イタリア・メディチ家の時代、同、8283

ドイツ・フッガー家の時代、大塚テキスト、83-84113,115ページ

石坂・船山・宮野・諸田『西洋経済史』有斐閣、46-53ページ。

 

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農村における生産力の発展、商品経済のある程度の前進

 生産物地代→貨幣地代

農村と都市の分離

中世都市の成立

 

 

1011世紀・・・西ヨーロッパの各所で、遠隔地商業がたくましい姿を現し始めた。

 その先駆・・・地中海沿岸の諸地域、なかんずく北イタリアの諸都市

    その先頭は、「アドリア海の女王」と呼ばれるにいたったヴェネツィア(ヴェニス)、

    これにジェノヴァが雁行。

    それに続いて、フィレンツェ(フロレンス)・・・毛織物工業の繁栄とルネサンス期の絢爛たる芸術

 

13世紀・・・イタリア諸都市における「貨幣経済」繁栄は頂点に達する

    その商業的基礎・・・西ヨーロッパ地中海東岸のいわゆるレヴァント地方(特にそのアラビア商人たち)との、さらにそれを介してはるか東洋諸地方との商品取引の仲立ち。

       東方から(輸入)…胡椒をはじめとするさまざまな香料薬味染料、それに奢侈的織物

       西方から(輸出)…金・銀・銅などの鉱産物が圧倒的に多く、それに毛織物その他の工業製品黒人奴隷など。

 

     商品取引、商品=貨幣関係を基礎に、金融業[1]も著しく発達…フィレンツェは、毛織物工業とともに、そうした金融業の繁栄の波頭にたった。

      メディチ家を先頭に、フィレンツェの大商人たちは、両替送金為替から高利貸付にいたるまで、金融業の網を国際的に張り巡らした。

      たとえば、14世紀半頃、イギリス国王エドワード3世が支払いを停止したとき、フィレンツェの巨商ペルッツィ家、バルディ家が一挙に倒産。

      

15世紀のメディチ家の繁栄・・・ブリュージュ、ロンドンに進出。商取引のほか、王侯への貸付、毛織物と絹織物の問屋制前貸、明礬鉱山の賃借経営など・・・莫大な財力を背景に、一族からはローマ教皇やトスカナ大公を出した。

 

     イタリア諸都市の「貨幣経済」の発達はさらにアルプスの北へ直接波及。東方への莫大な銀・銅の供給をまかなうものは南ドイツの諸鉱山に他ならなかった。

 

     すでに13世紀にひとたび繁栄を経過した南ドイツの鉱山業は、さらに15世紀後半から一段の飛躍を示した。

       アウクスブルク英語版)やニュルンベルクなどの都市には空前の経済的繁栄が現出。

       アウクスブルクのフッガー家その他南ドイツの巨商たちは、国際的金融業者としてのしあがり、なかでもフッガー家はフィレンツェのメディチ家をも凌駕して、16世紀の六〇年代から70年代まで、全ヨーロッパに圧倒的な金融的支配力をふるった。経済史家はそれをしばしば「フッガー家の時代」などとよんでいる。

       フッガー家の富を背景にしたフッゲライ(低家賃住宅・福祉施設)英語版)(町の地図と名所史跡のリンク

 

 

南方のイタリア諸都市にほぼ雁行して、北方ではいわゆるハンザ諸都市の商業的繁栄が展開。

      リューベックハンブルク、ダンツィヒなどを中軸にハンザ同盟

      北海とバルト海をつなぐ商業圏…ロンドン(有名な居留地スティール・ヤード)、ブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロッドを4大商業拠点。

      取引対象・・・塩鰊(ニシン)、干鱈(タラ)などの水産物、木材、穀物、羊毛、それにニシン塩漬用の塩など。

      14世紀には、イタリア諸都市を凌駕するほどの繁栄を示したといわれる。

 

      彼らは同じに金融業もいたなむ。たとえば、1415世紀には、イギリスに対してイタリア商人にも劣らぬ金融的支配力。

 

      東方に向かっては、ドイツ人の「東方植民Ostkolonisationとそれに伴う都市建設の動きに参加。

      また、その地方の生産物(とくに穀物)の輸出を媒介することによって、東ヨーロッパにおけるいわゆる「農場領主制」(グーツヘルシャフト)の成立のために、早くも礎石を置くことになった。 

 

      ハンザ諸都市の繁栄も、14世紀を頂点に、15世紀ともなれば、「ニシン」−南方の「胡椒」にも匹敵するといわれる最大の商品−の漁場の西方への移動も手伝って、ネーデルラント商人の東方進出を如何ともしがたく、しだいに衰退の兆し。

 

 

南方の地中海商業圏と北方の北海・バルト海市場圏とは、早くからお互いに関連。

   13世紀にそうした両者の接合の役割を果たしたものは、フランスの「シャンパーニュの大市Foires de Champagneで、当時そこでは近接した4箇所に6つのメッセがかわるがわるほとんど1年中開催。

     ヨーロッパの各地から商人たちが隊伍を組んで集結し、盛んな商品取引。

     その支払い決済の必要から、そこでは両替も盛んに営まれた。

     振替(ジロ)や小切手などの制度の端緒さえ見られた。  

 

14世紀末葉から「シャンパーニュの大市」が衰退。

      ハンザ都市と関係の多いブリュージュ(ブルッヘ)(「北のヴェニス」)がその遺産を受け継いで、国際的中継市場として回路で南と北とを結び合わせるようになった。他方、内陸へは、ライン河沿いに南ドイツ商人が進出し始めた。

 

ブリュージュに本店を構えるヒルデブラント・ヴェッキンフーゼン・・・穀物、魚類、バター、塩、毛皮、毛織物、絹織物、金属、せんだんの花環、さんご細工などの取引のためにハンザ諸都市をはじめ、イギリス、フランス、イタリア、ネーデルラント、ドイツの20以上の都市に取引網を張り巡らしていた。

 

      中世最大の商事会社といわれるボーデン湖畔の大ラーフェンスブルク会社は、6年間の契約を25回更新して、150年間にわかって南欧との取引を続けた。その間に、100家族以上から出資を受け入れ、ドイツのほか、イタリア、スイス、フランス、アラゴン(スペイン)、ネーデルラント、オーストリア、ハンガリーの諸都市に13の支店と数人の代理商をもっていた。

      このような定住商人によって営まれた商業と金融業の活動の全ヨーロッパ的な関連を、かつてレーリヒは「中世の世界経済」と呼んだ。

 

 

15世紀にはこのブリュージュも衰え、その頃ぐんぐん頭角を現しつつあったイギリスの毛織物輸出商人(いわゆるマーチャント・アドヴェンチャラーズ)たちと関係の深いアントウェルペン(アントワープ)が、世界市場として前景に現われるにいたった。

 

16世紀の中頃には、南ドイツの巨商たちもここを活動の中心とするようになってくる。

 

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2002年7月2日の講義ノートで引用紹介したところ:

15世紀16世紀から18世紀にいたる本来のマニュファクチャー期

「商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。世界商業と世界市場とは、16世紀に資本の近代的生活史を開くのである[2][1]Die Warenzirkulation ist der Ausgangpunkt des Kapitals. Warenproduktion und entwickelte Warenzirkulation, Handel, bilden die historischen Voraussetzungen, unter denen es entsteht. Welthandel und Weltmarkt eröffne im 16. Jahrhundert die moderne Lebensgeschichte des Kapitals.

 

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15世紀末葉の地理上の発見、とくにコロンブスによる新大陸発見とヴァスコ・ダ・ガマによるアフリカ南端迂回の東インド新航路開拓

     ヨーロッパの商業圏を世界的規模に拡大。

     ヨーロッパ内部の商業事情にも徐々にあるいは急激に大きな変化を呼び起こす。

     商業革命

     イタリア商人の没落

     ポルトガル商人の台頭…東インド貿易の覇者…銀の輸出、胡椒の輸入

     新大陸貿易はスペイン商人、セビリア拠点・・・莫大な「銀」・・・南ドイツの経済的繁栄を突き崩すことになる。

     海のかなたに工業製品、なかんずく「毛織物」の膨大な販路市場形成

     アントウェルペンの繁栄

 

16世紀末葉・・オランダ独立・・強力な商業国家へ

       オランダと結ぶイギリス・・・・アルマダ戦争によってスペインの制海権に決定的な一撃を与えた。

       アントウェルペンの陥落と略奪・…南ドイツの経済的繁栄の名残を一掃 



[1] 「銀行」を意味するヨーロッパ後の語源bancoは、もともとは両替台のことであり、そうした「布でおおわれた机」は彼らの営業のマークとなっていた。