ハンザ同盟の主要都市のひとつブレーメン

ブレーメンの音楽隊Bremer Musikanten
(「ブレーメンの音楽隊」・市庁舎横の銅像)



経済史講義メモ

中世西ヨーロッパ経済

No.12 File kogikeizaishi1022

最終更新日:2002102()

      

        

現在西ヨーロッパの「中世都市」

        

今日、ヨーロッパを旅行すると、一番印象的なことは中世都市が大切に保存され、現代生活の中に溶け込んでいることである。

 ドイツのロマンティック街道romantische Straßeには、そのような諸都市が連なっている[1]

ロマンティック街道の中でもっとも有名な町は、ローテンブルク Rothenburg ob der Tauberである[2]

そのほかディンケルスビュールDinkelsbühl[3]も中世の趣を残す点ではローテンブルク以上である。

このような中世都市が、ドイツでは網の目のように形成された。

       

       

中世都市

1.              市場の展開と中世都市の成立

      

中世、住民の圧倒的多数は、農村の村落共同体で生活。

 これに対して、交通の要衝、政治的軍事的要衝、宗教的拠点などに商業・手工業(商人・手工業者)が集住・・・中世都市の形成・・・都市の諸類型[4]

         

         

アンリ・ピレンヌ・・・「商業の復活」

 8世紀末のイスラムのヨーロッパ侵入以降、「封鎖的家経済」に陥っていたヨーロッパは、11世紀からようやく「商業」が復活。・・・ピレンヌが着目したのは、各地を遍歴する商人たちであった。「中世の経済ルネサンスの特徴であったものは、大規模商業、あるいはより正確な言葉を選ぶならば遠隔地商業である」と[5]。・・・遍歴商人の定住から中世都市が形成される。

     

 都市と農村の間に明瞭な分業の成立・・・農村はもっぱら農業、都市はもっぱら商工業。

 中世都市が成立発展すると、都市の側は、「農村に工業を導入しようとするあらゆる企てに対して、ぬかることなく戦った。都市は都市の存立を失うまいとして警戒の目を光らせた[6]。・・・都市から周辺農村に対する商工業規制圏(バンマイレ)

       

 しかし農村には、古くからの現物経済・自給自足経済を基礎に、また農業と工業の原初的融合を基礎に発展してきた農村工業が、「さまざまな形態で広く存在」し、その交換の場としての「週市と年市との中世を通じての広い普及」があった[7]

       

 10世紀後半から13世紀にかけて、西ヨーロッパは「中世農業革命」とも称される農業生産の上昇を経験する。とくに、鉄製の刃をもつ重量有輪犂、および「耕区強制」を伴う三圃制の普及は生産力上昇に大きな影響を与えた。

 →この「中世農業革命」の中で、農民層をも含めた社会全体の市場経済化が大きく進展した。

 フランス北部地方からベルギー・フランドル地方について、11世紀から13世紀、「中世盛期は、あらゆる物資の「商品化」という過程の最初の段階になった[8]」。

 イングランドでも、11世紀後半から13世紀にかけて約2000の定住地に市場開設証書が与えられており、この時期に「市場取引の重要性が絶対的にも相対的にも増大した」ことは多くの研究者が指摘[9]

      

フランス、全体として西ヨーロッパ社会は、「11世紀から13世紀まで、真の、そして息の長い拡大を経験している。耕地は拡張され、人間集団は膨張した。このようにしてもたらされた拡大は、地方分権的な世界のなかで、領主たちの手によって、細かい単位ごとに成し遂げられたのである。結局、この封建制の古い世界は、社会の、誠に驚異的な発展にとって、きわめて好都合なものであったように思われる。ことに、1300年以降の4世紀にもわたる長い停滞に比較するならば、ともあれ、これは驚嘆すべきもの」であった[10]

       

 13世紀から15世紀にかけて、イタリアから発した為替手形を用いる信用・決済機構が、シャンパーニュの太市を経て全ヨーロッパに広がり、地域間の貨幣信用取引の決済が可能になっていった[11]

 「商業の復活」で台頭した遠隔地貿易の拠点としての都市は、各地域経済のなかで、局地的、地域的取引を担う多くの市場と密接な関係を保っていた「中心地」であった。

                                               「狭い市場領域」、「広い市場領域」、「遠隔地商業圏」の3層の市場的な影響圏の階層的構造

     たとえば、ライン地方・・・1200年ごろには「輸出向け手工業に裏打ちされた遠隔地商業都市」に成長したケルンをはじめとした4都市による「年市システム」が生み出され、こうした年市も、周辺の小都市と市場機能が分担されていた。そして、「地域経済全体」の浮揚が年市システムの原動力であった[12]

       

2.                            中世都市の「自由と自治」

     

都市は、裁判・管理機構という領主行政への共同体参加の度合いが「農村」よりも強い。・・・自治権の度合い

     

11世紀末から12世紀に北フランスからライン地方にかけて展開した「コミューン運動」において、「宣誓共同体」を形成した市民は、暴力と混乱の時代に市民の平和と秩序を求め、慣行や慣習をコミューン文書で承認させた。

      

他方で、商品貨幣経済関係の一定の成熟で成立してくる王権は、諸侯を牽制し、諸侯を抑圧するための拠点として都市コミューンを重視し、都市にコミューンの結成を促すようになった[13]

 例えば、北フランスの司教座都市トゥールネは、1188年のコミューン文書で「ほぼ完全な都市国家」とも評された「自由と自治」を獲得したが、それはこの時期の王権の政策と合致してはじめて可能となった。「都市領主たる司教の支配からの離脱王権への従属を生みだし、その下でコミューンははじめて自由を保証された[14]」。

 他方で、国王は自分の足元、すなわち、「国王直轄領内部の都市におけるコミューン形成に敵対し、王権支配下の司教座についても、可能な限りその志向を貫いたのである」。例えば、オルレアンでもポアチエでも、コミューンはついに成立しなかった[15]

さらに王権の強かったイングランドでは、都市の自治は「コミューン運動自体によってではなく、王領都市から国王の地代収入・裁判収入の徴収を住民が請け負う都市収入徴税請負権を国王が住民に与えることを通じて達成」された[16]。    

  

3.中世後期の「地域」経済

   都市と農村を含めた「地域」経済の成立

      

そこでのギルドやステイプル制の役割・・・

       

ツンフト(ギルド)・・・親方手工業者の対内平等・対外独占の原理

     しかし、長期的な変動に対しては柔軟に対応していく。

        

ステイプル制・・・都市工業が高級品生産へと転換して経済的活力を維持するために、製品の均質化や標準化を同業者組合(ギルド)として行うことが必要だった。

     検査・規格化政策としてのステイプル制  

       

4、領主制と市場経済

(1)領主制にとっての市場

    農民層をも巻き込んだ市場経済化が、封建領主制と密接な関係をもちながら進展。

    

   市場は領主制にとって

     第1に、領主の領域支配の拠点としての役割があった。

        市場開催地の多くが領主支配の中心地であった。

 長く機能しつづける市場は、有力領主が宗教、行政の中心地に開設していた市場であった[17]

 

     第2に、市場開設がもたらす収益も大きな意味をもった。市場税、流通税、裁判収入など取引自体から生じる収益だけでなく、市場開設地の住民からの地代収入も大きな利益をもたらした[18]

              

        (2)市場にとっての領主制

         市場取引が順調に機能するための所有権の安全、契約の遵守などを保障する「取引費用」・・・その「取引費用」の低下、削減をもたらすための制度として、領主開設の市場があった。

        「中世のイングランドにおいては、年市や市場は、国王の許可のもとに諸個人によって組織された。彼らは、年市ないし市場の場所や設備を準備しただけでなく、安全の確保にも責任をもち(これは政府の力が比較的弱い不安定な時代には重要なことであった)、争いごとを裁く裁判所(簡易即決型裁判所)を管理した[19]」。     

         領主の市場役人は、販売の場所と時間を布告し、標準度量衡を確認

         領主が開設する市場は、契約の遵守、および取引された商品の品質の保証などを通して不正な取引を防止する「制度」。

                

          (3)モラル・エコノミー・・・近世において開設市場は、共同体原理に支えられたモラル・エコノミーの拠点

          たとえば、18世紀のイングランドにおいても、「農業者は、穀物をまとめて在地の陳列市場にもっていかなければならない.彼らは、穀物を耕地にいるときに売ってはならないし、値上がりを見越して売り控えてもいけない」というモラル観念=モラル・エコノミー観念をもっていた[20]

         このような静態的なモラル観念と組み合わさった取引関係=市場関係は、「在地の陳列市場」とともに中世に起源を持っていた。

             

             

     しかし、社会秩序の全体が維持されるようになり、開設市場の外での売買の取引費用が低下すれば、市場取引は開設市場で行われる必要がなくなる。16世紀のイングランドでは、開設市場(公開市場)を経由しない「私的取引」(private marketing)が発達した。    

         

当時台頭してきた資本主義的企業家は、こうした私的取引を積極的に利用し、むしろ開設市場での取引を拒んだ。

16世紀以降イングランドで進行したいわゆる「農民層分解」は、中世村落の中核的農民層である1ないし2分の1ヴァーゲイト(フーフェ)保有農の消滅を意味していた。大量の貧民が生み出されるとともに、巨大な土地を保有するヨーマンリーが出現した。「資本主義的な農業経営」を行った彼らは、開設市場への強制出荷を堪えがたいものと感じ、穀物不足に迅速に対応できる柔軟な自由市場の整備を要求した。

       このとき中世以来の開設市場が持つ共同体的規制は、「自由市場」の発展を阻害する規制として意識された[21]

       私的取引は、とりわけ、16世紀の3つの市場、すなわちロンドン市場輸出市場王室・軍隊への供出の拡大によって刺激された[22]

       

       

       

14世紀から18世紀前半までの商業的発展・商業交易の発展

          →いくつかの巨大な王国の成熟過程(イギリス、フランス)、あるいは領域的支配の拡大、領邦君主制(ドイツその他)

          14世紀から18世紀前半までのヨーロッパの低い成長率の背景・・・第1、黴菌(ばいきん)・伝染病(ペスト、チフス、赤痢)などの流行

    

2、戦争

      「巨大国家は、その内的論理に押されて行動する.他面、巨大国家はまた、個別の人びとによって運営される。これらの人びとは、統計的にみれば、視野が狭く、欲が深く、そして思慮は浅い。これらの国家は国際的な範囲で戦争を起こし、みずから終止符を打つ能力をしばしば欠いている.かくて戦争は、30年、百年と続くことになる。・・・・ 

      戦争はたしかに疫病をひろめる。ティフス菌をもったシラミ、ペスト菌をもった蚤を運搬したのは兵士であり、また戦場から逃げた人びと、戦乱の時期に増加する浮浪者、乞食である。わずかひとかたまり、たった八千の兵員がリシュリューの征伐の際、フランスを一方の端から他方の端へ、すなわちラ・ロシェルからモンフェラまで遠征した。しかるに、この一回の軍事行動が伝染病の狷獗(しょうけつ)を許す。1627年ないし28年から後、このささやかな軍隊は百万以上のペストによる死者を生み出す。この軍事行動は、新教徒を服従させようとする枢機卿リシュリューの政策から生まれたものであったが、伝染病こそはそれに対して支払われたものであった。・・・

      しかも戦争は別の結果をも生じさせる。牛馬の徴発、掠奪、水車や農場の破壊、穀物を満たした納屋への放火、などなどによって戦争は農業資本の散乱を招く。さらにしばしばこれに、さまざまな理由による死、ときならぬパニックが加わる。このパニックは、播種、耕作、収穫など、欠くべからざる農作業の時期に発生した場合、働く人びとを恐怖におののかせ、都市の壁のなかに閉じこもらせてしまう。・・・これらは、若干の条件の下では、アンシャン・レジームの人口と環境の体系の、単純再生産すら不可能とするに十分なものであった。これに類する現象は、1430年頃のノルマンディにみられる。この時、この地域の人口は、たちまちのうち、百年戦争以前の水準の28パーセントにまで低下する。ギ・ボワはこれを指して、まったく正当にも「ヒロシマ型」とするのである。・・・・ジャンヌ・ダルクの時代、戦争、ペスト、諸種の伝染性疾患、そして飢餓の4つの症状は、これらだけで、経済における単純な後退に、はるかに優る結果をもたらした。[23]

       

中央集権化されていった君主制国家は、「経済、文化、社会の諸側面で、ある程度の発展を促す能力を有していた」。中世都市の発展、その背後にあるヨーロッパ的規模での商業の復活、こういったことの結果として、政治軍事の一定の集中が起きた。経済発展の一定の反映であった。

       

しかし、それは、同時に、それぞれの君主制国家どうしの対立・ぶつかり合いの要因をも形成するものだった。「君主制国家の機構の圧倒的部分が、軍事的なものであった・・・この軍事的機構それ自体、ヨーロッパにおける国家のシステムのあり方に関わっているのである。軍事機構は、さまざまな手口で、国家を墓場に追いやることになる軍隊のために、財政のなかば以上を貪り食う。この点、ヴェルサイユの宮廷の浪費生活をはるかに上回るものであった。[24]

       

商業の発達→プロテスタンディズムの興隆・拡大→宗教戦争・・フランス「1560年―1595年、フランスの再生産体系を停滞させる」 ・・・「1600年をすぎて、満身創痍となった再生産の体系は、試練のときを脱する[25]

       

3 飢餓・・・「17世紀の飢饉は、その時代にあってはすこぶる猛烈なものであった・・・飢饉は一連の歴史的文脈から切り離して観察してはならない・・・現実のうちでは、飢饉は『全体的な社会事象』として発生する・・・源をたどれば、飢饉という現象は、戦争に結びついている。戦争はそのもたらす災禍や租税によって、個々人を食糧不足に追いこむための舞台を用意する。歴史の流れを下ると、飢饉は疫病に結びつく。この場合、飢饉は二重のしかたで疫病をひきおこす。すなわち、第一に、飢饉は栄養失調という、容易に罹病しうる条件を提供し、第二に、飢饉は病原体の保有者たる乞食を大量に発生させる。要するに基金もまた、・・・人口調節の最後の手段だった.それは苛酷であった・・・(しかし)通常は、飢餓的状況になるほど食糧が欠乏するよほど以前に、外因性ないし内因性の調整作用、たとえばペスト、戦争、種々の疫病、あるいは結婚年齢の高齢化、などが作動を開始する。そして、遅きに失することがないうちに、人口像かの傾向はそがれる.もとより、これらの調整作用によって、マイナス方向への激しい変動が引き起こされたことすらなかったわけではない。[26]

       

中世都市の問題性・・・「町は死に場所」

        都市は人口増加に対する安全弁として機能

       

都市は農村から流出する過剰人口を吸収する。ついで都市は、この問題の過剰人口の、すくなからざる部分を墓や、あるいは不妊に追いやる。この際、都市は、あるいは奔馬性結核を利用し、あるいは嬰児殺害犯たる里親に向けて無数の乳児の搬出を行わせ、あるいはまた、流入する若年層に対してはてしない独身生活や高齢結婚を強要し、つまりトウが立って生殖能力を失うまでに仕向ける。・・・・

人口抑制の、より甘美な方式である避妊という手段に基づく方法が、今問題にしている4世紀の間、まったく尊重されなかったことも、また真実である。なかば宗教的、なかば習俗的なタブーが、西ヨーロッパ諸国において性交中断を禁じていた。そしてこのタブーは、富裕な階層の中では、18世紀になるとようやく薄らぎはじめる。だが農民のなかでは、フランス革命以後になるまで、このタブーは弱まることがなかった。」

        

       

       

新大陸発見→地理上の革命→商業革命→世界市場の形成→近代資本主義の台頭、成長→世界システムの形成

           世界システムの形成

        

        



[1] ロマンティック街道を手軽にちょっと知るには、

http://www.tm-a.co.jp/travelfun/cityInfo_ab/Germany/romantischstrasse_new.html

[2] 手軽にはたとえば、つぎのある若い人の旅行案内を参照されたい・・・

http://www03.u-page.so-net.ne.jp/pc4/anna-m/anna/travel/german/rotenburg.htm 

ドイツのローテンブルク市の直接の最新映像を希望するものは、つぎのページ参照

http://www.rotabene.de/webcam/archiv.html

旅行のためのホテルなどは、http://www.rothenburg.de/tour/d/tour1.html 

[3] 手軽には、つぎを参照してみてください。 http://www.tm-a.co.jp/travelfun/cityInfo_ab/Germany/RomanticWay/dinkelsbuhl_new.html

ディンケルスビュール市の広報ページは、http://www.dinkelsbuehl.de/e/stadt/stadt2.html この町全体の鳥瞰図がすばらしい。中世において市壁(Burgブルク・・・「ブルクの中の人」という意味でBürger=市民,ビュルガー、ブルジョア、のち意味転化)に取り囲まれていた部分が派っきりわかる。

[4] マックス・ウェーバー『都市の類型学』世良晃志郎訳、創文社、1965(経済と社会 / マックス・ウェーバー [] ; 2 9 8節)。

[5] H.ピレンヌ『中世都市』19201970佐々木克巳訳、創文社、p.104

[6] 同、p.133.

[7] 森本芳樹編著『西欧中世における都市農村関係の研究』九州大学出版会、1988p.ix.

[8] 山田雅彦「市と交易」江川温・服部良久編『西欧中世史(中)』ミネルヴァ書房、1995,.125.

[9] 勘坂純市「公開(オープン・)市場(マーケット)・生活水準・封建制」道重一郎・佐藤弘幸編『イギリス社会の形成史』三峰書房、2000年、p.22-27.

[10] E・ル=ロワ=ラデュリ著樺山他訳『新しい歴史−歴史人類学への道−』藤原書店、2002(1980年初訳)28ページ。

[11] 名城邦夫『中世ドイツ・バンベルク司教領の研究』ミネルヴァ書房、2000年、pp.151-236.

[12] 田北廣道『中世後期ライン地方のツンフト「地域類型」の可能性』九州大学出版会、1997年、pp.65-93.

[13] 高橋清徳「コミューンと都市法」(プティ=デュタイイ『西洋中世のコミューン』高橋清徳訳、東洋書林、1998)。

[14] 斎藤絅子『西洋中世慣習法文書の研究』九州大学出版会、1992年p.200.

[15] J.シュネーデル「フランス王国におけるフランシーズ文書の起源」山田雅彦訳(森本芳樹編訳『西欧中世における都市と農村』九州大学出版会、1987年)

[16] 城戸毅「中世イングランドの国政と都市」『西洋史学』118号。

[17] 勘坂純市「中世イングランドにおける市場開設件と領主層」『土地制度史学』140号。

[18] 勘坂(2000, pp,35-36

[19] R.H.コース、宮沢健一他訳『企業・市場・法』東洋経済新報社、1992pp.10-11.

[20] .P. Thompson, ‘The Moral Economy of the English Crowd in the Eighteenth Century’, Past and Present, 50, 1970, p.83.

[21] 常行敏夫『市民革命前夜のイギリス社会』岩波書店、1990pp.84-101,178179.

[22] 勘坂純一、2001、p.32.

[23] E・ル=ロワ=ラデュリ著樺山他訳『新しい歴史−歴史人類学への道−』藤原書店、2002(1980年初訳)3234ページ。

[24] 同、36ページ。

[25] 同、3839ページ。

[26] 同、41-42ページ。