ヴァンゼー会議
記念館(編)の資料集及びその解説書
(横浜市立大学新叢書8:山根徹也・清水雅大訳)
下記邦訳において、「ユダヤ人絶滅政策」という概念が使用されている。
それは、1941年12月―42年1月のユダヤ人政策の大転換
(移送政策から絶滅政策への転換)をヴァンゼー会議が示しているので、
その限りで適切な訳である。
ただし、現場では、絶滅収容所への移送も、
移送とか疎開とかという言葉を使用し、
内実が絶滅収容所への移送であって、絶滅作戦だということが、
カムフラージュされている。
1941年12月文字通りのグローバルな対決・文字通りの世界大戦への突入こそが、移送作戦から絶滅作戦への大転換だ、という私の1994年(拙著)からの立場(拙著2001、2003)に合致し、ヴァンゼ―会議記念館も、2006年以降に採用するにいたった(それまでの記念館の解説は、41年7月31日のゲーリング令を転換点だとしていた)欧米の研究の到達点を示している。
そして、「絶滅作戦」と言っても、まずは、ポーランドのユダヤ人250万人がターゲットとなり、年末までに200万人のユダヤ人が、絶滅収容所(ソビボール、トレブリンカ、ベウゼッツ)で一酸化炭素ガス(エンジン排気ガス)で殺戮された。