経済史講義メモ
二重革命の時代−市民革命と産業革命−
No.18 File kogikeizaishi16-2
最終更新日:2002年7月16日(火)
ホブズボーム『市民革命と産業革命』岩波書店、1989年
(http://opac.yokohama-cu.ac.jp/cgi-bin/opac/cal950.type?data=363875_1_1)
同『産業と帝国』
(http://opac.yokohama-cu.ac.jp/cgi-bin/opac/cal950.type?data=363895_1_1)
マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』岩波文庫、他。
(http://opac.yokohama-cu.ac.jp/cgi-bin/opac/cal950.type?data=363900_1_1)
(http://opac.yokohama-cu.ac.jp/cgi-bin/opac/cal950.type?data=363901_1_1)
松井道昭『フランス第二帝政下のパリ都市改造』日本経済評論社、1997年
(http://opac.yokohama-cu.ac.jp/cgi-bin/opac/cal950.type?data=363882_1_1)。
マルクスは上記の論文(著書・1852年)でルイ・ナポレオンによるクーデターとフランス第二帝政の成立過程を解明。
彼による本書の特徴づけ・・・ヴィクトル・ユゴーとプルードンの著作と対比して、彼の方法の独自性、エッセンスを簡明に説明。
「私の本とほとんど同時にでて同じ対象をあつかったもののうち注目にあたいするのは、つぎの二つだけである。ヴィクトル・ユゴーの『小ナポレオン』とプルードンの『クーデタ』である。
ヴィクトル・ユゴーは、クーデターの責任発行人に対し痛烈にして才気あふるる悪口をあびせかけるにとどまっている。彼にあっては、事件そのものは青天の霹靂(へきれき)であった。彼はこの事件の中に一個人の暴行しかみない。彼は、この男が個人的暴力をつかって世界史上その例を見ないような先制攻撃をやったことにして、この個人を小さくするかわりにかえって大きくしていることに気がつかない。プルードンの方は、クーデターを、それに先立つ歴史的発展の結果として示そうとつとめている。しかし彼にあっては、暗黙のうちに、このクーデターの歴史的構造がクーデターの英雄の歴史的弁護にかえられてしまう。こうして彼はわが国のいわゆる客観的歴史家のあやまりに陥っている。ところがこれに反して、私は平凡奇怪な一人物をして英雄の役割を演ずることをえせしめた情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったかということを示す」と[1]。
この本の第三版(1885年・・すなわち初版の33年後)の序文で、エンゲルスはつぎのように特徴付ける。
「政治世界を青天の霹靂のようの驚かせた事件、ある者は声高く道徳的憤激の叫びを上げてこれを断罪し、また、ある者は革命からの救いとして、革命のおこした混乱にたいする罰として受け入れたが、みんながただ呆然と見送るのみで理解した者のなかった事件、この事件のすぐあとで、みじかい、寸鉄人を刺す叙述をもって登場したのが、マルクスであった。彼は二月事変以来のフランス史の全進行をその内的連関において展開し、12月2日の奇蹟は、奇蹟でもなんでもなく、この連関の自然な必然的な結果に過ぎないことを明かにした」と[2]。
「理解」とは、諸事実の「内的連関」を把握すること!
革命的激変、反動の勝利、クーデタの勝利に関しても、ダイナミックな対立抗争の全局を理解しようとすること・・・方法的要請・方法的基準=科学的合理的弁証法の見地
エンゲルスによれば、マルクスは「歴史の運動の大法則をはじめて発見した」[3]。
「この法則によれば、あらゆる歴史上の闘争は、たとえ政治上のであれ、宗教上哲学上であれ、あるいはその他のイデオロギー上であれ、いずれの領域でおころうとも、実際は社会諸階級の闘争の多少ともはっきりした現われにすぎない。そしてさらにこれらの諸階級の存在、したがってまた諸階級の衝突がどのようなものになるかを決めるのは諸階級の経済状態の発展程度であり、諸階級の生産の様式およびこれに制約された交換の様式なのである」と[4]。
はたして、たくさんの政治上の闘いや、宗教や哲学や芸術などを巡る争いの背後に、このようなことはあるか、検証できるか?
その妥当性は個々の事件、個々の世界史的事件などに即し、別に実証的に検証の必要があるが、つぎのような冒頭の叙述は、幾多の事例で証明されるように思われる。
「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとでではなく、すぐ目の前にある、与えられ、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものをつくりだそうとしているかにみえるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊どもを呼びいだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史の新しい場面を演じようとするのである。かくてルッターは使途パウロに仮装し、1789年から1814年までの革命はローマ共和国とローマ帝国の衣装をつぎつぎに身にまと」った、と[5]。
フランス大革命(封建制・絶対王政の政治諸制度の打破)からナポレオンの時代をみると、
「カミューユ・デムーラン[6]、ダントン、ロベスピエール、サン・ジュスト[7]、ナポレオン、これら昔のフランス革命の英雄たちおよび党派や大衆は、ローマ風の衣装とローマ風の文句で彼らの時代の任務たる近代ブルジョア社会の解放と建設をなしとげた。はじめの4人の英雄たちは、封建的な地盤をうちくだき、その上に生えていた封建的な頭を刈り取った。
あとの英雄(ナポレオン)は、フランスの中では新しい諸条件をつくりだして、自由競争の発展、分けどった土地所有の利用、国民のときはなたれた工業生産力の使用などをはじめて可能にし、さらに国境の外に出ては、フランスのブルジョア社会にとって適当な、時勢に合った環境をヨーロッパ大陸につくるに必要なかぎり、いたるところで封建的な制度文物をはきすてた。[8]」
まさにここには、市民革命(この場合はフランス革命)とその後の経済的発展の相互関係、そこでの政治・軍事の役割が簡明に説明されている。
1848年フランス2月革命では、全体の歴史的情勢からすれば時期尚早な、漠然とした「社会共和国」のスローガンが出された。そこには、「労働者の生活の向上」、「労働の権利」、「労働の組織」といった漠然とした労働者の要求が含まれていた。
しかし、パリの労働者スローガンは、フランス全土で支配的な経済状態(小農民大国と先進的大工業の急激な浸透状況)、ブルジョアの側からすれば、「出すぎた要求」であり、農民や小市民の反感を買うものであった。
「パリのプロレタリアートが自分の前に開かれた偉大な展望にまだうっとりみとれ、社会問題に関する大真面目な討議[9]にふけっていたあいだに、すでに結集し気を落ち着け、正気にかえっていた社会の古い勢力は、国民の大多数のあいだに思いがけない支持を見出した、つまり、7月王政の柵が倒れたあと政治の舞台に突然なだれを打って登場してきた農民と小市民[10]のあいだにである。[11]」
「ブルジョアジーは、重税に苦しむ農民に対しては、労働者の圧力で欺瞞的に設けた国営仕事場について、これを維持するため農民から税金を取りたてねばならないのだ、労働者は働きたがらぬのだ、と言いふらして農民の労働者に対する反感をあおりたて、また革命後の不況で破産しかかっている商店主、小工場主ら小ブルジョアに向かっては、デモ騒ぎや国営仕事場こそ彼らの貧窮の真の原因であるといって、彼らの憤懣をこれに集中させた。小ブルジョアは、『真底から怒りながら、怠け者のプロレタリアが食いつぶした金額を計算した』。こうした扇動は憲法議会の選挙の際にとくに激しく行われ、このため国民の大多数を占める農民と小ブルジョアはブルジョアを支持した。選挙の結果、ブルジョア共和派および王党派が議席900名中の800名をしめ、『社会共和国』支持派者は100名に満たなかった。[12]」
「1848年5月4日に召集された憲法制定国民議会は、国民の選挙によって成立したものであり、国民を代表していた。それは2月事件の出すぎた要求に対する生ける抗議であり、革命の成果をブルジョア的な尺度にまで引き戻すべきものであった。この国民議会の性格を直ちに見て取ったパリのプロレタリアートは、議会召集後幾日もたたぬ5月15日、議会の存在を力ずくで否認し、議会を解体して国民の反動精神の権化となって自分を脅かす議会という組織をもとの個々の構成要素に分解しようとむなしくも試みた。
[1] 伊藤新一・北條元一訳、岩波文庫、1964、第二版への序文、8ページ。
[2] 同、10ページ。
[3] しかし、本書の中には、本筋の説明に利用される洞察の中にも、きわめて示唆的なもの、印象的なものが多い。たとえば、受講生諸君はつぎの箇所を読んで、何か感じないであろうか。
「新しい外国語をおぼえた初心者はいつもその言葉を母国語に訳し戻す。しかし、彼が新しい言葉の精神をわがものとし、その言葉を自由に使いこなせるのは、やっと、彼が新しい言葉を母国語にかえることなしにあやつり、しかも、つかっているときには生まれついた言葉を忘れるようになってからなのである」と。同、18ページ。
[4] マルクス『ブリュメール18日』岩波文庫、11-12ページ。
[5] 同、17-18ページ。
[6] 1760-94.ジャコバン党の指導者の一人。ジャコバン独裁の時期に、反革命に対する緩和策を主張してダントンとともに断頭台にかけられた。同、170ページ。
[7] 1767-94.ジャコバン党の指導者でロベスピエールの片腕。1794年7月24日の熱月の反動の翌日、ロベスピエールとともに処刑された。同。
[8] 同、18ページ。
[9] 2月革命によって成立した臨時政府は、「労働者に対する譲歩から、『労働権』の実現のための称してなんら実験のない『労働問題政府調査委員会』(いわゆるリュクサンブール委員会)をもうけた。委員会には議長ルイ・ブランのもとにパリの職人・労働者が集まり、社会問題に関する大真面目な討議に耽った。委員会はなんら実権がなく、金も事務員すらもなく、したがって何事もなしえず、ただ、闘争なしに問題が解決されるという極度に有害な幻想を労働者に与えただけであった。」同、178ページ、注。
[10] 7月王政の下で制限選挙のため政治の圏外にあった農民と小市民が2月革命の成果としての普通選挙権の実施によって、突然大挙して政治の舞台に登場した。同、178ページ。
[11] 同、26ページ。
[12] 同、178−179ページ。