2005年10月の日誌

 

10月31日 先週末から「政経史学会」政治経済学・経済史学会)の秋季学術大会で新潟大学に出かけていたため、今日、教員組合の『ウィークリー』(10月28日)を受け取った。すでに、組合HPにも掲載されていた。トップダウンの学長任命制度による学長候補者に対する教員組合の公開質問状であり、これにどのように回答するか、大学の自治の原則をどの程度理解した回答になるのか、見守りたい。憲法の保障する大学自治の原則からすれば、今回のような学長候補者の任命(制度と運用の両方において)は憲法違反だと私は考えるが[1]、その点をどのよう認識しているか、質問項目にはないが、回答の仕方で、ある程度明瞭になろう。

 

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横浜市立大学教員組合週報 組合ウィークリー


 

 


横浜市立大学教員組合週報  組合ウィークリー    2005.10.11

もくじ

● 学長候補者への公開質問状
● 全大教の研究集会でTOEFL 問題の報告:「一体これからどうするんですか」




学長候補者への公開質問状

学長選挙が始まっており、まもなく新しい学長が従来と異なる方式で選ばれることになります。
組合としては、候補者となる人に対して公開質問状を送り、
その回答を何らかの形で皆さんに示すことを計画しています。公開質問状の内容は下記の通りです。



横浜市立大学学長候補者各位

横浜市立大学教員組合
執行委員長 上杉忍

 このたびは本学が「改革」をめぐり非常に大きな困難を抱える状況の中で、教学のトップを担う学長の候補者となっていただきありがとうございます。これに際し、研究教育に直接携わる教員の組合として、ともに少しでも大学をより良くしていこうという立場から、以下の点を質問させていただきます。

(1) 昨年来、多くの教員が今回の「改革」に不安を感じ、あるいはこれに憤慨して横浜市立大学を去りました。とりわけ具体的な運営細則がないままの教員評価と、その処遇への反映、全員任期制導入の方針は、現場教員に非常な不安と憤激を呼び起こし、教員の士気を著しく阻害しています。これ以上の教員流出は、横浜市立大学再建にとって致命的な打撃になるものと考えられます。

あなたは、これ以上の教員流出を防ぐために何が必要だと考えますか。これについてのお考えをお聞かせください。
(2) 今回の「改革」によってトップダウンの決定システムが導入され、従来の全員参加の教授会が形骸化することになりました。その結果、現場教員の積極的意思が汲み取りにくくなったばかりか、日常的な教員同士の意思疎通にさえ困難が生じています。また部局長やコース長も任命制となり、現場教員の直接的支持を受けていないそれぞれの担当者は、精神的にも非常に多くの困難を抱えています。

あなたは、学長として、現場の教員の積極的協力を得るためにどのような「改善」を行うお考えですか。
(3) 今回の「改革」によって教授会から人事権が剥奪され、人事における専門的教育研究者の意思が必ずしも直接反映されない人事委員会制度が導入されました。

あなたは、学長として、人事において教育研究の直接的担い手の意思を正確に反映させるためにどのようなことが必要だとお考えですか。
(4) 劣化が著しい教員の研究条件の改善策としてあなたは、学長としてどのようなことが出来るとお考えでしょうか。とりわけ図書館の雑誌購入件数の著しい削減は、研究機関としての生き残りを危うくしています。

特にこの問題についてのお考えをお聞かせください。
(5) 現場の反対を押し切って進められた英語教育「改革」は大きな困難が生じており真剣な対応が必要になっています。今年度の著しい受験生の減少は、今年度TOEFL500点進級制度の混乱などにより、さらに加速する恐れがあります。

あなたは学長としてどのような対策をお考えですか。
 以上の点につきまして、ご多忙のところとは存じますが、11月上旬までにご回答をお寄せいただければ幸いです。よろしくお願い申し上げます。



「一体これからどうするんですか」
全国大学高専教職員組合第17回教職員研究集会でTOEFL 問題の報告


 去る9月30日から10月2日まで名古屋大学で、全大教研究集会が行われ参加してきました。国公立大学の法人化後の諸問題を多面的に解明するために多くの分科会が開かれましたが、私は、公立大学部会に参加し、横浜市立大学の現状、特に「TOEFL500点進級条件の下での英語教育」の現状について報告してきました。

公立大学分科会では、まず都立大学(首都大学東京)の現状が報告されました。私たちにとって重要だと思いますので、ここで、特に印象に残った点だけを箇条書きにして報告します。

(1)多くの場面で、大学運営方針に教員の協力が得られていない。教授会から権限を奪ったために、教授会があった時代よりいっそう非効率的になり、大学運営が混乱している。(2)任期制などの新制度に移行することを受け入れた教員の間でむしろ転出の意向が強い。(3)旧制度に残った教員の昇給・昇任なしの処置は、裁判闘争の対象として考慮され始めている。これに対して当局は、旧制度教員の賃金について、団交の対象にする気配を見せ始めている。(4)教員の協力なしに大学運営が機能しないことを当局は実感し始め、さまざまなことで、組合と協議に入りたいとのシグナルを送り始めている。(5)英語教育の「外注」は一部始めたが、TOEFL500点を進級要件とするような方針はない。(6)学部運営において、たとえば、コース長などは選挙制度に基づいて選出しているコースが多い。

私は、横浜市立大学の改革の基本的性格とその経過を簡単に報告した後、現場教員の反対を無視して強行された今回の「TOEFL500点進級条件を前提とした英語教育」の現状について報告しました。

都立大学の方も含め参加者からの反応は、「一体これからどうするんですか」という、驚きの声でした。ただただ飽きたといった反応とでも言ったら良いでしょうか。 

私は、現場を無視してこの方針を強行した当局こそが責任ある対応をすべきこと、組合としては、現場教員の責任追及にはさせない立場を貫くことを確認していると発言し、参加者から強い支持と励ましの言葉をいただきました。

そのほかの公立大学からも報告がありましたが、多くの参加者がやはり都立大学と横浜市立大学は特別だという印象を語っていました。都立大学や横浜市立大学での混乱状態を見て、自分の大学当局もうかつには動けないと考えているようだと語っている参加者がいたのが印象的でした。(文責 上杉 忍) 




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10月27日 大学院生が発行する『思惟と聯流』第4号(10月15日付)が掲示板に張り出され、研究室にも配られた。その『主張』には、傾聴し検討すべき論点がたくさん含まれていると思われる。また、非常勤講師招聘に関する院生の発言権の要求にも、切実なものがある。「大学の自治」の見地からすれば、まさに大学自治の当局側の担い手としての学長以下の執行部が真正面から受けて立つ必要があるように思われるが、さてどうだろうか。学費に見合ったサービスをきちんと受けていないという院生の声に関して言えば、学長以下を上から任命している理事会の責任も問題となる。

毎月一回、代議員会は開催されているというが、代議員会はどのようにこうした学生・院生の声をくみ上げるであろうか。

理事長・副理事長などが市長・市当局により任命され、理事長によって学長が任命され、学長選考においてはその選考委員もすべて理事長・副理事長などによって決められるとすれば(選考委員会の発足はどこでどのように決められたのかさえ、われわれ一般教員にはまったく不明、結果だけが新聞報道で知らされる)、このトップダウン体制のもとで、学生や院生の声を吸収するシステムはどうなっているのか。

院生の「自治会総括」によれば、「一年間の事務とのやり取りを通し、当局全体が、学生の状況を想像する力や、心や気を配る力、実態を把握して全体を見る知的総合力全般に欠けるということ、事なかれ主義、学生の泣き寝入りを望む無責任集合体であることがわかった」という。

そして、「昨年の11月7日、市長が学祭期間中、市大にきた際、一部の院生の展示物である雑誌百冊前後と長机一式が当局に無断撤収、消去させられた」という驚くべき事実も書かれている。本当か?一体事実関係はどうなっているのか?学園祭の展示物を当局が無断で撤収するとは?

 

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10月20日 都立大学教職員組合の人事制度(評価制度)に関する主張を、「全国国公私立大学の事件情報」経由で知り、読んでみた。その主張は、理路整然としており、全面的に支持できるものである。都の行政当局のやり方の根本的問題が浮き彫りになっている。以下にコピーしておこう。

 

------下記引用中、赤字強調は、引用者による------

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2369号

 

 

 

 

 

 

  


法人当局の「教員の新たな人事制度の全体像」(案)に対する中央執行委員会の基本的立場

全教員の任期・年俸制を前提とした評価制度は容認できない!
十分な検討なしの制度案の既成事実化に絶対反対する!

  はじめに
  法人当局は、10月13日に行われた団体交渉で、組合に対し「新たな人事制度の全体像」(案)(以下、「全体像」とする)を提示した。これについてはすでに「手から手へ」に、団交の際の総務部長発言と組合側発言を掲載している。今後、組合は当局に対して解明要求を行うなかで、「全体像」が提示している教員評価制度、任期制、年俸制のもつ個別の問題点を明らかにしていきたい。ここではそれに先だって、教員の人事給与制度に関する法人当局の態度と、「全体像」が打ち出した教員評価制度、任期制、年俸制についての組合の基本的立場を明らかにしておきたい。

 的外れの人事制度設計の観点
  今回の提案の検討の前に、まず確認しておくべきことは、昨年来労働条件の露骨な不利益変更に耐えてきた大多数の教員と組合が反対し続けてきた言語道断な「新・旧制度」が破綻したことである。しかしながら、この事実にも関わらず、今回新たに提案された当局案には根本的な反省が反映されてはいない。
「全体像」は、団交での当局の発言によれば、これまでの人事給与制度についての組合との交渉および年俸制・業績評価検討委員会での議論などを踏まえてまとめられたとされている。しかし、「旧制度」選択者に対する具体的な提案がなく、また教員全員を対象とした任期制・年俸制導入など、これまでの交渉や議論の経過を踏まえた提案とはいいがたい。むしろ「全体像」の提案理由とされているのは、大学をめぐる厳しい情勢のなかで競争を勝ち抜くための教育研究水準のさらなる向上が必要であり、そのため切磋琢磨して能力を最大限に発揮し、意欲と活力に満ちた組織を作り上げることが求められるという一般論なのである。このうち教育研究水準の向上のため切磋琢磨することは大学人にとってもちろん必要なことであり異論はないだろう。しかしながら、法人側が前提として直視すべき現実の深刻な問題として、首都大発足後、大学運営や法人運営の停滞が明らかであり、かつ教員が意欲をもって教育研究にあたるという体制も雰囲気も十全とはいえないことがあげられる。いまだに教員の流出が止まらないことは、それを端的にあらわしている。また最近実施された大学院入試の状況をみても、都立の大学時代に比べ受験者が大幅に減少した専攻が多いことは、総体として新大学が停滞した状況にあることを示している。
  従って教員の人事制度も、このような現状を打破して教員が意欲をもって教育研究にいそしみ、都立の大学であった時代以上に大学が円滑に運営されるためのシステムでなければならないはずである。しかし今回当局が提示した、任期制、年俸制、教員評価の三位一体の制度設計が、こうした目的にかなうものだとは思えないのである。

 

 皮相な教員評価案と「評価疲れ」による大学の衰退
  まずベースとなる教員評価制度から検討しよう。われわれは、教員に対する何らかの評価がなされるのは当然であると考える。実際に、本学の教員は通常、採用・昇任の審査、学生による授業評価及び自己点検、研究成果の公表とそれへの学界からの反応、科学研究費申請、マスコミやはたまたインターネットの世界において、アカデミックなあるいは社会的な評価に日常的にさらされている。さらにいくつかの分野で行われた大学評価・学位授与機構による評価においては、研究業績だけではなく研究の被引用状況などの具体的な資料を作成し審査に臨んできたのである。また新大学移行の際も、教員に対する審査が行われているのであって、本学教員に対しては従来から様々な面からの評価がなされているのである。
従って、現在制度設計においてまず必要なのは、これらの過去の本学教員に対してなされた評価についての精密な分析と、本学教員のまだ満足するにいたらない項目の割り出し、それを満足いくものにするための具体的な戦略と、そうした観点からの適切な評価制度の設計でなければならないはずである。「全体像」には、これまで多面的に行われてきた評価についての分析は一切なく、どの点をいかに改善すべきなのかという検討もない。よって「大学間競争」、「切磋琢磨」の必要性などという一般論からしか、今回の制度設計の背景を説明できないのである。さらに毎年の評価と5年毎の評価を組み込むことにより、大学全体が「評価疲れ」によって疲弊し、将来に向かう活力を奪うことになる。評価のための評価制度が取り入れられれば首都大学の衰退が一気に進むのは明らかであろう。2000年度以来、6年間に及び大学改革の膨大な作業と、この2年間の異常な新大学作りの過程での、不安、動揺、失望、怒りの過程を越えて、多くの教員が都立4大学の高い水準の教育研究資産を継承発展させるべく、いまだ留まっている。これらの教員の士気をあげることのできる評価制度が必要なのである。
以上の教員評価制度の問題点は、当然のことながら任期制、年俸制にも関わってくる。

 

 法を無視した全員任期制
「全体像」は教員全員に任期制を導入するとしている。組合は任期制一般に反対するものではない。前提条件と目的によっては、適切なかたちでの任期制の運用があってもよいからである。だが、教員全員に任期制を課すのは容認することはできない。これはそもそも法律の趣旨に合致しないのである。1997年に制定された「大学の教員等の任期に関する法律」には、「大学等において多様な知識又は経験を有する教員等相互の学問的交流が不断に行われる状況を創出することが大学等における教育研究の活性化にとって重要であることにかんがみ、任期を定めることができる場合その他教員等の任期について必要な事項を定めることにより、大学等への多様な人材の受入れを図り、もって大学等における教育研究の進展に寄与することを目的とする」とある。ここで想定されているのは、まさに当局がいう「プロジェクト型」なのであって、任期をつけることができるのは「多様な人材の確保が特に求められる教育研究組織の職」、「助手」、「特定の計画に基づき期間を定めて教育研究を行う職」に限定されているのである。
  また今回提示された全員任期制が、先述の都立の大学に対する大学内外の評価結果のどういう点に対応できるのか、あるいは全国の国公私立大学、特に大学院まで有する総合大学の実態から、全員任期制を採用することでいかなるメリットがあるのかなどの分析が一切ないことが問題である。繰り返すが、本学の教員はこれまで様々な面で評価を受けてきたのである。もちろんこれらの結果が完全に満足すべき評価でなかった場合もあるだろう。そうだとしても、満足できない部分が何であり、どのようにすれば問題が克服できるのかという具体的な分析の過程のなかで、どうしても教員全員に対して任期法による有期雇用を導入しなければならないという理由が説得的に導き出されるべきである。
  「全体像」は、こうした分析を一切行わず、任期制導入の理由として教員のステップアップと組織の活性化を述べるのみである。ステップアップに関しては、そのためになぜ任期制が必要なのかがまったく不明である。ステップアップのためには、これまで繰り返し行われてきたような業績審査と、まとまった業績を発表する際などにおける教員間の相互援助ではどうしていけないのだろうか。また研究員(助教)は5年、最大限で8年の任期となっている。「全体像」も研究分野の特性をふまえることの必要性は認識しているようだが、それでもなお、なぜ一律に最大8年で雇い止めとしているのかが不明である。研究員(助教)にも、ここでいうステップアップの機会が保証されるべきであろう。

 

 全員任期制は組織の活性化につながらない
  また組織の活性化という点でいえば、任期制で教員の流動化をはかることが組織の活性化をもたらすといえない。法人がこの4月から導入した「新制度」は、法人における教員人事給与制度の本則であり、給与面でのメリットもある制度のはずであった。しかしこれを選択した教員のうち少なくない部分が、すでに他大学に流出している。この事実は、任期制が教育研究に責任を持ちながら、時間をかけて良い大学にしていこうという教員集団作りを支援する制度になり得ていないことを証明している。当局がいう組織の活性化が、「プロジェクト型」のように頻繁に教員が入れ替わることをさすのであれば、確かにこの目的にはかなっているかも知れない。だが教育研究の質の向上、大学の魅力の向上をもたらすような磐石の組織作りという意味での組織の活性化にはつながらないであろう。それゆえ、法人化後の国立大学においては、採用教員の全てが任期制ではなく、任期制の導入には慎重に対処しているのが実情なのである。
  さらにいえば、当局が固執する任期制・年俸制自体が、2003年8月1日に石原知事が定例記者会見で新大学構想の目玉の一つとして、任期制・年俸制導入を掲げたことに端を発している、きわめて政治的なプランであることも指摘しなければならない。「新制度」にせよ今回の「全体像」にせよ、はじめに任期制・年俸制ありきから出発していることは明白である。だから「新制度」は、業績給・職務給の算定の指標すら作られていない段階で導入が強行され、これを受け入れない教員に対しては、昇給、昇任をさせないという懲罰的措置で臨んだのである。「新制度」にせよ「全体像」にせよ、石原知事や山口一久元大学管理本部長(現知事本局長)の、大学教員を屈服させたいという願望を淵源としてもっていることを、世間も大学人も見抜いていることを法人当局は肝に銘じるべきである。
また時間の経過と共に、その「改革」の結果が大学の教育研究資産を破壊するという結果をもたらしたことが明らかになっている。今後も従来の強権的な姿勢を強行すれば、継承すべき教育研究資産を破壊し非合理な大学作りを強行した責任を、ますます問われることになるだろう。

 

 賃金切り下げにつながる年俸制
年俸制については、「新制度」のきわめて一面的な制度設計に比べれば、これ自体としては改善されたものになっている。だが先のような教員評価と三位一体の関係にある限り、年俸制の問題点もこれを反映するものにならざるを得ない。またそもそも職務給、業績給などを導入して仕事の成果を反映させるということが想像よりも困難なことは、過去10年前から民間企業では実証済みのものであり、最近は成果主義賃金が見直されていることからも明らかである。なぜ破綻の回答が出ている給与体系を今さら持ち込もうとしているのか理解に苦しむ。加えて「全体像」の設計主体である都庁そのものにおいては、2002年度の人事委員会勧告などでうたわれた、部長級以上の幹部職員に対する年俸制導入の案が、どういうわけかいまだに具体化されず、それどころか2005年度勧告では話題にものぼらなくなっている。これは年俸制の制度設計が実際には困難であることを、都庁自身が認識していることを示すだろう。
  個別の問題点はここでは省略するが、ここで掲げられた年俸制は、総体として現在の「新制度」どころか、3月以前の都の給与体系、それを基準に設けられている「旧制度」に比しても、実質的な賃金低下をもたらすものであるということだけ付け加えておきたい。昨年度の団交において大学管理本部は、「旧制度」は現給保障をしているのだから、昇給・昇任がなくとも労働条件の不利益変更ではないと主張してきた。組合はこうした欺瞞的答弁に逐一反論してきたが、今回の「年俸制」は、有期雇用であるということに加えて、現給保障すらも維持できなくなったのである。「全体像」に示された人事給与制度は、明らかに労働条件の不利益変更なのである。

 

 「旧制度」の昇給、昇任を認めることが先決である
以上、「全体像」の問題点を総論的に述べてきた。その結果真に大学を活性化させる制度には今回の案がほど遠いものであることが明らかになった。
  また当局は、組合の要求である「旧制度」の昇給・昇任の要求についていまだ回答をしていない。組合は「旧制度」の昇給、昇任についての協議が同時に行われない限り、「新制度」の改定案である今回の案の内容についてのみの協議には応じられないという立場である。また実際に4月、7月の昇給が行われなかった。これについては、組合は法的対抗手段も辞さない立場で弁護団と相談を行っている。当局は早急に「旧制度」の昇給、昇任問題を解決し、その上で、真に大学を活性化するための任期制が本当にあるのであれば、それを教員組織や組合との十分な話し合いのもとで、適正な形で運用することを考えるべきである。

 

 十分な検討なしの制度案には絶対反対す
今後、大学全体に「全体像」が提示されるだろうが、これはあくまでも法人当局の「案」に過ぎないことを忘れてはならない。提案された際には全員任期制の当否や評価制度、年俸制を含めて学内において大いに議論がなされるべきである。全教職員による十分な検討なしに、あたかもこれが既成事実であるかのような一切の言説に組合は絶対に反対する。また管理職の立場を利用した法人案への賛同を誘導する行為に対しては、組合は不当労働行為として摘発し、公正で透明性の高い職場環境作りをめざす所存である。

 

 

 

 

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10月18日(2) 「全国国公私立大学の事件情報」(10月18日付)経由で、埼玉大学の学長のリーダーシップ(欠如)に関するニュース(埼玉大学教職員組合の主張・組合ニュース号外)を読んだ。さて、本学は?と考え込んだ。もちろん、埼玉大学の教員組合ニュースは、一方で、「リーダーシップ」と「上意下達の権力」との違いを強調しているのであり、他方で、そうした「上意下達のトップダウン」にただただ従順な「下々」の態度への警告ともなっているといえよう。「下々も、トップも、ともにご注意を」と。しかし、「下々」は、大学全体の政策・方向性の決定に、どこまで関与できるのか? 教授会・評議会の権限はどうなっているか? これがまた問題となろう。

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信用失墜行為! 問われる学長のリーダーシップ

埼玉大学教職員組合
 ●組合ニュース号外 その8(信用失墜行為)(20051017日発行)

 

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10月18日(1) 本学元教授・佐藤真彦氏のHPで、伊豆名誉教授の日々通信を読んだ。「いまよみがえる夏目漱石」(2)で、この「日々通信」を私もいただいたはずだが、たくさんの「info何とか」の迷惑メールを削除する時に一緒に削除してしまったらしく、気づかなかった。漱石が「社会的不正」に徹底的に戦う姿勢をつらぬいたこと、「友人の文学者馬場蝴蝶が衆議院選挙に立候補したとき、堺利彦らとともに推薦人になり、推薦状の筆頭に名前を出して 」いたこと、第一次大戦における日本の軍国主義膨張への危惧、批判など、生命力のある漱石の社会的問題意識、世界認識を教えてくれ、実に興味深い内容である。

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10月13日(2) 本学元教授・佐藤真彦氏のHPで、「05/10/04アピール − 改革ファシズムを止めに行こう(2005.10.12)」を読んだ。その主張からすれば、排外的ではない「日本主義」を基礎にして全国民的統合を目指すかのようである。このHPを経由して、久しぶりに豊島氏のHPを読んだ。「改憲阻止」の豊島氏の主張は一貫している。今回の選挙結果に対抗するための、そして、憲法「改正」を阻止するための運動が、広まっていることを示す。現在の世界情勢において、日本国憲法の諸原理は重要であり、とりわけ、9条は重要である。その一点で、連帯しうる多数の人々が結集しようというのは、改めていうまでもないことながら、重要な問題提起というべきだろう。豊島氏HPには多くの貴重な提言や資料が掲載されているが、そのひとつ、「ラッセル・アインシュタイン宣言」へのリンクも貴重である。かつての核保有国以外に、インド、パキスタン、イスラエルというように核爆弾を保有する国は増え続けているのが、現実だから。「アインシュタインが社会主義者だった」という記事、アインシュタインの言う「社会主義」の意味合いも含めて、熟読検討するに値する。

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10月13日(1) 今日の「全国国公私立大学の事件情報」(10月13日付)で知った貴重な情報の中で、注目したのは、つぎのものであった。私は代議員ではないので、先ごろ開かれた国際総合科学部の代議員会で相当紛糾したという非常勤講師問題(報告事項とされ審議事項とされなかったというが-人事の決定権はどこにあるか?審査権は?誰が業績を判定しうるのか?)のひとつの論点も、業績ないし資格にかかわるものだったようである。さて、実際に何が行われ、また議事録(報告事項)はどのようにまとめられるか? いずれにしろ、学生の単位の認定権と関係するのは教育する側の教育研究実績であり、論文等の業績である。その点が、基準(公明性・明文化された基準その他、これまで長年の教授会規定で確立されてきた諸基準、あるいはそれを発展させたもの)に従い、筋道を立ててきちんと処理されていないと、下記学長の事例でも明らかだが、後で大変なことになるであろう。

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届けた論文、12年発表せず 山口県立大学長が辞職

http://flash24.kyodo.co.jp/?MID=RANDOM&PG=STORY&NGID=soci&NWID=2005101201001873

 山口県立大学(山口市)の岩田啓靖学長は12日、12年前に文部省(現文部科学省)に届けた文書に記載した論文を実際は発表していなかったとして、責任を取り辞職願を山口県に提出した。……

 

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10月11日(2) 久しぶりに教員組合「ウィークリー」を頂戴した。その内容に共感し、支持する。草の根からの強靭な民主主義は、まさにこうした教員組合の行動を通じても、発展させられ、深化させられなければならないだろう。「ウィークリー」の伝える問題はすべて重要なことばかりだが、学長選挙のあり方に関して一言すれば、いまや、国立大学法人においては、小樽商大のような全教職員選挙という方式さえも編み出されるにいたっている「全国国公私立大学の事件情報」(10月11日付)[2]。文科系単科大学として、こうした方式が可能になったのであろう[3]

 

----『北海道新聞』記事抜粋----

有権者は前回二○○一年の選挙の約一・七倍の二百一人。投票は、投票者が候補者名を自由に挙げる学長候補者の推薦(十月下旬)、選抜(十一月)、上位三人による決選投票(同)の三回行い、最初の推薦の段階から教職員全員が投票する。

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国立大学法人は大学の研究教育を担う教員の投票による意向調査など、まがりなりにも学内の意志を尊重する手続を取っている。それを根本的に拡大した方式、大胆に前進させたのがこの小樽商大方式であろう[4]。これは、本学のあり方とはまったく違う方式であり、全国的にみても驚嘆するような画期的方式ではなかろうか。大学の自治を担う学長(理事長)選挙における大学民主主義、という点では非常に徹底していると思われる[5]。丸山真男の言う民主主義の「理念、制度、運動」(浅井基文氏論説・参照)からすれば、その理念、制度の画期性は明らかではなかろうか。本学の定款の問題性(大学の自治・自立性という基準に照らすときの問題性、少なくともその運用の仕方の問題性)は、ほとんどの国立大学、そして今回の小樽商大方式のようなものと対比する時、いっそうはっきりとうかびあがってくるのではないだろうか。

本学のように、少数の人間(直接的間接的にすべて行政側による任命が貫徹した人々・・・教育研究審議会、経営審議会の全メンバーの選ばれ方を検証してみればわかる)からなる選考委員会での選出とあれば、教員組合ウィークリーの指摘するとおり、研究教育を担う教員と職員の意向はまったくといっていいほど反映されないことになる。私の知る限りでは、現学長は、本学教職員がだれも知らない人物(急逝された前最高経営責任者=行政当局によって任命された人物の知人)であった。行政当局による直接間接任命の学長選考委員会による選考は、どのような基準で行われるか、基準そのものの妥当性をはじめ、「大学の自治」という点からは、深刻な問題をはらむ。そして、それは制度的には、実は憲法の保障する「大学の自治」(「学問の自由」の制度的保障)に決定的に違反するだろう、と考える。いったい行政当局との距離(自立性・独立性・自治性)はどこに保障されているのか?

この問題は、教員組合ウィークリーが批判的に論評している「トッフル500点問題」と基本的に同じ構造的欠陥(民主主義的意思決定プロセスの欠如)によると考えられる。

小樽商大方式は、その方式選択の理由に「国立大学法人化で、一般教職員の大学運営に関する意識が高まってきたため」ということをあげている。さらに「すべての教職員が学長選挙に参加することで、大学の担い手であるという意識がより強まる」と期待してのことであるという。

独立行政法人化、大学の自立性・独立性・自律性をたかめるという根本のあり方からすれば、まさにこれこそ本筋ではないか、と考えられる。その場合、もちろん、大学職員の独立化のためには、法人固有職員の割合を高めること、運命共同体としての基盤を広げることも、重要な前提条件となろう。

 

-------(芦部憲法、参照)------

大学の自治の内容としてとくに重要なものは、学長・教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。

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横浜市立大学教員組合週報

 

     組合ウィークリー 2005.10.11

 

もくじ

 第二回の団交を申し入れています。

 学長選考・任命に当たっての教員組合の見解

 いわゆる「TOEFL500点問題」について

 時間外労働に関する労使協定の更新

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第二回の団交を申し入れています。

 すでにご報告いたしましたようにさる728日、教員組合としての最初の団体交渉を行いましたが、執行委員会として、現在、緊急の問題となっている準教授の教授への昇格問題に関し、取り急ぎ団体交渉を行うよう当局に申し入れています。

準教授の教授への昇格については、先の団交で急いでその手続を始めるよう要求し、当局がその実行を今年度中に始めると約束しています。今回の団交では、その手続に関する規定・細則につき当局側の見解を求める方針です。なお、その際、「任期制」への同意を昇格の条件とすることがないよう求める方針です。


学長選考・任命に当たっての教員組合の見解

次期学長の選考がはじまっていることをご存知の方もけっして少なくないと思います。周知のとおり、次期学長は、従来のような大学構成員の選挙ではなく、教育研究審議会および経営審議会を構成する者から選出された6名の選考会議によって選考され、理事が任命することになっています。

私たちは、横浜市立大学が従来採用してきた学長選挙方式に問題点がなかったと言うつもりはありません。しかし、私たちは、今回の学長選考・任命方式は、従来の学長選挙・任命方式のどこにどのような問題があり、何ゆえに今回のような方式を採用するのか、十分な議論もなく、一方的に上から押し付けられた選考・任命方式であることを確認しないわけには行きません。

公的な教育と研究の場である大学を運営する上で、学長は、最も指導的役割を果たすべき存在です。その学長を選考する際に、教育・研究現場を直接担っている教員の声が充分反映されることが、大学組織の運営にとって必要不可欠であることは言うまでもありません。その意味で、今回の選考・任命方式は、一部の者に権限が集中し、これまでの選挙・任命方式と比べ明らかに後退しているといわざるをえません。私たちは、このような民主主義の後退に対して、警鐘を打ち鳴らすと同時に、より「民意」を反映しやすい方式に改める努力を始めるよう当局に要求するものです。

なお、今回からの学長選考方式によれば、経営審議会および教育研究審議会は各2名以内の候補者を推薦することができるとした上に、本学の専任教員が15名以上の推薦人を集めることによって候補者を推薦することが出来ることになっています。

われわれは、このような教員推薦方式を導入したとしても、今回の選考方式の「権力集中性」が払拭されるものとは考えません。

しかし、現行制度が実行される以上、現場教員の声を可能な限り選考過程に反映させるよう各教員が努力することは意味のあることだと考えています。組合として特定の候補を推薦することはいたしませんが、皆さん方が自発的に推薦活動について判断していただくよう呼びかけたいと思います。

私たちの大学をよくするために、あきらめず、出来る限りの努力をしようではありませんか。

                    ------------以下略----------

 

 

 

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10月11日(1) 佐藤真彦氏のHP浅井基文氏の論説を知った。丸山真男の民主主義論を、今回の日本の総選挙のあり方とかかわらせて記憶のかなたから呼び起こし、再考を促すもので、感銘深い。丸山の主張する「『永久革命』としての民主主義」のテーゼは、「口先における民主主義」、「行動における傍観的民主主義」、「観客的民主主義」、そして「ポピュリズムにさらわれる民主主義」の現実を見るとき、とくに重要だと思われる。「不完全な民主主義」に対峙しつつ、草の根から民主主義を構築し、強靭にしていくしかない、ということだろう。

 

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10月5日 横浜市大新聞ニュースブログが、記者会見で広報された学長選に関して論評している。適切な論評[6]であり、こうした学生自身の声は貴重である。

教育重視が改革の題目として掲げられている。まさにそれは根本的に大切なことである。しかし、それにふさわしい実態となっているか?その現実を一番感じているのは、学生や院生であろう。現場の教員に単位認定権(教育責任と表裏の関係にある権限)を与えず(これ以上の現場無視はないのではなかろうか?、学校教育法の上からも問題ではなかろうか?)、画一的外部試験を進級(必然的に卒業)要件にするといったことの問題性[7]は今後ますます深刻化するのではないかと危惧される。そうした点についても当事者である学生自身が認識し、行動によって問題提起していく必要もあろう。教育重視を掲げる以上、学生のまとまった声は実現しやすくなっているはずだから。

学内各所の掲示板には学生自治会に関する公募文書が張り出されている。学生と大学当局・経営当局の意思疎通にはそれなりのシステム作りが必要だろう。学生の希望をどこまで広く深くくみ上げることができるか、学生諸君の自立的自主的な行動に期待したい。

ニュースブログのような手法も使いながら、市大新聞が学生の現場感覚を大切にし現場で直面する問題群を自主的自治的に取りまとめ、文章化し、新聞などで公開していくことで、教育と研究の「現場」(根底)から、自由で創造的な大学に(行政主義的トップダウン式の大学から自治自律的大学へ)変えていくことに貢献するならば、すばらしい[8]

 

 



[1] 日本の「自衛隊」の現実と憲法第9条二項(戦力不保持)との矛盾・違反関係と照応する。

 憲法で保障されている大学の自治は、芦部憲法にみるように、大学には、行政当局から自立・独立した学長や教授の人事権が保障されなければならない。理事長・副理事長が行政当局(市長)によって任命されているとすれば、その理事長・副理事長が選び任命した教育研究審議会や経営審議会のメンバーが行政から独立していないのは明らかであり、そうした審議会によって選考委員が「選挙」されても、なんら行政からの独立を意味しない。目下行われようとしてる学長選考のあり方からすれば、現行の1年限定のはずだった学長任命における超法規的措置が、今後4年間もつづくことになる。

 

       ---------芦部『憲法』-----

 

芦部信喜『憲法』岩波書店より

 

「憲法23条は、『学問の自由は、これを保障する』と定める。……学問の自由の保障は、個人の人権としての学問の自由のみならず、とくに大学における学問の自由を保障することを趣旨としたものであり、それを担保するための『大学の自治』の保障をも含んでいる。」(134頁)

 

「2 学問の自由の保障の意味

憲法23条は、まず第一に、国家権力が、学問研究、研究発表、学説内容などの学問的活動とその成果について、それを弾圧し、あるいは禁止することは許されないことを意味する。とくに学問研究は、ことの性質上外部からの権力・権威によって干渉されるべき問題ではなく、自由な立場での研究が要請される。時の政府の政策に適合しないからといって、戦前の天皇機関説事件の場合のように、学問研究への政府の干渉は絶対に許されてはならない。『学問研究を使命とする人や施設による研究は、真理探究のためのものであるとの推定が働く』と解すべきであろう。

 

第2に、憲法23条は、学問の自由の実質的裏付けとして、教育機関において学問に従事する研究者に職務上の独立を認め、その身分を保障することを意味する。すなわち、教育内容のみならず、教育行政もまた政治的干渉から保護されなければならない。」(136頁)

 

「3 大学の自治

 学問研究の自主性の要請は、とくに大学について、『大学の自治』を認めることになる。大学の自治の観念は、ヨーロッパ中世以来の伝統に由来し、大学における研究教育の自由を十分に保障するために、大学の内部行政に関しては大学の自主的な決定に任せ、大学内の問題に外部勢力が干渉することを排除しようとするものである。それは、学問の自由の中に当然のコロラリーとして含まれており、いわゆる『制度的保障』の一つと言うこともできる。

 

 大学の自治の内容としてとくに重要なものは、学長・教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。ほかに、近時、予算管理の自治(財政自治権)をも自治の内容として重視する説が有力である。

 

 (1)人事の自治  学長・教授その他研究者の人事は、大学の自主的判断に基づいてなされなければならない。政府ないし文部省による大学の人事への干渉は許されない。1962年(昭和37年)に大きく政治問題化した大学管理制度の改革は、文部大臣による国立大学の学長の選任・監督権を強化するための法制化をはかるものであったが、確立された大学自治の慣行を否定するものとして、大学側の強い批判を受け挫折した。」(137頁) 

 

 

[2]

小樽商科大学長選、全教職員が投票 運営意識高める狙い

http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20051007&j=0046&k=200510074111

[3] 文科系と理科系・医学系を総合する大学では、こうした方式では、最初からほぼ理科系・自然科学系・医学系の圧倒的有利という結果が分かっているから。

こうした方式ではなくても、総合大学の国立大学の圧倒的多数において学長は理科系・医学系の実質上の指定席となっている。文理総合の科学の教育研究の論理ではなくて、数の論理の優位、ということだろう。

 

[4] 大学民主主義の原則の適用を前進させた学長選挙方式を取りまとめた委員会の長は、大学の教授である。その意味でも、大学の主体性が発揮される(少なくとも形式的にでも)物となっているように思われる。

 

[5] 小樽商大の場合、職員が選挙権を獲得する方式で、有権者が1.7倍になったという。とすれば、増えた0.7倍の部分は、職員有権者ということになる。単純な計算をすると、これまでの教員有権者118名程度に加えて、83人ほどの職員が有権者となったということか。

大学自治の担い手として、職員の責任は格段の重みを持つようになったといえよう。職員はどのような投票行動を取るのであろうか?

 

[6] 現学長は、学生諸君とは食堂で話し合う機会もあったようであるが、教育研究を担う教員とはどうか? 何を具体的にやってきたのか、われわれにはさっぱりわからない。

 学生諸君との場合でも、食堂で出会わないような多くの学生との交流はどのようになっているのか?

 「昼食会」という発想それ自体は、ひとつの場の設定として有効な場合もあるが、大学改革の推進という本筋のところでは、そのような場がどのように機能するのであろうか?

 

[7] ひとつの科目で外部試験を進級要件にするということは、他の科目ですべて合格点を取っている学生でも進級(必然的に卒業)できないということである。大学の外部の試験(ハードル)が、大学の内部のすべての教育(単位認定)を否定できるということではないか?

 

進級(卒業)要件とされないその他すべての科目の単位認定・成績判定、したがって現場のすべての教員の単位認定・成績判定権も、進級(卒業)に関しては無効にするものである。このことは重大かつ深刻だと思われる。今回の「改革」の問題性が象徴的に露呈しているのではないだろうか。誰が、どのような組織が、どこできめたのか? その証拠文書は?

 

 教員に対する全員任期制や年俸制などの行政当局(いまでは法人当局)による画一的押し付け(・・・これを訂正するには、就業規則等の改定が必要である)がいかに問題であるかは、「少数の先生方のこと」と、普通の市民には分からないかもしれない。しかし、学生の進級の(進級できなければ卒業できないので卒業の)要件が外部試験にある、ということの問題性は、市民の多くが理解できるであろう。

 

 かつてならば、医学生を例に取れば、医学部の単位を取得すれば卒業できる。外部の試験(国家試験)、すなわち医師国家試験に受からなければ、医者としては活動できないが、医学部を卒業したということは厳然たる事実となる。医学知識を持った医学部卒業の医事評論家や文筆家としての社会的活躍も可能であろう。

しかし、新しい制度でトッフル500点をクリアできない医学生は、医学部さえ卒業できないことになる。

医学部の学生にとって、将来の医者にとって、トッフル500点で試される英語の力は、医学専門雑誌を通じて取得する最先端の医学知識とどのように相関するであろうか?

 トッフル500点などクリアできない(これまでそんなことはなかったからかつての医学生のかなり多くはそうではなかろうか・・・事実誤認か?)医学生も、専門の英語文献を読み、すぐれた医者となっている。現在のすぐれた医者でトッフル500点の関門を超えるような人がどの程度いるのか?

 英語教育の実情に詳しくないので、疑問がつぎつぎと出て来る。

 

 

[8] 定款や学則を変える必要があるが、それは気の遠くなるようなことだ。学則(の決定・変更)はいまや教授会や評議会といった組織で行われなくなっているから、現場の教員の力は発揮できないに等しい。

「定款=諦観」というのは教員の発想だが、若い学生諸君はそれとは違うであろうことを期待したい。