経済史講義メモ 

産業革命[1]

No.17 File kogikeizaishi1125

最終更新日:20021216()

 

 

革命性の意味内容

物を作る、生産する上での革命・・・生産能力の革命・・・科学・技術の革命・・・人間の能力の飛躍的発展、 機械制工場制度=生産の社会的性格=社会的集団的生産労働

ただし、その担い手・主導者が資本家、資本主義的経営。

 

その諸問題の露呈、労働者階級の成立、劣悪な労働条件、劣悪な工業都市の生活環境→人間回復の要求、社会的発言・・・社会的対立(前回レジュメ参照)。

 

 

世界で最初の自生的内発的なイギリス産業革命中心的産業は、木綿工業、綿工業

 

原綿はヴェネツィア商人の手を経て、東方からヨーロッパへ、14世紀になってフランドルへ。・・・アントウェルペンは、綿紡績、綿織布がはじめて集中した都市。ただし、フランドル地方全域で繁栄していた羊毛工業(毛織物工業)とは比べ物にならない、あまり重要性のない工業。

1585年・・・アントウェルペンが包囲占領され、幾人かの労働者はイギリスに移住。

 

1610年頃・・・綿はマンチェスターで地歩を占めた。

 

17世紀末期・・・植民地貿易、インド貿易の発展・・・一般イギリス人の需要の拡大、なかでも首位にあったのは、綿布、すなわち着色、捺染の花模様の織物・・・流行

「わが国の上流の人びとは、数年前は女中もあまり下品だと考えたようなインドじゅうたんIndian carpetを着用した。インドサラサは床に張られていたが、昇格して彼らの背につけられることになり、敷物から下着になった.女王さえ、当時は好んで中国風、日本風なよそおいで、つまり、中国の絹、インド綿布calicoをつけて、人前に出られた。それだけではなく、われわれの家、私室、寝室にも入りこみ、カーテン、クッション、椅子、姉妹にはベッドさえも、インド綿布かインド産織物ばかりになった。[2]

 

国民的産業の不平不満・・・1700年、インド、ペルシャ.中国の捺染織物の輸入禁止令

 所期の効果が上がらず、1719年、不満が爆発・・・毛織物業者の激烈な言辞、職工たちの騒擾→前法令よりも明瞭な根本的新輸入禁止令

 

しかし、インド綿布の輸入になんの制限もない時期から、需要は輸入によって生じていたため、これを模倣製造しうるものは、既に成功と蓄財の機会をとらえていた。

1700年の輸入禁止の後、この機会はますます増大した。イギリス社会(=消費者)は愛用品を奪われるか、密貿易で入手するかしなければならなくなったので、イギリス織布工のまだ拙劣な試作品を歓迎した。  

→ランカシャ・・・交通の条件、低廉な輸送費。近くに、リバプール港

東西両インドからの原綿→特に、アメリカの収穫のほとんどヨーロッパの諸港に→そこからリバプールに。

ランカシャの自然的条件・・・高い湿度、最高最低の差の少ない温度

 

ランカシャの男女紡糸工にかけていたもの・・・インドの労働者の柔軟な指先と熟練、道具、

そこで、綿麻交織布・・・亜麻糸を経糸とし、横糸(緯糸)に綿糸。

 

     ・・・1719年の輸入禁止措置は、イギリスの綿工業には有利になった。

 

ランカシャの木綿工業・・・家内的、農村的工業として発展・・・ランカシャの織布工は農村で零細な地片に囲まれた小屋の中で作業し、妻と子どもたちは糸を整えたり、紡績に従事。・・・問屋制企業家階級が出現し、ファスチアン織親方と呼ばれた。彼らは原料の麻糸、原綿を購入し、これを織布工に分配した。

 

 

革命的技術

 

ジョン・ケイの飛び杼・・・初期発明の経験的実用的性質

 技術的発明の2つの時期・・第1期 経験主義と試行錯誤、科学が現われるのは第2期。

 

「すべての技術的問題は まず何よりも実用の問題である。技術的問題は、理論的知識を備えるひとびとに提起される前に、難関の克服とか、実質的利益の取得の問題として、職業人の前に提起された。これは本能的運動のようなものである。そして意識的運動に先行するのみか、その必要条件をなしている。1785年、リチャード・アークライトのために弁護したとき、弁護士アデアはこうのべた。『工芸、製造の各部門において、もっとも有益な発見が行われたのは、書斎の思弁的哲学者によってではなく、典型的な職人によってである。彼らは当時行われていた実際の方法に通じ、彼らの発見の主題を実際知っていたのである。』‐‐ある着想が天才人の精神に突如ひらめき、応用されると、やはり突如として経済革命を引き起こすというのは、発明のロマンティック説と呼ぶことができるだろう。現実にはどこにもこの「無から」の創造、真の奇跡は現われていない・・・発明の歴史は、 たんに発明家の歴史ではなく、集団の必要によって提起された諸問題を、次第に解決してゆくところの集団的経験の歴史である。[3]

 

ケイ・・・なかば織布工、なかば機械工・・・1733年発明、それ以前にも織機のいろいろな部分で改良、発明

「飛び杼」・・・@広い織物を可能にした。 A織布速度を以前よりはるかに高めた。

 →1760年頃になると、繊維工業の全部門に明確な影響。

 

生産力革新の波及効果:

 

→織布工程の革新→その他の諸工程との均衡の破れ→ほかの諸工程へ発明を促す、特に機械紡績の発明への刺激(紡糸不足の慢性化、欠乏の激化、糸価格の上昇、反物引渡しの遅れなど)

 織布速度に対等な速度の紡糸速度の必要性→研究活発化→実用的解決の模索

 

最初の紡績機・・・ジョン・ワイアット、発明1733年→特許取得1738年、しかし、その企業化の失敗        

 

1765年、ジェイムズ・ハーグリーヴズのジェニー紡績機の発明 

 

174060年のあいだ、ランカシャに住み、織布工大工の職業をかねていた。彼が機械の研究にさそわれたのは、明らかに大工としてであった。この時期には専門の技師がいなかったので、技師の役割をどうにか演じたのは、指物師、錠前師、時計師などの職人。

 これら速成技師の中でも、水車大工は特別の位置。

1762年、隣人の捺染綿布製造業者に雇われる。

 紡績と織布の不均衡はしだいに顕著になり、産業の中に紛れもない不安をかもし出した。織布工はしばしば作業がなく、商人はどうしたら絶えず増大していく需要をみたしうるかを自問した。ランカシャのように織物工業で生活する地方では、たえずこの問題が討議されており、誰でも話題にしていたし、解決の工夫をしていた。ここでハーグリーヴズが発見した機械は、同じ時期に、多数の人びとに研究されていた。 

 

 「発明の一般的発酵状態[4]

 

1765年発明

 伝説の伝える着想の瞬間・・・横倒しになった紡車がしばらく回転を続け、二本の指でつままれていた糸が、自然紡がれたのを見て。

 ジェニー紡績機・・・一人の労働者が、同じに多数の綿糸を生産しうる。最初の機械は8。ハーグリーヴズの生存中でさえ、80、あるいはそれ以上の錘数のジェニー機が建造された。・・・錘数は動かす動力のみに依存。

 

販売目的で機械を製作したのは、1767年・・・彼はたちまちのうちに、その競争の圧力にさらされるひとびとの悪評を買う。・・・彼が住んでいたランカシャのブラックバーンの労働者は、彼の家に押し入り、機械を破壊

 

 1778年、4000ポンドの遺産を残して死亡。

 彼の死後10年、イギリスには2万台以上のジェニー機があった。

最小型のジェニー機でも、労働者の6人か8人分の作業を遂行。ランカシャでは、その使用は驚くべき速度で普及し、数年間にして、いたるところで紡ぎ車と入れ替わった。

 ジェニー紡績機は建造には余り費用がかからなかった.あまり場所も占めず、特別の作業上の設立を必要としなかった。またいかなる人工的動力の援助も借りないで運転された。ジェニー紡績機は小屋の家内工業を破壊するどころか、まずはそれを強化した。

 

 

 ハーグリーヴズのジェニー紡績機に遅れること2年ほどでアークライト水力紡績機が発明され(1768年)、紡績工場が5箇所に建設された。

 1732年生まれ・・・少年のとき理髪師(かつら師)のもとに徒弟、読み書き、

 1750年頃、故郷の小都市から数里はなれた町に移り、理髪師開業。毛髪取引へ。

   彼には紡績機械製造の技術的経験はなかった。会話から学ぶ。彼の主要な発明がどのように行われたかは闇に包まれている。

 

企業化の点では成功

アークライトは時計師の援助を受け、紡績機1768年に製作。

発明自体は、1733年にジョン・ワイアット(大工、機械工)が発明し、リュイス・ポールが改良した紡績機に似たもの。

 

アークライトの強み・・・実業家の才能

  第1に資本を見つける点で・・・・機械制靴下編み工業の中心地ノッティンガムに移り、そこで自分の計画に地方銀行の経営者ライトWright兄弟の協力を得た。彼らが1年後に出資を撤回した後、二人の富裕なメリヤス問屋(商人−銀行業者の階層、多数の家内労働者を雇用、機械制靴下編み工場を所有)と1771年、共同の契約を結ぶ。

  →ダービーの近郊クロムファドに開業・・・ここはダーウェント河岸にある。水量豊かな急流の地点、マットロック温泉の湯が冬の凍結を防ぐ・・・水力原動機・・・クロムファド紡績工場はわずかの期間で発展→1779年には、数千の紡錘を設備し、三〇〇人の労働者を雇用。

 水力紡績機は、速度の点で優れているだけでなく、製品の質もすぐれていた・・紬車にもっとも熟練した紡糸工よりも、強伸度のはるかに高い糸を製造。

 → 亜麻と綿の交織物の代わりに、厳密な意味での綿織物を製織することができるようになった。

 

 小製造業者の妨害・・・1733年の捺染綿布禁止法令を持ち出して。

 これに対し、アークライトは議会に彼の工業の立場を主張。・・・議会はこれを認める。

  議会の新産業承認

 

 1775年、アークライトは第二の特許をとる。多数の発明(その中のあるものは、物好きな読者の頭を混乱させ、眼をくらませるために挿入されたと思われるもの)を記載。梳綿機、粗紡機、給綿機

 

 1776年 第三の紡績工場を建設。

 

 1779年・・・機械破壊暴動が発生→、バーケイカーに建設した工場は包囲され、焼き討ちをかけられた。

 

 特許を巡る争い、訴訟・・それに敗れ、彼の特許権は正規の期限満了前に停止された。

 特許権の確認を求めて、議会への請願→失敗

 そこで裁判所に訴え→勝訴・・・特許権延長。

 

1785年、訴訟・・・アークライトは剽窃の罪を負わされる。・・・トマス・ハイズとジョン・ケイの証言=ハイズ(天成の発明家)が水力紡績機の発明者。「ジェニー」とはハイズの娘の名前。

  →特許権無効に。

   しかし、彼の財産は影響を受けなかった。

 

1779年、サミュエル・クロンプトンのミュール紡績機・・・紡績業者がこれを奪い、発明家の利益を奪った。

 

 

紡績機の使用の普及→ふたたび、紡績・織布工程間の均衡を破る

 →1785年、カートライトの力織機の発明

 

二次的発明・・・機械印刷、漂白、染色の化学的方法

 

 

現代の技術革新の波及効果は、20世紀までの生産諸力・科学技術の蓄積・到達点の上にたって、ものすごい規模とスピードとグローバル性を持っている。

 

 

 

 

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経済史講義メモ(20021206)

 

発明の一般的発酵状態

 

波及的関連

 

伝統的従来型生産様式・構造への圧迫[5][1]

 

1785年 カートライトの力織機

 19世紀初頭まで、普及は緩慢・・・技術的欠点、手織り工の敵意、工場労働への嫌悪

                 手織り機の改善(改良織機)

 19世紀10年代以降、急テンポで普及。当時、15歳の児童が、熟練織布工が手織り機で織る布の3倍半を織ることができたという。

 手織り工の工賃は、力織機の普及に連れて急激に下落。18151841年の間に、反当り工賃が三分の一以下になった。

 ラダイツ運動・・・機械打ちこわし運動

 1820年代、その数25万人といわれた手織り工の窮状は、19世紀前半におけるイギリス最大の社会問題となった。

 手織り工は、40年代初めには10万人、50年代半ばには5万人と急速に没落。

 

 紡績工場からは数十年も遅れたが、19世紀半ばには工場制の成立。

 

 

 

 機械の土台・・・鉄

 

製鉄業

 18世紀半ばにいたるまで、溶鉱炉燃料の木炭不足から停滞

 鍛鉄と鋼の生産に必要な鉄の3分の2以上を主にスウェーデンからの棒鉄輸入に依存。

 

18世紀前半、ダービー父子・・・コウルブルックディル製鉄所で、コークス精錬法に成功

 18世紀後半になって広く実用化。

 1760年、コークス炉はわずか17基・・・70年代初頭までに、14基追加・・・1790年には81基・・・銑鉄問題の解決。

 

 銑鉄から棒鉄を製造する鍛鉄工程・・・依然として木炭・・・棒鉄生産の隘路

  輸入棒鉄の価格の著しい騰貴。

 

1780年代、コートの発明した攪拌圧延法・・・石炭を燃料とする良質防滴の大量生産が実現。

 棒鉄の輸入依存度を次第に低下させる。

1828年・・・ニールスンが溶鉱炉に熱風を送り,コークス燃料を節減する方法を発見。製鉄技術の更なる発達。

 

 原料費節約(綿工業における技術革新の特色は労働節約的)

 溶鉱炉・ハンマー・圧延機などへの蒸気力の利用・・・労働生産性の飛躍的向上。

 

 → 生産費の急激な低下。

 

19世紀初頭には、鉄の輸出国に転成

世界の銑鉄生産高に占めるイギリスの比重・・・180019%、182040%、1840年には実に52%。

 

 

 

石炭

 1700年・・・醸造業、レンガ・ガラス・陶器工業、釘・刃物など鉄工業等々において燃料として。大半は、家庭用燃料として。

 

スティーヴンスンによる蒸気機関の成功(1825)・・・鉄道と汽船・・・運輸・交通手段の革命[6]

 

 

 

イギリス産業革命の特質

1.自生性、内発性

2.技術革新の担い手・・・熟練職人・・「現場経験に固執する経験主義」のマイナスの面

                    19世紀後半以降の科学技術時代において、ドイツ・アメリカなどに遅れをとる遠因の一つ

3.資金調達・・・数人以下のパートナーシップ

 技術革新の漸次性・・・創業投資は比較的小額、企業規模の拡大は、利潤からの蓄積で基本的に。

銀行業は、基本的に内外の手形の割引など商業銀行的敵機能に専念

 

 対比:ドイツにおける投資銀行

    ロシアにおける外国投資

    日本における国家資本

 

 

産業革命の諸結果・・・工場制 

           工場内生産システムの社会化

  近代的工場労働者階級の成立・・・資本・賃労働関係の対抗関係

 

  利潤追求を推進動機として、絶えざる技術革新、絶えざる生産拡張

 

1825年         本格的な過剰生産恐慌・・・それ以後、ほぼ10年ごとの周期での恐慌

 

 19世紀半ば・・・綿と鉄で世界総生産高の約2分の一

          石炭・・・3分の2

          金属製品で5分の2

 

「世界の工場」

世界における工業独占

生産性においてもイギリスに比肩する国はなかった。生産性の上昇の結果としての価格低下 

 

 

イギリスに対する後進国工業化の二つの道

 国民経済形成型・・・フランス・・・広範な小農民経済

           ドイツ・・跛行型

         アメリカ・・・・広大な国内市場を拡大し、その基礎の上に立つ大工業、南部奴隷制綿花プランテーション、西部開拓  

            

 

フランス・・・ナポレオン没落後も政治的大国としての地位を保つ・・・ウィーン体制

1814年 イギリス製品の奔流に対抗する外国繊維製品輸入禁止や高率関税

   綿業・・・ノルマンディー地方・・中下級品中心、生産力も低く、海外市場での競争力もなかった。1830年のアルジェリア征服後、植民地市場に進出。

         アルザス・・・絶えざる技術革新

                紡績のみならず織布・捺染をも兼営する少数の大企業に生産集中。綿業家たちの同族企業は、同じカルヴィニストのスイス(バーゼル)の商人や個人銀行家の資金援助を仰ぎつつ経営規模拡大。新式機械導入。生産を高級綿布に集中して、約20%を外国に輸出。紡績機や力織機・蒸気機関などの関連した機械工業や染料などの化学工業にも積極的に進出。

1830年以降、力織機が急激に手機にとってかわった。

   鉄工業・・・木炭鉄が圧倒的、1840年でさえコークスは、総生産の22

         鉄道建設がもたらした鉄需要は、旧式木炭高炉の拡張を招いただけ。

 ただし、精錬・圧延(パドル法)は、石炭が直接鉄に触れあわないため技術的にも容易で、ノール地方の加工業やシュネーデル(ル・クルーゾ)、ガロワ(テル・ノワール)、デュフォー(フルシャンボー)、ド・ヴァンデル(エヤンジュ)などの先進企業にみられた。しかし,コークス高炉も含めた一貫生産はまれ。

 

   鉄道建設・・・遜色著しい。50年当時でさえ、そのキロ数はイギリスの3分の一以下(密度では6分の一)、ほぼどう面積のドイツの2分の一、

 株式会社設立に免許制・・・とりわけ、株式会社形態の投資銀行の設立が古い金融勢力の頑強な妨害で実現しなかった・・・鉄道会社の設立や資金調達が困難であった。

 

 

ドイツ・・・・ハンブルクなどハンザ諸都市や大市(フランクフルトやライプツィヒなど)・・・中継ぎ貿易利害・・・イギリス工業製品、植民地物産

     ユンカーの穀物・木材・羊毛輸出利害

     西部ドイツでもイギリス綿糸が問屋制家内工業に浸透

     鉄工業でも機械(たとえば炭坑用蒸気機関)の政策はイギリス産のコークスに頼った。

      1830年代、東部ドイツ・シュレージエンの国営製鉄所が、製鉄・機械工業ではドイツをリード。

      プロイセン政府も半官の特権会社、海外貿易会社を通じて、ユンカー経営の支配的な東部ドイツを中心に機械制大工業の移植を図った。

      →プロイセン政府の「上からの」工業化→プロイセン主導の関税同盟形成(上からの強力による国内市場創設)

       国家主導の鉄道建設・・・東西領土の統合の観点、軍事的役割の点

          鉄道会社は政府から4%の株式配当保証を認められるなど直接間接の援助を受けた。

          1848年には、首都ベルリンを起点に、5本の幹線が完成。

          ドイツ全体で5856キロメートル(フランスの2)

       ライン・エルベの二大水路の航行自由化(31年、21)

       通貨統一(57年)

 

  鉄道建設・・・交通運輸の面

         重工業に対する市場創出の面

    産業革命に絶大な効果を発揮。

      レール需要は、コークス高炉やパドル法採用を推進。

      機関車も、政府によってベルリンに設立された工業技術院による技術者育成により次第に国産化された。→ドイツ機械工業の基礎構築。

     

50年以後、投資銀行と株式会社の自由化で、産業革命が本格化

   

 

 

 

イギリスに対抗する大陸諸国の工業化

(1)技術教育・・・フランスのポリテクニク(1794年設立、土木、鉱山専攻)

        プロイセン王国の商工局長ボイトHによるベルリン工業技術院 

1879年ベルリン工科大学に昇格)

 

(2)混合企業化・・・大陸の場合、関連分野の立ち遅れから、個別企業が、自ら、関連分野を整備していかざるを得なかった。綿紡績企業ですら、織布のみならず、染料。機械製作部門を企業内に抱え込まねばならぬほど。

       重工業の場合、その技術的必要性からも混合企業化がいっそう強く要請されたいた。

        1853年の鉄関税引き上げ、世界的鉄道ブーム→機械・レール圧延企業が高炉建設に乗り出し、一貫生産を開始。

         さらに、コークスの供給を確保するため、自ら炭鉱開発にも乗り出す。

  

       大不況期以降、独占体に成長する大混合企業の原型がはやくもこの時期に姿を現し、群小企業の間に聳え立っていた。

 

 

 

鉄道建設と国内市場の創出

 19世紀後半・・・長距離鉄道建設の波・・・北アメリカ、インド

  フランス・・・1870年までに一挙に産業革命を完了・・・12629km(70億フラン)の鉄道建設。パリを中心に、北はルーアン=ル・アーブルやノール地方、ベルギーへ、東はストラスブールからドイツ、南はリヨン・マルセイユ・ボルドーに至る5大鉄道会社の幹線が完成。

  ドイツも鉄道網充実・・・11761km(地価が安く、路盤整備hiを節約したため、40億フラン)

  鉄道建設の波は、イタリア、オーストリア=ハンガリー、ロシア、スペインにも及んだ。これら諸国で総計33222km

  これらは、西ヨーロッパ諸国の資本輸出(フランスだけで52億フラン)に支えられていた。

  とりわけ、フランスの新興投資銀行クレディ・モビリエ(1852)とそのライヴァル,ロートシルトとは、これらの国に子会社を設け、互いに競争しながら鉄道会社の発起に当たった。

  ドイツ・フランス・ベルギーなどの製鉄・機械工業は、自国のみならずこれら後進諸国を輸出市場とすることができた。

  

 イギリスはアメリカ合衆国やインドの膨大な注文に忙殺。

 

 

 

株式会社と投資銀行

 

 

 

 

 

フランス産業革命とサン・シモン

サン・シモン『産業者の教理問答、他一篇』岩波文庫、2001

 

p1011

問 産業者とは何か。

答 産業者とは,社会のさまざまな成員たちの物質的欲求や嗜好を満たさせる一つないしいくつかの物的手段を生産したり、それらを彼らの手に入れさせるために働いている人たちである。

したがって、麦を播き、家禽や家畜を飼う農耕者は産業者である。

車大工、蹄鉄工、錠前師、指物師は産業者である。

短靴、帽子、リンネル、ラシャ、カシミアの製造者も同様に産業者である。

商人、荷車曳き、商船に雇われている水夫は産業者である。

これらすべての産業者は一緒になって、社会の全成員の物質的な欲求や嗜好を満足させる一切の物的手段を生産するために、働いている。そして、これらの産業者は農業者、製造業者、商人と呼ばれる三大部類をなしている。

 

問 産業者は社会においていかなる地位を占めるべきであるか。

答 産業者階級は最高の地位を占めるべきである。なぜなら、産業者階級はあらゆる階級のうちで最も重要な階級であり、産業者階級は他のすべての階級がなくてもすませるが、他の階級はいずれもみな産業者階級なしではやっていけないからである。産業者階級は自力で、みずからの働きによって、生活を維持しているからである。他の階級は、産業者階級のためにつくさなければならない。なぜなら、ほかの階級は産業者階級のおかげをこうむって生活している階級だからであり、産業者階級はほかの諸階級の生活を維持しているからである。要するに、すべては産業によっておこなわれているのであるから、すべては産業のためにおこなわれなければならない。

 

問 産業者は社会でどんな地位を占めているか。

答 産業者は、現在の社会組織によって、すべての階級のうちで最下位におかれている。社会秩序は、今なお、最も重要な労働、最も直接的な有用性のある労働よりも、第二次的な労働に、それどころか無為徒食にさえ、より多くの尊敬と権力を与えている。

 

p.13-14

          最も重要な産業者たちに公共財産の管理の指導がまかされない限り、公安は永続的でありえないであろう。

 

その理由は?

      その理由はきわめて簡単である。社会の圧倒的多数者の一般的な政治的意向は、できるだけ金をかけず安価に統治されること、できるだけ少なく統治されること、最も有能な人たちによって、また公安を完全に確保するように、統治されることにある。ところで、こうしたさまざまな点で大多数者の望みをかなえる唯一の方法は、最も重要な産業者たちに公共財産の管理の指導をまかせることにある。なぜなら、もっとも重要な産業者たちは平安の維持に最も関心をもっているからであり、彼らは公費の節約に最も関心を持っているからであり、また彼らは専横な振る舞いを押さえることに最も関心を持っているからであり、最後に、彼らは、社会のあらゆる成員のうちで、実際の管理において最大の能力があることを立証した人々であり、彼らがそれぞれ自分の企業で収めた成功がこの管理という分野での彼らの能力をはっきり示しているからである。・・・・・・・

      革命前は、国民は三つの階級、つまり貴族、ブルジョア、産業者に分かれていた。貴族が統治し、ブルジョアと産業者とが貴族に統治代金を支払っていた。

      今日では、国民はもはや二つの階級にしか分かれていない。革命を起こして自分たちの利益になるように革命を指導したブルジョアは、公共財産を思うがままに利用する貴族の独占的特権を廃絶した。彼らは統治者の階級に入ることが許されたので、産業者は今日では貴族とブルジョアとに統治代金を支払わなければならなくなっている。革命前には国民は5億フランの税金を払っていたが、今では10億支払っており、しかもこの十億でもまだ不足をきたし、政府はしばしば巨額の借金をしている。・・・

 

p.16

問 社会の金銭的利益の高度の指導を、産業者の手に移させるために、貴族、軍人、法律家、不労所得者たち、つまり産業者でない諸階級の手から離させることが、暴力的手段を用いずにできるのか・・・

答 暴力的手段は覆したり破壊したりするためには役立つが、そのようなことのためにしか役立たない。平和的手段だけが築き上げたり建設したりするために、つまり堅固な体制を確立するために用いることができる唯一の手段である。 ところで、国家財政の最高指導権を最も重要な産業者たちに与える行為は、建設的な行為であり、容認されうる最も重要な政治的処置である。この処置は、すべての新しい社会的建造物に基礎を与える役を果たすであろう。この処置は革命を終わらせるであろうし、国民を一切の新たな動乱から免れさせるであろう。最も重要な産業者たちが予算作成の職務を無償で果たすであろう。その結果、この職務につこうとする欲望はごく微弱になるであろう。予算を作成する産業者たちは、公事の管理に当たって何よりも節約を旨とするであろう。したがって彼らは、役人たちに対してほどほどの俸給しか与えないであろう。役人の地位は人々があまり求めようとしなくなるので、その数はいちじるしく減少し、このため志願者の数も同様に少なくなるであろう。そして、多数の公務職が無報酬でおこなわれる体制が必然的にできあがるだろう。なぜなら、働かずにぶらぶらしている金持ちたちは、この無報酬の公務職につく以外には、世間の尊敬をえられなくなるだろうからである。

      産業者の性格と産業者が革命中にとった行動とを調べてみれば、彼らが本質的に平和的であることがわかる。革命を起こしたのは決してサンg評者ではなく、ブルジョア、つまり貴族でなかった軍人、平民であった法律家、特権者でなかった不労所得者たちである。今日なお産業者は、現在存在している諸政党において附随的な役割しか演じておらず、自分たち独自の見解も政党ももっていない。 

 



[1] 以下、いちいち参照ページを挙げない箇所も、主として、古典的名著ポール・マントゥ著徳増栄太郎・井上幸治・遠藤輝明訳『産業革命』東洋経済、1964年、第二編 大発明と大企業からの引用である。できれば、全体を読んで欲しい。

[2] 同、第二編、第一章 繊維工業における機械使用の端緒、259ページ。

[3] 同、269ページ。

[4] もちろん、発明、発見の一般的発酵状態は、20世紀、そして21世紀の情報の世界的交流の土壌において、潜在的に存在しているといわなければならない。最近読んだDNAの構造発見で、フランシス・クリックとともにノーベル賞をとったジェームス・D・ワトソン(アメリカ人)著の『二重らせん』江上不二夫・中村桂子訳、講談社文庫、19862001年、第20刷)も、ノーベル賞をとる最後の発見に至る過程で、いかに多くの一流の欧米の科学者たちとの接触・刺激・対立・競争があったか、その一筋縄では行かないダイナミックなプロセス、まさに弁証法的な発展的展開のありさまをリアルに示している。

これまた発明・発見の一般的発酵状態といわなければならない。偉大な発見は決して、普通に予想されるような奇跡ではなく、人類の科学的営為の総合としてあることがわかる。大発見、ノーベル賞級の発見は、その前提となる発見と実験結果が潜在的に豊富に存在し、それを独創的に纏め上げ、解釈し、普遍化し、理論化する、といったところにあることがわかる。

これはアインシュタインの相対性理論やハイゼンベルク、シュレーディンガー、ボーアなどの量子理論などについてもいえることであろう。ぜひ一読を薦めたい。

[5][1] 石坂・船山・宮野・諸田『西洋経済史』有斐閣双書、156157ページ。以下、今回の部分については、主として、この教科書が簡潔明瞭に説明しているので、ここで利用する。参照されたい。

[6] 「独立の産業部門で、その生産過程の生産物が新たな対象的生産物ではなく、商品ではないような産業部門がある。その中で、経済的に重要なのは交通業だけであるが、それは商品や人間のための本来の運輸業であることもあれば、単に報道や書信や電信などの伝達であることもある。・・・

 運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生み出される有用的効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段のたび、その場所的運動こそは、運輸手段によって引き起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてから初めて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。

しかし、この有用効果の交換価格は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。

この有用効果は、その消費についても、他の商品とまったく同じものである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される。だから、運輸業についての定式は、GWPmA)・・・PG’となるであろう。なぜならば、ここでは生産過程から分離されうる生産物がではなく、生産過程そのものが代価を支払われ消費されるのだからである。」

Es gibt aber selbständige Industriezweige, wo das Produkt des Produktionsprozesses kein neues gegenständliches Produkt, keine Ware ist. Ökonomisch wichtig davon ist nur die Kommunikationsindustrie, sei sie eigentliche Transportindustrie für Waren und Menschen, sei sie Übertragung bloß von Mitteilungen, Briefen, Telegrammen etc.

    A. Tschuprow9 sagt darüber:

    Der Fabrikant kann zuerst Artikel produzieren und dann Konsumenten dafür suchenein Produkt, nachdem es als fertig aus dem Produktionsprozeß ausgestoßen, geht als von demselben getrennte Ware in die Zirkulation über.

    Produktion und Konsumtion erscheinen so als zwei, dem Raum und der Zeit nach getrennte Akte. In der Transportindustrie, die keine neuen Produkte schafft, sondern nur Menschen und Dinge versetzt, fallen diese beiden Akte zusammen; die Dienste {die Ortsveränderung} müssen in demselben Augenblick konsumiert werden, in dem sie produziert werden. ………….

    Das Resultat - ob Menschen oder Waren transportiert werden - ist ihr verändertes örtliches Dasein, z.B. daß das Garn sich jetzt in Indien befindet statt in England, wo es produziert worden.

    Was aber die Transportindustrie verkauft, ist die Ortsveränderung selbst. Der hervorgebrachte Nutzeffekt ist untrennbar verbunden mit dem Transportprozeß, d.h. dem Produktionsprozeß der Transportindustrie. Menschen und Ware reisen mit dem Transportmittel, und sein Reisen, seine örtliche Bewegung, ist eben der durch es bewirkte Produktionsprozeß. Der Nutzeffekt ist nur konsumierbar während des Produktionsprozesses; er existiert nicht als ein von diesem Prozeß verschiednes Gebrauchsding, das erst nach seiner Produktion als Handelsartikel fungiert, als Ware zirkuliert. Der Tauschwert dieses Nutzeffekts ist aber bestimmt, wie der jeder andern Ware, durch den Wert der in ihm verbrauchten Produktionselemente (Arbeitskraft und Produktionsmittel) plus dem Mehrwert, den die Mehrarbeit der in der Transportindustrie beschäftigten Arbeiter geschaffen hat. Auch in Beziehung auf seine Konsumtion verhält sich dieser Nutzeffekt ganz wie andre Waren. Wird er individuell konsumiert, so verschwindet sein Wert mit der Konsumtion; wird er produktiv konsumiert, so daß er selbst ein Produktionsstadium der im Transport befindlichen Ware, so wird sein Wert als Zuschußwert auf die Ware selbst übertragen. Die Formel für die Transportindustrie wäre also G - W < A+Pm ... P - G', da der Produktionsprozeß selbst, nicht ein von ihm trennbares Produkt, gezahlt und konsumiert wird.

 [Marx: Das Kapital, S. 1688 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 5002 (vgl. MEW Bd. 24, S. 60 ff.)]

 

経済発展とともに増加しているサービス労働(たとえば、教育サービスなど)は、まさに教育労働過程=生産過程と教育労働を享受する消費過程が同じという意味で、運輸業と同じ性格を持つ。

大学での講義をとれば、学生に対して行う講義時間中に講義労働(教育労働)が遂行され、聴講している学生によってそれが消費=享受される。

サービス産業の多くは、そのような生産=消費直結型のものが多い。というか、サービス労働の本質はそこにある。