2005年2月日誌

 

 

 

 

2月28日(4)アメリカ民主主義の問題性に関する鋭い指摘(チョムスキーのそれ)を、佐藤真彦教授HPを通じて知った(チョムスキー:「家畜化」教育を超えて (2005.1.17) 05-2-25。コピーしておこう。

 

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チョムスキー:「家畜化」教育を超えて (2005.1.17)

 

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チョムスキー「教育論」第1章
「家畜化」教育を超えて:対談

翻訳:寺島隆吉+寺島美紀子、公開2005年1月17日

 下記の対談は、1999年6月に行われた、マセードによるチョムスキーへのインタビューです。これを読むと今まさに東京都の石原都政下で起きている「日の丸・君が代」問題を語っているのかと錯覚しさえします。教育基本法の「改正」を唱えている人たちが何を考えているのか、これに対して教師は何をしなければならないのか、などを深く考えさせてくれるインタビューだと思います。同時に現在、イラクで進行している事態について新しい視点を与えてくれるものと信じます。近く発刊される予定の『チョムスキー「教育論」』第1章の翻訳でもあります。 


ドナルド・マセード:

私は数年前にボストン・ラテン語学校の一二歳の生徒デビッド・スプリッツラーに興味をかき立てられました。彼は忠誠の誓いを朗唱するのを拒否したことで退学に直面しました。彼は忠誠の誓いは「愛国心を偽善的に勧めるもの」であり、その中では「自由も正義もまったく」ないと考えました。私がお尋ねしたい質問は、教師や役人ができなかったのに、なぜ一二歳の少年が忠誠の誓いに存在する偽善性を容易に見通すことができたのかということです。教師は仕事の性質上、自らを知識人だと考えているものですが、その教師が、そんな少年に明確に分かっていることが分からない、あるいは故意に分かろうとしていないということは、実に驚くべきことです。

 

ノーム・チョムスキー:

これは理解しにくいことではありません。あなたがいま描写されたことは学校でいつも起こっていることです。それは深層で進行している教化の兆候であり、それが一二歳の少年でも理解できる初歩的考えを理解できないようにしているのです。

 

マセード:

高い教育のある教師と校長が、忠誠の誓いを朗唱するよう要求することで生徒に服従を強要し、その結果、忠誠の誓いの中身を犠牲にしようとしたことに、私は仰天しているのですが。

 

チョムスキー:

その仰天が私にはまったく分かりません。実際、デビッド・スプリッツラーに起こったことは学校に要求されていることなのです。学校とは教化のための、服従を強要するための機関ですから。

学校は歴史を通して常に、支配と強制という体系のなかで、自力でものを考える人間を作り上げるどころか、それとは逆の制度的役割を果たしてきました。そして一度よく教育されれば、権力側を支援するやり方で社会化されてしまったことになり、権力側はそのお返しに莫大な報酬で報いることになります。

ハーバードを例にとってみましょう。ハーバードでは数学を学ぶだけではありません。それに加えて行動に関してはハーバード卒業生として要求されることや、決して尋ねてはならない質問の類を学ぶことにもなるのです。カクテルパーティの微妙な違い、すなわち適切な服の着こなし方、適切なハーバード訛りの話し方を学びます。

 

マセード:

そしてまた、特別な階級内での人脈の作り方や支配階級の目的と目標と利益についても学びますね。

 

チョムスキー:

そうです。この場合、ハーバードとMITには鋭い違いがあります。MITのほうがハーバードよりも右翼的機関だとの性格づけは間違いではありませんが、MITのほうがハーバードよりも開放的なのです。ケンブリッジ周辺にはこの違いを言い当てている言い伝えがあります。すなわち、ハーバードは世界を支配する人を訓練し、MITは世界を動かす人を訓練する、というものです。その結果、MITはイデオロギー的な支配とは関係が非常に少なく、自立・独立した思考の余地があるのです。

MITにおける私の状況を見れば、私の言っていることがお分かりでしょう。私の政治的仕事や行動に私は何の妨害も感じたことはありません。そう言ったからといって、MITが政治的行動主義の拠点であると私が言っているわけではありません。それどころか未だにMITは、世界についてと社会についての真実の良き部分を回避する制度的役割を演じているのです。さもなければ、もし真実を教えていたとしても、そんなに長きにわたって存続できなかったでしょう。

世界についての真実を教えていないからこそ、頭上に民主主義の宣伝を掲げつつ、学校は生徒を鞭打たなければならないのです。もし学校が実際に民主主義的であったなら、民主主義についての決まり文句で学生を責め立てる必要はなかったでしょう。彼らは単に民主主義的行動し振る舞っただけでしょうし、そんなことが決して起こらないことは皆が知っています。民主主義の理想について話す必要があればあるほど、組織は民主主義的ではないのが普通なのです。

 これは政策をつくる人にとっては周知のことですし、時には彼らはそれを隠そうとすらしません。三極委員会(旧・日米欧委員会)は、学校を「若者の教化」に責任のある「機関」だと述べています。学校が概して社会の支配層すなわち富と権力を持つ人々の利益を支援するように設計されているからには、教化は必要なのです。

教育の初期に「権力構造(主として会社・企業家階級)を支える必要性」を理解するように社会化されるのです。教育による社会化のなかで学ぶ教訓は、もし富と権力を持つ人の利益を支援しなければ、あまり長く生き残れないということです。あなたは組織から引っこ抜かれ周辺化されるだけです。そして学校は、三極委員会の言葉を借りれば、「望ましくない考えや情報を歪めたり抑圧したりする宣伝扇動システムの中で機能する」ことによって、「若者の教化」に成功したのです。

 

マセード:

プロパガンダ・システムの中で働くこれら知識人は、どうすれば、権力の利益に奉仕する虚偽を広める、このような共同謀議から、逃げることができるのでしょうか。

 

チョムスキー:

どこからも逃れることはできません。彼らは実際、機関によって彼らに要求されている貢献を行っているだけなのです。彼らは喜んで(おそらくは無意識に)支配体制の要求を成し遂げるのです。

これは大工を雇っているようなもので、彼がそうする契約になっている仕事をしているとき、それからどうやって逃げるかを尋ねているようなものです。彼は期待通りに機能したのです。

そうです、知識人はまったく同じ貢献をするのです。知識人は、富と権力をもつ人々の利益に合致するような程度に、現実を正確に記述することによって、期待されたとおりの仕事をするのです。富と権力をもつ人々は、私たちが学校と呼ぶこうした機関を所有し、そうすることによって実際には社会をも所有しているのです。

 

マセード:

知識人が支配体制を支持し歴史的に不名誉な役割を演じてきたのは明らかです。とても高潔とはいえない彼らの姿勢を考えると、彼らは本当の意味で知識人と言えるのでしょうか。

あなたはしばしばハーバード大学の教授陣の何人かを「人民統制委員」(ロシア革命期におけるコミッサール)だと言ってきましたが、権力機構における彼らの共同謀議や、いわゆる「文明化的価値観」を支持する彼らの機能的役割を考えると、「人民統制委員」という用語は実にピッタリのようだと思います。というのは、その「文明化的価値観」が多くの場合、まさに反対のもの、すなわち不幸、大量虐殺、奴隷制度、民衆の一斉搾取を産み出してきたからです。

 

チョムスキー:

歴史的には、ほとんど正にそのとおりでした。聖書の時代にさかのぼっても、後に「間違った予言者」と呼ばれる知識人は権力者の特殊利益のために働きました。当時も、それに異議申し立てを行う知識人がいて体制とは異なる世界観を提示しました。その人たちは後に「予言者」と呼ばれたわけですが、「予言者」というのは不明瞭な言い回しであり、「真の知識人」の翻訳としては疑わしいものです。

さて、これらの知識人は周辺化され、拷問にかけられ、あるいは追放されました。私たちの時代でも事態はさほど変わってはいません。異議申し立てを行う知識人はほとんどの社会で軽んじられ、エルサルバドルのような場所ではまさに虐殺されてしまいます。それがロメロ大司教と六人のイエズス会の知識人に起こったことでした。彼らは、[米国によって]訓練され、武器を与えられ、米国民の税金で支援されたエリート軍に殺されてしまいました。

あるエルサルバドル人イエズス会士が自分のジャーナルで正しく指摘しました。たとえば彼らの国では、ヴァーツラフ・ハヴェル(チェコスロバキア大統領になった元政治犯)は刑務所に入れられず、滅多切りにして殺され、路傍に捨て置かれたでしょう。ヴァーツラフ・ハヴェルは、西側とってはお気に入りの抵抗者になり、米国議会で演説をすることによって西側支持者にりっぱにお返しをしました。

しかし、それは、エルサルバドルで六人のイエズス会士が殺害された数週間後のことでした。しかも、彼は、エルサルバドルで抵抗し異議申し立てをしている彼の同士との連帯を示す代わりに、彼は「自由の擁護者」として米国議会を賞賛したのです。この恥知らずな行為は余りにも明白ですから、もう解説の必要はないでしょう。

 この恥知らずな行為がどれほど並はずれたものであるのかを簡単なテストが示してくれます。たとえば、次のような仮想の事件を取り上げましょう。チェコの六人の指導的知識人がロシア人によって訓練され武装された治安部隊によって殺害された直後に、一人の黒人アメリカ共産党員が当時のソビエト連邦に行ったとします。そしてソ連邦議会に行って、その暗殺行為への支援を「自由の擁護者」だと賞賛したとします。それに対して、米国の政治家や知識人のあいだで、どのような反応が起きるでしょうか。言うまでもなく、彼は殺人者の制度を支持しているとして即座に糾弾されるでしょう。

ハヴェルの米国議会における演説は、この黒人アメリカ共産党員のソ連邦議会における演説と全く同じ類のものです。だとすれば、なぜ米国の知識人がハヴェルの演説に歓喜したのかを尋ねる必要があります。

 米国の代理軍に暗殺された中米知識人の書いたものを、何人のアメリカ人知識人が読んでいるでしょうか。あるいはブラジルの貧困撲滅のために闘ったブラジル人主教ドン・エルデル・カマラのことを、何人のアメリカ人知識人が知っているでしょうか。ほとんどのひとは、ラテンアメリカやその他の残虐な専制政治のもとで反体制運動をしている人の名前すら、挙げることはできないでしょう。

ところが、私たち米国はそのような専制国家が支持し、そのような専制国家の軍隊を訓練しているのです。そして、その専制国家の知識人が私たち米国の知的文化に対して興味深い批評をしているのです。つまり支配体制にとって都合の悪い事実は、まるで存在しないかのごとく即座に無視されるのです。全く隠蔽されるのです。

 

マセード:

この見ないという社会的構造は、パウロ・フレイレが教育者として記述した知識人の特性を示しています。フレイレによれば、彼ら知識人は、科学的姿勢を要求し、「彼らが科学的研究の中立であると見なすものに隠れようとし、彼らの発見がどのように使われるのかに無関心であり、自分が誰のために何の利益ために働いているのかを考えることにすら興味を示さない」のです。(1)

フレイレによれば、これら知識人は客観性という名の下で「まるで自分がその参加者でないかのように社会を単に研究対象として扱う。まるで汚染したり汚染されたりしないために『手袋とマスク』をはめるかのように、支配体制から賞賛される公平さで、彼らはこの世界に接近する」のです(2)

私は、これら知識人が、「手袋と仮面」をはめているだけではなく、明白なものを見れないようにする目隠しをしているのだ、ということを付け加えたいと思います。

 

チョムスキー:

残念ながら私は、客観性についての、このポストモダン的批判と攻撃に、余り同意できません。客観性は、私たちが捨て去るべきものではありません。それどころか、私たちは真実を追究する際に、それを極めて大切にするよう懸命に努力しなければならないと思います。

 

マセード:

おっしゃることに異議はありません。私の客観性についての批判は、それを捨て去るということを意味していないからです。問われるべきなのは、客観性という偽装なのです。多くの知識人は、この客観性という偽装を使って、自分の分析のなかに入り込んでくる都合の悪い諸要因を避けようとします。というのは、彼らが支配的イデオロギーに奉仕し、真実の隠蔽に共謀していることを、それらの要因が暴露するかもしれないからです。

 

チョムスキー:

そうです。支配体制に奉仕し、事実を歪曲し誤まった情報を伝える手段としての、客観性という見せかけは鋭く非難されるべきです。そのような立場は社会科学においては更に容易に維持できるものです。外界から研究者に課される制限が非常に弱いからです。こうして、自然科学よりも社会科学の理解はさらに浅くなり、しかも直面する問題はさらに不明瞭で複雑です。その結果、見たくないことや聞きたくないことを簡単に無視するのはさらに容易になるのです。

このように自然科学と社会科学には著しい違いがあります。自然科学では、研究者の好みの信念と矛盾する事実があっても、自然の事実は、研究者がそれを無視して簡単に捨て去ることを許しませんから、間違いは社会科学と比べて長続きしにくいのです。自然科学においては実験が追試されますから、間違いは容易に暴露されます。知的努力を導く自律的要因が自然科学にはあるのです。それでもなお、真面目な研究さえすれば真実につながるという保証は何もありません。

 「学校は重要な真実を回避する」という最初の点に戻ってみましょう。その点については、つまり真実を語ろうとすることについては、教師の、あるいはすべての誠実な人間の知的責任です。それは確かに議論の余地がありません。正しい聴衆に対して、重大事について最善を尽くして真実を見つけ、真実を語るということは道徳的義務です。

権力者に真実を語るのは文字通り時間の無駄ですし、その努力はしばしば自己満足に過ぎません。ヘンリー・キッシンジャーやAT&Tの最高経営責任者やその他の威圧的機関で権力を行使している人に真実を話すのは、私の意見では、時間の無駄であり、意味のない追求です。概して彼らはこれらの真実をすでに知っているからです。

ただし、自分の働く組織・機構で、仕事として権力を行使する人が、その組織・機構との関係を絶って、一個の人間すなわち道徳的行為者になるなら、その時には、彼らは他のすべての人と手を結ぶことができるかもしれません。しかし権力を行使する人間としての任務にあるとき、彼らに真実を話す価値はありません。時間の無駄です。最悪の暴君や犯罪者に真実を話す価値がないのと同様、権力に話す価値はありません。最悪の暴君や犯罪者は、たとえ行為がどんなに悪辣であっても、彼らはまだ同じ人間ですが、権力に真実を話すことだけは、特に誉めた仕事ではないのです。

 私たちは、真実を語るに値する、大事な聴衆を見つけ出すべきです。教える場合はそれが学生なのです。彼らは単に聴衆と見なされるべきではなく、共通の関心を持ち共に建設的に参加したいと願う共同体の一部と見なされるべきなのです。それは話しかける相手ではなく共に語りあうべき仲間なのです。それが良い教師の資質であり、良い作家や知識人も、そうあるべきでしょう。

良い教師は、「学生の学びを助ける最良の方法は、自力で真実を発見するよう手助けすることだ」ということを知っています。学生は単なる知識の伝達によっては学びません。機械的記憶で消耗させられ、そのあとで吐き出すだけだからです。真の学習は真実の発見を通して起こるのであって、公式の真実の押しつけを通してではないのです。それでは決して自立的批判的思考の発達に至ることはありません。

教師の義務は学生が真実を発見するよう助けることであり、情報や洞察力を抑制しないようにすることです。たとえ、その情報や洞察力が、学校の方針を作成し設計し実行する、裕福で権力のある人々には、厄介なことになる可能性があるとしても。

 

真実を教えることはどういう意味なのか、そして人々が真実と嘘を区別するとはどういう意味なのか、もっと詳しく考えてみましょう。このために私は常識以上のものが必要だとは思いません。私たちの敵だと想定されている社会主義国家の宣伝煽動体制に対して、私たちが批判的立場をとることを可能にするのは、その同じ常識なのです。

私がすでに示唆したように、米国の指導的知識人は、私たち米国の支配権が及ぶ地域の専制政治たとえばエルサルバドルで反体制運動を行った著名知識人の名前を挙げることができません。にもかかわらず、その同じ知識人が元ソビエト連邦で反体制運動をおこなった人物の名前は、苦もなく提示できるのです。また彼らは、敵だとされている社会主義国の政治体制における真実と嘘を区別し、民衆に真実を見せないようにするために利用されている歪曲と曲解をなんの苦もなく認識するでしょう。

ところが、私たち自身の政府と私たち米国が支援する専制政治を批判する段になると、いわゆる「ならずもの」国家で広められている虚偽の仮面を引っぺがす彼らの批判的技術は消滅するのです。知識階級はほとんどが、歴史を通して、このような宣伝煽動(プロパガンダ)装置を支持してきましたし、純粋な教義から逸脱する知識人が抑圧されたり周辺化されたりして初めて、プロパガンダ・マシーンは一般にすばらしい成功を収めるのです。これはヒトラーやスターリンによってよく理解されていましたし、今日に至るまで、閉鎖社会と解放社会の双方ともが、知識階級の共同謀議を追求し、それに応じた人物に報いているのです。

 知識階級は「専門的知識階級」と呼ばれ、政治的・経済的・イデオロギー的機構において、ものごとを分析・実行・決定・運営を行う小集団です。この専門的知識階級は一般に人口の数パーセントで、ウォルター・リップマンが「迷える群」と呼んだ民衆から保護されなければならないのです。この専門的知識階級は「執行機能」を遂行しますが、それはつまり彼らが思考し立案し、「共同の利益」すなわち企業家階級の利益を理解するということを意味しています。

リップマンが明確に表現した自由民主主義の信条にしたがえば、「迷える群」という大多数の民衆は、私たちの民主主義の中では「傍観者」として機能するだけであって「活動する参加者」であってはならないのです。私たちの民主主義の中では、「迷える群」の成員は、いわゆる「選挙」を通じて、時々、指導者を推奨する行事に参加することだけが許されているのです。しかし、いったん彼らが専門的知識階級の成員の1人または別の成員を推奨すると、彼らはその場を去り、再び傍観者にならねばならないのです。

そして「迷える群」が傍観者以上になろうとすると、すなわち人々が民主主義的活動の参加者になろうとすると、知識階級はいわゆる「民主主義の危機」に対して敏感に反応するのです。だからこそ、一九六〇年代には、エリートの間には憎悪が渦巻いたのです。なぜなら、その当時、歴史的に周辺化されてきた人たちが組織化し始め、専門的知識階級の外交方針(とくにベトナム戦争)だけでなく国内の社会政策に異議を唱え始めたからです。

 「迷える群れ」を支配する唯一の方法は、学校に対する三極委員会の考えに従うことです。すなわち、「若者の教化」に責任を負う機関としての学校です。「迷える群れ」の構成員は私企業・国営企業の価値と利益を深く教え込まれねばなりません。支配体制の価値観を学校の中で抵抗なく受け容れ、支配体制への忠誠を証明する人のみが、専門的知識階級の一員になることができます。

「迷える群れ」の残りに関しては、混乱を避けるために彼らを一列に整列させ、常に行動の傍観者であることを要請し、重要な本当の問題から注意をそらしておく必要があります。知識階級は、彼らがあまりにも愚かなので自分の問題も巧く処理できない、と考えています。したがって彼らが「不当な見解」をもとに行動する機会を持たないように専門家集団が監視し確認する必要があるのです。

民衆の七〇パーセント位がベトナム戦争は道徳的誤りだったと考えていますが、専門的知識階級によれば、そのような理由で戦争に反対する「不当な見解」から彼らを「保護」し、ベトナム戦争が単なる戦術的誤りだったという公式見解を信じさせる必要がある、というのです。「迷える群れ」を彼ら自身と彼らの「不当な見解」から守るために、開かれた社会における専門的知識階級はますます宣伝煽動(プロパガンダ)の技術を磨かなければならないのです。それは婉曲的に「広報」と呼ばれていますが。

他方、全体主義国家における「迷える群れ」は、頭上の適当な場所に金槌を振りかざして置いておき、もし彼らが列からはみ出したなら、頭上の金槌を振り下ろして鎮圧するだけでいいのです。しかし民主主義社会においては、民衆を支配するために、むき出しの暴力に頼ることはできません。したがって人心を支配する一形態としてプロパガンダにより大きく依存する必要があるのです。知識階級はマインド・コントロール(洗脳)という努力を欠かすことができなくなりますし、学校はこの過程において重要な役割を果たすのです。

 

マセード:

あなたのご意見は、全くおっしゃるとおりだと思います。開かれた社会においては、検閲制度が構造の非常に大きな一部をなしています。そして、その制度に依拠して、プロパガンダと「人心を支配する」試みが遂行されるのです。

しかしながら私の意見では開かれた社会における検閲は全体主義社会で行使される検閲の形態とは本質的に異なります。米国内で私が見てきたものは、検閲の仕方が全体主義社会とは異なっているだけでなく、自己検閲の形態に依存しているということです。

メディアと教育がこの自己検閲の過程でどんな役割を演じているのでしょうか。

 

チョムスキー:

あなたが自動検閲として言われたことは、社会化という手順を通じて非常に早い時代に始まりました。それは自立思考と戦い、服従を良しとする教化の一形態でもあるのです。学校はこの社会化機構として機能しています。目標は、人々が直接に自分たちや他の人たちに影響を及ぼす大切な問題について重要な質問をしないようにさせることです。学校の内容を学ばせるだけではいけないのです。態度を教えるのです。

私が述べたように、もし数学の教師になりたければ、数学について多くを学ぶだけではいけません。それに加えて、いかに振る舞うべきか、いかに適切な服装をするべきか、どんな類の質問ならしても良いか、いかに適合すべきか(いかに順応すべきという意味です)等をも学ばなくてはなりません。もし自立性を見せ過ぎたり、しばしば職業規範について質問し過ぎたりすれば、特権機構から放り出されることもあり得るのです。

だから成功するためには支配体制の利益に奉仕しなければならないということをいち早く学ぶのです。したがって教師は物静かにして、学生には真の権力を持つ人々の利益に奉仕する信念と教義を染みこませなければなりません。企業家階級と彼らの私的利益は、国家と企業の結合体によって代表されています。しかし学校は唯一の教化機関ではけっしてありません。他の機関も、教化過程を補強するために、一列に手をつないで機能しています。

私たちがテレビから何を吹き込まれているかを見てみましょう。私たちは一連の空虚な番組を見るように勧められています。それらは娯楽として企画されていますが、実は、人々が真の問題を理解しないように、あるいは問題の真の原因を発見しないように、注意をそらす機能をしているのです。こうして、頭を使わない番組は視聴者を社会化し、受動的消費者になるようし向けるのです。満たされていない生活に対処する一つの方法はもっともっと物を買うことだからです。

そのような番組は人々の感情的要求を利用して、その他の要求から目を逸らさせるのです。公共空間は解体される一方ですから、学校と比較的わずかな公共空間だけが人々を良き消費者にするために機能するのです。

 

マセード:

これは個人主義の過大評価と合致していますね。

 

チョムスキー:

いや、そうではありません。私はそれを個人主義の一形態だとは見なしません。個人主義は、最良の場合、行動に対して何らかの責任を必要とします。しかし、この知性を必要としない娯楽の場合、それは単に人々を体制に順応させ、ほとんどの場合、感情と衝動で動かされるよう励ますだけです。その衝動はもっと消費することであり、良い消費者になることです。この意味で、メディア、学校、大衆文化(ポピュラー・カルチャー)は理性ある人々に割り当てられ、そして学校は社会における政策立案者・政策決定者に割り当てられ、そして大衆文化は残りの人々に割り当てられているのです。

したがって、成功するためには、理性を持ち専門的知識階級に合流する人々は、ラインホールド・ニーバーの言う「不可欠な幻影」と「感情的に説得力ある過度の単純化」を作り出さなければならないのです。それは、「迷える群れ」(無邪気な愚か者)が、複雑な真の問題に悩まないようにするための配慮なのです。なぜなら、いずれにしろ彼らでは、そのような複雑な問題は解決できないから、というわけです。

目標は、人々の目を真の問題からそらし、お互いを孤立させておくことです。共同体を組織したり、それとのきずなを確立したりするどんな試みも押しつぶさなければなりません。全体主義国家においてと同様に、開かれた社会でも、形こそ異なってはいますが検閲制度が非常に現実化しています。支配体制にとって不愉快で厄介な質問は立ち入り禁止で、踏み込んではいけない聖域なのです。都合の悪い情報は隠されます。

このような結論に達するためには非常に遠くを見る必要はありません。メディアでは何が報告され、何が除外されているのかを、ただ公正に分析しさえすれば良いのです。どんな情報が学校で許され何が許されないかを公正に理解しさえすればよいのです。平均的知能をもった人なら誰でも、メディアでいかに情報が操作され、彼らの好みではない情報がいかに検閲されているかを見ることができます。情報の歪曲や抑圧を発見するためには少しばかりの努力が必要かも知れませんが、必要なのは真実を知ろうという要求です。

 なぜ知識人が、社会主義国という敵の領土に対して取ったと同じ姿勢を、ラテンアメリカにおける私たち米国の保護国に対して取ることができないのかについては、何の理由もありません。必要なのは単に意欲だけだからです。いわゆる私たちの敵国が行ったとされる残虐行為を分析調査する際に用いたと同じ知性と常識を使おうとする意欲だけが必要なのです。

もし学校が一般大衆の役に立つとすれば、それは人々に自己防衛の技術を提供することでしょう。しかしそれは、世界と社会についての真実を教えることなのです。私たちがいま議論していることに、学校は大きな精力と献身を捧げてほしいものです。というのは開かれた民主主義的社会で成長する人々が、自己を防衛する技術を身につけることができるようにすべきだからです。それは、国家によって支配された全体主義社会におけるプロパガンダ装置にたいしてだけではなく民営化されたプロパガンダ機構にたいしても必要な自己防衛の技術だからです。この機構の中には、学校、テレビなどのメディア、何を国民の関心事として設定するかを決める新聞、知的な定期刊行物が含まれていますし、それは教育産業をも本質的には統制しています。

教育機構を支配している人たちは「コミッサール(人民統制委員)」とも言うべき階級です。人民統制委員は、主として支配体制を再生産し、正当化し、維持するために働く知識人です。そうすることによって彼らは利益を得るのです。他方、真の知識人は、真に重要なことについて真実を究明し、それを皆に伝える義務があります。この点が西側知識人には見失われているのです。何しろ彼らは公式の敵には初歩的道徳的原理を適用することに何の問題も感じないのですから。

 

マセード:

これは選択的モラリズムの一形態ですね。また、この選択的モラリズムに参加することが、これら人民統制委員に自分たちの共同謀議を正当化する理論的根拠を提供するのです。テオドール・アドルノの言う「見ることを堅く拒否する」ことへの共謀ですね。

私は非常に異なった二つの独裁政権、すなわちポルトガルのアントニオ・サラザール独裁政権、スペインのフランシスコ・フランコ独裁政権下で生きてきました。これら全体主義政権での検閲はあからさまで疑う余地のないものであり、警察による統制でした。

しかし、ここ米国民主主義下での私の経験では、検閲はさらに広がり、しばしば意識下で働く自己規制であったり、仕事の関係では同僚(学生も含めて)間で働く相互規制であったりもします。

民主主義について言えば、米国すなわち「第一世界」で第一級の最も民主的社会であると自慢している国で、学校がいまだに極めて非民主的であるというのは皮肉ではないでしょうか。学校は、統治構造に関してだけではなく(たとえば校長が選挙で選ばれず任命制です)、支配的イデオロギーを再生産する場所としても、非民主的なままなのです。このことが今度は自立的批判的思考の育成を阻止することになります。

学校が本質的に非民主的だとすれば、どうしたら生徒の創造性・好奇心・知的要求という点で批判的思考を励まし育成することができるのでしょうか。

 

チョムスキー:

あなたが今ご指摘になった現在の非民主的学校教育に代わるものが昔はありました。というのは、私個人は非常に幸運にも、民主主義的理想に基づいた学校に行くことができたからです。その学校はジョン・デューイの考え方に強く影響され、子どもたちは自分で真実を発見する過程として調べたり学んだりすることが奨励されました。

ですから、民主主義教育を強要しなければならない学校は、どれもすでに疑わしいのです。学校が民主主義的でなければないほど、学校はますます民主主義の理想を教え込む必要があります。もし学校が実際に民主主義的であったなら、つまり実践を通じて子どもたちに民主主義を経験させる機会を提供しているのであれば、民主主義についての決まり文句を子どもたちに教え込む必要を感じないでしょう。

再び私は幸運だと感じているのは、私の学校時代の経験では嘘を丸暗記しなくても良かったということです。私たちの民主主義がどんなにすばらしいものであるかについて嘘です。デューイが北米における自由主義の指導的人物であり、二〇世紀の偉大な哲学者のひとりだったとしても、デューイの影響はすべての学校に広がっていたわけではなかったのです。

 私はまた覚えています。少年の頃、私は夏のキャンプで相談役になり、先にあなたが述べられた忠誠の誓いの朗唱にそっくりの、教化プロセスの成功をしばしば目にしました。意味も分からない愛国的なヘブライ語の歌を朗唱するときに、子どもたちが実際に感情的になり泣き出す子もいたのを私は覚えています。中には言葉を完全に間違えて憶えていた子もいましたが、そのことは感情的な興奮状態と何の関係もありませんでした。

真の民主主義的授業とは、民主主義の理想を丸暗記させることや愛国心を注入することではないのです。そんな風に追い込んでも生徒は学ばないということを私たちは知っています。真の学習は、民主主義の本質とそれが実際に機能する仕方を、自力で発見するよう促されるときに起こるのです。

 民主主義がどのように機能するのかを発見する最良の方法は、残念ながら学校はそれをあまり巧くやっていませんが、とにかく、やってみることです。学校と社会で、民主主義が機能しているかどうかを調べる良い基準は、「言っていること」と「していること」が、どの程度、一致しているかです。そして学校でも社会でも、多くの場合、理論と現実には大きな溝があることを、私たちは知っています。

理論上では、民主主義社会において、個人は自分たちの生活に関係のある全ての決定に参加することができます。たとえば、国の収入・支出や社会がどんな外交政策をとるべきか等を決定することです。単純なテストで理論と現実のギャップが分かります。というのは、個人は自分たちの生活に関連のある全ての決定に参加することができると理論上はなっていますが、実際は政府レベルに権力が集中し、個人や集団が自分たちの問題を(たとえば彼らが採用したい外交政策を)自分で決定することができないようになっているのです。

 現在のコソボとイラクにおける爆撃を見てみましょう。三月二四日の爆撃以前におけるコソボの状況は確かにひどいものでした。しかし、数千人の難民がコソボから追い立てられ、強姦・大量殺人・拷問が行われたのは、三月二四日に爆撃が始まった数日後だったのです。それは、爆撃の直接的結果であり、実際に予測された事態でもありました。少数民族アルバニア人を保護するという人道的名目で行われたものでしたが。

さて、既にひどかった状況が爆撃後にいっそう破滅的になったことを理解するのに、たいした努力は必要ありません。コソボでは既に恐ろしい状況だったのに、それが、NATOの「人道的介入」以後、破滅的レベルにまでエスカレートしたのです。世界人権宣言に依拠してNATOは「人道的介入」の権利があると主張しています。アルバニア人の民族浄化をやめさせるためだと言うのです。

しかし、ご覧の通り、NATOの爆撃は即座にコソボにおける民族浄化と大虐殺の急激な増加をもたらしました。この爆撃が少数民族アルバニア人の殺害・強姦・拷問の急増につながったのは、ほとんど驚きではありませんでした。実際、NATO軍総司令官ウェスリー・クラークは、この爆撃は「完全に予測可能な」結果をもたらすだろうと直ちに新聞社に通知していたからです。

 もし私たちがコソボにおける「人道的介入」を正当化するのであれば、同じ論法でNATOは他の国を爆撃しなければならないのです。たとえばコロンビアとか、NATOの一員であるトルコです。

コロンビアでは、アメリカ国務省の見積もりに従えば、コロンビア政府と準軍事組織による政治的殺害の年間レベルが、NATOによる爆撃以前のコソボの水準とほぼ同じだからです。一〇〇万人を遙かに越える難民がおり、主としてコロンビア政府と準軍事組織による残虐行為から逃げてきた人たちです。

一九九〇年代を通して、コロンビアは米国から武器と軍事訓練を受けた西半球の筆頭国でした。それに比例して暴行が増え続けているのです。そのコロンビアへの支援は今でも「麻薬戦争」という口実の下でさらに増えつつありますが、そのような口実は真面目な監視者によって全て退けられています。クリントン政権はコロンビアのセサル・ガビリア大統領にはとくに寛大でしたが、人権団体によれば、彼が大統領だったからこそ「身の毛もよだつ暴力」が起きたのです。

一九九〇年代にトルコがクルド人を鎮圧したときも、その暴行の度合いは、NATO爆撃以前のコソボの規模を遙かに越えていました。そして残虐行為は、一九九〇年代の中頃に頂点に達しました。その一つの指標は、一九九〇年から一九九四年までの間に、百万人以上のクルド人が地方からクルドの公式的首都ディヤルバクルに逃れたことです。トルコ軍が地方を壊滅的に破壊していたからです。

それはトルコによる「最悪のクルド地方鎮圧の年」だったとジョナサン・ランダルは現地から報告しています。また同じ報告によれば、その年は、トルコが「単独としては、米国製軍事兵器の最大の輸入者であり、したがって世界最大の武器購入者」になった年でもありました。トルコがクルド人の村を爆撃するために米国製ジェット機を使用したことを人権グループが暴露したとき、クリントン政権は、インドネシアや他の場所で行っているのと同じように、武器の供給を禁止する法律を巧妙に回避する逃げ道を発見していたのです。

もしNATOが国際人権宣言に基づいてコソボ爆撃を正当化できるのであれば、それ以上の論拠でNATOはワシントン爆撃を正当化できることになるでしょう。

 次にラオスの場合を考えてみましょう。長年にわたり、数千人の人々、ほとんどが子どもや貧しい農民ですが、北部ラオスのジャール平原で殺されました。それは明らかに民間人を標的にした歴史上で最悪の爆撃場面であり最も残酷なものでした。貧しい農村社会にたいするワシントンの猛攻撃はその地域の戦争とは何の関係もありませんでした。

最悪の期間は一九六八年に始まりましたが、それはワシントンが北ベトナムの定期的集中砲火を終え、(民衆や企業の圧力で)和平交渉に着手するように強要されていたときでした。ヘンリー・キッシンジャーとリチャード・ニクソンはその時ラオスとカンボジアの集中砲火へと飛行機を転換させる決定をしました。

死をもたらしたのは、bomby「爆弾ちゃん」(babyとの掛詞)と名付けられたクラスター爆弾、すなわち地雷よりもさらに悪辣な小型対人兵器でした。それは明らかに人間を対象とし、トラックや建物には影響がないように設計されています。ジャール平原は数億個のこうした殺人装置で満ちあふれ、それは製造会社ハネウェルによれば不発率二〇−三〇パーセントの故障品です。(参照 ITVS: Bombies - Cluster Bombs

この数値が明らかに示唆するのは、お粗末な品質管理であるか、あるいはゆっくりと一般市民を殺害するという方針か、なのです。「爆弾ちゃん」は、米国が配備した高度な科学技術兵器の単なる一部に過ぎません(その中には、家族が避難していた洞窟すら貫通する先進ミサイルも含まれています)。「爆弾ちゃん」による現在の年間死傷者数は数百から「二万」と見積もられています。

『ウォールストリートジャーナル』の古参アジア通信員バリー・ウェインがアジア版で報告した記事によれば、「年間の全国死傷者率は二万人」で、その半分以上は死者です。だとすれば、その控えめな見積もりは、ラオスにおける危機は、その一年だけでも、爆撃以前のコソボに匹敵するものだということを示しています。しかも、キリスト教メノナイト派中央委員会が報告した分析によれば、死者の半数以上が圧倒的に子どもたちに集中しているのです。彼らは、継続する悲惨な死を少しでも食い止めるために、一九七七年以来そこで活動してきているのです。

米国のメディアは、その爆撃が民族浄化と別の残虐行為を悲劇的に増大させることになったにもかかわらず、「アルバニア人の民族浄化をやめさせるため」と称するNATOのコソボ介入に拍手喝采をしました。しかしラオスの場合は、その死にたいして私たちが直接責任があるにもかかわらず、米国の反応は何もしないことでした。メディアと解説者は基準に基づいて沈黙を守りました。それは、対ラオス戦争が「秘密戦争」に指定されていたからです。つまり、よく知られていたにもかかわらず伏せられていたのです。これは、一九六九年三月以降のカンボジア爆撃の場合もまったく同じでした。

当時の自己検閲の水準は並はずれたものでした。現在もまた同じですが、この驚くような例は明白に次のような事実と関連しています。国際司法裁判所がスロボダン・ミロシェビッチを人間性にたいする罪で起訴したとき米国メディアがはしゃぎまわっていたのに反して、ラオスにおける大虐殺の立案者のひとりキッシンジャーは自由の身のままであり、「外交問題の専門家」として賞賛されているのです。そしてコソボ爆撃についての彼の「意見」が、「専門家」の意見としてメディアに熱心に取り上げられているのです。

イラクの場合も事情は同じです。イラクでは、冷酷な生物兵器で一般市民が殺戮されるなど、残虐行為にあふれていて、この五年間で、五〇万人のイラクの子どもたちが死んでいます。この殺害にたいして、国務長官マドレーヌ・オルブライトが一九九六年の全国放送のテレビで意見を求められたとき、彼女は「その犠牲には、それだけの価値があると考えている」と答えたのです。現在の概算でも、いまだに毎月四〇〇〇人の子どもたちが殺されていますが、その犠牲は彼女にとって今なお「その価値がある」のでしょう。

 湾岸戦争の詳細な分析は、米国の人道主義的介入が同じ指導原理に基づいて遂行されていることを暴露しています。すなわち、彼ら流の「民主主義」を擁護するために世界中に介入するという指導原理です。そしてメディアと知識階級は彼らの本分を守り、ブッシュ大統領の言い回しをオウムのように繰り返すのもでした。すなわち、米国がパナマを侵略したときでさえ、ブッシュ大統領は「米国は侵略にたいして従来と同じ姿勢を堅持している。法の支配を力の支配で置き換えようとする人々にたいして米国は容赦しない。」と述べていたのです。

当時、米国は、ニカラグアに対する戦争において「不法な軍隊の使用」をしたとして、世界司法裁判所によって非難された唯一の国家であり、ブッシュ大統領はその国家元首でした。したがってブッシュの主張する高潔な原理は世界で嘲笑の対象となりました。なぜなら、米国は湾岸においても他のどこの国においても、如何なる高潔さも保持していなかったからです。サダム・フセインにたいする空前の反応も彼の残酷なクエート侵略のためではありません。それはマヌエル・ノリエガが数年前に行ったのと同じように、彼が誤った方針[米国に対する不服従]をとったからでした。

両者とも悪漢でしたが、ブッシュ大統領のお友達でもありました。確かにサダム・フセインは殺人的悪漢ですが、それは湾岸戦争の前でも同じでした。しかし、その当時も彼は私たち米国のお友達であり、大好きな貿易相手国だったのでした。クウェート侵略は確かに残虐でしたが、米国の支持で彼が行った[クルド人の虐殺などの]残虐行為には及びもつきませんでした。また、米国とその同盟国によって行われた他の多くの同じような犯罪と、虐殺のひどさにおいては、ほとんど変わらないものでした。

 たとえばインドネシアによる東ティモールへの侵略と併合は、ほとんど民族抹殺(ジェノサイド)というレベルに達していました。人口(七万人)のうち、その四分の一が殺され、これは人口に比較すると同じ頃におこなわれたポルポト派の大量虐殺を越えるものです。ところが米国とその同盟国の双方とも、これらの虐殺を支援していたのです。たとえば、オーストラリアの外務大臣は、東ティモールへの侵略と併合にたいして自国が黙認していることを、次のよう正当化しました。「世界はまったく不公正な場所だ。力による併合の例は数限りない。」

しかしながらイラクがクウェートを侵略したとき、オーストラリア政府は「大きな国が小さな隣国に侵入し、それを併合することは、決して許されない」と世界中に響き渡るような調子で侵略を非難しました。湾岸戦争における米国の本当のねらいは、中東のずば抜けたエネルギー資源を引き続き私たち米国の支配下におき、それが生み出す莫大な利益によって米国と仲間の英国の経済を支えることだったのです。

 

マセード:

本当に悲しいことですが、あなたがお話しになった事実があまりに明白であるにもかかわらず、米国の知識階級は、少数のひとを除いては、世界について冷徹な理解を深めるための、必要な歴史的連帯をつくりあげるに至っていません。

副大統領ダン・クゥェールは、無意識であったとしても、「侵略軍の感動的な勝利」と思わず口をすべらせて、湾岸戦争への正しい理解を示しました。同じく、ブッシュ大統領も、ボストンのテレビ局、チャンネル五のニュースキャスター、ナタリー・ヤコブソンのインタビューで、思わず漏らした本音で身動きがつかなくなりました。湾岸戦争に言及しつつ、ブッシュは「私たちは遂に侵略(アグレッション)を成し遂げました」と言ったのです。彼は、明らかに「私たちは遂に使命(ミッション)を成し遂げました」と言うつもりだったのです。

一見したところ、ブッシュとクゥェールの両者が思わず間違って言ってしまったように見えますが、上記の発言は、彼らのつく大きな嘘が教育学的にどんな意味をもっているかを暴露しているように思うのです。ただし、それは、ホセ・オルテガ・イ・ガセットが主張することの本質を、彼らの発言がどれくらい正確に表現しているかにもよりますが。オルテガは、次のように述べています。「私たちのいわゆる文明が、もし『その文明の機構に委ねられ』、ヘンリー・キッシンジャーのような人民統制委員のなすがままにされるなら、原始主義と野蛮主義の復活をもたらすことになるだろう。」

 ご指摘になった、コソボ、トルコ、コロンビア、ラオスにおける蛮行例は、文明の野蛮主義を示すものです。多くの場合、いわゆる文明によって達成された高水準の洗練された専門的技術は、ユダヤ人のガス処理、ラオスやカンボジアへの爆撃で証明されているように、もっとも野蛮な方法で使われてきました。女性や子どもを含め、数万人の無実の犠牲者を殺し、イラクを工業化以前の水準にまで破壊したと自慢するのは、確かに啓蒙された文明ではありません。おまけに、サダム・フセインや戦争の親玉は、以前として権力の座に居座ったままに放置されているのです。

 

チョムスキー:

おおかたの予測では、米国の軍事行動によって、イラクの殺人的暴君が引き続き権力の座を維持するだるということです。というのは、米国は国連による国際査察を妨害し、自分独自の武器査察計画を続けているからです。

また強調されるべきなのは、サダムの最悪の犯罪は、彼が米国のお気に入りの同盟国であり貿易相手国であった時に犯されたものである点です。また、彼がクウェートから撤退した直後に、反乱を起こしたイラク人(初めはシーア派、後にクルド人)を虐殺する行動に転じたとき、米国がそれを静観したことも忘れてはならないでしょう。このとき米国は、米国の捕獲したイラク軍の武器を、彼らが手にすることさえ拒絶したのです。

公式の報道では、正確に何が起こったのかは、滅多に分からないものです。また公式の報道は、真実を明らかにする構造を提示してくれません。したがって民主主義的世界を求める教育は、嘘と虚偽を暴露するための連帯をつくりだす批判的道具を、生徒に提供すべきなのです。民主主義の神話を生徒に教え込む代わりに、学校は民主主義の実践に取りくませるべきなのです。

 

マセード:

学校が民主主義の神話を学生に教え込むのをやめることはあり得ないでしょう。というのは、この神話の煽動力を使って、支配的イデオロギーは真の文化的民主主義の発現を押さえ込み、現在の文化的経済的主導権を維持しようとしているからです。

もちろん私は、学校は学生を民主主義の実践に参加させるべきだという、チョムスキーさんのご意見に同意します。しかし、そうするためには、既に何度もご指摘されたように、学校は神話のイデオロギー的内容を解読する批判的武器を生徒に提供する必要があると思います。

そのような武器が与えられて初めて、生徒は、たとえば、なぜデビッド・スプリッツラーの学校の教師や校長(彼らは支配体制のために身も心も投資してきた人物です)が、忠誠の誓いの原理を犠牲にするためなら、どんなことでもしかねなかったかを、もっとよく理解することができるようになると考えるからです。

真実の中で生きたいと望む個人は、支配体制にとって真の脅威を代表しており、したがって取り除かれるか、あるいは少なくとも無力化されなければならないのです。だからこそ、教師や校長は、スプリッツラーが真実の中で生きるのを妨げようとしたのでしょう。したがって、階級なき社会だとされている私たちの社会の、偽善と階級の違いをデビッド・スプリッツラーが指摘しようとし、それを教師と校長がやめさせようとするのは驚くに当たりません。

 

チョムスキー:

階級なき社会に私たちが生きているという神話は、まさに冗談ですが、多くの人たちがそれを信じています。州立大学で教師をしている私の娘は、ほとんどの学生が自分を中流階級だと考え、階級意識のきざしすら示さないと私に言っています。

 

マセード:

そのまさにアカデミックな会話が階級意識のなさを物語っていますね。メディアでは労働者階級と中産階級(たとえば「中流階級のための優遇税制措置」というように)という用語が使われるのに反して、支配者階級や上流階級という言葉使われることはけっしてありません。

 

チョムスキー:

確かに支配階級という用語は見ませんね。全く伏せられているのですね。そして私の娘のクラスにいるような労働者階級の学生は、自分を労働者階級だとは考えないのです。これが真の教化の、もうひとつの表れでしょう。

 

マセード:

支配階級のエリートは、知識階級の援助を得て、米国が階級なき社会であるという神話を永続させるために(そのような仕組みを作るために)、必要なことはどんなことでもしてきました。階級問題が学校教育の成功にとって決定的な要因であるにもかかわらず、この国の教育の失敗に関するあらゆる議論で、けっして言及されないひとつの変数は階級です。

落第しそうな学生のほとんどは一般に下層階級の出身です。それにもかかわらず教育者は問題を分析したり見解を述べる際に、その要因として階級という概念を用いることを、信心深く回避します。その代わりに、彼らはあらゆる種類の婉曲語法、たとえば「経済的にぎりぎりだ」とか「恵まれない境遇にいる」とか「危機に瀕している」学生だとかの用語をを使うのです。それが階級的困苦の現実を表現するのを避ける手順なのです。そして、もし分析の一要因として階級を使うと、即座に階級闘争に従事するものとして告発されるのです。

一九八八年の大統領選挙のことを覚えているでしょう。その時ジョージ・ブッシュは民主党の対立相手をこう言って叱りとばしました。「リベラルな支配者にこの国を分裂させさせるつもりはない。そんなものはヨーロッパの民主主義か何かのためのものだ。それはアメリカ合衆国のためのものではない。私たちの米国は階級に分裂させられることはない。・・・私たちの国は、大きな夢の、大きな機会の、フェアープレーの国であり、米国を階級によって分裂させようとする企みは失敗するだろう。なぜならアメリカ人は自分たちの国が特別な国であることを認識しているからだ。機会が与えられた人は誰でもアメリカの夢を実現させることができるからだ」と。

 

チョムスキー:

そうです、もしあなたが金持ちならば、まさに特別な国なのです。一つだけ最近の実例を挙げましょう。いかに税制がますます非累進的になっているかを見てください。こうして他方では、企業に歴史的に与えられてきた大減税や莫大な補助金で、金持ちがますます金持ちなっているのです。

ブッシュが階級闘争について言及したのは、その意味で正しいのです。しかしながら、それは貧しい人をさらにもっと押しつぶすよう意図された階級闘争なのです。すべての指標は、子どもの貧困が相変わらず極めて高いことを示しています。そして「家族的価値」を推進するために実施されている計画が、栄養失調をさらに悪化させているのです。

福祉国家への攻撃は、貧困者を、福祉援助を受けている母親を、助けを必要としている人を、さらに粉砕します。その一方で、金持ちの乳母には手をつけず、企業移転のためには大金を援助するのです。私たちは福祉国家をもっていますが、それは金持ちのための福祉国家です。金持ちにとって効率的に機能する福祉国家を維持するためには、非常に高度な企業家的階級意識を持たなければなりません。そして残りの人々には階級なき社会に生きていると確信させなければなりません。常に学校は、この神話を存続させるために、その役割を果たしてきたのです。

 

この対話は一九九九年六月に行われた。

1 パウロ・フレイレ著『教育政策:文化、権力、解放』(サウス・ハドレー、マサチューセッツ:ベルゲン&ガーベイ社、一九八五年)一〇三頁。

2 同上

 

 

 

The Trilateral Commission http://www.trilateral.org/

三極委員会(旧・日米欧委員会)の公式サイト。日本、アメリカ、ヨーロッパの民間非営利による政策協議機関。3地域の政治、経済情勢をテーマとする総会を毎年開催し、政策研究、政策提言をまとめた「トライアングル・ペーパーズ」を刊行している。(事典 現代のアメリカ:URLリンク集

 

 

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2月28日(3) 香川大学の吉田さんの市大関係日誌の更新部分をコピーしておこう。とくに、「ウィットに富んだ批判ということでは是非こちらのサイトをお勧めする」という箇所は新しいと思われる。市大関係に詳しいHPなので私がこれまでまったく知らなかっただけで、市大問題に関心のある方はよく知っているHPなのかもしれない。

 

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この文書が大っぴらになって、いろいろな人が読みにくるようになった。また今日は大学時代の先輩稲場振一郎氏のblogにリンクされたこともあって、アクセス数も随分と増加した。ただ、横浜市大問題を知らないという人も増えているだろうから、初めてこの話を知ったという人はまずは第三者が書いたこの記事を読んでおいてもらえればと思う。また私のように陰鬱な批判ではなく、ウィットに富んだ批判ということでは是非こちらのサイトをお勧めする。教員が書いているのか学生が書いているのかは謎だが、軽快な文体で当局を皮肉っている。

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2月28日(2) 都立大学の最近の動きに関連する記事もコピーしておこう。

 

----都立大の危機 --- やさしいFAQ----- 

2005224日:第2回公立大学法人評価委員会(1/14)の配布資料及び議事録が東京都大学管理本部の評価委員会のページに掲載された(2/22) 第2回公立大学法人評価委員会(1/14)議事録(PDF)から,委員の発言と都の役人の返答がよく分かる。ちなみに,法人評価委員会のメンバーを復習しておくと:
  原島 文雄 (東京電機大学学長) <委員長>
  青木 利晴 (株式会社NTTデータ取締役相談役)
  柴崎 信三 (日本経済新聞社論説委員)
  仙波 春雄 (新日本監査法人代表社員)
  西尾 茂文 (東京大学生産技術研究所長)
  芳賀 徹  (京都造形芸術大学学長)
そして,公立大学法人評価委員会は,次のような位置づけ。
知事は,議会の議決を経て中期目標を定める。
 法人は,中期目標に基づき中期計画を作成し,知事が認可。
  中期目標・中期計画の作成にあたっては,評価委員会に意見を聴かなければならない。
   評価委員会は,中期目標・中期計画に照らして,各事業年度及び中期目標期間(6年間)における法人の業務実績を評価。
     評価委員会は,その評価に基づき,必要な場合は,法人の業務運営について改善勧告をすることができる。
COMMENT:
芳賀氏(京都造形芸術大学学長)の知事よりの過激な発言が目立つ。青木氏(株式会社NTTデータ取締役相談役)はそれを積極的に援護,原島氏(東京電機大学学長)はこれまで深く関わった当事者として,もちろん基本構想支持派。この体制で法人の業務実績を評価し改善勧告を出すということは,「首都大学東京」が将来完全に東京都の行政をサポートする大学に変化する ことを予見させる。いろいろな問題発言がある中で,今回は3つの発言を取りあげる。
 1つは,宮下参事が「首都大学東京」成立過程を説明している部分。ようするに大学の教員なんて関係ないところで構想したことを認めている。2番目は,西尾氏(東京大学生産技術研究所長)が都立の大学の継続性についての発言をしている部分。ゼロから作った「新大学」ではない,ということを理解していない委員が多い中では唯一まともな発言。東京都が税金を使ってこれまで作り上げてきた都立の大学の研究教育資産を有効に引き継ぐという基本前提がない委員ばかり。そんなに「大都市問題」に特化した大学を作りたいなら,お金をかけてゼロから本当に新しい大学を作るべきだった。今現在在学する学生・院生や教員の権利をただ無視し,排除することを前提にするのは違法。 そして,最後に数ある芳賀氏の過激発言の内の1つから引用。この方は,「これからの大学運営はトップダウンに行って当然」(ボトムアップの民主主義的やり方は「古い」[と考えるので,石原都知事と意見が合う])という考え方の持ち主。

宮下参事:  1つは,この新しい首都大学をつくるに当たって,まず知事の公約があってそこから出発して,それでこういう理念で新しい大学をつくっていこうということで,文部科学省にもこういう構成で新しい大学をつくりますと,あるいは法人の定款はこういう形でやりますという中でここまできたわけでして,ですからそこを全部土台から変えるとなると,まず知事の公約から始まってますので,そこまではちょっとまっさらにしてというわけにはいかないと思うんですが,今 ,本部長が申し上げたように,これはこれからずっと6年ごとに目標を定めていくわけですから,将来に向かってどうあるべきかというのは並行して議論していく必要があるかと思います。(P. 15)

西尾委員:1つは新しいことにチャレンジされているというプラスの面があると思うんですけれども,今までの4大学を全く全否定して新しい大学ができるわけでは必ずしもないわけで,今まで例えば東京都立大学がやってきたこと,あるいはそこに蓄積されてきたことがこの中のどの辺に反映されて,それがどういうふうに変えられていくのかというのがよく見えないような気がするんですね。ですから,全く白紙のところに絵を書くとすると,書かれている文字が,例えばこの前 問題になった都市教養,大変魅力的に思うけれどもイメージが余りよくわかない。もとも と全く白紙のところにはないわけですよね。既に4大 学があって ,その中で蓄 積されてき たものが,いいものも当然あるわけですから,そ ら何か残っていくものが ,あるいは 発展していくものがあるはずで,その筋 がこの中にはほとんど見 えない気がするんです。(P. 9)

芳賀委員:  この首都大学東京で理科系でも,例えば物理学があっても化学があっても,この首都大学は別 にノーベル賞なんかは要らない,関係しない。 大都市経営に必要な限りでの物理学である,この都庁のような建物をつくるのに必要な物理学であり数学であるというぐらいにやると本当に実学,実践的になっていって非常に特徴が出てくるんです。人文系はもうもちろんのこと, 社会科学研究もそう,一般行政学とかそんなのは要らない。 大都市経営の行政学,パリはどうか,ロンドンはどうやっているか。東京はどうやっているか,北京は今一体どうなっているか,そういうことを教える。北京からも教えに来る, ロンドンからも教えに来る,こっちからも向こうに教えに行く,それくらいにならないとせっかくの首都大学東京に値しないんじゃないですか。 … (P. 19)

2005223日:都立大学・短期大学組合の「手から手へ」(2330)に「法人の運営委員会」検討グループによる投稿(2/8)が掲載された。タイトルは, 「法人の運営組織としての『運営委員会』により理事長へ検眼集中か?」 。第9回と第10回の経営準備室運営会議での議論で,31種に及ぶさまざまな「運営委員会」と25種の部会が提案されたが,それには以下の点において重大問題を含んでいる。
1.
教授会の審議権限を奪う「運営委員会」は,学校教育法591項に違反する。
2.
法人(設置者)の運営組織と大学(被設置者)の学内組織との初歩的な区別すらできない管理本部
3.
理事長による「運営委員会」設置の提案は大学の教授会のもとにある学内委員会の破壊であり,「設置者権限」の濫用で,経営と教学の業務分担に反する。
4.
運営委員会=補佐機関は,上意下達の会社型組織
5.
職務給の導入は,委員会の自立性を損ない,全学・学部・学科の委員会の間の不公平を生む
6.
大学としての自主的自立的な意思表明が困難となる
7.
学問の検閲を可能とし,重大な欠陥を抱えた「単位バンク制」が復活
8.
事務局長が人事と予算の配分・評価の権限を握る人事委員会・研究費評価配分委員会
9.
法人の運営委員会としては,法人に独自に必要な業務に限るべき
10.
実態が示す学校教育法,憲法の重要性

 

 

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2月28日(1) 子供が突然、自然気胸で胸に穴を開ける事態(ブラと称する患部に穴が空き、肺の空気が漏れ、肺がぺしゃんこになる、その空気を取り除き肺をもとどおりにするために胸に穴を上げ管を入れる、ブラの状態が悪く安静にしても灰が膨らまない場合などブラ切除手術に進まざるを得ない、これはかなり大掛かりな手術となる)となり、23日からあたふたした。やっと今日、研究室ですこし腰を落ち着ける時間ができた。

この間にも、大学「改革」問題では、いろいろの展開があるようである。

本日夕方の公立大学法人に関する「説明会」を前に、ここにコピーしておくべき記事もあることがわかった。

大学教員が、憲法の保障する学問の自由と大学の自治を守り発展させるためには、すなわち、憲法以下の諸法律の体系をみずから身体を張って実現していくためには、そうとうの踏ん張りが必要のようである。

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公立大学という病:横浜市大時代最後の経験 「追記」

YOSHIDA Makoto's web site!
 ●公立大学という病:横浜市大時代最後の経験 より転載
「学問の自由と大学の自治の危機問題」「公立大学という病:横浜市大時代最後の経験 「追記」」経由 

 この文書が大っぴらになって、いろいろな人が読みにくるようになった。また今日は大学時代の先輩稲場振一郎氏のblogにリンクされたこともあって、アクセス数も随分と増加した。ただ、横浜市大問題を知らないという人も増えているだろうから、初めてこの話を知ったという人はまずは第三者が書いたこの記事を読んでおいてもらえればと思う。
 さて敵方の関係者も随分と覗いているようで、私に裏切られたと思っている人がいてもおかしくはない。人事や市労連の連中とも愛想よく笑顔で接し、「楽しく」酒を酌みかわしたこともあるからだ。しかし、その笑顔は奴隷の笑顔であり、彼らと人間的な関係にあったからでは決してない。その時、付きあっていただいた方はくれぐれも誤解しないで欲しい。あなた方から情報を取るのが私の仕事であって、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。これ以外に、凌辱されている者が凌辱している連中に対して、どんな意味で笑顔を見せることができようか。
 また、ここに書かれていることは「嘘」であることにしたい人がいるらしい。先日この文章は「自己満足的な性格を多分に帯びたもの」だと書いたが、それは凌辱された者の感情が随分と移入されているという意味であり、ここに書かれた出来事が私自身の経験した事であるということにかわりはない。嘘は交じえていない。実際に起ったことと、それに基づく自分の判断を記しているのであり、当時の親しい人には既に話してきたことでもある。ここに書いてあることが嘘だと言うのであれば、姑息なことなどはせずに、きちんと私に抗議すべきであろう私は連絡先も公開している。間違いがあれば訂正するのは吝かではないし、実際に訂正している。
 もう一度書く。横浜市大の「改革」は、市長の号令よろしく、小役人たちがアカデミシャン苛めにいそしむ究極の形でのアカデミック・ハラスメントである。地方役人が、大学人から研究の自由を奪い、彼らの雇用をもて遊んでいる。都立大も横浜市大も構造は同じであり、それが地方の公立大学にも広まっている。まさにこれこそ公立大学の悲劇であり、病である。
 現在、横浜市大では、教員から任期付きの同意をとろうと、小役人たちが手練手管をつかっているらしい。「任期付きに同意しないものは、新法人の方針に異を唱えるものだから、それ相応の覚悟をしておけ」というようなことが言われているとも聞いた。市大で呻吟に喘いでいる先生方、絶対に脅しに屈伏しないで欲しい。現在の日本において「期限の定めのない」雇用ほど、解雇のしにくい雇用形態はないからだ。敵前逃亡をした私にそれを言う資格はないが。。。(05/02/25

 

Posted by 管理人 : 掲載日時 20050228 00:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
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2月24日 今日からの「教員説明会」に関連して、教員組合から、最後にもう一度、最も重要なポイントについて確認する文書が届いた。非常に重要なので、下記にコピーしておこう。

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(組合員各位
 下記のようなビラを教員に配布しますので、配信します。
 どうぞお読みください。         執行委員会)

教員のみなさんへ!

 事前にもう一度はっきり認識しておきましょう。

・身分は承継
・任期制は本人の同意が必要
・同意しなくても雇用は継続
・不利益変更はいっさいできない


組合員ならびに非組合員の教員のみなさん!

 今月24日、25日、28日に当局は、新法人における勤務条件についての
教員説明会を行なう予定であり、その後、労働条件の変更について教員
の同意を得ようとすることが予想されます。
 そのまえに、わたしたちの権利について、また、当局は何ができない
かについて、もう一度確認しておきましょう。

(1)身分は承継
 当局側の人々からはときに、新法人への移行にあたっては新たな労働
契約がなければ身分が承継されないかのごとき、あやまった発言がなさ
れています。
 しかし、地方独立行政法人法によって、新法人への移行にあたって
は、かならず身分が承継されることが定められています。横浜市大につ
いても、当局自身がこのことを、すでに昨夏に確認しております(当組
合週報2004823日号)。
 したがって、当局が何を言おうと、新たな労働契約がなくとも雇用は
自動的に継続されますし、当局はそれ以外の措置を取ることはできませ
ん。

(2)任期制は本人の同意が必要、同意しなくても雇用は継続
 現在ほとんどの教員は、期限の定めのない雇用契約において労働して
いますが、これを任期付雇用に切り換える場合には、本人の同意が必要
であります。本人が、この同意をしない場合には、身分が承継されるこ
と自体は変更のしようもありませんから、当然に雇用は継続されます。
給与も、労基法の定めにより、4月5日付で当然支払われますし、5月
以降も同様です。

(3)不利益変更はいっさいできない
 任期制に同意しない場合、新たな労働契約を結ばない場合、それとは
無関係に身分が承継されるだけでなく、労働条件の不利益変更はいっさ
いできません。
 そんなことをした場合、あるいは、するぞと脅す、あるいは婉曲に、
そのようなことを当局がしそうであると思い込ませるような言辞を吐く
ことは、いずれも違法な不当労働行為となります。もちろん実行はでき
ません。
 すでにこれに近い暴言のたぐいは現れています。当局側がそのような
不当労働行為を行なっていないかどうか、常に監視とチェックを怠らな
いでください。そのような事態が起きた場合には、なるべく詳しい記録
を取って、当組合にお知らせください。ご自分と仲間の身を守るために
役立ちます。

     2005
224
    
横浜市立大学教員組合
   ============================================================
  
236-0027 横浜市金沢区瀬戸22番2号
   Tel 045-787-2320    Fax 045-787-2320
   mail to: kumiai@yokohama-cu.ac.jp
  
ホームページ http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/index.htm
  ============================================================

 

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2月22日(2) 天木氏の「メディア裏読み」からのコピー

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 天木直人 222日 メディア裏読み 2005年第35号 
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 内部告発者は救われないのか
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 ◇◆ 内部告発者は救われないのか ◆◇

 220日の日経新聞だけが報じていた。30年も前に、「トナミ運輸」の会社員串岡
弘昭さん(58)が、大手運輸会社が運賃を水増しするヤミカルテルを結んでいる事に
気付き同社幹部にやめるよう直訴した事件があった。会社に無視されたため新聞社に
情報を提供。その結果、待っていたのは左遷人事であった。研修所への異動を命じら
れ、29歳から一人部屋に「隔離」され草刈や雑用をする生活。責任ある仕事は与えら
れず、昇格もなかった。串岡さんはこの処遇は内部告発への報復人事であると021
月に損害賠償の訴えを起こしたが、会社側は「会社を公然と批判したりする社員の昇
格など検討しないのは当然」と突っぱねた。この訴訟の判決が23日、富山地裁(永
野圧彦裁判長)で言い渡されるのだ。

 30年もの間飼い殺しのような閑職に追いやってきた「トナミ運輸」は酷い会社だ。
しかし串岡さんを助けなかったのは「トナミ運輸」だけではない。「公正取引委員会
に申し入れしたが、それでもヤミカルテルは続くので、次に東京地検特捜部に訴えま
した。私も事情聴取された。でも、あと一歩のところで捜査が止まりました。ロッキ
ード事件の捜査で忙しいというのが理由でした・・・」(218日付日刊ゲンダイ)。

 「・・・途中、和解してはどうか、と裁判長に勧められたこともありました。でも拒
否をした。内部告発の正当性を判例として証明したかったんです。裁判に勝って、月
20
万円ほどの給料でも文句を言わず、耐えて支えてくれた家族に報いたかった・・・」
(同紙)。

 214日号のアエラに「NOといえるサラリーマン」と題して、良心に逆らわずに、
正しいことをしたいとして告発に踏み切った人の特集記事がある。この串岡さんのほ
かに、裏金疑惑を告発した愛知県警の巡査部長、仙波敏郎さん(55)、日経新聞社の
鶴田卓彦社長の不正を告発した元部長の大塚将司さん(54)らである。いずれも報復
人事にあっている。組織が裏切り者の個人を徹底的にいじめる姿がある。

 今年4月に公益通報者保護法が施行されるという。しかしこれは職場の不正に気付
いた人はまず社内組織に通報しろというものだ。「内部告発させない」といっている
ようなものだ。もうそろそろ告発者が守られる時ではないか。23日に下される判決
注目しよう。

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2月22日(1) 村上龍の主催するネットワークに「労働組合」の役割に関する議論が乗っていた。本学など、独立行政法人化で初めて教員組合が通常の意味での労働法の一方の主体になるわけで、民間とは違ったサイクルにあるのではあるが、参考になる点も多い。以下にコピーしておこう。

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                              2005221日発行
JMM [Japan Mail Media]
                No.311 Monday Edition
                      http://ryumurakami.jmm.co.jp/

▼INDEX▼

 『村上龍、金融経済の専門家たちに聞く』【メール編:第311回】

        ■
 回答者(掲載順):

 真壁昭夫  :信州大学大学院特任教授
 山崎元   :経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員
 津田栄   :経済評論家
 北野一   :三菱証券 エクィティリサーチ部チーフストラテジスト
 菊地正俊  :メリルリンチ日本証券 ストラテジスト

        ■
 『編集長から(寄稿家のみなさんへ)』

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  先週号の『編集長から(寄稿家のみなさんへ)』
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 Q:549への回答ありがとうございました。書き下ろし小説ですが、著者校正が
終わり、あとは装幀を決めて、「あとがき」を書きます。今は、「憑き物」が落ちた
ような感じで、犬と散歩するときなど景色が新鮮に見えます。

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 『村上龍、金融経済の専門家たちに聞く』【メール編:第311回目】
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質問:村上龍============================================================

Q:550
 春闘ですが、完全に死語になった気がします。日本の労働組合に未来はあるので
しょうか。

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JMMで掲載された全ての意見・回答は各氏個人の意見であり、各氏所属の団体・
組織の意見・方針ではありません。
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  真壁昭夫  :エコノミスト

 最近の春闘では、輸出企業中心に企業業績が大幅に回復しているにも拘らず、企業
側の回答には、ベースアップがゼロというケースがあります。労働組合側も、こうし
た回答を容認する姿勢を示しており、目立った抗議行動をとるところは殆どないよう
です。確かに、春闘は一種の行事になっているように思います。労使双方が大人の対
応をしているとも考えられますが、形骸化していることは間違いないでしょう。

 また、最近、労働組合に対する意識は顕著に低下しているといわれています。よく
例に出されるのが、労働組合の数とその組織率です。労働組合の数は、最も多かった
1984年の約74,600から、昨年には約62,800まで減少しています。ま
た、組合員数を雇用者数で割った組織率(雇用者の内、どれだけの人が労働組合に加
入しているかの比率)は、1970年の35.4%から、昨年の19.2%まで下落
しています。これらの数字の解釈には色々な見方があるようですが、労働組合に対す
る関心が低くなっていることは間違いないと考えられます。

 アカデミズムの世界でも、労働問題に関する研究は、昔に比べるとかなり少なく
なっているようです。労働問題を研究している友人に尋ねてみました。彼は、「戦前
や戦後まもなくの労働争議が頻発した時期に比べると、労働問題を研究対象にしてい
る研究者の数は明らかに減っている」と言っていました。それに伴って、実証的な研
究の数も減少していると考えられます。その理由として、「わが国で資本の蓄積や個
人の金融資産の蓄積が進み、賃上げ交渉による労働分配率の引き上げを目指す必要性
が薄れていることが大きい」と指摘していました。

 わが国が豊かになった証拠かもしれませんが、現在は、労使双方がまなじりを決し
て、激しい賃金引上げ交渉を行なう状況ではないのでしょう。「双方が大人の対応を
すれば、自ずと、穏当な結論に行き着くことが分かっている」。そうした、了解が双
方に成立しているとも考えられます。その背景には、労働者の価値観の多様化や、成
果主義による人事考課制度の浸透などの要因があると考えられます。これらの要因を
勘案すると、春闘のコストに見合ったメリットが取れなくなっているのでしょう。そ
のため、春闘が一種の形骸化した行事に成り下がっていると思います。

 労働組合に対する関心の低下は気になります。90年代初頭のバブル崩壊後、企業
は一斉にリストラ圧力を増して、コスト引き下げに走りました。これによって、労働
分配率が下がり、資本分配率が上昇しました。つまり、人件費のコストを引き下げて、
企業収益の改善を図ったのです。これは、企業経営者や資本家側=株式保有者にとっ
ては有利なことです。一方、従業員=労働者にとっては、賃金の低下=デメリットが
発生したわけです。それに際して、労働組合が徹底抗戦したという話は聞いたことが
ありません。

 労働組合は、「抵抗してみたところで、何もならない」と諦めたのか、あるいは、
「企業業績の回復のためには、労働者が耐えなければ」という分別ある対応をしたの
か、本当のところはよく分かりません。しかし、「リストラなどで職を失う場合でも、
労働組合は何の役にも立たなかった」という指摘をよく聞きます。「いざというとき、
何の役に立たない労働組合に、何であんなに高い組合費を払わなければならない」と
いう批判も耳にします。今のように、労働組合の形骸化が進み、人々の関心が薄れる
と、誰も高い組合費を払って組合員でいることに意味はなくなることでしょう。今の
ままであれば、労働組合は無くてもよいかもしれません。

 問題は、それで労働者の権利を守ることができるか否かです。世界経済のグローバ
ル化によって、賃金水準の低い諸国の本格的な工業化が進んでいます。それに加えて、
情報・通信技術の発達で、物理的な国境の意味はかなり低下しています。人、もの、
金が瞬時に国境を越えられる状況では、企業は安価な労働力を求めて、生産拠点を移
転するはずです。そうなると、賃金水準の高い米国や日本では、雇用を維持すること
が相対的に難しくなることが予想されます。

 新しい技術が間断なく発明され、それによって高い賃金水準を維持できれば、問題
が無いことは理解します。しかし、それが途切れたとき、例えば90年代の初頭以降、
わが国に安価な製品が押し寄せた価格破壊のようなときには、企業のコストカッ
トのために、労働者の雇用機会が犠牲になるケースが想定されます。そのときに、如
何にして労働者がバーゲニングパワーを持つか、今とは違った形態での労働組合が必
要になるように思います。

 一時雇用やアルバイト等の雇用形態が多くなり、労働者の価値観の多様化が進むた
め、従来の終身雇用形態を基礎にした企業別労働組合の仕組みが、十分に対応できな
いのは理解します。しかし、だからと言って、労働者の権利を守る労働組合の機能が
無くてもよいとは言えないでしょう。今までとは違った労働組合が組成されると考え
ます。

                      信州大学大学院特任教授:真壁昭夫

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  山崎元  :経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員

 主に企業別の日本の労働組合には、発展という意味での未来はないでしょう。働く
人々にとっても、その方がいいと思います。

 個別のケースによって差があるのでしょうが、私が勤めた会社(過去に12社)及
び見聞きしたケース(金融や商社などに偏りがありますが)では、企業内の組合は、
従業員の権利を保護するというよりは、企業が従業員を丸め込むための窓口として機
能していました。

 多くの会社で、組合の幹部(専従職員)は、若い頃から経営層と顔見知りになり話
し合う機会を持てる企業内のエリート・コースであり、組合が従業員の保護のために
会社と徹底的に戦うというようなことは例外的です。組合費は、組合員の親睦イベン
ト(何のために?)の費用であったり、組合幹部の飲食代であったりする、はっきり
言えば無駄金です。全従業員加入の原則はむしろ従業員に不利に働いているといって
いいでしょう。

 たとえば、企業年金の給付の減額を決定する時に、企業の経営側は組合と話を付け
ると、従業員の同意を取ったことになるので、個別に加入員の同意を取り付ける手間
が省けます。これは、企業側から見た、組合の便利な利用法の一例です。

 経営方針に対するチェックや、従業員の権利に対する有効な交渉を組合が行ってい
るかというと、そうでもありません。たとえば、印象的に覚えているのは、山一證券
自主廃業の際の従業員組合の動きです。

 自主廃業という方針自体がそもそも適当だったのか疑問ですし、また、そうする場
合の従業員に対する条件の交渉を、組合が従業員の利益を代表するものなら、この時
にこそ厳しく行うべきでしたが、顧客の資産返還業務で繁忙を極める交渉上有利な時
期に会社と当時の大蔵省に全面的に協力し、組合が要求したのは、「地方勤務の社員
が、東京で再就職活動をする際の交通費を支給しては貰えないだろうか」というよう
な、殆どどうでもいい条件でした。山一社員にとって、組合費は、自社株の社員持株
会並みに無駄な投資だったと思います。

 考えるに、バリエーションは様々でも成果主義の普及しつつある今日、個々の従業
員が敵対する相手は、会社であるよりも、むしろ別の従業員です。こうした状況下で、
組合幹部は会社に懐柔されるわけですから、企業別の組合に期待すること自体が無理
筋でしょう。

 企業別の組合などない方が従業員にとってもいいし(少なくとも組合費がかからな
い分いい)、労働者は原則として自分の権利は自分で守るという考えを持つべきです。

 しかし、現実には、交渉上の立場は従業員の側が弱いことが多く、従業員側が不当
な扱いを受け、これに抵抗出来ないケースは少なくないと思われます。この問題に対
しては、二つのアプローチがあるでしょう。

 一つは、従業員の権利をもっと手厚く保護するように法令を改正・充実し、従業員
が自らの努力で自分の権利を守ることをもっと容易にすることです。企業の判断によ
る従業員の解雇は現在以上にあってもいいと思いますが、解雇の理由を明らかにする
責任を企業がもっと負う方が良いでしょうし、会社都合の解雇にあたっての企業側の
負担(たとえば割増退職金)の条件をもっと明確にすべきでしょう。文句のない解雇
の条件が明確であることは、企業側にとっても従業員側にとっても好ましいことです。

 もう一つは、企業・業界にとらわれないオープンな労働組合の活用です。たとえば、
現在、通称「合同労組」と呼ばれる全労連・全国一般労働組合
http://www2s.biglobe.ne.jp/~HE05BZ/ は、会社員が一人でも加入出来る労働組
合であり、判例などでは、会社側は、団交の要求に応じる必要があるようです。友人
の弁護士によると、この組織は、企業側の不当労働行為に対しては非常に強力な交渉
力を発揮するようで、現在でも、企業別の労働組合よりは役に立つことが多いようで
す(不慣れな経営者では太刀打ちできないくらいの交渉力を発揮することがあるよう
です)。

 現在の合同労組がベストなあり方なのかどうかは私には分かりませんが、本来ライ
バルであるはずの従業員どうしで構成される組合が、個別には経営側の影響を受けな
がら、従業員の利益を代表して従業員を保護することを期待することは難しいのだろ
うと思います。企業別、産業別ではない、個別の労働者の権利を守るためのオープン
な組織を発達させるという選択肢もあると思います。ただし、活動の対象は、全般的
賃上げというような集団的な経済条件の改善ではなく、個別の労働者に対する企業や
官庁の不当労働行為への対抗とすべきでしょう。ただし、こうした組織の経済的な基
盤をどうするかという難しい問題があります。

 理想的には、個々の従業員が自分の権利をハッキリ守ることが容易にできるように
法制を整備すべきでしょう。その不備を補完する仕組みとしては、企業横断的な労働
組合を再構築するのが有力な手段でしょう。現在のような企業別の労働組合はむしろ
無い方が従業員にとって得だと思います。

              経済評論家・楽天証券経済研究所客員研究員:山崎元

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  津田栄  :経済評論家

 春闘が死語になったと感じるのは、労働組合が時代のニーズに合った活動をしてい
ないからだといえます。つまり、今の労働組合は、1990年代以降、内外の経済が
大きく、そして急速に変化していったなかにあって、時代に合わない存在となってい
るということです。だからといって、労働組合に未来はないとはいえません。今労働
組合に求められるのは、時代にあった活動ができるように構造改革することです。

 ところで、春闘(春季生活闘争)は、毎年新事業年度のスタートとなる春に労働組
合が賃金引上げなどを全国で一斉に要求する闘争のことです。この春闘が1955年
に始まったときは、産業別、企業別の労働組合が個別に賃上げなどの労働条件につい
て会社に要求・交渉をしていました。その後、産業横断的に足並みを揃えて全国的に
賃上げを要求する形に移行して、大手企業から中小企業へ、中央から地方へと決着し
ていくスタイルとして定着し、時間の経過とともに恒例行事と化して、その内容が形
骸化してきました。

 しかし、90年代に、経済の大きな変化が日本国内の雇用、労働の環境を激変させ
ました。まず、市場経済のグローバル化が、国境という垣根を低くし、以前に比べて
資本、物、人が容易に移動することを可能にしたことです。このことから、内外にお
ける競争激化、その結果として企業格差が生まれました。さらに国内において、バブ
ルの崩壊とデフレ状況という逆風がその追い討ちをかけました。企業は、生き残りの
ために、企業間の横並び意識を捨て、株主重視から存続と業績拡大を第一として人件
費の圧縮に乗り出し、これまで聖域と思われてきた賃金から雇用まで手をつける構造
改革を断行したといえます。

 賃金では、世界的に割高という理由で、インフレゼロあるいはマイナスという経済
動向にあわせてベアゼロを打ち出し、あるいは賃金ではなく業績連動の一時金やボー
ナスでの支給を行い、最近では定期昇給の見直し、成果主義導入による賃金体系、年
俸制の採用など制度変更にまで踏み込んできています。そして、雇用においては、早
期退職者募集や割り増し退職金付き解雇など雇用そのものを見直し、正社員からパー
ト、アルバイト、派遣社員、契約社員など非正規社員への雇用に切り替えつつありま
す。その割合が、すでに3割を越える水準に至っています。

 一方で、労働組合は、こうした内外の経済、企業意識、雇用形態の変化のなかで、
依然として、右肩上がりの経済を前提とし、国内の労働者、しかも正社員を基本とし
た賃上げを主軸に置いた春闘形式を最近まで変えようとしてこなかったといえます。
その背景には、経済環境の変化とともに、雇用形態が多様化し、労働者個人の生活や
ニーズも多様化しているなかで、労働組合が、終身雇用制と年功序列という構造を前
提とした賃上げ闘争活動から脱しきれず、しかも依然として横並び意識から抜けきれ
ないことにあると思われます。

 もちろん、労働組合は、労働者の基本的権利として憲法で保障された労働三権(団
結権、団体交渉権、争議権)を労働組合法で具体的に実行することが認められた存在
です。また労働者個人の多くは、今でも、大きな組織である会社と交渉する立場とし
て弱いことから、労働組合という組織に交渉権を委託し、場合によっては主張実現す
るためにストライキなどの正当な労働争議を発動する権限を労働組合に認めて、組合
員であればそれに従うなど、労働組合を信頼して、労働条件の改善を図っていかざる
を得ません。その意味で、労働組合は依然必要な存在です(当然、優秀な労働者は、
自ら会社と交渉して年俸制などの選択をする道もあります)。

 ただ、自らの経験から言うと、労働組合のなかには、長い年月の中で、組合費を徴
収しながら経費と称して乱費するなど、その与えられた権限に安住して濫用したり、
一方でストライキを起こして強く要求を主張しないで、会社との安易な妥協と馴れ合
いを続けて、労働組合という強い立場を既得権益化して、原点である労働者の労働条
件改善を一時的に忘れてしまっている所も見られます。

 また最近の傾向として、労働組合全体を見ると、一般企業の労働組合は、企業生き
残りのために強く出る会社の主張を認めて後退していかざるを得ない一方で、制度的
に雇用・賃金を保障された公務員の労働組合は法律で身分保障されているがゆえに行
政に強く主張し、認めさせていくという二極化が見られます。しかも、公務員の労働
組合の声が大きくなり、労働組合全体をリードして、現実とはかけ離れた状況になっ
て国民の支持が薄れてきています。その結果が、労働者の組合への参加率(労働組合
の組織率)が20%を割るという事実になって現れています。

 結局、全ての労働組合がみんなで一斉に同じ要求をする春闘というセレモニーは、
個々の企業の経営状況の格差、雇用形態や労働者の生活の多様化、官民の状況の違い
などから、困難になっているといえます。今後労働組合に望まれる姿は、原点に戻る
ことです。すなわち、横並びの賃上げ要求という春闘ではなく、雇用形態の整備・制
度化を図って労働者の権利を守る一方、異なる雇用形態のなかにあって雇用の確保・
維持や労働時間の厳格化、年金制度や雇用・健康保険の整備など労働者共通の労働条
件の改善に努める活動を一年を通じて、しかも企業別ではなく連帯してすることです。

 また、個々の労働組合は、社内の全ての労働者や会社のニーズにそって活動を多様
化していくことです。一方、国内のみを視野に置くのではなく、今後企業活動のグ
ローバル化とともに、活動自体も進出した国の同じ会社の労働者との連携を行うなど
グローバル化を図っていくことも求められるかもしれません。そのことは、何も企業
を脅かすわけではなく、労働者の権利を認めることによって優秀な人材を集める手段
にもなります。そういった意味で、適度な緊張のなかにあって企業と労働組合がお互
いに権利を認め合いながら向上していくことが、組合の明るい未来につながるのでは
ないでしょうか。

                             経済評論家:津田栄

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  北野一  :三菱証券 エクィティリサーチ部チーフストラテジスト

 小倉寛太郎さんの『自然に生きて』(新日本出版社)という本を読みました。「小
倉さん」といっても、ピンとこない人は多いかもしれません。小倉さんは、本名より
も、山崎豊子のベストセラー小説『沈まぬ太陽』の主人公「恩地元(おんちはじめ)」
としてむしろ有名です。

 恩地元は、「国民航空」の労働組合の委員長でした。おとなしく会社の言いなりに
なって、任期を無事にやり過ごせば、エリートコースを約束されていたのかもしれま
せん。しかし、彼は、空の安全と労働者の権利獲得のために戦います。ただ、労組委
員長といっても、一人の従業員に過ぎません。会社に睨まれた彼は、その後、カラチ、
テヘラン、ナイロビと、いわゆる「僻地」を10年間、たらいまわしにされます。

「良心を眠らせていったん志を屈すると、心の傷を治した先に、別の地獄がある」と、
節を曲げなかったことから、日本に戻してもらえませんでした。もっとも、「余裕と
ユーモアと、ふてぶてしさ」をモットーに、「転んでもただでは起きない、何か拾っ
て立ち上がったという生き方を、のびのびとしませんか」という小倉さんは、定年後、
東アフリカ研究家として、活躍されます。

『自然に生きて』は、その小倉さんの講演録ですが、バッファローとヌーの話は面白
かった。同じ草食獣にも拘らず、肉食獣への対応が違うのだそうです。バッファロー
は群れを作ります。ライオンは、挑発して、その中の一頭を群れから孤立させます。
その時、バッファローの群れが引き返してライオンに逆襲することがあります。さす
がに衆寡敵せずライオンも逃げ出します。すると、バッファローは、命拾いをした仲
間を助け、その傷を舐めてやって安全なところに移動するそうです。

 一方、ヌーも群れをつくります。今度はチーターがヌーの群れを狙います。ヌーの
群れは混乱し、逃げ惑うだけで、結局、チーターに捕らえられ、食べられてしまいま
す。その時、他のヌーは、「あーよかった。今日はオレの番じゃなかった」と言わん
ばかりに、また草を食べ始めるそうです。小倉さんは、「ヌーは団結したときの自分
の強さを知らない。・・・人間はバッファローに学ぶべきだ。団結すれば強くなると
いうことに、もっともっと自信を持つ必要がある」と言います。

「今日は、オレの番じゃなかった」と草を食むヌー。我々、日本人も同じかもしれま
せん。日本の失業率の推移を見てみましょう。1970年代に1.7%であった失業
率は、2000年代には5.0%まで上昇します。年齢別をみると、30- 34歳の
失業率は、この間、1.9%から5.3%まで上昇しておりました。一方、20-
4歳の失業率は、2.7%から9.1%まで大幅に上昇しました。各個人がばらばら
の若年層は、群れからはぐれた子供のヌーだったのではないでしょうか。

 団結することを知らない彼らは、肉食獣から狙い撃ちにされ、酷い目にあいますが、
我々は、彼らが食べられている間も、「今日は、オレの番じゃなかった」と。労働組
合は、労働者の権利を守ることは出来るのかもしれませんが、これから働こうとする
人の「権利」には無頓着でした。むろん、労働組合にとっては、それは当然のことか
もしれませんが・・・。

 ところで、『自然に生きて』のなかでは、小倉さんの「自慢話」も出てきます。彼
が、労働組合の委員長になった時、千人近い長期臨時職員がいたそうです。1年毎の
契約更改という格好で、給料は最低限におさえられておりました。そこで、彼は経営
に対し、長期臨時職員の本採用を要求項目の一つに加えたそうです。会社に言わせる
と、「組合員でもないものに、余計なことをするな」ということでしたが、「同じ職
場で同じような仕事をしているんだから、要求に取り入れるのは当たり前じゃないか」
と押し通したそうです。

 労働組合に未来があるかどうかは、「今日は、オレの番じゃなかった」ではなく、
「余計なこと」をどれだけ出来るかに掛かっているように思います。それと、未来は
ともかく、労働組合に「過去」があったからこそ、我々は労働者としての様々な権利
を生まれながらに獲得していた、ということも自覚しておきたいと思います。

         三菱証券 エクィティリサーチ部チーフストラテジスト:北野一

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『自然に生きて』小倉寛太郎/新日本出版社
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4406028439/jmm05-22
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  菊地正俊  :メリルリンチ日本証券 ストラテジスト

 最近、労働市場の回復には著しいものがあります。失業率はピークの5.5%から
1%以上低下し、常用雇用は7年ぶりに増加、有効求人倍率は14年ぶりの高水準に
なりました。企業に尋ねた労働者の過不足判断DIは8年ぶりの高水準になりました。
少子化の進展や団塊世代の大量退職などを背景に、企業の採用意欲が高まっています。
数年前に労働は負債と設備と並び、3つの過剰に数えられたのが遙か昔のようです。

 これまで雇用が増えても賃金は増えないといわれてきましたが、正社員の賃金に下
げ止まり傾向が出ているほか、需給が逼迫している派遣社員の時給には値上げの動き
が出てきています。今後も労働市場の改善傾向が続き、個人消費に好影響を与えると
思われます。

 そうした中で、労組組織率は29年連続で低下し、2004年6月に、過去最低の
19.2%へ低下しました。採用抑制や退職による組合員数の減少に加え、パートな
ど非正社員の雇用増加が原因といわれます。労組幹部からは労組は衰退産業との諦め
の声が出つつあります。「春闘」でベースアップを目指し、労組が業界毎に統一要求
を掲げて闘う春の光景も過去のものとなってきています。今春の労使交渉では、3月
16日が一応の集中回答指定日になっていますが、連合や大半の主要産業別労組がベ
ア要求を見送る方針と伝えられています。

 終身雇用や年功序列などの日本的雇用制度は大きく変わりつつあります。労働市場
の変化は日本経済の構造変化の象徴です。この2月には労働市場関連銘柄が3社上場
します。生産請負のワールドインテック、技術者派遣の日本テクシード、IT関連人
材派遣のデジタルスケープです。10年前に数社しかなかった労働市場関連の上場銘
柄は30社に迫っています。

 転職が当たり前とはいいませんが、珍しくない時代になってきています。2002
年の転職率(転職者の1年前の有業者に占める割合)は4.6%ですが、若年層ほど
転職率が高くなっています。最近、リクルートの就職雑誌『B-ing 』編集部が著名人
の仕事に対する考え方をまとめた『プロ論』がベストセラーになりました。その中で、
元マイクロソフトの日本法人社長で現インスパイア社長の成毛眞氏は「これからは転
職経験がないことがリスクになる。転職できないことは能力がないということになる」
と述べまします。元ボストン・コンサルティング・グループの日本法人社長で現ド
リームインキュベータ社長の堀紘一氏は「今後10年位で会社員と自営業の境目はな
くなる」と述べています。パソナの南部靖之社長も近著『人財開国』で「人材流動化
が進み、企業がより高い付加価値を生む人材活用を目指すようになるにつれ、従来の
雇用という言葉が意味をなさなくなる。日本でも個人事業主が増える」と述べていま
す。こうした労働市場の構造変化は労組に逆風になっています。労組も民間企業のよ
うにビジネスモデルの転換が必要かもしれません。

               メリルリンチ日本証券 ストラテジスト:菊地正俊

 

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2月19日 市大改革のあり方に関する違法性の指摘(市行政当局によるアンケート開示請求に関わる一楽教授文書:経過とドキュメントと内容的に重なり合う形で、都立大学に関しても、大学「改革」の違法性に関する指摘を人見教授が『法学セミナー』掲載の論文で発表されていることを、下記の記事より知った。

東京都(その大学管理本部)が、「法を蹂躙し、学問と思想の自由を侵犯し、市民的常識と人としての品位をも放擲」と。

「東京都立大学法学部法律学科の崩壊」という論文である。「無抵抗な家畜の群れ」は確か、総合理学研究科・佐藤真彦教授の文書の表現であった。同様な事態が都立大でも見られるという指摘である。

 

-----都立大の危機 --- やさしいFAQ-----

2005217日:「法学セミナー」の20053月号603) P.66-70に,人見  剛氏(都立大法学部教授)による「東京都立大学法学部法律学科の崩壊」が発表された。
COMMENT: クビダイ・ドット・コム
に発表された同じタイトルの水林 彪氏と共著の論文と基本的立場は同じだが論文としては別物。 「むすび」の言葉で述べられているように,東京都との対立の中で,知らぬ間に「積極的荷担者」に変身する者が現れてきたのは,恐ろしいことだ。「無抵抗な家畜の群れ」と化す者,「批判精神のメルトダウン」を体現する者が,やがては民主主義の根幹をゆるがすような為政者の存在を許容し,なし崩し的に社会を崩壊させていく。この危険な状況にどうやったらブレーキをかけられるのだろうか?

 

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2月18日 「全国国公私立大学の事件情報」に、2月10日の当局解答が掲載されている(我々教員組合の組合員には、組合週報で知らされ、また組合HPにも16日に公開されたようであるが、かならずしも毎日組合HPにアクセスはせず、むしろ毎日かならず「事件情報」にはアクセスしているので、私が情報を意識して読んだのは「全国国公私立大学の事件情報」を通じてであるという意味で、他意はない)。

その当局の態度と、昨日我々一般教員が入手した就業規則アン、すなわち今回示された就業規則案とは、どのように整合するのだろう? これまで一貫して各教授会決議や教員組合決議・意見書・声明などで出された見解が、今回の当局案に一定程度反映していると見ていいのか? それとも?

 全国の大学人・関心ある世論が注視している就業規則案である。

教員組合には「就業規則特別委員会」(組合の内部に独立行政法人化に伴う就業規則等重要問題の検討委員会ができたと記憶しており、正確に委員会名を記憶していなかったが、独立法人化対策専門委員会」(1月20日発足)が正式名称であるとの指摘があったので、ここに注記し、訂正しておきたい)が設置され、教員組合の委員長・書記長経験者がこれに加わっているので、これまでの議論を踏まえたしっかりした検討を行ってくださるものと、たいへんなご苦労を察しつつ、期待している。念のため、「全国国公私立大学の事件情報」掲載の2月10日当局解答もコピーしておこう(オリジナルはもちろん教員組合のもの全文であり、それを検討する必要がある)。

 

この間の朗報(大学改革を内部から、また下から民主的に市民の意見を深く配慮して行おうとする人々にとっての朗報というべきであり、効率的に「上から」行政主義的にやろうとする人々、墨黒々と塗った人々は、眉をひそめているのであろう)としては、一楽教授が開示を求めた市当局のアンケート調査結果が、開示されることになったことである。一楽教授から頂いた『神奈川新聞』のコピー(2005年2月15日付)から明らかである。

一楽教授HPには、この間の経過とドキュメントがアップされている。その御主張は理路整然としており、この間の「改革」のすすめ方の根本的問題を実にわかりやすく総括していると考える。特に「大学の自治」破壊の違法性の指摘に共鳴する、その違法性は-違法性が裁判などによって検証されなくても-結局は大学人の精神的自由、学問の自由を踏み潰していくものとなる。公立大学では市長以下の市行政当局が、国立大学における政府・文部省等行政機関に対応する。cf.「憲法23条」と解説:芦部『憲法』

これによって市当局・大学改革推進本部が市民・市内企業等に対するアンケートの結果について、いたるところ墨黒々とぬりつぶして非公開にしたことの不当性が社会的に明らかになった。塗りつぶされたところとオリジナルを比較するだけで、市行政当局・大学改革推進本部の姿勢について、いろいろと興味深いことがわかってくるであろう。この成果は、一楽教授の粘り強い開示請求努力のたまものである。労が報われ、正当な意見が取ったことは素晴らしい。

しかし、そのために一楽教授はどれだけ貴重な研究教育のための時間を奪われたことか、と思う。当局がしっかりした見識さえ持っていれば、教員が無駄に使わなければならない時間は非常に減るであろう。この間の経験を通じて、市行政当局、大学改革推進本部が大学問題に対する理解を少しは深めたことを期待したい。

就業規則等に関してはどうか?

どれだけ多くの人が、「大学像」以来、当局の「原則全員任期制」のかたくなな態度に振り回され、精神的苦痛を味わっていることか、それによって研究教育にしわ寄せがどれだけ来ていることか。その最も敏感な反応が、脱出した吉田さんの記録から明らかである。

Cf. http://yosisemi-ku.ec.kagawa-u.ac.jp/~labornet/MyDoc/ycu2004.html

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20050218

横浜市立大、組合第1次見解要求(114日)に対する当局回答要旨

横浜市立大学教員組合
 ●横浜市立大、組合第1次見解要求(114日)に対する当局回答要旨(2005210日)より一部抜粋

組合第1次見解要求(114日)に対する当局回答要旨

2005210日)

……

5 原則全教員への任期制適用について

1)全教員を対象とする任期制が大学の教育・研究のあり方に真にふさわしい制度であるという論拠は全く示されていない。
 全教員を対象とする任期制の導入が「優れた人材を確保する」といえる根拠は何か?
 「大学の教員等の任期に関する法律」(以下、「教員任期法」)が大学における任期制の適用を限定的に扱っていることとの関係で、今回提示された任期制案が大学における「教育研究を進展させる」といえる根拠は何か?

回答:任期制は、公正かつ総合的な教員評価制度及び新たな給与制度(年俸制など)と併せて運用することにより、教育・研究活動の活性化を図ることを趣旨としたものである。また、優れた人材を確保するとともに、多様な知識や経験を有する教員等の交流の活発化を図り、もって、教育研究を進展させるため、原則として全教員を対象に任期を定めて任用する制度としたものである。

2)重大な不利益変更を伴う任期付き教員への移行を正当化する根拠、理由は存在しない。
 任期の定めのない職員としての身分承継を否定し有期雇用契約に切り換える根本的で重大な不利益変更を行う、合理的でやむをえざる理由は存在しない。また、当局案には、全教員の有期雇用契約への切り替えが不利益変更には当たらないとする論拠、制度根拠は示されていない。

回答:任期制の導入は、他大学でも進めているところであり、教育研究の活性化に資するものだ。

3)仮に任期制を導入する場合、法理から言って「教員任期法」に拠らなければならず、労働基準法第14条に基づくことはできないはずである。

回答:平成16年の労基法改正により有期契約期間の上限制限とその適用範囲が改正されたことにより、労基法に基づく導入が可能となった。

・また、当局案が依拠する労基法14条の有期労働契約における期間上限延長は、「有期労働契約が労使双方から良好な雇用形態の一つとして活用されるようにすることを目的としている」。教員にとって従来の「期間の定めのない雇用」と比し、今回当局提案のどこが「良好な雇用形態」であるのか?

回答:なし

4)有期労働契約が合意にいたらず、「期間の定めのない雇用」が継続する場合の勤務条件は「公立大学法人横浜市立大学職員の勤務条件(教員)」文書における「任期」の項を「期間の定めのない雇用」に変更すると解しうるが、それ以外に変更がある場合にはその内容と理由を説明せよ。

回答:「公立大学法人横浜市立大学職員の勤務条件(教員)」に示された内容については、そのとおりだ。なお、詳細については別途示していきたい。

5)当局案(「教員の任期制について」)に示された任期制の制度設計は、雇用形態の変更という最も重大な労働条件の変更を提案しているにもかかわらず、以下に指摘するように、あまりに曖昧で具体性を欠く。以下の指摘は細部にわたるものではなく、制度設計の基本にかかわるものであり、それぞれについて具体的回答を求めるものである。
・「教員任期法の精神にのっとる」とは具体的にどういうことか。

回答:教員任期法の目的は、「大学等への多様な人材の受け入れを図り、もって大学等における教育研究の進展に寄与する」ことだ。

・「再任の考え方」の「最低限クリアしてほしいこと」とは、具体的にはどのような水準を規定しているのか。再任用件の内容として「取組姿勢、能力、実績など」としているが、「取組姿勢」の主観的で恣意的でない基準としてどのような指標を規定しているのか?
 また「取組」の具体的内容は何か?複数の要素にわたる場合、それらの相互関係はどのように規定されているのか?
 さらに、「能力」の具体的内容は何か?「実績」として判定されない「能力」として何を想定しているのか?

回答:再任及び昇任については、別途基準を示していきたい。

・「再任の考え方」にある「新たな市立大学の教員として」の「新たな」とは、現在の学部、短期大学部等は想定していないという意味か?
・助手、準教授、教授の職位にあることの可否と教員身分にあることの可否が同一視されている。
 再任審査において当該職位にあることの審査基準・内容と、教員身分にあることの審査基準・内容とにちがいはないと考えるのか? あるとすればどのようなちがいを想定しているのか? 市立大学教員として「最低限クリアしてほしいこと」と助手、準教授、教授それぞれの果たすべき職務が同じでないとする以上、再任の可否は直接にはそれぞれの職位にあることへの可否を意味するはずである。
 大学教員としての責務、市立大学教員としての責務、職位に応じた職務それぞれの内容についてあきらかにしたうえで、それらの相互関係を踏まえた再任要件規定が示されなければ説明としての一貫性を欠く。
・再任審査にかんする厳密で透明性のある手続規程が明示されていない。
「教員評価制度の評価結果など」を用いるとしているが、教員評価制度を再任審査に用いることの理由、根拠はまったくあきらかでない。どのような理由・根拠から教員評価制度を再任審査に利用するのか?

回答:なし

・「教員評価制度の評価結果など」を用いるとしているが、教員評価制度を再任審査に用いることの理由、根拠はまったくあきらかでない。どのような理由・根拠から教員評価制度を再任審査に利用するのか?

回答:すでに、「公立大学法人横浜市立大学職員任期規程」に示したとおりだ。

・「教員評価制度の評価結果など」の「など」とは何か?
・教員評価制度の評価結果を具体的にどのように用いるのか?
・単年度評価である教員評価制度をどのようにして3年ないし5年任期の任期制における評価と連動させるのか?

回答:再任及び昇任については、別途基準を示していきたい。

・「人事委員会で審査し」とされているが、審査内容と結果について透明性を確保する具体的保障が存在するのか?

回答:審査の基準を定めることや、学外委員を含め構成することにより、透明性を確保している。

・再任拒否にたいする異議申し立て制度を必要なしと考えでいるのか?

回答:評価結果にたいする異議申し立て制度を検討している。

・テニュア制度の導入を謳っているが、その具体的制度内容があきらかにされていない。テニュアの資格要件、テニュアヘの移行条件をどのように想定しているのか?

回答:教授の職位のうち、テニュア資格を有する教授として創設したもので、審査に合格した場合は、定年までの雇用契約を締結することができる終身雇用の教授だ。なお、テニュア教授への昇任については、別途基準を示していきたい。
・助手、準教授における再任回数制限の根拠が示されていない.この基準を仮に現行の助手、助教授に適用してみると、限度年限を越えるケースが存在する。特に、助手について3年任期の1回の更新しか認めない場合には、きわめて深刻な事態が予想される。このことを承知しているか?
 承知しているならば、予想される明白で重大な不利益を承知しながら当局案のような再任回数制限を設けているのはなぜか?

回答:助手については教員等の相互の学問的交流の促進を図り、教育研究の活性化を図る趣旨から任期は3年、再任は1回とするものだ。6年という期間の中で、是非とも成果を挙げてもらい、「上位の職への昇任に積極的にチャレンジしていただく」といった動機付けとしても考えている。

3年任期の有期雇用契約は大学教員の職務にふさわしくない。

 大学教育にそくして教員の職務を評価する場合であれ、中期計画にもとづいて評価する場合であれ、3年任期の設定が大学にふさわしくないことはあきらかである。大学教育のあり方を無視している。大学における評価の整合性という観点から3年任期がふさわしいと考える根拠は何か?
 また、準教授について「簡易な審査」によりさらに2年の契約を行うとしているが、この場合、「簡易な審査」の内容は何か?

回答:なし

・昇任に関する制度内容は具体的にどのようなものか?任期制の再任審査と昇任制度との関連が指摘されているにもかかわらず昇任制度の説明が欠けている。

回答:昇任審査の資格要件などは別途示していきたい。

・再任と年俸との関係について曖昧な説明が行われている。
 再任にあたって年俸が同額、増額、減額の場合があるとしているが、年俸設定はその年度にかんして行われるものであり、3年ないし5年の任期最終年度における年俸増減をなぜ行うのか合理的説明がない。年俸設定が当該年度の教員評価にもとづくとするならば、「夏頃まで」の再任判断において年俸の増減を云々することは年俸制の趣旨に外れている。

回答:なし

・ローン設定を困難にするなど、「期間の定めのない雇用」から期限付き雇用への移行によって生じると予測されるさまざまな不利益について当局はどのような検討を行ったのか?

回答:既に、病院に勤務する教員の一部に任期制を導入しているが、そのような問題があることは聞いていないが、今度の制度構築の中で留意していきたい。なお、主要取引銀行に選定された横浜銀行は、任期制であることをもって、ローン設定を困難にするということはないとのことだ。……

 

Posted by 管理人 : 掲載日時 20050218 01:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
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2月17日(2) 労働法関係に詳しい人に確認したいが、今回出された就業規則案(教員組合HPへリンク)には、ばかげた無条件の、すなわち「原則としての全教員任期制」という文言はないように思われるが、どうだろうか? ごまかされているのか?どこかに落とし穴があるのか?

教員組合執行部はこの点どのように分析しているのであろう。今回の就業規則案に関して、もし私の理解が正しければ、諸法律及びこの間教員組合が指摘した問題点を踏まえて、かなりリーズナブルな案となっていると思われるがどうだろうか? もちろん、誰を任期制教員にするかなどをめぐってはこれから大問題となる可能性はあるのであるが。

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2月17日(1) 「全国国公私立大学の事件情報」から、吉田さんの強烈なメッセージが公開されていることを知った。「流出」、いや「脱出」教員の悲痛な声・怒りの声である。以下にコピーしておこう。

任期制に対する現学長の無知(「主観的善意」・・法律をいかようにでも運用できるというようなスタンス)に対する厳しい批判(大学教員の多くに対する客観的なダメージ効果・意気消沈効果)が特に印象的である。それと、民主的に学内意思の手続きに従って選出された現学長に任期を全うさせなかった市行政当局への批判も鋭い。国立大学は「学長の任命」が大学自治の根幹をなすもの(「憲法23条」と解説:芦部『憲法』として、法人化への移行にあたっても、こうしたことは行わなかった。この点の指摘も当然のことである。吉田さんがこのようなHPをつくり、市大問題に具体的に論及していることをはじめて知った。日々の忙しさで、当然にも目配りすべき情報収集先にも、気持ちが回っていなかったことが判明した。「全国国公私立大学の事件情報」に感謝。

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20050217

公立大学という病、横浜市大時代最後の経験

http://yosisemi-ku.ec.kagawa-u.ac.jp/~labornet/MyDoc/ycu2004.html
学問の自由と大学の自治の危機問題(公立大学という病:横浜市大時代最後の経験 05-2-16)経由

公立大学という病:横浜市大時代最後の経験

04/5/16:「日々の雑感」用に記す
04/9/29/
:追記
04/11/6
:追記および別ファイル化
04/11/17
:「II.学長という病」追記
04/12/31
:「II.学長という病」追記

はじめに

少しずつだが、前任校の最後の時期に経験したことを書きとめておこうと思う。暴露話的なことにも触れることになろう。タイトルの「公立大学という病」は市大時代の思い出に由来する。昨年(03年)の年の瀬に、教員仲間と呑んでいて「誰かこの大学を早く脱出して、このタイトルで本を出し、市大の惨状を告発してくれないか」と愚痴をこぼしたことがあったからだ。その時は、まさか自分がこんなに早く大学を去ることになろうとは思っていなかった。また脱出したからといって、そんな本を書くつもりもない。ただ、その時の思い出として、こんなタイトルにしているのである。ここに書いていることは何の分析や診断もなされてなく、自分が経験して覚えていることだけを書きなぐったものなので、その意味ではタイトルは誇大な表現となっている。

……以下,上記URLを参照して下さい。

 

Posted by 管理人 : 掲載日時 20050217 01:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
URL : http://university.main.jp/blog2/archives/2005/02/post_599.html

学長という病

伊豆利彦氏のホームページ 
学問の自由と大学の自治の危機問題(学長という病 05-2-15経由

伊豆利彦氏のホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/index.htm
新掲示板2 激動する現代 戦争と平和
http://www1.ezbbs.net/27/tiznif/
 より

公立大学という病:横浜市大時代最後の経験


名前:うのき 日付:215() 2144

香川大学経済学部へ転出された吉田誠先生のHPから
http://yosisemi-ku.ec.kagawa-u.ac.jp/~labornet/MyDoc/ycu2004.html

049月、市大独法化後の学長は米国人になるということが発表された。このニュースの意味することは現学長の解任である。独法化時点で現学長の任期はまだ1年残っており、それを全うせずに職を降ろされることになるからである。現学長の残りの任期を勘案して、市大独法化の定款ではわざわざ最初の学長の任期を1年としていたにもかかわらず、その飴玉をもらうことはできなかったのである。当局も誠にシビアで、ただロボットのように当局の言い分を繰り返すだけの無能な学長は、もう用無しだということなのかとも思う。ある市大の先生は、「次がどのような学長であるかはさておき、現学長が独法化後の学長にならないのはざまあみろという気持だ」と語ってくれた。
 確かにその通りであるが、しかし民主的なプロセスを経て選出された学長が解任されるということは、法人化前後で制度的連続性を一片たりとも残させないということになる。独法化された国立大学でも学長選考会議が組織され、この会が学長を最終決定することとなっている。しかし、旧来からの学長選出手続きをふまえ多くの大学では意向調査として学長選挙を実施するようだ。それは独法化前に選挙で選ばれ学長が、独法化後の学長となっており、旧制度との連続性が実質的に存在しているためだと考えられる。形式的には学長選考会議が学長を選ぶが、実質はできるだけ大学構成員の意思を反映させるような工夫といえる。しかし横浜市当局は、小川学長を解任することによって、形式的にだけでなく、実質的にも連続性を断ち切ることを選択したのである。」

「「小川学長」と呼びかけた。ちょうど学務課の前あたりだ。自分はこの大学を去る商学部の教員だと自己紹介し、最後に御挨拶をしたいと申し出た。学長は「名前はうかがっています。随分とゼミ生から慕われている先生だと聞いており、転出は残念です。」と答えた。私は挨拶にかこつけて何故、市大を辞めることを決心したのかその理由を学長に話した。そして私は学長選で小川氏に投票したこと、そしてその理由は小川氏が民主的なスタンスをもっとも堅持してくれそうだと思ったからだったこと、しかし全て裏切られたことを語った。そして、この改革の問題、とりわけ任期制の問題を学長に訴えた。その時の彼の回答は失望さすに値するものであった。「私は任期制については素人だが、運用次第でどうにでもなるでしょう。」
 私は怒りがこみあげてきた。全教員を不幸のどん底につき落す決定を下しておきながら、この時点になってもまだ「素人」と言い逃れする学長の無責任さにあきれはてた。本当に最高責任者なのであろうか。自らの下した決断が無知に基づいたことであったことを、さも我関せず風に答えられる学長のいいかげんさが許せなかった。
 もう一つ許せないことがあった。3月の市会での学長の答弁である。改革が嫌で大学を去る教員が多いと新聞に書かれているがどうかという議員の質問に、学長は「流出する教員と改革とは関係がない。」と断言し、改革が問題のないものであると強弁していた。私はこれが許せなかった。当然、学長は多くの教員が改革に嫌気を出して辞めていることを感じているはずだ。もしそうでないなら、本当に「裸の王様」であろう。だから市会の答弁は嘘であり、こんな嘘を堂々とつける人間がいやしくも学者をやっていたというのが、許せなかった。「私はこの大学が好きだったが、この改革のせいでやめていくのです。学長も良心が残っているのなら、市議会で嘘の答弁をするのは辞めてください。もし多くの教員が辞めていく理由がわからないというならはっきりと申しておきます。少くとも私はこの改革が嫌で辞めていくのです。」彼は神妙な顏をして聞いていたが、何も答えてはくれなかった。
教員組合の作成した2004311日の市議会傍聴記録によると学長は田中議員の質問に対し、「「逃げ出す教員」についても、教員の移籍は、大学相互の人事交流・活発化、さまざまな理由によるもので、大学改革によるものとは考えていない」と答えている。ただ四月以降、少し変化した学長の発言をどこかで読んだ記憶がある。議会での答弁かインタビュー記事であったかも定かでないが、「改革のために、行く先のないにもかかわらず辞めた教員がいる」と述べていたと記憶している(ただ残念ながらソースを見つけることができない)。この程度の前言撤回で何がどうかわるというわけではないが、私に問いつめられて若干の良心を蘇えらせた見るべきか、それとも単なる裸の王様だったというべきか。それはわからない。」
http://yosisemi-ku.ec.kagawa-u.ac.jp/~labornet/MyDoc/ycu2004.html

 

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2月15日 総合理学研究科の佐藤真彦教授は、自らも抗議辞職を表明しておられるが[1]、本学の教員の流出状況に関する労の多い調査をまとめられて、研究室HPで公開された横浜市大、どうにも止まらぬ「教員流出」 05-2-14。身近な商学部に関して言えば、専任教員の定員は51名で、2名はネイティヴ・スピーカーの教員(まさに3年ごとの任期制教員)で、その合計53名のどれだけが「流出」したか(定年も若干含まれているが)を明らかにされている。この統計が示すように現時点での教員数は、大幅減といってよく、本学の研究教育条件がこれで維持できるかは重大な問題であろう。

市長・副市長をはじめとする市行政当局、そして大学改革推進本部の人々は、研究教育の担い手たる大学教員が誇りをもて元気が出る制度改革を真摯に考えるべきであり、大学教員任期法の諸規定や学校教育法、憲法規程を総合的にきちんと把握して、どこに出しても恥ずかしくないような、なるほどこれなら真の意味での活性化が達成されるであろうというような規程・規則体系を提示して欲しいものである。

設置者権限を前面に掲げて、大学の最高意思決定機関である大学評議会(教授会が基礎にある)を無機能状態にしたままで新しい大学の規程・規則等を作っているのは、大学改革推進本部(市行政当局)であり、その責任は重大である。権限には責任が伴う。

 

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2月13日 昨日の『歴史と経済』編集委員会で決まったことを処理するため、日曜日ながら研究室に。

それを済ませて、「大学評価学会」HPにアクセス。第二回全国大会のプログラムなど公開されているのを確認。

今年は、小柴昌俊氏の講演もあり、昨年より多い参加者、会員増加を期待したい。

大学評価学会 第2回全国大会プログラム
[大会テーマ] 今、教育と研究はどこへ向かおうとしているのか−大学・学術政策の評価をとおして−

 日 時:2005年3月26日(土)〜27日(日) 場 所:駒澤大学 駒沢キャンパス 東京都世田谷区駒沢1-23-1(東急田園都市線「駒沢大学」駅下車) ※ URL:http://www.komazawa-u.ac.jp/f_access.htmlをご覧下さい。 (4頁に、上記URLから地図を転載しています) 参加費:2,000円(院生等1,000円) 懇親会費:4,000円(同 上 3,000円)

 大会実行委員会:実行委員長 百田義治(駒澤大学経済学部) 駒澤大学経済学部 岩波文孝研究室 気付 電話:03(3418)9628 e-mail:iwanami@komazawa-u.ac.jp

参加申込先:大学評価学会事務局 電話:075(645)8630(重本)、8634(細川) Fax:075(645)8630 e-mail:a97003as@ryukoku-u.jp

(重本) ※ 参加費を事前に振り込んでいただく必要はありませんが、準備の都合がありますので、参加予定の方は事務局までご連絡ください。3月5日(土)までにお願いします。 ----------------------------------------------------------------------------
<今後の予定> 2005年9月:第2回秋の研究集会、2006年3月:第3回全国大会 - 1 -
2005年 3月26日(土) 12:45 受付開始 (記念講堂ロビー)13:30 開会挨拶 大学評価学会代表 益川敏英氏 (記念講堂)駒澤大学学長 大谷哲夫氏

13:40〜14:50 記念講演 (記念講堂)小柴昌俊氏(東京大学名誉教授)「基礎科学をどうする」

司会:海部宣男氏(国立天文台

14:50〜15:00 休憩

15:00〜18:00 シンポジュウム (記念講堂)「今、教育と研究はどこへ向かおうとしているのか ―大学・学術政策の評価をとおして―」 報告(1)金子元久氏(東京大学大学院教育学研究科教授) 報告(2)戒能民江氏(お茶の水女子大学生活科学部教授) 報告(3)相澤益男氏(東京工業大学学長) 司会:蔵原清人氏(工学院大学) 18:00〜18:10 休憩 18:10〜18:50 会員総会 (記念講堂)19:00〜20:30 懇親会 (大学会館2階 大会議室)

[小柴昌俊氏の略歴] 1926年愛知県生まれ。1951年東京大学理学部物理学科卒業、1955年ロチェスター大学大学院修了。1970年東京大学理学部教授、1987年定年退官、東京大学名誉教授となる。その後1997年まで、東海大学理学部教授。カミオカンデに代表される宇宙線実験や、世界最高エネルギーの電子・陽電子衝突型加速器を用いた実験を行ない、素粒子物理学において、常に世界の最先端を歩み続けてきた。その長年の業績により、1985年のドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章受章をはじめ、仁科記念賞、朝日賞、文化功労者、日本学士院賞、藤原賞、文化勲章、Wolf 賞など、数多くの賞を受賞している。(東京大学大学院理学系研究科・理学部のHPから(http://www.s.u-tokyo.ac.jp/koshiba/ryakureki.html))

[シンポジュウムの趣旨] 2004年は大学評価にとって大きな転換点となる年であった。特に国立大学法人が発足して定期的な評価が義務づけられただけでなく、すべての大学に対して定期的な認証評価が義務づけられ認証評価機関も発足することとなった。 2006年には具体的に評価活動が進んでいくことになるが、これらの評価はどのように行われるのか。そしてその評価によって大学はどうなっていくのか。評価の問題はとかくどんな項目についてどのように行うかという技術的な問題への関心が集まりやすいが、それだけでは評価自体を成功させることはできな
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いだろう。 評価の問題はそのまま大学をどうとらえるかの問題である。この点では日本で今進めている大学政策と世界の動向では大きな違いがある。1月28日には中央教育審議会が「我が国の高等教育の将来像」を答申したが、そうした政策動向をふまえながら今日における大学評価・研究評価のあり方と大学・学術の進むべき方向を考えたい。

2005年 3月27日(日) 9:30 受付開始 10:00〜15:00 分科会 (12:30〜13:30は昼食休憩)

第1分科会 「認証評価機関」評価分科会 (T−202教室)座長:橋本勝氏(岡山大学) 橋本勝氏(岡山大学) 「認証評価制度の明と暗」 日永龍彦氏(大学基準協会) 「大学基準協会の『大学評価』と認証評価」 飯田隆氏(弁護士、日弁連法務研究財団常務理事) 「日弁連法務研究財団における法科大学院の認証評価について」

 

第2分科会 学術・研究評価分科会 (T−301教室)座長:海部宣男氏(国立天文台) 池内了氏(名古屋大学) 「大学の評価について」 荒船次郎氏(大学評価・学位授与機構理事(元東京大学宇宙線研究所長)) 「大学評価・学位授与機構における学術研究機関評価の現状と方向」 岩田末廣氏(広島大学理学研究科特任教授(量子生命科学研究センター)) 「欧米の大学における研究評価:英国のRAE2001から2008への動きを 中心に」

 

第3分科会 大学人権・ジェンダー評価分科会 (T−203教室)座長:熊谷滋子氏(静岡大学) 熊谷滋子氏(静岡大学) 「夢の大学」 御輿久美子氏(NPOアカデミック・ハラスメントをなくすネットワーク、 奈良県立医科大学) 「アカデミック・ハラスメントの実態と防止策の現状およびその問題点」 志田昇氏(首都圏大学非常勤講師組合委員長) 「非常勤講師問題と人権問題」 - 3 -

第4分科会 「2006年問題」分科会 (T−204教室)座長:田中昌人氏(京都大学名誉教授) 三輪定宣氏(帝京平成大学) 「中等教育と高等教育における無償教育の漸進的導入の現状と課題」 御園生純氏(法政大学・専修大学非常勤講師) 「大学政策と高等教育政策決定過程−私立学校法の改正から」 新倉修氏(青山学院大学) 「国際人権と大学評価制度」 15:00〜15:10 休憩 15:10〜16:30 総括討論 (T−301教室)重本直利氏(龍谷大学) 「大学評価学会はどこへ向かうのか―これまでの議論の総括と今後の課題―」 司会:岩波文孝氏(駒澤大学) 16:30 閉会挨拶 大学評価学会代表 田中昌人氏 (T−301教室) [駒澤大学の周辺図] - 4 -


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2月10日 久しぶりに、都立大学の「危機--やさしいFAQ」を見た。それによれば、「未確認情報」としながらも、任期制・年俸制に関する「照会」に都立大全体474名の該当者のうち、192名が回答したという。そのうち、「新」を選んだのが168名だという。40%強と。
  ポーカス博士は、「あれほど不明な新制度を選んだ教員が168名もいたとは」と驚いている。確かにそうである。
  しかし、168名の年齢構成はどうなっているのだろうか?
 任期が5年として、定年まで5年以内の人は、もしも任期制でも、優遇措置が示されれば、自分が高く評価されたとみなして、同意するのではなかろうか? 任期以内にどこか移る先を探すことも念頭にあろう。 任期5年ならば、定年を5年以内に控えている人々のうち、示される条件次第という人(そんなに不利だとは思わない人)が多いようにも思われる。定年との関係はどうなっているのか? 2年の定年延長なら、年配者には魅力のはずだが。その要因が決定的ではないのか?それならば、ごく当然の結果と見ることもできる。任期制の導入と定年延長との関係は、じっくり検討して見る必要のあることだろう。
 横浜市大の場合は、定年が65歳であるため、任期制と定年制を絡ませて「同意させる」という手法は取ることができない。その点、都立大学とは違うであろう。

 ただ、人によっては5年のうちに大幅な上下がありうる。
 さてそうした不透明な部分、不確定な部分を、「新」を選んだ人は、どう評価するのだろう。実際に同意して、数年から5年後の定年の時には、正当な理由なく(業績評価などが公明正大であるかどうかは、この間の大学改革のやり方ひとつ取って見ても、容易には信じることはできないように思われる、行政主義的形式的な手法とそれに追随する「協力」教員との連携で、何が行われることになるのか?)。数年のうちに、大幅な給料切り下げ・処遇悪化という憂き目に会っていないとも限らない。
 照会に回答したことと、実際の任期制に同意することとの間で、条件がもっと具体的に明らかになれば、最終的に同意する人の数は変化する可能性があるように思われるがどうだろうか?
 ともあれわずかの給料切り下げの可能j性より、2年の定年延長という要因は「同意」の決定的要因になると思われる。真実はおいおい明らかになってこよう。



 

 

29日 労働法・労働組合問題・労使紛争に詳しい人から、本学の就業規則案や教員説明会の当局側説明に関する感想が寄せられた。

その方の意見のようであるならば、まさに独立行政法人化は、「噴飯もの」の就業規則と整理解雇の恐怖を背景にして、大学の自治・学問の自由の破壊、教員の精神的奴隷化を進めるものとなろう。批判(がましいこと)は就業規則をたてに黙らせようとするだろうという。一周遅れで、民間企業以上にひどい精神的束縛を大学内に持ち込もうとしているのではないかという。
 戦々恐々とした大学人とは、いったいなんだろうか?
 憲法の保障は、就業規則の脅かしで換骨奪胎状態になるのか?
 現在は、三菱自動車、NHK問題でもそうだが、むしろ、内部告発を守るのが民間企業でも大切になってきているのではないのか? さまざまの意味での権力をもったものが批判を封じることを簡単にできるようにすれば、最終的には社会(市民・国民・学生など)が巨大な被害をこうむるのではないか?問題点は小さな芽のうちにつみとるほうがいいのではないのか?
 そのためには、最大限の自由が保障されていなければならないのではないか? 大学の自治は、その制度的保障ではないのか?
 真実と真理の追究のために、最大限の自由を保障しようというのが憲法の精神であり、それをこそ国民・市民は望んでいるのではないのか?

就業規則案と教員説明会の言動だけでも、かなり多くの教員はいやけがさし、萎縮し、精神的自由を失ったのではなかろうか? 

教員組合が問題視するような、任期制に同意を迫るためになされる労働諸法律から見て「間違った」説明、曖昧な説明にうかうか同意すると、大変なことになる。京都大学事件はそれを示している、と。

現在、説明をしている当局側の人々は、来年以降大学(法人)にいるかどうか、わからない。口頭説明などは、形として、証拠資料として残らない。京都大学井上事件で明らかなように、事務局が同意書に署名捺印させるために発した言葉はどこにも残っていない、同意した文書だけが残っているのではないか?「任期に同意」という文書だけが残されることになるとすれば、恐るべきことではないか?

「引っ掛けられないように」と親身になって忠告していただき、感謝。

 

--メール・タイトル「滅茶苦茶ですね」----

 


 以下、メール本文に関して、労働関係書法律に詳しくない人にむしろ不安を与えるのではないかとの意見が寄せられた。当局側の意図・当局ができないことが推測されているのではないかという。文部科学省に提出した科目担当表などカリキュラム体系からして、すくなくとも、メールを寄せられた方の推測するような「一年後の解雇」といったことはありえないのではないか、というような意見であった。
 現実には可能性が低いことを想定して不安感が増幅するのはよくない、というわけで、そうした効果があるとすれば、私の意図するところではないので、教員組合の方にはメールで参考意見としてお送りしたことではあるし、今回は、削除しておこう。



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28(3) 総務部長の法律を無視した暴論について組合が反論した。もちろん、最終的には暴論どおりのことを行おうとすれば、裁判沙汰になることであるが、全員任期制を何が何でも教員に飲み込ませようとする強引な論理だけが前面に出ており、深刻な問題となろう。

--------- 

横浜市立大学教員組合週報/組合ウィークリー(2005.2.8

 

●教員説明会(127日)における福島部長の暴論を糺す

 

 127日医学部で行われた教員説明会での質問に答え、福島部長は以下の発

言を行っています。

「任期の定めのある雇用契約ですと、基本的には、任期の期間中は雇用を保障

されるということになると思います。任期の定めのない雇用契約の場合、1

経過後には任期[雇用?]としては打ち切られることになる。解雇要件になり

ますが、これは労基法に基づくため、非常にきびしく限定して運用されること

になるが、原則的にはそういう不安定な雇用になる、と考えている」

 この発言は、人事・労務専門家の発言としてきわめて重大な問題を孕んでお

り、暴論と言わねばなりません。以下に暴論である理由を述べ、その責任をき

びしく糺すものです。

 福島発言の核心を取り出すと、「有期雇用の方が雇用は安定していて、任期

を定めない雇用は不安定だ」ということになります。しかし、これはとんでも

なく逆立ちした主張です。

 期間の定めのない雇用について、民法627条は、その契約を解約する申し入

れがいつでもできると規定しています。しかし、それだから解雇が自由化とい

えば、決してそうではありません。解雇が正当と認められるためにはきびしい

条件が付されることは判例や通説で明確に確認されています。解雇するには正

当事由が必要であり、使用者がいつでも解約を申し出られるわけではありませ

ん。

 有期雇用の場合、組合が繰り返し主張してきたように、そうした解雇要件を

満たしていなくても、契約期間終了時には契約更新を拒否される可能性があり

その点で雇用は不安定なのです。更新拒否(雇い止め)の要件を解雇要件より

も「緩く」設定できてしまうところから、こうした不安定性が出てきます。

 雇用形態のこのちがいを逆立ちさせ、期間の定めのない雇用を不安定と強弁

するのは、不見識をとおりこし、意図的で悪質な主張と言わざるをえません。

 福島部長の発言が正しいとすれば、任期付き教員でない大半の私学大学教員

は「不安定な雇用」にさらされている、ということになるでしょう。もちろん

大学教員のみならず、期間の定めのない雇用の下にある労働者は有期雇用の労

働者とくらべ不安定だ、ということになります。誰がどうみても現実に反し、

常識に反するそういう主張を公に述べること自体、信じがたいことです。

 福島部長は、「有期雇用への移行は雇用形態上有利な変更であり、不利益変

更にはならない」と主張したいのでしょうか。だとしたら、任期付き教員への

移行が有利な変更であることを堂々と述べたうえで、期間を定めない雇用より

も三年任期、五年任期の雇用制度の方がどれだけ有利なのかを具体的に示すべ

きです。当局提案の任期制が現行の雇用形態とくらべてどれだけ有利で魅力的

かを示す証拠はありません。「有期雇用だからより有利だ」と言わんばかりの

誤った説明で当局案を正当化することできません。

 言うまでもなく、有期雇用への移行が「有利」かどうかは、雇用者である教

員がそう判断できるかどうかにかかるものであり、使用者側が一方的に「有利

だから、のめ」と言えるようなものではないことも、あらためて確認しておき

ます。

 有期雇用ならば数年間は雇用が保障されるけれども、期間の定めのない雇用

は不安定という福島発言は、雇用期間にかんする労働法理を歪めているだけで

なく、そうすることで、「もし任期制に同意しなければ雇用が不安定になる」

という印象を醸し出しています。「同意しなければ不利になる」とあからさま

に述べていなくとも、不安定な雇用形態になること(これが誤った主張である

ことは上に述べたとおりですが)を想定しておいた方がよいと匂わせているの

です。

 その意図はないと後でいくら弁明されても、発言全体が教員の不安を煽るレ

トリックとなっていることは否定できないはずです。

 労使交渉を誠実に果たすべき役割と責任を持つ人事・労務担当者がこうした

発言を行うことは大学当局への深刻な不信感をもたらすものであり、座視する

ことができません。何が何でも任期制に同意させるための誘導とみられても仕

方のない発言は厳に慎むべきです。

 

 

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横浜市立大学教員組合 

 

236-0027 横浜市金沢区瀬戸22番2号

Tel 045-787-2320    Fax 045-787-2320

 

mail to : kumiai@yokohama-cu.ac.jp

教員組合ホームページ

http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/index.htm

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28(2) 天木HPからのコピーも掲載しておこう。

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 もう一つの米国従属見えざる金融支配
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◇◆
 もう一つの米国従属見えざる金融支配 ◆◇

 日本は米国に守ってもらっているという呪縛の下で、日本の外交があらゆる面で米
国のいうままになっている事は誰もが知っている。核兵器を違法と言えないのも日本
が米国の核の傘に守られているからだ。思いやり予算の名の下に在日米軍に贅沢な生
活環境を与え続けているのも、米軍の犯罪に手が出せないのも、イラクへの自衛隊派
遣を断れないのも、すべては日米軍事同盟を損なってはわが国の安全はないという思
い込みのせいだ。
 しかし、より深刻なのは金融における米国の日本支配であることに気付いている国
民は少ない。ここ10年余りもの間、政府・日銀の政策により銀行の金利はゼロに据
え置かれたままだ。こんな国は世界ひろしと言えど存在しない。
 
 そしてこの点について、ついに日銀の福井総裁が白状したのだ。93年から10年以
上も続いているゼロ金利政策によって、国民は154兆円もの預貯金利子を奪われてき
たという。単純計算で一人あたりなんと121万円、4人家族で485万円となる計算だ。
日刊ゲンダイは24日と5日の両日にわたってこの問題をとりあげている。「英国
民は忍耐強いが、金利が2%を割ったら暴動を起こすだろう」というケインズの言葉
を引用し、銀行と企業にカネが集中し庶民や地方には回らない日本のゼロ低金利政策
を糾弾している。
 
 ゼロ金利政策の根拠として、不良債権に悩む銀行の救済の為であるとか、景気回復
のための刺激策などと政府は説明してきた。しかし本当にそれだけか。この問いに明
快に答えてくれたのが神奈川大学教授の吉川元忠氏だ。その著書「マネー敗戦」(文
春新書)で、近年の米国と日本の金利差は常に3%程度の差が政治的に設定されてお
り、資金が米国に流れる仕組みがつくられてきたというのだ。国民の資金は、金利差
のある米国へ国債購入という形で流れ易く設定されているのだ。おりしも米国は短期
金利の指標であるフェデラルファンド(※文末参照)を年2.5%に引き上げ、今後も小
幅な利上げを繰り返すという(23日夕刊各紙)。しかし日本は一向に利上げの声は
聞こえてこない。させてもらえないのだ。
 
 吉川教授の「マネー敗戦」を読んだ時、私は強い衝撃を受けた。政府関係者も驚い
たに違いない。一般庶民が気付かない真実をついたからだ。それゆえに吉川教授の言
論は徹底的に無視された。メディアで取り上げられることもない。その吉川教授が、
2
23日号のサピオ誌に、「『円のドル化』という悪夢」という題で、再び驚くべき指
摘をしている。
 
 すなわち、米国の双子の赤字の約4割を米国債購入という形で支える日本は、もは
やドルが下落すると資産を失ってしまう為永遠にドルを買い支え続けなければなら
なくなっている。これこそ、日本の資金によって経済破綻を防ごうとする米国の日本
金融支配の結果である。そして自らも経済破綻に近づきつつある日本がもはやこれ以
上米国のドルを支えきれなくなったとき、残る選択肢は「円のドル化」しかないとい
うのだ。
 
 「円のドル化」によって日米の債権債務関係は棚上げとなり財務省の責任は吹っ飛
んでしまう。為替差損のリスクがなくなれば日本の個人資産は自動的に金利の高い米
国へ流入していく。邦銀は軒並みに資金が枯渇し経営危機に陥る。取引企業も窮地に
陥る。そこに外資が来て日本企業を次々に買収するのだ。
 
 米国の日本支配は、軍事的な占領と金融による占領があたかも車の両輪のように急
速に進んでいるかのようだ。小泉首相や竹中大臣の一連の改革が、米国の手先となっ
て日本経済を米国に差し出していると巷間囁かれる理由がここにある。

用語解説
フェデラル・ファンド(Federal funds
米国の市中銀行が連邦準備銀行に預けている資金のこと
http://www.findai.com/yogo/0245.htm

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28(1) 大学評価学会の活動を紹介しておこう。

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━ AcNet Letter 2401-1━━━━━━━━━━ 2005.2.7━━━━━━━━

 大学評価学会「2006年問題特別委員会」、126日国際人権活動日本委員
会・外務省との懇談・要請についての報告
  http://university.main.jp/blog2/archives/2005/02/2006126.html

  From : 全国国公私立大学の事件情報 (http://university.main.jp/blog/)
  取得時:2005020706 URL: http://ac-net.org/rss/item/39157
────────────────────────────────────
大学評価学会暫定ホームページ
   http://university.main.jp/blog/hyoukagakkai-main.html
 ?●大学評価学会、通信第4号(200525日)
       http://university.main.jp/blog/tuusin_No4.pdf

12.6
懇談・要請についての報告

2006
年問題特別委員会

2006
年問題特別委員会では、2004126日に、国際人権活動日本委員会(午前)
と外務省(午後)を訪問しました。これには、田中昌人委員長のほか、重本直
利、細川孝の専門委員、他に2名の会員が参加しました。

 国際人権活動日本委員会(以下、委員会)は、懇談との位置づけで訪問しま
した。事務局次長の小林靖夫氏、井川昌之氏が対応してくださりました。冒頭
で田中代表から、大学評価学会の概要と「2006年問題」へのとりくみを説明し
ました。続いて、国際人権活動日本委員会から、設立以降の経緯について、活
動は 1993年(国連経済社会理事会へのレポート提出の年)からスタートし、当
初は自由権規約に関わる問題を中心にとりくんできたこと、国連からの指摘も
あり社会権規約に関わる問題にもとりくむようになったこと、20042月に経済
社会理事会の特別協議資格NGOとなったことなどが紹介されました。

 また、委員会が毎年行っている経済社会理事会への要請行動や、20018
に行われた社会権規約委員会第26会期の「日本政府第2回報告審査」の模様につ
いてもお話しを聞くことができました。高等教育における無償教育の漸進的導
入に向けたとりくについて、貴重なアドバイスを得る機会になりました。

 外務省では、大臣官房国際社会協力部人権人道課に要請を行いました。田中
代表はまず、大学評価学会の概要と要請の趣旨を説明しました。これに対し、
外務省の担当者からは、「近々に留保の撤回を行う状況にはない」との回答が
あり、これに関して、次のような説明がありました。

 厳しい財政事情の下で、人権関係の予算は後回しにされている。それでも言
われなき差別については優先的にとりくみをすすめている。「留保」について
は、外交関係に関するウィーン条約にもとづいた適切な手続きにもとづいたも
のである。中等教育および高等教育における無償教育の漸進的導入については、
文部科学省の政策的判断が行われた後に、財務省との議論が行われるであろう。
外務省が対応するのはその後のことである。外務省の側から文部科学省に働き
かけることは出来ない。日本ゆえに要求のレベルが高いということがあるだろ
う。すでに日本の大学進学率は世界有数であり、社会権規約に書かれた権利が
実現できていないわけではないと考えている。

 これに対し田中代表は、「漸進的導入」の検討が必要ではないか、ヨーロッ
パでは2030年の時間をかけてとりくんできている、留保をはずしたら何か不
都合があるのか、と述べました。また、経済的状況による制約、経済的地位に
よる教育的差別の実態を指摘しました。担当者からは、制度を変え、法律を変
え、その後になって、最後に留保が撤回される、との発言がありました。

 重本委員は、ヨーロッパの考え方、理念と日本は大きく異なっていることを
指摘しました。そして、文部科学省は無償化の理念そのものに疑義を感じてい
るように思われるが、外務省はどうか、と質問しました。これに対しては、
「国全体の予算配分の問題である」との回答でした。

 最後に、2006年の回答に向けて、次のような説明がありました。現在、自由
権規約、拷問等禁止条約に関する報告書の作成が遅れており、これが終わった
後に社会権規約の報告書にとりくむことになる。自由権規約、拷問等禁止条約
と同じように、社会権規約の報告書作成に向けて必ずヒアリングを行う。ヒア
リングについては、文部科学省と一緒にやることもあり得る。

 6月に行った文部科学省への要請の際に、「管轄は外務省」との反応であった
ことも、今回の要請のきっかけとなったわけでありますが、「留保」の撤回に
向けて学問的な探究を深めると同時に、社会的な広がりをもったとりくみの重
要性を改めて感じた次第です。(文責、細川)

 

AcNet Letter 2402-1】━━━━━━━━━━ 2005.2.7━━━━━━━━

 

 大学評価学会、第2回全国大会(32627日 駒澤大学) 

  http://university.main.jp/blog2/archives/2005/02/32627.html

 

  From : 全国国公私立大学の事件情報 (http://university.main.jp/blog/)

  取得時:2005020706 URL: http://ac-net.org/rss/item/39155

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■大学評価学会暫定ホームページhttp:

//university.main.jp/blog/hyoukagakkai-main.html

 ?●大学評価学会第2回全国大会プログラム(PDFhttp:

//university.main.jp/blog/Program_No2.pdf

 

大学評価学会

第2回全国大会プログラム

 

[大会テーマ]

今、教育と研究はどこへ向かおうとしているのか

−大学・学術政策の評価をとおして−

 

日  時:2005326日(土)〜27日(日)

場  所:駒澤大学 駒沢キャンパス

    東京都世田谷区駒沢1-23-1(東急田園都市線「駒沢大学」駅下車)

    ※ URLhttp://www.komazawa-u.ac.jp/f_access.htmlをご覧下さい。

      (4頁に、上記URLから地図を転載しています)

参加費:2,000円(院生等1,000円)

懇親会費:4,000円(同 3,000円)

大会実行委員会:実行委員長 百田義治(駒澤大学経済学部)

        駒澤大学経済学部 岩波文孝研究室 気付

        電話:03(3418)9628

        e-mailiwanami at komazawa-u.ac.jp

参加申込先:大学評価学会事務局

        電話:075(645)8630(重本)、8634(細川)

        Fax075(645)8630

        e-maila97003as at ryukoku-u.jp(重本)

※ 参加費を事前に振り込んでいただく必要はありませんが、準備の都合が

ありますので、参加予定の方は事務局までご連絡ください。35()まで

にお願いします。

 

 

 

 

------- 

24日 本日誌読者から久しぶりにメールを頂戴した。昨日の教授会でも話題になった受験者数のデータに関してである。外部の人がどのように見ているか、昨日教授会で話題となった視角とほとんど同じであるが、以下にコピーしておこう。この客観的データをもとに、社会の反応をどのように分析し、どのように説明するか。市行政当局・大学改革推進本部は下記のような評価に、どのように反論するであろうか?[2] 

私は、任期制や成果主義賃金の導入に関しては、慎重にも慎重に検討を重ねる必要があると考えている。無理押しは、面従腹背の教員を多くし、今年度中にも、さらには来年度以降も引き続いて、脱出を試みる教員を増やすだけだろうと考える。それは、大学活性化とは反対の方向だろうと思う。

任期制の導入は、東大等でもやっているように、全教員(助手、講師、助教授、教授の多様な層がいるが)に対してではなくて、全ポストに対して(科目に関わりなく、すなわち科目による差別なく−思想信条・学問の自由に関わるのでいかなる科目でも可能性ありとするのは憲法にかなっている)可能にすることは制度として考えられる。その場合、具体的なあるポストをいつの時点で活性化のために優遇した条件にするか、そしてその特別優遇のポストに誰をつけるか、ということはしかるべき社会的評価(学界等外部の第三者による客観的評価の検証可能なもの・・・内部のお手盛り的評価は許されない)の上で行う、ということは考えられる。任期制に移行するときに、その担当ポストが時代の最先端を行くとか、しかるべき大学教員任期法が定める資格要件を満たす必要はあろう。それが大学教員任期法の趣旨であり精神だと考える。首切りの脅かしのための全員任期法などというのは(他方では、「普通にやっていれば」問題ないなどという曖昧な、どのようにでも解釈でき内部的な恣意がまかり通る可能性がある規定)、それを就業規則案として公にしたことすら、本学の大学教員全体に対する侮辱ではないかと感じる。

私の得ている情報に間違いがなければ、東大の場合、60歳定年の原則(慣行)が確立してきたため、任期制ポスト(5年任期)への就任は、55歳の時点であり、5年後の定年退職を見越した導入であったという。その後、傾斜的な定年延長があり、任期制導入時点が現在どうなっているのか(定年延長にあわせて、57歳、58歳となっているのかどうかなど)はつまびらかにしないが、こうした事例も参考にはなろう。 

ドイツでも、普通の教授に対して(たとえばA教授というのか?)、Cクラスの教授とか言うのがあるそうである。これまであまり興味がなかったので調べたことはなく、人が話しているのを耳にしただけである。たとえば、「あの教授は一番上のランクのCクラスで、月給はこれくらいだそうですよ、われわれと比べると・・・・」、云々と。ドイツの場合、教授にもランクをつけているのであり、教授になってたとえば5年間で、教授クラスの上の段階(Bクラス)に上がるかどうかを審査する、そしてさらに5年後に最高のCクラスになれる人がなるということで、業績を評価しているというわけである。それならば、活性化につながるかもしれない。助教授にも、3クラス(5年刻みで)くらい設定することも可能かもしれない。問題はランク別の給料などではない。経営の厳しいときに格差があまりないのは当然であろう。意味があるのはランクそのものの設定だろう。

人によっては、5年間に更なる大きな前進を遂げる人もいれば、種種の理由からそうでない人もいるであろう。しかしだからといってひとたび教授(あるいは助教授)になった人が特別の事情のない限り、解雇や差別の恐怖におびえる(同僚・先輩教授、非専門家の管理職教授の顔色をうかがわなければならない)というのは許されないであろう。5年間にしかるべき前進を示さず業績を積まない人(あるいはそれを種種の理由から対外的には示さない人)は、現ランクにとどまればいいのである。

本学の場合でいえば、「有期契約3年・5年」で示されたような差別(妥当かどうかは疑問だが)を維持するとすれば、博士号等の特別の資格を有する人は、理論上(実際の個別事例・個々の教員に関してははわからない)、他からの引き抜きや流出の可能性がそうでない場合よりも大きいという一定の合理的な推定が働くので、それを抑止するために60歳になった時点で他の同じ年齢の教授よりは一ランク上に位置付けその任期を5年とする、博士号等の特別の資格を持っていない人は(それがその人の学問的業績の水準とはまったくべつであるし、最近のように文科系でも博士号が多発される時代とかつてのように何十年かにほんのわずかの人が取得できたという時代とでは博士の重みがまったく違う、博士号はそれ自体としては今後ますます重みがなくなろう・・その限界を見据えた上で)、62歳になった時点で一ランク上の3年の任期制ポスト教授に移行するか、そのまま定年まで普通の教授にとどまるかを審査選択してもらう、というやり方も考えられるであろう。

以上は単なる思い付きに過ぎないが、いずれにせよ、具体的ポストに関するきちんとした大学らしい検討抜きの全員任期制は大学を本当に死滅させるであろう。現在示されている就業規則案は法の精神と法体系を無視し、大学教員任期法の適用を回避するための労働基準法適用も姑息な手段だと考える。

 

----本日誌読者からのメール------ 

 

 任期制と成果主義賃金の導入具体化案を見て、予想通りとはいえ、そのひどさにびっくりしています。

 受験者数が発表になったので、昨年と比べてみました。今年の横浜市立大学の出願倍率はかなり落ちていますね。昨年の倍率は、代々木ゼミナールからとった数値です。

昨年は、
商学部 7.0 倍
国際文化学部 5.3 倍
理学部   5.0

今年は:
国際教養学系 4.1 倍
経営科学系 3.5 倍
理学系 2.0 倍
文系理系共通 4.3 倍
合計 3.5 倍

 商学部は半減、理学部はそれ以下ですから、「激減」といっていいですね。国立大学がいまや5教科、6教科型に戻っているので、国立の志願者は第一希望が多いでしょうが、市大は、3教科受験で私立大学併願型で、私立大学の方に逃げる受験生もおおいでしょうから、正味の倍率はこれよりもかなり低くなるのではないでしょうか。「やさしい」と言うので来年は倍率が上がるかもしれませんが、まず今年度は、厳しい市場の評価です。
 全員任期制や成果主義賃金導入で教員が逃げ出し、商学部と理学部をつぶして受験生が逃げ出し、でしょうか。「市場」を無視した横浜市による改革の成果が早速でているような気がします。

 

----------- 

23日 「鬼はそと、福はうち」。久しぶりに天木氏の「メディア裏読み」を引用しておこう。NHK問題では、「受信料支払い一時停止」の運動が呼びかれられている。もしかしたら、強烈なパンチになるかもしれない。

contents------------------------------------------------------
 こんな国会審議でいいのだろうか(省略)
 日本を変革させる真の力を見つけよう
------------------------------------------------------ contents
  
 ◇◆ 日本を変革させる真の力を見つけよう ◆◇
  
 多くの国民は今の日本の閉塞状況にやるせない思いを抱いている。どうしたらそれを打
破し、いまの歪んだシステムを、徒手空拳の国民が変えられるか。日本の現状を真面目に
憂う人なら、誰もが一度は考えることであろう。
  暴力による体制変革の認められない民主主義においては、選挙による政権交代こそ
唯一の方法であると思われている。しかしこの国の政治家そのものが国民の意識と乖離し
ている時、果たして政権交代だけで世の中が良くなるのかという疑問が湧いてくる。もはや
政治家などを当てにせず国民自らが平和的手段で体制を変える方法はないものであろう
か。
 
 そう思っていたら、週刊スパの28日号巻頭の「ニュース バカ一代」で勝谷誠彦氏が
鋭い指摘をしていた。NHKの海老沢勝二会長が辞任に追い込まれ、顧問に居直ろうとした
事さえも国民は許さなかったことは記憶に新しいが、やはり一番の理由は受信料不払いと
いう「行動」がNHKを追い込んだことだと思う。また年金掛け金の未納の増大が社会保険庁
を解体に追い込みつつある。すなわち勝谷氏は、国民が大挙して受信料拒否や年金未払
いといったおとなしい武器を使って権力者を追い込んだのだという。そして勝谷氏は次は税
金不払いというもっと大きな武器を国民が一斉に使うようになると今の体制は立ち行かなく
なると期待するのである。つまり国民の不払い運動こそ革命の予兆であるというのだ。
 
 もう一つの方法は「内部告発者の怒りパワー」を結集する事だ。最近の例をざっと挙げて
も勇気ある内部告発者の言動が権力を脅かしている。21日の判決で有罪を言い渡され
た元大阪高検公安部長の三井さんは、体を張った渾身の抵抗で、「三井被告の口封じとの
主張も無理からぬ・・・調活費問題は社会的に重大な問題。自らこれに関与したという被告
の供述は軽視できない。問題の糾明が必要なのは明らか」と検察の不正をにおわす異例
の判決を導き出した。
 
 28日号の週刊スパは「辞めるときは死ぬときだ」と記者会見で衝撃的な実名告発をし
た愛媛県警の仙波敏郎巡査部長が左遷人事を受けた事を大きく取り上げ、「組織を改善し
ようと訴えた人が不利益をこうむってはいけない」という弁護士の言葉を引用している。この
記事を読んだ読者は、全国で広がっている警察の裏金作りの疑惑が、度し難い警察官僚
の組織的不正であることを確信するであろう。
 NHKの政治家との癒着を告発した長井暁プロデユーサーの無念の涙の記者会見がNHK
や政治家を追い込んだ例を我々は目の当たりにした。
 
 何時の場合も告発者、反逆者は、最後は権力者に押さえつけられ、処罰されて潰されて
しまうことがこれまでの例であった。しかしここまで権力者の不正が明らかになっているのに
これを封印したままで世の中が収まるであろうかと思う。権力者が不正を働いていることが
明らかにもかかわらず、仕方が無い事だと見過ごす事ができるであろうか。内部告発者の
権利を守り、内部告発者の悔しさと怒りのパワーが結集された時、国民は動くような気がす
る。権力者が膝を屈する時が来ると思う。小さな一歩でも歩みを止めなければ山は動く、壁
は崩れるのである。


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いつも「メディア裏読み」をお読み頂きありがとうございます。内容に関して情報をお持ちの方
はお知らせ下さい。より詳しい情報に基づき一層良いものを書いてゆく所存です。また、ご意見
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22日 教員組合ニュースが届いた。以下に掲載しておこう。議論の詳細は、まだ送られてきていない。

総会にはすこし遅れて出席し最後まで議論に加わった。

教員説明会における最高経営責任者、大学総務部長、労務担当部長等のスタンスの微妙な違い、説明の仕方の違いなどが確認された。特に労務担当部長の発言には見逃すことができない部分があるということで、いずれ組合としてしかるべき対応がなされるであろう。

議論は熱気を持ったものだった。

教員組合に限らず、組合は、個々人では弱い立場のものが集まってひとつの集合的な力と集合的な意思を形成し、働くものの見地から主張すべきことを主張し、労使対等のスタンスで勤務条件を調整し確立していくためのものである。不当なやり方に対しては、集団的に毅然とした態度をとることが必要であり、卑しくも大学で人権やマイノリティの権利、自由や民主主義を語る以上、不当な当局の態度を容認していてはならない、ということであろう。

いかに当局提案の就業規則が不当なものであり違法性のあるものであるかについては、教員組合はつぶさに問題提起しているのであり、これら問題提起に対して当局がどのように誠実に文書で答えるか、これに全組合員は、そして非組合員も(できるだけ組合に参加することが望まれるが)同じ職場に働き、大学と命運をともにする以上、細心の注意を払わなければならないだろう。

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横浜市立大学教員組合週報/組合ウィークリー(2005.2.2)
もくじ
総会終了
執行委員選挙・規約改正投票公示 かならず投票を!
執行部交代延期

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総会終了
 1月31日(月)、当組合の総会が開催され、終了いたしまし
た。いつにもましての熱気で、参加者のあいだで活発で建設的な
議論が行なわれ、議案書の報告・提案がすべて承認、可決されま
した。その一部は、以下にお伝えするとおりです。
 活動方針を受けての戦術等については、今後お伝えします。

執行委員選挙・規約改正投票公示 かならず投票を!
 総会では、執行委員選挙について、および規約改正について議
決がなされ、2月1日(火)、公示がなされました。10日正午
開票です。
 規約改正には全組合員の3分の2の賛成が必要です。
 組合員におかれてはぜひご検討のうえ、かならず投票されるよ
うお願いします。
 なお、この選挙で選ばれる執行委員の実際の活動は、4月1日
以降となります。下の記事をご覧ください。

執行部交代延期
 現下の危機的な状況にかんがみて、総会は、通常どおりの2月
における執行委員会メンバーの交代を延期し、4月の適切な時機
に交代させることを議決しました。
 執行委員長、副執行委員長、書記長等の分掌は4月まで変化し
ません。今後ともよろしくお願いいたします。

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発行 横浜市立大学教員組合執行委員会 

236-0027 横浜市金沢区瀬戸22番2号
Tel 045-787-2320    Fax 045-787-2320
mail to : kumiai@yokohama-cu.ac.jp
教員組合ホームページ
http://homepage3.nifty.com/ycukumiai/index.htm

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[1] 佐藤先生のHPに勇気付けられて「大学の自治」「学問の自由」の見地から本日誌に種種のことを記録してきたものとしては、心細い限りである。

先生が去られるのは残念至極であり、本学の「大学の自治」、「学問の自由」の再構築にとって大きな痛手となると思われる。すでに退職届を提出されたかに伺っているが、もしそうだとすれば、今からでもそれを撤回し、大学の自治が失われた状態で誕生する新しい大学を、憲法の規程にふさわしい大学に変えていくために、4月以降も大学の中でともに働くことはできないものか、と願う。