20051月前半日誌

 

 

 

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2005114(3) 都立4大学に関連して、教員評価(その問題性)と任期制・年俸     

制度などの関連が不明確・未確定であり、「罠」に陥らないように、という。以下、コピーしておこう。「意思確認」をめぐる深刻な問題は、首大非就任者の会の人々を見てもわかることである。

------都立大QA--------- 

 

★緊急情報★ 2005112日:任用・給与制度の選択問題に関して,大学管理本部は大学からの要求に応じて,都立大では 1月18日(火曜日)16時20分から230番教室において説明会を開催することになった。なお、同日13時からは、科技大でも説明会が行われる予定。(都立大工学部では,111日に助手に対しての説明会が別途行われたらしい。)

 

2005112日:大学管理本部のホームページに, 第1回の法人評価委員会の議事録がアップされた。第2回は114日(金)に開催される。委員会は公開で,傍聴が可能。

 

2005111日:都立大学・短期大学組合が, 現状での『照会』に回答するべきではない(「手から手へ」2320)及び, 緊急要求及び緊急解明事項の当局回答に対する中央執行委員会見解(「手から手へ」2321)を発表。

COMMENT:組合からの明確な立場表明がなされた。 118日に予定されている「任用・給与制度に関する説明会」で,現状の大学管理本部の案が組合の指摘している数多くの不備をそのまま抱えているものなのかどうかをよく見定める必要がある。「手から手へ」2320号にあるように,合理性、正当性のない「選択」は不当であり,

  当局は、「4月の給与を支給するための電算入力のために必要な調査で、それ以上のものではない」と言い、口頭ですが、法人との正式契約 の際に今回の「照会」と異なる選択をしても自由で、いかなるペナルティも課さない、と表明しています。というのは,意思確認書の時と同じ罠でしかない。上記の組合の文書でも,二枚舌であることを以下の例で指摘している。昇任審査や新規採用でも「現状での都の方針」に過ぎない、と断っているにもかかわらず、『回答』では「文書で示 してある」と「新制度」選択の扱いをしているのです。

「新制度」の任期制・年俸制は未定部分を多く抱え込んだ危険きわまりないものであり,「目先の給与アップ」は罠である。いわゆる「旧制度」はもちろん「現行」とは異なる不利益変更を含む新制度である。 「現状管理本部の旧制度」を本当の意味での現行制度と同じものにして「旧制度」と呼び,選択できるのがベストではないか。

 

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2005114(2) 本日日誌(1)の「大学の自治」「学問の自由」にも関わることが、「全国国公私立大学の事件情報」の「中教審答申・パブリック・コメント」(蔵原氏)に出て   

いた。その部分をコピーし、自分のものとしておこう。

 

-----全国国公私立大学の事件情報----- 

20050114

中教審中間報告「我が国の高等教育の将来像」への蔵原清人氏パブリックコメント

Academia RSS
 ●AcNet RSS [30836]より

中教審中間報告「我が国の高等教育の将来像」への蔵原清人氏パブリックコメント(20005/01/06

抜書『蔵原清人(工学院大学教授・東京高等教育研究所事務局長) 私は私立大学の教員であるとともに、私立大学の教職員組合である東京地区私立大学教職員組合連合の設立による東京高等教育研究所の事務局長という立場から中間報告に関する感想と意見を申し述べたい。』

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1 審議の概要と比べて審議会の考え方が大変整理されわかりやすくなった。
2 この中間報告はこれまでの審議会の答申及び文部科学省の方針から重要な変更がされたように思われることに注目したい。その主な内容は次の通りである。

1)高等教育をめぐる国際的な動向について、これまで以上に注目し、それらの動向にそった方針にしようとしている点。特に、EUおよびアジア諸国の動向に注目している。21世紀の社会が「知識基盤社会」であるという分析、「21世紀型市民」の育成の提案、財政支出の強化の方針をとるようになったこともその結果であると考えられる。

2)大学の高等教育の中での位置づけを高めた点。特に大学を高等教育の中核としてとらえることを明確にしたこと、伝統的に一定の自主性・自律性が承認されているという認識を示したこと、高い専門性を持った人材を育成することを最も良く担う社会的な存在として確立してきたものが大学であるという認識を示したことは重要な指摘である。

3)高等教育費についての受益者負担主義の見直しをおこなった点。特に我が国での高等教育費の家計負担度が高いことを認めこれ以上の家計負担は限界に来ていることを認めたこと、高等教育の受益者は学生個人のみならず社会全体であるという視点を明確にふまえるとしたこと、したがってその費用は社会全体や産業界も負担すべきものであることを明確にしたこと等については高く評価したい。

3 しかしながら、21世紀の我が国の高等教育政策の基本を策定しようとするものとしては、基本問題において次のような大きな問題を含んでいることを指摘しなければならない。

1)高等教育をめぐる国際的動向にふれながらも、日本政府も参加してまとめられた、1997年ユネスコ第29回総会で採択された「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」および1998年に開催されたユネスコ高等教育国際会議で採択された「21世紀に向けての高等教育宣言ー展望と行動」および「高等教育の変革と発展のための優先行動の枠組み」について全くふれていない。これらの文書については各国が自主的に実施に移していくという性格のものであっても、全く無視していることは国際的信義に対する背任行為であるといわなければならない。

特に、大学の「自治は、学問の自由が機関という形態をとったもの」であり、高等教育機関の「必須条件」である(「勧告」第18項)、また「高等教育の教育職員を代表する団体は、・・・高等教育の政策決定に含まれるべき勢力」である(同第8項)、高等教育の使命として「人間の諸活動のあらゆる分野の必要に応じることができるよう、高度な資格を持つ卒業生及び信頼できる市民を教育する」、「人権と持続可能な開発、民主主義及び平和の強化のための教育」を行う(「宣言」第1条(a)、(b))等の規定が尊重されるべきである。

中間報告ではこうした国際的合意を無視した結果、「21世紀型市民」という規定は大変抽象的な規定にとどまっていて、教養教育の重要性を指摘しながらも具体的な教育内容構成の手がかりに欠けるものとなっている。

2)高等教育の「ユニバーサルアクセス」をいいながらも、それを憲法第26条に規定する教育を受ける権利としてとらえていない。さらに、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」第13条2(c)に規定する高等教育に関する「無償教育の漸進的な導入」を規定しているが、日本政府はそれを批准せず、またいまだに批准する姿勢すら見せていないことは大きな問題である。

本中間報告では先に指摘した受益者負担主義の見直しも、現状の負担レベルについては事実上肯定している。ヨーロッパにおいて学費は我が国と比べものにならないほど少額である上に奨学金は基本的に給付であることは基礎データに示されているにもかかわらず、本文でふれていないのは重大な問題である。また「現状では社会人学生、・・・パートタイム学生について量的に大幅な拡大は必ずしも見込めない」という。確かに現状の労働条件や生活条件ではその通りである。生涯学習のための大学の役割を強調し、高等教育費財源として「民間企業・・・からの寄付金」についても必要性を指摘しているのであれば、社会人の修学をIT技術の発展に依存するだけでなく、労働条件等の改善を求めること、特に有給の教育休暇の実施を企業に義務づける提案をしてしかるべきだろう。

また将来予測として2007年に大学・短大の収容率が100%になるという予測を示しているが、それは現状での進学率の増加で推移するならばという条件のもとでの計算であり、進学率として表現すれば約51%にとどまることになる。この方針は高等教育を受ける権利の大きな制限であるが、我が国の産業界にとっても重大な立ち後れをもたらすことになる政策であることを指摘しておきたい。

中間報告では、高等教育を構成する教育機関として専門学校をあげている。しかし我が国の学校制度ではその名称は「通称」というべきものであり、制度上は専修学校専門課程である。実態として大学教育に相当する教育を行っている学校が存在していることは承知しているが、制度論としてはあまりにその前提の検討がされていないといわなければならない。専門学校を高等教育として扱うことについて一律に反対するものではないが、そのためには大学等との共通の基盤を明確にしなければならない。専門学校の教員も学会に参加し研究活動を進めているものが少なくないが、専門学校を高等教育機関として位置づけるためには教員資格の一つとしてそれは必須条件の一つであろう。教育内容に関しては生徒の多くは青年期にあたっているのであり生徒の成長発達を支援するための教養教育を実施していることが重要な要件となるべきである。

3)「知的基盤社会」は、単に経済活動だけでなく社会のすべての活動が知識を基盤として行われるということである。そのためには高等教育は我が国の社会にいるすべての人を対象とした計画とすることが必要である。これを高等教育機関の側からのみ見るのではなく、社会の側、国民・市民の側から見ることが必要である。すなわち、国民、社会全体の知的水準をいかに引き上げるかという視点から高等教育政策の検討を行う必要がある。そのためには現在の審議会の委員任命の仕組みを改めて、学術会議、学会、大学等の教職員組合などからの代表を参加させて検討する方式とし、広く社会全体の意見を集約するとともに直接の大学関係者の意見を尊重すべきである。

また「知的基盤社会」において活動する「21世紀型市民」は高い教養を身につけるべきだという点は同意するが、そのための教育をもっぱら大学に求めることは実際的に無理がある。欧米の教育に照らしても高校までの教育を充実させることが不可欠である。現在のように入学試験のための細切れの知識の暗記を中心とした学習ではなく、現代認識、社会認識を深め、人間関係を築き力を合わせること、いろいろな人と一緒に考えることの経験を豊かに持つことが重要である。また具体的知識なしには物事の判断を下すことはできないことは自明であろう。教員の配置、財政的支出の増加などを積極的に進める必要がある。

4 中間報告で取り上げた個々の問題についても様々な問題がある。

1)質の保障と関わって、コア・カリキュラム作成や系統的な教育課程の編成が提案されている。これは教育の問題としては理解できるが、行政的に実施することになればかえって教育や学問の固定化につながり社会の変化に対応することへの制約になるおそれが強い。したがってこれはあくまでも個々の大学において教育課程の編成に努力する視点とすることが大切だろう。その努力は社会にも公表され、それぞれの教育方針を尊重しながら学会での検討の対象として経験の蓄積を進める必要がある。特に重要なことは、いわゆるスタンダードテキストの著作であろう。集団であるいは個々においてそのような教科書を作成する努力を進めていくことによって、わが国の大学教育の内容の充実が進められることになろう。行政的な支援としてはそのような努力を奨励することが重要であろう。

2)大学を教育や研究の組織に注目した整理ではなく、学位を与える課程(プログラム)を中心とした整理に変わるべきだとの提案がある。これは教育内容の検討という点では理解できる考えであるが、大学は一つの組織であることは事実であり、教員がどのような組織に属して教育や研究を進めるのかは大学のあり方として重大な影響を持っている。それを各大学の自由に任せるというのは国としてもあまりに無責任であるといわなければならない。特に教員の合議体である教授会について中間報告でふれていないことは重大な問題である。学校教育法第59条に規定する教授会を今後とも必置とすることは、大学の教育と研究をますます発展させる上で決定的に重要な条件である。

3)設置者別の大学の性格について、国立、公立大学はそれぞれ国や地方公共団体の政策にそった展開を求めていることは重大な問題である。これは国立に関しては事実上、戦前の大学令第1条に規定する「国家ニ須要ナル学術」の教育研究を行うという規定を彷彿させるものがある。これでは国立大学を法人化して独立性を高めたということとは矛盾するという他はなくなる。

中間報告がいっているように、大学は「伝統的に一定の自主性・自立性が承認されている」ということは、国の政策や社会の要求についても大学が自主的自律的自覚的に取り上げることを期待することであって、直接、行政が指示したり介入することを意味するものではない。行政や社会が大学への要望や期待を表明することは当然のことであるが、その際大学への信頼を深く持つことなしには両者の協力を発展させることは難しい。

4)大学卒業者、学位取得者の社会的処遇の改善を求めていることは当然のことであるが、このことは専門職大学院に限らず、我が国の社会において専門職というものをどう考え処遇するかという大きな問題を含んでいて、単なる教育に関する答申で解決する問題ではない。今日のような「総合職」中心の考え方では職種を越えた配置転換が安易に行われるのであって、そのような環境では専門職は育たない。これに関わって人材需給の予測を行うことが提案されているが、現在のような人事政策が広く採用されている環境では本質的に不可能である。1960年代のフランスにおいても同様の政策がとられてことがあったが成功なかった。そもそも人材需給の前提となる経済動向の予測すら不可能であることは理論的にも明らかなのである。このような政策に期待をかけることは、大学教育政策のみならず経済政策としても重大な錯誤であるといわなければならない。

5)財政的な支援に関しては定量的な提案を行うべきである。今日の経済状況の中では中間報告も認めているように学費の負担ができずに優秀な学生が進学をあきらめる事態が進行していくことは明らかである。このような事態になっては、社会にとって大きな損失であり、日本の経済を含む社会の発展にとっての重大な損害である。特に国立大学法人に対しては一般の独立行政法人と同様の国庫支出金の定率削減をやめるべきである。それとともにGDP比を当面直ちに1%まで引き上げるための計画を持つ必要がある。

その他の問題についても指摘すべき点が多いが、時間の制約もあり以上にとどめる。

 

 

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2005114(1) 昨日は、来年度の2年生以上商学部(大学院経済学研究科修士2)のカリキュラムの担当・負担などに関する学科会議があった。予定の2時間を大幅に超過し、5時半近くになった。移行期に伴い、ほとんどのひとがこれまでより負担増のようであり、なかには大幅な負担増の教員も若干名だがいるようである。他方では、この間の改革がオープンにやられなかった側面を反映して、「マイノリティいじめではないか」と評されるような科目担当・科目配置に関して厳しい抗議・批判的な意見が出た。今後、学部・大学院の経営科学専攻コースにおける専任教員の科目等の増設、専任教員の担当科目の妥当性などの検討が続けられる必要がある。

この点は、教員評価にも関わることであり、意に染まない科目を半ば強制的に持たされるという事態(それをやらなければ持ち駒が極めて少なくなる、など)は、1228日に提案された就業規則を見ても、個々の教員にとって極めてゆゆしい問題となる。昨日の厳しい抗議はまさにこの就業規則案とも関連するものであった。

しかも、少なくとも来年度、管理職はすべて行政当局が教員集団(教授会)の自主的自律的選挙によらずに、「外から」「上から」任命したものである(もちろん何らかの情報収集を踏まえてのことではあるが)。その行政組織による任命教員が個々の教員の評価を行うことになれば(現状ではそうならざるを得ないが)、行政の直接介入を意味することになるからである。教員評価を公正に行うことと、行政当局任命の管理職による教員評価とは、大学自治・学問の自由の原則からいって、原理的に言って両立しない。教員組合に提示された就業規則()で掲げている原則(公正・透明性)と実際とが矛盾することになる。選挙における部局利害や狭い経済的利害の支配、あるいは古来から指摘される「衆愚的」側面、単なる数の支配になる問題、その他、よく指摘される弊害問題も含めて、100点満点の答えはないにしろ、また移行期特有の問題もあるにしろ、だれがどのように研究や業績を評価するのか、教員評価問題・大学評価問題と関連しながら今後、継続的に検討が必要となろう。特に、評価するものが評価されなければならないという根本が重要ではなかろうか。

また、私自身、大学院に関してもいくつかの問題を発見しており、しかるべき関係者に確認中であり、その対応によってはいずれはっきりさせなければならないことにもなるかと考えている。昨年6月段階だったか、文部科学省へ提出する担当科目を見て問題を感じた点が修正されたと思っていたが、そうではない部分、さらに新しいコース設定の議論に一切関われなかったことによる問題などにも関連するものである。

5時から開催予定の新学部コース会議には5時半近くになって出席した。そこでは、シラバスなどに関する依頼があったが、一番問題となったのは、コースの目標設定に関することであった。コース目標として設定された3つの目標はオープンな議論で深められたものではなく、それを今後、各個人が自らのこれまでの研究教育と関わらせてどう深めていくのかが問題となる。

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2005112(3) 「意見広告の会」ニュースで、京都大学総長の挨拶を知った。京都大学公式サイトでの意見表明となっている。すばらしい。こうしたことこそ、大学の研究教育の頂点にたつものがしっかりと明確に発言すべきことだろう。いい総長を選び出した(前提となる選挙制度を維持した)京都大学の人々に敬意を表する。

 

------1−2 京大尾池総長、授業料値上げ反対の意思表明---------
     14日、新年名刺交換会にて。

http://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/01_sou/050104.htm

2005年新年名刺交換会 挨拶 −200514日−
尾池和夫

 みなさん、明けましておめでとうございます。

 今年の初詣は、茨城県鹿島の鹿島神宮へ行ってきました。境内の要石が、しっかりと
鯰の頭を押さえているかを確認するのが目的でありました。

 京都大学の基本理念には、地球社会の調和ある共存に貢献するということばがありま
す。私にとって自然と人のことを考える年末年始でした。地球科学の研究者にとっては
、地球に大きな現象が起こるたびに「なるほど」と教えられることばかりです。思いも
よらないというような現象はあまり起こることはありません。しかし、世界の多くの市
民にとっては、思いもよらない現象が起こるのです。そこに科学者と市民の知識の大き
な差があります。

 地球のことを知るのは大学での研究であり、市民に知識を伝えるのは教育です。研究
は進んでいても、その成果が市民に伝わらなければなりません。

 大学で仕事する研究者自身の著作活動、講演会やテレビ番組企画への協力なども重要
なことであると思います。ただ、市民にわかりやすく話をするということは、かなり訓
練をしないとたやすくできることではありません。

 大学が行う組織的なものとしては、広報活動への定常的な財政的、人的投資が必要で
あります。ホームページや広報誌などでの情報の発信もあり、講演会や展示会、博物館
など、市民に開放された場を通じて行う活動もあります。

 京都大学ではシニアキャンパスという名で、社会人をキャンパスの中に受け入れてみ
たり、高校生のためのオープンキャンパスや体験授業、出前講義などを試みてきました
。また本年は、オープンコースウェアと呼んで、京都大学の講義を世界の人に公開する
ことを考えています。また、ジュニアキャンパスと呼んで、中学生に学問をきちんと講
義するという計画も持っています。今日は元教員の先生方がたくさんお見えになってお
られます。このような活動の中で、元教員であった方々にもぜひご協力をお願いしたい
と思います。

 自然に対して人工の典型は法律であると思います。自然の現象は納得できるのですが
、法律はなかなか分からないことがあります。昨年、もっとも私が分からなかったのは
国立大学法人法という法律でした。国会審議で多くの付帯決議もあったのですが、始ま
ってみると毎年予算が減らされるし、病院の経費は2パーセントずつ減らされる。それ
で第1期の間は動かさないと言っていたと思うと、今度は、さらに一番の大きな難問が
、平成17年度の予算編成の結果であります。この中で、政府は、授業料の標準額を改
訂するとしました。改訂とはすなわち値上げであります。

 私はかねてより、授業料を下げるよう改訂する提案をするのが文部科学省の役目であ
ると述べてきました。今回の改訂は決して容認できることではないと、国大協でも意思
表示しました。世界的に見ても飛び抜けて高い授業料で、家庭の教育費の負担が大きく
、少子化を招いています学生たちが安心して学習に励むことのできる環境を守るため
に、皆様方のご協力をお願いしたいと思います。

 難問がいろいろありますが、ともあれ、新しい年が、皆様方にとって、よい年である
ことを願って、年始の私の挨拶といたします。ありがとうございました。

 

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2005112(2) 伊豆名誉教授の市大や首大に関する考え方が、改めて表明された。以下にコピーしておこう。この間のやり取りは、総合理学研究科・佐藤真彦教授HPでも紹介されている。

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>>日々通信 131号 2005年1月12日<<

いま、新掲示板2で、大学問題が論じられている。
<うのき>さんは横浜市大を罵倒して、あんな大学はなくなった方がいいのだと言わ
れた。
私は半ば共感し、やはり、こういう言い方に疑問を感じた。
これは、漱石について罵倒に近い否定の言葉を聞いたのといくらか似ている。

私は横浜市大の問題が横浜市大だけの問題ではなくて、日本の全般的な問題ではない
かと思っているのだ。

私が心配しているのは、日本がふたたび暗黒の時代を迎えることだ。
いまと昔はちがうというのだろうか。
いまは民主主義の時代だという。
しかし、これが民主主義なのか。
日本人民がみずからの手でかちとったものでないから、上辺だけで、脆弱さをまぬが
れないのだろうか。
日本とアメリカでは、根本的なちがいがあるようだが、どこがどのようにちがうのか。
そして、そのアメリカは民主主義の大義を振りかざして、イラクで大殺戮を展開して
いる。

そして、私はファシズムが日本を支配した当時のことを考える。
滝川事件のときは、全国的な反対運動が起こったが、美濃部事件では、ほとんど抵抗
らしい抵抗はなかった。

なぜ、そうなのか。

滝川事件の年は多喜二が殺された年だ。
昭和とよばれる時代の初頭、1926,7年ころ、共同印刷、大日本楽器、野田醤油など各
地で大きな争議があった。
多喜二の暮らす小樽でも、磯野農場の争議があり、港湾労働者の争議があった。
そして、三・一五の大弾圧がやって来た。
しかし、ナップが成立し、プロレタリア芸術運動の全盛期が来た。

それも、満州事変がはじまると、文化運動に対する弾圧がはげしくなり、転向者が続
出した。
そして、滝川事件の1933年を迎えるのだ。
プロレタリア芸術運動は壊滅し、暗い時代がやって来た。
はげしく揺れ動いた時代だ。

やがて、226事件が起り、日中事変に突入する。
それから、15年もの長い戦争がつづき、学徒動員があり、学生たちは戦場で死んでい
った。

昨日の是は今日の非になるを、という「舞姫」の言葉が身に沁みる。
時代は変わった。
人々は変った。
私は小林多喜二という作家の名前も知らなかった。
戦争の時代から戦後へと、時代は変わり、人々は変った。
そして60年。
滝川事件から72年、歴史はくりかえすのか。
いまの学生たちの多くは小林多喜二の名前も知らない。
滝川事件は知っているだろうか。
いまも昔も変わらないと思う。
抵抗運動という点では、いまが昔よりひどいと思われてならないのだ。

昔は野球や相撲のときに日の丸を掲揚して、観客に起立させ、君が代を斉唱させると
いうようなことはなかった。
大本営発表のときにも、日の丸をぶら下げたりはしなかった。
いつから総理大臣や官房長官の記者会見に、だらっとしおたれた日の丸をぶら下げる
ようになったのだろう。
あげくに教師が君が代をうたっているかどうかを調べるために都の教育委員会の連中
が月給もらって調べに来たりはしなかった。
元来、入学式や卒業式に日の丸をぶら下げたり、君が代をうたったりしただろうか。
私には記憶がないが、記憶のある方は教えてほしい。
どうも、私には戦争末期に国民儀礼というものが始まって、その時以来のことではな
いかと思われるのだが。

いまの70代前半の人たちは戦争中というと、あの対米英も末期のことを思い出すらし
い。
しかし、戦争中といっても、1930年代は戦争末期とはまったくちがったのだ。
戦争体制は次第に強化されていった。
その始まりが、左翼に対する弾圧だ。

歴史は同じ形ではくりかえさないだろう。
しかし、やはり、くりかえすのだ。
だから、過去を知るものは未来を知り、未来を知るものは、過去の復活をおそれる。
私の言葉は矛盾に満ちているだろうか。
しかし、この矛盾のなかに過去と未来、そして現在の問題がある。

いまの若者が学んでいる歴史はどんな歴史か。
そして、いま、どんな<新しい歴史>が持ち込まれようとしているか。
私たちが学んだ<国史>の教科書を思い出す。
そして、歴史を学ぶとはどんなことかを考える。 
美濃部事件から<国体明徴>ということが強調されるようになり、やがて「国体の本
義」が出版される。

私はおおいかくされた過去の真実を、いまあらためて思い起こし、再検討することが、
平和運動にとっても重要だとおもう。

新掲示板1に19111月の啄木の短歌と日記を掲載した。この年のはじめには、まだ、
幸徳らは殺されていなかった。
この年の4月、啄木は貧困と病苦のうちに世を去った。
当時の啄木は涙なしに読むことができない。


1
月もやがて半ばになる。
この頃、しきりに心に浮かぶ歌。

世の中を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

寒さも今年は異常高温のせいか、それほどひどくないようだ。
しかし、スマトラ沖地震と大津波につづいて欧州では大雨が降って大洪水が起こって
いるようだ。
本当に、何がおこるかわからない。
皆さん、お体に気をつけてお過ごしください。

     伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu
                         

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2005112(1) 昨日、就業規則案に対する見解を取りまとめるための前提として教員組合集会があった。主催はもちろん教員組合であるが、非組合員も自由参加・大歓迎であり、同じ職場・同じ大学に働く者として不安定雇用や不利益変更に対してはともに闘うことが、集会の基調となった。「全国の就業規則の中で、目下のところ最悪の就業規則」、その意味での文字通りの「オンリーワンの就業規則案だ」というのが集会を支配した空気だった。

全国の大学の就業規則を大学の自治・学問の自由の観点から偏差値で表現するとどういうことになるか? 「最悪」という偏差値は、いったいどのくらいであるか?この「最悪」の偏差値の就業規則を、教員組合(市立大学や都立大学)の至極正当な意見を組み入れて柔軟に修正し、全国的に「最善」の意味での模範となるオンリーワンの就業規則に直せるかどうか、ここに本学や都立大学(首大)の命運がかかっているであろう。

「あまりにも不明確・未確定部分が多く、これを受け入れられる人などまったくいないだろう」というのはほとんどの発言の根底をなしていた。

そこで出された当局提案に対する疑問や批判点、そして結論(集会声明がその中核的結論)とほぼ同じことが、実は先行的に都立大学教職員組合で出されていることを、今朝、「全国国公私立大学の事件情報」で知った。当HPには他にも重要なものが掲載されているが、以下、就業規則・任期制・年俸制に関わる部分、本学に関わる部分だけをコピーしておこう。

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都立大・短大教職員組合、緊急要求及び緊急解明事項の当局回答に対する中央執行委員会見解

■東京都立大学・短期大学教職員組合(手から手へ第2321号)

 

 

有期雇用となること以外は未確定の部分が多く存在する「新制度」

昇給も昇任もある現行制度とは全く異なる「旧制度」

どちらを選択しても不利益は明らか

 

緊急要求及び緊急解明事項の当局回答に対する中央執行委員会見解

 

  1220日に大学管理本部から、「新法人における賃金雇用制度に関する緊急要求に対する回答」及び「新法人における賃金雇用制度に関する緊急解明事項に対する回答」がありました。(手から手へ2318号既報)

 団交の席上、組合は「当局が称する『新制度(任期制・年俸制)』は、期限の定めのない雇用から、有期雇用に変更するもので不利益変更である。また当局が称する『旧制度』は現行の昇給も昇任もある制度の不利益変更であり、緊急要求の回答を受け入れることができない」と発言しました。また、再任基準や評価方法などが、まだ一度しか開かれていない「年俸制・業績評価検討委員会」での検討に委ねられており、現時点で具体的に示されておらず、「制度選択を求めるのであれば、再任基準や評価方法を具体的に示すべきである」と要求している組合に対する回答がないことから、任期制の導入には、反対であるとの見解も示しました。さらに、休職期間中の給料や退職金の算定方法などが明らかでないことを指摘し、当局提案の「新制度」がまだ成案を得ていない不完全なものであることも厳しく指摘しました。

 「緊急解明事項に対する回答」についても、先に述べた「再任基準や評価方法」「休職期間中に支払われる給料」「職務給」「業績給の業績評価の方法やその評価基準とそれに基づく支給率、苦情処理方法」などが「年俸制・業績評価検討委員会」の検討に委ねられており、未確定であることが明らかになっています。

また、退職金の算定にあたって、「平成16年度末に退職した場合と比較し、不利益にならないよう調整することとしている。」という回答は、具体性に欠けており、誰もが自分の退職金を計算できる現行制度のように、具体的な計算方法や「不利益にならないよう調整する」方法などを示すべきです。

 さらに、当局が称するところの旧制度について、昇給や昇任がない点や当局が称するところの新制度について、昇任した者や新規採用者が「新制度」しか選択できないことについて、「合理的な理由」を尋ねたところ、まともな回答ができなかったことからみても、当局の提案が合理性のあるものであると主張するのであれば、もっと説得的に、理由を明確にして、組合と個々の教員の疑問に答えるべきです。

 以上のような点から当局提案の「新、旧制度」なる賃金雇用制度がどちらも、何ら「選択」に値するものではないことは明らかです。

 

 

 

 

Posted by 管理人 : 掲載日時 20050112 01:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

URL : http://university.main.jp/blog2/archives/2005/01/post_356.html

 

都立大・短大教職員組合、「現状での『照会』に回答するべきではない」

■東京都立大学・短期大学教職員組合(手から手へ第2320号)2005111

 

 

現状での『照会』に回答するべきではない

合理性、正当性のない「選択」は不当

あらゆる疑問に答えさせてから判断しよう

 

 

2005111 東京都立大学・短期大学教職員組合 中央執行委員会

 

 現在大学管理本部によって進められている『任用・給与制度の選択について(照会)』に関して、組合中央執行委員会は、 すでに昨年末に、弁護団のアドバイスをもとに『あわてて提出する必要はありません』(『手から手へ』第2316号)という見解を 出しているところです。一方、組合が提出した『新法人における賃金雇用制度に関する緊急要求』および同『緊急解明事項』への 回答が、昨年1227日に当局から示されました(『手から手へ』第2318号)が、それによって当局提案の「新、旧制度」なる賃金 雇用制度がどちらも、何ら「選択」に値するものではないことがますます歴然としてきました(『回答』に対する執行委員会見解は 別掲)。したがって、中央執行委員会は、全組合員と教員に「少なくとも、疑義が解明されるまでこの照会に応ずるべきではない と訴えるものです。

 

…以下,略

 

 

 

 

Posted by 管理人 : 掲載日時 20050112 01:48 | コメント (0) | トラックバック (0)

URL : http://university.main.jp/blog2/archives/2005/01/post_355.html

 

横浜市立大、去るもの残るもの

■伊豆利彦氏のホームページ

 ●掲示板2 http://www1.ezbbs.net/27/tiznif/ より

■学問の自由と大学の自治の危機問題(佐藤真彦教授)経由

 

 

去るもの残るもの

 

抵抗のないところに学問はない。

しかし、抵抗はさまざまにおこなわれるのだろう。

横浜市大の現実は悲惨だ。

しかし、そこに抵抗がなかったわけではない。

首都大学という大学もまた同様なのだろう。

 

大学は死んだと思う。

こんな大学はない方がいいという言葉にも共感する。

しかし、そう言いきっていいのかという思いが残るのだ。

 

大学を去っていった人々のことを思い、残った人々のことを思う。

あれかこれかだけでは、これからの時代をたたかって行けないのではないか。

 

この悲惨な現実から、新しい抵抗ははじまるのではないか。

大学をやめて13年にもなる私にはわからないが、いまの私は残った人たちの苦悩を思い、彼らを励ましたいと思うのである。

 

悲惨な現実をはっきりと見つめ、現実に抗し得ず、時代に押し流される自己の無力をしっかりと認識するところから、新しい道を切り開く必要があるのではないか。

 

首大非就任者の会のメッセージを読みながらいろいろに考える。

http://www.kubidai.com/ 

 

 

 

 

Posted by 管理人 : 掲載日時 20050112 01:47 | コメント (0) | トラックバック (0)

URL : http://university.main.jp/blog2/archives/2005/01/post_358.html

 

 

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2005110日 本学名誉教授・伊豆先生のHPで、本学と都立大学(それぞれの大学の教員、職員、学生・院生)に関するやり取りが掲載されている。以下その部分をコピーしておこう。こうした感想のやり取りを、本学の教員、職員、学生・院生、市当局関係者はどのように反論し、どのように同意し、どのように行動するだろうか? 都立大学の場合も、「非就任者」COEグループの人々は他の態度を取っている人々に厳しい評価を下しているようである。私の研究教育に関連する経済史の教員集団や経営関係の教員集団に対する戸田氏のつぎのような批判は厳しいが、当該教員集団が大学改革の問題点について意見を「外に向けて発した」文書はあるか?「外に向けて発し」ないかぎり、外のものにはわからない。 

 

経済史グループ (3講座) および経営学グループ (4講座) は,一貫して首大構想に協力する行動をとってきた。学部教授会の場では,これらのグループ所属教員からも,構想に対する否定的見解,首大に導入が予定されている制度等に対する批判や不満の声がしばしば聞かれたが,それらを外に向けて発することは一度もなかった。」

 

 

どうしてこのようなことになるのか?

都立大学の教職員組合は、少なくとも私の見る限り、任期制・年俸性などに関して筋のとおった行動をしている。その教職員組合の筋のとおった態度の中には、戸田氏が批判される人々の見識も反映されているのではないか? それとも、その経済史や経営関係の教員集団は教員組合とも無関係か?

 

外から、上からの圧力がくるとき、内部にいる人々が多様な行動をとることは必然である。その評価は、「外から」、「上から」の圧力群、その歴史的社会的諸条件、これに呼応する内部の大学人(教員、職員、学生・院生)の多様な行動様式(それぞれの社会意識など)が総合的に考慮に入れられるべきだろう。都立大学や市大の行政主導のやり方は、国立大学に置ける筑波大学の事例を先例に、さらに国立大学法人法成立の条件下で進展しており、そうした包囲網の中での状況だということが考慮される必要はあろう。

はたして、トップダウン、行政主導の大学で本当に生き生きとした研究教育となるのか、まさに問われているのはこの点である。

 

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1708.太宰治のことはよく知りませんが「日本の文化がさらにまた一つ堕落」・・・

名前:うのき    日付:19() 234

都立大と同じ状況でありながら、なぜか市大ではたたかいが始まってすらいないです。

 

市大の学生はいい加減、教員もいい加減、職員もいい加減。

そのいい加減さが市大の美徳なのです、と市大の人たちは口々いいます。

しかし、こんな大学に税金が使われているのは納税者として納得できないでしょうか。

 

かわいそうなのは沈没する市大と心中する乗客たち。普通船長が一番最後逃げるものらしいですが、市大という小舟では乗客そこのけで誰から逃げ出したのでありましょうか。

むろんこの場合転出だけでなく、いい加減の美徳を以て傍観していることも、逃げているのうちに入ります。

 

ある意味でということなりますが、中田市長が廃校を主張したのは正しかった、という事になるかもしれません。存続に値しない、いい加減な大学だからであります。

 

大学はなくなってよいのかもしれません。学問が生きのびさえすれば。

そして、新しい真の学問は市大や首大からではなく、今たたかっている都立大の教員・院生・学部生の方々の中から将来出てくるはずであります。

 

私の言っていることは一面的な事柄に過ぎませんから、市大の人たちが如何なる権利を主張しようと、それは自由であります。

しかし市民の人たちだって、いい加減に愛想づかしする権利を施行する時期がきたのではないでしょうか。

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1711.うのきさんへ、そして大学の関係者の方々へ

 

名前:伊豆利彦    日付:19() 2347

時代の流れに押し流され、抵抗のたたかいをすることができないのは横浜市大だけではないのではないですか。

 

私は市大の学生が現状に対して立ち上がらないことに絶望的な気分です。

 

しかし、私が市大の現状に憤るのは日本の現状に憤るのです。

中田市長のやり方はゆるせないと思うのですが、この市長は市民の支持を得て当選した市長です。

この市長の再選をゆるしてはならない。

しかし、はたして、横浜市民はこの市長の再選をはばむことができるだろうか。

 

東京都民は石原都知事を落選させることができるだろうか。

 

私は都大も駄目だと思っていたのですが、都大の学生がたたかっていると聞いて、さすがと思い、よろこんでいます。

日本の学生は駄目だと思っていた私の認識はあらためなければならないのでしょう。

それは、あなたのおっしゃる通り、日本の希望です。

そのたたかいから、日本の学問ははじまるのでしょう。

 

しかし、都大の学生がたたかっている様子は私たちには伝わってこない。

都大の学生はどうたたかっているのか。

具体的な動きを教えてください。

 

また、現に横浜市大に関係している方、教授や学生の方から、市大の現状を教えていただきたい。

 

市大と都大にかかわらず、日本の学生の動向について、関係者の方から教えていただきたい。

 

やはり、学生に日本の未来はかかっていると思います。

そして、私の心が暗いのは、私が日本の学生に希望をもつことができないからなのだと思うのです。

http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/souseki@tennousei.htm

 

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200516日(2) 今日は定例教授会。ネイティヴスピーカーの教員(NS教員と略称している)が「辞職願い」を出したそうで、今年度末での辞職願いが教授会で了承された。ハワイだったかに見つかった職場のため日本を去るようである。その辞職理由も、英語教員の現場の声が届かないこと、それに関連したこの間の「改革」に伴う身分不安定な状態(在留許可の条件との関係、ある人の表現では外国人教員に対する「失礼な対応」)に対する怒りが背景にあったようである。当面、来年度の非常勤による手当てのみが確実なようである。すでに昨年夏だったかにもう一人のNS教員も「抗議」辞職(確か教授会に辞職願いに意見を付して提出していたと記憶する・・・正確には7月だったかの議事録を確認する必要がある)しており、これで2人目ということになる。トッフル500点以上を進級・卒業条件とすること(つまりネイティブの熱心な人をしっかり把握しておく必要)とこうしたNS教員の欠落とがどのように整合するのか、教授会では議論になり、今後も問題になるであろう。今のままいくと、そうした教員に関わる問題、その補充人事の問題も現場の声は聞き置くだけで、「人事委員会」なるもので決定するということになりそうである。その危惧が表明された。現場との民主的で有機的な連携を欠いた教育システムは、破綻するのではなかろうか。

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200416日(1)総合理学研究科・佐藤真彦教授が、就業規則及びその付属文書の公開(教員組合への提示)を契機に、鋭い総括的な批判文書「横浜市当局、勤務条件・任期制等について提示05-1-5を公開された(「全国国公私立大学の事件情報」もこの文書が全国的な重要性を持つものと判断したのであろうが、すでに掲載している)。本学及び都立大学、そして全国の国公私立大学の「改革」のあり方・今後の展開を考える上で、熟慮すべき問題点を指摘していると感じる。とくに、大学における教育と研究の使命を果たす上での精神的自由の最大限の確保、大学における民主主義の重要性という点から、現在の「改革」のもたらす深刻な意味が問われることになろう。管理職が民主的な規制(教授会・評議会等による規制)なしに予算・人事を握ってしまえば、自由な発言・自由な研究などはありえない。その点で、次の一節にもっとも注意を引かれた。

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ごくごく近い将来に,行政に対する批判はおろか,同僚教員,とくに,従来のような民主的選挙を経ずに上意下達で任命された幹部教員の学説やその指導学生の研究内容に対しても,学位審査会等において,まともにコメントすることすら憚られるという,甚だ好ましくない雰囲気が到来するだろう.これを,“学問の死”と呼ばずに何と呼ぶのか[i][]

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           これと関連して、上記文書で神戸大学の阿部教授の見解も久しぶりに読み直すことができた。すなわち、

 

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           阿部泰隆(神戸大学):「大学教員任期制法の濫用から学問の自由を守るための法解釈、法政策論―京都大学井上事件をふまえて」+『追記』04-3-28http://satou-labo.sci.yokohama-cu.ac.jp/040328abe.htm 

 

  任期制は多数派による少数派弾圧手段

  任期制は、身分保障に安住した怠慢な教員を追い出し、大学を活性化する手段だ等と思っている人が多いが、実は逆で、任期制法が適用されると、失職か再任かを決めるのは、当該大学(教授会、あるいは理事会)である以上は、怠慢な教員が追い出されるのではなく、学内派閥の少数派は、どんなに業績を上げても、追い出されやすい。多数派の身分が保障され、少数派の身分が害されるだけである。そこで、多数派に隷従するか、むしろ、自ら多数派になるしか、学内では生きることができない。同じ大学で、競争講座をおいて、あえて学説の対立を現出することによって、学問の進展を図ることなど、およそ夢の又夢になる。これでは、教員の学問の自由が侵害され、大学が沈滞することは必然である。したがって、教授の任期制を導入するまともな国はない。任期制が一般的な韓国でも、それは副教授以下に限っているから、日本のしくみは国際的にも異常である。私は、これまで幾多の闘争をしてきた。それは学問を発展させたと信じているが、それが可能となっているのは、わが同僚からは追放されない保障があるからである。もし同僚と意見が合わないと、追放されるリスクがあれば、私は「毒にも薬にもならないお勉強」をするに止めたであろう。・・・

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 と同時に、これほどまでに評議会・教授会がそれぞれの問題について自主的に審議しない現状は、一体何を意味するのか。「それは教授会マターではない、それは評議会マターではない」と、審議事項にあることすら議論しようとしない(してこなかった)現実、その歴史的背景は何か。問題の深刻さについて考え込まされる。

大学教員は、それぞれの研究教育の狭い専門にあまりにも蛸壺化し、大学の使命(本学の場合も何十年かにわたって学則に掲げられてきたもの)とその前提諸条件ということについて思考してこなかったのではないか?

圧倒的多数の教員が狭い専門に閉じこもり、大学の使命、その大学の存立の基礎、大学の経営に無関心ではなかったのか?

憲法、学校教育法、それらに基づく評議会(大学の最高意思決定機関)の責任とされ権限とされて列記され明記された審議事項のうち、「予算見積もりに関すること」、すなわち経営に関わることを一切審議してこなかった(審議させなかった)評議会(その議長としての学長)と大学事務局・市当局の態度に、根本問題があるのではないか?

芦部『憲法』が大学の自治の要件としている重要事項の「予算管理の自治」の意味が、単なる事務的な数字あわせだけの意味に矮小化されて理解されてきたのではないか?大学の研究教育の重要条件としての経営の意味が無視されてきたのではないか?

その意味で、上記批判文書で改めて言及されている「認識」(教員・人間を「商品」呼ばわりすることをはじめ佐藤教授の言う「暴言」という表現はあたっていると思うが)たとえば、本庁から派遣されてきた事務局責任者()の言う次のような認識、「教員は現実は違うのに自身をスーパーマンだと思っている.なんでも出来ると思っている.そこに事務が配転してくればやる気がなくなる」、「教員は横浜市に雇われているという意識がない.設置者がつくった制度を知らないで議論している.権限の構造がどうなっているかを教員は知らなければいけない」、「教員は自分の役割をはっきり認識していない.制度の上にたった自覚がない.何でも出来ると思っている.事務局の責任も8割はあると思う.うるさい集団に対して面倒くさい,やめようと思って,力を発揮していない」などというのは文書証拠が示す評議会の行動(ひとつの事例としての「予算見積もり」の審議の欠如、学則に従い学長・それを補佐する事務局が審議事項として議題にきちんとかかげ審議すべきだがそれをしていないということ)を見ても、事実誤認ではないか?

「設置者が作った制度」は、大学評議会の学則上の審議事項を無視してもいいものなのか?それが「権限の構造」なのか?そうした歴史的事実をどのように総括しているのか?「事務局の責任も8割はある」(その部分はある意味で謙虚冷徹であるといえようが、「うるさい」「面倒くさい」ということかどうか?)ということとの論理的整合性が問題となる。

そのような諸事情も加わってのさまざまの問題点である。これは決して過去のことではない。現在進行中の入試等の問題に関しても、きちんとした教授会・評議会審議(正式公式の審議機関での審議・議決)が行われているかが、議事録で確認されるべきだということになる。

 

 

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200514日 「公立大学法人横浜市立大学職員の勤務条件(教員)(20041228日付文書)で、一番の問題は、やはり「任期制」「年俸制」を深く検討しないままに、行政当局の圧力で法的整合性に問題があるにもかかわらず、導入しようとしていることであろう。「任期」の項目のもと、「1.有期雇用契約 「大学の教員等の任期に関する法律」の精神に則って、労働基準法に基づき、原則として全教員を対象として期間の定めのある雇用契約を締結する」と。私はこの規程の根本において法律的に問題があるのではないかと感じる。

大学の教員等の任期に関する法律(「全国国公私立大学事件情報HP大学教員任期制ウェブログにリンク」)はその精神(目的)として、「第一条  この法律は、大学等において多様な知識又は経験を有する教員等相互の学問的交流が不断に行われる状況を創出することが大学等における教育研究の活性化にとって重要であることにかんがみ、任期を定めることができる場合その他教員等の任期について必要な事項を定めることにより、大学等への多様な人材の受入れを図り、もって大学等における教育研究の進展に寄与することを目的とする」とある。「できる場合その他」を限定して規定しようとするものであり、全教員を任期制にすることを予定したものではない。大学開設の科目等で何が任期制科目としてふさわしいか検討し(教授会・評議会、研究教育評議会など大学の自治の観点からしかるべき機関で)、限定的にその趣旨にしたがって導入しうるというものである。

文章を素直に読めばわかるように、また国立大学法人や学校教育法に基づくほとんどの私立大学のほとんどの教員のばあいにおいても、また本学のこれまでの条件においても、基本は任期のない基幹的な教員集団(定年までのテニュア付き教員集団)で大学の教育研究を担う。ただそれだけでは、「多様な知識又は経験を有する教員等相互の学問的交流が不断に行われる状況」を作り出せない問題点があり、「教育研究の活性化」のためには、相互交流を活発化する必要性を認めて、限定的に任期制の教員を導入するとしている。全教員を任期制にするというのは、立法の趣旨、大学の研究教育の恒常的安定性から言って、詭弁であろう。「大学教員任期法」の諸規定が、学校教育法等に依拠した評議会(教授会)での任期制導入の審議を前提にしていることも、重要である。

本学の「任期制」導入を掲げた「あり方懇」答申の当時、そしてそれを受けた「大学像」策定の当時、「大学教員等の任期に関する法律」しかなく、明らかにそれを前提にした限定的な任期制であるのが筋であった。ところが、その後大学教員に関わらない一般の労働基準法に「任期制」を広く導入することを可能にする改正が行われると、大学教員という特定の職業の枠(大学教員任期法」の諸規定を見れば大学の自治を尊重した種種の制約条件がある)を無視して「全教員」を対象にできるからと「労働基準法」に基づく任期制を導入しようとしているのである。これは法理にかなったやり方だろうか?

本学の教員は、大学教員としての固有の使命や仕事の内容をもったものとしてではなく、一般の企業と同じ職業のものとして扱われ、しかも、一般民間企業でも全職員(全社員)を「有期契約」などにしている事例はないにもかかわらず、全教員を「有期契約」に投げ込もうとしているのである。恐るべき法解釈ではないだろうか?

基幹部分を安定した教職員でしっかりカバーしていない大学(企業)などあるのだろうか?

これが、研究教育の活性化に貢献するのか?

教員の仕事の評価を定期的にきちんと行うこと、それを給料等にしかるべき合理性をもって反映することはありうるが、任期を定めて首切りを可能にする(しかもその評価は大学の自治的システムとは別に行政が任命した管理職によって行える)こととは別であろう。 

目的・精神においてもその適用においても、重大な問題(私の解釈では法律違反)をはらんでいると考える。労働基準監督所でこれが通用するのか?

本学で導入されようとしている上記条項は、もし何も問題ないのだとすれば,今後の日本の大学、社会にとっても重大な(深刻な)意味を持つものではなかろうか?

法律とは、いろいろな意味で力(権力)をもったものが、自由に解釈し、自由に適用できるものなのだろうか?法律体系(諸法律の関連)は考えないでいいのか。憲法において「大学の自治」が保障されている意味は、一体何なのか? 本学には法律家はいないのか?

年頭にあたって、この根本問題を改めて考えさせられる。

11日には教員組合の集会が予定されている。そこでの意見交換に期待し、しっかり勉強したい。