経済史講義メモ

マルク共同体

No.11 File kogikeizaishi710

最終更新日:2002327()

 

 

 

大塚『共同体の基礎理論』は、中世封建制の支配システムに関してはほとんど触れていない。

そこで、その点をエンゲルスの「マルク」[1]、「フランク時代」[2]という論文で補足しておこう。

 

1.メロヴィング朝およびカロリング朝のもとでの土地保有関係の変革

  中世末期まで、マルク制度はドイツ民族Nationのほとんど全生活の基礎であった。それは1500年間存続したのちに、ついに純経済的な方法によって徐々に滅びていった。マルク制度は、経済的発展にもはや適合しなくなって、その経済的発展の前に屈したのである。

 

マルク制度・・・はじめの幾世紀ものあいだ、ゲルマン諸部族の自由の基礎。

        その後、1000年にわたって、人民の隷属状態の基盤となった。

 

最古の共同体・・・全人民を包括するものだった。

         最初は、占有地はすべて、全人民のものdas ganze Volkだった。

のち・・・・・・・たがいにより近い親縁関係にある一ガウの住民全体が、その占住したbesiedelten Land土地の保有者Besitzerとなった。

                   全人民のものとしては、まだ残存していた無主地に対する処分dasVerfügungsrecht über die noch übrigen herrenlosen Stricheだけが残されていた

 

         ガウ住民は、さらに個々の村落共同体‐同じくより近い親縁関係にある親族から構成されていた−に、耕地および森林のマルクFeld- und Waldmarkenを譲渡した。

          その際、余分の土地は、これまたガウに残された。

 

                   原村落Urdorfの古いマルクのうちから土地を与えられた新開村落Dorfkolonienが分かれでたときにも、同じことが親村落について生じた。

 人民の全制度は血族的結合das Blutverbandを基礎にしていたが、血族的結合は人民の数の増加とその発展におうじて、しだいに忘れられていった。

  忘却プロセス・・まず人民全体について・・・共通の祖先ということが現実の血縁関係として自覚されることは、ますます少なくなった。その追憶はしだいに淡いものとなり、共通の歴史と方言が残されたにすぎなかった。   

          これに反して、ガウの住民のあいだでは、血族的結合の意識は、当然のことながら、もっとあとまで受け継がれた。こうして、人民は、多かれ少なかれ強固な諸ガウの連合に変わってしまった。  

ドイツ人は、民族大移動の時期には、以上のような状態。

        証拠は、部族法典。

        ザクセン人は、カール大帝の時代にいたってもなおこの発展段階。

        北海のフリース人の場合は、フリース人の自由が失われるまでこの状態。

 

ローマ領土への移動・・・血族的結合を打ち破った。部族別、親族別に定住しようとする意図があったとしても、それは実現されえなかった。

         長期にわたる遠征はさまざまな部族や親族だけ出なく、さまざまな民族全体をも混交させた。なおかろうじて保持できたのは、個々の村落共同体の血族的結合だけであった。そして、このために、それらの村落共同体が人民を構成する現実の政治的単位となった。ローマ帝国内の新しいガウは、すでに最初から多かれ少なかれ恣意的に作られた裁判官区であったか、ないしはごく短期間のうちにそのようなものになった。

  こうして、人民は小さな村落共同体の連合に解消した。これら村落共同体のあいだには、経済的関係は全然ないか、あるいはあってもごくわずかであった。それは各マルクが自足し、自らに必要なものを自分で生産し、し化もそれぞれの隣接するマルクがほとんどまったく同じものを生産していたからである。つまり、マルク間の交換はほとんど不可能であった。

        このように、まったく同じ経済的利害をもち、しかもそれゆえに共通の経済的利害をもたない小さな諸共同体だけから人民が構成されたため、それらの小共同体のうちから発生したのではなく、外来のものとしてそれらに対立し、それらをますます搾取する国家権力が、その後のドイツ民族(Nation)の存在の条件となる。

 

 基礎の土地所有関係と政治的上部構造の相互関係

     アジアのアーリア系諸民族やロシア人の場合のように、共同体が耕地をまだ共同の勘定で耕作しているか、でないまでもある期間だけ個々の家族にそれを割り当てている時期に、つまり、まだ土地の私有が形成されていない時期に国家権力が成立したところでは、国家権力は専制政治Despotisumusとして現われた。

 

     これに反して、ドイツ人が占領したローマの諸地方では、耕地と草地の個々の持分は、すでに自由地als Allodとして、つまり土地保有者の自由な、ただマルクの共同の諸義務だけに従う財産としてals freies, nur den gemeinen Markverpflichtungen unterworfenes Eigentum der Besitzer 現われた。  

     自由地は、土地保有の本来の平等がその反対物に逆転するという可能性だけでなく、その必然性さえも孕んでいた。

以前ローマ人の土地であった地域にドイツ人の自由地が出現したとき以来、ドイツ人の自由地は、それと並存していたローマの土地所有がすでに古くからそうなっていたもの―商品となった。

 

 商品生産と商品交換を基礎とするすべての社会で、財産の配分がますます少数のものの手に集中されるというのは、仮借ない法則である。・・自由地、自由に譲渡されうる土地所有、商品としての土地所有が発生したその瞬間から、大土地所有の成立は時間の問題にすぎなくなった。

 フランク時代・・・農耕と牧畜が決定的な生産部門であった。土地財産とその生産物がその当時の富のきわめて大きな部分を占めていた。当時存在していたわずかな動産的富も、当然、土地財産のあとに従い、ますます土地を持つものと同一の人間の手中に集められた。

 工業と商業は、すでにローマ帝国の没落期に衰退しており、ドイツ人の侵入はそれらをほとんど完全に破壊した。

 その後も存続しつづけたわずかな工業と商業も、たいていは非自由人か外国人によって営まれ、あいかわらず卑しい職業とされていた。

 財産の不平等が生じるとともにしだいにここに形成されていった支配階級は、大土地所有者の階級以外ではありえなかった。



[1] 『全集』第19311326ページ。

[2] 『全集』第19485538ページ。