更新日:2005年1月13日(木)
2001年夏休み科研費調査の旅
ミュンヘン現代史研究所 (全景)
ミュンヘン現代史研究所の玄関
今年2001年8月現在は、玄関をはじめ内部も工事中だった。夏休みではあり、日本で言えば予算年度最終の2月にあたり、工事が多いのかもしれない。
研究所の人びととわれわれのような訪問者とが昼食をするカンティーネも閉鎖状態で、その点は困った。
しかし,研究条件は快適で、PCを通じる最新の研究文献情報
http://www.ifz-muenchen.de/bibliothek/opac.html が利用しやすくなっていた。
今回の図書閲覧室掲示で,最近、外部からもこの現代史研究所の文献検索システムを利用できるようになったことを知った。
このソフトを利用すれば,現代史研究所に収録されている文献(最新のもの)がキーワードで検索でき、論点を絞った文献調査、研究史整理,研究史の到達点を確認しようとするとき、きわめて便利である。
土曜日と日曜日は研究所がしまっている(金曜日も職員の人は基本的に半ドンで、図書室も4時半にはしまる)。
なお、現代史研究所がある通り(Leonrodstraße)の反対側には、バイエルン州立文書館(第4部,軍事文書館Kriegsarchiv(その文字盤)と玄関付近全景)がある。ドイツではこのように州レヴェルでも文書館がしっかり完備している。歴史研究の基礎がしっかりしているということであり、現代と過去との対話のための一次的土台が大切に保存されているということである[1]。
週末には、ミュンヘンの歴史的場所,史的記念の場所を見て回る。
今回の調査中つかったデジタルカメラによる映像を元に,説明を加えておこう。
(英雄廟)
1.ヒトラーが1923年に一揆を起し,クーデターのための行進を開始した場所、英雄廟前の広場,
2.このいわゆるミュンヘン一揆はバイエルン当局の鎮圧によってすぐに失敗した。その場所オデオンプラッツ
3.ヒトラーに抵抗した「白バラ」のショル兄妹が戦争反対のビラをまいてつかまった場所=大学本部玄関。
(ショル兄妹記念広場から英雄廟をみる)
4.ショル兄弟を記念した広場(画面右端)から英雄廟・オデオンプラッツをみたところ
5.ショル兄弟記念広場から「白バラ」に協力したフーバー教授(ミュンヘン大学法学部教授)を記念した広場(大学法学部の建物)をみたところ
6.1944年7月20日のヒトラー暗殺事件関与者の記念碑(上:減刑申請が却下され,15時に処刑されることを家族に伝え,来世での永遠の再会を祈る四〇歳の農民フーフナーゲルの文章,7月20日クーデータ−への呼びかけ文「問題は公正な平和なのだ」云々,それを書いたのはフォン・ヴィッツレーベンなど、彫りこまれている)、
7.その記念碑のある公園(ホーフガルテン)
8.その公園は王宮(レジデンツ)の一部
(国民劇場・ミュンヘン)
9.このレジデンツに隣接する国民劇場とその右横を貫くミュンヘンでもっともおしゃれな通りとされるマキシミリアン通り(ルイ・ヴィトンなど高級店が並び、遠方、通りの奥にはバイエルン州議会の建物が見える)
10. 市庁舎(新)とマリーエン・プラッツ (新市庁舎のからくり時計は有名)
11. 市庁舎(旧)とマリーエン・プラッツ(画面右側おくの方,赤い尖塔の建物・・・現在はおもちゃ博物館になっている)
12. カウフィンガー通りとその後方にそびえる聖母教会Frauenkirche
13. 私の2回目の長期在外研究、1985年3月末から1986年3月末のミュンヘン大学・在外研究の場所=社会経済史研究所(Prof. Zorn)は、正面の凱旋門の左の建物の4階にあった。
14. このミュンヘン長期在外研究滞在で住まいとしたのは、Prof. Herrlich元ミュンヘン大学医学部教授の家(当時は未亡人で76歳になっていた奥さんが住んでいた[2])の二階。
この家は1936年に建てたそうで、まさにナチが政権掌握後3年たったときであり,ベルリン・オリンピックを開催する頃であった。
当時、完全雇用状態を達成し、ヒトラーは絶頂期への上り坂にあった。しかし、国家経済は、表面的な好景気とは裏腹に、軍事経済化によって危機要因をしだいに蓄積していった頃でもある。
庭が広く,リスが時折、走り回っていた。庭のひとつのシンボルツリーになっている古いりんごの木はいっぱいの実をつけ、家主のFrau Prof. Herrlichさんがアップルパイのケーキをご馳走してくれたのも懐かしい思い出となっている。彼女の死後、家は他の人に貸し出されたか(売却されたか),今では他の人の名前(もしかしたら娘婿の名前かともおもわれる,息子はマンハイム大学医学部教授でミュンヘンにはいない)になっている。
15. このツァンボニーニ通り(バイエルン王家とイタリアの建築師・庭師などとの関係は深く、ミュンヘンではイタリア系の通りの名前も散見される,文化的にはバイエルンはローマ,イタリアとの接触によって東北のブランデンブルク・プロイセンより豊かさと高さがあったとされる,バイエルン人の独自性・誇り)の家から子どもたちはニンフェンブルク城にある小学校(Grundschule)と幼稚園(Kindergarten)に通っていた。
ニンフとは妖精であり、若い女性、バイエルン王が愛した女性たちを意味し、宮殿の内部には壁一面にたくさんの女性の絵が掲げられている。
バイエルン王家の夏の離宮であったニンフェンブルク城の一部が、いまでは小学校や大学の研究所などになっている。
それはボン大学(本部建物)やミュンスター大学(本部建物)などでも同じ。日本ではかつて金沢城跡に金沢大学があったのに類似。
16. ニンフェンブルク城の正面(全体)、正面(近接)、パノラマ、内庭(離宮のベランダから庭をみたところ)、内庭(庭から離宮を見たところ)
[1] 現在の生きた人間が現在の到達点から過去をふりかえることは、過去の時代の人びとが犯した失敗もそれを克服したプロセスも、すべてを検討できるということであり、その徹底的な科学的検証のためにこそ一次史料が貴重なのであり.現在をよりよく生きるための土台なのである。日本のように文書館システムが確立しておらず、アーキヴィスト(Archivar)の養成がきちんと行われていないことは、過去を科学的に検証するシステムが確立していないことを意味する。
[2] 帰国後の86年・87年の冬、クリスマス・新年の挨拶を送ったら、息子のマンハイム大学教授から、母は最近なくなった、と連絡があった、矍鑠としていたがはかない思いであった