外的必然性・強制法則としての競争:資本の競争原理
―人間的競争の原理を考えていくために―
更新:02/12/01
資本の競争原理
1.「自由競争による資本の側からの同職組合その他の制度の否定の歴史的側面は、十分に強くなった資本がそれにふさわしい交易様式によって、資本にふさわしい運動を困難にし阻害する歴史的な諸制限を破砕したということ・・・・[1]」
2.「自由競争は、資本のうえにうちたてられた生産様式の自由な発展であり、資本の諸条件とこれらの諸条件をたえず再生産する過程の自由な発展である・・・[2]」
3.「自由競争は、資本の現実的な発展である。資本の本性に照応するもの、資本のうえにうちたてられた生産様式に照応するもの、資本の概念に照応するものが、競争によって、個々の資本にとって外的必然性として措定されるのである。自由競争のなかで諸資本が相互におよぼしあい、労働その他のうえにもおよぼす相互的な強制(労働者相互間の競争はたんに諸資本の競争の別の形態にすぎない)は、資本としての富の自由な、同時に現実的な発展である。そうであればこそ、たとえばリカードのような最も深遠な思想家たちは、資本にとってふさわしい諸法則―これらの法則は同時に資本の死命を制する諸傾向として現れる―を研究し定式化するために、自由競争の絶対的支配を前提しているのである。自由競争はまた資本の生産的過程にとってふさわしい形態である。自由競争が発展すればするほど、資本の運動の諸形態はますます純粋に現われてくる。[3]」
4.「競争においては、価値と剰余価値とに関して立てられた法則と区別して展開される基本法則は、価値はそれに含まれた労働、またはそれが生産された労働時間によってではなく、それが生産されうる労働時間または再生産に必要な労働時間によって規定されている、ということである。まるでもとの法則が覆されたかのような仮象を呈するのではあるが、個々の資本は、競争によってじつははじめて、資本一般の諸条件のなかにおかれる。また、資本の運動そのものによって規定されるものとしての必要労働時間は、このようにしてはじめて措定されるのである。これが競争の基本法則である。需要、供給、価格(生産費)が、さらに続く形態規定である。市場価格としての価格、または一般的価格。それから、一般的利潤率の措定。それから、市場価格によって諸資本はさまざまの部門に配分される。生産費の引き下げ、等など。要するに、ここではいっさいの諸規定が資本一般の場合とは逆さまに現われる。[4]」
5.「競争は、資本の内在的な諸法則を外的な必然性として資本に強制するために、それらの法則を外見上すべてさかさまにする。それらを転倒させるのである。・・・
資本の利潤は、資本の大きさには依存しない。そうでなくて等しい大きさのばあいには、諸構成部分の割合に(不変部分と可変部分とに)依存する。つぎには、労働の生産性die Produktivität der Arbeitに依存する(しかし、これは前記の比率で言い表される。なぜなら、生産性がより小さいばあいには同一の資本が同一の時間に同一分量の労働で、同一の原料を加工することはできないだろうからである).回転期間Umschlagszeitに依存する。これは固定資本と流動資本とのさまざまな比率、固定資本のさまざまな耐久性、等などによって規定される。等しい大きさの資本にとってさまざまの産業部門において利潤が不均等であること、すなわち利潤率が不均等であることは、競争による均等化のための条件であり、前提である。[5]」
6.「資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのである。肉体的および精神的な萎縮や早死にや過度労働の責め苦についての苦情に対しては、資本は次のように答える。この苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)を増やすのに、どうしてそれがわれわれを苦しめるといいうのか? と。しかし、一般的にいって、これもまた個々の資本家の意志の善悪によることではない。自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を個々の資本家にたいして外的な強制法則として通用させるのだ。[6]」
7.「改良された生産方法を用いる資本家は、他の同業資本家に比べて一労働日中のより大きい一部分を剰余労働として自分のものにする。彼は、資本が相対的剰余価値の生産においてぜんたいとして行うことを、個別的に行うのである。しかし、他方、新たな生産方法が普及され、したがってまた、より安く生産される商品の個別的価値とその商品の社会的価値との差がなくなってしまえば、かの特別剰余価値もなくなる。労働時間による価値規定の法則、それは、新しい方法を用いる資本家には、自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるを得ないというかたちで感知されうるようになるのであるが、この同じ法則が、競争の強制法則として、彼の競争相手たちを新しい生産方法の採用に駆りたてるのである。・・・[7]」
8.「生産物を安くするための手段だけとしてみれば、機械の使用にとっての限界は、機械自身の生産に要する労働が、機械の充用によって代わられる労働よりも少ないということのうちに、与えられている。だが、資本にとってはこの限界はもっと狭く表わされる。資本は、充用される労働を支払うのではなく、充用される労働力の価値を支払うのだから、資本にとっては、機械の使用は、機械の価値と機械によって代わられる労働力の価値との差によって限界を与えられるのである。必要労働と剰余労働とへの労働日の分割は国によって違っており、同じ国でも時期によって、また同じ時期でも事業部門によって違っているのだから、さらにまた、労働者の現実賃金は彼の労働力の価値よりも低いことも高いこともあるのだから、機械の価格と機械によって変わられる労働力の価格との差は、たとえ機械の生産に必要な労働量と機械によって変わられる労働の総量との差は変わらなくても、非常に違っていることがありうるのである。だが、資本家自身にとっての商品の生産費を規定し、資本家を競争の強制法則によって動かすものは、ただ前のほうの差だけである。・・・[8]」
9.「競争は、各個の資本家に資本主義的生産用式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に、自分の資本を維持するためにたえずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみそれを拡大することができるのである。[9]」
需要の総量と供給の総量、
社会的欲望(支払能力のある社会的欲望)と費やされた社会的必要労働の総量
10.「ある商品がその市場価値通りに、すなわち、その商品に含まれている社会的必要労働に比例して売られるためには、この商品種類の総量に費やされる社会的労働の総量が、この商品に対する社会的欲望すなわち支払能力ある社会的欲望の量に対応していなければならない。競争、需要供給関係の変動に対応する市場価格の変動は、それぞれの商品種類に費やされる労働の総量を絶えずこの限度に引き戻そうとするのである。・・・
これに反して、供給と需要とにおいては、供給は一定の商品種類の売り手または生産者の総計に等しく、需要は同じ商品種類の買い手または消費者(個人的または生産的)の総計に等しい。しかも、これらの総計は、それぞれ一体として、集合力として、互いに作用し合う。ここでは各個人は、ただ、一つの社会的な力の部分として、集団の原子として、作用するだけであって、まさにこのようなかたちで競争は生産と消費との社会的な性格を貫徹させるのである。[10]」
需要と供給の一致が意味することはなにか?
11.「需要と供給とが一致すれば、商品の市場価格は生産価格と一致する。すなわち、その場合には、商品の価格は、資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして、競争には関わりのないものとして現れる。なぜならば、需要と供給の変動は、生産価格からの市場価格の乖離以外にはなにも説明せず、これらの乖離は相殺されて、いくらか長い期間についてみれば、平均市場価格は生産価格に等しいからである。
需要と供給とが一致すれば、これらの力は作用しなくなり、相殺されてしまって、そうなれば価格規定の一般的法則が個々の場合の法則としても現れる。その場合には、市場価格は、すでにその直接的定在において、そしてただ単に諸市場価格の運動の平均としてだけではなく、生産様式そのものの内的法則によって規制される生産価格に一致する。
労賃の場合も同様である。需要と供給が一致すれば、それらの作用は相殺されて、労賃は労働力の価値に等しい。
利子の場合には、競争が法則からの乖離を規定するのではなく、競争によって課される法則よりほかにはどんな分割の法則も存在しないのである。・・・利子率の「自然的」な率というものは存在しない・・・利子率の自然的な率というのは、むしろ、自由競争によって確定された率の意味に解される。利子率の「自然的」限界というものは存在しない。・・・[11]」
12.「競争が引き起こすことができるのは、ただ、同じ生産部面のなかの生産者たちが彼らの商品を同じ価格で売るということだけであり、また、彼らがさまざまの生産部面のなかでは彼らの商品を、彼らに同じ利潤を与えるような価格で売るということ、すなわち、すでに部分的には労賃によって規定されている商品価格への同じ比率的付加分を彼らに与えるような価格で売るということだけである。競争はただ利潤率の不等を均等化することができるだけである。不等な諸利潤率を均等化するためには、利潤は商品価格の要素としてすでに存在していなければならない。競争は利潤をつくりだしはしない。競争は、均等化が行われたときに現れる水準を高くしたり低くしたりはするが、この水準をつくりだしたりはしない。
利潤の必然的な率を論ずるときにわれわれが知りたいと思うのは、まさに、競争の運動からは独立な、その方が競争を規制する利潤率にほかならないのである。平均利潤率は、互いに競争する資本家たちのあいだの力の均衡とともに生ずる。競争は、この均衡を作り出すことはできるが、この均衡の上に生ずる利潤率をつくりだすことはできない。この均衡が作り出されたとき、なぜ一般利潤率は10%とか20%とか100%とかであるのか?・・・
競争は、それぞれの資本が自分の大きさに比例して同等な利潤を生ずるような商品価格をもたらした。しかし、この利潤の大きさそのものは、競争には依存しない。競争はただすべての乖離をたえず繰り返しこの大きさに帰着させるだけである。・・[12]」
13.「資本主義的生産者たちは互いにただ商品所持者として相対するだけであり、そして各じが自分の商品をできるだけ高く売ろうとするのだから、内的な法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧迫を通じてのみ貫かれるのであって、この競争や圧迫によって乖離は相殺されるのである。ここでは価値の法則は、ただ内的な法則としてのみ、ここの当事者に対しては盲目的な自然法則としてのみ、作用するのであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な動揺のなかで貫徹するのである。[13]」
14.「商品の費用価格を越える商品価値の超過分は、直接的生産過程で生ずる(entsteht)のではあるが、それは流通過程ではじめて実現される(realisiert)のであって、それが流通過程で生ずるかのような外観をますます持ちやすくなるのは、この超過分が実現されるかどうか、またどの程度に実現されるかが、現実には、競争のなかでは、現実の市場では、市場の状況にかかっているからである。・・・・
実際の流通過程では、第二部で考察したような諸転化が行われるだけではなく、これらの転化が現実の競争すなわち価値以上または以下での商品の売買と同時に行われるので、個々の資本家にとっては、彼自身が実現する剰余価値は、労働の直接的搾取によって定まるのと同様に、彼らどうしのだまし合いによっても定まるのである。
流通過程では、労働時間のほかに流通時間が作用することになり、それによって、いていの期間に実現可能な剰余価値の量が制限される。そのほかにも、流通から生ずる契機で直接的生産過程に規定的に干渉するものがある。この両者、直接的生産過程と流通過程とは、いつでも互いに入り混じり、侵入し合っており、そのためにそれぞれの特徴的な区別標識が紛らわしくなるのが常である。・・・[14]」
15.「競争が示していないもの、それは、生産の運動を支配する価値規定である。価値こそは、生産価格の背後にあって究極においてそれを規定するものである。
これに反して、競争が示しているのはつぎのものである。
(1) 平均利潤。これは、さまざまな生産部面にある資本の有機的構成にはかかわりのないものであり、したがってまた、与えられた一搾取部面で与えられた資本によって取得される生きている労働の量にこかかわりのないものである。
(2) 労賃の高さの変動の結果としての生産価格の上がり下がり―この現象は、商品の価値関係とは一見、まったく矛盾している。
(3) 市場価格の変動。この変動は、与えられた一期間の商品の平均市場価格を、市場価値に帰着させるのではなく、この市場価値から乖離しそれとは非常に違っている市場生産価格に帰着させっるのである。
すべてこれらの現象は、労働時間による価値の規定にも、不払い剰余労働から成っている剰余価値の性質にも矛盾しているように見える。つまり、競争ではすべてが逆さまになって現れるのである。・・・
資本主義的生産がある程度まで発展すれば、個々の部面のさまざまに違った利潤率が平均されて一般利潤率になる・・・・
均等化のなかで一定の相違は相殺されるということが個々の資本家の意識に上るようになり、したがって彼らはこれらの相違をただちに彼らの相互の計算の中に含めるようになる。・・・
ただ、資本家はつぎのことを忘れている―またはむしろ競争が示してくれないのでそれが見えない―だけである。すなわち、さまざまな生産部門の商品価格の相互計算で資本家たちが互いに主張するこれらすべての相殺自由は、ただ単に、彼らはみな共同の獲物である総剰余価値に対して、それぞれの資本に比例して同等に大きな請求権をもっているということに関連しているだけである。
彼らが取り込む利潤は彼らが搾り出す剰余価値とは違うのだから、彼らにとっては、むしろ、利潤の相殺事由は、総剰余価値の分け前を平均するのではなくて、利潤そのものを創造するように見えるのである。というのは、利潤はただ単に、何かある動機によって商品の費用価格に付け加えられるものから生ずるように見えるからである。[15]」
16.「資本主義的な生産・流通当事者の頭のなかでは、生産の諸法則に関して、これらの法則からはまったくはずれていてただ外観的な運動の意識的表現でしかないような諸観念が形成されざるをえない・・・商人や相場師や銀行家の観念は必然的にまったくさかさまになっている。製造業者の観念は、自分たちの資本がそれに従わざるをえない流通行為によって、また一般利潤率の均等化によって、不純にされている。競争もこれらの頭のなかでは必然的にまったく逆さまな役割を演ずる。
価値および剰余価値の限界が与えられていれば、どのようにして諸資本の競争が価値を生産価格に、さらにまた商業的価格に転化させ、剰余価値を平均利潤に転化させるかは、たやすく見抜くことができる。
しかし、このような限界がなければ、なぜ競争が一般的利潤率をあの限界にではなくこの限界に、1500%ではなく15%に、帰着させるのかは、絶対に見抜くことができない。競争は一般的利潤率をせいぜい一つの水準に帰着させることができるだけである。しかし、この水準そのものを規定するための要素は、競争のなかには絶対にないのである。[16]」
17.「事の性質上当然のことであるが、植物性や動物性の素材の成長や生産は、ある程度の自然的期間に結びついている一定の有機的な諸法則に従わざるをえないので、このような素材は、たとえば機械やその他の固定資本や石炭や鉱石などのようにその増加が―たの自然的諸条件を前提にすれば―産業的に発達した国では非常に短い期間に行われうるものと同じ程度ににわかに増やすことはできない。それゆえ、不変資本のうちで機械などの固定資本からなっている部分の生産と増加が、有機的原料からなっている部分に比べてずっとはやく進んで、そのためにこの有機的原料に対する需要がその供給よりもはやく大きくなり、従ってその価格が上がるということは、あり売ることであり、また発達した資本主義的生産では避けられないことでさえある。・・・・・・[17]」
18.「『社会的欲望』、すなわち需要の原則を規制するものは、本質的には、さまざまな階級相互間の関係によって、またそれぞれの階級の経済的状態によって、従ってまたとくに第一には労賃に対する剰余価値全体の割合によって、第二には、剰余価値が分かれていゆくさまざまな部分(利潤、利子、地代、租税など)の割合によって、制約されている。それだから、ここでもまた、需要供給関係が作用するための基礎が展開されてからでなければ、需要供給関係からは絶対になにも説明できないということがわかるのである。[18]」
19.「需要と供給が一致すれば、それらは作用しなくなるのであって、またそれだからこそ商品はその市場価値で売られるのである。二つの力が反対の方向に同じ強さで作用する場合には、それらは相殺されて外に向かっては全然作用しないのであって、このような条件のもとで起きる現象は、この二つの力の干渉とは別なものによって説明されなければならない。・・・
資本主義的生産の現実の内的諸法則は、明かに、需要と供給との相互作用から説明することはできない・・・。なぜならば、これらの法則が純粋に現実化されて現れるのは、ただ、需要と供給とが作用しなくなるとき、すなわち両方が一致するときだけだからである。
需要と供給とは実際にはけっして一致しない。または、もし一致するとすれば、それは偶然であり、したがって科学的にはゼロとするべきであり、起きないものとみなすべきである。ところが、経済学では需要と供給が一致すると想定されるのである。なぜか? 現象をその合法則的な姿、その概念に一致する姿で考察するためである。すなわち、現象を、需要と供給の運動によって引き起こされる外観にかかわりなく考察するためである。他方では、需要供給の運動の現実の傾向を見つけだすため、いわばそれを確定するためである。……[19]」
20.「需要供給は、もっと分析を進めれば、社会の総収入を相互のあいだで分配して収入として相互の間で消費するような、つまり、収入によって形成される需要を形成するような、さまざまの階級や階級部分の存在を前提する。・・・・[20]」
21.「不断の不均等の不断の均等化は、(1)資本がより可動的であればあるほど、すなわちある一つの部面や場所から他の部面や場所に資本を移すことがより容易なほど、(2)労働力をある部面から他の部面へ、またある生産地点から他の生産地点へより速く動かすことができればできるほど、ますます速く行われる。
第一のことは次のようなことを前提する。社会のなかでの商業の完全な自由。そして、自然的な独占以外の、すなわち資本主義的生産様式そのものから生ずる独占以外の、あらゆる独占の排除。さらに信用制度の発達。信用制度は、利用可能な社会的資本の組織されていない大量を集中して個々の資本家に対立させる。最後に、資本家のもとへのさまざまな生産部面の従属。・・・・この均等化そのものがより大きな障害にぶつかるのは、多数の広大な資本主義的に経営されていない生産部面(たとえば小農民による耕作)が資本主義的経営のあいだに介在してこれと結びついている場合である。・・・
第二のことは、次のようなことを前提とする。労働者が一つの生産部面から他の生産部面に、またはある生産地点からどこか他の生産地点に移動することを妨げるような法律をすべて廃止すること。自分の労働のない様に対する労働者の無関心。すべての生産部面の労働ができるだけ単純労働に還元されること。労働者たちの間の職業的偏見がすっかりなくなること。最後に、そしてとくに、資本主義的生産様式への労働者の従属。・・・[21]」
[1] マルクス『経済学批判要綱』V、599f。引用は、久留間鮫造編『原典対訳・マルクス経済学レキシコン』(1、競争)、9ページ。
[2] 同上。
[3] 同、11ページ。
[4] 同、15ページ。
[5] 同、20―21ページ。
[6] 同、23ページ。
[7] 『資本論』T、ここでは『レキシコン』、27ページ。
[8] 『資本論』T、ここでは『レキシコン』、32-33ページ。
[9] 『レキシコン』、33ページ。
[10] 同、33-35ページ。
[11] 同、39ページ。
[12] 同、47-49ページ。
[13] 同、51-53ページ。
[14] 同、55-57ページ。
[15] 同、59-61ページ。
[16] 同、65-67ページ。
[17] 同、75ページ。
[18] 同、77ページ。
[19] 同、79ページ。
[20] 同、81ページ。
[21] 同、81-83ページ。