経済史講義メモ
近代資本主義経済の成立‐重商主義期まで‐[1]
No.14 File kogikeizaishi1112
最終更新日:2002年10月24日(木)
ポルトガルによる新航路開拓・・・銀によって胡椒を買う・・・中世の地中海商業の延長であり、新しい生産システムを直ちにもたらすものではない。
近代資本主義経済・生産システムとしての資本主義(その起点)は、生産自体の変革・生産様式の変革、生産における人と人の関係の変革が必要。
スペインによる新大陸貿易の進展・・・アジアとの交易に加えて、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカを結び、環大西洋を舞台とした新しい貿易関係の出現・・・もはや中世的商業のたんなる延長ではない。
ヨーロッパがはじめて銀以外に売ることができる商品(手工業品)を開発し、他方で銀のほかにプランテーションによる新商品(ex.砂糖)がヨーロッパにもたらされた。
アダム・スミスによれば、
「ヨーロッパを一大国とみなしたばあい、それがアメリカの発見や植民から引き出した一般的利益は、第1にその享楽の増加であり、第2にその産業の発達である。[2]」
・
農工の新しい規模・新しい地理関係での分業関係の形成、その拡大・・・新しい世界市場
スミスにいわせれば、
「アメリカの発見や、そこへの植民は、だれしも容易に認めるであろうように.まず第1に、それと直接に貿易するすべての国々、例えばスペイン、ポルトガル、フランス、イングランドのような国々の産業の発達に寄与したし、また第2に、それと直接には貿易しないが、他の国々を媒介として、そこへ自国の生産する財貨を送るすべての国々、たとえばオーストリア領フランダース(フランドル)やドイツの若干の地方のように、前述の国々を媒介として、そこへ相当量の亜麻布その他の在かを送る国々の産業の発達にも寄与した。これらすべての国は、その剰余生産物に対する一層広大な市場を獲得したことは明白であり、したがってまた、その生産量を増加させるための刺激も受けたにちがいないのである。[3]」
・ しかし、スペインはその新しい市場の可能性に対応する新しい生産変革の要請にこたえることができたか?
・ スペインにおける生産基盤、生産方法、生産様式Produktionsweiseの変革は?・・・スペインでは強いギルド規制の制約[4]、十分な供給能力なし、需要急増に対応できず。 さらに、インディオ、黒人奴隷を使って掠奪的・強奪的に獲得された「安い」(旧大陸の銀と比べての「安さ」は生産方法・生産力の変革によるものではなかった!!)新大陸の銀が大量に持ちこまれ、結果として一種のインフレ的高賃金。輸出品の主力である毛織物の品質は劣悪・・・・・相対的に高くて悪いものを誰が買うか?
・ そのため、スペインは外国製品の参入を認めざるを得なくなった。・・・フランドル、イギリス、フランスなどの製品に新大陸市場を開く結果となる。
・ →→これが、西ヨーロッパの初期工業化の強い刺激となった。
スミスの鋭い指摘・・・諸国民の経済の発展と没落を観察・分析しての結論・推論・・「アメリカを領有し、東インドと貿易している国々が、いっさいの利益を獲得しているように見えるけれども、事実はそうではない」とし、次のように言う。
「なるほど、アメリカの植民地を領有し、東インドと直接に貿易する国々は、この大商業で外観を飾り、その光輝をほしいままにしている。けれども、他の国々のほうが、ねたみぶかいあらゆる制限のために排除されているにもかかわらず、この商業の実質的利益により多くあずかることがしばしばある。たとえば、スペインやポルトガルの植民地は、スペインやポルトガルの産業よりも、実質的にはむしろ他の国々のそれをより多く奨励している.亜麻布というただひとつの品目だけをとってみても、これらの植民地の年間消費額は英貨300万ポンド以上に達するという・・・。それにしても、こういう巨額の消費は、ほとんど全部フランス、フランダース(フランドル)、オランダおよびドイツから供給されている.スペインやポルトガルはそのほんの一小部分を提供するにすぎない。こういう巨額の亜麻布を植民地へ供給する資本は、これらの他の国々の住民のあいだに年々に分配され、彼らに収入を与えている。その利潤だけが、スペインやポルトガルで消費されるわけであって、そこではこの利潤がカディスやリスボンの商人の豪奢な消費を支える助けになっている。[5]」
・「商人の豪奢な消費」は、国民的な工業の育成、国民的な生産力の向上ではない!
・ 新大陸からのスペインに送られてくる銀は、次々とヨーロッパ内での支払いで、スペインからは消えていった。
・ 初期工業化の中心地となったフランドル、ベルギー、オランダ地域ではスペインからの独立の機運が高まってくる。
・ →→1568‐1648年のオランダ独立戦争による財政圧迫とオランダの独立(1581年)、やがて工業生産の中心は北西ヨーロッパへと移動。
・ それとともに海上覇権も、オランダ、フランス、イギリスへと移行していく。
産業覇権と海上覇権の相互関係
産業覇権と商業覇権の相互関係
17世紀におけるオランダとイギリスの海上覇権を巡る競争
17世紀に入ると、オランダ、イギリスが東インド貿易に参入
オランダは、史上初の株式会社である連合東インド会社(1602年設立)を基盤にポルトガルを駆逐して、香辛料貿易を支配し、アジア内の中継貿易でも優位に立った。オランダは新大陸方面では、ブラジルに砂糖プランテーションを作るとともに、ポルトガルに代わって新大陸への奴隷供給を一手に押さえた。
・
オランダは、中継・加工貿易を軸とする商業国家
イギリスは1600年に東インド会社を創設したものの、インドネシアや日本でオランダに敗れ、インドに拠点を移して綿織物(キャリコ)などの貿易に活路を見出した。
・ イギリスは重商主義的保護政策、フランスも。
オランダは、17世紀後半以降、イギリス、フランスの重商主義的保護政策と軍事的対決による挟み撃ちにあって、その商業的覇権はイギリス、フランスに取って代わられる。
産業資本の形成[6]
西ヨーロッパ・・・領主権の緩み、農民の地位の上昇、民富の形成
15世紀頃から、織物業を中心に農村工業(農民の自家消費用手工業から農家副業として市場を目指す商品生産への発達)が展開・・・中世以来の「都市」ギルドによる営業活動の独占体制は崩れ始めた。「農村」へは、親方に上昇できなくなった職人層や規制を桎梏とする親方の一部が、ギルド規制を逃れて、自由な営業が可能な農村に流出。
農村工業は、ヨーロッパの先進地域に特徴的な現象であり、産業革命に先行する(プロトproto)工業的活動の主要な形態・・・「プロト工業化」
その典型的事例がイギリス毛織物工業
イギリスも、14世紀半ば頃まではヨーロッパ最大の羊毛輸出国であった。つまり、フランドルなどの先進地域に原料を供給する原料輸出国、当時の途上国的地位。
14世紀後半から羊毛輸出がしだいに減少。
15世紀後半以降には、国内産羊毛を原料とした本格的な毛織物輸出・・・イギリスは工業製品輸出国へと転換していく。その担い手が、農村毛織物工業であり、「農村の織元」[7]
イギリス農村毛織物工業は、穀作に適さない東部、西部、北部の牧畜・酪農地帯の下層農民を担い手とし、ギルド規制から自由な市場町を拠点に成長していった。
最初、副業としての農村毛織物工業は、不熟練でも可能な紡糸工程と織布工程が中心であり、仕上げ工程は都市に依存する傾向が強かった。…都市は仕上げ業と商品流通の中心地となり、農村工業と流通面で、あるいは問屋制的に結びつく。都市では富裕な商人や問屋商人が加藤支配する「毛織物カンパニー」が成立。
主力商品であり「白地広幅織」の大部分は、都市商人とりわけロンドン商人(毛織物輸出商組合=マーチャント・アドヴェンチャラーズ)により、アントウェルペン市場へ輸出された。そこで最終的に仕上げられ、各地に運ばれた。
イギリス農村毛織物工業は、生産の50%近くを輸出しており、海外市場の動向に大きな影響を受けながらも強く国外市場を指向。
16世紀のイギリス農村毛織物工業の発展は、問屋制や一部ではマニュファクチャーの形態で、資本・賃労働関係を創出し、産業資本を生み出した。・・・さまざまの経営規模の「農村の織り元」
下層の「農村の織元」・・・半農半工の自営の小生産者であり、主に織布業を営む。一人か二人の「使用人」や「徒弟」が年季奉公契約等の形で雇われていた。・・・製造された未仕上げの毛織物は、より規模の大きな商人や「織元」に売り渡された。
上層の「農村の織元」(市場町を拠点とする)は、自己の作業場での準備・仕上げ工程を中心とする経営を行った。作業場では複数の労働者が雇用されていた。・・・「分業にもとづく協業」=マニュファクチャー・・・紡糸工程や織布工程は問屋制前貸しによって下請けに出す。それらの工程は外業部として作業場に結び付けられていた。・・・労働者は、日雇や常雇の他に、「雇い職人」「徒弟」「奉公人」などのギルド制度の系譜に連なる層から形成されていた。・・・彼らは実質的には産業資本の活動に適合的な賃金労働者。
農村工業の担い手としての「農村の織元」やこれと結びつく都市商人には、宗教的にはピューリタンが多かった。・・・信仰にもとづく禁欲的な経済倫理が、産業資本家への成長を内面的に推進[8]。
16世紀中葉から、イングランド西部を主産地とする「白地広幅織」輸出の減少
17世紀二〇年代には毛織物不況
原因:
・
大市場・最終製品仕上げ地アントウェルペンがオランダ独立戦争の中で陥落(1585年)
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30年戦争により中部ヨーロッパ市場が大幅に後退
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南ネーデルランドからの亡命者によるライデン毛織物工業の発展を軸とするオランダ毛織物工業との競争
毛織物不況に対するイギリス毛織物工業の対応
・製品面で、16世紀後半には戦乱のネーデルラントから移住した新教徒の職人により、従来の紡毛毛織物に比べ軽く薄手である梳毛毛織物の「新毛織物」が移植された。・・・ノリッジなどの東部地域が中心地となる。・・・・18世紀には、毛織物輸出の60%が多様な新毛織物。
・
輸出市場面で、中部ヨーロッパからアメリカ植民地を含む南欧へ。
・
同時に、イギリス国内の染色業や仕上げ業も発展し、イギリスは完成品としての毛織物輸出国へ成長。
→→イギリスを中軸とした世界市場を形成していく。
そのプロセスにおける重商主義政策の展開
16世紀から18世紀の商業覇権・海上覇権を巡る争い・・・その過程での国民国家(近代的権力国家)の形成
そこでの国家による本格的な経済政策
スペイン、オランダ・・・もっぱら商業的・・・貿易差額の拡大
フランス、イギリス・・・財政、植民、貿易、産業の各分野の統一的な政策にもとづいて、国民経済の力の増大を図る。
・
絶対王政下のフランスのコルベール・・・もっぱら特権マニュファクチャーの保護育成に力を注ぐ。
・
市民革命によって営業の自由を確立したイギリス・・・産業資本の本源的蓄積を積極的に推進。
重商主義政策の内容
@国内産業保護政策・・・戦略産業毛織物の最大の脅威となっていた良質安価なインド産綿織物の輸入禁止(1700年捺染物、1721年白地物)、・・・・毛織物の保護育成策は徹底したもので、「毛織物をまとわぬ死者は埋葬すべからず」という条例
その他、金物、絹、麻織物、ガラス、陶器などの手工業を強力な保護関税で育成。
さらに、農業でも、関税引き上げと輸入禁止による保護。穀物輸出には奨励金。・・・穀物輸出の増大・・・農業は外か獲得産業の地位へ→地代増加、資本家的大農経営の発展を促す。
A
植民地政策・・・植民地争奪・拡大、食料原料の供給地、工業品の輸出市場。
・プランテーションの拡大
・木材や原料鉄の生産と輸出に奨励金
・毛織物条例(1698年)、帽子条例(1732年)、鉄条例(1750年)などにより、植民地における自生的工業化を阻止。イギリス製品の独占的市場として確保。
・
航海条例(1651年)・・・植民地貿易からオランダを閉め出すために、イギリスおよび植民地の輸出入をイギリスまたは原産国の船に限定。・・・植民地貿易におけるオランダ商人の排除に成功。・・・イギリス海運業発展の基礎・・・貿易外収支の黒字獲得の可能性の拡大。
B
獲得した正貨・・・拡大しつつある経済の通貨供給の増大、資金循環の円滑化
イングランド銀行(1694年)設立・・・・国民経済の要請に応じて最初の中央発券銀行に・・・組織的な手形割引業務の担い手・・・正貨はイングランド銀行の発券の貴金属準備・・信用拡大、利子率低下・・・・国内商工業の発展に寄与。
[1] 長岡新吉/太田和宏/宮本健介編著『世界経済史入門‐欧米とアジア‐』ミネルヴァ書房、1992年。
[2]「第4編第7章第3節 アメリカの発見と喜望峰を経由する東インドへの航路の発見からヨーロッパが引き出した諸利益について」アダム・スミス『諸国民の富』U、岩波書店、p.877.
[3] 同、p.878. アダム・スミスによれば、アメリカへ自国の生産物を送らぬ国々の産業をどの程度発達させたかは明白でないとしながらも、発達させたことは間違いないという。すなわち、「アメリカの生産物の若干部分は、ハンガリーやポーランドで現に消費されており、つまりそこには世界のこの新地域の砂糖、チョコレート、タバコに対する若干の需要がある・・・。・・・これらの商品は、ハンガリーやポーランドの産業の生産物か、またはこの生産物の若干部分で購買されたあるものかのいずれかで購買されるにちがいない。つまり、これらのアメリカ商品は、ハンガリーやポーランドの剰余生産物と交換されるためにそこへ導入された新しい価値であり、新しい等価物なのである。これらの商品は、そこへ持ち込まれることによって、この剰余生産物に対するより広大な市場を創造する。そこで、これらの商品は、この剰余生産物の価値を引き上げ、ひいてはその増産の奨励に寄与する。この剰余生産物は、たとえアメリカへは全然送られぬにしたところで、他の国々へは送られるであろうし、そうすれば、これらの国々は、アメリカの剰余生産物に対する自国の分けまえの一部分でそれを購買することになるから、けっきょく、ハンガリー→ポーランドの剰余生産物は、もとはといえばアメリカの剰余生産物によって活動を開始した号益の循環を通じて、市場を見出しうる」と(p.878)。
アメリカの商品とハンガリーやポーランドの商品との(直接)間接の交換・・・貿易の循環の構造・・貿易の循環的波及効果(その程度・規模はさまざまであろうが)
スミスによれば、新大陸貿易は新大陸アメリカからその生産物を全然受け取らない国々の産業さえ発達させた。「こういう国々でさえ、アメリカとの貿易をつうじて、自国の剰余生産物を増加させてきた国々から他の諸商品をより潤沢にうけとったであろう。そしてこのより潤沢な諸商品は、これらの国の享楽を必ず増加させたにちがいないし、したがってまた、その産業をも発達させたにちがいない。つまり、あれやこれやの種類のより多数の新しい等価物が、この産業の剰余生産物と交換されるためにこれらの国へ提供されたに違いない。そこで、この剰余生産物のためにより広大な市場が創造され、その結果、その価値が引き上げられ、ひいてはこの剰余生産物の増産が刺激されたにちがいない。したがって、ヨーロッパの大商業圏へ年々に投入され、またそのさまざまの回転をつうじてこの圏内に包括されるありとあらゆる国民の間に年々に分配される大量の商品は、アメリカの余剰生産物だけ増加したにちがいない。それゆえ、このより大量の商品のより大きな分けまえが、おそらくこれらの国民のおのおのの手に帰し、その享楽を増加させ、その産業を発達させたことであろう」と(同、p.879)。
[4] スミスはポルトガル、スペインの没落の原因を「独占」に求めている。「植民地貿易が新市場を開放するのは、ヨーロッパの粗生産物というよりもむしろ製造品に対してである。・・・植民地貿易は・・・主としてヨーロッパの諸製造業を奨励する・・・。ところが、人口が濃密で繁栄もしている植民地との貿易を独占したところで、それだけでは一国における製造業の確立はおろか、その維持さえ満足にはできないということは、スペインやポルトガルの実例によって十分明らかである。スペインやポルトガルは、まだこれというほどの植民地をもたぬときには製造業国であった。ところが、これらの国が世界きっての富んだ多産的な植民地をもってから、双方ともそうではなくなってしまった。スペインやポルトガルでは、独占の悪影響が他の諸原因によって加重され、植民地貿易の自然的な好影響をほとんど消してしまった・・・」(同、p.903)
商業独占=貿易独占で商業利潤・貿易利得は大きくなっても、その分、逆に、製造は他国に移ってしまい、結局は根底から経済的地からを喪失する。
→権力的独占の弊害。
自由主義者アダム・スミスの主張・・・「植民地を自発的に分離するのがひじょうに有利」(同、p.911)。
[5] 同、p.925.
[6] 長岡新吉/太田和宏/宮本健介編著『世界経済史入門‐欧米とアジア‐』ミネルヴァ書房、1992年、p.29以下。
[7] 大塚テキストを参照せよ。
[8] マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の<精神>』岩波文庫、他、いくつかの邦訳あり。プロテスタンティズムが、支配的伝統的な秩序と親和関係にあったカトリシズムに対抗するものとして、新しい社会的条件、新しい社会層と親和関係にあったことは事実としても、宗教的観念と現実の経済的諸関係の相互関係は、そう単純ではない。歴史社会科学の旗手ユルゲン・コッカのいうように、ウェーバーの制約された方法論では、たとえば「ピエティスムス(敬虔主義)の現象を十分に説明はできない・・・ピエティスムスはたしかに資本主義を促したピューリタニズムと同様の宗教的基礎に基づいているが、ピューリタニズムのように醒めた禁欲や労働のエートスにけっして行き着きはしなかった。ヴェーバーがこの相違を説明しようとするならば、同時にカルヴィニズムの宗教性を世俗的な有能さに転換させたその他の条件も説明すべきであろう。その条件とは、たとえば社会的、経済的、地理的な条件であり、その影響によって、同じような内容の宗教も、ある場合には活動的な世俗性に至り、またある場合には内面化された敬虔さに至るからである。さまざまに条件づけ合う契機の結合と相互作用が考察され、その意味が比較考量されるべきであろう」と。ユルゲン・コッカ著仲内英三・土井美穂訳『社会史とは何か‐その方法と軌跡‐』日本経済評論社、2000年、25‐26ページ。