経済史A講義レジュメ(2002年7月12日) 更新:02/11/28
長期停滞・巨額の不良債権問題と過剰生産キャパシティ=過剰生産恐慌
その根底にあること:資本主義的大工業の必然的法則性
機械制大工業の革命性
市場競争(自由競争・無政府状態)を通じる絶え間ない永続的変革→
不断の生産・産業部門のリストラクチャリング
−世界中・各地域でつぎつぎと古い生産様式を幾多の悲惨を伴いつつ根底から変革していく歴史のダイナミズム:
新しい生産の仕方はさらに新しい生産方法で乗り越えられる−
人間生活の土台・地球環境すら脅かすまでに発達した世界的生産力と世界的な大工業の支配
現代の日本と世界の大工業を統御すべきは人間・人類・・・その課題群・難問群に直面して人類がさまざまの努力[1]
社会的分業の自然発生性・無政府性→それとは対照的な経営内分業の組織性
商品生産、その発展としての資本主義的生産様式・・・生産者はますます独立の、ばらばらな商品生産者へと変化
古い社会の「古いきずなはゆるめられ、古い閉鎖的な枠は突き破られる」。
商品生産の浸透→古い共同体の破壊・・・ばらばらの諸個人・諸経営・私的経営・私的労働
単独の、孤立化したばらばらの小経営は、同じ分野の組織化された大経営(生産の社会的に組織されたやり方)に打ち破られる。それは、市場競争の場をつうじて。
「資本主義的生産様式が、社会的生産の無政府状態をつのらせるのに用いたおもな道具は、無政府状態とは正反対のものであった。それは、それぞれの生産企業内で、生産をますます社会的生産として組織していくことであった。この槓杆(てこ)を使って、資本主義的生産様式は、古い、平和な、安定した状態を終わらせた。ある産業部門に資本主義的生産様式が取りいれられると、それは古くからの経営方法が自分と並んで存在するのを許さなかった。それが手工業をとらえると、それは古い手工業を滅ぼした。・・・
地理上の大発見とそれにつづいておこなわれた植民とは、販路を何倍にもひろげ、手工業のマニュファクチャーへの転化を速めた。個々の地方的生産者の間に闘争が起こっただけではない。地方的闘争はつぎには国民的闘争に、17世紀と18世紀の商業戦争に、発展した。[2]」
商業戦争・・・対インド貿易および対アメリカ貿易における覇権をめぐる争い
最初にしのぎを削ったのは、イギリスとオランダ・・・1652‐1654年、1664-1667年、1672−1674年の戦争。
ついで、イギリスとフランス。
いずれにおいてもイギリスが勝者。
「最後に、大工業と世界市場の形成とがこの闘争を普遍的にし、同時にまたこれまでになく激しいものにした。
個々の資本家の間でも、また全体としての産業と産業、国と国の間でも、自然的または人為的な生産諸条件が有利であるかないかが、生死を決定する。敗れたものは容赦なく駆逐される。これは、ダーウィンのいう個体間の生存闘争が、幾層倍にも狂暴なものとなって自然から社会に移されたものである。動物の自然のままの立場が人間の発展の頂点として現われる。社会的生産と資本主義的取得とのあいだの矛盾は、個々の工場内における生産の組織化と全体としての社会における生産の無政府状態との対立として再生産される。[3]」
このプロセス・法則性は、21世紀のグローバル化する世界にも多かれ少なかれ、また地域によって程度の差はあっても、貫徹している。
それを何とか統御しよう、打撃を緩和しよう、セーフティネットを構成しようと、諸国家、諸国家政府・財務省の代表会議、国連等世界諸機関、EUなど地域連合などが努力している。
激しい競争、
生産と市場を巡る社会的世界的無政府状態
→古い生産様式、送れた生産様式を打破し、大多数の人間を近代的労働者・勤労者階級に変えていく。
最近四〇年間の日本でもその必然的法則性が貫徹していることについては、かつて紹介した総務省統計局統計センター作成の「労働力調査の統計」が明確に示している。
機械による手作業労働者の駆逐
機械による工場労働者の駆逐
失業者の大群・・・産業予備軍(=相対的過剰人口)の形成
失業者の存在・増大→就労中の労働者への圧力(過度労働、超過労働、サービス残業=無償労働=企業の利益=労働者の生命力の搾取)
「生産の社会的無政府状態というこの推進力こそが、大工業の機械の限りなく改良されていく可能性を、それぞれの産業資本家にとっての、没落したくなければ自分の機械をますます改良してゆかなければならないという、強制命令に変えるのである。
だが、機械が改良されるということは、とりもなおさず、人間労働がいらなくなることである。機械が取り入れられ、増えるということは、数百万の手作業労働者が少数の機械労働者によって駆逐されることを意味するが、機械が改良されるということは、機械労働者それ自体がますます駆逐されていくことを意味し、けっきょくは、資本の平均的な雇用需要をこえるある数の待機中の賃金労働者、私がすでに1845年に使った呼び名でいえば、本式の産業予備軍がつくりだされるということを意味する。
この産業予備軍は、産業の好況期には自由に利用でき、つづいてかならずやってくる恐慌によって街頭に放り出される。それは、資本に対する労働者階級の生存闘争においてつねに彼らの足にまつわりついくおもりであり、労賃を資本家の欲望にかなった低い水準に抑えるための調整器である。[4]」
資本・企業が導入する機械(生産手段、労働手段)が、労働者との関係でも武器となる。
「機械は、いつでも賃金労働者を『過剰』にしようとしている優勢な競争者として作用するだけではない。機械は、労働者に敵対する力として、資本によって声高く、また底意をもって、宣言され操作される。機械は、資本の専制に反抗する周期的な労働者の反逆、ストライキなどを打ち倒すために最も強力な武器になる。[5]」
「貧窮は労働者からどうしても必要な労働条件である空間や光や換気などをさえも取り上げ、就業の不規則性は増大し、そして、大工業・・・によって『過剰』にされた人々の最後の逃げ場(家内労働、零細経営・・永岑補足)では労働者どうしのあいだの競争が必然的に最高度に達する・・・[6]」・・・「労働手段における節約は、同時に労働力のまったく容赦ない浪費、労働の機能の正常な諸前提の強奪となる。[7]」
一所懸命働いて、無我夢中で企業の生産力・生産量を高めると、かえって市場での社会的自由競争=社会的無政府状態のなかで、ある時点までくると、社会的には過剰生産・過剰キャパシティに陥り、労働者は相対的に過剰になり、したがって余分になったキャパシティ[8]廃止とともに、労働者はリストラされる! この不断の歴史。
「ますます増大する生産手段量が、社会的労働の生産性の増進のおかげで、ますますひどく減って行く人力支出によって動かされるという法則−この法則は、労働者が労働手段を使うのではなくむしろ労働手段が労働者を使うという資本主義的基礎の上では、労働の生産力が高くなればなるほど、労働者が自分たちの雇用手段に加える圧力はそれだけ大きくなり、したがって、労働者の生存条件、すなわち他人の富の増殖または資本の自己増殖のために自分の力を売るということはますます不安定になるということのうちに表わされている。つまり、生産的人口よりも生産手段や労働の生産性のほうが速く増大するということは、資本主義的には、逆に労働者人口がつねに資本の価値増殖欲求よりも速く増大するということのうちに表わされるのである。[9]」
つぎの1世紀以上前のマルクスの叙述は、グローバル化の現在の世界経済の下で、低開発地域の大都市周辺、スラム街で発生していることにもあてはまることである。
「相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストスのくさびがプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっと固く労働者を資本に釘づけする。それは資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。[10]」
今日では、一方における先進7カ国を中心とする先進工業国への富の蓄積、他方における低開発諸国での貧困・奴隷状態等の蓄積が、顕著ではないか?
先進諸国の内部でも、一方における富の蓄積と、他方における貧困の蓄積、サービス残業=超過労働=過労死が見られるではないか?
「大工業の巨大な膨張力は、・・・いまや、どんな抵抗をもものともせずに、質と量の両面で膨張して行こうとする欲望となって、われわれの目の前に現われてくる。これに抗するものは、大工業の生産物に対する消費、販路、市場である。ところで、市場の膨張能力は、外延的なそれであれ、内包的なそれであれ、さしあたっては、格段に違った、はるかに弱い力で作用する諸法則によって支配されている。市場の膨張は生産の膨張と歩調を合わせることができない。衝突は避けられなくなる。[11]」
普通の日本や世界の多くの人々の消費は、なにに依存しているか?
これまで何回も見てきたように、日本に関して言えば、人口の圧倒的多数が、従業員・雇用者であり、したがって給料(月給、日給など)で生活している。その給料は、ある安定的な相対的に固定した額になっている。
巨大な生産力膨張があったからといって、給料が何倍、何十倍に増えるわけではない。
国民の市場規模は、最終的には、国民の消費規模に依存する。
国民の消費規模を何倍にもしないで置いて(できないままで)、生産量・生産能力だけは何倍にもすれば、生産物が消化し切れないのは当然となる。生産物、生産キャパシティは過剰化する。
激しい競争、値下げ競争の後に、恐慌がやってくる。いまや競争は世界的ビッグビジネス相互の競争でもあり、巨人どうしの闘いでもある。巨人が巨人に飲み込まれる。(フォード・松田関係、ルノー・日産関係、ベンツ・三菱自動車関係など)
最近のITバブルもその典型。
市場の吸収力の限度を越えて生産が拡大され、世界の企業が競争し、その無政府的過当競争の結果として、ついにはバブルが崩壊。
これは、19世紀から20世紀の資本主義経済史において、繰り返されてきたことであった。
資本主義的な全般的な過剰生産恐慌は、近代資本主義の母国イギリスで1825年に発生した。
「資本主義的生産は、一つの新しい『悪循環』を生み出す。
じっさい、最初の全般的恐慌が起こった1825年このかた、商工業界全体は、すなわち文明諸国民全体とその付属物となっている多少とも未開な諸国民との生産と交換は、だいたい一〇年に一回、めちゃくちゃになる。交易は停滞し、市場はあふれ、生産物は山と積まれたままで売れ口がなく、現金は姿を隠し、信用は消滅し、工場は運転を止め、労働者大衆はあまりに多くの生活手段を生産したために生活手段にこと欠き、破産に破産が続き、強制競売に強制競売が続く。
停滞が幾年か続いて、生産力や生産物が大量に消費され破壊されると、やがて山積みに去れた大量の商品が多かれ少なかれ下がった値段ではけてゆき、やがて生産と交換とがしだいにふたたび動きはじめる。
その歩調はしだいに速くなってはやあしとなり、この産業上の速足は駆足に代わり、さらに歩度を速めて、ついにふたたび産業、商業、信用、投機の本式の障害物競馬の手放しの疾駆となり、最後に命がけの跳躍をやったのち、またもや−恐慌の壕のなかにゆきつく。そして、そういうことがたえず繰り返されるのである。・・・フーリエが最初の恐慌を『過剰からくる恐慌』と名づけたのが、これらすべての恐慌にぴったりあてはまる・・・[12]」
生産力のとほうもない成長・・・社会的生産力・・・生産力の社会的性格
産業の好況期は、信用を無制限に膨張[13]させることによって、
また、恐慌そのものも、大規模な資本主義的企業の倒産をつうじて、
各種の株式会社において・・・、大量の生産手段の社会化の形態に向かって押し進める[14]。
資本所有(=資本家・法人)と経営(=経営者・職員)の分離・・・大規模な生産設備の株式会社化、国家的所有化・・・・ブルジョアジーはいなくていいことを示す。
すでに19世紀70年代において、「いまでは、資本家の社会的機能はすべて、給料をもらっている職員によって果たされている。
資本家は、所得を取り込むこと、利札を切ること、さまざまな資本家がおたがいの資本の取り合いをやる取引所で投機をやることのほかには、もはや何の社会的活動もしていない。[15]」
大工業の技術的基礎は革命的なものである。
Die technische
Basis der großen Industrie ist revolutionär.[16]
「機械や化学的製造法やその他の方法によって、近代工業は、生産の技術的基礎を変革するとともに、労働者の機能や、労働過程の社会的結合をたえず変革する。大工業は、そうすることによって、また社会内部における分業をもたえず変革し、大量の資本と労働者の大群とをたえまなく一つの生産部門から放りだして、他の生産部門へ投げ入れる。
したがって、大工業の本性が、労働の転換、機能の流動、労働者の全面的機動性を必然的にする。Die Natur der großen Industrie bedingt daher Wechsel der Arbeit, Fluß der
Funktion, allseitige Beweglichkeit des Arbeiters.---すでに見たように、この絶対的な矛盾は、・・・その荒荒しい力のはけ口を、労働者階級の不断のいけにえ祭、労働力の無際限な濫費、社会的無政府状態の荒廃に見いだす。Man hat gesehn, wie dieser absolute
Widespruch...im ununterbrochenen Opferfest der Arbeiterklasse, maßlosester
Vergeudung der Arbeitskräfte und den Verheerungen
gesellschaftlicher Anarchie sich austobt. これは否定的な側面である。
労働の転換は、今日でこそもっぱら圧倒的な自然法則として、またいたるところで障害にぶつかる自然法則の盲目的な破壊作用をともなって貫徹されているにしても、他方では、大工業が、それの引き起こすさまざまな破局そのものをつうじて、労働の転換、したがってまた労働者のできるかぎりの多面性を一般的な社会的生産法則として承認すること、そして、この法則が正常に実現されるように諸関係を適応させることを、死活の問題としているのである。---, macht die große Industrie durch ihre Katastrophen selbst es zur Frage
von Leben oder Tod, den Wechsel der Arbeiten und daher
möglichste Vielseitigkeit des Arbeiters als allgemeines gesellschaftliches
Produktionsgesetz anzuerkennen und seiner normalen Verwirklichung
die Verhältnisse anzupassen.
大工業は、いろいろに変化する資本の搾取要求に応じるように、困窮した労働者人口が予備として待機しているという奇怪な状態のかわりに、いろいろに変化する労働の必要にたいして人間が絶対的に応じうる状態をおくことdie absolute Disponibilität des Menschen
für wechselnde Arbeiserfordernisse、一つの細部の社会的機能の担い手に部分的個人のかわりに、自己のつぎつぎに転換する活動の仕方としてさまざまな社会的機能を果たす全面的に発達した個人das total entwickelte Individuum, für welches verschiedne
gesellschaftliche Funktionen einander ablösende Betätigungsweisen sindを置くことを、生死の問題としているのである。[17]」
[1] 「風の谷のナウシカ」はじめ、たくさんの作品が、人類が争いごとを統御しきれずに地球を破壊した様子を描いている。「千と千尋」なども地球環境破壊を反省させる。危機意識の表現としての作品群は、危機の自覚とその克服努力を人間に訴えかける。
[2] エンゲルス『反デューリング論』全集20巻、282ページ。
[3] 同上。
[4] 同上、283ページ。
[5] 『資本論』第1巻第4篇第13章、機械と大工業、大月書店版、569−570ページ。
[6] 同、603ページ。
[7] 『反デューリング論』全集20巻、283ページ。
[8] 現在の長期的停滞の根底にある過剰生産能力、その過剰生産能力を構築するために激しい競争のなかで諸企業が過去に行った借金が不良化=不良債権問題。
[9] 『資本論』第1巻第4篇第13章 機械と大工業、839−840ページ。
[10] 同上。
[11] 『反デューリング論』全集20巻、284ページ。
[12] 同、285ページ。
[13] 気がつけば、社会が受容できない過剰生産キャパシティの調達のために貸し付けたことになり、不良債権化。
[14] 『反デューリング論』全集20巻、286ページ。国有化は、それ自体としては「えせ社会主義」。
「生産手段または交通通信手段が現実に株式会社の指揮の手に負えないほどに成長し、したがって、国有化が経済的に避けられないものとなった場合、ただその場合にだけ、国有化は、今日の国家がそれを行っても、一つの経済的進歩を意味し、社会そのものによるいっさいの生産力の掌握への一つの新しい前段階が到達されたことを意味するからである。
ところが、最近ビスマルクが国有化に熱中しだしてからは、国有化ならどんなものでも、ビスマルクのそれでさえ、文句なく社会主義的だと宣言する、ある種のにせ社会主義が現われてきて、あちこちでおべっかにさえ成り下がっている。
たしかに、タバコの国有化が社会主義なら、ナポレオンやメッテルニヒも社会主義の元祖のうちにはいることになろう。ベルギー国家がまったく卑近な政治上、財政上の理由で同国の主要な鉄道を自分で建設したのも、ビスマルクが、なんらの経済的必然性もないのに、戦争の場合に鉄道幹線をよりよく組織し、利用できるようにし、鉄道従業員を政府の従順な投票者群に育て上げ、また主としては、議会の決議に依存しない一つの新しい財源を手に入れようという、ただそれだけの目的で、プロイセンの鉄道幹線を国有化したのも、直接にも間接にも、意識的にも無意識的にも、決して社会主義的な方策ではなかった。」同、286−287。
国家が「本当に全社会の代表者となるとき、それは自分自身を余計なものにしてしまう」(同、289ページ)。
「資本主義的生産様式は、人口の大多数をますますプロレタリアに変えていく」(同、289ページ)。戦後日本の就業構造の発展はまさにそのことを証明している。勤労者人口の圧倒的多数が、生産手段・資本を持たない雇用者である。
現在の日本国家・政府が、この人口の圧倒的多数を占める雇用者・従業員の代表となっているか? その一人一人の働きに応じたウエイトを国家において占めているか? 日本人は、みずからの国家の主人公になっているか? 日本国憲法が規定する国民主権が真の意味で実現されているか? 憲法上の主人(=国民)の主人たる自覚がまだ徹底しておらず、現実には潜在的な主人にとどまっているのではないか。
奥村宏『エンロンの衝撃―株式会社の危機―』NTT出版、2002年11月・・・「日本は『会社国家』であるといわれるが、アメリカでも『コーポレート・アメリカ』という言葉が流行している」と(同、6ページ)。アメリカ合衆国も、単純に民主主義の国家とはいえない、ということ。
Ex.エンロンのケネス・レイ会長とブッシュ共和党政権の深い関係
Ex.ワールドコム・・・2002年6月、利益水増し=38億5千万ドル、その後の調査で粉飾額はさらに増え、71億8200万ドル・・・倒産・・・巨額の政治献金を主として共和党に。
奥村、同書、231ページ・・・「どこの国でも株式会社は株主総会が最高の決議機関であるとして、株主主権がその原理になっている。また、資本充実の原則、財務内容のディスクロージャーも株式会社の原則になっている。しかし、現在、このような株式会社の原則は守られているのか。国民主権が幻想でしかないように、いやそれ以上に株主主権は幻想でしかない。それは株主総会の実態を見れば一目瞭然である。」
国民が自らの力を自覚し主人に成熟しなければならないが、そこまでまだ十分に到達していないのが現状。
世界的な商品生産社会・市場社会の支配のなかで、人間はいまだ「自分自身の社会的結合の主人」となっていない。
どのようになれば、人間が「自分自身の社会的結合の主人」になれるか、その模索途中にある、ということだろう。
お
[15] 同、287ページ。
[16] 『反デューリング論』、303ページ。
[17] 『資本論』第1巻第4篇第13章 機械と大工業、634ページ。