更新日:2004/8/31
経済史講義の説明に利用:
原稿(2001年12月14日現在、ミュンヘン現代史研究所にて執筆のもの)。
これは、著書『ホロコーストの力学』の序章として執筆したが、分量が多すぎることもあって、本の序としては圧縮したものを書くことになった。序は、同書(2003年8月刊行)を参照されたい。
そこで、本原稿に添削を施し、矢吹晋先生退官記念号の『横浜市立大学論叢』社会科学系列(第55巻第3号)に投稿した。
これは、予定(2004年3月)より少し遅れたが2004年5月には刊行された(ただし、形式上の発行日は3月31日となっている)。
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『ホロコーストの力学』
永岑三千輝
序 章(原稿)
ホロコーストは世界史的悲劇である。それを行ったのはヒトラー率いるドイツ第三帝国である。それは独ソ戦と世界戦争のなかにおいて発生した。これら基本的諸要因の相互関係の理解は、世界戦争と革命の20世紀を総体としてどう把握するかにかかわる。また現在それをどのように把握するかは、冷戦体制終結後の21世紀初頭における人類の到達点を再検討し、未解決の世界的な問題を洗い出し、その解決の方法と可能性を模索する作業でもある。この巨大な問題群に世界の歴史研究者は様々のパースペクティヴで膨大な研究を積み重ねて来ている[1]。
その論点の一つにヒトラーのユダヤ人「絶滅命令」を歴史の中にどのように位置づけ、理解するかという問題がある。この問題は1970年代以降、今日に至るまで世界的論争の的である。日本でこの欧米の論争を最初に学術文献でまとまった形で紹介したのは、管見の限りだが村瀬興雄であり、それは「ブローシャト中心主義的[2]」立場での紹介であった。これに批判な立場からヒトラー命令の存在を主張し、しかも41年7月後半の時点に想定したのが栗原優「ヒトラーとユダヤ人絶滅政策[3]」(以下、栗原(1989)と略記)であった。さらにこれに修正を加えたのが『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』(ミネルヴァ書房、1997年、以下では栗原(1997)と略記)である。この本とこれに先立つ2冊の大著によって、栗原優がわが国のドイツ現代史研究、とりわけワイマール体制崩壊、第二次世界大戦勃発、ユダヤ人絶滅政策の研究において欧米の研究を吸収し紹介してきた第一人者であることは、ドイツ史研究の専門家の多くが認めていることであろう[4]。しかし、後進のものは、マックス・ウェーバーが『職業としての学問』で学問・科学の世界の普遍的使命として確認しているように、先学の到達した地点を批判的に吟味して、新しい問題領域を見出し、新たに何かを付け加えることによってはじめて学問的な仕事をなしたことになる。先進後進は相対的なものであり、先進のものがいつのまにか後進になってしまっている場合もある。また後進のものはさらに後から来るものに実証的理論的に批判され乗り越えられる運命にある。批判の対象になることは何事か批判に値する学問的仕事をなしたをことを証明している。
では、欧米の諸研究を検討し到達した方法的地平は何か。また、主要なテーゼは何か。われわれがわが国の研究史を前提にして一歩前進を図ろうとするなら、この検討を行わなければならない。その到達点と総括は、「ホロコースト研究の現状―拙著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』その後[5]」に示されている。この論考はタイトルが示すように栗原(1997)に対する村瀬興雄、山本達夫、芝健介の書評、および私の書評・批判論文数本を踏まえ、1996年以降の欧米の新しい研究動向を検討したものである。それぞれに反論しながら、「95年以前に刊行された文献・史料」を参考にして打ち立てた説を「基本的に訂正する必要は生じていない[6]」としている。
この最新論考によれば、まず第1に、栗原(1997)の主張は、「ユダヤ人絶滅政策はたんに反ユダヤ主義の実行というだけではなく、戦争政策の一環として、とくに戦時食料政策として、また、労働力政策として、それなりの合理性を持って遂行されたものだった」とする。「戦争政策とは、戦時食料政策であり、労働力政策である」[7]ともいう。だが、「それなりの合理性」とは何か。学問的規定としてはあいまいである。第2に、ヒトラーの「絶滅命令」は「8月前半」に出されたという栗原(1997)の新説を、時期に関する限りで堅持する。ヒトラー絶滅命令に関するこの時期断定は、栗原(1989)「ヒトラーとユダヤ人絶滅政策」における旧説の時期断定を修正し、半月から1ヶ月遅らせたものである。なぜ、旧説(1989)を新説(1997)では変えざるを得なかったのか、その点の明確な総括は行われていない。そして、栗原(1997)で提起された「41年8月前半説」は、これに対するこの間の拙稿などの批判にもかかわらず、「正しいと思っている」という。しかし、「8月前半」のいったいいつなのか。口頭命令という以上、具体的な日時があるはずであるが、相変わらずいつの時点でどのような会議で出されたのか、明確な証拠を一切挙げてはいない。そこで、どういうことになるか。第3に、ヒトラーの「決定の時点の問題は、相対的に瑣末な問題である。重要なのは決定の論理であ」ると[8]。しかし、「相対的に瑣末である」と位置づけたからといって、独自に主張してきた「41年8月前半」説の厳密な確定を、すなわち、ヒトラー口頭命令の発令の時点と場を不問に付して良いということにはならないだろう[9]。「決定の」という以上、その主体、その時期が相変わらず問題になるからである。その検討を回避することはできない。
ともあれいまや「重要なのは決定の論理」だという。それではその「論理」とは何か。それは「戦争政策としての『合理性』」だという[10]。しかも、「ホロコーストを戦争政策の一環としてみる『合理主義的アプローチ』」は、栗原(1989)の時点では国際的に見ても「最初のもの」であったという。だが、「合理主義的アプローチ」の独自な内容ははっきりしない。「アプローチ」という以上、単なる事実の指摘ではないはずである。だが、その独自の方法論が明確に定式化されているわけではない。
ヒトラー絶滅命令を巡る論争は70年代から80年代にかけてヒトラー命令の存在を否定する右翼作家アービングの『ヒトラーの戦争』を契機として多くの研究者が関わる重要問題となった。ホロコースト理解において、ヒトラーのイデオロギーに中心的な意義を見出す意図派と官僚機構や内部的に緊張関係にある政治運動の脱線ないし破壊的な内部からの暴発にアクセントを置く機能派が対立し、多様な角度から議論が戦わされた[11]。その論争史の中で国際的な独自性を主張する栗原の「合理主義的アプローチ」がどのような位置関係にあるか明らかでない。方法的には論争史の中で「穏健機能主義」に属すると自己規定している。それならむしろ理解しやすい。「穏健機能主義」はモムゼン流のラディカルな機能主義に対する経験的実証的批判の研究史から生れてきたものであり、その国際的な学界の努力を踏まえたものだからである[12]。そしてそれならば何ら国際的に独自のものではない。
とすれば、栗原(1989)で国際的に見て「最初のもの」だった点はどこにあるのか。それはアプローチの仕方ではなく、何度か出てくる表現から推定すれば、ホロコースト政策の決定において食料不足・食料危機と労働力不足が「決定的要因」だということを誰よりも早く主張したということに尽きるようである。モムゼンのようなドイツ人専門研究者ですら「見通しがきかない」[13]とため息を吐く膨大な個別研究の蓄積があるなかで、はたしてホロコーストにおいて食糧不足や労働力不足の意義を1989年以前に誰も主張していなかったといえるのか、検証が必要であろう。しかし、それをホロコーストに結び付けて「決定的要因」だと主張したのは、ヒトラー「絶滅命令」=41年8月前半説と同様、国際的に独自であるのかもしれない。食糧不足や労働力不足のホロコースト政策展開における重要性は私も含め多くの研究者が認識している。しかし私の場合は、「決定的要因」だとはみない。食糧不足、労働量不足の問題はもっと広い問題関連の中に位置づけなければならない。拙著『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆1941−1942』(同文舘、1994)の見地は何か。ホロコーストの問題も第三帝国の占領政策総体の中に位置づけるということである。拙著冒頭の問題の設定が示すように、第二次世界大戦の諸問題を第一次世界大戦との関連の中で見ようとするものである[14]。拙著タイトルが端的に示すように、また拙著を貫くキーワード、「1918年シンドローム」、「兵士の革命」、「匕首伝説」、「民衆の麻痺」など体制の内部崩壊に関連する用語群が示すように、民衆意識の根底とその変遷との関連で、ドイツのポーランドおよびソ連の占領政策を分析し叙述した。第三帝国のユダヤ人問題に関する政策選択を規定する要因群のなかで、総督府長官フランクの日記などニュルンベルク裁判以来明らかになっている史料群から読み取れるように、確かに食糧問題、労働力問題が重要な要因となる。しかし、全体的な非戦闘地域のヨーロッパのユダヤ人に関する政策決定は、巨大な戦局転換(電撃戦の挫折と総力戦への転化、対米宣戦布告による世界大戦化)を踏まえてのことであり、絶滅政策への移行は早くとも41年秋から「冬の危機」以降においてである。ポーランドと西欧のユダヤ人に対する決定的な転換、すなわち移送政策から絶滅政策への転換[15]は「冬の危機」の頂点としてのモスクワ攻防戦での敗退が最終的に決定的になった41年12月である[16]。
以上からして、すくなくとも「41年8月前半」にはそれらの要因はヨーロッパ・ユダヤ人問題の「最終解決」のあり方を全体的に決定するファクターとしては(個々的な地域や町やいくつかのゲットーにおける問題としては存在し、ソ連現地の侵攻軍にとってはそれ以上に重要な要因であったが)、したがってまた41年8月前半までのヒトラーの意思内容においては、意識にすら上らないほどの部分的にしかすぎない要因である。41年8月前半のヒトラーは勝利を確信し、卓上談話で気楽に、しかも41年夏現在のドイツ・ユダヤ人の数も知らずに(あるいはそんなことは気にもかけず)、ワイマール末期の数字(ドイツ・ユダヤ人60万人)をあげて、戦後における移送を語っていたのである[17]。
第4に、「独ソ戦の局地的な『勝利の熱狂』にホロコースト決定の原因を求めるブラウニング説と食料危機の人種主義的解決にそれを求める私の説とまったく別もの」であるという[18]。ヒトラーがホロコーストを決定した背景には、「数百(ママ)万人のソ連人の餓死を予定したドイツ軍の食料計画、41年夏のゲットーの破滅的な食料事情、そしてドイツ国内の食糧難、さらに、現実のソ連人捕虜の大量餓死という現実が存在するのである。ソ連人よりもさらに劣等な人種階梯表の最下位に置かれたユダヤ人はどうなるであろうか。このような歴史の構造的把握を背景として、41年8月半ばの諸事件を理解しなければならない」[19]と。だが、「41年8月半ば」にドイツ国内の食糧難はいったいどのようなものだったというのか。それがユダヤ人殺戮とどのように関連するのか。問題の核心は、これらの事実を並列的に並べるだけではなくて、それらの相互関係、時期関係、内的論理を明らかにすることである。たんに食糧難を指摘するだけでは問題を解いたことにはならない。拙著(1994、2001)が明らかにしているように、ドイツ人の食糧難自体は1944年まではひどいものではなかった[20]。それこそ第一次世界大戦の「敗北の克服」を中心目標にするヒトラー・ナチズムの国民的社会主義、民族的社会主義が体制のほぼ最終局面にいたるまで心を砕いた結果だった。ドイツ人の国民的民族的利害を絶対的に最優先にする国民主義・民族主義の国家たる第三帝国の基本的スタンスがそこに反映していた。たとえば41年9月16日、4カ年計画全権ゲーリングの下で開催された会議には農業省のバッケ次官ほか、国防軍最高司令部、陸軍最高司令部、その他の重要人物が参加した。そこでゲーリングは、「いかなる事情があっても本国で食料配給量を削減するわけには行かない」と命じた。「戦争において、本国の民衆の気分はライヒ防衛においてまったく本質的な要因である」と。むしろこの時点では、「第一次大戦と違って」本国のドイツ民衆は安定した生活態度にある、これをむしろ改善するようにしなければならない、と。「目下の食料事情で何か節約が必要なら、例外なく我々によって征服された諸国民のところでなされねばならない」と[21]。戦時下における国民と民族の食料確保の背景には、このようにヒトラー、ゲーリングなどナチ指導者の「1918年シンドローム」、これとの格闘が、ここでは征服地の食料を切り下げてドイツ民衆を飢えさせないとの民族主義政策があった[22]。
そもそも、「人種階梯表の最下位に置かれたユダヤ人」なる概念をどのような内容として捉えるかのか。拙著(1994)ではヒムラーがヒトラーに提出した1940年の極秘覚え書き「東方における異民族の取り扱い[23]」を分析して、東部占領政策のなかに位置づけた。そこでは食料問題は問題にならない。根本的見地は東部地域、占領地域の民族的新秩序をどうするかである[24]。その新秩序構築にあたって、問題となるのが諸民族の階層的位置関係であり、むしろ諸民族を階層的に位置づけることが支配正当化の論理となる。諸民族の上下関係・階層性を説明し合理化するものとして人種主義イデオロギーがある。ドイツ第三帝国による東欧諸民族の人種主義的な総体的支配が問題であり、生活諸分野、文化諸分野などすべてにおいて、ユダヤ人を諸民族の最下位に位置づけるというのが根本の発想である。従って、移住問題でも治安問題でも、あるいは食料問題でもユダヤ人を最悪の位置に置くことになる。問題は、そのような階層的人種主義的民族主義の発想が、具体的にどのように発動されるか、その発動の諸条件とダイナミズムをどのように捉えるかである。ヒトラーのユダヤ人「絶滅命令」、第三帝国のユダヤ人絶滅政策を巡る議論のポイントはここにある。たんに階層的人種主義のイデオロギーが問題なのではない。
したがって、この関連で問題になる「41年8月半ばの諸事件」とは一体何かである。栗原(2001)は、ディークマンのリトアニア・ユダヤ人抹殺に関する新しい研究[25]を利用して、8月15日以降の女性子供を含むユダヤ人一般への殺害を「食料問題」から説明しようとしている。しかし、ディークマン論文をそのように紹介していいか。ディークマン論文は食料問題を「決定的な要因」とすることに眼目があるのか。そうではない。
彼の論文はリトアニアのユダヤ人の運命を問題にしている。全体的なユダヤ人問題を対象としているのではない。論争の根本的対立点は特定地域のユダヤ人の運命ではなく、ユダヤ人絶滅命令という大々的なヒトラー命令があったのかどうかということだった。リトアニアのユダヤ人問題の展開から媒介項抜きに飛躍してドイツや西欧のユダヤ人の全体的運命を読み取ることは内在的な読み方ではない。しかもこの限定的なリトアニア・ユダヤ人の運命についてさえ、ディークマンは「第一段階
射殺とポグロム、1941年6月/7月」、「第二段階 1941年8月から11月まで」と段階区分している。平板な連続ではない段階的展開の論理、すなわち戦時の歴史過程に内在する具体的闘争的弁証法を史実に即して踏まえているといわなければならない。食料問題がはっきり出てくるのは、この第二段階である。すなわち8月以降の第二段階の説明の一節として「戦争指導の手段としての飢餓政策」を置き、さらに「ユダヤ人の扶養」に一節を割いている。しかし、注意しなければならないのは、タイトルが示すようにこの第二段階は8月前半までを問題にするのではないということである。ディークマンは41年11月までの数ヶ月の変化を問題にしているのである。第一段階から第二段階への移行において彼がもっとも重視していることは何か。彼が問題にしているのは、「何がこの地域とベルリンのドイツの決定の担い手にとって変化したのか」である。その見地は、「ソ連に対する戦争でドイツが期待していたことと実際の経過とを対照してみなければならない」ということにある。そして、予期しなかった戦争の経過によって、ドイツの占領政策の「二つの核心的領域、軍事的安全性と供給問題がいまや前面に出てきた」としている。すなわち、彼はたんに食料問題の決定的重要性をほかの問題から切り離して述べるのではなく、予期に反した重大な戦争の経過で「軍事的安全性」と「供給問題」の二つの核心的問題が前面に出てきたとしている。一面的に食料問題だけを決定的要因として抽出しているのではない。彼は第一序列の決定的要因としてはむしろ「軍事的安全性」を挙げている[26]。端的に言えば、電撃戦戦略の挫折の問題、総力戦化の問題である[27]。ディークマンの結論のポイントは最初に絶滅命令ありきではないということである。食料問題をほかとの連関から抽出して特別の評価を与えることではなく、戦時下の諸問題の「本質的連関[28]」を抉り出そうとしているのである。
ディークマンは41年8月から11月にかけてソ連に派遣されたドイツ東部軍の置かれた厳しい補給問題・食料問題がソ連地域のユダヤ人政策を規定していったと述べている。300万人を越える兵員、約60万台の自動車と約60万頭の馬に、食料、燃料、弾薬、交換部品類を供給しなければならないというのは、「あらゆる歴史的前例を凌駕する[29]」課題だった。その圧力が弱者であるユダヤ人に及んでくるというのは理解可能である。栗原(2001)はそれを一方では紹介しながら、他方では、「絶滅政策の決定がドイツ軍の有利な戦況を背景に行われたことは疑いないところである」としている。それでは、厳しい補給問題との関連はどうなるのか。ドイツ軍の「有利な戦況」とは一体いつの時期のことなのか。「勝利の熱狂」を絶滅政策決定の主因とするブラウニング説を批判する以上、ドイツの「有利な戦況」とはいつなのか明示すべきである。しかしそれは見当たらない[30]。ヒトラー絶滅命令「41年10月」説に立つブラウニングは、彼の一貫したドグマである「勝利の熱狂」を裏付けるものとして41年10月初めのモスクワ攻撃開始直後のヒトラーの高揚した気分を証拠とした。ブラウニングは10月初めのヒトラーの「早まった勝利の熱狂」をゲッベルス日記を史料的根拠にしながら主張している[31]。しかし、栗原(2001)はそのブラウニング説を「支持することではない」という。しかも、「有利な戦況を背景に」絶滅政策の決定が行われたといったそのすぐ後で、「絶滅政策は戦況のいかんにかかわりなく、戦争遂行に必要なこととして行われたのである」という[32]。これでは「絶滅命令」の必要はないことになる。前後の脈絡、論理展開が理解不可能である。
第5に、栗原(1997、2001)は、ソ連ユダヤ人の絶滅政策(41年8月中旬以降)とポーランドや西ヨーロッパのユダヤ人の絶滅政策(その開始時点は、第1章
研究史整理で分かるように「41年10月以降」説など研究者によってさまざま)をたんに「時間的ずれ」として区別しない。時間的ずれを見据えて、その背後にホロコースト政策の展開における決定的に重要な違いや段階的地域的要因を見出そうとはしない。逆に、「時間的ずれから両者を別物と考えるH.モムゼン、ロンゲリヒその他多くの研究者はこの問題を理解していない」と断定的に批判するところ[33]から明らかなように、栗原(2001)はあくまでも41年8月前半までの全般的な絶滅命令に固執している。「戦場とは異なって非戦闘地域で大量殺害を実施するのはそう簡単ではない」というのがその理由なのである。これはかなり独自な理由付けである。絶滅命令、絶滅政策の基本はすでに41年8月前半までに決まっていたが、その実施がたんに時間的に遅れただけという論理となるからである。この立場は、今では支配的になりつつある段階的地域的区別、すなわちソ連におけるユダヤ人殺戮拡大を独ソ戦の展開の論理とダイナミズムでおさえ、41年秋以降における「冬の危機」の論理でポーランドから西ヨーロッパのユダヤ人対する移送政策が消滅し絶滅政策へ転換し、41年12月以降の世界大戦の枠組確定で文字どおり絶滅政策が全面化すると見る段階的螺旋的急進化の見地とは対立する[34]。それはまた、41年10月から11月になお移送政策が続いていたことを示す諸事実、ウッチ・ゲットー問題を無視することになる。
最近のヒュルターの研究によれば、41年9月、レニングラードの門前に迫った第18軍団は、まだイデオロギー化された殺人機械などには決してなっていなかった。ネヴァ川の首都をその前面の民間住民と戦時捕虜とともに餓死させるということは、この大軍団が初めから計画に入れていたことではなかった。41年秋から冬にかけて、レニングラード市民と軍の頑強な抵抗によって第18軍団がレニングラードの軍事制圧に成功しない中で、またモスクワ攻略作戦などほかの軍事作戦も頓挫する中で、「戦略的かつ経済政策的な動機によって、しかしそのラディカルさの点ではナチスのイデオロギーが付け加わることによってのみ可能になった最高指導部の決定が、すなわちレニングラードを飢餓によって絶滅させるという最高指導部の決定が下された」のであり、それが軍団司令部の当初のレニングラード占領計画をだめにしてしまった。このレニングラードの将来の運命に関する最高指導部の決定がすでに軍団が支配している地域における過酷この上ない占領政策を起爆させるもとになった。それまで第18軍団は伝統的な占領基準を考慮していたが、今や占領地の住民に対する保護義務などはほとんど無視されることになった[35]。まさに「冬の危機」、戦局の重大な転換こそが、一般ロシア人に対する占領政策においても決定的な政策転換の画期となった[36]。
最後に第6として、「パルチザン対策としてのユダヤ人絶滅政策」という狭い単純な枠組で私のホロコースト理解を捉えている点にも反論しておきたい。「パルチザン対策でホロコーストが理解できる」などと私は主張していない。パルチザンの隆盛は正規軍同士の巨大なぶつかり合いの力学がある場合に、ドイツ軍の安全にとって、ドイツの占領統治体制にとって重大な危機要因となる。「ほとんど知られていない事実」だが、ソ連の大部分は41年長期にわたってドイツの軍事行政下にあった。それは電撃戦戦略からは予期しないことだった。「バルバロッサ」作戦の挫折の結果、当初予定していた4つの民政統治地区のうちオストラント(バルト三国と白ロシア)およびウクライナの二つの地域においてのみ民政への移行が可能だった。ウクライナの場合、民政統治地域は当初予定よりはるかに狭い地域に限定せざるを得なかった[37]。問題はドイツ東部軍の全体的な安全であり、軍政地域とその後方地としての民政統治地域の総体的な安全確保であり、占領政策・占領体制の安定的確立である。そこでこそ現地民衆の統合が重要な意味を持ち、だからこそ食料問題、原料問題、輸送問題、補給問題などたくさんの難問が絡んでくる。広大なロシアは内部の利害対立を利用し、「民衆の支持を得ることなしには、現在のヨーロッパ諸国家の力では征服することも長期に占領することも不可能な国」というのはライヒ保安本部のある秘密覚え書き[38]の一節である。それは第三帝国の戦略構想でしばしば出てくる基本的考え方である。したがって、バルバロッサ作戦に関する41年5月2日の次官会議の結論として、「1.戦争は、全ドイツ国防軍が戦争第三年度にロシアからの調達で給養される場合においてのみ継続できる」とし、「2.その場合、もしもわれわれに必要なものが当地から取り出されれば、疑いもなく何千万人かの人間が餓死することになろう」と予測したとしても[39]、それがただちに無差別な占領地住民全体に対する飢餓戦略に結びつくわけではない。ある種の必然性を持って、すなわち、ある程度統制が不可能な一般の民間人よりも簡単に処理できる対象として、対ソ攻撃開始後、実際にまず犠牲になったのはソ連戦時捕虜であった。ゲルラッハによれば、41年秋以降の白ロシアのユダヤ人大量抹殺はこの関連で理解すべきものである[40]。このような問題連関の理解に立って、民衆統合を一つのキーワードとし、この観点からドイツの東方占領政策を分析し、民衆統合の武器の一つとしてマイノリティ・ユダヤ人の抹殺をも位置づけているのである。これは、「戦争と軍との関係を複合的現象としてとらえ、したがって第二次世界大戦を『戦時における社会の歴史』(マンフレート・メッサーシュミット)として理解しよう[41]」とする軍事史研究の方法的見地とその成果をホロコースト理解においても活かそうとするものである。
いずれにせよ、こうしてみると1995年以降の欧米の研究を踏まえたとされる最新の栗原(2001)は食料問題至上主義に陥っているだけではなく、方法的実証的にたくさんの問題をはらんでいることがわかる。戦争政策を戦時食料政策や労働政策に限定する、あるいはそれに重点を置くのは研究の一つのあり方であるが、全体の関連から抽出されると歴史像を歪める。あたりまえのことながら戦争政策それ自体は食料政策や労働政策に限定されるものではない。第三帝国の国家と経済の相互関係、それを巡るヒトラーの思想の体系的構造を問題にしていらい一貫して主張してきたように、ヒトラー、第三帝国の戦争政策は民族的大膨張・東方大帝国建設の侵略戦争であり、これに関わる問題局面は実にたくさんある。ホロコーストの力学過程を科学的に理解するためには、食料政策や労働政策を見るだけでは決定的に不十分である。ホロコーストを戦時食料政策や労働政策からだけ見るのは経済主義的な見方である。拙著(1994)と栗原批判を兼ねた諸論考(本書の基礎になったもの)で検討してきたのは、まさにそうした方法に関わる諸点である。戦時食料政策と戦時労働政策という戦争政策からすればホロコーストは「合理性」をもっていたというテーゼも、あまりに誤解を生みやすい規定であり、学問的概念として熟していない定式化だといわなければならない。みずからのアプローチとして「合理主義的アプローチ」なる命名を採用すること、実際にその方法を使っていると自認するのは自由であるが、そのような意味での「合理主義的アプローチ」に拙著(1994)が「依拠している」と主張するのは誤解もはなはだしいといわなければならない[42]。また、ブラウニングの規定する「穏健機能主義」を広く解釈し、これに私が属するというのも私の方法的独自性を希釈化するものである[43]。論争史の用語をあえて利用するなら、私の場合は機能的構造主義、構造的機能主義ともいうべきものであり、機能と構造の相互連関性をそこでの諸主体・諸勢力の動きと闘いを踏まえて動態的に把握しようという方法的見地に立っている。
すなわち、すでに『1939 ドイツ第三帝国と第二次世界大戦』において、「国家と経済」、「政治と経済」に関連する研究史整理を担当した際にも明確にしておいたように、そもそも意図主義と機能主義の不毛な対立をどのように乗り越えるべきかが出発点にあった。この問題意識と方法的検討から自分なりのテーゼと方法的見地を提起した。すなわち、諸主体・諸勢力の立体的な闘争的諸関係の総体とその推移において歴史現象をみていくという方法的見地である[44]。ホロコーストについても、第一次世界大戦の帰結を踏まえた第二次世界大戦の場で、敵対的諸勢力の闘争的諸関係の総体がどのようなものであり、全体がどのように動態的に変化していくかにつねに留意しつつ個別事象を見ていくということである[45]。
そのような方法意識・方法的基準を持たないで書かれた歴史を批判するためには、できるだけ一次史料にまで立ち返って検証し直す必要がある、というのが基本姿勢である。たとえすでに利用されたことのある一次史料でもみずからそれを読んでみると予想外の豊かなダイナミズムを教える情報が得られる。他人の史料解釈をうのみにしてはいけない、一次史料こそが生き生きとした歴史把握の前提だというのが実感である。一次史料に立ち返って検証するというのは歴史科学の基本的な作業であり、何ら独自のものではない。もちろん膨大な研究史があり、複雑多岐に渡る論点をくまなく実証的に検証するのは不可能である。一次史料にまで立ち返った実証的検証はきわめて限られた問題においてしか行えない[46]。個々の歴史研究者に独自性があるとすれば、どのような一次史料と取り組むか、そこに示された研究史総括のあり方ということであろう。本書は、時期確定とその背景を考えていく基礎作業として、アイヒマン証言の種類やそれぞれの信憑性、その意味合いをめぐる実証的検討も貴重だという立場に立つ。この小さな積み重ねも大切にしたい[47]。
ヒトラーのユダヤ人「絶滅命令」なるものの時点の検証というのがいまや「相対的に瑣末な」問題となった研究者もいるであろう。しかし少なくとも欧米で研究の最先端を走る多くの研究者の場合、ブラウニングのいうように「最終解決」に関するヒトラーの「根本的決定」(ゲルラッハ)の性格と時点の究明に折りに触れて立ち返り、「これまで同様」熱心にとりくんでいる[48]。ブラウニングは、ホロコーストに関するケンブリッジ大学での講義をまとめた新しい著作の第2章に「権力中枢部における決定過程―『最終解決』の転轍点―」という一章を設け、「決定プロセスの理解は、諸決定を取り囲こむ広範な歴史的コンテキストの理解と不可分であり、同時に、ナチ体制の構造と機能様式そのものの理解とも不可分であって、中心的な重要性を持つ」としている。時期確定と構造理解とが相互不可分であるとみる点で説得的である。あれかこれかではない[49]。どの時点でどの決定が、どのような意味で、どのような背景で、権力機構のどこにおいて、誰によって下されたのかを総合的に把握していくのは、ホロコーストの研究史−それ以外の問題関心からは、意識にも上らないことであろうが−において決して瑣末な問題ではないと思われる。したがってたとえば、大野英二もホロコーストの中心的主体的推進機構ライヒ保安本部のエリートを取り扱った最近の労作『ナチ親衛隊知識人の肖像』で時期確定に言及し、「41年秋」説を主張している。すなわち、クリストファー・ブラウニングが『ユダヤ人問題の最終解決』をヒトラーが「対ソ戦勝利の高揚感」の中で決定したという見地を取っているのに批判的で、「ヒトラーの『最終解決』の決定は対ソ戦の挫折が明らかになった1941年秋に、むしろ挫折感のなかで下されたと推定してい」ると[50]。時期的に「41年秋」で、「挫折感」の中で決定したという大野説は、私の「冬の危機」説に近い。しかしヒトラーの熱狂的で強靭な報復の熱情を核にした精神構造からすれば、「挫折感」からの決定とみるべきではない。モスクワ攻撃の挫折で「41年秋」にユダヤ人に対する報復の熱情とポテンシャリティ、すなわち絶滅政策への明確な転換の気運が盛り上がってきたとみたい。1940年までの電撃戦で膨れ上がった「勝利の熱狂」が今や独ソ戦の数ヶ月で決定的に冷め、それだけになおさら民族至上主義の論理と精神は冷徹過酷になったのである。それはスターリン・ソ連国家指導部の反撃の論理としのぎを削るものだった。ソ連軍最高司令部が前線に近い地域の村や町の家々をドイツ軍の越冬態勢の弱みを突いて焼き尽くす作戦を命じたのは、41年11月17日のことだった。これは「国防軍犯罪展」を巡る論争の中で有名になった命令である[51]。命令は次のようなものだった。まず、全体的な戦局転換と情勢を述べ、ついで苛烈極まる反撃方法を命じている。
「先月の経験が示したことは、ドイツ軍が冬季の戦争準備ではお粗末だということである。彼らには暖かい衣類が不足している。襲来した厳寒でものすごい困難に直面し、前線に近い部落、村や町に営巣している。厚顔無恥な思い上がった敵は、モスクワやレニングラードの暖かい家々で越冬しようと企てた。だが、それはわが軍の反撃が阻止した。前線が広がり、その各所でわが部隊の強靭な抵抗に遭遇した。そこでドイツ軍は防御に転じることを余儀なくされた。彼らは道路の両側20キロから30キロにある部落や村や町に宿営している。…これらの地域のソヴィエト住民はドイツ占領者によって移住させられ、追い出されるのが普通となっている」と。したがって、「ドイツ軍が村や町に粛清する可能性を奪うこと、ドイツ占領者をあらゆる住宅地域から野原の厳冬のなかに追い出すこと、彼らからあらゆる住宅や暖かい避難所の可能性を奪い取ること、彼らを戸外で凍死させること、これこそただちになすべき任務である。敵の崩壊の加速化とドイツ軍の殲滅はひとえにこれをやり遂げることにかかっている」と。そこで、何を命令したか。主要戦闘線から40キロないし60キロの範囲、道路の左右20キロから30キロの範囲のドイツ軍の後背地のあらゆる宿営拠点を「完全に破壊し、焼き尽くす」ことである。敵が宿営している拠点、村や町を「爆破し、焼き払う」ために、すべての連隊に20人から30人の規模の特別部隊を編成させた。その特別部隊の隊員には、「もっとも勇敢な、政治的道徳的にもっとも強靭な戦士、司令官、政治委員を選ぶこと」も命じた[52]。ドイツ軍、占領体制の「冬の危機」はこのようなソ連の反撃総体の結果であった。だから、レニングラード包囲の前線への補給線に位置する白ロシアの村の破壊、とりわけユダヤ人割合の多い村の焼き討ちとユダヤ人射殺が11月以降、急増するのである。
このようなホロコーストの政策決定と執行の論理についていえば、それはまさに闘争・戦争の力学と論理そのものに他ならない。ソ連のユダヤ人については、ドイツ軍350万人、ソ連赤軍450万人の死闘が続く戦線の拡大とともに、ドイツ軍の背後に急速に占領地が拡大し、治安確立、占領地民衆統合、軍事輸送・補給路確保の絶対的必要性が高まる中で、正規軍の背後の敵の殲滅作戦、すなわちスターリンのパルチザン戦争宣言への苛烈な対抗作戦として、アインザッツグルッペによる大量射殺が螺旋状に拡大していった[53]。ボルシェヴィズム率いるソ連国家とソ連大軍に対する3ヶ月ほどの死闘の結果として、第三帝国最初の深刻な「冬の危機」が到来した。それはヒトラーの卓上談話などにも登場するナポレオンの世界史的敗北を想起させるものであった。この「冬の危機」こそがポーランド・ユダヤ人やドイツ・ユダヤ人を含めた西欧ユダヤ人に対するそれまでの政策、すなわちそれまでの移送計画や移送政策を最終的に挫折させ、絶滅政策を選択させる転換点となった。そしてそれをさらに前方に推し進め確定したのが日本の真珠湾攻撃を契機とする対米宣戦布告、文字どおりの世界大戦の枠組の決定であった。ヒトラーの1939年1月30日の国会演説での予言の枠組、再び世界戦争になれば、ボルシェヴィズムの勝利、ユダヤ民族の勝利ではなく、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅だという予言の枠組が完成した。1939年から42年までドイツは総力戦体制ではなかった。「冬の危機」と対米宣戦布告で総力戦体制の構築が緊急の課題となった。ヒトラーは「冬の危機」までは経済の根本的な新秩序を考えていなかった。戦局転換で軍需生産が危機に陥り、トット、そしてシュペーアに抜本的な対策をゆだねることになった[54]。スターリングラード攻略を初めとする42年夏の総力戦の要求する諸課題・諸難問の山積で、ポーランドと西欧の労働能力の無いユダヤ人の抹殺への圧力は増し、ベクトルは太くなった。ヒムラーを初めとするライヒ保安本部の闘争ポテンシャリティがさらに高まった[55]。絶滅政策への決定的転換点としての「冬の危機」を構成する諸要因・諸ベクトルの中にはもちろん食料不足や労働力不足の問題が重要なものとして含まれている。しかし、それらは危機の経済的要因にすぎない。それら経済的要因は、拙著(1994)がライヒ保安本部の秘密資料、すなわちアインザッツグルッペの「事件通報ソ連」やゲシュタポの「国家敵対的重要事件通報」、保安部の「民情報告」などの治安関係史料で明らかにしたような政治的・軍事的・治安的な立体的で総合的な諸要因・諸ベクトルの一部をなすに過ぎない。
このような見地とアプローチ、そしてこれまでの実証からすれば、「41年8月半ばにヒトラーの絶滅命令が口頭で行われた[56]」という断定は成り立ち得ない。事実、栗原(1997)の主張に対し、最新の論考で重要な基本的修正が行われている。そこではブローシャトを紹介した村瀬説に接近し、「何回かの絶滅命令が出されたというブローシャト説はそれなりに有効性をもっている」と認めている。それに応じて、41年8月半ばの「絶滅命令」なるものを極めて限定的な内容・性格のものに解釈し直している。ロンゲリヒなど新しい研究にも依拠しながら、「『状況によっては』、あるいは、『状況を考慮して』女子供ユダヤ人の殺害を行えというような命令ではなかったかと考え[57]」るようになっているのである。しかし、このような限定的な命令ならば、大々的命令を8月前半にヒトラーが発したとする基本テーゼの否定に他ならない。それは従来の栗原説の根本的否定、基本的修正である。だが、別の箇所では、「41年8月前半に絶滅政策が基本的に決定された[58]」と旧説に固執する表現も見られる。
ともあれ栗原(2001)の提起した論点を検討した結果、問題はそう簡単ではないことがはっきりした。また旧著(1994)と最近の『独ソ戦とホロコースト』(日本経済評論社、2001年。これは1993年から1995年にかけて連続的に発表した拙稿を圧縮し、ゴールドハーゲン批判の見地を軸にしてまとめたものである)において私が使用した方法と実証が、ドイツ現代史研究の第一人者によってすら、また私の様々の角度からの批判の後で、批判の意味も含めて、なお正確には理解されていないことが明らかになった。新しい拙著(2001)に対しても、ホロコーストの「周辺を原史料で洗った」という評価である。私の依拠した主たる史料は、ホロコーストの推進主体のライヒ保安本部の秘密文書類であり、「事件通報・ソ連」など独ソ戦の現場を伝えるものである。「独ソ戦とホロコースト」というタイトルには、歴史把握のスタンス、独ソ戦、その展開、総力戦の泥沼化、敗退過程といったこと、つまりは独ソ戦の総体的ダイナミズムこそがホロコースト展開の決定的要因だという基本的メッセージを込めている。残念ながら、こうした基本的根本的なことが理解されていない[59]。とすると、この間に栗原(1997)の問題的な箇所を取り上げ批判的に検討することを通じてホロコーストの立体的力学構造を明らかにしようと苦闘しながら発表してきた諸論考に推敲を加え一書としてまとめ、学問的批判の素材として供するのも意味が無くはないであろう。私の「眼中にあるのは決定の時期だけである」のか、あるいは「冬の危機」説の基本的見地に立って41年8月前半説の実証的根拠の薄弱さを批判することを通じて、ユダヤ人政策決定の構造的背景と論理を解きほぐそうとし、ある程度確実な事実関係・力学関係を明らかにできたといえるのか。それとも「単純な史料依存主義」にすぎず、ゲルラッハやロンゲリヒなど「他人の説に対する依存度が高」いだけの「乱れ」た歴史解釈なのか[60]。あるいは拙著(1994)に対するいくつかの評価のように一次史料の独自な選択・読み込みを行い、独特の構想と独自の論理を持って他人の説を位置づけているのか[61]、こうしたことは広く読者諸賢の判断に委ねることにしたい。
ともあれしかし、なによりも、この論争的検討を通じて、議論が対立し、意見の食い違うところが多々あるにしても、その背後に全体を通して決して否定し得ないホロコーストの現実と論理、ホロコーストを推し進める深刻な問題群が浮かび上がってくることだけは、確実だと思われる。
[1] Ruck, Bibiliographie zum
Nationalsozialismus
[2] 栗原優「ホロコースト研究の現状―拙著『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』その後−」『ソシオロジカ』第25巻第1・2号、2001年3月、15ページ。
[3]『文化学年報(神戸大学)』1989年。
[4] 少なくとも私はこれら三つの業績すべてに関して学術雑誌において日本のドイツ史研究における位置付けと批判的評価を行ってきた。『土地制度史学』第 ? 号、第 ?号、第 ?号。井上茂子・木畑和子・芝健介・永岑三千輝・矢野久『1939 ドイツ第三帝国と第二次世界大戦』同文舘、1989でも、担当した序章第二節の原稿提出はもちろん、すでに校正が進んだ後ではあったが、栗原(1989)を手に入れたので注記で一定の評価を示しておいた。
[5] 『ソシオロジカ』第25巻第1・2号、2001年3月(以下、栗原(2001)と略)、1−28ページ。
[6] 栗原(2001)、1ページ。
[7] 栗原(2001)、1ページ、21ページ。
[8] 栗原(2001)、19ページ。
[9] ヒトラー「命令」、絶滅政策への移行に関する拙著(1994)の立場、「冬の危機」説、「41年12月」説を「研究史無視」だと評し、「41年8月前半」説の立場から批判したのは『歴史学研究』に掲載された栗原書評だった。拙著(1994)はヒトラー命令の時期を検討するための研究ではない。これに関する論争を正面から取り上げなかったのは問題・課題の限定からして当然のことである。拙著の主たる問題関心は二つの世界大戦の相互関係と第三帝国のソ連占領政策の全体構造の探求であり、ホロコースト問題もその中に位置づけることにあった。それはヒトラー命令を議論する欧米の諸説とその紹介の仕方や方法的スタンス自体に対する批判を表現したものである。
[10] 栗原(2001)、17ページ。
[11] Christpher R. Browning, Judenmord. NS-Politik, Zwangsarbeit und das Verhalten der
Täter, Frankfurt am Main 2001, S.11 .[Nazi Policy,Jewish Workers,German Killers, Cambridge 2000]
[12] Browning(2001), S.11f.
[13] Hans Mommsen, Die Realisierung des Utopischen:
Die „Endlösung der Judenfrage“ im „Dritten Reich“, Geschichte und
Gesellschaft, 9(1983), S.380.
[14] その根底にはソ連崩壊という世界史的事件の強烈なインパクトのもと、「勝利の熱狂」に湧くいわゆる自由主義陣営の軽佻浮薄な一面的歴史理解に対する批判意識がある。第一次世界大戦の結果としてのソ連の誕生から成長、その世界強国としての膨張、そして「冷戦期」数十年における空洞化による内部崩壊の全プロセスを、その背後に横たわるものすごい数の人々の悲劇と犠牲を踏まえ、しかも犠牲はたんにユダヤ人だけではない、数の上ではその何倍もだったとはいえソ連だけの犠牲ではない、その他の諸民族の幾多の犠牲、そしてドイツ人の第一次世界大戦から第二次世界大戦における犠牲、これらの総体をこそ見るべきだという方法的見地であるスターリン主義の犠牲についてももちろん科学的に研究しなければならないが、ドイツ第三帝国のほんのわずかの問題についてすら、膨大な研究がある中では、その点は世界の学界の自然発生的だが論争的な科学的分業関係の成果を参考にするしかない。最新のものとして、Dittmar Dahlmann / Gerhard Hirschfeld(Hrsg.), Lager,
Zwangsarbeit, Vertreibung und Deportation. Dimension der Massenverbrechen in
der Sowjetunion und in Deutschland 1933 bis 1945, Essen, 1999. 第一次大戦と第二次大戦の関連には日本のファクターも当然、重要なファクターとして関わってくる。その点も拙著(1994)の主張のポイントの一つだった。真珠湾攻撃、世界戦争勃発とホロコーストの絶滅政策への展開の関連を指摘した点である。このような世界的関連を問題にする最新の興味ある研究として、地政学の代表者カール・ハウスホーファーを巡るものがある。Chirstian W. Spang, Karl Haushofer und die Geopolitik in Japan. Zur
Bedeutung Haushofers innerhalb der deutsch-japanischen Beziehungen nach dem
Ersten Weltkrieg, in: Irene Diekmann, Peter Krüger, Julius H. Schoeps(Hrsg.), Geopolitik.
Grenzgänge im Zeitgeist, Bd.1.2, Potsdam 2000, S.591-629.
[15] これは、ユダヤ人問題の「最終解決」という史料上の言葉の内容、意味合いがどのように変化したか、すなわちいつから肉体的絶滅を意味するようになったのかの解釈問題でもある。Wolfgang Benz, Endlösung. Zur Geschichte
des Begriffs, Tribune. Zeitschrift zum Verständnis des Judentums,
33(1994), S.96-109.
[16] 「冬の危機」、全体的戦局転換の画期性・重要性は、ドイツの軍事史研究所が刊行している『第三帝国と第二次世界大戦』シリーズ(20年以上の歳月をかけ、なお未完である)の第4巻『ソ連への侵攻』(1983年刊行)が明らかにしている。Horst
Boog/Jürgen Förster/Joachim Hoffmann/Ernst Klink/Rolf-Dieter Müller/Gerd R.
Ueberschär, Der Angriff auf die Sowjetunion[Das Dritte Reich und der Zweite Weltkrieg, Bd.4, hrsg. vom Militärgeschichtlichen
Forschungsamt], Stuttgart 1983. 経済問題、軍需や食料問題については、ミュラー(Rolf-Dieter Müller)が第二部第VI章 「経済的『電撃戦戦略』の挫折」、とくに第4節の「飢餓戦略とプラグマティズムの狭間の食料問題」で、ソ連の穀倉地帯の占領、それによるRolf-Dieter Müller Rolf-Dieter Müllerドイツ軍全体の食料確保、その帰結としてのロシア人(ユダヤ人ではない)の大量餓死といった開戦前の計画・予測と開戦後の実際の調達計画との違いなど、「冬の危機」にいたる実相を明らかにしている。
[17] ヒトラーの41年8月はじめの卓上談話から、これに関連する一節を私に指摘したのは立正大学大学院文学研究科の院生・宮本正博であった。
[18] 栗原(2001)、19ページ。
[19] 栗原(2001)、20ページ。
[20] ドイツ本国の食料調達においては1944年、東部占領地の喪失で、すなわちソ連占領地、総督府ポーランドの「余剰部分」の喪失で、加えてフランス、上部イタリアの「余剰部分」が手に入らなくなって一挙に悪化した。Schreiben des Reichisministers für
Ernährung und Landwirtschaft an Himmler vom 29. 8. 1944; Denkschrift vom 29. 8.
1944, in: BA NS 19/2746.
[21] Besprechungsprotokoll Görnnerts vom 18. Sept. 1941, in: BA R 26IV/32.
[22] 「1918年シンドローム」の背景にある革命状況の問題については、三宅立『1917年暑い夏???』???を参照されたい。この労作の出発点となる20年以上前の『現代史研究』掲載論文は、革命のエリート、政治的上層部を巡る学問的論争から距離をおいて、生身の一人の兵士の現実体験に着目する点で、新鮮な衝撃を与えるものだった。
[23] „Behandlung des Fremdvölkischen im
Osten“, Niederschrift des Reichsführers-SS, in: BA NS 19/1737.
[24] ドイツ民族強化のための諸民族の生存圏再編に関する資料。Neuordnung der Bevölkerung in den eingegliederten
und besetzten Ostgebieten, in: BA NS 19/3979.
[25] Christoph Dieckmann, Der Krieg und die Ermordung der litauischen Juden, in:
Ulrich Herbst(Hrsg.), Nationalsozialistische Vernichtungspolitik 1939-1945.
Neue Forschungen und Kontroversen, Frankfurt a. M. 1998, S.292-329.
[26] Dieckmann, in: Herbert(Hrsg.), 1998,
S.307f.
[27] ヒムラーの意思内容を構成する重大要因が対ソ前線で多大の犠牲を払って戦う武装親衛隊のことであった。武装親衛隊はすでに8月初めには、対ソ前線で略奪者の射殺とあわせて「ユダヤ人作戦」を進めていた。Funkspruch: Lagebericht vom 2.8.41, in: BA NS 33/40.親衛隊騎兵旅団の騎兵部隊(SS-Kav., Reitende Abteilung)は41年7月28日から8月3日までの活動報告期間に、「約3000人のユダヤ人とパルチザンを射殺した」と報じている。Bericht des Kommandostabes vom 6. 8. 41, in: BA NS 33/42. 「強盗団に加勢したユダヤ時を射殺した」、「ジトミルではユダヤ人を公開処刑した」。Tätigkeitsbericht der 1. SS-Brigade vom 10. 8. 41, in: BA NS 33/22. 他方では犠牲も多く、「冬の危機」にいたるパルチザンなどとの戦闘に関する戦時日誌を見ると、たとえば武装親衛隊第二歩兵旅団の場合、1941年10月17日から24日の活動報告の中で、定員(将校246人、下級将校1308人、兵士5747人、合計7301人)に対して、現員(将校179人、下級将校797人、兵士4418人)が大幅な定員割れになっていると報じている。その原因が被害の大きさに対して補充が間に合わないことにあることは言うまでもない。これまでの戦闘で倒れたものは将校135人、下級将校593人、兵士3404人に上る、と。Tätigkeitsbericht der 2. SS-Inf. Brigade für die Zeit vom 17. 10. 41 - 24. 10. 41, in: BA NS 33/38. 現場と被害の実態、ロシア側の「激しい」抵抗、パルチザンの動きを確認するためには、たとえば41年7月から11月の武装親衛隊の活動報告BA NS 33/39, NS 33/40. NS 33/41, NS 33/43などを見なければならない。41年8月初めのドイツ軍の圧倒的進軍状況ですら、民衆は「赤軍が戻ってくる不安をもはやなくなった場合にしか、全面的には」協力しなかった。Bericht des Kommandostabes vom 6. 8. 41, in: BA NS 33/42.ドイツ東部軍がもっとも精鋭の将校や下級将校、兵士を41年夏から「冬の危機」にいたる間に失ったとすれば、親衛隊の武装組織も同じような事情に陥っていたといわなければならない。「冬の危機」はヒトラーにとっての全般的な東部戦線の軍事的危機であると同時に、ヒムラーにとっては直接の指揮下の親衛隊武装組織の危機、すなわち軍事安全上の危機でもあった。人種的民族的観念で忠誠度の高い最愛の部下を多数失った悲痛な感情、したがってまたその裏返しとしての「報復」(これが戦時の論理の中核にある)の強烈な熱情の不断の更新・累積もヒムラーたち親衛隊指導部の意思内容と意思方向を決定する要因としてカウントしておかなければならないだろう。
[28] Dieckmann, in: Herbert(Hrsg.), 1998,
S.328.
[29] R-D. Müller, Das Scheitern derf
wirtschaftlichen „Blitzkriegstrategie“, in: Boog u.a.(1983), S.959.
[30] 旧説と新説とで一貫していること、すなわちヒトラーの大々的命令を7月から8月前半に置くということからすれば、この時期を「有利な戦況」と判断していることになろう。独ソ戦準備と開戦後のソ連攻撃への全力投入で一時棚上げにされてきた「ユダヤ人問題の最終解決」の準備を、「勝利の熱狂の頂点」(Gerd R. Ueberschär, Hitlers Überfall auf
die Sowjetunion 1941, in: Ger R. Ueberschär/Lev A. Bezymenskij(Hrsg.), Der
Deutsche Angriff auf die Sowjetunion 1941. Die Kontroverse um die
Präventivkriegthese, Darmstadt 1998, S.52)行うよう命じたゲーリング令は、41年7月31日付である。しかし、このゲーリング令をヒトラーの絶滅命令と強く結び付けたところに、解釈上の無理があるというべきだろう。ドイツでも、ユーバーシェーアは、対ソ戦争の動機を4点にまとめた意図主義・プログラム主義の代表ヒルグルーバーの80年代の結論(1.東欧で「ユダヤ的ボルシェヴィキ的」指導層とユダヤ人を絶滅すること、2.「第三帝国」のために植民地・生存圏を獲得すること、3.ドイツ支配下に新しく設立されるいわゆる「帝国全権委員区(ライヒスコミッサリアート)」のなかでスラヴ人大衆を服属させること、4.ヒトラー支配下に封鎖に強い自給自足的な大陸ヨーロッパの大生存圏を樹立すること)を継承している。すなわち、41年7月31日のゲーリングの命令に「続いて全ヨーロッパから移送されたユダヤ人の絶滅はヒトラーの窮迫状況あるいは強制された状況によるのではなく、計画された東方拡大と同じようにヒトラーの人種観念の強固な構成部分であった。二つの目標は同じプログラムに属する」。だから、「ヒトラーの東部における絶滅戦争への国防軍とその指導部の積極的参加がそれだけ重くなる」と(Ibid.)。G. R. Ueberschär, Der
Holocaust im „Fall Barbarossa“. Die Judenvernichtung in der UdSSR, Tribune,
33(1994), S.127.しかし、「状況の強制」を説くことは、その大状況を作り出したことの主体的指導的責任、また絶滅政策推進過程の主体的指導的関わりをヒトラーや政治・国家指導部についても国防軍についても不問に付すわけでも、軽く見ることでもない。歴史、巨大な悲劇に対する責任を「普通のドイツ人」、彼らを取り巻く反ユダヤ主義の伝統や文化にまで求め、ホロコーストの担い手と意識の広いすそ野を指摘し、ごく狭い一握りの「異常な」ナチ指導者や親衛隊など特別の「犯罪的」組織にすべての罪と責任を押し付けてきた史観を批判する点で、ゴールドハーゲンは貴重な問題提起を行った。ただ、その解き方が劣悪だっただけである。ゴールドハーゲンの否定的側面と積極的側面を選り分ける学問的作業として、Collin Hay, Das Benennen der Täter. Die
„Goldhagen-Kontroverse“ und die Zuweisung von Schuld, Zeitschirift für
Genozidforschung, 2(2000), S.29-44. 注意しなければならない一般化のもう一つの危険は、ホロコーストを単数形の「近代」や「社会」、「文明」や「文化」の問題としてみる見方である。Zygmunt Bauman, Modernity and the
Holocaust, Ithaca 1989, S.x; dt.: Dialektik der Ordnung. Die Moderne und die
Holocaust, Hamburg 1992, S.10, zit. n. Winton Higgins, Genozid und westliche
Moderne, Zeitschirift für Genozidforschung, 2(2000), S.45.現実の「近代」、「社会」、「文明」、「文化」は一枚岩でも単体でもなく、対立的・多元的・多次元的な諸潮流・諸要因のぶつかり合いで立体的に構成され、動態的に変化していることが見失われてはならない。
[31] Browning(2001), S.61f.
[32] 栗原(2001)、9ページ。
[33] 栗原(2001)、6ページ。
[34] 「時間的に異なる、二つの基本的決定」、すなわち、「ソ連ユダヤ人の大量殺害に導いた1941年7月ないし8月の決定」と「ソ連ユダヤ人の絶滅が進行した後ではじめて、ヨーロッパの全ユダヤ人を絶滅する決定が下された」とするBogdan Musial説は、「この第二の決定の日付は1941年9月ないし10月である」と整理している。彼はその二段階説を12月「根本的決定」説を提起したハルトークとゲルラッハが修正したとしている。Bogdan Musial, The Origins of “Operation Reinhard”: The Decision-Making Process for the Mass Murder of the Jews in the Generalgouvernement, Yad Vashem Studies, XXVIII, 2000, pp.112f. 第1章で見るように、私の立場は41年10月を移行期とし、「回避策」が選択され、同年12月以降、ポーランドと西ヨーロッパのユダヤ人に対する絶滅政策への基本的転換が行われたとの立場である。
[35] Johannes Hürter, Die Wehrmacht vor
Leningrad. Krieg und Besatzungspolitik der 18. Armee im Herbst und Winter
1941/42, Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte, 49(2001), S.438.
[36] 第一次世界大戦の記憶が叩き込まれた世代、「匕首伝説世代」の指導的軍人の頭に、ヒトラーと同じような反ボルシェヴィズムと反ユダヤ主義と反スラヴ主義の強固な観念融合があり、それが危機とともに「爆発する」ことになる。Johannes Hürter, „Es herrschen Sitten und
Gebräuche, genauso wie im 30-jährigen Krieg“. Das erste Jahr des
deutsch-sowjetischen Krieges in Dokumenten des Generals Gotthard Heinrici, Vierteljarshefte
für Zeitgeschichte, 48(2000), S.338. 「匕首伝説世代」の将軍、将校、そして多くの兵士におけるイデオロギーと命令服従精神が軍刑法典の規定を蹂躪する犯罪行為を可能にし、「絶滅戦争」としての対ソ戦で果たすことになった問題については、400年の歴史を持つ「絶滅的排除的反ユダヤ主義」というゴールドハーゲンの単純一面的史観の批判において歴史研究が強調してきたところである。Manfred Messerschmidt, Ideologie und
Befehlsgehorsam im Vernichtungskrieg, Zeitschrift für Geschichtswissenschaft,
49(2000), S.905-926. またナチ・イデオロギーは権力掌握後、アカデミズムのあらゆる分野において同調者によって発展させられ、社会を支配したものである。Lutz Raphael, Radikales Ordnungsdenken und
die Organisation totalitärer Herrschaft: Weltanschauungseliten und
Humanwissenschaftler im NS Regime, Geschichte und Gesellschaft. Zeitschrift
für Historische Sozialwissenschaft, 27(2001), S.5-40, 29. と同時に、民族主義的危機意識の表現としての「病んだ民族体」観、その克服としての「民族的再生」観は、第一次大戦の敗北の結果として、工業家、高級官僚をはじめとして広い社会層に蔓延し、ナチズムの土壌になった。民族のバチルスとしてのユダヤ人の排除を主張する反ユダヤ主義と融合する。Moritz Föllmer, Der „kranke Volkskörper“.
Industrielle, hohe Beamte und der Diskurs der nationalen Regeneration in der Weimarer Republik, Ibid.,
S.41-67. 民族至上主義からする「絶滅の先駆的思想家たち」がいた(Götz Aly/Susanne Heim, Vordenker der
Vernichtung. Auschwitz und die deutschen Pläne für eine neue europäische
Ordnung, Hamburg 1991)としても、絶滅政策の始動は独ソ戦の現実、総力戦化のプロセスの多くの要因との総合による。
[37] J. Förster, Die Sicherung des
“Lebensraumes”, in: Boog u.a.(1983), S.1030.
[38] Denkschrift über
die russische Frage, in: BA R 58/13. これは、「イギリスとアメリカに対する闘いのためにヨーロッパ大陸を統一する」、そのためのロシア征服だと位置づけ、ロシア全体をどのように細分して支配しようとすかを構想した全文29ページの興味深い覚え書きである。
[39] 2718-PS, Aktenotiz über Ergebnis der
heutigen Besprechung mit den Staatssekretären über Barbarossa vom 2. 5. 1941,
in: IMG, Bd.31, S.84.
[40] Christian Gerlach, Kalkulierte Morde.
Die deutsche Wirtschafts und Vernichtungs- politik in Weißrußland 1941 bis 1944,
Hamburg 1999、S.1135. ゲルラッハは一方では対ソ開戦以前に戦時捕虜の絶滅意図があったとし(S. 785)、他方では「ソ連戦時捕虜の大部分の抹殺」の計画は「はっきりしない」ともいって(S. 781)。彼の大著において膨大な史料群の個々のドキュメントを適切に位置づける点でなお問題があることがすでにハルトマンによって指摘されている。Christian Hartmann, Massensterben oder Massenvernichtung? Sowjetische Kriegsgefangene im „Unternehmen Barbarossa“. Aus dem Tagebuch
eines deutschen Lagerkommandanten, Vierteljahrshefte für Zeitgeschichte,
49(2001), S.127. ハルトマンのいうように、「初めから確定した殺害計画があったということはいえない」。41年晩夏以降、明確になる作戦上の危機、そして41年12月に露呈する戦略的危機が、ソ連戦時捕虜、特のロシア人戦時捕虜の百万単位の死亡を「計算に入れさせた」(S.135)というのが、独ソ戦のダイナミズムの適切な理解であろう。
[41] Rolf-Dieter Müller, Speers Rüstungspolitik im Totalen Krieg, Militärgeschichtliche
Zeitschrift(bis Band 58(1999),
Militärgeschichtliche Mitteilungen), 59(2000), S.350.
[42] 拙著(1994)の主たる問題意識の一つは、第一次大戦が11月革命で終わったのになぜ第二次世界大戦は全土を占領されるまで続けられたかということにあり、第一次世界大戦と第二次世界大戦の内的世界的連関性を考えようとするところにあった。その問題関心からすれば、ホロコーストの問題は副次的な問題であった。第二次世界大戦末期のドイツ民衆の「麻痺の構造」をどのように理解すればいいかということが、拙著(2001)にも継続する一貫した基本的問題関心であった。1943年以降、1945年までの間にさまざまな崩壊現象がありながら、また最終局面で連合国が国土の5分の4までも占領した後でさえも、なお第三帝国の体制は闘いつづけたのはなぜかという問題は、歴史学的にはまだ検討が開始されたばかりというのが国際的な研究史の現状である。Hans Mommsen, The Dissolution of the Third Reich: Crisis Management and Collapse, 1943-1945, Bulletin of the German Historical Institute, 27, Fall 2000, pp.9-23.
[43] 矢野久書評『社会経済史学』によれば、私はどちらかといえば意図主義の潮流に分類されているのである。
[44] 詳しくは、井上茂子・木幡和子・芝健介・永岑三千輝・矢野久『1939 ドイツ第三帝国と第二次世界大戦』同文舘、1989年、第1章第2節を参照されたい。
[45] 拙著(1994)の注・・?番号、ページの確認?・・を参照されたい
[46] ゴールドハーゲンのような個別事例の研究成果を早々と一般化してしまうことへの方法的批判として、ブラウニングは、「あまりに急いで一般化する試みよりは、深く掘り下げて研究することに力を注いできた」といい、官僚機構を問題にする時には外務省のユダヤ人問題担当者をテーマにし、軍占領当局を問題にする場合にはセルビアに集中したと自分の研究姿勢を説明している。C. Browning, „Eine anti-akademische Attacke“. Christopher Browning über die Holocaust-Forschung und die Goldhagen-Affäre, Österreichische Zeitschrift für Geschichtswissenschaft, 8. Jg. Heft 2, 1997, S.252. 問題・課題限定の仕方は様々であるが、具体的史料との格闘が不可欠であることはいうまでもない。
[47] 国防軍犯罪展に展示された1433点の写真の真贋を巡る論争はこの小さな積み重ねの重要さを教えてくれる。Bogdan Musial, Die Wanderausstellung
„Vernichtungskrieg. Verbrechen der Wehrmacht 1941 bis 1944“ und der Bericht der
Kommission zu ihrer Überprüfung, Zeitschrift für Geschichtswissenschaft,
49(2001), S.712-731. ここには妥協なき批判精神がみられ、あらためて徹底的な史料検証こそが歴史学の王道だと分かる。
[48] Browning(2001), S.53. その他、たとえば、Bogdan
Musial, Deutsche Zivilverwaltung und Judenverfolgung im Generalgouvernement.
Eine Fallstudie zum Distrikt Lublin 1939-1944, Wiesbaden 1999. Ders., The Origins of “Operation Reinhard“: The Decision-Making Prosess
for the Mass Murder of the Jews in the Generaogouvernement, Yad Vashem
Studies, XXVIII, pp.113-153.
[49] Browning(2001), S.47.
[50] 大野(2001)、52ページ。
[51] Christian Hartmann/Jürgen Zarusky,
Stailins „Fackelmänner-Befehl“ vom November 1941, Vierteljahrshefte für
Zeitgeschichte, 48(2000), S.667.
[52] Befehl des Hauptquartiers des höchsten
Oberkommandos über die Vernichtung von Siedlungspunkten in der frontnahen Zone
vom 17. November 1941, in: Christian Hartmann/Jürgen Zarusky, Stailins
„Fackelmänner-Befehl“ vom November 1941, Vierteljahrshefte für
Zeitgeschichte, 48(2000), S.673f.
[53] いうまでもないことだが、占領地におけるユダヤ人一般民衆の殺戮への論理をパルチザンの活動との関連性においてみなければならないと主張することは、そこから飛躍してパルチザン戦争の栄光を賛美する旧ソ連の正統派史観を承認することを意味しない。ドイツ占領下のソ連の民衆の日常(抵抗、順応、対独協力などの諸相)についてはソ連崩壊後、タブーの枠組が崩壊して実証研究が始まったばかりであり、こうした実証研究を踏まえた評価が必要である。Berbhard Chiari, Mythos und Alltag:
Voraussetzungen und Probleme eines west-östlichen Dialogs zur Historiographie
des Zweiten Weltkriegs, Militärgeschichtliche Mitteilungen, hrsg. v.
Militärgeschichtlichen Forschungsamt, 54(1995), S.535ff, 551ff.
[54] R-D. Müller(2000),
S.354-356.
[55] 実証的にはヒムラー命令の諸相を辿る必要がある。この点も含め、拙著(1994、2001)を貫く問題意識について解説した『図書新聞』のインタヴュー記事を参照されたい。
[56] 栗原(2001)、15ページ。
[57] 栗原(2001)、15ページ。
[58] 栗原(2001)、9ページ。
[59] 栗原(2001)、28ページ。
[60] 栗原(2001)、18、19ページ。
[61] たとえば、山本秀行『ナチズムの記憶』の文献解題における拙著評価を参照されたい。