2005年10月の日誌
10月31日 先週末から「政経史学会」(政治経済学・経済史学会)の秋季学術大会で新潟大学に出かけていたため、今日、教員組合の『ウィークリー』(10月28日)を受け取った。すでに、組合HPにも掲載されていた。トップダウンの学長任命制度による学長候補者に対する教員組合の公開質問状であり、これにどのように回答するか、大学の自治の原則をどの程度理解した回答になるのか、見守りたい。憲法の保障する大学自治の原則からすれば、今回のような学長候補者の任命(制度と運用の両方において)は憲法違反だと私は考えるが[1]、その点をどのよう認識しているか、質問項目にはないが、回答の仕方で、ある程度明瞭になろう。
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横浜市立大学教員組合週報 組合ウィークリー
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10月27日 大学院生が発行する『思惟と聯流』第4号(10月15日付)が掲示板に張り出され、研究室にも配られた。その『主張』には、傾聴し検討すべき論点がたくさん含まれていると思われる。また、非常勤講師招聘に関する院生の発言権の要求にも、切実なものがある。「大学の自治」の見地からすれば、まさに大学自治の当局側の担い手としての学長以下の執行部が真正面から受けて立つ必要があるように思われるが、さてどうだろうか。学費に見合ったサービスをきちんと受けていないという院生の声に関して言えば、学長以下を上から任命している理事会の責任も問題となる。
毎月一回、代議員会は開催されているというが、代議員会はどのようにこうした学生・院生の声をくみ上げるであろうか。
理事長・副理事長などが市長・市当局により任命され、理事長によって学長が任命され、学長選考においてはその選考委員もすべて理事長・副理事長などによって決められるとすれば(選考委員会の発足はどこでどのように決められたのかさえ、われわれ一般教員にはまったく不明、結果だけが新聞報道で知らされる)、このトップダウン体制のもとで、学生や院生の声を吸収するシステムはどうなっているのか。
院生の「自治会総括」によれば、「一年間の事務とのやり取りを通し、当局全体が、学生の状況を想像する力や、心や気を配る力、実態を把握して全体を見る知的総合力全般に欠けるということ、事なかれ主義、学生の泣き寝入りを望む無責任集合体であることがわかった」という。
そして、「昨年の11月7日、市長が学祭期間中、市大にきた際、一部の院生の展示物である雑誌百冊前後と長机一式が当局に無断撤収、消去させられた」という驚くべき事実も書かれている。本当か?一体事実関係はどうなっているのか?学園祭の展示物を当局が無断で撤収するとは?
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10月20日 都立大学教職員組合の人事制度(評価制度)に関する主張を、「全国国公私立大学の事件情報」経由で知り、読んでみた。その主張は、理路整然としており、全面的に支持できるものである。都の行政当局のやり方の根本的問題が浮き彫りになっている。以下にコピーしておこう。
------下記引用中、赤字強調は、引用者による------
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2369号 |
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全教員の任期・年俸制を前提とした評価制度は容認できない! はじめに 的外れの人事制度設計の観点 皮相な教員評価案と「評価疲れ」による大学の衰退 法を無視した全員任期制 全員任期制は組織の活性化につながらない 賃金切り下げにつながる年俸制 「旧制度」の昇給、昇任を認めることが先決である 十分な検討なしの制度案には絶対反対する |
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10月18日(2) 「全国国公私立大学の事件情報」(10月18日付)経由で、埼玉大学の学長のリーダーシップ(欠如)に関するニュース(埼玉大学教職員組合の主張・組合ニュース号外)を読んだ。さて、本学は?と考え込んだ。もちろん、埼玉大学の教員組合ニュースは、一方で、「リーダーシップ」と「上意下達の権力」との違いを強調しているのであり、他方で、そうした「上意下達のトップダウン」にただただ従順な「下々」の態度への警告ともなっているといえよう。「下々も、トップも、ともにご注意を」と。しかし、「下々」は、大学全体の政策・方向性の決定に、どこまで関与できるのか? 教授会・評議会の権限はどうなっているか? これがまた問題となろう。
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10月18日(1) 本学元教授・佐藤真彦氏のHPで、伊豆名誉教授の日々通信を読んだ。「いまよみがえる夏目漱石」(2)で、この「日々通信」を私もいただいたはずだが、たくさんの「info何とか」の迷惑メールを削除する時に一緒に削除してしまったらしく、気づかなかった。漱石が「社会的不正」に徹底的に戦う姿勢をつらぬいたこと、「友人の文学者馬場蝴蝶が衆議院選挙に立候補したとき、堺利彦らとともに推薦人になり、推薦状の筆頭に名前を出して 」いたこと、第一次大戦における日本の軍国主義膨張への危惧、批判など、生命力のある漱石の社会的問題意識、世界認識を教えてくれ、実に興味深い内容である。
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10月13日(2) 本学元教授・佐藤真彦氏のHPで、「05/10/04アピール − 改革ファシズムを止めに行こう(2005.10.12)」を読んだ。その主張からすれば、排外的ではない「日本主義」を基礎にして全国民的統合を目指すかのようである。このHPを経由して、久しぶりに豊島氏のHPを読んだ。「改憲阻止」の豊島氏の主張は一貫している。今回の選挙結果に対抗するための、そして、憲法「改正」を阻止するための運動が、広まっていることを示す。現在の世界情勢において、日本国憲法の諸原理は重要であり、とりわけ、9条は重要である。その一点で、連帯しうる多数の人々が結集しようというのは、改めていうまでもないことながら、重要な問題提起というべきだろう。豊島氏HPには多くの貴重な提言や資料が掲載されているが、そのひとつ、「ラッセル・アインシュタイン宣言」へのリンクも貴重である。かつての核保有国以外に、インド、パキスタン、イスラエルというように核爆弾を保有する国は増え続けているのが、現実だから。「アインシュタインが社会主義者だった」という記事、アインシュタインの言う「社会主義」の意味合いも含めて、熟読検討するに値する。
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10月13日(1) 今日の「全国国公私立大学の事件情報」(10月13日付)で知った貴重な情報の中で、注目したのは、つぎのものであった。私は代議員ではないので、先ごろ開かれた国際総合科学部の代議員会で相当紛糾したという非常勤講師問題(報告事項とされ審議事項とされなかったというが-人事の決定権はどこにあるか?審査権は?誰が業績を判定しうるのか?)のひとつの論点も、業績ないし資格にかかわるものだったようである。さて、実際に何が行われ、また議事録(報告事項)はどのようにまとめられるか? いずれにしろ、学生の単位の認定権と関係するのは教育する側の教育研究実績であり、論文等の業績である。その点が、基準(公明性・明文化された基準その他、これまで長年の教授会規定で確立されてきた諸基準、あるいはそれを発展させたもの)に従い、筋道を立ててきちんと処理されていないと、下記学長の事例でも明らかだが、後で大変なことになるであろう。
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10月11日(2) 久しぶりに教員組合「ウィークリー」を頂戴した。その内容に共感し、支持する。草の根からの強靭な民主主義は、まさにこうした教員組合の行動を通じても、発展させられ、深化させられなければならないだろう。「ウィークリー」の伝える問題はすべて重要なことばかりだが、学長選挙のあり方に関して一言すれば、いまや、国立大学法人においては、小樽商大のような全教職員選挙という方式さえも編み出されるにいたっている「全国国公私立大学の事件情報」(10月11日付)[2]。文科系単科大学として、こうした方式が可能になったのであろう[3]。
----『北海道新聞』記事抜粋----
有権者は前回二○○一年の選挙の約一・七倍の二百一人。投票は、投票者が候補者名を自由に挙げる学長候補者の推薦(十月下旬)、選抜(十一月)、上位三人による決選投票(同)の三回行い、最初の推薦の段階から教職員全員が投票する。
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国立大学法人は大学の研究教育を担う教員の投票による意向調査など、まがりなりにも学内の意志を尊重する手続を取っている。それを根本的に拡大した方式、大胆に前進させたのがこの小樽商大方式であろう[4]。これは、本学のあり方とはまったく違う方式であり、全国的にみても驚嘆するような画期的方式ではなかろうか。大学の自治を担う学長(理事長)選挙における大学民主主義、という点では非常に徹底していると思われる[5]。丸山真男の言う民主主義の「理念、制度、運動」(浅井基文氏論説・参照)からすれば、その理念、制度の画期性は明らかではなかろうか。本学の定款の問題性(大学の自治・自立性という基準に照らすときの問題性、少なくともその運用の仕方の問題性)は、ほとんどの国立大学、そして今回の小樽商大方式のようなものと対比する時、いっそうはっきりとうかびあがってくるのではないだろうか。
本学のように、少数の人間(直接的間接的にすべて行政側による任命が貫徹した人々・・・教育研究審議会、経営審議会の全メンバーの選ばれ方を検証してみればわかる)からなる選考委員会での選出とあれば、教員組合ウィークリーの指摘するとおり、研究教育を担う教員と職員の意向はまったくといっていいほど反映されないことになる。私の知る限りでは、現学長は、本学教職員がだれも知らない人物(急逝された前最高経営責任者=行政当局によって任命された人物の知人)であった。行政当局による直接間接任命の学長選考委員会による選考は、どのような基準で行われるか、基準そのものの妥当性をはじめ、「大学の自治」という点からは、深刻な問題をはらむ。そして、それは制度的には、実は憲法の保障する「大学の自治」(「学問の自由」の制度的保障)に決定的に違反するだろう、と考える。いったい行政当局との距離(自立性・独立性・自治性)はどこに保障されているのか?
この問題は、教員組合ウィークリーが批判的に論評している「トッフル500点問題」と基本的に同じ構造的欠陥(民主主義的意思決定プロセスの欠如)によると考えられる。
小樽商大方式は、その方式選択の理由に「国立大学法人化で、一般教職員の大学運営に関する意識が高まってきたため」ということをあげている。さらに「すべての教職員が学長選挙に参加することで、大学の担い手であるという意識がより強まる」と期待してのことであるという。
独立行政法人化、大学の自立性・独立性・自律性をたかめるという根本のあり方からすれば、まさにこれこそ本筋ではないか、と考えられる。その場合、もちろん、大学職員の独立化のためには、法人固有職員の割合を高めること、運命共同体としての基盤を広げることも、重要な前提条件となろう。
-------(芦部憲法、参照)------
大学の自治の内容としてとくに重要なものは、学長・教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。
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横浜市立大学教員組合週報
組合ウィークリー 2005.10.11
もくじ
● 第二回の団交を申し入れています。
● 学長選考・任命に当たっての教員組合の見解
● いわゆる「TOEFL500点問題」について
● 時間外労働に関する労使協定の更新
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第二回の団交を申し入れています。
すでにご報告いたしましたようにさる7月28日、教員組合としての最初の団体交渉を行いましたが、執行委員会として、現在、緊急の問題となっている準教授の教授への昇格問題に関し、取り急ぎ団体交渉を行うよう当局に申し入れています。
準教授の教授への昇格については、先の団交で急いでその手続を始めるよう要求し、当局がその実行を今年度中に始めると約束しています。今回の団交では、その手続に関する規定・細則につき当局側の見解を求める方針です。なお、その際、「任期制」への同意を昇格の条件とすることがないよう求める方針です。
学長選考・任命に当たっての教員組合の見解
次期学長の選考がはじまっていることをご存知の方もけっして少なくないと思います。周知のとおり、次期学長は、従来のような大学構成員の選挙ではなく、教育研究審議会および経営審議会を構成する者から選出された6名の選考会議によって選考され、理事が任命することになっています。
私たちは、横浜市立大学が従来採用してきた学長選挙方式に問題点がなかったと言うつもりはありません。しかし、私たちは、今回の学長選考・任命方式は、従来の学長選挙・任命方式のどこにどのような問題があり、何ゆえに今回のような方式を採用するのか、十分な議論もなく、一方的に上から押し付けられた選考・任命方式であることを確認しないわけには行きません。
公的な教育と研究の場である大学を運営する上で、学長は、最も指導的役割を果たすべき存在です。その学長を選考する際に、教育・研究現場を直接担っている教員の声が充分反映されることが、大学組織の運営にとって必要不可欠であることは言うまでもありません。その意味で、今回の選考・任命方式は、一部の者に権限が集中し、これまでの選挙・任命方式と比べ明らかに後退しているといわざるをえません。私たちは、このような民主主義の後退に対して、警鐘を打ち鳴らすと同時に、より「民意」を反映しやすい方式に改める努力を始めるよう当局に要求するものです。
なお、今回からの学長選考方式によれば、経営審議会および教育研究審議会は各2名以内の候補者を推薦することができるとした上に、本学の専任教員が15名以上の推薦人を集めることによって候補者を推薦することが出来ることになっています。
われわれは、このような教員推薦方式を導入したとしても、今回の選考方式の「権力集中性」が払拭されるものとは考えません。
しかし、現行制度が実行される以上、現場教員の声を可能な限り選考過程に反映させるよう各教員が努力することは意味のあることだと考えています。組合として特定の候補を推薦することはいたしませんが、皆さん方が自発的に推薦活動について判断していただくよう呼びかけたいと思います。
私たちの大学をよくするために、あきらめず、出来る限りの努力をしようではありませんか。
------------以下略----------
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10月11日(1) 佐藤真彦氏のHPで浅井基文氏の論説を知った。丸山真男の民主主義論を、今回の日本の総選挙のあり方とかかわらせて記憶のかなたから呼び起こし、再考を促すもので、感銘深い。丸山の主張する「『永久革命』としての民主主義」のテーゼは、「口先における民主主義」、「行動における傍観的民主主義」、「観客的民主主義」、そして「ポピュリズムにさらわれる民主主義」の現実を見るとき、とくに重要だと思われる。「不完全な民主主義」に対峙しつつ、草の根から民主主義を構築し、強靭にしていくしかない、ということだろう。
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10月5日 横浜市大新聞ニュースブログが、記者会見で広報された学長選に関して論評している。適切な論評[6]であり、こうした学生自身の声は貴重である。
教育重視が改革の題目として掲げられている。まさにそれは根本的に大切なことである。しかし、それにふさわしい実態となっているか?その現実を一番感じているのは、学生や院生であろう。現場の教員に単位認定権(教育責任と表裏の関係にある権限)を与えず(これ以上の現場無視はないのではなかろうか?、学校教育法の上からも問題ではなかろうか?)、画一的に外部試験を進級(必然的に卒業)要件にするといったことの問題性[7]は今後ますます深刻化するのではないかと危惧される。そうした点についても当事者である学生自身が認識し、行動によって問題提起していく必要もあろう。教育重視を掲げる以上、学生のまとまった声は実現しやすくなっているはずだから。
学内各所の掲示板には学生自治会に関する公募文書が張り出されている。学生と大学当局・経営当局の意思疎通にはそれなりのシステム作りが必要だろう。学生の希望をどこまで広く深くくみ上げることができるか、学生諸君の自立的自主的な行動に期待したい。
ニュースブログのような手法も使いながら、市大新聞が学生の現場感覚を大切にし現場で直面する問題群を自主的自治的に取りまとめ、文章化し、新聞などで公開していくことで、教育と研究の「現場」(根底)から、自由で創造的な大学に(行政主義的トップダウン式の大学から自治自律的大学へ)変えていくことに貢献するならば、すばらしい[8]。
[1] 日本の「自衛隊」の現実と憲法第9条二項(戦力不保持)との矛盾・違反関係と照応する。
憲法で保障されている大学の自治は、芦部憲法にみるように、大学には、行政当局から自立・独立した学長や教授の人事権が保障されなければならない。理事長・副理事長が行政当局(市長)によって任命されているとすれば、その理事長・副理事長が選び任命した教育研究審議会や経営審議会のメンバーが行政から独立していないのは明らかであり、そうした審議会によって選考委員が「選挙」されても、なんら行政からの独立を意味しない。目下行われようとしてる学長選考のあり方からすれば、現行の1年限定のはずだった学長任命における超法規的措置が、今後4年間もつづくことになる。
---------芦部『憲法』-----
芦部信喜『憲法』岩波書店より
「憲法23条は、『学問の自由は、これを保障する』と定める。……学問の自由の保障は、個人の人権としての学問の自由のみならず、とくに大学における学問の自由を保障することを趣旨としたものであり、それを担保するための『大学の自治』の保障をも含んでいる。」(134頁)
「2 学問の自由の保障の意味
憲法23条は、まず第一に、国家権力が、学問研究、研究発表、学説内容などの学問的活動とその成果について、それを弾圧し、あるいは禁止することは許されないことを意味する。とくに学問研究は、ことの性質上外部からの権力・権威によって干渉されるべき問題ではなく、自由な立場での研究が要請される。時の政府の政策に適合しないからといって、戦前の天皇機関説事件の場合のように、学問研究への政府の干渉は絶対に許されてはならない。『学問研究を使命とする人や施設による研究は、真理探究のためのものであるとの推定が働く』と解すべきであろう。
第2に、憲法23条は、学問の自由の実質的裏付けとして、教育機関において学問に従事する研究者に職務上の独立を認め、その身分を保障することを意味する。すなわち、教育内容のみならず、教育行政もまた政治的干渉から保護されなければならない。」(136頁)
「3 大学の自治
学問研究の自主性の要請は、とくに大学について、『大学の自治』を認めることになる。大学の自治の観念は、ヨーロッパ中世以来の伝統に由来し、大学における研究教育の自由を十分に保障するために、大学の内部行政に関しては大学の自主的な決定に任せ、大学内の問題に外部勢力が干渉することを排除しようとするものである。それは、学問の自由の中に当然のコロラリーとして含まれており、いわゆる『制度的保障』の一つと言うこともできる。
大学の自治の内容としてとくに重要なものは、学長・教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。ほかに、近時、予算管理の自治(財政自治権)をも自治の内容として重視する説が有力である。
(1)人事の自治 学長・教授その他の研究者の人事は、大学の自主的判断に基づいてなされなければならない。政府ないし文部省による大学の人事への干渉は許されない。1962年(昭和37年)に大きく政治問題化した大学管理制度の改革は、文部大臣による国立大学の学長の選任・監督権を強化するための法制化をはかるものであったが、確立された大学自治の慣行を否定するものとして、大学側の強い批判を受け挫折した。」(137頁)
[3] 文科系と理科系・医学系を総合する大学では、こうした方式では、最初からほぼ理科系・自然科学系・医学系の圧倒的有利という結果が分かっているから。
こうした方式ではなくても、総合大学の国立大学の圧倒的多数において学長は理科系・医学系の実質上の指定席となっている。文理総合の科学の教育研究の論理ではなくて、数の論理の優位、ということだろう。
[4] 大学民主主義の原則の適用を前進させた学長選挙方式を取りまとめた委員会の長は、大学の教授である。その意味でも、大学の主体性が発揮される(少なくとも形式的にでも)物となっているように思われる。
[5] 小樽商大の場合、職員が選挙権を獲得する方式で、有権者が1.7倍になったという。とすれば、増えた0.7倍の部分は、職員有権者ということになる。単純な計算をすると、これまでの教員有権者118名程度に加えて、83人ほどの職員が有権者となったということか。
大学自治の担い手として、職員の責任は格段の重みを持つようになったといえよう。職員はどのような投票行動を取るのであろうか?
[6] 現学長は、学生諸君とは食堂で話し合う機会もあったようであるが、教育研究を担う教員とはどうか? 何を具体的にやってきたのか、われわれにはさっぱりわからない。
学生諸君との場合でも、食堂で出会わないような多くの学生との交流はどのようになっているのか?
「昼食会」という発想それ自体は、ひとつの場の設定として有効な場合もあるが、大学改革の推進という本筋のところでは、そのような場がどのように機能するのであろうか?
[7] ひとつの科目で外部試験を進級要件にするということは、他の科目ですべて合格点を取っている学生でも進級(必然的に卒業)できないということである。大学の外部の試験(ハードル)が、大学の内部のすべての教育(単位認定)を否定できるということではないか?
進級(卒業)要件とされないその他すべての科目の単位認定・成績判定、したがって現場のすべての教員の単位認定・成績判定権も、進級(卒業)に関しては無効にするものである。このことは重大かつ深刻だと思われる。今回の「改革」の問題性が象徴的に露呈しているのではないだろうか。誰が、どのような組織が、どこできめたのか? その証拠文書は?
教員に対する全員任期制や年俸制などの行政当局(いまでは法人当局)による画一的押し付け(・・・これを訂正するには、就業規則等の改定が必要である)がいかに問題であるかは、「少数の先生方のこと」と、普通の市民には分からないかもしれない。しかし、学生の進級の(進級できなければ卒業できないので卒業の)要件が外部試験にある、ということの問題性は、市民の多くが理解できるであろう。
かつてならば、医学生を例に取れば、医学部の単位を取得すれば卒業できる。外部の試験(国家試験)、すなわち医師国家試験に受からなければ、医者としては活動できないが、医学部を卒業したということは厳然たる事実となる。医学知識を持った医学部卒業の医事評論家や文筆家としての社会的活躍も可能であろう。
しかし、新しい制度でトッフル500点をクリアできない医学生は、医学部さえ卒業できないことになる。
医学部の学生にとって、将来の医者にとって、トッフル500点で試される英語の力は、医学専門雑誌を通じて取得する最先端の医学知識とどのように相関するであろうか?
トッフル500点などクリアできない(これまでそんなことはなかったからかつての医学生のかなり多くはそうではなかろうか・・・事実誤認か?)医学生も、専門の英語文献を読み、すぐれた医者となっている。現在のすぐれた医者でトッフル500点の関門を超えるような人がどの程度いるのか?
英語教育の実情に詳しくないので、疑問がつぎつぎと出て来る。
[8] 定款や学則を変える必要があるが、それは気の遠くなるようなことだ。学則(の決定・変更)はいまや教授会や評議会といった組織で行われなくなっているから、現場の教員の力は発揮できないに等しい。
「定款=諦観」というのは教員の発想だが、若い学生諸君はそれとは違うであろうことを期待したい。