--------------

927日  首都大学では、任期制の再任審査は、二年後におこなわれるということで、組合が、基準の明確化や基準設定への教員参加や、その審査における自治的自立的な教員参加を求めて(かつてなら自立的自治的教授会・評議会の当然の権限であり責任であったが、それが破壊されているということを意味する)、議論を進めているようである(『手から手へ』2458)。都立4大学・首都大の場合も、新大学への就任をめぐって「任期制」の強制をおこない[1]、本来の任期制(大学教員任期法に基づく限定的なもの)とはまったくちがうことを強行しているが(違法であり憲法違反だと考えるが)、その内実を実質的に憲法の保障する大学の自治の実現にふさわしいものとして換骨奪胎すべく、組合が戦うのは当然であろう。

 

------------------

 

 

 

 

 

 

  

2458


全教員によるオープンな検討を!
部局・専門分野の特性を尊重し、長期的教育研究の保障を



*************************************

 
 組合はすでに8月1日の中央執行委員会声明『任期評価の検討開始にあたっての組合の見解と要望』(手から手へ第2457号)で、任期評価問題に対する基本的見解を発表しています。私たちは教職員の雇用と労働条件に責任を持つ組合として、「全員任期制」という基本方針にはあくまで反対ですが、現に「任期付教員」が多数いる以上、さし迫った再任判定で不当に職を奪われる教員がひとりでもでてはならないと考えています。
  去る9月14日の人事制度等検討委員会において任期付き教員にたいする『再任判定の基本的考え方(案)』(以後、『考え方』)が提示され、懸案の検討が本格的に開始されました。今後進められるであろう各部局教員組織での討議に向け、組合は緊急に論点の提起と要望を行うものです。なぜなら、再任判定基準の内容、手続きは直ちに教員の雇用と労働条件に直接関わる重要な交渉事項だからであり、また、現在の首都大学東京においては任期付き教員が全教員の過半数を占めており、その再任判定方法は今後の本学の教育と研究の帰趨を定めてしまう、すなわち大学の本質に関わる問題だからです。

 まず私たちがもっとも重視するのは、各部局教員組織のオープンな議論です。決して一部管理職教員の間だけの協議と事後報告に任せてはならず、教授、准教授、助教、助手のすべての意見、要望を十分にふまえた策定がなされなければなりません。教員の基本組織である各部局ごとに議論の経過の公表と集団的討議の機会の確保が不可欠で、とくに意見表明の機会が十分に与えられているとは言い難い助教(部局によっては准教授)以下への情報提供と発言機会の保障を法人当局と部局管理職教員に強く要求します。

 全教員に発言、意見表明の機会を保障した討議がなされることを前提とした上で、以下に留意すべきいくつかの論点と要望を述べます。
 第一に、現行の任期制施行時点での唯一の再任基準は「大学教員として通常の勤務成績・業績を上げていれば再任される」であったことを重く受け止め、それがどのように具体化されるかです。組合は、例えば懲戒解雇に相当するような、教員として雇用を継続するのにふさわしくないと判断される事例を除き、全員を再任すべきであると考えています。
さいわい、今回の『考え方』では第一項で「大学教員として通常の能力を有し、意欲を持って職務に取り組んでいる者については、原則として再任される」ことが記されています。法人化にあたっての説明会でも繰り返し当局から表明されていたことでもあり、この原則は歓迎できるものです。したがって、今後の具体的基準策定のプロセスで、この原則が堅持されることを期待します。

 

 

 

-----------

926日 沖縄「集団自決」への軍の命令・関与の事実を抹消しようとする教科書「検定」に反対する歴史学研究会の声明に賛同した。歴史の真実の科学的解明の結果が、権力によって無視され歪曲されるというこの現実を日本人自身が放置しておくわけには行かない。慰安婦問題での歴史否定を行った安部政権とその支持勢力に対する世界的批判は、記憶に新しい。右翼的な歴史の隠蔽・歪曲にたいする日本人自身による粘り強い批判が重要であり、正確な事実を教科書を通じて広く国民的認識とする必要がある。これも、阿部政権の負の遺産との闘い、憲法擁護の闘いの一環であろう。

 

-----------

924日 任期更新をめぐる労使の対立点(団交要求書参照)は、つぎのようなものである。今一度、団交要求書の論点を、確認しておこう。

第一の根本的対立点は、法人サイドは、「全員」任期制を掲げていること(そのために本来の立法の趣旨とはちがう形で、本来・原則的に労働者を長期契約で縛ることはできないが特別の場合に有期契約を可能とした労働基準法第14条の改正を利用している・・・移動・職の自由の制限の規定[2]と一定期間の雇用保障の規定との混同)であり、他方、教員組合は、公務員時代の身分継承の法理からしても、また、大学の自治(学問の自由の制度的保障)の見地からも、全員の有期契約はありえない、大学教員任期法に基づく限定的な任期付(任期終了後の原則解雇自由)ポストの設定がありうるだけだ、との立場である。

その立場からすれば、法人化後に採用され、募集時点で「任期制」を承諾していた教員についても、一定の条件を積めば、テニュア(定年までの雇用保障)を与えることを制度化すべきだということになる。法人サイドは、任期制が、大学の活性化に繋がるものとして、「全員」任期制を主張しているが、その合理的説明はない。法人サイドが任期付教員の解雇を行う自由のカードを一枚もったというところであり、任期をつけた教員の教育研究の活性化が、公務員時代の身分を継承している教員の活性度とどのようにちがうかの実証も検証も、今のところ示されていない。

 

第二の対立点は、法人化に際して、「任期制に同意」した元公務員身分の教員と、法人化後に採用されて「任期制」を承知の上で職についた教員に関して、任期に関する契約(雇用契約)が結ばれているとする法人サイドと、それは明文化された形では存在せず、明文化された雇用契約でもって初めて任期に関する雇用が成立するとの立場(弱い立場・不利な立場)を擁護する教員組合のスタンスである。事実において、法人とそれぞれの任期付教員との間に、現在示されているような雇用契約文書は存在しない。(現在示されている雇用契約書なるものが、いつの時点で、誰に対して出されているのか、明確な説明はない。)今回初めて、その文書が教員組合に提示され、周知のものとなった。

これまで、20054月の法人化発足時点では任期に同意した教員に関して、明文化された雇用契約のない任期であった、ということは事実である。そのことの重みをどのように考えるか、これが、法人サイドと教員組合とが対立するところである。

 

この対立点が深刻な問題となるのは、助手、助教、准教授などであり、それぞれの最長任期延長期間が限定されているからである。

 

(教授は、「考え方」に示された最低限の条件をクリアすれば、再任の回数制限がないので定年までの身分・雇用は確保できる。しかし、任期制とは、その期間内に「最低限の条件をクリアすればいい」ということを意味するのか?それは大学の教育研究の活性化と整合するのか、という根本問題はある。無限定の、「全員」任期制などというものが、いかに、教育研究の活性化とは矛盾するかを典型的に示す事例といえよう。)

 

今回、当局が示した理事長見解(昨年末に新給与体系の提案に際して、その一部に付随的に盛り込まれていた副理事長見解を補足した3月時点での理事長見解)は、再任基準をめぐって不安を抱える教員に対して、再任における最低限クリアすべき条件を示そうとするものであり、ある意味では、再任審査の許容度を広く設定したものである。

しかし、そのことは、今回、雇用契約に署名すれば、その署名の事実を持って、任期雇用の開始が20054月時点であったことを認めることとされ、この2年半の雇用契約書なしの宙ぶらりんの状態が、更新限度の年数(最長任期期間)関しては、一方的に法人サイドに有利に解釈されることになるのではないか、という問題がある。助手、助教、准教授にとって、3年間、雇用保障が延びるか短縮するかは、巨大な処遇の利益不利益、安定・不安定に関わる。

 

法人サイドは、あきらかに、20054月の法人化開始とともに任期が開始したと解釈して、今回の再任手続きに入っているが、この間の、雇用契約書を個々人の教員と結ばなかったという問題点に関しては、その責任を逃れようとしている。(再任教員に対して提示しようとしている雇用契約書が今回初めて示されていることからしても、2005年時点にそのような契約書が存在しなかったことは厳然たる事実である)。

助手、助教・准教授という身分的に不利な教員に対する配慮がないかぎり、若手教員のやる気、本学への帰属意識は希薄なままにとどまり、それは教育の活性化や充実には結びつかないだろう。とくに、学部の構成からして、教授数、准教授数等において厳しい制約がある医学部の場合、その問題が深刻となろう。

 

第三の対立点は、4月の昇任が「経営的観点」から、拒否されたことにみられる人事評価のあり方の問題が、任期更新の審査でも、制度的に内在しているということである。昇任においては客観的基準が提示されているが、その運用が、一般教員の信頼を得ていない。何はともあれ「任期制に同意」し、教育研究の実績は積まなくても法人の意向に沿った学内事務的なこと(管理職業務)をやれば教授になれる、といった風評が流れるのは、そのあたりに問題があるからであろう。

昇任問題と同じように、いくら「最低限の条件」を、法人が再任の条件として示していても、いざ審査の段階となると、「経営的観点」を理由に、再任を拒否することができる状態となっている。まさに、人事こそは、大学自治(学問の自由)の根幹に関わるものであり、そこでの教員の安全(自治)が確保されていない問題である[3]

法人サイドの今回の再任手続きに関する文書では、今回のやり方が「教員評価制度の未確立」な段階での過渡的・臨時的な措置であることが文章化されて、示されている。教員評価制度が確立すれば、別の再任基準・別の再任手続き・別の再任審査機関等が適用されることになる。したがって、教員評価制度が未確立な段階(「考え方」の審査に当たっての基準や運用、その組織など)での「再任審査」が、業績の形式面だけを審査するものとならざるを得ないことを認めているといえよう。ただ、当局がそのことを、該当教員に分かるように説明しているわけではない。当該教員が不安に駆られているとしても、当然である。

 

第四の対立点は、一見すれば、再任とは関係がないような問題、しかし、再任問題と深く関わる問題としての、昇任審査基準、その適用、判断主体(機関)の問題である。当面の再任は、「最低限の条件」でクリアさせておいて、昇任基準に関しては厳しく適用すれば(基準自体が厳しくなっている、あるいは、経営的観点を持ち出せば)、昇任不可能で、任期切れ、解雇に追い込まれる。この問題である。

今回の「再任審査」の形式性やハードルの「低さ」にだけ注意を向けようとする態度が、法人サイドの発言(市当局者として公務員身分に守られて23年、ないし数年後には大学以外に「栄転」する保障を得ている人々)に見られるが、それは、根本的に重要な問題を隠している、見ようとしない、態度といわなければならない。一方で有期契約で自由を束縛し、他方で、任期延長期間終了後における解雇自由権を確保しようとするものだからである。最長任期終了後の身分保障に関して、テニュア制度について未確立だからである。

これは、すくなくとも魅力ある人事政策とはとてもいえないであろう。准教授以下の人は、現在の「任期制」では、長期返済の住宅の購入さえも、行うことはできないのではないか?

 

 

 

---------

9月22日 

この間、研究院に所属する教員の業績リスト調査(業績リストの作成提出)が、7月の研究院総会で提案され、特別の反対等はなく、行われようとしている。昨年度の約6年間(2000年1月から2006年8月まで)の業績リスト作成・提出、その印刷・製本を引き継ぐ作業である。

今年は、期間としては、2006年1月から2007年8月までのものをまとめることになっている。昨年度と今年度の二つのリストを総合すれば、約7年間のほぼ全教員に近い各人の業績リストが出来上がる。

 

SDシート(目標の設定、その目標の達成度の各人の自己評価)とちがって、業績リストは、当該期間の実績・業績だけを、事実としてとりまとめたものであり、各教員の(教育)研究・社会地域貢献等の実績を示すものである。いずれ、教員評価システムが本格的に軌道に乗るようになれば、その評価に際して、こうした実績が基礎データとなるのは、当然であろう。

学問分野によって、実績の示し方に違いはあり、その違いをきちんと評価できるのは、それぞれのピア(専門家としての仲間・同僚)であり、その「ピア」の範囲が広くなればなるほど、それが大学を越え、地方的学会を越え、全国的・全世界的になればなるほど、評価が高くなる、学会における認知度・評価が高まるという一応の関係が成り立つだろう。

 

8月下旬締め切りの任期制教員の業績リストも、この研究院業績リストをそのまま転用すればいいわけで(あるいは任期更新教員の場合は先にそのための業績リストを作成し、研究院へのリストとして利用してもいい)、任期制に同意した教員の負担が特に増えるわけではない。任期制に同意していない教員も、研究院所属教員として、一定期間ごとに、研究院総会で議論した業績リストの作成については、提出するのだから。(一定期間といっても、昨年度に引き続き今年度も行われているので、毎年、一回が現状)

 

同じように仕事をし、同じように業績リストを作成し、実績を提示している教員が、一方では、「任期」の枠をはめられ、他方では、任期の定めなき雇用の形態となっていることが、いかに問題であるかが明確である。

同一労働=同一賃金、一物一価は、商品社会の一般原則であろう[4]。成し遂げた実績・業績とその対応としての給与等の処遇の相互関係が、信頼できる安定的なものとして確立しなければ、「働かないもの、実績を上げないものが得をする」、「たくさん働くもの・多くの実績を上げるものが損をする」、といったことになろう。

「任期」制に同意さえすれば、そして最低限の条件さえクリアすれば、任期制に不同意の教員よりも、種々のメリットがある、昇任もしやすい、などとということでは、業績と処遇、労働と賃金、との対応関係は、むちゃくちゃとなろう。

 

大体において、年齢(経験年数)・職務段階等が同じならば、同一労働・同一賃金の原則からすれば、ほぼ同じ労働・同じ教育研究実績で(検証が必要だが、実証はなかなか難しいであろう)処遇は同じ、ということになる[5]。したがって、当局が、「任期制」の教員に対して示している再任基準なるもの(最低基準)も、全員がクリアできる水準のものであるのは当然である。

 

しかし、「事実としてクリアできる」ということと、その審査・判定を誰が、どのような組織とルールに従って行うかは別である。その点で、7月に示された当局の「再任の考え方」の各教員への適用・審査に当たっては、大学の自治は侵害されたままである。

 

基準(法・規範・規則)の制定とその運用・適用とが、関係する教員の自治的審議と合意に基づいてはいない。

運用・審査する主体が法人であり、その任命する管理職であることは、一方的な管理主義的なものであり、自治の要素はない。現在では、大学内の唯一の自治的自立的組織としての教員組合が、そのなかに任期制の組合員もいることを踏まえて、恣意的な審査の行われないように、監視し、チェック機能を果たさざるを得ない。

普通の大学なら、また、教授会・評議会が憲法の原則に従い自治的自立的である大学なら、その教授会で、審査委員会を設けて、審査を行うであろうが、現在はそうなっていないからである。

教員評価委員会なるものも、自治的自立的組織とはなっていないので、今後、大学自治の原則にふさわしいものとするためには、その根本的組織原則の自治化が必要となろう。その場合、ピア・レビュー原則をどのように確立するかが、アルファでありオメガであるだろう。

 

第二の問題は、任期制に同意を求めた時点に示した条件とその具体化との関係である。契約に関する研究(現在の民法研究の第一人者とみなされる内田の書物)をみると、契約における信義誠実原則が、重要だということがわかる。

「任期制同意」は、任期制に関する法人と当該教員との契約であるが、その契約締結時に示した条件と、この2年半ほどの間の実際とが違う場合、当然契約違反として、任期への同意を取り消すことがありうるだろう。勿論、最終的には、決着がつかなければ、裁判ということになろう。すでに、今回の再任手続きにおいても、教員組合ニュースで報じられているとおり、当局の信義誠実原則違反を強く批判し、同意撤回(同意書の返還)を求めている教員(組合員)がいることは事実である。

 

教員組合は、原則として、一貫して、「全員任期制」に反対し、有期契約に「同意しないでも可」、との立場を堅持してきている。

しかし、さまざまの理由から、同意した教員に関しても、そうした教員が、大学自治破壊の状況で被る被害、不利益に関しては、その権利・身分を守ることになる。

 

27日には、執行委員会・拡大執行委員会が開催される。この間の当局との交渉の進展(不進展)に関して、議論することになろう。

 

未解決、懸案の問題も多い。

@4月に「経営の観点」から、昇任を拒否された問題の処理・・・多くの点が未解明。しかるべき業績を上げても、それが評価されないならば、どうなるか?不当ではないか?

A就業規則問題・・・法人発足時に提示された就業規則に対しては、現在、問題化している任期制とも関連し、たくさんの根本的問題を意見書として提示してある(2005年4月28日・意見書)。その重要問題のほどんどが、労使交渉の対象となっていない。

一定の部分的解決(合意・協定)を得たのは、年俸制に関わるものだけである。しかも、それとても、3月の協定書調印時点では、速やかに提示するとしていた職務給・業績給の提案が、いまだにない。「独立行政法人化したから」と、独立性を主張する一方で、いまだに職務給・業績給に関する提示がないことは、昨年度の経過を見てもわかるが、年度末ぎりぎりに提示される危険性さえある。すでに、事務折衝では、この問題を提起しているが、いまだ、具体的対応はみられない。こうしたところも、当局に対する不信感の背景となる。

 

就業規則問題で、その他の論点は、何も解決していない。その現状の中での、「任期制」更新問題である。

 

B大学院手当て問題・・・従来のやり方を適用すれば支払われるべき手当てが、支払われていない。その手当て問題の見直しに関する提案も、教員組合に対してなされていない。見直しならば、その原則に関して、教員組合との交渉事項となる。手当ては、同一労働=同一賃金原則の適用のあり方に関連し、重要な処遇条件だからである。国立大学のように基本給に上乗せする職務給として位置づけるべきものと、普通の手当てとして支払われるべきものとが、明確に分離されていないために、対応が混乱している。

C兼職に関する規則の問題・・・これも、教員組合になんら、提案なく、一方的にメールで条件変更を示してきており、問題である。一方的に規則を変更し、通知すれば、すべて済むと思っているのが、いかに、官僚主義的であり、大学自治原則に反し、大学教員で組織する交渉団体としての教員組合を無視するものか。

労働条件・勤務条件は、労働とその対価との関係において、一般の商品の売買関係と同じく、売り手と買い手の対等の交渉によるのが、自由主義的市民的規範であろう[6]

D2月に発生した化学実験中の事故(労働災害)に関する補償問題も、未解決。

教育研究の現場において、事故がある確率で起きるのは必然であり、だからこそさまざまの保険手段がある。労働災害で研究教育に支障が出るだけでなく、経済的にも不利益を被るようでは、さらに教育研究にも支障が出る。そのあたりのことが、まだ解決していない。保険が十全でなければ、危険をともなう実験など、安心して教育研究ができない。

 

 

 

 

 

--------

9月21日(2) 先日の臨時代議員会、昨日の代議員会の様子が、立ち話で耳に入った。それによれば、2割ほどの学生が留年となるという。立ち話情報で、正確なことはわからないが、大変なことのように思われる。教員(管理職・・・経営サイドに任命された人)のなかには、「これまで、どの学年も1割程度の留年はあるので・・・」と、あまり気にしていない人もいるという。しかし、一科目だけ(今回の場合、PEだけ)で、2割程度の留年が出るとすれば、制度自体に問題がないか、制度の運用自体に問題がないか、綿密な検討が必要だろう。果たしてそれは行われているのか?

留年と軽々しく言うが、一年間の授業料と生活費を考えると、学生やその家族にとって、大変な負担となるのではないか?

その負担に見合う合理的な説明はあるか?

留年期間を有効に使えるようなカリキュラム編成は行われるのか(行われているのか)?

留年者への特別の配慮は?

 

PEセンターの設置で、実力要請は、どのように改善されたのか?

うわさでは、代議員会に、留年者の点数などの基礎データが示されなかったという。みんなで議論し、知恵を出し合うための基礎データを秘匿したままで、改善はできるのか?

 

学生に聞いてみると、リスニング、リーディング、グラマーの3時間が必修として出席を強制(8割)される。しかし、学生により、少しずつ、得意不得意はあり、また、教える側も三つの分野で同じ力量ではない。ところが、三つのすべてに、同じように一律に出席強制する、というのも、学生の不満とするところである。学生の声に耳を傾ければ、いろいろ改善の余地はあるだろうが、留年した学生へのヒアリングなどは行うのだろうか?

 

コース会議等で繰り返し問題点を指摘したが、結局はここまで、「当局の当初の方針通り」来てしまった。

2年生以下も同じような傾向が続けば、留年生用のPEのクラスだけでも大変な数になり、大学のカリキュラム体系、時間割編成が崩壊するのではないか?

4年間の総学生数には、最近では、厳しい限界がある。それをクリアできるのか?

老婆心ならいいのだが。

 

----------

9月21日(1) 

「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)によれば、北陸大学における不当解雇事件では、すでに地位保全の仮処分判決がでていたが、さらに新しく、一定の前進があったようだ。不当な解雇を撤回させ、健全な大学を建設するのは、大学人の使命であろう。

さしあたりはそうした不当な解雇が起きていないところでも、種々の不当な圧力が経営陣から教員に加えられている事例もある。「全員任期制」の押し付け、その後の処理などにも、その問題がある。不当なことの排除は、市民的責任でもある。

 

--------------

北陸大学不当解雇事件、田村教授、ライヒェルト教授 研究室使用復活

■北陸大学教職員組合ニュース(第254号、2007.9.21 発行)

研究室使用復活

 組合ニュース253号でお知らせしたように、田村教授、ライヒェルト教授の地位保全仮処分申立は、8月10日に金沢地裁から、両氏の主張をほぼ全面的に認める決定が下されました。その後、決定の主文にある、地位保全と35万円の賃金仮払いは、仮払いについては35万円が決定通り8月24日に本人の口座に振り込まれ、地位保全については、8月31日に研究室の使用、Eメールアドレスの復活、駐車許可証交付が法人担当理事より確認されました。ただし、メールボックスについては、郵便物を手渡しする旨回答があっただけで、まだ開設されていません。研究室のネームプレートについても同様です。このようにまだ研究活動・教育活動における差別と障害が解消したわけでなく、両氏にとって厳しい状況が続くことになります。しかし、この組合員解雇問題に係わる裁判第1審判決言い渡しまで、とりあえず従前通り研究環境を利用できる状態になったことを両教授とともに喜び、さらなる前進を目指したいと思います。

 

 

 

 

 なおまた、「全国国公私立大学の事件情報」(本日付)によれば、アメリカ・ブッシュ政権によるイラク戦争・イラク侵略・占領の犠牲者は100万人以上に上るとの統計が、アメリカ人研究者によって発表されたようだ。小泉政権の責任、日本の戦争(支援)責任は、いったいどうなるのか?テロ特措法の名目のもとに、実際には、アメリカのイラク占領軍の後方支援活動も行っていることが、最近明らかにされつつあるが、重大な問題である。

 

----------- 

イラク戦争と統計─推定死者数122万人

[TUP-Bulletin] 速報725号より

イラク戦争と統計─推定死者数122万人

安濃一樹

 2004年10月29日、レス・ロバーツ博士の研究グループが、アメリカによる侵略と占領の犠牲となったイラク市民の死亡者数を推定するレポートを、イギリスの科学誌ランセットのオンライン版で公開しました。レポートは、ロバーツ博士が所属する米ジョンズ・ホプキンス大学と米コロンビア大学とバグダッドのアル・ムスタンシリア大学が合同して現地調査した結果を分析したものです。

 研究グループは、04年7月の時点でイラク市民の死亡率が侵略前の通常値と比べて2・5倍になり、侵略と占領の犠牲となった死者数は9万8000人に及んでいる可能性が高いと推定しています。死者の過半数がアメリカが率いる連合軍による攻撃の犠牲者であり、ほとんどが女性と子どもたちでした。

Iraqi Civilian Deaths Increase Dramatically After Invasion
http://www.jhsph.edu/publichealthnews/press_releases/PR_2004/Burnham_Iraq.html

 現地調査で集めた情報を集計して統計グラフをつくると放物線を描きます。放物線の頂点の値がおよそ9万8000人です。統計で数値を推定するとき、実際の死者数は95%の確実性でこの範囲に収まるという信頼区間を、グラフの頂点の左右に幅を取って示します。最低値は8000人、最高値19万4000人になります。これが、イラク戦争の死者数は推定で10万人と報道されました。上下の幅が大きいと感じるかも知れませんが、このレポート以上に科学的で確実性の高い数値は他になかったでしょう。

 2006年10月11日、引き続き調査を行った研究グループは、その結果を前回と同じ英ランセット誌オンライン版で発表します。新しい報告によると、03年3月に侵略が始まってから06年7月までに、通常の死亡率を超える過剰な死者数は、65万4965人(95%信頼区間=最低39万2979人〜最高94万2636人)だと推定されました。そのうち60万1027人(42万6369〜79万3663)が戦争の暴力行為によって殺害されたと考えられます。もっとも多い死因は銃撃による被弾です。

Mortality after the 2003 invasion of Iraq: a cross-sectional clustersample survey
http://web.mit.edu/CIS/lancet-study-101106.pdf

 ロバーツ博士グループによる第3の報告はまだありませんが、侵略から1年7カ月で10万人、3年4カ月で65万人が犠牲になったとすると、被害は占領が長期化するにつれて加速しながら増大していることになる。06年10月のレポートをもとに、イラクの激化する状況を考慮して、07年現在までの死者数を(科学的とは言えないが)概算すると死者はすでに100万人を越えている可能性があると訴える活動グループもあります。

Just Foreign Policy
http://www.justforeignpolicy.org/iraq/iraqdeaths.html

 先日、死者100万という怒りと不安に満ちた数字を裏打ちするような調査報告がイギリスの世論調査エイジェンシーから公開されました。イギリスのORB(世論調査ビジネス)はイラクの成人(18才以上)1461人に聞き取り調査を行い、イラク戦争が原因で、それぞれの家庭(同じ屋根の下に住む親族)から何人の死者を出したかと質問しています。回答の割合は、
0人    78%
1人    16%
2人    5%
3人    1%
4人以上 0・002%

 この結果をイラクの家庭総数405万0597(05年の人口統計)に当てはめると、122万0580人が犠牲となったと推定できます。ロバーツ博士の研究グループは、ファルージャなど米軍による壊滅作戦が行われた市街地をあえて調査の対象としませんでした。あまりに被害が大きいために、統計の数値が跳ね上がってしまうからです。ORBも、担当官が踏み込めないほど危険な地域では調査をあきらめています。

September 2007 - More than 1,000,000 Iraqis murdered
http://www.opinion.co.uk/Newsroom_details.aspx?NewsId=78

 ORBの調査はロバーツ博士グループのレポートほど厳密なものではありません。しかし、グループの統計データをもとにして、現時点までの死亡者数の補外値を求めるなら、やはり100万人を越える数値にたどりつくと思います。ORBの調査結果を報道したのは、アメリカの主流メディアではLAタイムズ紙だけでしょうか。

Poll: Civilian toll in Iraq may top 1M
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-iraq14sep14,1,3979621.story?coll=la-headlines-world&ctrack=2&cset=true

 アメリカの貧しい家庭に生まれた若者たちが、米軍に入隊しイラクへ送られました。クリントン政権による(そして日本を含む国際社会が協力した)経済制裁を生き抜いたイラク市民は、いま侵略と占領と内乱に苛まれています。国際法を踏みにじる超大国アメリカの権力によって、犠牲となった兵士と市民の名前も顔も声も祈りも、私たちは知ることができません。国家の暴力に命を失った夥しい数の人びとは、死んで名前も顔も声も祈りも奪われ、ついには統計上の数字に変わる。

 ブッシュ政権はイラクの長期占領を宣言しました。自民党政権は「テロとの戦い」に協力することを外交政策の要としています。しかし、テロリズムとは何か、その原因は何か、戦いの目的は何か、いつどのように終結するのか。こうした問いに答えようとせず、自由と民主主義と平和を守るための戦争を唱えて市民を欺くなら、「テロとの戦い」は勝利も敗北もないまま、いつまでも終わることのない永久戦争となるでしょう。

 いま命ある私たちは、市民の名の下に、互いの顔を見つめ、声を重ねて、真実をみつめながら祈りを希望に変える責任を担っています。国家によるテロリズムと戦争を止めることができるのは、いつの時でも市民の力だけです。

TUPメンバー

 

 

 

-------

9月14日 昨日付けで組合ニュースが発行された(教員組合HP)。日ごろ、あまり話し合う機会のない新しい役員の人々が、どのような問題意識を持っているかがわかり、勇気づけられる。大学自治再建の道は、力をあわせ、一つ一つの問題を解決し、着実に前進することが可能、と感じられるであろう。

 

--------

横浜市立大学教員組合週報

 

 組合ウィークリー

 

2007.09.13

 

 

もくじ

 

● 執行委員選挙と役割分担報告

● 新執行副委員長の挨拶

       新書記次長の挨拶

 

 

 

 執行委員の任期満了に伴う、執行委員選挙と一部交代が行なわれました。夏期の間に、早速、団交を行い、その準備などもあり、組合員の皆様にお知らせするのが遅くなりましたが、役割分担をお知らせいたします。

 

 

726日(木)、選挙開票の結果を受けて、引継ぎ執行委員会が開かれ、下記のとおり役割分担を決定いたしました。

 

1.選挙結果  投票総数   105

廣田 全男     105

小城原 新     104

村田 隆一     105

村山 和行     105

杉浦 央      101

 

2.執行委員役割分担

委員長       永岑 三千輝

副委員長      杉浦 央

書記長       河野 純一

書記次長      村山 和行

会計担当      廣田 全男   

情宣担当      重田 麻紀子 

          村田 隆一 

          塚田 秀行 

福利厚生担当    松本 健吾

給与調査担当    五木田 和枝

安全衛生労働時間  小城原 新

 

3.これまでの経過の整理と今後の課題について

組合大会における議論を踏まえて、任期制、再任・昇任問題、労働時間などその他の労働諸条件の改善課題について引き継ぎ確認を行った。

 

 

 

副執行委員長就任にあたって

 

                                    杉浦央


 この度、副執行委員長になりました国際総合科学部理学系の杉浦央 Hiroshi です.どうぞよろしくお願い申し上げます.
 私は3年半前、公立大学法人化以前に任期制に同意しております.就労条件、年俸等どのような条件が示されるのか、任期制の労働契約とはどのようなものになるのか、半ば心待ちにしていたところもありますが、そのような場面に遭遇することなく、法律的には契約が成立しているとの解釈ができることを最近知りました.給料が振り込まれることを不思議に思いながらも、大学の業務を滞らせているわけでもないので、そのまま受け取っていたわけです.新しい制度については全体的な説明を受けているわけですが、契約更新と同じように、最初の契約であっても個別に契約条件等を提示し、納得した上でサインをするといった手続きが、信頼関係の構築、制度の円滑な運営のためには必要であると考えます.
 前回執行委員の業務に就いた頃は、大学の教員組合というより、市労連の1単組という活動が中心でした.大学ではなく、横浜市当局との折衝に臨む機会もありました.東京を除けば最大の都市である横浜ではありますが、他都市の回答が出そろわないと回答を提示しないことが多く、情けなく思ったことがあります. 今回の大学のあり方の見直しは、横浜市が国際都市をうたっているにもかかわらず、地球規模の社会貢献よりも地域の利益を優先した結果であると考えられます.教育や研究は、長期的、広域的な視点に立てば様々な効果が期待できるはずであり、直接的な成果だけに縛られることのない、自由な研究環境が保証されるように努力していきたいと思います.

 

 

 

書記次長就任にあたって

 

村山和行

 

私は、このたび教員組合の書記次長になりました、国際総合科学部国際教養学系の村山和行です。英語を主たる対象言語として、統語論・意味論を研究しています。

本学が法人化されて、教員組合の性格もかつての市労連の1単組の時代と比べて大きく変わってきたと思いますが、真面目に向上を目指し、正直に仕事をしている者が憂き目を見ることのないようにするという当然のことを守っていくことに変化はないでしょう。

今、教員側と当局側には、不信感が存在していることは誰しもが感じているところだと思います。私自身も、Practical Englishのまとめ役としてこの3年間にそのことを実体験してきました。このような状態では、いい大学にするなどというのはあり得ない話でしょう。よりよい大学作りの基盤として、安心して授業・研究のできる環境を作り、常に倦まず向上を目指し、真面目に努力している者の労が報われるように努力したいと思っています。

 

 

 

 

--------

9月13日 トッフル500点問題は、今日、かなり重大な局面を迎える。仮進級した学生が、9月はじめの試験で500点に満たない場合、従来の学長方針どおり、全員、2年生に逆戻しされ、留年となるのかどうか、それによって、仮進級の半年間に履修し単位取得したものに関しても、無効とされるのかどうかが、決まる日だという。

 

PEの重視」ということが、それほどにも、PE一科目に絶大・独裁的な権限を与えることになっていいのか?

なぜ、卒業までの要件ではいけないのか?

 

半年間に履修し、しかるべき努力で成績を取得した科目まで、無効にしていいのか?

学生の努力を、一面的に、PEの点数だけで、分野も問わずコースも問わず、画一的に計っていいのか?

そのようなやり方こそ、無教養な硬直的中央集権的やり方ではないのか?

 

成し遂げたことは、成し遂げたこととして、科目ごとの努力を正当に認定しなくていいのか?

努力して得た成果さえも、「仮」進級だとの名目の元に、剥奪していいのか?

社会的常識からすれば、著しく常識を逸した強権的官僚主義的やり方ではないか?

 

「決まったこと」(どこで? だれによって?)だとして、あくまでも押し通すやり方は、現実の目の前の学生をみないことではないのか?

それが、教育重視の姿勢か?

 

物言わぬ教員を作り出すためには、任期制の脅かしをかけ続け、不同意者への差別をつづければいいということか?

代議員会は、学長の出席を求めて、説明責任を果たさせるべきではないのか?

 

そもそも、PE重視ということが、教育システム、教育内容、カリキュラム内容、教員の陣容などにおいて、「重視される」こと、優秀な人材を十分に配置すること、設備を充実すること、学生のやる気が満ちること、留学などを意欲的行えるようにすること、といった方向にではなく、一律の基準点を強制し、一律の出席を強制し、その強制力・脅迫力によって必死に勉強させようという恐怖の支配のシステムであるところに問題があるのではないか?

 

 その画一的官僚主義的命令主義的やり方は、教員に対する「全員」任期制の画一的押し付けの発想とまったく同じである。

 

 教授会・代議員会の機能はどうなったか?

 

 在籍学生数などにおいて、問題は発生しないのか?

 予測の誤りその他で、大学のほかの事業教育、研究分野や新たな展開に制約条件となりはしないか?

バランスのとれた、カリキュラム編成が必要だろう.

 

 

--------

99 

8月29日から11日間のミュンヘン出張、昨日予定通り、帰国。今回は、今日のEU統合の到達点の意味を再検討するために、ナチス・ドイツの中欧・南東欧進出に関する研究文献調査が主たる目的だった。(いくつかのナチズム関係史跡・ドキュメントセンターも調査・見学)

ミュンヘン現代史研究所では、ドイツ社会経済史(3月革命期研究、ドイツ中小ブルジョアジーの歴史など)の有名なM大学Y教授と数日間をともにした。ナチスドイツの経済組織化が、戦時期日本の国家総動員体制にどのように影響を与えたかを研究されているとのことであった。

 

日本では同じ学会に属していても、ほとんどお会いする機会がない研究者と、出張先で偶然お会いするということは、今回に限らず、わりとよくある。「短い」夏休みくらいしか、現地調査や文書館調査ができないので、時期的に重なるのはある意味で必然。

日本に限らず、ドイツにおいても、新自由主義的再編が大学に押し寄せていることについて、議論した。

 

6月末―7月はじめのベルリン出張のときに、ケルブレ教授と話したことの一つに、日本の大学の「夏休みの短さ」があった(ドイツでは年度の切り替えとも重なって4ヶ月と)。大学に限らず、日本社会が、「休暇の少ないこと、短いこと」は、ドイツでは定着した知識となっている。

しかし、そのことの意味は、次のようなときに再確認される。

今回の出張時にテレビのクイズ番組で、司会・解説者いわく。ドイツを訪れる旅行者の数に関して、日本人は、「無数にドイツに来るが、休暇が短いので、あわただしく去っていき、滞在日数で計算すると、ドイツへの旅行者の10位にも入らない」と。

クイズに答えた人が、フランスについで、「2番目が日本人」と答えたのは誤りだった。数では正しくても、滞在日数までをカウントすると、順位が低くなってしまう。

 

 

 



[1] 改革過程の痛苦の諸問題は、たとえば、『世界』20055月、初見基論文を参照。

 

 

[2] 勤労者の自由を制限する法律(例外的に自由を拘束する法律)だからこそ、その自由制限を受け入れる労働者の友好的関係や同意が必要となる。

全員に原則として押し付けるべきものではない。それは違法である。その意味では、就業規則は違法性が高い。教員組合が一貫して反対していることを押し通そうとするもの(規定・規則)だからである。

 しかも、任期制(有期契約)に同意しないものを、昇任等で差別することによって、間接的に圧力をかけるやり方は、さらに違法性が高い。

 昇任問題等での差別の証拠の積み重ねにより、任期制・有期契約の強制(違法行為)の立証が可能となる可能性がある。

 すでに昨年度の昇任時における差別(3名の任期制不同意者に対する昇任の遅れ)が、一つの明確な証拠となっている。

 今年4月の昇任人事問題が、その証拠となるかどうか、当局の対応によって明らかとなろう。

 そして、現在問題となっている、再任をどうするかが、もう一つの証拠となろう。

 

[3] 「大学の自治(学問の自由)」が大学にとって決定的に重要なのは、真実や真理の発見とその伝達のためである。「真実や真理の発見」は、日々の研究教育労働を通じて行われ、またその学生・院生・社会への伝達(論文・講義・講演その他)も、研究教育労働(社会貢献労働)を通じて行われる。

 

 その研究教育労働の実績を上げるためには、また、そのためにこそ自由が必要だ、ということであり、経済力・権力・権威を持つ「お上のいうことを従順に聞けばいい褒美がある」ということと、真実・真理の発見伝達とはしばしば矛盾する、ということである。古いものとの格闘の中で、今まで認識されなかったこと、新しいものが発見される。

 

「大学の自治(学問の自由)」に隠れて、しかるべき質量の研究教育労働をしないという否定的事例がありうるとしても、それは、どの活動分野にもある否定的事例であり、大学だけに独自のことではない。

 

各大学は、その研究教育の自由度・研究環境の豊かさによって優秀な研究者・教育者を集めることができるならば、それだけ、研究の実績と教育の実績も上がる、という相互関係が一般的に成り立つ、ということであろう。

 

 

 

[4] 最近読んだ本から一節・・・・「研究を通じて分かったのは、労働者の解放は彼らが労働組合に結集することによって初めて実現されるということであった。アダム・スミスやリカード、およびリカード学派が、ローマ法と同様に、労働契約を他の売買契約と同じ一つの売買契約として扱った時、心に描いていたのはまさにこのことであった。というのも、労働者は労働組合を通じて初めて、他の販売者と同様に、彼らの労働の供給を需要に適合させることができるようになるからである。だから、団結の自由を侵害することによって、労働者がこうした調整を行うことができないようにするならば、それは著しく公平を欠くこととなる。労働組合は、既存の経済秩序と対立する代わりに、この調整を実現し、そうすることによって今日の経済秩序を存続させ、労働者が文化の恩恵にもっと多く良くすることができるようにするのである。」(ルヨ・ブレンターノ著石坂昭雄・加来祥男・太田和弘訳、ミネルヴァ書房、2007年、54-55ページ)。

 

[5] 実際には、持ち駒こま数のかなりの違いなどがあるように見受けられる。私立大学ならば、一定の持ち駒ノルマがあり、それ以上はオーバータイム手当てとして、負担に見合った処遇が行われているが、そうしたシステムが本学ではまだない。

 

[6] ルヨ・ブレンターノ(上掲書,113114ページ)・・・「労働者の団結の自由は、『自由主義の教義』であり、いわゆる自由契約ないし経済的自由の学説と調和する・・・」。「アダム・スミスやその後継者とまったく同じように私が(は)、労働契約を売買契約のあらゆる規準に則って、また、労働をこの契約で売買される商品として扱」う

 「国民の大多数にとって不自由から個人的な自由と法的平等にいたる発展」・・・・「奴隷としての労働者にその労働力利用について一切の処分権が認められなかった時代から、後になるほど労働力に関する処分の自由の制限を廃止して言ったさまざまの段階を経て、どのような公定賃率ももはや労働力利用の価値を規定せず、いかなる団結の禁止でも労働の価値が可能な限り貫徹することをもはや阻止できなかったときにいたる発展・・・・」、「労働者が、奴隷から、他の企業家同じように自分自身の得失のために商品を市場に持って行き、それと交換にその具体的な使用価値に見合った価格を受け取る商品の販売者にして企業家へと経済的に発展することである。こうした考えを代表することによって、労働者の自由と法的平等を実現したのは自由主義であり、そこに,労働者に関しての自由主義の大きな功績がある。しかも、労働者の自由を実現したり守ったりすることができるような考えは、他にはない。また、そうした考えが完全には実現していないところでこそ、この自由は侵害されているのである。文化の最大の達成の一つとしてこの自由に固執する者にとっては、そうした考えの克服ではなく実現だけが、つまり、労働者が他の商品の販売者と同じように行動できるために不可欠の前提を作り出すことだけが問題となりうる。・・・これらの前提というのは、シュモラーも1872年にアイゼナッハで述べたように、団結権とそれを行使する組織である。」

 「労働力は人間それ自体である。自由な人間が販売するのはその利用(・・・すなわち一定時間の労働・仕事・・・永岑)であり、すなわち、彼はその労働力を賃貸するにすぎない。けれども、すでにローマの法律家が述べたように、賃借については購買についてと同じ基準が当てはまる。それゆえに、アダム・スミスもまた、正当にも労働契約を売買契約として、そして、労働を商品として扱った・・・・」(同、114ページ)

 「自然科学と同様に経済学では、先達が真実と証明したことをのちの研究者が拡充することが必要だ」(同上)

 

「具体的な使用価値に見合った価格」とは、まさに、同一労働=同一賃金、一物一価、同じ商品に同じ価格、の原則であり、裏返せば、別の商品に別の価格、提供する労働(研究教育労働)の質量(その違い)に対応する適切な給与・処遇(の違い)である。

 

 教育研究労働が、その大量法則においては、経験年数の増加とともに質量をまし(たとえば論文数、著書の数、教えた学生院生の数、その社会的活躍、その他、各人が必ず一定の増加傾向を持つ)、したがって、一定の年齢に応じて職務の質量も増大し、業績も増える、そうしたことに対応して、給与・処遇も上昇する、ということになる。

 

 あくまでも大量法則・平均的法則であり、時に世界レベルの発見の幸運を得る研究者もいれば、平均以下の教育研究労働しか提供しない(できない)ものもある。個別に一定の多様なばらつきが存在する中での大量法則、平均の傾向である。

平均値とその上下を一定程度見分けること、それを発見していくこと、その適切な評価に基づく一定の処遇の違いが求められていることは、事実であろう。

職務給・業績給は、そのような職務・業績の傾向的増大と一定の違いの発生に対応する処遇条件であろう。

生活給(基本給)は、教育研究労働の基礎条件(すくなくとも、出発点で、普通の大卒に比べて、最低で大学院5年間以上の勉学研究期間・能力と実績の蓄積期間が前提となる、研究教育者養成に必要となる時間と経費その他が適切に評価されなければ、蓄積された能力が適切に評価されないことになる)にかかわり、子育てなど、家族構成の増加と必要に対応するものであり、職務・業績給とは相対的に別のものであろう。

 

 特に最近のように、普通の大卒等の労働期間(終了、定年)が65歳に近づくような傾向のとき、本学をはじめとする多くの国公立大学で定年がかつてと同様6065歳であれば、大学における教育研究者はしかるべき5年以上の厳しい養成期間に関して、適切に評価されていないことになり、「割に合わない仕事」となる。生涯賃金において5年以上の養成期間をどのようにして回復できるのか?

「割に合わない仕事」、「きついだけの仕事」ならば、すなわち、不当な社会的評価・不当な処遇しか与えられないならば、大学における教育研究者を目指す人間は減少するか、質が低下するであろう。

 それは、高度な知的創造的社会を作り出していくべき日本社会にとっては、憂うべきこととなろう。