経済史A講義メモ

歴史を見る方法、基本的スタンス

―科学的弁証法―

   No.4 File kogikeizaishi057

                               最終更新日:2003922()

 

 

はじめに

 

科学における方法の重要性

 

近代科学、とりわけ19世紀以降、飛躍的に発達した自然科学を中心とする科学の方法・・・理論と実証の相互検証、分析と総合相互作用

 

近代科学は無知蒙昧と闘い、それまでの研究史の到達点を批判し、飛躍的に発展してきた。

 

科学が闘いのたびごとに勝利するには、それなりの方法が確立されなければならなかった。

 

 シンプルな形では、実証的自然科学の例: 

 

19世紀生命科学も闘いの歴史であった。

 

たとえば、生物学における大きな原理を発見したパスツールは、「論敵をつぎつぎと撃破していった。パスツールの多くのすばらしい研究は論争のなかから産み出されていった・・・」この過程で、「パスツールは論敵を破るための論文の書き方をいわば発明した・・・。現代の科学論文は、序、方法、結果、討論という形式をとる。その最初にタイトルと要約をつけ、最後に参考文献を加えれば、論文として完成する。この論文形式は、パスツール以降一般化したのである。この形式のポイントは、実験を完全に再現できるように詳細な実験の方法を書き込むことである。そうすることにより、論敵も同じ実験をおこなえば、同じ結果を再現することになり、議論の余地がなくなる。もちろん同じ実験をできるような人が論文を査読することで、客観性を保つことができ、これが現代のジャーナル(もちろん科学の学術雑誌の意味…引用者注)におけるもっとも重要な要件となっている・・・・[1]

 

諸科学において、専門研究者によって構成される学界としての努力がなされている。

諸科学の発展は、学界のたくさんの研究者の社会的分業と協業に依拠している。

 

現代の人文社会科学も、そしてそれを学ぶ受講生のみなさんも、このような方法の自覚的練磨が必要。

人文社会科学も自然科学と研究方法、論文形式の基本的要件がちがうわけではない。すなわち、

 

        「参考文献」は、人文社会科学でも学界の到達点、最新の知見を確認するため(確認したことを示すため)に不可欠。

        歴史科学の場合、「実験の完全な再現」にあたるものは、依拠した史料の明示、その出所の明示、その公開性、他の研究者による検証可能性の保証。・・・「同じ史料を見れば、同じ事実関係・事実関連・同じ論理連関が解明できる」との歴史科学的主張、主張の科学性[2]

        「査読」は、人文社会科学の場合の学術雑誌もまったく同じ。論文の検証は、それを具体的に行いうる専門家によってなされる[3]

 

 

 弁証法・・・「弁証法は事物とその概念による模写とを、本質的に、それらの連関、連鎖、運動、生成と消滅においてとらえる。・・・自然は弁証法の試金石である。そして、近代の自然科学はこの吟味のためにきわめて豊富な、日々に積み重ねられてゆく材料を提供し、そしてそのことによって、自然ではけっきょくすべてが形而上学的にではなく弁証法的に行われているということ、自然は永遠に一様な、たえず繰りかえされる循環運動をしているのではなくて、本当に歴史を経過しているのだということを証明した。・・・この点ではだれよりもダーウィンの名をあげなければならない。彼は、今日の生物界の全体が、植物も動物も、したがってまた人間も、幾百万年にわたって行われた発展過程の産物であるということを証明することによって、形而上学的自然観に最も強力な打撃を与えたのである。[4]

 

弁証法の見方(例示)・・・「どの生物体も、各瞬間に同一のものであってまた同一のものではない。それは各瞬間に、外から供給された物質を消化して、他の物質を排泄する.各瞬間に、その身体の細胞が死滅して、新しい細胞が形成される.おそかれはやかれ、ある時間ののちには、この身体の物質はまったく更新されて、他の物質原子によって置きかえられる。だkら、どの生物体も、つねに同一のものであって、しかも別のものなのである。さらにいっそう詳しく考察すると、肯定と否定というような対立の両極は、対立していると同時に互いに分離することのできないものであり、まったく対立しているにもかかわらず、相互に浸透しあっているということがわかる。同様に、原因結果とは、これを個々の場合に適用するときにだけそのままあてはまる観念であって、個々の場合を世界全体としての全般的連関のなかで考察するやいなや、両者は重なり合い、普遍的交互作用の観念に解消してしまうのであって、そこでは原因と結果とはたえずその位置を取り替え、いま、またはここでは結果であったものが、あちら、また後では原因になり、またその逆にもなるということがわかるのである。[5]

 

1.歴史進化の視点−歴史認識の科学性− 

 

宇宙と地球上で起きているすべての事が示している現実、それらを認識したすべての自然諸科学(宇宙物理学、地質学、物理学、化学、生物学、遺伝学など)と歴史諸科学が明らかにしている(また日々明らかにしている)深遠にして膨大な真理と法則の数々が示していること・・・すべてが歴史の過程にあること、エンゲルスの言う「低いもの、単純なもの」から「高いもの、複雑なもの」への無限の上昇の不断の過程、そして、すべては生成と消滅の不断の過程にあること。

 

たとえば生物を例にとって、最近の啓蒙書によれば、

 

「地球が生まれ、海ができ、海水中でさまざまな化学反応が試されて,環境と独立した反応性を維持する生命が生まれました。生命は環境と相互作用しながら、単細胞から多細胞へ、そして手足を持つ生物へと進化してきました。その過程は、分子の連なりがある規則のもとで大きくなり、ある特殊な反応性を獲得して、複雑な機能を果たすようになったのです。このような生物の誕生から現在の形態までの進化の過程は、単純から複雑へ(「普遍から特殊へ」)の典型といえるでしょう」[6]

 

これは、現代までの科学(それを担ってきた人類)が明かにした宇宙の創成とその後の今日までの宇宙史を貫く法則性である。

 

星雲、銀河、太陽系の生成・発展・消滅[7]、地球の生成・発展・消滅、人類の生成・発展・消滅・・・・これらを構成する物質の他の形態への転化、星雲形成、新たな銀河の形成など。

 

 

2.歴史と弁証法

 

()ヘーゲル弁証法:

最初にこういった宇宙の普遍的運動原理総合的に(百科全書的に)明らかにしたのがヘーゲル(ヘーゲル体系は、遠くはギリシャ哲学、そして近くはカント以来のドイツ哲学の総括。カントは、ニュートンやヒュームなどイギリスをはじめとする科学や哲学を総括。長い間に人類が発見し蓄積した叡智の歴史の総括)

 

ヘーゲル哲学の真の意義と革命的性格とは、この哲学が人間の思考と行為のすべての結果の究極性(Endgültigkeit)にたいし一挙にとどめをさしたという、まさにこの点にある。・・・真理はいまや認識の過程そのものの中に、学問・科学の長い歴史的発展の中にあった。・・・認識とおなじように、歴史もまた人類のある完全な理想状態に到達して完結するということはない。完全な社会とか完全な「国家」とかいうのは、ただ想像のなかでした存在できないものである。反対に、つぎつぎにつづいて現れてくる歴史的状態は、すべて低いものから高いものへと進んでいく人類社会の限りない発展の道程における一時的段階にすぎない。

どの段階も必然的である。つまり、それを生じさせた時代と諸条件とに対して正当である。しかし、どの段階も、それ自身の胎内でしだいに発展してくる新しいいっそう高い諸条件を向こうにまわすと、もろいものになり、正当でないものとなる。それはもっと高い段階に席を譲らなければならなくなる。そして、このいっそう高い段階自身にもまた衰微し滅亡する順番がまわってくる。[8]

 

 「ヘーゲルの思考方法がほかのすべての哲学者たちのそれにぬきんでていた点は、その基礎にある巨大な歴史的意識であった。その形式はひどく抽象的で観念的だが、彼の思考の展開はつねに世界史の発展と平行して進んでおり、そして後者はただ前者の検証にすぎないものとされている。たとえ正しい関係がこのことによってねじまげられ、逆立ちさせられたにしても、やはりいたるところで現実的な内容が哲学に入りこんできた。ヘーゲルは彼の弟子たちと違って、彼らのように無知を鼻にかけるのではなく、あらゆる時代を通じてもっとも博識な頭脳の一人であったから、いっそうそうであった。彼は歴史のうちに発展を、内的連関を示そうとした最初の人であった。彼の歴史哲学のうちの多くのことが今日われわれにどんなに奇妙に思われようと、彼の根本的見解の壮大さは、彼の先行者や、また彼以後に身のほどを知らずに歴史について一般的考察をした人びとと比べてみると、今日なお驚嘆に値する。『現象学』においても、『美学』においても、『哲学史』においても、いたるところこの壮大な歴史観が貫かれており、いたるところで素材が歴史的に、すなわち抽象的にゆがめられてはいるが、歴史との一定の連関のうちに、取り扱われている。

 このような画期的な歴史観は、新しい唯物論的見解の直接の理論的前提であった。[9]

 

 この講義では、ヘーゲルやマルクス、エンゲルスが依拠した19世紀的諸科学の段階をはるかに超えた20世紀諸科学の総体の発展と内的連関をふまえた科学的な弁証法を構築すべきであるとの見地に立ち、その見地で歴史を見るべきことを方法的要請としている[10]

 

 

弁証法とは、また自然と人間の総体の運動をとらえようとする方法ともいうべきものである。

   「最古のギリシャ人から今日にいたるまで、いわゆる矛盾の弁証法が哲学で演じてきた重要な役割」・・・「われわれが事物を静止した、生命のないものとして、個々別々に、相並び相前後するものとして考察するあいだは、たしかにそれらの事物においてどんな矛盾にもぶつからない。Solange wir die Dinge als ruhende und leblose, jedes für sich, neben- und nacheinander, betrachten, stoßen wir allerdings auf keine Widesprüche an ihnen.・・・しかし、われわれが事物をその運動、変化、生命、交互作用において考察するやいなや、事情はまったく違ったものになる。Aber ganz anders, sobald wir die Dinge in ihrer Bewegung, ihrer Veränderung, ihrem Leben, in ihrer wechselseitigen Einwirkung aufeinander betrachten. その場合には、われわれはたちまち矛盾におちいる。Da geraten wir sofort in Widersprüche. 運動そのものが一つの矛盾である。Die Beweung selbst ist einWidersprüche. すでに単純な力学的な場所の移動でさえ、一つの物体が同一の瞬間に一つの場所にありながら同時に別の場所にあるということ、同一の場所にあるとともにそこにはないということによって、はじめてこれを行うことができるのである。Sogar schon die einfache mechanische Ortsbewegung kann sich nur dadurch vollziehen, daß ein Körper in einem und demselben Zeitmoment an einem Ort und zugleich an einem andern Ort, an einem und demselben Ort und nicht an ihm ist.そして、こういう矛盾をたえず定立しながら同時に解決していくことが、すなわち運動なのである。[11]」 

「すでに単純な力学的な場所の移動ですらが矛盾をふくむとすれば、物質のもっと高度の運動諸形態はなおさらのことであり、有機的生命とその進化にいたってはいよいよそうである。生命は、なによりもまず、ある生物が各瞬間に同一のものでありながら、しかも他のものであるという、まさにその点にある・・・だから、生命もまた、事物や過程そのもののなかに存在し、たえず自己を定立しまた解決してゆく一つの矛盾である。そして、この矛盾がやむやいなや、生命もやみ、死がやってくる。[12]

 

「数学そのものは、変量を取り扱うようになるとともに、弁証法の分野に足を踏み入れる。そして、この進歩を数学に導き入れた人が弁証法的哲学者デカルトであることは、注目に値する。変量の数学の不変量の数学にたいする関係は、一般に、弁証法的思考の形而上学的思考に対する関係と同じである。だが、そんなことにはいっこうに頓着なく、大多数の数学者は、弁証法を数学の分野でしか認めておらず、また弁証法的な仕方で獲得された方法をいまなお昔ながらの制限された、形而上学的な仕方で運用している者が、数学者の中で多数を占めるありさまである。[13]

 

「形式論理学にしても、なによりもまず、新しい成果を見いだすための、既知のものから未知のものへと前進するための方法であるのだが、弁証法もまた同じであり、ただはるかに高い意味でそうなのである。そのうえ、弁証法は、形式論理学の狭い視野を突破するものなので、一つのいっそう包括的な世界観の萌芽を含んでいる。数学においてもこれと同じ関係がある。初等数学、すなわち不変量の数学は、すくなくとも大体において、形式論理額の枠内で動いている。微積分学をその最も重要な部分とする変量の数学は、本質上、数学的諸関係に弁証法を適用したものにほかならない。ここでは、この方法を新しい研究諸分野にさまざまな仕方で適用することにくらべて、たんなる証明はまったく従になっている。しかし、微分学における第1番目の証明をはじめとして、高等数学のほとんどすべての証明は、初等数学の立場からすれば厳密にいうと誤りである。この場合のように、弁証法の分野でえられた結果を形式論理学を用いて証明しようとすれば、そうなるよりほかはないのである。[14]

 

 

発展の法則の内実・・・「否定の否定」・・自然と歴史のなかで無意識的に行われてきた法則、われわれの頭の中でも無意識的に行われてきたこと・・・ヘーゲルがはじめて明確に定式化・・・「どういう事物についても、そこから発展が生まれてくるような、それ独特の否定の仕方がある」[15]、「弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学という以上のものではない。」[16]

 

「どんな子どもにでもわかるもの」[17]無数の事例から、

@        植物の種の事例・・・「否定の否定としての発展」・・・「大麦の粒をとってみよう。幾兆のこういう大麦粒は、引き砕かれ、煮炊きされ、醸され、それから食われる。だが、もし子の追うな大麦の一粒が、それにとって正常な条件に出会えば、つまり好適な地面に落ちれば、熱と湿気との影響を受けて特有の変化がそれに起こる、つまり発芽する。麦粒はそれとして消滅し、否定され、それに代わって、その麦粒から生じた植物、麦粒の否定が現われる。だが、この植物の正常な生涯とはどういうものか? それは生長し、花をひらき、受精し、最後にふたたび大麦粒を生じる。そして、その大麦粒が熟するというと、たちまち茎は死滅し、今度はそれが否定される。こういう否定の否定の結果として、ふたたびはじめの大麦粒が得られるが、しかし、一粒ではなくて、一〇倍、二十倍、三十倍の数で得られる。[18]」・・・人間は栽培改良でこのプロセスをさらに意識的自覚的に発展させる。

A        昆虫の事例・・・・「大部分の昆虫、たとえば蝶でも、この過程は大麦粒の場合と同じように行われる。蝶は、卵から、卵の否定によって生まれ、そのいろいろな変態を経過して性的成熟に達し、交尾し、そして交尾過程が完了し、雌が多くの卵を生むとすぐに死ぬことによって、ふたたび否定される。[19]

B        地質学・・・地球の発展史

C        数学・・・微積分

D        歴史・・・「すべての文化民族は土地の共同所有から出発している。一定の原始段階を抜けだしたあらゆる民族において、農耕が発展してゆく過程で、子の共同所有は生産に対する桎梏となる。それは廃止され、否定され、長短さまざまな中間段階を経て私的所有に転化される。しかし、土地の私的所有そのものによって農耕のより高度の発展段階がもたらされると、そこでは逆に私的所有が生産に対する桎梏となる。−これこそ、小土地所有と大土地所有とを問わず、今日見られるところの状態である。この私的土地所有をもやはり否定して、ふたたび共有財産に転化しようとする要求が、必然的に現われてくる。だが、この要求は、昔の原始的な共同所有の再興を意味するものではなく、はるかに高度の、より発展した共同所有の形態を打ち立てることを意味するのであって、この形態は生産の障害になるどころか、むしろ初めて生産を桎梏から解きはなして、近代の化学的発見や機械的発明を生産に十分に利用できるようにするのである。[20]

E        哲学・・・「古代哲学は原始的な、自然生的な唯物論であった。そういうものとしてこの哲学は、思考の物質に対する関係をはっきりさせることができなかった。ところで、この点を明らかにする必要が、肉体から分離できる霊魂についての学説を生み、ついでこの霊魂の不滅の主張を、最後に一神信仰を生みだした。こうして、古い唯物論は観念論によって否定された。しかし、さらに哲学が発展していくにつれて、観念論もまた維持できなくなって、近代唯物論によって否定された。否定の否定であるこの近代唯物論は、たんに古い唯物論の復活ではなく、古い唯物論の永続的な基礎の上に、なお2000年に渡る哲学および自然科学の発展と、さらに2000年間の歴史そのものとの思想内容をつけくわえたものである。それはもはや哲学ではまったくなく、たんなる世界観であり、そして、この世界観は、なにか特別の科学中の科学においてではなく、現実の諸科学において、みずからを確証し、実証しなければならないのである。こうして、哲学はここでは「揚棄」(アウフヘーベン)されている。すなわち、「克服されたと同時に保存され」ている。その形式からいえば克服され、その現実の内容から言えば保存されている。[21]

F        社会制度、人間不平等・・・ルソーの平等論・・・諸部族・諸豪族の争い→「自由を守るため」の君主制の誕生→君主制が人民の抑圧者に転化→不平等の極限=専制君主の前での万人の平等=万人が平等にゼロ→革命→社会契約に基づく高度の平等の実現

 

否定の否定とはなにか。それは、自然、歴史および思考のきわめて一般的な、まさにそれゆえにまたきわめて広く作用している重要な発展法則である。[22]

 

 

 

()ヘーゲルの諸哲学(今日的には諸科学)全体の総括の前提:

 

宇宙史・地球史・人類史の総括…諸科学全体の総括の見地…方法的見地

 

人類の哲学史・科学史の総括

 

現在いたるまでの世界的人間・世界的知性・世界的理性の相互交流

(その基礎に世界的な交流=世界市場の拡大深化、世界的結びつきの進化、それをになう人類ひとりひとりの活動、インターネットが切り開く世界的交流=世界史上、前代未聞の状況、人類の進化)

 

cf.20003月、文部省科学研究費でドイツに行った際に、ゲーテのフランクフルトの生家を調査した。ゲーテの蔵書リストを調べるとカントの本、ヘーゲルの本があった。カントの本はゲーテが購入したものであり、ヘーゲルの本はヘーゲルがゲーテに献呈したものだった。

 

 エンゲルスによるゲーテ評価(「天才的予感」の評価)・・・18世紀後半−19世紀はじめに、「地質学、発生学、動植物生理学、有機化学ができあがり、こうした新しい科学を基礎としていたるところに後日の進化論の天才的な予感(たとえばゲーテとラマルク)があらわれていた。[23]

 

今日までの自然諸科学が明らかにした地球史を前提として、

認識における個人と人類の発達史

生命・成長における個人と人類(個体発生と系統発生、遺伝子研究、分子生物学、その他)

  同様に、

歴史的現実的人間が作る生産諸力・技術的進歩[24]、それに対応する社会諸形態の生成・発展・没落、

そして新しい社会形態の生成・発展へ(一つの社会形態の没落=別の社会形態の生成と発展)の連鎖

 

ヘーゲルの発見・体系化=弁証法

その弁証法における基本概念の一つ・・・Aufheben(アウフヘーベン、日本語訳としては、揚棄、ないし止揚[25]

 

 ヘーゲル自身によるアウフヘーベンの解説を見ておこう。

『小論理学』96節補遺・・・「アウフヘーベンといえば、われわれドイツ人は一方、片付ける、否定することだと解し、したがって、たとえば一つの法律、制度などがアウフヘーベン(廃止、廃棄)されると言う。だが他方、それだけではなくて、アウフヘーベンは保存することをも意味し、この意味でわれわれは、あるものがよくアウフヘーベン(保存)されていると言ういい方をする。同一の語に否定的な意義と肯定的な意義があることになるこうした言語慣習上の二重の意味は、偶然的と見なされてはならず、なおまた混乱のきっかけとなるとしてドイツ語が非難されてもならない。かえってこの二重の意味がある点にこそ、たんに悟性的な『あれでなければこれ』という考えを越えて出るドイツ語の思弁的な精神を認めるべきなである」と[26]

 

 普通の認識のし方、悟性的な思考は、「あれかこれか」の単純な二分法に陥りがちである。

 だが対立関係は発展的に理性的にアウフヘーベンされる(揚棄され、止揚される)べきものであり、現実の史的発展にはそのような法則が、幾多の悲劇と暴力を伴いながらも、大局的に貫徹している。

ヘーゲルは発展の基本法則を思考によって(すなわち哲学によって)、発見し定式化した(概念的に理性的に把握した)のである。

 

猿人の段階から現代の人類まで、最近の研究が明らかにしているように約500万年の歴史があるとすれば、その中間段階にはどのような諸形態があるか? (たくさんの科学・科学者が歴史の総体的発展史の中で今だ見つけられていない無数の中間段階・中間項・ミッシングリンクについて事実発見を行い、事実相互の前後関係を確定する問題ととりくみ、その解明に力を注いでいる。日々新たな発見が新聞などで報道されている。科学の研究、歴史研究は、個々の事象をまさにこの現在の時点の宇宙と社会の総体の到達点を宇宙史のなかで位置づけることに意味があるい。)

 

 

(3)ダーウィン進化論 ・・・19世紀の科学と産業の達成点

「軍艦ビーグル号に博物学者として乗船し航海しているあいだに、南アフリカの生物の分布やまたこの大陸の現在の生物と過去の生物との地質学的関係に見られる諸事実によって、つよく心をうたれた(『自然選択の方途による種の起源』上、中、下、岩波文庫、引用箇所は、上、9ページ)

 

「ダーウィンは、彼の研究旅行から、植物や動物の種は不変ではなくて変化していくものだ、という見解を得て帰国した。彼がこの見解を本国でさらに追究していくためには、動植物の育種の分野にまさるものはなかった。まさにこの方面でイギリスは古典的な国なのである。他の国々、たとえばドイツの業績は、イギリスがこの方面でなしどけたことにくらべて、とうてい肩をならべることのできるものではない。そのうえ、大部分の成果が最近100年間にえられたものなので、事実を確かめるのにほとんど何の困難もないのである。

 ところでダーウィンが見いだしたのは、この育種によって、同一種の動植物に人為的に差異が生み出され、しかもその差異は、一般に異種と認められている諸種の間に見られるこのよりも大きいということであった。

 こうして、一方では、種の可変性がある程度まで証明され、他方では、たがいに種特性を異にするさまざまな生物が共通の祖先を持っている可能性が証明されたのである。

 そこでダーウィンは、自然のうちにも―育種者の意識的な意図はなくとも−長いあいだには人為的な育種によるのと同様な変異を生物に引きおこさずにおかないような原因がありはしないか、それを研究した。彼はこの原因を、自然によってつくりだされる胚の数が莫大なのに、現実に成熟に達する生物の数がわずかだという、この不釣合いに見出した。ところが、あらゆる胚が発育をめざしてつとめるので、必然的に生存闘争が起こる。これは直接の肉体的な格闘や捕食として現われるばかりでなく、また空間や光線の奪い合いの闘争となって、植物の間にさえ現われるのである。

 そしてこの闘争では、どんなにわずかでも何か生存闘争に有利な個体的特徴を持っている個体が、成熟に達し繁殖する見こみがいちばん多いことは、目に見えて明かである。したがって、こういう個体的特徴は遺伝する傾向があり、またそれが同一種のいくつかの個体に現われるときには、いったん取られた方向に遺伝が集積される結果、そういう個体的特徴が増進する傾向がある。その一方で、こういう特徴を持たない個体は、生存闘争に敗北しがちで、しだいに姿を消していく。こういう仕方で、自然選択(淘汰)をつうじ、適者の生存をつうじて、種は変化していくのである。[27]

 

「最近では(引用者注・・・本の出版は1877)、とくにヘッケルによって自然選択の観念が拡大され、種の変化は適応と遺伝との交互作用の結果として、把握されるようになっており、そのさい、適応はこの過程において変化をもたらす側面、遺伝はその保存する側面である、と説明されている。[28]

 

 人類が地球上の生物進化の過程で誕生してくる以前(人間が存在しない地域で)の自然界、生物の進化、

        「人間の選択」にたいする意味での「自然の選択」

         生物の「生存闘争」と「種の起源」

 

(4)経済学における進化学説

歴史的に経済システム・経済の仕組みが変化する厳然たる事実は、いくら否定しても否定のしようがない・・・最近のその厳然たる事実総体の学問(経済学)への反映。

近代経済学・新古典派経済学の支配的な大国アメリカにも、制度派経済学=進化論的経済学の潮流がある・・・ヴェブレンとその制度学派[29]

 日本にも最近、制度学派の潮流から「進化経済学会」が設立された。

進化経済学会ホームページ http://www.econ.kyoto-u.ac.jp/~evoeco/indexj.html

 

制度学派の考え方をもっとも包括的に表現したもの・・・アーロン・ゴードンの「現代経済学における制度的要素」(1963)

「すべての経済活動は、その経済主体が置かれている制度的諸条件によって規定される。と同時に、どのような経済行動が取られたかによって、制度的諸条件もまた変化する。この、制度的諸条件と経済行動との間に存在する相互関係は、進化のプロセスである。環境の変化にともなって人々の行動が変化し、行動の変化はまた、制度的環境の変化を誘発することになり、進化論的アプローチが必要となってくる。[30]」  

 

宇沢弘文・・・「経済学に対する進化論的アプローチは、心理学、社会学、法律学、文化人類学など関連分野における成果を効果的に利用」しようとする。「ここで、対象としている人間は、社会的、文化的存在であって、経済人(ホモ・エコノミクス)という概念をもってしては理解しえない[31]」・・・古典派や新古典派の「経済人」概念が経済・社会・歴史の理解の上でもっている狭さ、一面性に対する批判。

 

宇沢弘文・・・「進化論的立場に立つとき、人間のとらえかたは百八十度転換する。人間の本性は、行動をするということにある。たんに、外部的な力を受けて、喜びや苦しみを味わう、受動的な存在ではない。人間は、たんなる欲望の塊として、環境の影響を受けて、その力に翻弄されるに任せるという受動的な存在ではない。絶えず新しい展開を求めて、夢をもち、その夢を実現しようとする本源的な性向と歴史的に受け継いできた習慣とをもった、一個の有機体的存在である。・・・[32]

  

だが、制度学派=進化学的経済学は人類史を見通しているか?

 

宇沢氏が、「進化論的プロセスにおいて、支配的な役割を果たすのは、マシーン・プロセスにもとづく近代的技術と、資本主義的制度のもとにおける利潤追求動機である[33]」というとき、歴史の総体的認識の見地からすれば、その視野は狭すぎる[34]

 

 進化は諸科学の今日の到達点からすれば、ますます、宇宙史的、人類史的、地球史的スケールでとらえられなければならず、人間・人類の経済と社会の進化は、猿、猿人からの人類の生成、原始共産制や古代奴隷制や封建制の歴史、そして資本主義の生成・発展[35]・修正の今日的到達点までを見とおして、とらえなければならない・・・本講義での基本的立場(スタンスあるいは視野)

 

(5)20世紀物理学、素粒子物理学、宇宙物理学の成果を踏まえた歴史把握

 

ファインマン:

 「宇宙の歴史をとおして見ますと、むしろ人類のいなかった時期のほうがはるかに長く、現在ですら宇宙のほとんどが無人地帯です。そのような人間ぬきの宇宙がどんなものか、人智を超えた宇宙を深く考えてみるのはなんとも言えぬ壮大な冒険です。」

 「この宇宙の大きさを考えてみますと、この僕らが乗っかっているケシ粒みたいにちっぽけな地球は、太陽のまわりをグルグル回っているわけですが、その太陽はこの銀河系のなかにある何千億もの太陽のうちの一つにすぎず、おまけにこのような銀河系が、まだまだ何十億も散らばっているというのですから、まったく気の遠くなりそうなスケールです。

 さらにまた生物学的に言って、人間と動物または生きとし生けるものどうしのあいだに、非常に近い関係があることも考えなくてはなりますまい。人間は地球上に広がる進化の大きな舞台に、ずいぶん遅れて登場してきたわけです・・・・

 さらに不変の法則にしたがって万物を構成している原子はどうでしょう。この世に原子なしにできあがってものなどは、いっさいありません。つまり星も動物もまったく同じ材料からできるているわけですが、その同じ材料の非常に複雑な組み合わせによって、たとえば人間のように不思議にも生きているものがあるのです。[36]

 

 「複雑な組み合わせ」こそは、地球史が形成してきたものである。

 「複雑な組み合わせ」こそは、地球史の発展が作り出してきたものであり、歴史総体を担ったものである。

 地球史の発展の成果としての人間・人類は、「星や動物」と同じ材料からできているといっても、発展形態が違う。「同じ材料」に還元はできない

        還元的分析的思考の落とし穴に注意!! 

        歴史的で総合的な立体的動的な思考の重要性!!

 

 

原子も時間的・自然史的形成物である。・・・宇宙の歴史性を解明した現代宇宙論の地平

 現代物理学の到達点、すなわちのビッグバン宇宙論からすれば、原子も時間性・歴史性がある。

この点は前回の講義ノートでも触れたが、ファインマンのエッセイから引用しておくと、彼自身が1979年段階では、まだこのビッグバン理論、宇宙の歴史性には半信半疑という段階だったことがわかる。自然科学の長足の進歩に驚嘆せざるを得ない。

 

 「――宇宙論についてはいかがですか? 基本的定数は時間につれて変わっていくというディラックの提唱とか、ビッグバンの瞬間には、物理法則は現在とまったく異なっていたとかいうアイデアはどうでしょう?

 ファインマン  いやはやそいつはゴマンと疑問を生むぞ。いままでのところ物理学はその出所なんぞは考えずに、法則や定数を見つけようとしてきた。しかし、そろそろ、いやでも歴史を考えざるを得ないところまで、来ているのかも知れないな。[37]

 

 

 

本筋にかえろう。

 問題は、経済システムの歴史的な大局的な変化をどのように把握するかである。

 大局的な流れを見失って、細部と重箱の隅に目を奪われてしまうとすれば、それは不幸である。

 

細部、「偶然のできごとの研究は、必然的なものごとの研究なしにはありえず、また、必然的なものごとも、一定の規則性や統計上の蓋然性によって示されなければならない・・・このような見方をする場合にも、事件のもつ革新的な役割を否定することが問題なのではない。・・・・科学的な意味においての、最良の『事件』史の研究とは、・・・その事件のインパクトを測定するにあたって、くだんの事件を、前代からの、そしてなかんずく後代へ向けての、厳密なコンテクストの中に置きなおしてみること」というE・ル=ロワ=ラデュリの主張[38]は、そのかぎりで私の立場・方法とおなじである。

 

 

 

(6)経済的諸現象の歴史と人間のその他の生活分野の歴史との相互関係

 

ただし、細部が重要でないというのではない。「歴史の神は細部に宿る」という格言もある。「神」を真実と真理に置きかえれば、まさにそのとおりだろう。細部だけに目を奪われることが不幸だというのである。

フランシス・ベーコンは、「心の目をさまざまのものに向け、大きく見ひらくだけでなく、小さくすぼめることも同時にできない人は一つの大きな能力を欠いている[39]」という。細部と全体との相互関係を常に考える事が必要だ、その努力を怠ってはならないということである。

・・・・・この点、ホロコースト(第三帝国によるユダヤ人大量虐殺)のとらえ方をめぐる批判的検討を行ったものとして、資料として配布した『図書新聞』の私のインタヴュー記事を参照されたい。

 

 

法を見る目:

実定法という社会制度の一つに関するヘーゲルの洞察(モンテスキューの洞察の引用)も、この関連で紹介しておこう。

 「実定法における歴史的な要素に関しては、モンテスキューが真実の史的な見解、真に哲学的な立場を示している。それは総じて立法とそのもろもろの特殊的な規定を、孤立させて抽象的にではなくて、むしろ一つの総体の依存的な契機として、一つの国民と時代との性格をなしている他のすべての諸規定との連関において、考察するものである。この連関のなかでこそ、立法とそのもろもろの特殊的な規定はその真実の意義を得るとともに、またその正当化を得るのである」と[40]

 これは実定法を理解する方法を述べたものであるが、普遍的な弁証法的な史的見地がきわめて明確に示され、適用されている。 

 

モンテスキューは、法体系の人間生活の総体との有機的連関性を次のようにいう。

法律は、一般的には、それが地上のありとあらゆる人民を支配するかぎりにおいて、人間理性である。そして、各国民の国制の法律および公民の法律は、この人間理性の特殊な場合にすぎないということでなければならない。それらの法律は、その作られた目的たる人民に固有のものであるべきで、一国民の法律が他国民にも適合しうるというようなことは全くの偶然であるというほどでなければならない。

 それらの法律は、国制の法律のように政体を形成するものであるにせよ、あるいは、公民の法律のようにそれを維持するものであるにせよ、すでに確立されている、あるいは確立されようとしている政体の本性と原理とに関係しなければならない。

 それらの法律は、その国の自然的なるもの、すなわち、寒いとか、暑いとか、あるいは温かいとかの気候に、土地の室、位置、大きさに、農耕民族、狩猟民族、遊牧民族といった民族の生活様式に相関的でなければならない。それらの法律は、国制が容認しうる自由の程度に、住民の宗教に、その性向に、その富に、その数に、その商業に、その習俗に、その生活態度に関係していなければならない。最後に、それらの法律は、それら相互間において関係をもつ。それらは、その起源、立法者の目的、その確立の基礎たる事物の秩序とも関係をもつ。まさに、これらすべてを見渡して、それらの法律を考察しなければならないのである。」。「これらの関係がすべて一緒になって『法の精神』(esprit des loi)と呼ばれるものを形成する」と[41]

 

 

猿人の集団原始社会・・野蛮→未開→文明[42]、 文明の継起的諸段階→今日の人類の到達点・・・・この人類史・社会の発展史を貫く一般的運動法則は何か?・・・・これをこの講義ではみなさんと考えていきたい。

 

 

 

()自然の歴史と社会の歴史の相互連関性・相互関係と相違点

 

自然の発展史(宇宙と地球の発展史など)と違って、人類史、人間が猿人からわかれてますます人間になればなるほど、

「社会の歴史の場合には、行為している人々は,すべて意識をもち思慮や熱情をもって行動し、一定の目的をめざして努力している人間である。意識的な意図なしには,意欲された目標なしには、何事も起こらない。[43]

 

 自然の発展史と社会の発展史のこの本質的な差異は、歴史的研究にとって、とくに個々の時代と事件の歴史的研究にとっては、きわめて重要。

 

 「しかし、この差異は、歴史の経過が内的な一般的諸法則で支配されている、という事実を変えることはできない。・・・意欲されたことは、ごくまれにしか起こらない。たいていの場合には、意欲された多数の目的が交錯したり衝突したり、こうした目的そのものがもともと実現できないものであったり、その手段が不充分なものであったりする。このようにして、歴史の領域では無数の個々の意志や個々の行為が衝突する結果、無意識の自然を支配しているとまったく類似の状態が生まれてくる。行為の目的は意欲されたものであるが、その行為から実際に生じてくる結果は意欲されたものでなかったり、あるいは、その結果が、はじめは意欲された目的に対応するように見えても、結局のところ、意欲された結果とはまった区別のものになったりする。こうして、歴史上の出来事は、大体において、おなじように偶然に支配されているように見えるのである。ところが表面で偶然がほしいままにふるまっている場合には、この偶然はつねに内的な隠れた諸法則に支配されているのである。大切なのは、ただこうした諸法則を発見することだけである。[44]

 

 

 「人間は、各人が意識的に意欲された自分自身の目的を追うことによって。結果はどうなろうともその歴史をつくる。そして、さまざまな方向に働いているこうした多数の意志と外界に加えられるこうした意志の多様な作用との合成力[45]、まさに歴史なのである。だからまた、この多数の個人が何を意欲しているのかということも大切なのである。意志は、熱情や思慮に規定される。しかし、さらにこの熱情や思慮を直接に規定するてこには、きわめてさまざまな種類のものがある。外的な諸事物であってもよいし、観念的な動機、名誉心、「真理と正義とに対する感激」、個人的憎悪、あるいはまたあらゆる種類のまったく個人的な気まぐれであってもよい。

しかし、一方では、すでに見たように、歴史のなかで働いている多数の個々の意志は、たいてい、意欲されたのとはまったく違った―正反対だということもよくある―結果をもたらすものである。個々の意志の動機には、だから、全体的結果に対しては、同じように従属的な意義しかないのである。

他方では、さらにつぎの問題が生じてくる。それは、こうした動機の背後にさらにどのような推進力があるのか、どのような歴史的原因が行為する人間の頭のなかであのような動機に変形するのか、という問題である。[46]

 

 

「もし問題が、歴史のうちで行為している人間の動機の背後に―意識されてか意識されないでか、しかもたいていは意識されないで―あって、歴史の真の究極の推進力となっている原動力を探求することであるとすれば、肝要なのは、どんな卓越した人間であろうとも個々の人間のもつ動機よりも、むしろ、大衆を、諸民族の全体動かしている動機である。それも、一瞬ぱっと輝いてたちまち消えてしまうわら火のような行動へと駆り立てる動機ではなくて、大きな歴史的変化をもたらす持続的な行動を起させる動機である。

ここで、行動している大衆とその指導者たち―いわゆる偉人たち―との頭脳のなかに、意識された動機として、明瞭にか不明瞭にか、直接にかイデオロギーの形で天上に祭り上げられた形をさえとってか、反映されている推進的原因を探求すること、―これが、全体としての歴史をも個々の時代と個々の国の歴史をも支配している諸法則をつきとめることができる唯一の道である。

人間を動かすものは、すべて人間の頭脳を通過しなければならない。しかし、それが人間の頭脳の中でどのようなかたちを取るかは、大いにそのときの事情しだいである。[47]

 

 

国家の意思(法律、予算配分などとそれを審議決定する諸政党)と市民社会の関係

「個々の人間の場合に、その人を行為させるためにはその人の行為の推進力がすべてその頭脳を通過して意志の動機に変わらなければならないように、市民社会の必要も法律の形で一般的な効力を得るためには、すべて国家の意思を通過しなければならない。これはことがらの形式的な側面で、わかりきったことである。問題になるのは、この単に形式的な意志が―個人のにせよ国家のにせよ―どんな内容をもっているのか、またどこからこの内容がくるのかなぜまさにこれが意欲されて他のものが意欲されないのか、ということだけである。このことを調べてみると、現代の歴史では国家の意思が、大体において、市民社会の必要・欲求の変化に、この階級が優勢であるかあの階級が優勢であるかということに、・・・規定されていることがわかる。[48]

 

国家意思と市民社会の関係は、具体的な現実の諸問題、歴史の諸問題に即して「調べてみる」必要がある。その科学的検証は、たんにできあいのものを暗記することからうまれるのではなく、資料、データを集め、自らの頭を使ってそれらと格闘することによらなければならない。 Work hard !

 

 

(8)自由と必然性  

 「ヘーゲルは,自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である。Hegel war der erste, der das Verhältnis von Freiheit und Notwendigkeit richtig darstellte. 彼にとっては、自由とは必然性の洞察である。『必然性が盲目なのは,それが理解されないかぎりにおいてのみである(ヘーゲル『小論理学』岩波文庫版,下、96ページ)Für ihn ist die Freiheit die Einsicht in die Notwendigkeit. “Blind ist die Notwendigkeit nur, insofern dieselbe nicht begriffen wird.”

 自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって,これらの法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性をえることにある。Nicht in der geträumten Unabhängigkeit von den Naturgesetzen liegt die Freiheit, sondern in der Erkenntnis dieser Gesetze, und in der damit gegebnen Möglichkeit, sie planmäßig zu bestimmten Zwecken wirken zu lassen.これは、外的自然の法則にも、また人間そのものの肉体的および精神的存在を規制する法則にも、そのどちらにもあてはまることである。−この二部類の法則は、せいぜいわれわれの観念のなかでだけたがいに分離できるのであって,現実には分離できないものである。

 

 したがって、意志の自由とは、事柄についての知識をもって決定を行う能力をさすものにほかならない。Freiheit des Willens heißt daher nichts andres als die Fähigkeit, mit Sachkenntnis entscheiden zu können. だから、ある特定の問題点についてのある人の判断がより自由であればあるほど、この判断の内容はそれだけ大きな必然性をもって規定されているわけである。Je freier also das Urteil eines Menschen in Beziehung auf einen bestimmten Fragepunkt ist, mit desto größerer Notwendigkeit wird der Inhalt dieses Urteils bestimmt sein; 他方、無知にもとづく不確実さは、異なった、相矛盾する多くの可能な決定のうちから、外見上気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、みずからの不自由を、すなわち、それが支配するはずの当の対象にみずから支配されていることを、証明するのである。während die auf Unkenntnis beruhende Unsicherheit, die zwischen vielen verschiednen und widersprechenden Entscheidungsmöglichkeiten scheinbar willkürlich wählt, eben dadurch ihre Unfreiheit bbeweist, ihr Beherrschtsein von dem Gegenstande, den sie grade beherrschen sollte.

 

 だから、自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである。したがって、自由は、必然的に歴史的発展の産物である。Freiheit besteht also in der auf Erkenntnis der Naturnotwendigkeiten gegründeten Herrschaft über uns selbst und über die äußere Natur, sie ist damit notwendig ein Produkt der geschichtlichen Entwicklung. 動物界から分離したばかりの最初の人間は、すべての本質的な点で動物そのものと同じように不自由であった。しかし、あらゆる文化上の進歩は、どれも自由への歩みであった。[49]

 

 

(9)レーニンの『哲学ノート』は、ヘーゲル『大論理学』などの抜粋とコメントを付したものであり、弁証法を自分なりに把握するためには、一度はじっくり読んでみるべき書物であろう。岩波文庫版の『哲学ノート』はほぼ全体が、ヘーゲル大論理学からの抜粋とコメントである。

ヘーゲルからの抜粋(レーニンのコメントと入り混じっているが)をどのようにしているか。ページ数は『哲学ノート』上、岩波文庫のもの。

 

第一版への序文

 

p11・・・「哲学はその方法を、数学のような下位の科学から借りてくることはできない」

 「ではなくて、科学的認識のうちを動いている内容の本性だけが、このような方法でありうる。そして同時にないよう自身のこの反省がはじめて内容の規定を定立し生み出すのである。」

 

p12(科学的認識の運動―これが核心だ。)

 

「悟性(Vestand)は規定する」、・・・理性(Vernuft)は否定する、それは弁証法的である、なぜならそれは悟性の諸規定を無に帰させるin Nischts auflöst)からである。悟性と理性の結合、すなわち悟性的理性あるいは理性的悟性」は肯定的なものである。

 

「単純なもの」の否定・・・「精神の運動」、「このような自己を構成していく道程によってのみ・・・哲学は、客観的な、証明された学問となることができる。」

 

「このような自己を構成していく道」=真の認識、認識作用の道、無知から知識への運動の道(ここに私の考えでは、核心がある

 

 第二版への序文

 

p14「思考の王国を哲学的に、言いかえれば思考本来の(注意)内在的活動において、あるいはおなじことだが、その必然的な(注意)発展において叙述すること」・・・

 

p15 物理学における力という概念と両極性Polarität(「切り離せないように結び付けられている二つの異なったもの」)という概念。力から両極性への移りゆきは、「より高い思考関係Denkverhältnisse」への移りゆきである。

 

論理的諸形式は誰でも知っているものAllbekanntesであるが、しかし「知られているbekanntからといってまだ認識されているerkanntとはかぎらない」

 

p.16

必要なものがすべて・・・そなわってからはじめて人々は哲学しはじめた」とアリストテレスは言っている。またかれは、エジプトの祭司たちがひまであったことが数学的諸科学の始まりであったといっている。「純粋な思考」にたずさわるということは、「人間の精神が通過したに違いない長い道程」を前提する[50]

 

論理学の諸カテゴリーは、「外部的存在および行動の無数の個別なもの」の簡約Abbreviaturen(ほかのところでは「要約された」epitomiertという言葉も使われている)である。・・・

 

「われわれは、われわれの感情や衝動や関心については、それらがわれわれに奉仕するとは言わない。われわれはそれらを独立的な力であり威力であるとし、われわれがこれら自身であると考えている」

 まして思考の諸形式(Denkformen)については、それらがわれわれに奉仕すると言うことはできない。なぜなら、それらは「われわれのすべての表象」をつらぬいており、「普遍そのもの」だからである。

 

 客観主義―思考の諸カテゴリーは人間の補助手段ではなくて、自然および人間の合法則性の表現である。さらにつぎにヘーゲルが述べていることを参照せよ。

ヘーゲルは、「主観的思考」と「客観的概念」すなわち「ことがらそのもの」とを対比して、われわれは「事物の本性を越える」ことはできない(といっている)

 

 

 

 



[1] 美宅成樹『分子生物学入門』岩波新書、20023月、89ページ。

 

[2] 歴史学における論争は、したがって、その史料にあたって、本当にその史料から同じ結論が導き出せるかを検証しなおすこと、これをめぐって闘いとなる。また、ある史料を使ってある結論が出されているわけで、その「特定の史料」がはたして適切に選び出されているかどうか、これも論争の対象となる。

 実験、実証の繰り返しのなかから、否定し得ない事実関係(真実)と論理関係(真理)が導き出される。一定の過去の歴史の論理と方法の確認から、その方法をもって対象に迫っていく。

方法の再検証、史実の再検証、論理の再検証の相互連関・相互発展関係。

 

[3] しかし、インターネット時代は、みずからの研究の最先端を、学術雑誌や書物で公にする前に、あるいはその直後にホームページで提示し、狭い学界にとどまらず、直接的に社会全体からの批判的検証にさらすことも可能にした。

そのようなある意味での厳しい公開性によって、インターネット時代の科学研究は、狭い専門家のギルド的承認を超えた社会的承認を直接的にも獲得するように要請されているともいえるのではないか。

 

この研究業績の最新の内容を具体的に提示しているという点で、先進的模範的な事例はいくつもあるが、受講生諸君に身近な2つの学科から、いくつかあげておこう。すなわち、経済学科の矢吹教授のHP、経営学科の吉川教授のHPを参照されたい。

このような自発的個性的な最新研究内容の公開こそは、社会の大学や教授陣個々に対する公正適切な評価を確立していく上で必要不可欠のことであろう。

 

細分化され、確立された学界の「専門家」では評価できないような新しい研究、既存の学問研究の枠組み自体を批判的に乗り越えようとする研究は、できあいの学術雑誌という狭い枠組みをはみ出し、研究成果の公衆への道はその経路を経ない場合も多い。一部に見られる「レフェリー付雑誌」を金科玉条にする偏った風潮への批判的見地が必要である。

 

[4] エンゲルス「空想から科学への社会主義の発展」『全集』19巻、201202ページ。

[5] 同、201ページ。 

[6] 池内了『科学の考え方・学び方』岩波ジュニア新書2721996(第11刷=20011月)、63ページ。

池内の啓蒙書から、単純な普遍的法則性、とりわけその典型としての物理法則を記述するものとしての数学について、つぎの箇所を抜粋しておきたい。

 

 「物理法則は、すべて数学を用いて書かれています.なぜ数学を使うのでしょうか。・・・

自然現象の観測や実験によって、さまざまな物理量を測定します。物理法則は、物理量のあいだの関係や変化を数学の言葉で記述しており、それと測定結果を比較しています。数学は厳密な論理のもとに組みたてられており、いかなる場所であろうと、いかなる時間であろうと成立する関係を記述しています。

数学は、言語のように国ごとに変わることがありません。自然の構造や運動も、特別な場所や時間によらず、普遍的に成立すると考えられます。」・・・物理法則の普遍性を数学で表現。

 

「数学で表現されていると、対称性を調べるのに実に便利です。物理量や座標にある変換をして、式が変わらない(同じ形)ようになっていれば、その変換に対して物理法則が不変であることが直ちにわかります。したがって、対称性に伴う保存則を満たしていることが保証されていることもすぐにわかるのです。また、多くの対称性を持つ場合、それらを整理する数学である「群論を用いると、より大きな対称性を持つ状態を数学的に調べることができます。

たとえば、1950年代に、それまで知られていた陽子、中性子、電子以外に、多数の新しい素粒子が発見されました。素粒子とは物質の根源のことですから、それが多数あるとは考えにくいことです。きっと、何か単純で少数の基本粒子があり、その組み合わせで多数の素粒子が形成されているに違いないと考えられました。では、どのようにして調べればそれがわかるのでしょうか。ここで群論が大きな力を発揮しました(それまで群論は、たんなる数学だから役に立たないという人もいたのですが)。発見された素粒子が従う対称性を調べ、共通する性質で整理して、幾つかの素粒子の集団(それを「群」といいます)に分けるのです。この群の性質を数学的に調べると、まだ発見されていない粒子もその群(集団)にあることがわかります。

その後、実験によってその粒子も発見され、郡に分けることが有効であることがわかりました。そこで、そのような群をつくるもっとも基本的な粒子は何かを調べることにより、クォークという基本粒子の概念が発見されました。現在では、クォークの組み合わせで200個以上もの素粒子が作られていると考えられています。」(同、6566ページ)

 

「自然をより正確に記述するために、新しい数学を開発しなければならない場合もあります。ニュートンが自らが発見した物理法則を正確に表現するために、微積分法を開発したのは有名です。逆に、アインシュタインは、重力場の新しい理論を打ち立てるために数学的な方法を探し、リーマン幾何学を発掘しました。それまでリーマン幾何学は、たんなる数学的な試みとだけ考えられていたのです。」(同、6667ページ)

 

数学もまた自然法則の認識の発展、生産・流通と産業の発展とともに発展した。「数学と物理学は二人三脚で進んでいく」(同、67ページ)というのは、感動的ではないか。

人間と社会の複雑な諸現象の背後にある運動法則もまたその普遍的な側面に関しては、数学で表わせる、数学的定式化が可能である、それが目指されているということである。  

19世紀から20世紀にかけて、世界始まって以来最大の数学時代だという」E.T.ベル著田中勇・銀林浩訳『数学をつくった人びと上』』(E. T. Bell, Men of Mathematics, London and Tonbirdge 1937)東京図書、1997年(3刷、1999)9ページ。

 

ベルによれば、リーマンも実は、突然変異的に出てきたのではない。ガウスの最高の到達点から「霊感を受けて」いるという。

ガウスの「研究から、微分幾何学の最初の偉大な時期が発展してきた・・・微分幾何学とは、1点のすぐ近くにおける曲線・曲面およびその他の高次な空間の性質の研究である・・・その際、距離の2次以上の項は省略できるものとする。この研究から霊感を受けてリーマンは、1854年に『幾何学の基礎をなす仮説』に関する彼の古典的博士論文を発表した。これは、今日数理物理学、ことに一般相対性理論において有用な微分幾何学の、第2の偉大な時期の先駆となった」と(ベル、上、252ページ)。

 

「リーマンは、オイラーから、創造的な数学研究にとって大切な式の対称性にたいする感覚と、式の取り扱いのうまさとを学んだ。・・・184619歳のとき、リーマンはゲッチンゲン大学に、言語学と神学を学ぶ学生として入学した。…しかし、数学の講義をきかずにはいられなかった。シュテルンの方程式論および定積分論、ガウスの最小二乗法、ゴールドシュミットの地磁気論などを彼は聴講した。」(同、下、190ページ)。リーマンの「関心は、普通の純粋数学者にしては異常なほど幅広い分野にわたっていた。事実彼は、数学にさくのと同じくらい多くの時間を物理学の研究に向けた。この点から考えると、リーマンが真に興味をもっていたのは数理物理学にあったのだろう。」(同、下、191ページ)。

 

「ゲッチンゲンでの最後の3学期間、リーマンは哲学の講義に出席したり、ウィルヘルム・ウェーバーの実験物理学の講義を深い興味を持って聴講したりした。死後、リーマンが遺した哲学や心理学に関する原稿は、数学や自然科学におけると同じように、彼が哲学的思想家としても独創的な才能の持ち主であったことを示している。…リーマンは、物理学に関係したおおかたの大数学者に比べて、物理学における重要なもの−あるいは重要らしきもの−に対してはるかに強い感受性を示したが、この感受性は、彼が実験室で仕事をしたことや、数学者というより、物理学者といわれる人びとと接触したことから生まれたのである。」(同、下、192ページ)

 

185111月初旬、リーマンは博士論文『一変数複素関数の一般論の基礎』をガウスの審査にゆだねた。二五歳の若い学者によるこの論文は、近代における数少ない数学的業績の一つであって、死を4年後にひかえたガウスは、当時ほとんど伝説的な人物になっていたが、この論文をみて熱狂したのであった。」(同、下、196ページ)

27歳のとき、「1853年、彼はもっぱら数理物理学の方面にうちこんだ。しかし、その年の終わりには、募りくる物理学への情熱のために何度も遅延していた資格論文を完成した。」(同、下、197ページ)

リーマンは、無給の講師職のために、テスト講義を行わなければならなかった。そのために、「再び、電気、磁気、光、引力の間の関係について研究をはじめ」、「すべての物理法則を単一なものに結合する研究にうちこん」だ。1854610日のリーマンの資格取得講義は、「これまでの微分幾何学を改革し、われわれの幾何学化された物理学への道を準備することになった歴史的講演」となった。ベルによれば、リーマンの有名な論文『幾何学の基礎を成す仮説について』は、「数学全体を通じての偉大な傑作の一つ」であるということだがそれはまさにこのような物理現象を総合的統合的に理解しようとする苦闘の中から生まれたのだ。講義をきいたガウスは、「リーマンが提示したアイデアを激賞」した。(同、下、199ページ)

リーマンは、1854109日のある手紙で、「彼の講義の受講者が期待以上に多かったことに大変満足していると述べている」という。何人か? 「8人の学生が、彼の講義を聞きに来たのである」と。「彼は多くても23人であろうと思っていた」という。(同、下、200ページ)

 

 

さて、リーマンに霊感を与えたガウスも、実は天文学や測地事業など、社会からの現実の新しい工学土木的要請と取り組むなかで、数学的発見を行っていたのである。

 

1821年から1848年まで、ガウスはハノーバー政府(当時ゲッチンゲンはハノーバー政府の管轄下にあった)とオランダ政府の測地事業に関する学術顧問をつとめていた。ガウスはこの仕事に身をうちこんだ。彼の最小自乗法および膨大な数学的資料を扱う工夫の巧妙さが、一二分に発揮されることになったが、もっとも重要なことは、地表面の一部の正確な測量から発生する問題が、すべての曲面に関連した、より深い一般的な問題を示唆したことである。これらの研究は、のちに相対論の数学を生む機縁となった」と(ベル、同上)。

 

現実社会の要請と深く取り組むことで、実は数学的にも深い問題をつかんだということである。まさに、社会と学問の発展の相互関係を示しているといえるのではないか。アインシュタインの天才は、数学的にはリーマンを歴史的前提とし、リーマンはガウスを歴史的前提とした。学問発展史の巨大な嶺の頂点を天才たちが次々と跳躍していくさまが目に浮かぶようではないか。新しい革命的発見が普通の人の目にはいかに先人と関係ないように見えても、よく分析し、事情をつきとめてみると、実は先人の仕事の「自然な延長」であった、のである。

 

「ガウスが曲面に関するその著作で考察した三つの問題は、数学的および科学的に重要な一般理論を示唆した。すなわち、曲率の測定、等角写像の理論、および曲面の展開可能性である。

《曲がった》時空という、(相対論)のいかにも神秘的な概念も、平面上の普通の可視的な曲率を、2個ではなく、4個の座標[空間3次元・時間1次元]をもった《空間》に純数学的に拡張したものにすぎない。これも曲面に関するガウスの仕事の自然な延長だということができる。彼の定義を一つだけ説明すれば、すべての定義の理のあるところが了解されるであろう。問題は、曲面の《曲率》が、曲面上の一点から他の点へ変わるその変わりぐあいを測る、ある精巧な手段を工夫することである。正、その記述は「より曲がった」とか「曲がり方が少ない」とかいうことばについて、われわれがもっている直観的感情を満足させるものでなければならない。

自分自身と交わらない閉曲線Cで囲まれた曲面上の小部分の全曲率は、つぎに述べるように定義される。曲面上の点でこれに接する平面のことを、その曲面の接平面といい、曲面上の点を通ってそこでの接平面に垂直な直線のことを、その曲面法線という。C上の各点において曲面への法線がある。これらの法線をすべてひいたものと考えよう。そこで別に半径1の(考えている曲面に対してどんな位置にあってもよい)を考え、その中心からCの各点でひいた法線に平行な半径をひく。これらの半径の端は、単位球面上で、一つの曲線、たとえばC´を描くであろう。

ところで、C´で囲まれた球面上の部分の面積を、Cで囲まれた曲面上の小部分の全曲率と定義するのである。・・・

ガウスがその曲面研究で利用したもう一つの基本的な考えは、媒介変数(パラメーター)表示である。

平面上の特定の点を指示するためには、二つの座標が必要である。球面や地球の表面のような楕円面においても同様であって、その場合には、緯度と経度を座標と考えてよい。この例が、二次元多様体の意味を明かにしてくれる。一般に、あるもの(点、音、色、線などさまざまなもの)の集まりがあって、その集まりの特定の構成要素を指示する(他と区別する)のに、ちょうどn個の数が必要でかつ十分であるとき、この集まりを次元多様体という。このような表示法においては、この集まりの構成要素のある種の側面だけに数が付与されるものと考えるのである。

たとえば、音の高さだけを考えれば、一つの数、つまり、音に対応する振動の周波数だけあれば、音の高さを決めるのには十分だから、一次元多様体ができる。

さらに、音の強さも同時に考えるためには、振幅を適当な単位で測ることにすれば、音は二次元多様体になる。

さて、曲面点で構成されていると考えれば、曲面は、(点)の二次元多様体であることがわかる。・・・すべての二次元多様体のことを《曲面》と呼び、多様体に幾何学の推論を適用することができる・・・

(直交座標を,y, zとしよう。)デカルトの解析幾何学では、三つの座標の間に成り立つ一つの方程式が曲面をあらわす。

(これに対して、ガウスの方法は)、曲面を表すのに、,y, zを結びつける一つの方程式を用いる代わりに、三つの方程式を求めよう。

f(u, v)

y g(u, v)

z h(u, v)

ここで、f(u, v), g(u, v), h(u, v)は、新しい変数u, vの関数(式)であるが、これからu, vを消去する(とり除く、あるいは文字通り、戸口の外に出す)と、x, y, zに関する曲面の方程式が得られる。

三つの方程式のうち二つを使って、二つの未知数u, vを解き、それらを第三の方程式に代入すればよいから、この消去は可能である。たとえば、

x=u+v

y=u-v

z=uv

ならば、最初の二つの方程式を解いて、

   u=1/2(x+y)v=1/2(x-y)を得るから、第三の方程式より、4z=x×xy×y となる(x2乗マイナスy2乗)。

ここで、変数u, vは任意の与えられた値の組を独立に動くから、関数,,はそれぞれある数値をとり、,, は、はじめに設定した方程式を持つ曲面上を動く。

このようなとき、u, vを曲面の媒介変数(パラメーター)といい、三つの方程式f(u, v)y g(u, v)z h(u, v)のことを、その曲面の媒介変数表示と呼ぶ。

曲面のこの表し方は、曲率の研究やその他の点から点へと急激に変わる曲面の局所的な性質の研究にとっては,デカルト座標に比べてはるかに便利なのである。

その上,媒介変数表示は内在的であることに注意しなければならない。すなわち,この表示は曲面自身のみと関連するもので、デカルト流に、曲面に結びついていない一組の軸に依存するような外在的ないし外面的なものではない。さらに、媒介変数u, vが二つあることは、曲面が二次元であることを明かに示す。地球の表面上の経度と緯度は、このような内在的な《自然的な》座標の例である。・・・」(ベル、上、252254ページ、等角写像、位相幾何学におけるガウスの貢献は省略)

 

 

数学における群」の発見もまた歴史的なものである。

「数学の歴史を辿ってみるとわかるように、群は代数方程式の解法という中世の頃からの数学の大きな問題から生じたのである。数学の歴史そのものは2000年、3000年の長さにわたっているが、というものの考え方は長くみても生まれてから200年ほどしか経ってはいない」と。すなわち、「今から170年あまりも前、二〇歳にもならないガロアは、代数方程式と群に関する理論を作り、それによって、数百年もそれ以上も続いていた代数方程式論に終止符を打ったのである。・・・「方程式に付随した」という考え方が発見されると、代数方程式論は長い数学の歴史から見ればほんの一瞬のうちに完結されてしまったのである」。原田耕一郎『群の発見』(−シリーズ・「数学、この大きな流れ」−)、岩波書店、2001年、vページ。

 

「群」とは何か。同書によれば、「ある数学的対象のシンメトリー全部の集合を群と呼ぶ」と(同、viii)。ただし、最初は、「群とは群れと呼んでもよい。ガロアにとっては『群れ=groupe』であったのだ。群れと思っていたから、群自身も、また群から派生するさまざまな集合や構造もガロアはと呼んだのである。」(同書、xページ)

 

ガロアの発想は、つぎのようなところにも典型的に現われているように思われる。煩を厭わず引用しておこう。

 

ガロアの心の叫び」(同書、229230ページ)

小さな町の町長をしていたガロアの父親は自殺

 

ガロアのほぼ同時代人、天才的数学者の「アーベルは貧乏しながら27歳で死んだんですね。彼の原稿もコーシー氏(・・・彼も有名な数学者でアカデミーの大物、超多忙)がなくしたんですね。」

 

「それは別々の出来事ではありません。ある型にはまっていますよね。リヒャール先生。互いに関係のある出来事じゃありませんか? ぼくの父が死に、ルイ・ル・グラン(・・・ガロアが通った名門中の名門の中高等学校)に反乱があり、アーベルやぼくの原稿が消え去り、またアーベルが死んでいるんです。これらは一見、何の関係もない別々の出来事に見えています。起こった場所や場面もそれらをめぐる人びとも皆ぜんぜん違ってはいます。・・・しかしリヒャール先生。それは絶対に別々の出来事ではないんですよ。お互いに関連しあっているし、また幾百万という他の出来事ともつながっているんです皆ある型にはまります。明白な型にです。しかもそれらの出来事をつなぐものは、われわれの住むこの邪悪な社会組織です。これが貧しいものを軽蔑し、天才に敵意を持っているからこそ、アーベルは死んだのです。」群論の創始者ならではの把握!!

 

邪悪な社会組織では、天才は認められなくなり、凡俗ばかりがもてはやされます。それはぼくにもよくわかっています。が、それだけではありません。この邪悪な社会が持っている残忍で容赦のない暴力というものがぼくにはわかっています。」・・無関心、同情心の欠如といった「暴力に敵対して、生徒たちが反乱を起こしたんですし、そのうちの100人以上を放校処分にさせたのも同じ力なんです。ぼくが愛していた父を殺したのもその力です。教区司祭はその手先にすぎません。ある外部の力が、かれをブール・ラ・レーヌへ追いやって、父の権威を傷つけ、また根こそぎにしてしまえ、という厳命を与えたんです。父の死はこの力のせいなんです。虐政と弾圧の機構の中で、ただ小さい一つの歯車にしか過ぎない司祭のせいではありません。この力とこそ、ぼくは闘わなければならないでしょう。・・・個人に罪科はありません。個人がそのような振舞いをするのは、腐った社会組織がそうさせるからです。父が教えてくれたのはこのことです。」

 

ガロアは、父親から「専制や卑俗に対する憎悪の念とを受け継いだ」だけではなかった。E.T.ベルによれば、「ガロアの性格の一部は母から受けついだもの」だった。12歳になるまで、ガロアにとって母親が「唯一の先生」だった。彼女は有名な法律家の家柄の出身だった。母の父、すなわちガロアの祖父は、「幾分異教的な人物だったらしく、娘に徹底的な古典文学・宗教教育をほどこした。彼女は、これをそのままにではなく、自分なりに生気あるストア主義に消化し、それを長男にゆずりわたした。彼女はキリスト教を否定しはしなかったが、文句なしに認めたわけでもなかった。彼女は、キリスト教の教えをセネカやキケロのそれと比較対照し、その原初的な形にまで還元してみせた。友人たちは、彼女が著しく独創的で探求心のはげしい、つよい性格の女性であったといっている。…彼女は、187284歳で亡くなったが、最後まで気丈夫さを失わなかった。彼女も、夫のように専制を憎んでいた」と。(E.T.ベル『数学をつくった人びと 下』東京図書、1997年、56ページ。

 

 

 

天才においては、一連の諸学問が関連しあっていることは興味深い。ニュートンやカントの場合は別に見たとおりだが、たとえば、「信じがたいほどの大成功をおさめた数学書―『原論』(Stoichia,ストイケア)の著者ユークリッドもそうであった。わたしはユークリッドに関して数学・幾何学者としか認識していなかったので、下記の叙述には驚いた。

 

すなわち、ボイヤーによれば、

「ユークリッドと『原論』とはよく同一視されるが、彼は実際には、光学、天文学、音楽、そして力学から円錐曲線に至るまでのさまざまな分野に及ぶ専門書約12冊もの著者である」と。C.B.ボイヤー著加賀美・浦野訳『数学の歴史 1』、朝倉書店、1983(8刷、2002)145ページ。

 

天才の天才たる所以は、先人の科学的業績の最高峰に精通し、その「肩に乗って」いたことによる。くだらない低レヴェルの連中との表面的論争で勝って喜ぶような手合いとは違うのである。

たとえば、ニュートンは「ケンブリッジ入学の最初の年に、ユークリッド(Euclid of Alexandria)の本を買って勉強しており、…スホーテンの『ルネ・デカルトの幾何学』、ケプラーの『光学』、…までをも次々と読破していった。・・・ガリレイ、フェルマ、ホイヘンス、その他の人びとの仕事にも精通していた。このような情況を考え合わせると、のちにニュートンがフックに『わたしがデカルトよりも先をみられたというならば、それはわたしが巨人の肩に乗っていたからである』と書き送っていたことも、別に驚くにはあたらない」と。ボイヤー『数学の歴史 4』、1984(6刷、1999)2ページ。

 

ベルも同じ言葉をニュートンの言葉としている。すなわち、「もし私が他の人たちよりも少しでも遠くをみたとするならば、それは私が巨人の肩にたっていたからだ」という言葉は、ニュートンの言葉だとされている。しかり、彼は巨人の肩に立っていた。その巨人のうち最大のものは、デカルト、ケプラー、ガリレオであった。デカルトからは、ニュートンが最初に難しいと思っていた解析幾何学を、ケプラーからは22年間の超人的計算のあげくに実験的に発見された惑星の運動に関する三つの基本法則を受け継ぎ、ガリレオからはニュートン自身の力学の礎石になるはずの三つの運動法則のうちの最初の2つを学んだ。しかし煉瓦はひとりでに建物とはならない。ニュートンは、動力学と天体力学との建築家となったのである」と。E.T.ベル『数学をつくったひとびと()』東京図書、1999(1997年第1)85ページ。

 

また、幾多の天才的数学者が、たんに数学の細部の問題だけを研究したのではなく、政治的な問題とも関係したことが、ボイヤーの上記『数学の歴史』を紐解くと次々と出てくる。

政治は精神的なもの、意識の世界に関する活動分野であり、愚昧に対決する科学の精神、現状に安住する保守的精神に対する批判的精神、既存の条件と到達点にしがみつく頑迷固陋の精神に対する批判的前進的精神、学問諸分野の批判的創造的精神とも深く関わる。

革命的天才児ガロアは、数学の天才の歴史において決して例外ではないというべきであろう。

 

ノーベル物理学賞のファインマンは科学的精神を次のように言う。「どんな問題でもすべて一度は疑い、話し合わなくてはならない。何ごとであってもよく観察し、試し、その結果、少し変更を加えていくというふうに、とことんまで論じ尽くすべきだ、というのが科学的な考え方のなのです」と。そこから、政治体制の問題にも言及する。すなわち、全体主義的独裁的やり方に対比して「民主主義の政治体制には、話し合いや変更の余地がいつも残されているという点で、いま述べた科学的な考え方にずっと近いものといえましょう」と(リチャード・P・ファインマン著大貫昌子・江沢洋訳『ファインマンさんベストエッセイ』岩波書店、20013月刊、301ページ)

科学、その発達と民主主義、その成熟には深い内的必然的な連関があるのだ

 

ただし、ベルによれば、数学者の政治的傾向や宗教意識に関して次のように言っている。

「政治的傾向についてみると、偉大な数学者たちは反動的保守主義から急進自由主義にいたるまでのあらゆる領域にわたっている。一つの階層としてみれば、彼らの政治的見解は、やや左よりであるといってもさしつかえなかろう。その宗教はもっとも偏狭な正統主義‐ときにはもっとも暗黒な狂信の影さえ宿したものがいるが‐から、完全な懐疑主義にまでおよんでいる。少数の人びとは、何も知らないことについて独断的なことをも主張したが、大多数のものは大ラグランジェの『私にはわからない』という言葉をおうむ返しにする傾向の持ち主である」と。E.T.ベル著田中勇・銀林浩訳『数学をつくった人びと(Men of Mathematics)()』東京図書、1997(3刷、1999)6ページ。

 

このベルの本を読んで驚いたことに、ピタゴラスも非業な死を遂げていたのだ。

 

近代数学の3人の先駆者ツェノン、エウドクソス、アルキメデスの「背後にぼんやりと浮かびでているのが、ピタゴラスのなかば神秘的な姿である。彼は神秘的な数学者であり、みずから自分の才能を縛りつけながらも、そのありったけをつくして自然を探求した人であり、《10分の1は天才、10分の9はたわごと》であった。その生活は信じられないほどいろいろの奇蹟が積み重なったお伽ぎ話となっている。その宇宙観を包んだ怪奇な数の神秘的主義とは別に、つぎのことは数学の発達のために重要である。ピタゴラスは、ひろくエジプトを旅行し、僧侶から多くを学び、それ以上に信じ、バビロンを訪ねて、エジプトでの経験を繰り返し、最後にほとんど無意味とも思える高度の数学的思索と、物質、精神、道徳、倫理の思索のための秘密の宗教団体を、南イタリアのクロトンに創始した。こうしたいろいろのことから、彼は数学全史に2つの最大の貢献をなした。伝説によればピタゴラスは、彼の企てた啓蒙運動に反対する政治的宗教的狂信者にそそのかされた大衆の手で、自分の学校に火をつけられ炎に包まれて死んだ、といわれる。」(同、17ページ)

 

このような愚かな人びとの犠牲になる偉人の悲劇は、現代世界も他人事だと笑い飛ばすことはできない。そして、偉人の場合はまだその業績が発見される場合があるとしても、そうでない人びとの場合、愚かな人びとによる無理解と迫害の悲劇は、恐らくは多数に上るだろう。

 

それでは,数学全史で特筆すべきピタゴラスの2つの貢献とは何か?

「ピタゴラス以前には、証明仮説から生ずるということがはっきり理解されてはいなかった。根強い伝説によると、彼はヨーロッパ人としてはじめて、幾何学を展開するにあたって最初に設定されるべきは公理、すなわち仮説であり、その後の全展開は綿密な演繹法を公理に適用することによって進められるべきである、と説いた。」ベルはこれに続けていう。「これ以後は慣用にしたがって、《公理》のかわわりに《仮説》ということばを使うことにする。というのは、《公理》が《自明の必然的な真理》という有害な歴史的連想を伴うのに反して、《仮説》はそれをともなわないからである。仮説とは全能の神によってではなく、数学者自身の手で勝手に定められた仮定にすぎない」と。(同、17‐18ページ)ピタゴラスのもう一つの貢献は、無理数の発見・・・連続と無限に関する近代的数学概念の展開の基礎前提。

 

仮説は対象とする現象の普遍的な本質的なものを抽出したものである場合、そこから導かれる論理連関が普遍的妥当性をもつ、といった関係がある。「勝手に定められた」というのは、その意味では出発点に関してであって、優れた理論は必然性、普遍性など洞察し、それを獲得し、たんなる「勝手」とは違った次元を達成している。優れた理論体系はみずからの仮説性・抽象性をふまえているがゆえに、その抽象・論理次元で普遍妥当性を獲得している。

 

Ex.商品=貨幣、価値と価値関係、価値実体、対象化された抽象的人間労働、資本、剰余価値、対象化された労働と生きた労働、不変資本と可変資本、総剰余価値と総利潤、資本の有機的構成の高度化と利潤率の傾向的低下の法則、その他の諸範疇、諸概念の抽出と論理的展開。Cf. マルクス『経済学批判序説』、その方法的前提としてのヘーゲル哲学(弁証法、エンチクロペディー)と近代科学の到達した方法(分析と総合の有機的体系的連関)、『資本論』(正式オリジナルタイトルはDas Kapital 資本なるもの、すなわち、対象としているのは個々の資本ではなく,すべての資本に共通する法則。そのすべての資本からなる資本主義社会なるものの生産・流通・消費における諸要因の相互連関性、その発展の解明、したがって資本一般の理論的解明。この論理次元・抽象次元・普遍的次元を理解しないものは『資本論』を理解しないということ)、その前提としてのスミス『国富論』、リカードウ『経済学および課税の原理』など、いずれも岩波文庫、他。

マルクスもまた古典派経済学の天才たちの「肩に乗って」彼の仕事を進めたのだ。

 

連続と無限の難問題に関して、「4つの無邪気な逆説」(「二分法」、「アキレス」、「矢」、「競技場」)を工夫したツェノンは、「反逆か何かの理由で首をはねられた」(前掲、ベル、21-22ページ)。

 

ベルの本によれば、パスカルの父親(オーベルニューのクレルモン重罪犯罪裁判所所長を勤めた後パリに上京した)もまた、「その正直さと律儀さのために、上司のおぼえをそこなってしまった」と。「ことにちょっとした税金のことで、リシュリュー大僧正と仲たがいをした。大僧正は怒り、パスカル一家は嵐のすぎさるまで隠れた」と。(ベル、前掲書、70ページ)パスカルが早熟の天才的な数学の能力を示したことも、このベルの本ではじめて知った。しかし、パスカルには身体の虚弱さと関係したと思われる「宗教的神経症患者」に堕落した、とベルは言う。(ベル、67ページ)

 

「実験科学の展望においては、近代的見地から、パスカルはデカルトよりも科学的方法についてはるかに明瞭な視野をもっていた。しかし彼は、デカルトのもっていた目標の単一性を欠き、一流の仕事をものにはしたが、宗教的論争に対する病的な情熱のために、なしえたかもしれない仕事をもうちすててしまったのであった」と。(ベル、6768ページ) 

 

デカルトはガリレオの裁判を知って、厄介なことに巻き込まれることを恐れ、科学的発見をできるだけ発表しないようにした。彼もコペルニクスの科学的発見を正しいと認識し、ローマ法王の誤謬を確認していたが、そのことが公になるのを回避した。彼の『宇宙論』は死後に発表することにした。(ベル、42ページ)

 

デカルトとパスカルは交流があったが、「たがいに激しくねたみあっていた」と(ベル、74ページ)。天才は天才なりにこのような普通人と同じ精神状態があるのだ!!

 

歴史は、思想の自由の抑圧の事例(デカルトのように繊細な人は、その迫害・抑圧の噂を聞くだけで、発見した貴重な真理を公表しない)に満ちていることを知らなければならない。 

現代もそれから解放されてはいない。現在の体制にどっぷり浸かって何の問題も感じない人びとには、そのことがまったく感知されないだけである。

しかし、真に偉大なものはそのような抑圧を撥ね退けて、みずからを貫徹していくであろう。真理に共感し、真理を支えていこうとする人びとも多い。それがこれまでの歴史でもあった。

「真理とは崇高な言葉であり、その内容は一層崇高である。健全な精神および心情を持つかぎり、真理という言葉を聞けば、その人の胸は直ちに高鳴るに違いない。」ヘーゲル『小論理学』上、岩波書店、97ページ。

 

そしてこの健全な精神は生活の苦労によって抑圧され干からびてはいない青年のなかにやどる。

「年取った者がその希望を若いものの上に置くのはいうまでもないことである。彼らにこそ社会および学問の進歩がかかっているからである。」

ヘーゲルは、ついでいう。「しかし、彼らにこの希望がかけられるのは、彼らがそのままにとどまっていないで、精神の労苦を引き受けるかぎりにおいてである」と(同、98ページ)。

 

20世紀の天才数学者フォン・ノイマンは、コンピューターの設計、応用、理論、普及に関して「後世に残る寄与をなしとげた」とされるが、彼も現実に直面した問題を解決するために電子計算機を構想した。「科学研究のための道具としての電子計算機に対するフォン・ノイマンの関心は、彼のロスアラモスでの軍事研究や、陸軍や海軍の兵器に関する研究に関連して、微分方程式を解くいっそう強力な装置が必要になったことに由来した」と。ウィリアム・アスプレイ著杉山滋郎・吉田晴代訳『ノイマンとコンピュータの起源』産業図書、1995年、「はじめに」iii-ivページ。

そのノイマンは、1921年ブダペスト大学に入学したが、「1921年から1923年までの充実した学生時代の大部分を彼はベルリンで過ごし、フリッツ・ハーバーの化学講義に出席し、アルバート・アインシュタインの統計力学の講義を聴講し、そして、数学者E.シュミットの感化を受けた」と(同、7ページ)。ワイマール期ドイツの最先端の学者から学んだのだ。

 

アインシュタインの相対性理論も、すでにさきに見たようにリーマンの数学を前提にし手いることは有名である。しかし、ブール、アイゼンシュタイン、シルヴェスター、ケイリーなどの発見した不変式の理論があったということは、ベルの名著からはじめてまなんだ。

不変式の問題は、現代の科学思想の基盤をなすもの」であるが、それを上記の三名が発見、発展させたというのである。

何が問題か?

ベルによる実例を紹介しておこう。

1枚の紙の上に、直線と曲線との交叉からできている図形が描かれていると考えよう。その紙を破らないようにしながら、好き勝手な方法でしわくちゃにしてみる。さて、その際にしわくちゃにする前と後とで変わることのない図形の諸特質のなかで、もっとも明確なものは何であろうか。同じようなことを、1枚のゴム板の上に描かれた任意の図形についてやってみよう。そのゴムを引き裂かないよう注意しながら、いろいろと複雑な方法でそれを伸ばしたり縮めたりしてみよう。

この際、図形の面積や角度や線の長さなどは《不変》ではないということは明かである。適当にゴムを引き伸ばすことによって、直線を好きなだけ曲がりくねった曲線にゆがめることもできる。同時に、もともと曲線であったものも―あるいは少なくともそのうちいくつかを―直線に変えることもできる。しかし、図形全体についてみるとき、何かしら不変なものがあるだろう。それは非常に単純で明白なものなので、そのためにかえってこれまで見過ごされてきたのであった。

たとえば、図形を形作る曲線上の点の順序がそうであって、変形前に与えられた曲線を点Aから点Cへ鉛筆でたどるときと、中間の点Bを通過しなければならなかったとすれば、変形後でも、AからCまで行くには、途中点Bを通らなければならない。この点の順序は、たとえば1枚の紙をしわくちゃにして、しわだらけの球形をつくったり、あるいは1枚のゴム板を伸ばしたりするような、特定の変換のもとでは不変なのである。

この実例は、取るにたりない当たり前のことのように見えるかもしれない。しかし、一般相対性理論における《世界線》の交叉についての非数学的な論述を読んだことのある人や、そのような2本の世界線の交叉が物理的《事象》を産み出すのだということを思い出す人はだれでも、いま論じたことが、物理的宇宙についてのわれわれのイメージの一つと、まったく同じ材料から作られているということに気づかれるであろう。そのような複雑な《変換》を扱い、実際に不変式を求めるのに十分な数学的技術が、多くの研究者によって生み出されている。たとえば、リーマン、クリストッフェル、リッチ、レヴィ=チヴィタ、リー、そしてアインシュタインなど―それらの名前はすべて、あの有名な相対性理論の説明などでおなじみのことであろう。この広範なプログラム全体は、初期の研究者たちによって代数学上の不変式論のなかで生み出されたのであり、その理論の基礎を築いたのが、まさにケイリーとシルヴェスターなのである」と。E.T.ベル、前掲、下、8687ページ。

「不変式論(この理論は初期の代数学の仕事から発展してきた)がなかったら、相対性理論は不可能だったろう」と。ベル、同上、139ページ。

 

無限の、無数の日々の、世界での商品の交換行為において、不変なものは何か?

売り手と買い手が、お互いに等価の物を交換したとすれば、売りと買いとの交換行為を通じて、等しいもの、不変のものは何か?

商品と貨幣とが「効用」、「使用価値」の点ではまったく別物であることは明らかある。現代的に言えば、たとえば、紙でできた紙幣を持っていてもそれを食べては生きては行けない。紙の使用価値は胃を満たさない、生命の力をもたらさない。紙とはまった区別の食料がはじめて人間の生命を維持することが可能である。食料品と紙幣との使用価値、効用はまったく別物である。

では、「売り手が持っていたもの」と「買い手が持っていたもの」に共通不変のものとは何か?

それは、古典派経済学とその継承者としてのマルクスが発見したもの、すなわち、社会的抽象的人間労働であり、その一定量(その量は時間で測られる)である。

売り手は、商品の中に一定量の社会的抽象的人間労働を投じていた。買い手は自分が投じた一定量の社会的抽象的人間労働を貨幣のかたちで持っていた。

受講生の皆さん。もし興味を持ったら、正確なことを知るために、『資本論』第一巻第1章を読んでみてください。直接、古典にあたって、著者自身の分析を熟読玩味してみてください。

 

最近、評判の映画ということで、ノーベル経済学章のJ.ナッシュを描いた『ビューティフル・マインド』という映画を見た。ナッシュ自身の観念世界、すなわち、反ソの強烈な意識、ソ連陰謀イメージなど冷戦期の恐怖感の浸された意識状況がナッシュの精神分裂を激化させる要因として描かれているが、その当否は別として、なかなか感動的な映画だった。そこで英文、次いで邦訳も手に入れた。

そして、ナッシュもベルの本を読んで、数学への道を大きく歩むことがかかれていて、驚いた。

 

数学のおもしろさにナッシュがはじめて振れたのは13歳か14歳のころ、ET・ベルの『数学をつくった人びと』という少し型破りな本を読んだときに違いない。そのことを自伝的エッセーでさりげなく記しているからだ。1937年に刊行されたこの本を読んで、ナッシュははじめて数学の放つ真のきらめきに触れた。それは学校で教わるずさんで不正確な算数や幾何の解きかたや、あるいはいかに気晴らしとはいえ、自分の行っていたまったく取るに足らない化学や電気の実験による計算とはまるで別ものの、象徴と謎に満ちた目くるめくような世界だった。

『数学をつくった人びと』は−今日ではかならずしもすべてが正確ではないと判明しているが−実に生き生きとした伝記的エッセーである。カリフォルニア工科大学の教授だった著者は異色の人物で、「昔の数学者の猿まねをする、ばかげた欺瞞」は「常識のかけらもない、ふしだらな夢想家」とおなじで大嫌いだと述べている。そして、歴史に名を残すほどの偉大な数学者はいずれもなみはずれて精力的で、無謀ですらある、と断言している。

        ・・・

ナッシュがベルの著作に惹かれただけでなく、とりこにまでなったのは、数学の諸問題に対する生き生きとした記述により、萌芽状態にあった自分の問題意識が明確になったこと、アマチュア数学者や14歳の少年にも解ける可能性のある、深くて美しい数学上の問題が存在することを教えられたためだ」と。シルヴィア・ナサー著塩川優訳『ビューティフル・マインド』新潮社、2002年、4344ページ。

 

[7] 18世紀中頃、カントの「太陽系の発生に関する理論は、やっと提出されたばかりで、まだ奇妙な説と見られていた」。

当時は自然の非歴史的把握が支配的だった。19世紀80年代までに、自然科学と産業の巨大な世界的発展の中で、「生命ある自然物が、単純なものから複雑なものへとすすんでいく長い発展系列の成果であるという」考えが確立してきた。

フリードリヒ・エンゲルス『ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結(Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutsche Philosophie, 1883)』(通称、『フォイエルバッハ論』)、マルクス・エンゲルス全集版(大月書店)の第21巻、283ページ。

 

「動植物有機体内の諸過程を研究する生理学、個々の有機体の胚から成熟までの発達を取り扱う発生学、地表の漸次的形成を追跡する地質学、これらはすべて19世紀が生んだ子どもたち」であった(同、299ページ)

このエンゲルスの本(通称、あるいは別の翻訳ではタイトルが『フォイエルバッハ論』)には、翻訳多数。(松村一人訳、岩波文庫,1983藤川覚訳、国民文庫,1984秋間実訳、大月センチュリーズ,1983)(森宏一訳、新日本出版社,1998)。つまり、最初の堺利彦訳(1904年)以来、繰り返し翻訳が行われ、多くの人によって読まれている。

 

[8] ここでの引用は、マルクス・エンゲルス全集版(大月書店)の第21巻、p.271

[9] エンゲルス「書評:カール・マルクス『経済学批判』第1分冊、ベルリン、1859年」『全集』第13http://opac.yokohama-cu.ac.jp/cgi-bin/opac/cal950.type?data=366289_1_8476ページ。

[10] ヘーゲルが観念論であったということ、論理学体系、哲学体系が観念論的に捻じ曲げられている箇所を多く含むことなどは、十分注意しなければならない。また、ヘーゲルの数学や天文学の理解も合理的科学的数学者からみれば、「こっけいなたわごと」を含むものであった。こうしたことも知っておかなければならない。数学、天文学に関しては、ベルの本の何箇所で「ヘーゲルのこっけいさ」に言及がある。一例は、ベル、前掲書、下、140ページ。

[11] エンゲルス『反デューリング論』全集20巻、125ページ。

[12] 同、全集20巻、126ページ。

[13] 同、全集20巻、127ページ。

[14] 同、全集20巻、140ページ。

[15] 同、全集20巻、147148ページ。

[16] 同、全集20巻、147ページ。

[17] 同、全集20巻、141ページ。

[18] 同、全集20巻、141ページ。

[19] 同、全集20巻、142ページ。

[20] 同、全集20巻、142143ページ。

[21] 同、全集20巻、143ページ。

[22] 同、全集20巻、146ページ。

[23] 『フォイエルバッハ論』マルクス・エンゲルス全集版(大月書店)の第21巻、p.284.

[24] 同上。「中世における大きな進歩―ヨーロッパ文化圏の拡張、そこにあい並んで形成された活力のある大きな諸国民、最後に一四世紀および一五世紀の巨大な技術的進歩・・・」これらをはっきり見ることによって、「大きな歴史的連関を合理的に洞察することが可能になる。

[25] すべては歴史的(時間的)経過の中で生成・発展・没落する。歴史的に形成されたものは、発展の中で単に捨て去られるのではない。内容が維持されつつ新しい形態、形式が作り出される。達成された新しい内容を新しい入れ物(形態、形式)に入れる(新しい形式、形態が作り出される)。過去は現在に生かされる。進化(宇宙、地球、生物、人類、その認識・学問・科学など)にはアウフヘーベンの原理が貫徹する。

 数学の歴史にもそれは言えるようである。ベルによれば、「大昔から二つの相反する傾向が、ときには互いに助けあって数学の複雑な全発展を支配してきた。おおざっぱにいえば、それは離散連続である。」(ベル、前掲、上、10ページ)量子力学にひきつけてみれば、粒子波動に対応するだろう。経済学における個々の商品とその社会的実体としての価値との相互関係。

 

[26] ヘーゲル『法の哲学T』中公クラシックス、7172ページから引用。

 

[27] エンゲルス『反デューリング論(正式タイトル=オイゲン・デューリングしの科学の変革)全集20巻、70ページ。

 

[28] エンゲルス、同上、73ページ。

 

[29] 宇沢弘文著『ヴェブレン』岩波書店、2000年・・・実に面白い本であり、ぜひ一読することを薦める。宇沢さんは、文化勲章をもらった日本の経済学の代表的人物だが、ある種の近代経済学者のひとからは「きちがい」といわれている。なぜだろうか?

その秘密は本書を読めばわかる。ヴェブレンもまたたくさんの敵を持ったのである。ただし、日本語で「きちがい」というとき、英語ではクレージーとマッドとが区別されなければならない。

[30] 同上、pp.84-86. ヴェブレンの場合、ドイツ歴史学派やマルクスなどの影響、その批判的継承の側面があり、通常の純粋化した近代経済学の潮流とは一味違う。

[31] 同上、p.85.

[32] 同上、p.85.  

[33] 同上、p.84.

[34] ただし、ヴェブレンは彼の仕事の集大成とも言うべき『製作者気質の本能』(Instinct of Workmanship)で、その考察が「未開文明社会から現代におよび、また日本、中国の歴史的社会、ヨーロッパ、アフリカの文明に対する文化人類学的知見も多く取り入れ」ている。彼自身の場合は、広範な目配りをしていることがうかがえる。

制度学派の人々はどうか? 彼のエピゴーネンたちはどうか? ヴェブレンを発展させているか?・・これらの検討・検証が必要。

ヴェブレンは、歴史の発展を把握している。しかし、彼は「製作者気質の本能が自由に発展していた未開社会から、金銭的基準によって支配されるようになった野蛮社会へと移行する過程で、私有財産制が形成されていった」ととらえており、未開と野蛮、金銭の発生と私有財産の発生に関する人類史研究(モルガンの『古代社会』上、下、岩波文庫)の理解とは異なっている。金銭、貨幣の歴史性、私有財産の歴史性を認識しているのは普通の経済学者よりはすぐれている。しかし、歴史研究は不充分。歴史発展の基本法則の洞察において欠けるところがある。

未開社会の人間活動が、いかなる意味で、どの程度、「自由」なのか? 

ルソーは、眼前のアンシャン・レジーム批判、絶対王政・絶対主義批判、の観点から、原始時代を自由の王国とした。それは、徹底的人民主権論、革命的民主主義の主張であり、実際には来るべき社会、作り出すべき未来社会の理念を求めて、未来を過去のなかに読みこんだ。すなわち、『社会契約論』の冒頭にいう。「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところ鎖につながれている」と(岩波文庫、15ページ)。これまた、現代の人類史研究の到達点からすれば、誤りである。

 

来るべき社会は、現在の社会の中に形成された諸条件をもとに、人類が新しく(前代未聞)創出していくもの。

[35] テキスト『欧州経済史』岩波現代文庫の大塚久雄氏の見地。大塚史学が総括した経済史と歴史の研究の見地。

[36] リチャード・P・ファインマン著大貫昌子・江沢洋訳『ファインマンさんベストエッセイ』岩波書店、20013月刊、298299ページ。

[37] 同、237ページ。

[38] E・ル=ロワ=ラデュリ著樺山紘一・木下賢一・相良匡俊・中原嘉子・福井憲彦訳『新しい歴史−歴史人類学への道−』藤原書店、2002(初訳は1980)12ページ。

[39] フランシス・ベーコン著服部英次郎・多田英次訳『学問の進歩』岩波文庫、19742001年、第5刷)、43ページ。

[40] ヘーゲル『法の哲学T』中公クラシックス、52ページ。

[41] モンテスキュー『法の精神 上』野田・稲本・上原・田中・三辺・横田地訳、岩波文庫、48-49ページ。

法律体系をその有機的連関の中で、じっくり検討しなければならないことに関して一言。 

 

横浜市立大学は、市が設置した大学である。

 したがって、この大学に勤務する教職員は、教員も一般事務職員も、「市の職員」である。こんなに確実なことはないように見える。

 しかし、この一般的な、教員と職員に共通の規定を何事に対しても杓子定規に当てはめていいか?

 そう考える人びともいる。

「同じ職員」だから、教員と事務職員とは勤務に関する諸条件形態も同じだという形式論理を平気で言う人がいる。その形式論理を慣例(そこに含まれている大学の使命の本質的要請)などは無視して何事にでも当てはめようとする人がいる。

それでは大学教員と事務職員という言葉の区別の必要もないことになる。

 

 大学は憲法的な要請を達成する学問・科学・思想の研究教育の場である。研究者としての大学人は、日々、その使命のために研究と教育に励んでいる。それが使命である。その大学人と大学に対しては、社会の中で最大限の自由が保障されなければならない。

決まったことを事務的に処理する事務職、事務職員と研究教育を職務とする大学教員とは、その使命が違っている。職務遂行の形態が違うのである。

最近、大学教員は、社会のこのような大学研究者の本来の使命に対する認識の深まりと高まりを踏まえて、「自己点検・自己評価」を自主的に、しかし場合によっては社会的強制として、行っている。何年かに一度は、みずからの仕事を自己点検・評価の文書で提出するようになっている。

朝決まった時間に出勤して、夕方決まった時間に帰宅するといった一般の事務職員の勤務形態と「自己点検・評価」を行い公表する自律的研究者としての大学教員の勤務形態・職務遂行形態とは違って当然なのである。そのことが、まったく分からない人びとがいる。

大学教員が固定的に拘束されているのは、たとえば講義時間であり、定例会議日・定例会議時間である。

講義は受講生に対する固定的な時間拘束のもとで遂行されなければならない。

会議は、構成メンバーの全体の便宜と効率性のために、定例の日時に行うことが義務である。

しかし、講義のための準備をどこでどのようなかたちでやるか、また講義の前提となる各人の専門研究をどこでどのようにやるのかといったこと、講義や会議の時間以外の過ごし方は、まさに研究者個人の自由と責任においてなされるのが当然であり、それこそが合理的である。

その自由な遂行を最大限保証するように尽力すべきなのが大学管理当局である。ところが、「管理」という側面だけを一面的に強調する人びとがいる。本来、大学の使命のために自由を保障し、その拡大のために尽くすのが職務のはずだが、逆に、自由を押さえ込む管理を強化しようとする人がいる。しかも、その大義名分が「市民」なのである。大学に対しては、いまや「市民」という名の「葵のご紋」が振りかざされるのである。

現代社会の要請からすれば、講義と定例会議、研究のために、週40時間の勤務・職務遂行時間は総時間数として必要不可欠であろう。しかし、職務遂行の非固定的な時間部分を自由に、各人の責任において処理しうることこそ、決定的に重要なことなのである。

大学にとって本質的に重要なことは、その遂行形態が、一部特定の固定部分を除いては、各大学人の自由と責任にまかされているということである。

 

 法律の適用ということでも、大学と大学人に対して、杓子定規に市の条例を振りかざしていればいいというものではない。憲法の諸条項、とりわけ学問の自由の断固たる保障がなければならない。その自由の口先での保証ではなく、制度的な保障がなければならない。

 一つ一つの具体例において、この憲法的要請、国法上の要請(たとえば教育公務員特例法)、そして市の制定する条例との相互関係が、時代の精神の総合的検証、時代の諸要請の総合的有機的関係のなかで、熟慮の上で慎重に確定され、検証されなければならない。

 まさに、法の精神が、具体的な問題ごとにしっくり検討されなければならない。そのためには、拙速を戒めなければならない。

 思想と学問の自由のためには、時間的自由、思考し、科学的検討をじっくり加えるための時間が必要不可欠である。

 形式的官僚的事務処理ですべてをそそくさとやってしまおうとする風潮、「条例」の形式的適用、しかも条例についてすらも、その全体の精神の熟慮ではなく、その条項の一つか二つのだけの硬直的適用は、大学の否定、大学の存在原理の否定である。

 

法の形式的固定的適用に関する末弘厳太郎のつぎの説明も、熟慮する必要があろう。

 

「もしも、『法』が全く伸縮しない固定的なものであり、またこれを運用する人間がこれを全然固定的なものとして取り扱ったとすれば、世の中の『矛盾』した『わがままかって』な人間は必ずや『いったい法は何のために存するのか?』といって『法』を疑うでしょう。そうしてその中に正直にして勇気ある者は『法』を破壊しようと計るでしょう。また彼らの中の利口にして『生』を愛する者どもはひそかに『法』をくぐろうと考えるでしょう。『法』をくぐってでも『生』きなければなりませんから。

 彼らの中の正直にして勇気ある者はよく『嘘』をつくに堪えません。『嘘』をつくぐらいならば『命』を賭しても『法』を破壊しようと考えます。彼らは『嘘』をつかずに生きんがために、また子孫をして『嘘』をつかずに生きることをえしめんがために、『法』を破壊せんと計ります。そうして『法』を固定的なものとして考え、固定的なものとして取り扱わんとする人びとのもっとも恐れている『革命家』は実にこの種の『正直にして勇気ある人びと』の中から出るのです。

 また、それほど正直でないか、または勇気のない多数の利口者は、『嘘』をついて『法』をくぐろうと計ります。」末弘厳太郎著佐高信編『役人学三則』岩波現代文庫、2000年、99100ページ。

 

 

[42] エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』岩波文庫、ほか。

[43] エンゲルス『フォイエルバッハ論』 全集第21巻、301ページ。

[44] 同上、301302ページ。

[45] 物理現象(磁力・磁石)の中にある合成力(電子レベルとマクロの磁石レベルの相互関係)に関して、左巻健男ほか『現代人のための中学理科 新しい科学の教科書U』文一総合出版、2003年で面白い説明を見た(p.120122)ので、書き写しておこう。

 

磁石は微小な磁石の集まったもの

 (磁石を砕いて細分化していっても)N極・S極を単独に取り出せないのは、そもそも電子一つ一つが小さな磁石になっていて、それが集まったのが大きな磁石だからです。

 といっても、電子がたくさんふくまれているはずの物質のほとんどは、磁石にはなっていませんね。それは磁石としての電子が、N極、S極が四方八方バラバラの向きに集まっているからです。そのため、それぞれの電子の磁界がうち消しあって、物質全体としては磁石にはなっていません。

 しかし、これらの電子の一部が自然に同じ方向を向き、全体として磁石になりやすい性質をもつ物質もあります。たとえば、鉄、ニッケル、コバルトなどです。これらの物質を強磁性体といいます。

 

磁石になっている鉄とそうでない鉄のちがい

鉄は強磁性体です。しかし、みなさんの身のまわりには、磁石でない鉄がたくさんありますね。磁石になっている鉄とそうでない鉄はなにが違うのでしょうか。

じつは、磁石でない鉄片でも、とても小さな領域に分けて見ると、それぞれの領域は磁石になっているのです。これは、この領域に含まれている電子の一部が同じ方向を向いているからです。しかし、それぞれの小さな領域の磁石の向きはばらばらになっています。そのため、全体としては磁石ではないのです。

その鉄片に強い磁石を近づけると、この小さな領域の磁石が同じ方向の向きになおり、鉄片全体が磁石となって、近づけた磁石と引き合うようになります。

 

(図、省略)

 

 コイルに鉄心を入れると磁力が強くなる理由

 コイルだけより、コイルに鉄心を入れたときのほうが、鉄心のなかの小さな磁石が整列しなおして磁界をつくり、コイルによる磁界と重なって強め合います。これが、コイルに鉄心を入れると強い電磁石になる理由です。

   

(図・省略)

 

 磁石を近づけて全体が磁石になった鉄でも、磁石を遠ざけたとき、もとにもどりにくいものと、すぐもとにもどってしまうものとがあります。これは鉄の原子の並び方や不純物の混ざり具合によって変わります。永久磁石にはもとにもどりにくいものが使われています。

 一方、電磁石には、もとにもどりやすい鉄が使われます。このような鉄を軟鉄といい、鉄を一度赤くなるまで熱してからゆっくり冷やすと軟鉄になります(「焼きなまし」という)。電磁石でももとにもどりやすい鉄が使われるのは、電流を切ったときに、磁石としての性質が消えたほうが使いやすいからです。」

 

[46] エンゲルス『フォイエルバッハ論』 全集第21巻、302ページ。

[47] 同上、303304ページ。

[48] 同上、305306ページ。

[49] エンゲルス『反デューリング論』全集、20巻、118ページ。

[50] 哲学、抽象的思考の前提は、歴史的発展である。現実生活(物質的富の生産・獲得など)におわれていると、哲学や諸科学は行えない。分業の必要性! 分業の一定の発展の結果としての社会の専門職業の誕生。