ビスマルクの先例

社会主義者鎮圧法(社会主義者取締法) 1878年


「1878年5月11日と6月2日とに、あいついでドイツ皇帝が狙撃された。犯人ヘーデルおよびノビリングは、どちらもドイツ社会主義労働者党と無関係であったが、ビスマルクは、この事件を思いがけない好都合な機会として、前進する社会主義的運動の制圧に着手し、同年10月19日に帝国議会で「公共に危害を及ぼす社会民主主義の動きを取り締まる法律」を可決成立させ、同21日から施行した。

 この法律は、党のすべての組織と社会主義的目標を追求するすべての労働組合とを禁止し、また、すべての社会主義的新聞と社会主義的性格を持った文献とを禁止した。その他の諸措置とあいまって、革命的な政治活動・労働運動をつぶし、ブルジョア民主主義的な、それどころかリベラルな反対派をさえ抑えこもう、としたのである。

 はじめは、期限を1881年3月31日とする時限立法であったが、繰り返し延長されて、最終的に失効したのは1890年9月30日のことであった。この失効には、社会民主党の影響力の増大−たとえば、国会選挙における党の得票は、1887年の76万票から1890年の143万票へ増加した―を阻止するのにこの法律結局のところ無力であったという認識が広まっていた、という事情がある。
 社会主義的運動に対処する戦術をめぐる支配階級内部での意見の相違を反映して、帝国議会は、1890年1月25日、この法律の期限の延長を反対多数で否決したのである。」

(エンゲルス『反デューリング論』秋間実訳、上、新日本出版社、2001(2006 第2刷)、261ページ。