経済史A講義メモ
地理上の発見と商業革命[1]
−資本主義世界体制形成・世界システム(ウォーラーステイン)の形成[2]−
No.13 File kogikeizaishi1029
最終更新日:2002年5月22日(水)
地理上の発見
15世紀末、ヨーロッパのアジア・アフリカ,アメリカへの進出
ヨーロッパ商業に未曾有の大市場を開き、数々の新商品をもたらした。
→中世ヨーロッパ商業の大転移、経済の大変動・・・・「革命」的変化・・・「商業革命」
商業革命の直接の担い手・・・ポルトガル、スペイン・・・その背後にあったのは15世紀に進行した地中海貿易の変質。
ジェノヴァ・・・香辛料貿易でヴェネツィアに水を空けられ、オスマン・トルコの進出により、東ローマ帝国内や国会沿岸の植民地・商館を失う→新しい活動の場を北西ヨーロッパ・イベリア・北アフリカ諸国との貿易に移す・・・リスボン、セビリアなどイベリア半島の各地にイタリア商人の大居留地が出来上がった。砂糖・生糸生産の技術を持ちこみ、アフリカや大西洋諸島の探検=経営にも出資・参画。
フランドル諸都市の商人たちも集まってくる。
ポルトガルの東インド進出
1253年、イスラム勢力を駆逐して国土統一・・・大西洋諸島、アフリカに精力的に進出→1415年、エンリケ航海王子がモロッコの金の集散地セウタを攻略→インド航路の開拓、イスラムに対抗するキリスト教国エチオピアとの連携、ギニア砂金・・・1471年ギニアに到達。要塞と商館を建設。・・・・ 砂金、象牙、黒胡椒と銅、毛織物との貿易
多数の黒人奴隷を大西洋諸島に(のちにはブラジルにも)送って、砂糖やぶどうの栽培に使役。
→1498年、ヴァスコ・ダ・ガマによって東インド航路が開かれると、香辛料を王室専売とし、インド庁の手で買いつけ、一括ヨーロッパ市場に卸した(1577年まで)。ただし、実質的にはイタリア商人に依存。
→1510年ゴア、1511年マラッカをはじめ、インド洋やインドネシア各地に要塞や商館を築いて競争相手であるアラビア商人を排除し、香辛料貿易の独占を企てた。
対貨として、銀や銅が送られた。
16世紀後半からは、アメリカ大陸の低廉な銀が大量にヨーロッパに送られ、そこからますます東洋に流出。
・ ・・・地中海・中近東経由の旧い貿易に壊滅的打撃。
スペインとアメリカ大陸
国内の内紛、南部になおがんばるイスラム国家の再征服の必要性→大西洋進出の点でポルトガルに大きく出遅れた。・・・大西洋進出の拠点セビリア・・・ジェノヴァなどイタリア各地の商人の大居留地。
コロンブスにはじまる一連の探検征服・・・領地や金を求めて。
金などのインディオからの掠奪、強制労働でえた砂金をヨーロッパへ。
1545‐48年、メキシコとペルー(ポトシ)に有望な銀鉱山発見・・・南ドイツから新しい精錬技術(水銀法)を導入し、インディオや黒人奴隷の強制労働によって低廉な銀を大量に生産(絶頂で年35万キロ)。その大半を本国へ。
→銀山開発と入植に伴い、必要な農具や鉱山用資材(水銀など)、食料・葡萄酒・衣料(毛織物・麻織物・絹織物)がほとんどすべてヨーロッパで調達されることになった。
→スペインの工業は、この突然の市場拡大に対応する能力を欠き、政府も工業保護の関心が薄かったから、外国品の輸入を認めた。こうして、イギリス、フランドル、フランスの毛織物・麻織物など外国品が大量に流れ込んで、植民地への輸出の9割を制し、アメリカ植民地への輸出貿易も、実質的にこれらの国々の商人の手に落ちた。こうしてスペインは、アメリカ大陸の市場のみならず、その銀をも吸収されていくことになる。
商業革命とヨーロッパ経済の再編
すでに衰退過程にあったイタリア(とりわけヴェネツィア、ジェノヴァ)は、商業革命の結果、ヨーロッパのなかで二義的役割にを演じることに。
ヨーロッパ商業のメトロポリスは、アントウェルペンに。その一因は、ここがポルトガル香辛料販売基地に選ばれたこと。他方、東インド向けの銀や銅も、この市場を通じて調達された。後には、アメリカ大陸向けの薄手の毛織物・綿織物・麻織物がここからスペインに輸出されるようになった。
ヨーロッパ経済や国際関係への影響の点では、アメリカ産の銀の大量流入が大きい。
その一部(約3分の一)は王室所有・・・スペインの君主をかねたハプスブルク王朝のカール5世は、この財源に支えられて、トルコやフランスとヨーロッパの覇権を競い、オランダやイタリアに新領土を得た。その子フェリーぺ2世は、王統の絶えたポルトガル王位をも奪い、2大海上帝国をその王冠の支配下に収めた。しかし、無思慮な王朝戦争は国家財政を破綻させ、銀もことごとく、対外支払いや貿易収支の赤字に穴埋めとして流出して、スペイン経済を何ら潤さずに終わった。
しかし、ヨーロッパ経済拡張期における貨幣素材供給の意義は大きい・・・先進工業国に工業製品の追加的市場を提供・・・イギリス農村工業、「国民的産業」としての毛織物工業の発達
しかし、商業革命から18世紀までのヨーロッパ経済の発展は、きわめて緩やかなものであった。
例えば、フランス
・ 「中世末から18世紀初頭まで・・・伝統的で農村的・・・その数量的な規模は、相当の幅のある振幅にもかかわらず、常に一定の高さの不変数に戻る傾向を示している。
・ ・・・
・ 1700年頃のフランスの人口・・・1900万から2000万の住民
・ 1300年ないし1340年頃のフランスの人口・・・低めに見積もって、1700万人。
・ つまり、「全体として、1300ないし1340年代から1700ないし1720年代までの4世紀間に、わずか2200万しか上昇していない[3]」
・ このような「人口の自動的安定」をもたらしたのは、たとえば伝染病。
・ さらに、生産力・生産技術・農業技術の停滞性・・・・「フランス歴史学界の最近の業績が明らかにしたところでは、11世紀から13世紀頃までの中世で行われた、最初の農業革命から、遅く19世紀になって実現する2回目の農業革命までの間、農業技術および穀物収穫量は停滞的であった。・・・1300年代から1720年までの食糧生産は大雑把にみて等しく、一定の水準を維持している。こうして、この社階は、この4世紀の間、生態学的な観点からみて驚くほど均衡が取れていたことが判明する。・・・長期的枠組みの中で、人口と穀物双方の生産の母数はほぼ不変であった」と[4]。
急激な人口増加や産業発展は、その意味では産業革命以降であり、しかも19世紀から20世紀のうちに加速化したのである。