経済史A講義レジュメ(2002年7月5日)
近代工業、機械制大工業の革命性
−古い生産の仕方の根底的変革−
最近に数十年の研究活動関連統計(科学技術研究活動の状況1969年から2001年までの統計、会社、研究機関、大学等の研究活動の最近の状況、工業所有権・特許件数の状況など)を一つの素材として、日本で、そして世界で進展している科学技術の進歩と経済発展の関係を確認してみた。
現代日本経済と世界経済の発展が科学技術の発展を基礎にしていること、したがって21世紀世界においてますます科学技術の重要性が高まることは、鉄の必然性を持ったことだろう。「自由とは必然性の洞察である」(ヘーゲル)とすれば、この鉄の必然性を深く広く理解しておくことはきわめて大切になる。
経済の歴史を振り返れば、まさに今日の上記のような発展の起点は機械制大工業の生成発展、産業革命とともにある。
人類は、最初のイギリスの産業革命以来、地域によってその度合いは異なるが、地球上の各地域・各国は、何度も産業上の革命的変化の時代を経験してきた。
その機械制大工業は、長いあいだの工場制手工業(マニュファクチャー)の発展成熟の結果として誕生してきた。
マニュファクチャーの生成発展は、「近代に独自な資本」、近代資本主義の誕生・発展と平行する現象だった。
マニュファクチャー、「近代に独自な資本」としての産業資本は、15世紀末の地理上の発見とともにはじまった。
→市場関係の劇的変化(市場の発見)と生産様式の劇的変化(新しい生産技術・生産様式の発見・実用化)との相互連関。
市場における激しい競争を通じる新しい生産技術・生産様式の普及(古い生産様式の打破、破壊)
私的経営間の競争→生産の無政府性→過剰生産→弱体な経営の競争を通じての排除→市場競争での勝者と敗者の不断の創出
市場競争勝利の条件・・・生産と販売の諸要因での優位性・・「いいものを安く」・・・そこでの科学技術の必要性・重要性。
中世同職組合(ギルド・ツンフト)的生産様式に対するマニュファクチャー(経営内の分業にもとづく協業)の優位性は?
アダム・スミス、国富論冒頭「分業論」参照。
前回講義・・・中世封建制の経済的基礎
小農民経営の村落共同体・・・共同体強制のもとで労働するものが自分の生産手段をもって小規模経営を行う・・・自由なまたは隷農的な小農民の農耕
中世都市・・・手工業者の小経営、同職組合による対内的平等と対外的独占
これらの場合、労働手段−土地、農具、仕事場、手工用道具は、個々人の労働手段であり、もっぱら個人的に使用。
必然的にちっぽけな、矮小な、制限されたもの。
これらの分散した、局限された生産手段を集積し拡大して、強力に作用する現代の生産の槓杆(てこ)に変えることが、封建社会の中から生まれてきた資本主義的生産様式とその担い手のブルジョアジー(資本家階級)であった。
15世紀・16世紀から18世紀にいたる本来のマニュファクチャー期
「商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。世界商業と世界市場とは、16世紀に資本の近代的生活史を開くのである[1]。Die
Warenzirkulation ist der Ausgangpunkt des Kapitals. Warenproduktion und
entwickelte Warenzirkulation, Handel, bilden die historischen Voraussetzungen,
unter denen es entsteht. Welthandel und Weltmarkt eröffne im 16.
Jahrhundert die moderne Lebensgeschichte des Kapitals.」
生産力発展の系列
単純協業→マニュファクチャー(=分業にもとづく協業)→産業革命・機械制大工業[2]
協業・・・「資本主義的生産様式が実際にはじめて始まるのは、同じ個別資本がかなり多数の労働者を同時に働かせるようになり、したがってその労働過程が規模を拡張して量的にかなり大きい規模で生産物を供給するようになったときである。
かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または同じ労働場所で、といってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている。Das Wirken
einer größen Arbeiteranzahl zur selben Zeit, in demselben Raum(oder, wenn man
will, auf demselben Arbeitsfeld), zur Produktion dersselben Warensorte, unter
dem Kommando desselben Kapitalisten, bildet historisch und begrifflich den Ausgangpunkt
der kapitalistischen Produktion.
生産様式そのものに関しては、たとえば、初期のマニュファクチャーを同職組合的手工業から区別するものは、同時に同じ資本によって働かされる労働者の数がより大きいということのほかには、ほとんどなにもない。ただ同職組合親方の仕事場が拡大されているだけである。だから、相違はさしあたりは量的でしかない。Mit Bezug auf die Produktionsweise selbst
unterscheidet sich z.B. die Manufaktur in ihren Anfängen kaum anders von der zünftigen
Handwerksindustrie als durch die größere Zahl der gleichzeitig
von demselben Kapital beschäftigten Arbeiter. Die Werkstatt des
Zunftmeisters ist nur erweitert.・・・
労働様式が変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的条件に一つの革命を引き起こす。多くの人々がそのなかで労働する建物や、原料などのための倉庫や、多くの人々に同時または交替に役立つ容器や用具や装置など、要するに生産手段の一部分が労働過程で共同に消費されるようになる。[3]」
社会的労働・・・・生産手段の節約・・・商品を安くする。・・・別々に独立している労働者や小親方の分散した相対的に高価な生産手段とは違った有利さ。
協業・・・個別的生産力の増大、集団力でなければならないような生産力の創出・・・多くの力が一つの総力に融合することから生ずる新たな潜勢力
たいていの生産的労働では、たんなる社会的接触が競争心や活力の独特の刺激を生み出して、それらが各人の個別的作業能力を高める。
協業は、一方では労働の空間範囲を拡張することを許す・・・・他方では、協業は、生産規模に比べての生産領域の空間的縮小を可能にする。このように労働の作用範囲を拡大するのと同時に労働の空間範囲を制限するということは、多額の空費を節約させる。この空間範囲の制限は、労働者の密集、いろいろな労働過程の近接、生産手段の集中から生ずるものである。
協業は、多くのひとびとの同種の作業に連続性と多面性を押印する
協業=「他人との計画的な協働のなかでは、労働者は彼の個体的な限界を抜け出て彼の種族能力を発揮する[4]」
分業の問題点−生産力の発達の武器でありながら、その発展の中で桎梏に転化する−
「生産が自然成長的に発展して行くあらゆる社会−今日の社会もその一つであるが−では、生産者が生産手段を支配するのではなくて、生産手段が生産者を支配する。こういう社会では、なんであろうと生産の新しい槓杆は、かならず生産者を生産手段に隷属させる新しい手段に転化する。このことはなによりもまず、大工業が導入されるまでもっとも強力な生産の槓杆であったもの、すなわち分業にあてはまる。すでに最初の大きな分業である都市と農村との分離が、農村人口に対しては幾千年にわたる愚鈍化の運命を、都市民に対しては、各人がそれぞれの手工業に隷属させられるという運命を宣告した。それは、前者の精神的発達と後者の肉体的発達との基礎を破壊した。・・・
労働が分割されるとともに、人間もまた分割される。ただ一つの活動を発達させるために、他のすべての肉体的および精神的能力が犠牲にされる。分業がすすむにつれて、人間のこのような発達の阻害もますます強まる。分業はマニュファクチャーにおいてその最高の発達を遂げる。マニュファクチャーは、手工業をその個々の部分作業に分解し、それぞれの部分作業を個々の労働者に生涯の職業として割り当て、こうして彼を一生涯一定の部分的機能と部分的道具とに縛り付ける。それは、無数の生産衝動や素質を抑圧することによって、労働者の細部の熟練を温室的に助長し、労働者を奇怪なかたわにしてしまう。・・・個人そのものが分割され、一つの部分労働の自動的駆動装置に転化される。」(マルクス)−この駆動装置は、多くの場合に、労働者が文字通り肉体的および精神的に不具化されるときにはじめて、完成に達する。[5]」
大工業・機械体系・工場制度の問題点−生産力発達の強力な武器、しかし人間発達の阻害−
「大工業の機械は、労働者を1個の機械たる地位から、一つの機械のたんなる付属物へと落としてしまう。「一つの部分的道具を扱うことを終生の専門としていたものが、一つの部分的機械に仕えることを終生の専門とするようになる。機械は、労働者自身を幼少時から一つの部分的機械の部分に転化させるために、悪用される。」(マルクス)
そして、労働者ばかりでなくund nicht nur die Arbeiter、労働者を直接間接に搾取する階級もまたauch die die Arbeiter direkt oder indirekt ausbeutenden Klassen(複数形)、分業を通じて、自分の活動の道具に隷属させられるwerden vermittelst der Teilung der Arbeit geknechtet unter das Werkzeug ihrer Tätigkeit。
頭の空っぽなブルジョアは、自分自身の資本と自分自身の利潤欲との奴隷となる。
法律家は、自分の化石化した法律観念の奴隷となり、これらの法観念がひとつの独自の力als eine selbständige Machtとなって、彼らを支配するようになる。
一般に「教養ある身分die gebildetetn Stände」は、さまざまな局部的な狭さや一面性のdie mannigachen Lokalborniertheiten und
Einseitigkeiten、また自分自身の肉体的および精神的な近視性ihre eigene körperliche und geistige
Kurzsichtigkeitの奴隷となり、また、ひとつの専門に適合させられた教育を受けてこの専門そのものに一生涯縛り付けられる結果urch die auf eine Spezialität zugeschnittne Erziehung und durch die
lebenslange Fesselung an diese Spezialität selbst、不具化して、自分のこの不具化の奴隷となる。[6]」
古い生産様式=分業による人間の固定化、不具化・・・大工業、生産力の社会化によるその克服の可能性
「各人が解放されなければ、社会は自分を解放することができない。だから、古い生産様式は根底から変革されなければならないし、ことに旧来の分業葉消滅しなければならない。それに代わって、次のような生産組織が現われてこなければならない。それは一方では、なんびとも、人間の生存の自然的条件である生産的労働に対する自分の受持ち分を他人に転嫁することができず、他方では、生産的労働が人間を隷属させる手段ではなくなって、各人にそのいっさいの肉体的および精神的能力をあらゆる方向に発達させ発揮する機会を提供することによって人間を解放する手段となり、こうしてかつては重荷であった生産的労働が楽しみになる、そういう生産組織である。
資本主義的生産様式から生じる障害や撹乱、生産物と生産手段の浪費・・・・それが取り除かれるだけで、「労働時間を短縮するのに十分[7]」
旧来の分業の廃止・・・・大工業によって生産そのものの一条件となっている。
「機械経営では、同じ労働者をつねに同じ機能に所属させ、そうすることでマニュファクチャー式にさまざまな機械への労働者群の配分を固定化することは、必要でなくなる。工場の全運動が労働者からではなく、機械から出発するから、労働過程を中断することなしに、たえず人員を交代させることができる。・・・」だが、特殊性を化石化させる旧来の分業は、技術的には不用になったにもかかわらず、機械の資本主義的な利用方法のために、いまなお維持せざるをえないのであるが、その一方で、機械そのものがこの時代錯誤に対して反逆する。大工業の技術的基礎は革命的なものである。
「機械や化学的製造法やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎を変革するとともに、労働者の機能や、労働過程の社会的結合をたえず変革する。大工業は、そうすることによって、また社会内部における分業をもたえず変革し、大量の資本と労働者の大群とをたえまなく一つの生産部門から放りだして、他の生産部門へ投げ入れる。したがって、