キプロス・・・・ヨーロッパか西アジアか?


白地図・・・・「アジア西部の白地図」・・・・キプロスの白地図


国名対応アジア西部白地図



キプロス
I プロローグ

キプロス Cyprus ヨーロッパ南東部、地中海の東端に位置する共和国。正式国名はキプロス共和国。シチリア島、サルデーニャ島につぐ地中海第3の島、キプロス島を領土とする国。ギリシャ語のキプロスに対しトルコ語ではクブルスとよぶ。ギリシャ系住民とトルコ系住民の対立に端を発して、1974年以来、全島の約38%にあたる北部地区はトルコ軍の占領下にあり、83年11月に北キプロス・トルコ共和国を宣言して分断状態がつづいている。島の東西は最長で約225km、同じく南北約97kmで、面積は9251km²。人口は76万7314人(2002年推計。トルコ系地区をふくむ)。首都は最大の都市のニコシア。

II 国土と資源

海岸線は複雑で変化にとみ、北東部には、カルパス半島がシリア・トルコ方向に細くのびている。中央部には、キプロスの穀倉地帯であるメサオリア平野が幅20~30kmで東西に広がる。メサオリア平野をはさんで南北には山地がはしる。北部のキレニア山地は最高点が1019mで、海岸沿いに、カルパス半島へとつづいている。南部のトロードス山脈には島の最高峰オリンパス山(1951m)がある。

キプロスには川らしい川がなく、冬の雨季に小川が山間部をながれるぐらいである。湖には、2つの大きな塩湖と淡水湖がいくつかある。

1 気候

キプロスは典型的な地中海気候で、6~9月は暑く乾燥した夏、10~3月は冷涼で雨の多い冬となる。年平均気温は20.6°C、年降水量は500mmである。

2 動植物と天然資源

森林を構成するおもな樹木はマツやイトスギ、ヒマラヤスギで、そのほか、プラタナス、オーク、オリーブなどがみられる。ユーカリの植林もおこなわれている。野生動物はほとんどいない。現存する哺乳類も21種である。渡り鳥が多く、347種類の鳥が生息している。

古くから銅や鉄鉱石、石綿、石膏(せっこう)の産地として知られてきたが、近年、鉱業はあまりふるわない。産業は農業が主体となっている。

III 住民

総人口の約85%がギリシャ系、約12%がトルコ系で、そのほか少数のアルメニア人、レバノン人などがいる。1974年のトルコ軍の占領以来、国土の南3分の2にギリシャ系が、北3分の1にトルコ系がすむようになった。二分された住民は、それぞれことなった生活習慣や宗教を保持している。

キプロスの人口は76万7314人(2002年推計)で、人口密度は83人/km²。首都ニコシアの人口は、ギリシャ系地区が18万6400人(1993年推計)、トルコ系地区が4万1815人(1994年推計)である。主要都市にはリマソル、ラルナカ、ファマグスタなどの港町がある。なお、ニコシアは、トルコ語ではレフコサとよばれる。

1 宗教と言語

ギリシャ系の住民は、ギリシャ正教会(東方正教会)の独立支派に属しており、トルコ系の住民はほとんどがイスラム教スンナ派である。そのほか、ユダヤ教徒、東方典礼カトリック教会の一派であるマロン派教徒などが少数いる。公用語はギリシャ語とトルコ語で、英語もかなりつかわれている。北キプロスでは、地名などのトルコ語化がすすめられている。

2 教育と文化

高等教育機関にはキプロス大学(1988年創立)がある。トルコ系、ギリシャ系ともに識字率は高く99.8%(2001年推計)である。

ギリシャ美術を源流とするキプロスの数々の美術品が、ニコシアの民俗芸術博物館(1950年設立)に展示されている。ニコシアのキプロス博物館(1883)では、島で発掘された考古遺物の数々がみられる。このほか、ラルナカ、リマソルにも博物館がある。

IV 経済

工業や観光をふくむサービス業も発達しているが、キプロス経済は農業によってなりたっている。1974年の事変は経済的にも大きな影響をおよぼしたが、ギリシャ系住民側(キプロス共和国)は急速な回復をみせた。通貨はキプロス共和国ではキプロス・ポンドだが、北キプロスではトルコ・リラがつかわれている。

1 農林水産業

国土の15.5%(1999年)を農地が占め、ジャガイモ(生産量12万t(2001年))、オオムギ(12万t)、コムギ(1万t)、ニンジン、ブドウ、オリーブなどが栽培される。経営規模は小規模で、機械化もあまりすすんでいない。穀物やオリーブは国内需要をみたすにいたっていないが、そのほかの農産物やワインは輸出されている。ヒツジ(飼育数25万頭(2001年))、ヤギ(38万頭)をはじめ、豚(42万頭)、牛(5万頭)、ロバ(5200頭)などの飼育もおこなわれ、ヒツジやヤギの乳からはヨーグルトやチーズがつくられている。

林業では材木や薪(まき)が生産されている。沿岸部ではカイメンの採取がおこなわれているものの、漁業はあまり盛んではない。

2 工業と外国貿易

工業は手工業をふくむ軽工業が主体で、衣料品、アクセサリー、加工食品、靴、建設用材、ワイン、タバコなどが製造されている。

2000年の輸出額は9億5350万米ドルで、輸入額は38億4720万米ドル。輸出品はジャガイモ、柑橘類、ワイン、衣料品など、輸入品は石油、繊維、穀物、自動車など。イギリスがおもな貿易相手国である。北キプロスでは、95年の輸出額は約5700万米ドル、輸入額は3億2400万米ドルだった。トルコがおもな貿易相手国で、経済援助もうけているが、イギリスも輸出相手国となっている。

V 環境問題

キプロスは、かつては広大な森林で知られていたが、島中央部の平野に繁茂していた木々は長年の間に、薪(まき)、造船、その他の建材用に次々と切りたおされてしまった。19世紀後半、キプロスを統治するようになったイギリスは、植林など森林を保護するための努力をつづけたが、のこっていた森の大半は、1974年の対トルコ・パルチザン闘争により焼失した。近年、森林は国土の総面積のわずか12.7%(2000年)にすぎなくなった。

キプロスの水源は極端にかぎられている。国の主要な帯水層には海水が入りこんでおり、そのほかの水源も、産業廃棄物や未処理下水で汚染されている。長年にわたる森林伐採によって、島の水循環(水)がそこなわれ、年間を通じて水をたたえている河川は姿をけした。おもな水路は、冬の間は雨水があつまって流れができるが、夏になると干あがってしまう。雨水をためるためにダムや貯水場がつくられたが、近年の干ばつで、これらの貯水場の水も涸(か)れはじめ、水の消費をきびしく制限せざるをえなくなっている。

キプロス政府は、禁猟区や国有林を設置し、全島の8.1%(1996年)を自然保護地区としている。

VI 政治

キプロス共和国は、1960年憲法にもとづいてギリシャ系住民とトルコ系住民のバランスのもとに政治がおこなわれるとされているが、63年の住民対立以来、トルコ系住民は独自の統治機構下にある。74年に軍事クーデタによってマカリオス大統領が追放されると、トルコが軍事介入し、島の北部約3分の1を占領した。75年に北部トルコ系住民はキプロス・トルコ連邦国を建国し、独自の憲法と政府機関を設立した。さらに83年11月、北キプロス・トルコ共和国の独立を宣言したが、国際連合はその承認を拒否し、トルコだけが承認している。

1960年憲法では、ギリシャ系住民が任期5年の大統領を、トルコ系住民が同じく任期5年の副大統領を選出し、選出された副大統領が国政の重要問題について大統領に拒否権を行使できることが規定されている。また、ギリシャ系・トルコ系7対3の割合で、ギリシャ系35名、トルコ系15名の合計50名からなる任期5年の国会議員が、それぞれの民族集団から選出される。1985年には議員定数が80名にふえ、ギリシャ系56名、トルコ系24名となった。

しかし、1963年以後、トルコ系は空位、空席のままで、ギリシャ系が政治の実権をにぎっている。75年以降、トルコ系は独自の大統領と立法機関(一院制で定員50名)、司法機関をもっている。

軍事面では、ギリシャ系、トルコ系双方にそれぞれギリシャ、トルコに支援された独自の軍があり、1997年の兵力は、ギリシャ系が1万人、トルコ系が4000人である。64年以来、住民対立の内乱への発展をふせぐために国連キプロス平和維持軍が派遣されており、96年には1147人が駐留。そのほかギリシャ系地区にはギリシャ軍とイギリス軍が、トルコ系地区にはトルコ軍が駐留している。

VII 歴史

キプロスには新石器時代、青銅器時代に、すでにすぐれた文明があったと考えられている。前1450年ごろ、エジプトのトトメス3世に征服され、以後、東地中海交易の中心地としてさかえた。前1400年ごろからギリシャのアルカディア人との交易がはじまり、前800年ごろになるとフェニキアが島への植民をはじめた。

前8世紀にアッシリアに征服され、その後、エジプト、ペルシャ、アレクサンドロス大王、ローマと、その時代の強国の支配下におかれる。ローマが東西に分裂したのちはビザンティン帝国に属していたが、第3次十字軍時代の1191年にイングランドのリチャード1世に占領されテンプル騎士団に贈与された。その後、エルサレム王ギ・ド・リュジニャンの属領となり、数世紀をへた。このころにたてられた大きな砦(とりで)や城が、今でものこっている。

1489年からベネツィアが、1571年からオスマン帝国が領有した。このころ、トルコ人イスラム教徒が数多くキプロスに移住している。1878年露土戦争にやぶれたオスマン帝国は、ロシアのさらなる勢力拡大をおそれてイギリスにキプロスの統治権をあたえた。

1 イギリス統治

1878年6月にむすばれた協定によると、名目上はオスマン帝国が領有するものの、イギリスがキプロスを租借し、統治をおこなうというものだった。79年にイギリスが行政府を開くと、ギリシャ正教会の大主教とギリシャ系住民はキプロスのギリシャ王国への併合を請願したが、拒否された。第1次世界大戦に、オスマン帝国が同盟国側として参戦したため、イギリスは78年の協定を破棄し、1914年11月にキプロスを併合する。25年にローザンヌ条約(1923)により、キプロスはイギリスの直轄植民地となった。

2 エノシス運動

1948年になると主教マカリオスは、共産主義の影響をしりぞけながら、ギリシャ正教会の権威を回復するため、キプロスのギリシャへの帰属をもとめるエノシス運動を展開しはじめた。キプロスは戦略的に重要な位置にあるため、どのような譲歩もありえないとしたイギリスの態度は、反英テロをひきおこしていく。一方、トルコはキプロスのトルコ系住民の反エノシス運動を支援するとともに、もしイギリスが手をひくなら、キプロスはトルコに返還されるべきだと主張した。

1955年には、反英テロがさらに激化した。56年初めにイギリス行政府がマカリオス大主教とキレニアの主教をセイシェルに追放すると、混乱はますます悪化し、非常事態が宣言された。

3 イギリスからの独立

1959年2月、イギリス、ギリシャ、トルコとキプロスの住民代表との間でキプロス独立に関するチューリヒ・ロンドン協定がむすばれた。同年3月1日にキプロスにもどってきた大主教マカリオスが、12月13日の選挙で大統領に選出され、トルコ系のキュチュクが副大統領にえらばれた。60年8月16日に正式に独立が宣言され、同年に国際連合に、翌年イギリス連邦に加盟した。

1963年にマカリオス大統領がトルコ系住民の権利を制限する憲法修正を実施したことから、ギリシャ系住民とトルコ系住民の間で衝突がおこった。トルコ系住民はトルコに軍事支援をもとめるとともに、国の分割を要求。島全土にくり広げられた内紛はイギリス軍によって制圧された。64年5月には国連キプロス平和維持軍が派遣され、両系住民の間に緩衝地帯をもうけて治安維持にあたった。

国連の停戦呼びかけに応じて、1964年8月10日に内戦はおわったものの、ギリシャ系・トルコ系双方に不満がのこった。マカリオスは68年と73年に大統領に再選されたが、74年7月15日、エノシスを推進しないことに業をにやした軍人のクーデタで追放されると、ふたたび国内の緊張が高まった。トルコは軍事介入を断行し、8月末には、島の北約3分の1を支配下においた。12月にマカリオスはニコシアにもどり、大統領に復帰した。

1975年2月13日、トルコ軍が占領した北部地区でキプロス・トルコ連邦国が宣言され、初代大統領にデンクタシュが就任した。83年11月には北キプロス・トルコ共和国の樹立が宣言された。国連の仲介のもと、75年4月以来、この連邦国の問題について話し合いがもたれているが、依然両派の衝突がつづき、現在にいたるまで成果はあがっていない。

1991年に国連は、政治的に平等な2つの共同体で構成される連邦国家をめざす和平案をしめした。94年にEU(ヨーロッパ連合)は、北キプロスとの直接貿易を禁止した。一方、EUへの加盟は、97年12月のEU首脳会議で、ギリシャ系のキプロス共和国が拡大EUへの加盟対象国の第1陣とされ、98年3月から新規加盟交渉が開始された。EU加盟がギリシャ系だけだったことで、EUと北キプロスとの関係は悪化し、3月末に北キプロスはトルコと連合評議会を開き、トルコとの部分的統合の手続きなどを協議することになった。

1997年、政府はロシア製地対空ミサイルS300の配備計画を発表した。トルコ領が射程距離にはいるためトルコ政府が反発し、基地への武力行使を警告した。99年4月、ミサイルはクレタ島に配備され緊張はおさまった。98年2月、大統領選挙がおこなわれ、前回93年2月の大統領選挙で南北キプロスの連邦制という国連案に反対して当選した民主運動党党首のグラフコス・クレリデスが再選された。