国立大学に存在意義があった。わが国において教育・研究のインフラが十分ではなく、かつ、先進諸国へのキャッチアップが至上命題であった時代には、国立大学の意義は十分にあった」(16ページ)と。
それでは、現在は、本当に研究教育のインフラは十分なのか? その基準は?
たとえば、私立大学は「学生の四分の三の教育を引きうけているにもかかわらず、財政的には恵まれた状況にない」という。これは、教育インフラが十分ではないことを意味しないか?
別の問題もある。学生数をこのように単純に合計していいのか? 医学関係の学生は私立大学が四分の三を引きうけているか? 理学部や工学部の学生数の四分の三を私学が引きうけているか? 手元に統計がないが、医学・自然科学系はむしろ四分の三以上が国公立であろう。
つまり、学問分野により、装置産業的学問分野(医学・工学などの自然科学分野)と文科系(極端なものは数学、哲学や宗教学とでもいえるか)とでは、設備投資部分・「インフラ部分」が決定的にことなる。しかも時代の発展とともに高度化し高額化する設備関係・「インフラ部分」の占める割合は、そのような装置産業的学問分野では必然的に大きくならざるを得ない。これは労働の生産力の発達に伴う資本の有機的構成の高度化に対応する学問・科学部分野での必然的現象であろう。したがって、学問・科学部門間の固定資本部分の決定的違いを抜きにした平板な比較は、意味をなさない。現在でも、高度の科学技術のために財政資金を集中的に投じるメカニズムが必要なのではなかろうか。
私学の立場から国公立を同じ土俵で競争するように求めるのは、それぞれが担う学問分野の歴史的で根本的な前提と構成を無視したものだといわなければならない。だからもちろん清成氏は、一方では「競争条件の平等化」を求める(210ページ)。だが、そもそも競争条件とはなにか? 競争条件の平等化は、いかなる形で、いかなる意味で、合理的なのか?
競争条件で比較すべきは、私学と国公立との間ではなく、私学の文科系分野と国公立の文科系分野のそれぞれ対応する学部間であろう。事実、受験競争においてはそのように学問分野ごとに競争と序列化が行われているであろう。たくさんの私学が激しい競争を行っている現状で、国公立が担うべきは、文科系でも非効率的基礎的分野を中心とするものではなかろうか。国公立を私学と同じ土俵で競争させるのは、私学の存立のためにも問題であろう。「私学対国立大学法人という競争条件をきちんと平等に扱って欲しい」とはどのような意味合いであるか、よく考えてみる必要がある。
非効率的基礎的部分ということでいえば、日本全体の科学技術の研究教育を一極集中的・大都市集中的な配置で進めるのか、あるいは、各地方の大学をたとえ非効率的であっても(したがって国公立大学の形態で)維持し発展させようとするのかが問題になる。こここで科学発展の長期的全国的戦略が問題になる。ここでも単純で平板な一律の「競争原理」を云々するのは、日本全国のバランスのとれた発展戦略からすれば、問題である。
「国立大学に存在意義はあるか」(16‐18ページ)で、結論として「民営化が望ましい」と主張している。
その見地から、著者は、「基礎研究や実学ではない分野の教育・研究は国立大学ではなければ担えない、と言った反論」を批判している。どのようにか?
「基礎的研究のための資金源のほとんどは国が用意することになる。そうした財政資金を国が私立大学に投入すれば[30]、私立大学でも基礎研究は十分に可能である」と。これは何を意味するか?
「基礎研究」は、非効率的であり、学生の授業料だけに依存しては決してやれないということである。そのことを清成氏は認めているのである。公的資金(=財政資金)の投入なくして基礎研究は行えないということ、これが決定的に重要である。
その意味で、まさに日本やドイツの歴史において、また全世界の大学制度において、公的資金を投じて基礎研究が促進され、その公的資金の集中的投入の大学形態として国公立大学があった、現在も多くの国でこの基本的システムは変わらないということである。
新しい傾向、すなわちドイツや中国における有料化・学生納付金引き上げ傾向・国立大学への財政資金の削減などを指摘している(17ページ)が、大学の大衆化や科学技術のグローバル化に対応する一定の変化と公的研究教育機関としての国公立大学の基本的財政構造(圧倒的に公的資金・財政資金によって運営される構造)の維持との関係を見据える必要がある。清成氏が国立大学の「民営化」を主張するのは、結局のところ、私学経営は苦しいので私学助成を大きくしろというに等しい。国家予算における科学技術・大学への財政支出をGDP比で増やすべきではないか、世界的に見て少ないではないかということは各方面でいわれていることであり、私学経営の情報公開とかね合わせて私学助成を拡大する政策は追求されるべきだろう。
「経済的困難を抱えている学生に対しては、奨学金を用意すればよい」(18ページ)というが、現実はどうか? これまでの奨学金をめぐる歴史を見てくれば、むしろ奨学金を削減し、貸付金にしてはいないか? それにそもそも、学生納付金では大学における現代水準の科学技術の基礎研究は行えない、というのが根本的事実であり、ここに授業料問題を持ってくるのは、筋違いである。学生納付金増額は限界に来ているというのが本当のところではないか?
「国立大学の『使命』を問い直す−競争のイコール・フッティング」(72−77ページ)では、次のようにいう(強調は引用者)。
「大学全体の活性化のために、大学間に競争原理を導入することは当然である。そうだとすると競争の条件は公正でなければならないが、実態はどうか」と問題提起する。
私学間ではすでに競争原理が働いている。だから、私学は厳しい経営条件の元にあり、私学の経営は苦しい。その苦しさのなかから国公立大学を見れば、楽そうである。国公立大学はその苦しい競争の土俵に入っていないので、大学全体を、同じ土俵に置きたい、そして競争したい、というのが清成氏の一貫した主張である。
その具体策は? 清成氏は、「公正」な競争条件を求める。つまり、一方では国公立への財政資金を削減し、私学への財政資金投入を増やさせようというわけである。そのために、「国立大学と私立大学の格差」の統計表(73ページ)を掲げる。
ここでも、冒頭に指摘した問題点がそのまま出ている。すなわち、国立学校特別会計の「総額」と私立大学経常的支出額の「総額」とを比較する。すべての対比が「国立」と「私立」の総計ばかりの統計である。それぞれが担っている学問分野・科学分野の区別はいっさいしていない。このような比較基準を持ち出して、果たして合理的な大学改革は出きるのだろうか? 根本的に疑問である。
清成氏は、私学助成の割合(私立大学の経常的経費に占める補助金の比率)が低い事実は指摘する[31]が、国家予算における大学関係予算・科学技術関係予算の総体を問題にはしない。低い私学助成を無批判的に前提にし、攻撃の鉾先を国立大学に向ける。
「研究実績があり、かつ人的資源が蓄積されている旧帝国大学系の大学を活用するために・・・は、民営化すればよい」と民営化論を繰り返す。その応援に、東京大学の林文夫氏の主張を引用している。
「基礎研究を発展させるためにはどうしたらよいか。・・・業績を上げれば給料を上げ、逆の場合は下げる。数年間業績がなければクビ。こういう人事を可能にするには・・・国立大学は民営化する必要がある。
ただ民営化するだけではだめで、政府の補助金は、大学への一括助成は廃止し、・・・・個々の基礎研究に対する助成に再編すべきだ。その助成金の何割かが大学の収入になるようにすれば、基礎研究で業績がある研究者の争奪戦が始まり、彼らの給料は上昇する。おおむねこのような制度を採用しているアメリカの例が示すことは、優れた基礎研究は、市場で供給できるということだ」(『日本経済新聞』1998年10月19日)と。
試みに、林文夫氏の業績を見てみた。なるほどたくさんの「賞」で「業績」が証明されている、ということなのだろう。その業績に見合う給料等の見返りがない、ということなのだろう[32]。そのような個人への見返りの有無は別として、アメリカでも、「基礎研究には助成が必要」という根本的事実は確認しておかなければならない。そして、大学というところは基本的には、実業界と対比するとき、「基礎研究」の場なのではないだろうか?
アメリカの制度が「おおむね」このようであるかどうか検証が必要である[33]が、ある種の競争原理がこのようなたちで働いていることは事実であろう。ただ、「業績を上げれば給料を上げ、逆の場合は下げる。数年間業績がなければクビ」というようなことが、実態としてどこまで貫徹しているのか?
清成氏は、自分の主張の応援者に林文夫氏の議論を利用しているが、法政大学では「業績を上げれば給料を上げ、逆の場合は下げる。数年間業績がなければクビ」というようなことをやっているのか、やろうとしているのか? アメリカの制度の一部分だけを日本に取り入れることが適切かどうか、熟慮が必要だろう。
ただ、清成氏の主張のポイントは、「長期的な資源配分は市場経済にはなじまない。国は基礎研究のための資金を留保し、長期的な視点に立って優先すべきターゲットを政策的に決定すればよい。確保した資金は、競争的研究資金として設置形態にか変わりなく公正に配分すればよい」(173ページ)というところにある。つまり、私立大学には不公正にしか配分されていないので、もっと公正に配分せよ、増額せよという結論になる。
とすれば、もちろん、私学の経営実態の公開が重要になる。「法政の教職員の給与は私学の平均値から比べると高いのです。ですから、給与、講座数などすべてきちんと社会に対して説明ができなければ、もうだめなことははっきりしています」と。正当な見解である。
各教員の負担(学生数、院生数、コマ数、各種委員負担など)、各教員の業績の質と量などと給与の相互関係を適切なものにしていく必要はあろう。
「私立大学は、第二次世界大戦前においては、国立大学の補完的存在にすぎなかった。しかし、大学進学率の上昇や18歳人口の増加によって量的に拡大した学生数の受け皿を用意したのは、私立大学であった。私立大学はひさしく学生数の約四分の三の教育を引きうけている」(「私立大学優位の時代」一八ページ)とここでも、分野抜きの「学生数の四分の三」が強調される。
「成熟した先進国における大学の特徴は、教育ニーズの多様化への対応である。自由度の大きい私立大学が、こうした多様化に柔軟に対応できる」という。
はたしてそうか?
自然科学系(生命科学、遺伝子科学、医学薬学、宇宙科学など)の需要に対し、私学は柔軟に対応できるのか? 柔軟に対応できる分野は限定されてはいないか?
「学生納付金は、教育の質の対価にほかならない」(一八ページ)というが、本当か? それでは、私学の相対的な横並びの学費(学生納付金)は、「教育の質」の平均性・横並び性を意味しているのか?
国公立大学に問題がないわけではない。
この間の本学の事務機構「改革」問題、戦略会議問題などを見ればわかるように、およそ大学教員が経営から疎外されている。学長・評議員に経営責任がないことと、研究教育体制の構築に主体性を発揮できないこととは関連している。その意味で、大学の研究教育を担う教員集団が学生・院生・職員とともに経営責任(市に対する説明責任)もになうようになる自立性・自主性・独立性を確立した法人化であれば、望ましいであろう。
国公立大学の自主性・独立性・公共性が発揮できるようなシステム改革ならば、日本の科学技術、教育研究は飛躍的に発展する可能性がある。
官僚統制やお役所仕事への従属を批判するものとしての「私学」ノシステムに優れた点があることはいうまでもない。
ただ、「教育における私学化の潮流は、世界的な傾向である」といえるかどうか。
初等教育および中等教育においても、公立学校が官僚統制・形式主義の枠のなかで「荒廃」しているとしても、正すべきは、その官僚主義システムではないのか?
私学化の潮流を証明するものとして、「初等教育および中等教育における全学校に占める私立学校の比率をEU諸国についてみると、・・・オランダ70%、ベルギー50%、スペイン32%などが突出している」と。
しかし、初等・中等教育のための設備投資は、大学の自然科学系の設備投資に比べれば、非常にわずかではなかろうか?
大学と初等・中等教育の財政構造の違いを無視していいのであろうか?
「大学の新しい事業モデル」を考えなければならないという。その場合、いくつもポイントが指摘されているが、「学部教育に重点をおくか大学院教育に重視するかで大学の性格は異なってくる」という点は、本学の改革プラントの関係では重要である。
相対的に非効率な大学院教育を充実するのが、公的大学の役割ではないか?
「大学の性格をさらに規定するのは、研究のあり方である。研究大学を志向するのであれば、基礎研究を重視しなければならない。教育面でも、研究者養成に重点をおくことになろう」というが、そのとおりであろう。公立大学として、まさに基礎研究重視の方向をきちんととらなければならないのではないか?これまで、それが不充分だったのではないか。最近十年ほどの間にやっと全学部で博士課程ができたというのが実情であれば、その遅れに甘んじるのか、遅れを取り戻す絶大な努力をするのか、これが問われる。
「勤労と学習の相互依存」(34ページ)で、「知識社会においては、個人の能動的な学習がきわめて重要になる。勤労と学習のかかわり、言い換えれば「働く」ということと「学ぶ」ということの相互依存関係が強まる。このことは生涯学習、しかも高度学習がきわめて重要になっている・・・人生の一時期において学習を行うという時代は終わっている」(34ページ)というのは、当っている。ただし、生涯学習は昔からある種の人々の習性であったのであり、現代との違いは、現代がまさにその点でも大衆化したということだろう。その社会人の勤労と結びついた高度学習を公立大学も地元に密着して行うことは大切だろう。
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2003年7月15日 「市民の会」HPには、「市民の夕べ」の討論部分も掲載されている。私はきょうはじめてそのことに気付いた。市議会の元議長の大久保さんの感動的な市大廃校(国大移管)阻止のための大学・市議会の運動の話はまだ掲載されていないようであるが、その他の発言記録からは当日の議論の雰囲気をありありと思い出すことができる。貴重な発言記録となっている。以下にコピーして、自分のものとしておこう。
討論: |
2003年7月14日 この間に、6月7日の「市民の夕べ」における柳澤悠・東大教授(市大教員OB)の講演が「市民の会」HPに掲載された。市大改革プランの策定においては、きちんと考えるべき重要論点を、市大の歴史を知り、また東大における改革の現状を知っている立場から、そして南アジア研究で世界的な研究を行っている[36]見識を背景に、提起してくださっていると感じる。願わくば、改革プラン策定委員会がこのような建設的な問題提起も十分噛み締め、組みこんで、創造的な改革プランのたたき台を早く大学内外に提示して欲しいものである。「活発な議論」どころか、五月以来、まったくの完全黙秘状態であり、「あり方懇」答申に屈服したみじめな案、学内外から批判ごうごうの案が出されてくるのではないかとの巷間の懸念が,ますます高まっているのが現状である。上記柳澤講演も念のため、ここにコピーして、自分のものとしておこう。末尾の「もう一点、申し上げたいのですが、時間がありませんのでこれで終わりにいたします。」というところが気にかかる。建設的具体的な改革提言部分であろうか?できれば、「市民の会」HP用に、時間不足で話しえなかった部分も展開していただけるとありがたい。また、横浜国立大学教育人間科学部の北川教授のお話も「市民の会」HPに掲載された。これもコピーして自分のものとしておきたい。とくに,北川教授のお話のなかでは、次の箇所がきわめて印象的である。「教養学部案は、先ほど言われていましたリベラルアーツを中心とする学部とまったく同じです。詳しいことは省きますが、これは99%まで失敗することははっきりしています。実際、私達の学部の代表者が教養学部案を文部科学省に持っていったところ、「おたくたち、本当にそんなものでうまくいくと思っているんですか」と逆に言われたそうです。「教養学部で成功している例は東大教養学部以外、どこにもありませんよ」とも。さらに、平商学部教授の「松下政経塾と「中田人脈」の研究 (4)」も次々と面白い戦後日本史・政党史・労働運動史と人脈史を明らかにしており、興味津々である。
柳沢悠氏意見発表「答申と大学人」(大意紹介)
ただいまご紹介いただきました柳沢でございます。横浜にゆかりのある大学関係者、11大学・研究機関21名が集まりまして、「あり方懇談会」の答申は、単に横浜市大だけの問題ではなく、全国の大学の今後にとっても見過ごすことのできない、大変深刻な方向を出しているのではないかということで、声明(市民への訴え)を発表いたしました。今日は、声明の内容を全部お話することはできませんが、何点かをお話したいと思います。 |
北川善英氏ご挨拶「大学改革に求められる姿勢」(大意紹介)
横浜国大の北川と申します。皆さんのお手元にお配りした資料をご覧いただけばお分かりだと思いますが、横浜国大から、したがって神奈川県から国立の教員養成機関を一切なくすということが、ここ2年間にわたって問題となっています。そこには、横浜市大と同じような問題が含まれている、ということをお話したいと思います。 |
[1] 学生には? 関係する一般教職員には? その周知徹底の文書的証拠は?
学部長から説明はうかがったが(またそのさい議事録の原稿文書を見せてもらい、一部いただいたが)、周知徹底のための公的な配布文書を見せてもらったわけではない。昨日に至るまで、そのような文書が公に配られたということはない。そうではないのか?
議論が水掛け論にならないためには、いつ、どのように周知徹底する措置をとったのか、その明確な文書証拠が必要である。
[2] 私は学部長に、「きちんと教授会でご説明ください」とお願いのメールを送っておいた。
念のため、そのメールをここにコピーしておこう。8月21日臨時教授会で学部長がどのような行動をとられるか、それはまたこの日誌でご報告しよう。いずれにしろ、匿名氏の「告発」の一つのポイントは、法律関係の人事に関する「介入」であった。この重大問題はどうなったのか?
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学部長
川内先生
日誌には下記のように書き加えておきました。
学部内外に明確なご説明が必要でしょう。
教授会議事録にその説明を記録しておくことが必要でしょう。
一言、進言させていただきます。
ながみね
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2003年7月30日(2) 7月28日付で入手した匿名情報(告発)に関して、商学部長から先ほど、直接、「あの匿名情報は事実誤認である」との指摘を受けた。商学部長によれば、学部長は商学部教授会の決定を文章化し、各学部に知らせると同時に、非常勤に関しても学部教授会の決定(今回アンケートは行わない旨)を知らせる文書を配布したということである(学部長名の非常勤講師各位へのお知らせの文書も見せてもらった)。すなわち教授会の議論を踏まえ、7月9日からの拙速な実施はしないこと、非常勤講師や他学部にも問題提起を行い、商学部の決定を関係各位にお知らせした、というご説明であった。教授会議事録でも確認されることになろうが、そのような行動をとったと学部長から説明いただいたので、匿名情報は不正確である、ということをここで明らかにしておきたい。
ただ今回の不正確な部分を含む憶測が広がったのは、国際文化学部声明のような明確な形で情報を学生と教職員に公開しなかったことにある。商学部長の説明は、少なくとも一般の学生や教職員には伝わっていない。そのような不充分な情報伝達の結果であったということだけは確実である。学生・教員・職員に関わる教授会決定は、迅速適正に(今回の場合は7月3日教授会直後に、したがって7月4日には)明確に声明文で周知徹底しておけば、憶測を呼ぶこともなかった。
学部長からの教授会での正式なご説明は次回21日の臨時教授会あるいは9月定例教授会で行われるであろう。
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[3] まさにこれは事実で、国際文化学部の公明正大な態度表明(学生・教職員が見ることができるように声明文の公開・掲示)とは裏腹に、商学部の教授会決定は文章化された形で公開されておらず、われわれ教授会メンバーにもいっさい文章化したものが配られていないことは事実である。
[4] 私は、学部の名誉にかかわることなので、HP日誌で公開した文章を学部長にはE−mailでお送りしておいた。学部長・評議員各位が、私が知らせるよりも前に私のHPを見たのかどうかはは確認していない。
他の方々がどのようにされたかは知らない。
[5] 7月30日(2)の日誌で訂正しておいたように、商学部長が、国際文化学部にたいしても事務局にも、アンケートを行わないという教授会決定を伝えたということである。
[6] 私個人には、学部長から「教授会決定に従いしかるべく行動した」との後説明があったが、教授会に対しては、次回の臨時教授会のおりに、ご説明があるだろう。
[7] 本日誌7月30日(2)でも明確にしたように、商学部長から呼ばれ、学部長私鉄において、「匿名情報は不正確、誤り」との指摘を受けた。学部長は、各学部と非常勤に対し知らせ、教授会決定に基づく態度表明を行った、事務にも伝えたということなので、その点を付記しておきたい。
[8] 今日現在(7月28日)もまだ掲示されているのを確認。
[9] 事実の問題であるが、少なくとも私も決議や声明文を見ていない。
公開の文章でなければ,教授会のメンバーでも欠席していた人はわからないし,ましてや非常勤や学生諸君にはわからない。
公開性のある明確な態度表明が学部長・学部執行部には求められる由縁である。
[10] 「なにも決めていない」とはどういうことか?
アンケートは「7月の試験期間前に実施する」というのが自己点検評価委員会(事務局)の提案であり,それを審議したはずである。それを実施しないというのが教授会の長時間をかけた審議の結果(決定)だったはずである。
事実の問題として、7月試験期間前には、自己点検評価委員会が提案した全学一斉アンケートは実施されなかった。これは事実の問題である。
それはなぜか?
商学部においては、教授会の決定なしに、だれも,勝手に実施しなかったというのか?実施しなかったのは誰の責任だというのか? 「教授会としてはなにも決めなかったが,各教員が勝手にアンケートを行わなかった」というのか? こんなことが通用するのか?
それとも、自己点検評価委員会のアンケート用紙を使ってアンケートを定められた期間に実施した教員がいるのだろうか? 誰が,いつ,どの講義で?
これも事実の問題である。教授会メンバーの意思確認、教授会議事録確認、および事実関係の明確化が求められる。
[12] もしも、商学部教授会がやると決定したアンケートの書類等を事務局が配布しないとすれば、職務サボタージュになろう。責任は担当の事務局(この場合事務局企画課)にあることになる。この「評議会情報」を伝えてくれた人のいうとおりで、教授会がやらないと決定したからこそ,事務局は配布しなかった(できなかった、配布したものは回収した)はずである。学部長(それを補佐する学部の評議員)の曖昧な態度は、事務局の責任問題にも発展する。その場しのぎの,筋の通らない態度は許されないのではなかろうか。
[13] 同HP掲載の平商学部教授「松下政経塾」人脈研究が最後の6までが完結しているのを知った(補論まで公表されていた、いろいろ面白いところはあるが,特に矢吹教授があの獄中の永山則夫と面会したいきさつは、「現実は小説よりも奇なり」という感じであった)。通読し,水面下の人脈が、現代の情報公開の趨勢とIT技術,そして政治的感覚と情報探索の興味・センスがあれば(みがけば)、相当のところまで解明できることがわかる。資料探索ケーススタディの実例として、学生諸君にもいい勉強になるのではないか。
また、私の研究室HPも矢吹教授HPにリンクされたことを知った。
インターネットの武器を使って、活発な議論を盛り上げ,大学内外の改革世論を刺激することができれば、それを通じて市民とともに21世紀型大学を創造することにいくらかなりと貢献することがあるとすれば、すばらしい。主観的には,そのような意義のあるものとするため、がんばろう。
「生まれ変われ」などと命令する(スローガンの作成者は誰か?)のではなく、「生まれ変わろう」と連帯的に呼びかけることにしよう。
[14] 『神奈川新聞』(7月21日付け)には、シンポジウムの報道記事、および「横浜市従業員組合第2回市大改革を考えるシンポジウムおよびそのアンケート結果」の記事が掲載され、また3面くらいのところの例の「辛口時評」の欄に、あまり「辛口」ではない小川学長の時評が載っている。さて、この時評はどのように評価すべきか? ある人の評では、「改革の方向性を予測させるもの」というが、具体的なものはなにもないようにも読める。
[15] 私のところには直接の情報はないが、ほかの方のところには学生からまさに「レポート」を提出するようにということで参加が求められた」という学生からの情報が寄せられているということである。
事実として「レポート提出」と「シンポジウム参加」とが結びつかられていたようである。
[16] 「市民の会」(市大名誉教授・長谷川洋代表)の「声明」も、7月20日大学主催シンポジウムの積極面と同時に、こうした問題点を指摘している。以下に、念のためコピーしておこう。
-----------「市民の会」声明------------
7月20日(日)、横浜市立大学主催にて「生まれかわれ!横浜市大〜大学改革シンポジウム」が開催されました。「市民の会」からも多数が出席し、同シンポ終了後に以下の声明を発表いたしました。
―― 7.20 「大学改革シンポジウム」についての声明 ――
拙速な改革案づくりではなく、市民、学生、全大学人の総意が生きる改革を
1.「生まれかわれ!横浜市大」をメインスローガンとする「大学改革シンポジウム」(主催:横浜市立大学)が7月20日(日)午後、開催されました。
2.私たちは、この「シンポ」を、横浜市大自身が主催して開催したことを評価するものです。横浜市がシンポジウム開催や市民アンケート実施費用として1500万円もの大金を予算化し、市民の意見を聞く姿勢を示したこと、その具体化として大学自身が、市民に向かってこの種の企画をしたことは、市民の声を聞こうとする姿勢の具体的表れとして評価するものです。しかし、「時間的制約」から参加者からの発言は全く許されない運営は一方的と言わざるを得ません。とはいえ、パネラーからは今後の大学改革について生かすべき、示唆に富む数多くの「具体的提言」がなされました(例えば、@実施にあたっては、学内の十分なコンセンサスを得る事〜清成忠男氏 A相手の立場を良く考え、拙速な結論を避ける事〜篠崎孝子氏 B目先の財政的理由にとらわれず、100年の大計に立って考える事〜村松久美子氏 などなどです)。
3.同時に、この「シンポ」の問題点をも率直に指摘し、大学自身が自らの力で進めようとしている「改革案」づくりに生かされるよう期待します。
4.私たちが考える問題点は、以下の諸点です。
@ この「シンポ」は、余りにも拙速すぎます。もし、市民参加のシンポジウムを今回のみで終わりとするのであれば、なおさらです。その拙速さは、とりわけ準備過程を見れば明らかです。(*1)
A 市民の宝・市民の共同の財産とも言うべき75年の歴史を持つ大学の進路を決めるには、市民の意見を充分聞くべきです。本日の限られた時間だけでも数多くの「提言」がされたように、大学に対する市民の意見・要望はいわば無尽蔵です。その横浜市民の全ての英知を結集する、その英知から生まれる日本有数の公立大学づくりこそ、「オンリーワンの大学」づくりではないでしょうか。横浜市や大学に、市民の意見をメールやFAX、郵便などあらゆる手段で受け入れる対応をすること、市内18行政区できちんとした準備(充分な広報)をして、市民の意見を聞く集いなどを、少なくとも1回以上は開くこと、そこで出された意見を集約することなどの作業が、最低必要な作業ではないでしょうか。(*2)
B そういう作業を通じて、市民から出される苦情や不満、期待の声や要望をしっかり聞くこと、それにきちんと応えていく、そういう大学のあり方こそが、今求められているのではないでしょうか。
5.拙速な改革案づくりではなく、市民、学生、全大学人の総意が生きる改革を
@ 今、学内では改革推進委員会のもと改革案づくりが進められています。最大の構成員である学生から不安や疑問、意見、要望が数多く出されている(*3)にもかかわらず、彼らに対しても一度の説明もされていないこと、「改革推進委員会幹事会」の審議そのものが非公開とされ、議論の過程が教職員にすら明らかにされていないこと、当然のその合意形成も極めて不充分であること、そういう中で改革推進委員会の作業は着々と進めていることなどを考え合わせると、遺憾ながら、全大学人の総意にもとづいた改革が進められているとは言いがたいと思われます。
A 75年の歴史と伝統を持つ横浜市立大学が、法政大学総長・清成忠男氏が記念講演で話されたように、市民、学生、全大学人の総意が生きる改革を進めるためには、現状は余りにも拙速すぎると言わざるを得ません。「100年の大計」を誤り、歴史に汚名を残すことのないよう、市長、学長はじめ、全ての関係者に一層の努力を切望します。
2003年7月20日
横浜市大を考える市民の会 代表 長谷川 洋
(*1) この企画の案内が全学的に明らかにされたのは、7月2日です(7月2日「届け出印」を捺印した案内が、学内掲示板に掲示された)。大学のHPに掲載されたのも、7月2日以降でした。学生や市民、卒業生がこの企画を知って、案内のチラシをもらいに行っても、「印刷屋から届くのは7月5日(土)以降」とのことでした。
しかも、参加の申込み締め切りは7月11日。つまり、印刷物が完成して参加申込みの締め切りまで1週間足らず。そして7月20日が開催当日。この間、市民への広報活動はほとんどなきに等しいのが実態です。通常、500人規模の会場で一般市民を対象に集会を企画する場合、少なくとも1ヶ月以上の周知期間を確保し、その間様々な広報活動を行った上で実施するのが、市民的常識ではないでしょうか。従来、この種の企画は横浜市自身も広報「よこはま」に掲載するなどの努力がなされてきました。それからみても、今回の対応は余りにも拙速、異常です。
(*2) 横浜市は従来から、区民会議などで、市の重要政策について、市民に対する説明を行い意見を聞いてきました。
(*3) 学生の声は、この間私たち市民の会と学生が協力して進めた「学生アンケート」、横浜市従業員労働組合大学支部などが集めたアンケートなどをみれば、市大生の多数が、母校の進路を真剣に考えていることは明らかです。その学生に対して、大学としての説明や途中の経過報告なども一度も行われていないことは、どう考えればいいのでしょうか。
横浜市大を考える市民の会
[17] 清成氏の基調講演も傾聴に値する指摘はたくさんあったし、卒業生の村松さんの発言にも感動した。そのほかの討論者の発言も良心的なものが多かったと感じた。数百人の市民を前にした(いわば数百人の試験官の前の発言である)以上、市民の見地に立たないものにはブーイングが出たであろうが、そのようなことは感じられなかった。市民公開というシンポジウムのやり方は、清成氏によれば、東京都とは違って、民主的だそうで(清成氏は東京都の4大学統合関連のシンポジウムにも数日前に参加したとかで、そこには一般市民の参加はなかったとか)、その進んだ点は評価しなければならない。
もう1歩、進めることを市民は求めたということである。参加者市民に発言させないやり方、このシンポジウムのやり方・進め方が批判の的だった。「オンリーワンの大学」づくりをめざすなら、まさに改革論議への市民参加のあり方も最先端を行くものにすべきだろう。
[18] 国立大学法人法に関しては、学長権限の絶大さが問題にされている。学長リコール制の設定や、学長選挙における民主性など、法案の付帯決議が示すような、大学の自治を守る諸制度・運用が必要だろう。
それよりも、国立大学法人法で問題なのは,文部科学省による統制の強化という側面である(その一例として、下記,引用(本文)を参照)。官僚主義の弊害が、大学をだめにしてしまう危険は、きわめて大きい。国立大学法人法案の「付帯決議」23箇条をみるべきである。
------法の宣伝文句-----------
「文部科学省による護送船団方式を改め、それぞれの大学に権限と責任を与え、個性的で競争力のある存在にさせることが狙いだ」
-----法の実際の危険性--------
「文科省は口先では大学の自主性とか自立性とか美辞麗句を並べるが、実際に出てきた法案の条文を見、法人化の準備と称して文科省が大学に対して強制してきたことを見れば、自主性・自立性など嘘八百だ」ということに気付いた大学の内外の人々たちが反対の声を挙げてきた。・・・・・・・・
国立大学法人の法(案)に反対している大学人の多くは、「法人化」そのものに反対しているのではなく、「法人化」の名の下に大学に対する文科省の権益・支配を確保・拡大しようとするこの「法案」の内容に反対しているのです。
「中期目標」を文科大臣が定めることについて。・・・そもそも研究というものが、6年という一律の期限を切って目標を立て、それを確実に実現しうるようなものなのか・・・
大学の研究目標を「文科大臣が定める」という、世界にも類例がなく、文科大臣の能力・資質から考えても虚構としか言いようがない条文はどのような発想から出てきたのか?
実際には文科大臣にはそのような能力がないことが誰の目にも明らかなのに、法律の条文にそう書いておこうというのは、文科省と大学との間に中期目標をめぐって対立が生じたとき、「定める権限は文科大臣にある」と言って文科省が押し切るための切り札、
これに対し多くの大学人が不信感を持った
「『統制が強まる』と言うのは素直には理解できない」と意見があるが・・・文科省が「大学の原案を最大限に尊重」と口では言いながら、実際には法案の原案では「尊重する」とあった条文の文言を途中から「配慮する」に弱め、野党委員から「元に戻せ」と要求されても頑として応じなかったのはなぜか?
文科省の大学に対する統制を強めようという意図以外に、いかなる合理的な「理解」が可能なのか。
この法案の目指す「統制」が今までの「統制」と本質的に異なるのは、「文科大臣が中期目標を定める」という条文等により、大学の具体的な研究内容を文科省が「統制」する道を開いたことです。(中期目標・計画に研究内容をどこまで具体的に書かせるかについて、文科省が法案の成立前から大学に事細かに指示を出していたことが国会で問題になった・・・)たとえば大学が提示した中期目標に、政府に対して批判的な、あるいは政府にとって都合の悪い研究が含まれていたとします。文科大臣は大学に対して「この目標は書き直しなさい。(でないと運営交付金も今までのようには出せませんよ。)」と言うことが可能です(カッコ内はおおっぴらには言わないでしょうが)。その場合、もちろん文科省は、「政府を批判する(政府に都合の悪い)研究だから」とは表立っては言わず、何か他の(「昨今の財政状況にかんがみ、より緊急性、確実性の高い研究にシフトすべきである」というような)もっともらしい理由をつけてくるでしょう。その意味で「どのような研究に力を入れるかも大学自身の判断だ」という・・・意見・・・は、(「文科省のご意向に反しない範囲内であれば」という条件を付けない限り)おめでた過ぎる、と言わざるを得ません。
[19] ただ、公平にいえば、篠崎氏は、学内の学長諮問委員会である「将来構想委員会」の中間報告を支持する形での発言をしたと理解できる。その意味で、大学内部の検討を尊重しようという姿勢を示したものであり、「あり方懇談会」座長の思い出すだけでも煮え繰り返るようなあの傲慢な態度とは決定的に違う。
ただ、「将来構想委員会」の答申は、大学内部の真空のなかで形成されたものではないということへの洞察が不足している。大学教員には経営責任をいっさい考えさせないようなシステムが学則に違反して(学則審議事項には「予算見積り」があるが、一度も審議事項とされたことがない、評議会という大学の最高意思決定機関で、学則は無視されつづけてきた、それを必然化したシステムこそ問題である)、ずっと続けられてきた。そのぬるま湯にどっぷり大学人が浸かっていた。
一昨年以来今年3月まで大学を我が物顔に支配したあの「辣腕」事務局責任者の圧力‐どうしてそれが可能だったのか、その原因も上記学則無視問題に象徴されるような要因も含め、深く検討する必要がある‐の元に、それへのささやかな抵抗として、将来構想委員会のプランも書かれたという側面がある。「将来構想委員会」の答申のなかにも、市大が改革すべき積年の弊が「教学と経営の分離」という形でもぐりこんできているのは、そのためである。あるいは、商学部に関しても、まったく不動のように改革がなされていないとの批判も強い。そのような商学部の保守的体質(変化を望まない姿勢、大学院博士課程の創設庭も非常に遅れたという事情など)に対する批判も「将来構想委員会」答申やその他の答申ににじみ出ているかに思われる。
ともあれ、今後の改革構想では、そのような学則という大学の基本的規則を暗黙の内に無視しつづけるようなシステムを構築してはだめだろう。
[20] 学長は、挨拶でこの言葉を使った。清成氏も著書のなかでこの言葉を使っている。だが、なぜカタカナを使うのか?
日本語で利害関係者といってはいけないのか。あるいは具体的に市民・学生・卒業生・OBOG教職員といってはいけないのか。
[21] 鶴見キャンパスの新設といった問題は、実は、大学内部の内在的な発展構想を積み上げて出てきたものではない。
前市長・関内が国との関係で構想を練り、推進し、大学の理学部・総合理学研究科の責任者と連携して実現したものである。大学には最終段階で、連携大学院とするために、そのオーソライズのために評議会に報告しただけである。大学人としては、その創設の意義などについてきちんと議論したわけではない。
これまでの市大の発展は、そのように主として外在的である。およそ大学内の内在的発展を汲み上げていこうとする姿勢があったのかどうか、これが問われるであろう。
私の知るかぎりでは、内部から出された構想は、関内では無視される、ということの連続のようである。例えば内部からの改革構想として実現した文理学部の改組(国際文化学部・理学笛)にしても、予算はほとんどつけないというやり方であったという。「予算は要らないから是非作らせて欲しい」というお願い路線だったと噂されている。
つまり、予算的措置のつくようなものは、市長・関内が何らかの関係で必要だと判断した場合にのみ、構想されたのであり、大学内部の声を汲み上げるという点では、関内はほとんどやってこなかったということではないか。
大学に派遣されてきた事務局責任者も2年かせいぜい3年いるていどでは、学内の様々の芽を大きくしていくなどという長期的な仕事はできなかったのではないか。少なくともかつては、事務局長は定年まじかの「上がり」寸前の人を据えたということ(噂)であり、もしそれが事実なら、歴代の市長・市当局自体が、大学に対して非常に漫然とした経営姿勢に終止し、低い位置付けしか与えなかったということであろう。
このような点も検証が必要だろう。つまり、市長・市当局が、市民の大学に対する要望などをきちんと調査して大学政策を練ってきたのかどうか、ということである。「漫然たる経営」の態度は、設置者である地方公共団体(その行政的長としての市長、議会的代表として市議会およびその議員)が示してきた態度ではないのか、その点で大学は責任がどのていどあるのか、という点である。「予算見積もり」という学則上の審議事項さえ一度も審議されない状態で、はたして大学の最高意思決定機関としての評議会には「経営」を考える責任と権限を与えられていたのか? そんなことはありえないだろう。
教学と経営の分離こそが、これまでの大学史の長年の実態であった。その分離システムのなかで、「漫然たる経営」の主たる責任は設置者(=地方公共団体としての横浜市:市長はあたかも自分が設置者であるかのごとく発言していたが、清成氏が適切に指摘していたように設置者は地方公共団体である、その地方公共団体の主権者=市民によって四年間の期間限定的な行政責任を与えられているのが市長である、市長といえども設置者を僭称してはいけない)にあったというのが正確ではないのか?
今回はじめて、「大学改革推進本部」というものを設けたのであり、その意味ではじめて積極的な発展構想を考えようとしているのではないか?
市長は、7月20日の話で、「財政問題が問題なのではない」とあたかも大学改革には財政問題を考慮しなくていいようないいかただった。本当か? 人員削減(事務職17名の削減)は、財政問題と関係ないか? 大学の発展のためか?
設置者としての横浜市=地方公共団体が、どのようなスタンスで大学改革を進めようとするかは、この大学改革推進本部の態度にも現われるであろう。その検証が必要だろう。
[22] 確かノーベル賞の小柴氏は、「科研費などの審査員がその学界のトップではなく、二流、三流だ」といった意味のことをどこかで述べていた。彼が申請した科研費などが採択されない経験をたくさん持つのであろう。
ノーベル賞をとるくらいの世界的研究者から見れば、各種のCOE審査の審査員も二流・三流で平凡な本当に世界的な仕事をしていない人々によるといえるのだろう。
それにしても、研究者の間ならまだ学問的科学的批判を通じて競争することも可能だが、学問・科学に専門外の官僚が予算権を左右できるようになると、学問の自由で生き生きとした発達はどうなるのだろう。国立大学法人法の問題点として、その危険性が各方面から指摘されている。
「第三者機関による評価」の公正性・明解性・情報公開・社会による検証が必要だろう。
[23] ここでも学問分野・科学分野を抜きに、教員数や予算額などを基準にすれば、全国の国立大学・公立大学は、そのほとんどが、医学部付属文科系学部、とか理工学部付属、自然科学系付属文科系学部といったことになってしまうであろう。
学問分野の固有の価値を無視した数値的比較の問題性は、いたるところに現われる。
[24] 清成氏の定義によれば、「この領域なら○○大学が強い」といわれるような研究領域を確立している大学のこと、だという。そして、「日本には、このような意味の研究型大学はほとんど存在していない・・・旧帝大が研究型大学かといえば必ずしもそうとはいえない。先端的で個別に優れた研究者はいるが、組織としての旧帝大が研究型大学化というとそうとはいえない。・・・」と。
[25] いい人材と優れた研究の相互関係の感動的事例は、「1944年応召、翌45年9月にフィリピンで戦死」した戸谷敏之の『新版イギリス・ヨーマンの研究』(1976、御茶ノ水書房)に関して清成氏が描いている(108‐110ページ)とおりだろう。
[26] 最近、顰蹙を買った事例は、「職免」問題である。
勤続十年の教員(職員も)に対する賞状と記念品(?賞金?)があったという。そのさい、その賞状などを受け取るために出かける(関内に、あるいは学内で)時間は、「勤務外」として、「職免扱い」という手続きが必要だとしたという。
職員に関しては、勤務時間が固定的に決まっているから、そのような扱いも必要かもしれない(だがしかるべき所属長がきちんと把握していれば、わざわざ「職免扱い」の文書と印鑑押しを増やす必要はない、要はきちんと仕事をしかるべき勤務時間にしているかどうかだろう。十年勤続で表彰する時間まで「勤務外」という硬直的な扱いをするのは、本当に表彰する気持ちがあるのか? ご苦労様という気持ちがあるのか?)。
ところが、教員にまで「職免扱い」の申請書を出させた(出させようとした)というのである。怒った教員は受け取りに行かなかったという。
このばかばかしさ加減をわからない人は、大学教員の勤務時間や給料体系についてまったく知らない人である。研究教育職を一般職に引き摺り下ろしたい人々である。
大学教員の勤務時間体系・給与体系は、一般職員とは別体系である。講義時間等の教育時間、および会議日とその特定の時間帯を別とすれば、大学教員には、特別の勤務時間が固定されているわけではなく、したがって、「時間外」手当は存在しない。
いかに長時間、土日も含めて研究にささげていても、びた一文の「時間外」手当ても存在しない。そのかわり、どのような時間帯に研究するかは各教員の自主的で自由な判断に任されている。研究の成果こそが問題とされる。
そのような基本的なことさえわかっていないのである。それが、一般社会の人ならわかる。大学内部の人・大学関係者がそれをわからないとは。いやはや。
昨年度から「辣腕」事務局長のもと、学会出張も「職免扱い」という全国まれに見る解釈が行われるようになり、教員組合はその撤廃を要求している。
問題の根源は、次の指摘とおなじである。"欺瞞の象徴"「横浜市大公式ホームページ」と事務局によるネットワークシステムの"無法乗っ取り"を糾弾する。
この問題とも関連するが、国立大学法人法による法人化との関連で、たとえば、国立大学協会は、「国立大学法人制度運用等に関する国に対する要請事項等」において、次のように求めている。
「9 その地の要望
・教員の労働時間への専門業務型裁量労働制の適用(制度上の手当が必要な場合にはその手当)」
[27] 国大協文書にさえ、繰り返し、「自主的・自律的な大学運営」の保障・配慮とか、「法人の自主性・自律性を十分に尊重することを改めて要望」とか、「大学の自主性・自律性を最大限尊重すること」といった言葉が出てくる。その繰り返しの多さ。
積年の苦い経験から、あたらしい制度での「中期目標・中期計画」等を通じる官僚支配の危険性が危惧されているか、がよくわかる。
しかし、当面、むしろ、法人化への移行過程における独裁制・全権委任法的体制の創出が問題になっている。
佐々木毅東京大学総長「今後の法人化作業についての所信表明」=東京大学総長の信任投票要求=全権委任法(?)
国公立大学通信7月18日号・編集者の言葉
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東大評議会が「総長への全権委任」の可否投票を24日
に行うそうです[1-1]。ほとんど脅迫ともいえるこの所
信表明を誰が書いたのかわかりませんが、全国の国立大
学に大きな影響があることですので、東大の方々は慎重
な判断を示して欲しいものです。少なくとも、具体的リ
コール制を同時に導入することが不可欠です。
また、早急に判断を迫られることが多いことをもって全
権委任を正当化することは、一大学については全学投票
などが即時に実行可能であることから無理です。大学は
軍隊ではないのですから、学長への全権委任は、大学の
活性化には百害あって一利なしでしょう。
現在、この「所信表明」について東大の各部局で議論さ
れているようですが、今後の国立大学全体に甚大な影響
がありますので、東大の方々の智恵と責任ある対処が期
待されます(編集人)。
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[28] 清成氏の主張とは違って、現実の「国立大学法人」法は、独立行政法人となり国家との関連性の強いものとなった。自由度ははじめから民営化に比べて弱い。その裏面としての国家の財政基盤提供=国家(文部科学省による)監視ということになる。(たとえば、香川大学副学長・法学部教授・高橋正俊氏の解説を参照)
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★☆★☆ ⇒《国立大学法人とはどんなものか》
(2)独立行政法人とはなにか ―――――――――――――――高橋正俊
前回、国立大学は政府組織(文部科学省)の一部であったのを、切り離され、自
立させられることになったといいました。では、どんな形で切り離され、どんな自
立性を与えられるのでしょうか。
法の世界では、独立した権利や義務の主体であることを、人(person)といいます。
それにはもともと人である自然人(私たち個々人です)と、法が特に人と認める法
人とがあります。法は団体を法人として、権利義務の主体と認めることがあるので
す。そうすると、ある団体が財産を持ったり、自分の責任で取引したり、借金でき
ることを旨く説明できるのですね。会社が典型例ですが、国も地方自治体も法人な
のです。
国立大学を国の組織から切り離し、自立させるというのは、国とは異なる権利義
務の主体とするということです。したがって、それは国立大学という団体を法人化
するということです。国立大学は、国とは別の財産を持ち、自分の責任で取引した
り、借金ができることになります。これまでは、財産は国のものであり、取引や借
金は実は国がしていたのです!
*
では、その国からの自立のために、どのようなグランドデザインが描かれたので
しょうか?最も極端な自立の姿は、私立大学という学校法人ですね。国立大学の民
営化ということです。国から補助金を受けますが、原則として自由に運営をするこ
とができます。このような姿にすべしという声もないではなかったのですが、そこ
までの分離はなされませんでした。高等教育の基幹(の一部)として、自立はして
いても、私立大学とは違う公的な色彩の強い大学も必要だということが認められた
のです。
そこで考えられたのは、国立大学を独立行政法人にしたらどうかというものでし
た。一時、国立大学は独立行政法人になるというニュースが流れたのは、こういう
ことです。え?独立行政法人というのはどういうものかですって?これはどうもイ
ギリスのAgencyに由来する制度のようでして、エージェントつまり代理人・代行者
をイメージすると分かりやすいかもしれません。つまり、国が国民にどうしても与
える必要の有るサービスではあるが、国が自分でその企画・立案から実施という全
業務を行うことが適当でない場合があります。国がすべての業務を自分で行う場合、
親方日の丸ですから、どうしても効率が悪く、硬直化しやすく、ニーズへの即応性
が悪いのですね。そもそも競争原理が働きません。そこで、企画・立案の機能を国
(正確には主務省といいます)に残し、実施については国から切り離しエージェン
トにまかせるという制度を考えたのです。
実はこれは昔からある制度で、そのエージェントを特殊法人といいます。ただ、
特殊法人というのは余り評判が宜しくありません。国にもまして効率が悪い、硬直
化している、ニーズへの即応性が悪い、ついでに経営の透明性さえない云々と散々
です。
独立行政法人というのは、法的にいえば特殊法人の一種なのですが、その欠陥を
修正して、行財政改革という現在の要請にこたえうる制度として構想されたものな
のです(もっとも、要請にこたえうるかはまだ未知数ですが)。その基本的な制度
設計はどんなものか見てみましょう。その中心となる考え方は、「事前管理から事
後チェックの重視へ」という言葉であらわされます。これまでのような国による運
営の細部にわたる事前関与・統制から、国民の求める成果の達成を重視する事後チ
ェックへ重点の移行を計るというのです。
この考え方を具体化する中核的な仕組みは、(1)「中期目標・中期計画」の策
定と、(2)「事後評価」です。国、具体的には主務大臣が中期目標を指示します
(中期という、のは大体5年前後のことです)。これは企画・立案機能の行使とい
うわけです。それを受けて、独立行政法人は、それを達成するための中期計画をた
て、大臣に提出します。大臣はそれでいいと考えれば認可を与え、法人はそれを実
施に移すというわけです。
中期計画の実施期間中は法人は自主的な運営が認められ、また予算の使途に関す
る縛りが相当に緩和されます。独自の経営的な工夫の余地がこれまでより格段に広
がり、また競争的な環境が形成されるということもいわれます。
この中期計画の実施期間が終わると事後評価ということになります。すなわち、
その法人の活動の結果を、主務省に設置された評価委員会が中期目標に照らして評
価するのです。その評価によりその法人の運命は決められることになります。さら
に結果は公表されます。
このようにして、これまでより低い国民の負担で、これまでより高い成果をあげ
ることができるように仕組まれているというわけです。さらには評価の公表により、
国民に対する国の説明責任も果たされるというわけです。以上が独立行政法人の基
本のあり方です。
では、このような仕組みを国立大学に適用するのは適当でしょうか?それは次回
で。
(たかはしまさとし、香川大学副学長、法学部教授)
[29] 「第3章 法政大学の改革」に詳しい。
ただ、その場合でも、重要な点は、1994年以降、「合意形成をはかりながら大学改革のヴィジョンについて議論を進めた」ことであり、それは、「合意形成ができなかった1980年代の失敗から学んだ」というところだろう。
「危機意識の共有」を基礎にしながらの「会議をつうじて全学的な合意形成と英知の結集が進んだ」ことが、今日の飛躍の原因だというのは重要だ。(111‐113ページ)
多くの教職員の議論を踏まえてまとめた「開かれた法政21」には、傾聴すべき改革の方向性・ヴィジョン・コンセプトが提示されている。
「第1は、グローバル化への対応である。高度情報化の進展によって、国境を超えた遠隔教育の時代が到来しつつある。外国の大学との競争がはじまっているのである。
第2は、社会との交流である。市民、NPO、企業、行政などとの交流を深め、教育・研究と通じてさまざまな問題の解決に寄与するのである。
第3は、生涯教育の推進である。時代の変化に対応して、幅広い年齢層に対して継続教育を推進するのである。
大学本来の目的である教育の重点は、どこに置くべきか。
第1は、学生の思考力、判断力の醸成である。知識の詰め込みではなく、学生が教養を深め、自ら考える力の強めることを支援するのである。
第2は、学生の社会認識を助け、自己確認を促進することである。・・・
第3は、自立型人材の形成である。明確な勤労観や職業観を持ち、自らキャリアプランを構想し、主体的にキャリア形成を進める人材の自己形成を支援するのである。
研究の上でも、社会との関わりを深める必要がある。高度情報化の進展にともなって生ずる問題の解決はもとより、福祉や医療、環境、防災など様々な問題を解決するために産学共同を推進することが重要になろう」と。(113‐115ページ)
「改革のプロジェクト」(115‐116ページ)では、
「第1に四つの学部の新設・・・・
第2は、大学院の拡充・・・とりわけ、社会人対象のリカレント教育を重視・・・
第3は、2部教育の改革・・・
第4は、通信教育の改革・・・
第5は、エクステンション・センターの新設・・・
第6は、情報システムや施設の拡充・・・
こうしたプロジェクトのなかで、改革の起爆剤として、当面全力を挙げてとりくんでいるのが四学部の新設である。
一八歳人口の急減という状況を考慮すると、新学部といっても、わが国第1号といった新しいコンセプトの学部でなければならない。しかも、時代の要請に合致下もの出なければ成り立たない。
1997年9月には、国際文化情報学部と人間環境学部を文部省に申請し受理された。前者は第1教養部の、後者は第2教養部の改組転換を含み、いずれも市ヶ谷キャンパスに設置する予定・・・・
教学改革本部の提案にもとづいて4学部の新設に取り組んだが、国際文化情報学部は国際文化学部として認可され、また、地域福祉学部は現代福祉学部、情報理学部は情報科学部としてそれぞれ申請した・・・」
「研究教育の質的向上」(123ページ以下)
「大学間競争のなかで生き残るためには、教育・研究の質的向上以外に方法はない。多くの分野において、他大学に優るとも劣らない、独自で質の高い教育。研究を展開しなければならない。
どの既存学部においても、学科の新設・再編により、可能な限り少人数で質の高い教育を行うことが重要である。同時に、大学院教育を重視する。研究者養成はもちろんであるが、高度職業人教育によりいっそうの重点を置く。専門大学院の設置も重要課題である。生涯教育・高度学習時代に積極的に対応するのである。研究面でも、博士課程の専攻を単位としていっそうの充実をはからなければならない。・・・・・・
研究の拡充のためには、外部資金の導入が不可欠である。大学の存在意義を明確にし、受託研究や寄付金等の確保に努力する必要がある。」
「センター・オブ・エクセレンスの構築」(132ページ以下)
「21世紀COEプログラム
[30] その必要があるからそこ、私学助成制度が創出されたのである。だが、私学としての独立性の維持のためには、公的資金の投入割合にはおのずから限度があることはいうまでもない。
[31] 「補助金制度は七〇年に創設され、70年代には比率は上昇傾向を辿ったが、八〇年の29.5%をピークにして以降は年とともに低下している。最近五年間の平均値を見ると12.1%にすぎない。私立大学の経常的経費は年々増加してきたが、補助金の伸びなやみ、補助金の比率は低下傾向をたどったのである。補助金額は3000億円で頭打ちなのである。1975年に制定された私立学校振興助成法第四条は『国は、大学又は高等専門学校を設立する学校法人に対し、当該学校における教育又は研究に係る経常的経費について、その二分の一いないを補助することができる』と規定している。現実には二分の一という上限に春かに及ばない」と。
まさに、日本全体の社会構造・経済構造や予算構造・財政構造との関連で問題とすべきは、「3000億円で頭打ち」という現実であろう。ところが、みられるように、その根本については問題にしないのである。
[32] 各人の業績と各人の収入との相互関係が、合理的にバランスをとるのは必要なことだろう。それは、資本主義・市場原理であろう。労働力・労働とその価格評価の相互関係は熟練・不熟練の評価換算と同じ問題である。これまでは、大学において、研究教育職と事務職の給与体系の違いといった大まかな職務内容別の違いしかなかったとすれば、より木目細かな業績給の導入は−合理的な算定がなかなか難しいと思われるが−、必要となるのであろう。
[33] 「基礎研究」の大学教員が、業績に応じて給料が上がっているという統計を知りたいものである。どなたか、適切な統計をご存知ではないか?
[34] 事実問題として、「現状の改革案」とは、「あり方懇」答申、戦略会議の報告、将来構想委員会の中間報告といったところである。これらに多くの学生は反対だということである。
[35] これまでに公にされている案には、「あり方懇」答申のほか、大学HPには戦略会議や将来構想委員会の案がある。
だが、これらはいずれも教授会や評議会できちんと審議したものではない。
戦略会議も将来構想委員会も学長の諮問会議や諮問委員会の正確でしかなく、その学長が全学にたいし、すなわち評議会や教授会、そして学生や市民に対して、検討に値する提案をしているわけではない。「大学の改革案」という正式なものはなく、そうしたオーソライズされていない各組織の案がとり沙汰されているにすぎない。その点をきちんと見ておく必要がある。
5月以来、むしろ、学長を長とするプラン策定委員会幹事会は、いっさいの議論を公開していない。いっさいに議論を知らさないで、時間切れで、評議会、教授会、学生、OB・OG教職員・学生,市民の理解を得られないような案を押しとおすつもりかもしれない。
[36] ケンブリッジ大学出版局を発行元とする南アジア史の国際学術雑誌の編集責任者の一人としてご活躍中とうかがっている。