更新日:2002/12/25

 

マルクスと「マルクス主義」に関連して。

 加藤周一がどこからこのマルクスの言葉を取ってきたのか、私にはわからない。

 しかし、ある学説・理論体系・宗教の創設者とその追随者、エピゴーネンとの相互関係ということでは、本質的な問題をえぐっている言葉として、つねに省みるべき貴重なテーゼである。

 もちろん、そんな難しいことでなくても、日常的にも、「ある人が語ったこと主張したこと」とそれを耳にした人が受け止めて伝える内容(伝聞情報)とは、しばしば違っているのであって、間接的な情報はつねに注意して、オリジナルな情報源に当たって検証する必要がある、ということでもある。

 

―――――――ゲゼル批判――――労働価値説に基づく現代貨幣論の構築のために

ゲゼルの主張の多くは、幾多のマルクス批判と共通のものであり、ゲゼル批判は、通常のマルクス批判の経済学を批判することにもつながる。

 

労働価値説とは? 

商品の価値(価格はその表現形態)について、

リカード・・・商品の「価値は生産に使用された労働の量によって定まる」

ある商品の価値とは何か? その商品の生産に支出された社会的労働の対象的形態である。」

「商品の価値の大きさ」=「その商品に含まれている労働の大きさ」=その商品の生産に社会的に必要な労働時間、

 

マルクス・・・「商品の価値はその商品に現実に対象化されている労働の量によってではなく、その生産に必要な生きている労働の量によって規定されている」

 

 

1.労働と労働力の違いの明確な理解の必要性

2.価値の実体としての労働(商品の生産で投じられ商品に対象化された労働)

3.労働力の価値(価格)としての賃金・給与・・・cf.人件費統計

4.単純労働と複雑労働・・・現実の給与体系表が、この区分・格差評価・段階的評価を行っている。

 Ex.高卒と大卒と大学院卒との賃金表の格差として。

 この大量的な現実に目と閉じた観念的議論の横行!・・・・現実を見よ! 現実の統計をよく見よ!

自分の現実に関する無理解を、マルクス理論への批判の武器とする人々、巷を徘徊する彼らの大量の議論の奇妙さ・浅薄さ!

5.賃金・給与が「労働の価値」「労働の価格」として現象する必然性・・・マルクスの資本論第1巻第6篇 労賃Arbietslohn の紹介。

6.「労働の価格」としての賃金体系、その体系表・・・賃金・給与が「労働する人間とその家族の生活を維持し、労働する人間の労働能力=労働力を生産・再生産するもの」

 資本主義の発展とともに、資本主義的生産様式(現代では法人企業)が社会で支配的になり、圧倒的多数の就業者が時間決めの賃金・給与、すなわち時間賃金を受け取り、受け取った貨幣は、まさに労働の対価として認識されている。

 単純なアルバイト時給=890円、960円などの多数の身近な事例

 大卒初任給=19万円、といった多数の身近な事例

 大学院博士修了=25万、29万、36万といった多数の身近な事例

 

これらにおける労働(労働能力・労働力との関係は多かれすくなかれあいまい)とその評価の全社会的確立。

貨幣の基礎に労働あり。古くは、古典派経済学が抉り出したもの。

 

 貨幣価値と労働量(一定時間、月給なら一月の労働時間と給料との関係、時給なら一時間の労働量とその対価としての貨幣額との関係、など)は、インフレ期、戦中戦後などの混乱期を除き、社会的に安定的なものとして確認できる。貨幣価値と労働量との相互関係は、現代社会になればなるほど、明確なものとなっている。通貨=貨幣価値の基礎に一定量の労働(時間)があることは、社会の圧倒的多数を占める就業者ならば、明確に理解できることである。また、その賃金体系表が,全体としての平均的な労働者の価格表現となっていることも明確である。個々人の労働量と平均的な労働量との評価は,各会社の業務査定,ボーナス査定などで、客観的にまた主観的に行われているが、それら個別的違いを貫く社会低平均値が各職種・各業務の給与表となって規定されている。

 現実の給与表体系が示すように、単純労働と複雑労働などは、社会的経験によって相互の比率が換算されている(諸段階の管理職労働、職階賃金体系も含めて)。

 

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大学院経済学研究科・総合演習20021219日:

相田慎一氏報告「地域通貨の源流としてのシルビオゲゼルの思想と理論」

 

最近、ヨーロッパや日本で一つの大きな潮流になりつつある「地域通貨」運動の源流について、補論「シルビオ・ゲゼルの生涯と著作」など膨大な資料を紹介する興味深い報告であった。

 

しかし、ゲゼルのマルクス批判、マルクス経済学批判は、私の理解では、的外れであり、古典派経済学の批判的継承としてのマルクスの理論とその諸概念をキチンと理解し踏まえたものではない。

 

ところが、相田氏は、ゲゼルのマルクス主義批判は、「今日の時点でみるならば、全面的に妥当する」と評価している。私はこれに批判的である。

 

相田氏が「マルクス主義」、「共産主義」という場合、20世紀の後進国において帝国主義戦争の渦中から誕生し、世紀前半に帝国主義列強の至当の課程で世界に普及し、戦後冷戦体制下で世界体制の一翼となったような「社会主義」のイデオロギーとしての「マルクス主義」、現在では北朝鮮に残存するタイプの「社会主義」、スターリン主義型などの国家資本主義・戦時統制経済的な経済システムとその理論を「マルクス主義」、「共産主義」と等置しているようである。

ソ連型・東欧型・北朝鮮型の「マルクス主義」、「共産主義」が破産したこととは、今では1989年以降の現実の歴史によって証明されている。しかし、そのような20世紀の実験としてのソ連型・東欧型・北朝鮮型の経済システムやそこでの主義主張が、果たしてどこまでマルクスの思想と理論に合致するのか、これについては、検討が必要である。マルクス死後の幾多の事件を、マルクスと等置しても、マルクスは地下から、それは私の主張ではない、それは私の理論ではない、といったのではなかろうか。

 

そこで、経済的理論の問題に関する相田氏のいくつかのゲゼル紹介(報告レジュメ、V.ゲゼルのマルクス経済学批判)について、演習で若干疑問を呈した。その点をここで、文章で確認しておきたい。ゲゼル自身のテキストに沿った厳密な検討ではなく、相田氏の紹介に関するコメントである。

Vの構成に従い検討すると、まず、

1)マルクスとゲゼルの主要な対立点が指摘されている。

@「資本主義」観・・・産業資本主義VS「利子経済」

 ゲゼルがマルクス経済学批判を展開したワイマール期以降、現在までの世界経済史がしめしている大局的傾向は、生産過程の資本主義化、すなわちますます多くの生産分野を資本が包摂し、支配する過程である。物的生産とサービスの生産過程において、資本―賃労働関係が、20世紀の間に全世界で支配的になってきたことは、明白な事実である。ソ連型・東欧型の国家統制的・国家資本主義的経済の崩壊以後は、新自由主義の支配、世界的民営化の怒涛のごとき傾向を通じて、ますます世界の全生産過程が、市場経済に、したがって資本主義的生産関係・流通関係に支配されるようになっている。すなわち産業資本主義が現在の世界の経済生活の基礎を成している。

「利子経済」は、その産業資本主義の展開に規定され、その土台の上に立つ上部構造にすぎない。基礎における産業資本主義が、競争圧力のもとで過剰生産恐慌に陥ることによって、「利子経済」の担い手である銀行、金融業はまさに恐慌状態に陥る。現在の日本の事態は、表面的には金融危機であり、不良債権であるが、その基礎には産業資本の過剰生産キャパシティがある。競争圧力のもとで、諸個別資本が信用・金融機関を槓杆にして、過剰な生産能力を建設した付けが、今日の長期不況・膨大な不良債権蓄積の事態である。

 

A搾取の本質に関する理解が対立する。マルクスは「生産過程(剰余価値)」、ゲゼルは「流通過程」(「基礎利子」)であると。

現実社会の表面では、諸個別資本の利子、利潤などが、市場関係・交換関係を通じて実現されるため、古くから(すなわち重商主義の時代から)、利潤の源泉を交換過程に求める経済学は多く存在した。しかし、マルクスが、『資本論』「第1巻第4章 貨幣の資本への転化」において批判的に解明したことは、流通過程、交換過程は、利潤(剰余価値)の生産を説明しえないということだった。

Wは商品(Ware)の略語、Gは貨幣(Geld)の略語だが、売り(W−G)と買い(G−W)という流通過程の行為、交換行為は、その売りと買いのいずれにおいて、一方が得をすればいっぽうが損をするということによって、利潤や搾取の成立を説明し得ないということだった。

Aという商品所有者が、100円という価値(価格)の商品を売って、貨幣所有者Bの100円という貨幣を取得したとする。100円の商品が100円と言う貨幣と交換されるのだから、この交換は等価交換であり、AもBも損得がない。利潤は発生しない。

もし、100円という商品価格が、本当は110円でうるべきものであったとすれば、Aが100円で売った行為は、10円の損失を意味し、逆にBは110円の価値あるものを100円で買ったことになり得をする。この場合、不等価交換である。

個々の取引では、不等価交換はありうるし、現実に無数に見られることである。しかし、社会全体としてみれば、ある人が得をすればその分だけ別の人が損をするということからは、社会全体の総利潤という現実社会で生み出される巨大な量を説明し得ない。日本の統計に関しては、別の箇所で紹介した大蔵省(財務省)統計が、日本社会全体としての巨大な利潤の存在を立証している。

マルクスが明らかにしたように、新しい生産物をつくりだす労働、まさに生きた労働こそが価値を創造する。そして、また古い価値、新たな価値を追加し、新たな生産物において価値を全体として増大する。

日本の政府統計(付加価値統計)が示す巨大な利潤の存在は、毎年の日本人の膨大な量の労働、その対象化としての価値創造を証明している。しかもたんなる価値創造ではなく、過去の蓄積価値と自分の消費する価値の量を凌駕する剰余価値(付加価値のうち、働く人々自身の生命生活を維持する人件費を除く部分、すなわち=利潤・利益、租税、地代、利子の部分)を生産していることを証明している。労働主体である人口は増加し、利潤増額は長期的傾向においては増加している。

現実の政府の社会経済統計が示すことは、マルクスの説の正しさを証明している。

まさに、この生産における剰余価値の創造(生産)こそは、マルクスの発見であり、経済学を科学たらしめる根本的な転回点だった。

 

B搾取権力・・・マルクスは「資本家」とし、ゲゼルは「レントナー」だとする対立があるという。

レントナーは利子取得者ということで、結局は、この搾取権力=搾取主体の問題も、搾取の本質理解と同じ問題である。剰余価値、その社会表面に現れた形態としての利潤、利子、地代などの生産をどのように理解するかの問題と同じである。

日本の現在の政府統計(付加価値統計など)が示しているように、付加価値のうち、利子(利息)や地代の取得者(取得部分)も付加価値の一部分に過ぎず、企業利益・利潤も確固とした構成部分(取得部分)となっている。搾取主体は、単にレントナーだけではなく、資本家もそうである。

法人企業は、自分が取得した付加価値のなかから、人件費を支払い、利子(利息)を支払い、地代を支払い、税金を払って、残りの部分を企業利得(利益)として取得している。日本全国の法人企業を総括した法人企業統計が示していることは、マルクスの分析を立証している。

日本全体としての法人企業の蓄積は、投資にまわされ、日本社会の拡大再生産が行われる。全体としての投資(その源泉としての利益、利潤)の長期的傾向を見失ってはならない)

 

C労働者規定・・・マルクスは「賃金によって生活する者」と規定し、ゲゼルは「『労働収益』によって生活する者」と規定している。

日本の賃金統計(たとえば、法人企業・人件費統計)を見てみるといい。また、今では日本の就業者の圧倒的部分を占める賃金・給与所得者の圧倒的な日常経験を直視してみるといい。

果たして、労働に対する収益をわれわれは得ているのであろうか? だが、「収益」とは何か?

「労働」を提供している以上、それに対する反対給付は、「収益」という概念とはあわないのではないか?交換関係では。提供した「労働」に対しては、反対給付はその対価というのが、正確ではないか。

賃金・給与は、まさにそれによって人々が「生活する」基礎である。賃金・給与は、われわれの生活のための衣食住の諸費用を支払うためのもの、自分と家族の生命と生活の維持のためのものである。

「労働者」を資本に対置して言う場合は、「労働者」にはたんなる肉体労働者や単純労働者だけではなく、いわゆる職員層・複雑労働者の総体を含む。日本の賃金・雇用統計もそのようになっている。 

それでは、この賃金・給与は、何に対する対価であろうか?

普通の観念では、上で見たように、「提供した労働」に対する対価である。みんなそう思い込んでいる。

だが、本当にそうか? そのような日常観念は科学的に見て、正しいか?

これこそ、マルクスの経済学的発見の根本にかかわるところである。

 

マルクスは、賃金=労働力の価値、とし、

資本・企業に「提供される労働」と資本・企業に労働者・働くものが売る「商品である労働力」とを明確に区別した。この労働Arbeitと労働力Arbeitskraftの区別こそ、マルクスの剰余価値(利潤・利子・地代の基礎)概念の基礎にある根本的発見である。

 

 ゲゼルは、「労働者が事業家に販売する生産物の販売代金」マイナス「労働者に貸与された生産手段費+労働者に貸与された生産手段の利子=基礎利子」として、賃金を規定する。

しかし、日本の賃金・雇用統計、日本の現在の就業者の圧倒的部分をなす賃金・給与取得者は、事業家に生産物を「販売」しているか? 労働者は、生産手段を「貸与」されているか?

時給、日給、週給、月給といった賃金形態が示しているように、日本と世界の被雇用者=賃金取得者は、一時間という時間単位、一日という時間単位、一週間という時間単位、一ヶ月という時間単位で賃金・給料を得ている。つまり、時間給である。一定時間の労働を提供する対価として賃金給料を得ている。けっして、事業家に生産物を売ってその対価を得たり、事業家に生産手段を借りてその生産手段費や生産手段の利子を支払ったりしてはいない。

ゲゼルのような「労働者」は、独立生産者に対する問屋制資本の前貸し形態に対応する「労働者」であり、資本主義が高度に発展したところでは、例外的周辺的な現象となる「労働者」である。資本主義発達途上の資本による労働者の形式的包摂・支配の段階の「労働者」である。

 

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以下では、マルクスから、「お前の解説は不十分であり、混乱をもたらす。自分の説をきちんと紹介しろ」、とお叱りを受けるであろうと想定し、彼の直接のオリジナルの文章を、紹介することにしたい[1]

『資本論』第1巻、第六篇 労賃VI. Der Arbeitslohn

17章 労働力の価値はまたは価格の労賃への転化17. Verwandlung von Wert resp. Preis der Arbeitskraft in Arbeitslohn[2]

 

 資本主義社会、ブルジョア社会では、したがって現在では、主要先進国を含めた地球上の圧倒的な地域の社会では、その通常の意思、通常の表面的意識では、次のようになっている。

 以下、マルクスの言葉を聞こう。

 

「社会の表面では、労働者の賃金は、労働の価格として、すなわち一定量の労働に支払われる一定量の貨幣として、現れる。そこでは、労働の価値が論ぜられ、この価値の貨幣表現が労働の必要価格とか自然価格とか呼ばれる。他方では。労働の市場価格、すなわち、労働の必要価格の上下に振動する価格が論ぜられる。」

Auf der Oberfläche der bürgerlichen Gesellschaft erscheint der Lohn des Arbeiters als Preis der Arbeit, ein bestimmtes Quantum Geld, das für ein bestimmtes Quantum Arbeit gezahlt wird. Man spricht hier vom Wert der Arbeit und nennt seinen Geldausdruck ihren notwendigen oder natürlichen Preis. Man spricht andrerseits von Marktpreisen der Arbeit, d.h. über oder unter ihrem notwendigen Preis oszillierenden Preisen.

 

「だが、ある商品の価値とは何か? その商品の生産に支出された社会的労働の対象的形態である。

では、何によってわれわれはその商品の価値の大きさを計るか? その商品に含まれている労働の大きさによってである。」Aber was ist der Wert einer Ware? Gegenständliche Form der in ihrer Produktion verausgabten gesellschaftlichen Arbeit.・・・ここまでが、労働価値説の基本である。商品の価値を規定するのはその商品の生産に社会的に必要な労働時間[3]である。

 

「では、たとえば一つの12時間労働日の価値の大きさは何によって規定されているのだろうか?

 12時間からなっている一労働日に含まれている12労働時間によって。

 これはばかげた同義反復である(原注21)。」

Und wodurch messen wir die Größe ihres Werts? Durch die Größe der in ihr enthaltnen Arbeit. Wodurch wäre also der Wert z.B. eines zwölfständigen Arbeitstags bestimmt? Durch die in einem Arbeitstag von 12 Stunden enthaltnen 12 Arbeitsstunden, was eine abgeschmackte Tautologie ist.[4]

 

「商品として市場で売られるためには、労働は、売られる前に存在していなければならないであろう。だが、もち労働者が労働に独立の存在を与えることができるとすれば、彼が売るものは商品であって労働ではないであろう。」

 Um als Ware auf dem Markt verkauft zu werden, müßte die Arbeit jedenfalls existieren, bevor sie verkauft wird. Könnte der Arbeiter ihr aber eine selbständige Existenz geben, so würde er Ware verkaufen und nicht Arbeit.

 

「このような矛盾は別としても、もし貨幣すなわち対象化された労働生きている労働とが直接に交換されるとすれば、それは、まさに資本主義的生産を基礎としてはじめて自由に発展する価値法則を廃止するか、または、まさに賃労働によって立つ資本主義的生産そのものを廃止することであろう。」

    Von diesen Widersprüchen abgesehn, würde ein direkter Austausch von Geld, d.h. vergegenständlichter Arbeit, mit lebendiger Arbeit entweder das Wertgesetz aufheben, welches sich grade erst auf Grundlage der kapitalistischen Produktion frei entwickelt, oder die kapitalistische Produktion selbst aufheben, welche grade auf der Lohnarbeit beruht.

 

12時間労働日の1労働日は、たとえば6シリングという貨幣価値で表される。第一に、等価と等価とが交換されるとすれば、労働者は12時間の労働と引き換えに6シリングを受け取る。彼の労働の価格彼の生産物の価格に等しいであろう。」

Der Arbeitstag von 12 Stunden stellt sich z.B. in einem Geldwert von 6 sh. dar. Entweder werden äquivalente ausgetauscht, und dann erhält der Arbeiter für zwölfstündige Arbeit 6 sh. Der Preis seiner Arbeit wäre gleich dem Preis seines Produkts.

 

「この場合には、彼は彼の労働の買い手のために剰余価値を生産しないであろうし、6シリングは資本に転化されないであろうし、資本主義的生産の基礎はなくなってしまうであろう。しかし、まさにこの基礎の上でこそ、彼は自分の労働を売るのであり、彼の労働は賃労働なのである。」

In diesem Fall produzierte er keinen Mehrwert für den Käufer seiner Arbeit, die 6 sh. verwandelten sich nicht in Kapital, die Grundlage der kapitalistischen Produktion verschwände, aber grade auf dieser Grundlage verkauft er seine Arbeit und ist seine Arbeit Lohnarbeit.

 

「もう一つの場合には彼は12時間の労働と引き換えに6シリングよりも少なく、すなわち12時間の労働よりも少なく受け取る。12時間の労働が、10時間とか6時間の労働と交換される。このような不当な諸量を等置することは、ただ価値規定を廃棄するだけではない。このような自分自身を廃棄する矛盾は、およそ法則として表明されるとか定式化されることさえできないのである。」

Oder er erhält für 12 Stunden Arbeit weniger als 6 sh., d.h. weniger als 12 Stunden Arbeit. Zwölf Stunden Arbeit tauschen sich aus gegen 10, 6 usw. Stunden Arbeit. Diese Gleichsetzung ungleicher Größen hebt nicht nur die Wertbestimmung auf. Ein solcher sich selbst aufhebender Widerspruch kann überhaupt nicht als Gesetz auch nur ausgesprochen oder formuliert werden.

 

「より多い労働とより少ない労働との交換を、一方は対象化された労働で他方は生きている労働だという形態の相違から引き出すことは、何の役にも立たない。このやり方は、商品の価値がその商品に現実に対象化されている労働の量によってではなく、その生産に必要な生きている労働の量によって規定されているのだから、ますますばかげたものになる。

Es nützt nichts, den Austausch von mehr gegen weniger Arbeit aus dem Formunterschied herzuleiten, daß sie das eine Mal vergegenständlicht, das andre Mal lebendig ist. Dies ist um so abgeschmackter, als der Wert einer Ware nicht durch das Quantum wirklich in ihr vergegenständlichter, sondern durch das Quantum der zu ihrer Produktion notwendigen lebendigen Arbeit bestimmt wird.

 

「ある商品が6労働時間を表しているとしよう。それを3時間で生産することができる発明がなされるならば、すでに生産されている商品の価値も半分だけ下がる。今ではその商品は、以前のように6時間ではなく、3時間の必要な社会的労働を表している。つまり、その商品の価値量を規定するものは、その商品の生産に必要な労働の量であって、労働の対象的形態ではないのである。」

Eine Ware stelle 6 Arbeitsstunden dar. Werden Erfindungen gemacht, wodurch sie in 3 Stunden produziert werden kann, so sinkt der Wert auch der bereits produzierten Ware um die Hälfte. Sie stellt jetzt 3 statt früher 6 Stunden notwendige gesellschaftliche Arbeit dar. Es ist also das zu ihrer Produktion erheischte Quantum Arbeit, nicht deren gegenständliche Form, wodurch ihre Wertgröße bestimmt wird.

 

商品市場で直接に貨幣所持者に向かい合うのは、じっさい、労働ではなくて労働者である。労働者が売るものは、彼の労働力である。彼の労働が現実に始まれば、それはすでに彼のものではなくなっており、したがってもはや彼によって売られることはできない。労働は、価値の実体であり内在的尺度ではあるが、それ自身は価値を持ってはいないのである。

    Was dem Geldbesitzer auf dem Warenmarkt direkt gegenübertritt, ist in der Tat nicht die Arbeit, sondern der Arbeiter. Was letztrer verkauft, ist seine Arbeitskraft. Sobald seine Arbeit wirklich beginnt, hat sie bereits aufgehört, ihm zu gehören, kann also nicht mehr von ihm verkauft werden. Die Arbeit ist die Substanz und das immanente Maß der Werte, aber sie selbst hat keinen Wert.

 

「『労働の価値』という表現では、価値概念はまったく消し去られているだけではなく、その反対物に転倒されている。それは一つの想像的な表現であって、たとえば土地の価値というようなものである。」Im Ausdruck: Wert der Arbeit” ist der Wertbegriff nicht nur völlig ausgelöscht, sondern in sein Gegenteil verkehrt. Es ist ein imaginärer Ausdruck, wie etwa Wert der Erde.

 

「とはいえ、このような想像的な表現は生産関係そのものから生ずる。それらは、本質的な諸関係の現象形態を表す範疇である。現象では事物が転倒されて現れることがよくあるということは、経済学以外では、どの科学でもかなりよく知られていることである。」

Diese imaginären Ausdrücke entspringen jedoch aus den Produktionsverhältnissen selbst. Sie sind Kategorien für Erscheinungsformen wesentlicher Verhältnisse. Daß in der Erscheinung die Dinge sich oft verkehrt darstellen, ist ziemlich in allen Wissenschaften bekannt, außer in der politischen Ökonomie.

 

「古典派経済学は、日常生活からこれという批判もなしに『労働の価格』という範疇を借りてきて、それから後で、どのようにこの価格が規定されるか? を問題にした。やがて、古典派経済学は、需要供給関係の変動は、労働の価格についても、他のすべての商品の価格についてと同様に、この価格の変動のほかには、すなわち市場価格が一定の大きさの上下に振動するということのほかには、なにも説明するものではないということを認めた。需要と供給とが一致すれば、ほかの事情が変わらないかぎり、価格の振動はなくなる。しかし、そのときは、需要供給もまた何事かを説明することをやめる。」

Die klassische politische Ökonomie entlehnte dem Alltagsleben ohne weitere Kritik die Kategorie “Preis der Arbeit”, um sich dann hinterher zu fragen, wie wird dieser Preis bestimmt? Sie erkannte bald, daß der Wechsel im Verhältnis von Nachfrage und Angebot für den Preis der Arbeit, wie für den jeder andren Ware, nichts erklärt außer seinem Wechsel, d.h. die Schwankung der Marktpreise unter oder über eine gewisse Größe. Decken sich Nachfrage und Angebot, so hört, unter sonst gleichbleibenden Umständen, die Preisoszillation auf. Aber dann hören auch Nachfrage und Angebot auf, irgend etwas zu erklären.

 

「労働の価格は、需要と供給とが一致していれば、需要供給関係にはかかわりなく規定される労働の価格である。すなわち、労働の自然価格である。そしてこれが本来分析されなければならない対象として見出されたのである。」

Der Preis der Arbeit, wenn Nachfrage und Angebot sich decken, ist ihr vom Verhältnis der Nachfrage und Angebot unabhängig bestimmter, ihr natürlicher Preis, der so als der eigentlich zu analysierende Gegenstand gefunden ward.

 

「あるいはまた、市場価格のかなり長い変動期間、たとえば一年をとって見たとき、その上がり下がりが相殺されて一つの中位の平均量に、一つの不変量になるということが見いだされた。この不変量は、もちろん、それ自身からの互いに相殺される諸偏差とは別に規定されなければならなかった。」

Oder man nahm eine längere Periode der Schwankungen des Marktpreises, z.B. ein Jahr, und fand dann, daß sich ihr Auf und Ab ausgleicht zu einer mittlern Durchschnittsgröße, einer konstanten Größe. Sie mußte natürlich anders bestimmt werden als die sich kompensierenden Abweichungen von ihr selbst.

 

「このような労働の偶然的な市場価格を支配し規制する価格、すなわち労働の「必要価格」(重農学派)または「自然価格」(アダム・スミス)は、他の商品の場合と同じに、ただ、貨幣で表現された労働の価値でしかありえない。このようにして、経済学は、労働の偶然的な価格をつうじて、労働の価値に到達しようと思った。他の諸商品の場合と同じに、この価値もつぎにはさらに生産費によって規定された。」

Dieser über die zufälligen Marktpreise der Arbeit übergreifende und sie regulierende Preis, der “notwendige Preis” (Physiokraten) oder “natürliche Preis” der Arbeit (Adam Smith) kann, wie bei andren Waren, nur ihr in Geld ausgedrückter Wert sein. In dieser Art glaubte die politische Ökonomie durch die zufälligen Preise der Arbeit zu ihrem Wert vorzudringen. Wie bei den andren Waren wurde dieser Wert dann weiter durch die Produktionskosten bestimmt.

 

「だが、生産費―労働者の生産費、すなわち、労働者そのものを生産または再生産するための費用とはなにか? この問題は、経済学にとって、無意識のうちに最初の問題に取って代わった。というのは、経済学は、労働そのものの生産費を問題にしてはぐるぐる回りするだけで少しも前進しなかったからである。」

Aber was sind die Produktionskosten - des Arbeiters, d.h. die Kosten, um den Arbeiter selbst zu produzieren oder zu reproduzieren? Diese Frage schob sich der politischen Ökonomie bewußtlos für die ursprüngliche unter, da sie mit den Produktionskosten der Arbeit als solcher sich im Kreise drehte und nicht vom Flecke kam.

 

「だから、経済学が労働の価値と呼ぶものは、じつは労働力の価値なのであり、この労働力は労働者の一身の中に存在するものであって、それがその機能である労働とは別のものであることは、ちょうど機械その作業とが別物であるようなものである。」

Was sie also Wert der Arbeit (value of labour) nennt, ist in der Tat der Wert der Arbeitskraft, die in der Persönlichkeit des Arbeiters existiert und von ihrer Funktion, der Arbeit, ebenso verschieden ist wie eine Maschine von ihren Operationen.

 

「人々は、労働の市場価格といわゆる労働の価値との相違や、この価値の利潤率に対する関係や、また労働によって生産される商品価値に対する関係などにかかわっていたので、分析の進行が労働の市場価格からいわゆる労働の価値に達しただけではなく、この労働の価値そのものをさらに労働力の価値に帰着させるに至ったということを、ついに発見しなかったのである。」

Beschäftigt mit dem Unterschied zwischen den Marktpreisen der Arbeit und ihrem sog. Wert, mit dem Verhältnis dieses Werts zur Profitrate, zu den vermittelst der Arbeit produzierten Warenwerten usw., entdeckte man niemals, daß der Gang der Analyse nicht nur von den Marktpreisen der Arbeit zu ihrem vermeintlichen Wert, sondern dahin geführt hatte, diesen Wert der Arbeit selbst wieder aufzulösen in den Wert der Arbeitskraft.

 

「このような自分自身の分析の成果を意識していなかったということ、『労働の価値』とか、『労働の自然価格』とか言う範疇を問題の価値関係の最後の十全な表現として無批判に採用したということは、あとで見るように、古典派経済学を解決のできない混乱や矛盾に巻き込んだのであるが、それがまた俗流経済学には、原則としてただ外観だけに忠実なその浅薄さのための確実は作戦基地を提供したのである。」

Die Bewußtlosigkeit über dies Resultat ihrer eignen Analyse, die kritiklose Annahme der Kategorien “Wert der Arbeit”, “natürlicher Preis der Arbeit” usw. als letzter adäquater Ausdrücke des behandelten Wertverhältnisses, verwickelte, wie man später sehn wird, die klassische politische Ökonomie in unauflösbare Wirren und Widersprüche, während sie der Vulgärökonomie eine sichere Operationsbasis für ihre prinzipiell nur dem Schein huldigende Flachheit bot.

 

「そこで、われわれは、まず第一に、労働力の価値と価格が、労賃というそれらの転化形態にどのように現れるか、を見ることにしよう。」

 Sehn wir nun zunächst, wie Wert und Preise der Arbeitskraft sich in ihrer verwandelten Form als Arbeitslohn darstellen.

 

「人の知るように、労働力の日価値は労働者のある一定の寿命を基準として計算されており、この寿命には労働日のある一定の長さが対応する。かりに慣習的な一労働日は12時間、労働力日価値3シリングで、これは6労働時間を表す価値の貨幣表現だとしよう。」

    Man weiß, daß der Tageswert der Arbeitskraft berechnet ist auf eine gewisse Lebensdauer des Arbeiters, welcher eine gewisse Länge des Arbeitstags entspricht. Nimm an, der gewohnheitsmäßige Arbeitstag betrage 12 Stunden und der Tageswert der Arbeitskraft 3 sh., der Geldausdruck eines Werts, worin sich 6 Arbeitsstunden darstellen.

 

「もし労働者が3シリングを受け取るならば、彼は12時間機能する彼の労働力の価値を受け取るわけである。」

Erhält der Arbeiter 3 sh., so erhält er den Wert seiner während 12 Stunden funktionierenden Arbeitskraft.

 

「いま、もしこの労働力日価値一日の労働の価値として言い表されるならば、12時間の労働は3シリングの価値を持つ、という定式が生ずる。労働力の価値は、このようにして、労働の価値を、または、貨幣で表せば、労働の必要価格を規定する。反対に、、もし労働力の価格が労働力の価値からずれるならば、労働の価格もまたいわゆる労働の価値からずれるわけである。」

Wird nun dieser Tageswert der Arbeitskraft als Wert der Tagesarbeit ausgedrückt, so ergibt sich die Formel: Die zwölfstündige Arbeit hat einen Wert von 3 sh. Der Wert der Arbeitskraft bestimmt so den Wert der Arbeit oder, in Geld ausgedrückt, ihren notwendigen Preis. Weicht dagegen der Preis der Arbeitskraft von ihrem Wert ab, so ebenfalls der Preis der Arbeit von ihrem sog. Wert.

 

労働の価値というのは、ただ労働力の価値の不合理な表現でしかないのだから、当然のこととして、労働の価値は、つねに労働の価値生産物よりも小さくなければならない、ということになる。なぜならば、資本家はつねに労働力をそれ自身の価値の再生産に必要であるよりも長く機能させるからである。」

Da der Wert der Arbeit nur ein irrationeller Ausdruck für den Wert der Arbeitskraft, ergibt sich von selbst, daß der Wert der Arbeit stets kleiner sein muß als ihr Wertprodukt, denn der Kapitalist läßt die Arbeitskraft stets lönger funktionieren, als zur Reproduktion ihres eignen Werts nögtig ist.

 

「前の例では、12時間機能する労働力の価値は3シリングであって、これは、その再生産に労働力が6時間を必要とする価値である。ところが、この労働力の価値生産物は6シリングである。なぜならば、労働力は実際には12時間機能しており、そして労働力の価値生産物は労働力自身の価値によってではなく、労働力の機能の継続時間によって定まるのだからである。

こうして、6シリングという価値をつくりだす労働は3シリングという価値を持っている、という一見してばかげた結論が出てくるのである。」

Im obigen Beispiel ist der Wert der während 12 Stunden funktionierenden Arbeitskraft 3 sh., ein Wert, zu dessen Reproduktion sie 6 Stunden braucht. Ihr Wertprodukt ist dagegen 6 sh., weil sie in der Tat während 12 Stunden funktioniert, und ihr Wertprodukt nicht von ihrem eignen Werte, sondern von der Zeitdauer ihrer Funktion abhängt. Man erhält so das auf den ersten Blick abgeschmackte Resultat, daß Arbeit, die einen Wert von 6 sh. schafft, einen Wert von 3 sh. besitzt.

 

「さらに、人の見るように、1労働日の支払部分すなわち6時間の労働を表している3シリングという価値は、支払われない6時間を含む12時間の一労働日全体の価値または価格として現われる。つまり、労賃という形態は、労働日が必要労働剰余労働とに分かれ、支払労働不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現れるのである。」

    Man sieht ferner: Der Wert von 3 sh., worin sich der bezahlte Teil des Arbeitstags, d.h. sechsstündige Arbeit darstellt, erscheint als Wert oder Preis des Gesamtarbeitstags von 12 Stunden, welcher 6 unbezahlte Stunden enthält. Die Form des Arbeitslohns löscht also jede Spur der Teilung des Arbeitstags in notwendige Arbeit und Mehrarbeit, in bezahlte und unbezahlte Arbeit aus. Alle Arbeit erscheint als bezahlte Arbeit.

 

「賦役では、賦役民が自分のために行う労働と彼が領主のために行う強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。」

Bei der Fronarbeit unterscheiden sich räumlich und zeitlich, handgreiflich sinnlich, die Arbeit des Fröners für sich selbst und seine Zwangsarbeit für den Grundherrn.

 

「奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる。彼のすべての労働が不払労働として現れる。」

Bei der Sklavenarbeit erscheint selbst der Teil des Arbeitstags, worin der Sklave nur den Wert seiner eignen Lebensmittel ersetzt, den er in der Tat also für sich selbst arbeitet, als Arbeit für seinen Meister. Alle seine Arbeit erscheint als unbezahlte Arbeit.

 

「賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働さえも、支払われるものとして現れる。」

 Bei der Lohnarbeit erscheint umgekehrt selbst die Mehrarbeit oder unbezahlte Arbeit als bezahlt.

 

奴隷は賃金などをもらわない。だから、

「前のほうの場合には、奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、後のほうの場合には、賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである。」

Dort verbirgt das Eigentumsverhältnis das Fürsichselbstarbeiten des Sklaven, hier das Geldverhältnis das Umsonstarbeiten des Lohnarbeiters.

 

「このことから、労働力の価値と価格が労賃という形態に、すなわち労働そのものの価値と価格とに転化することの決定的な重要さがわかるであろう。このような現実の関係を目に見えなくしてその正反対を示す現象形態にこそ、労働者にも資本家にも共通ないっさいの法律観念、資本主義的生産様式のいっさいの欺瞞、この生産様式のすべての自由幻想、俗流経済学のいっさいの弁護論的空論はもとづいているのである。」

    Man begreift daher die entscheidende Wichtigkeit der Verwandlung von Wert und Preis der Arbeitskraft in die Form des Arbeitslohns oder in Wert und Preis der Arbeit selbst. Auf dieser Erscheinungsform, die das wirkliche Verhältnis unsichtbar macht und grade sein Gegenteil zeigt, beruhn alle Rechtsvorstellungen des Arbeiters wie des Kapitalisten, alle Mystifikationen der kapitalistischen Produktionsweise, alle ihre Freiheitsillusionen, alle apologetischen Flausen der Vulgärökonomie.

 

「労賃の秘密を見破るためには世界史は多大の時間を必要とするのであるが、これに反して、この現象形態の必然性、その存在理由を理解することよりもたやすいことは綯いのである。」

    Braucht die Weltgeschichte viele Zeit, um hinter das Geheimnis des Arbeitslohns zu kommen, so ist dagegen nichts leichter zu verstehn als die Notwendigkeit, die raisons d'étre dieser Erscheinungsform.

 

 

    Der Austausch zwischen Kapital und Arbeit stellt sich der Wahrnehmung zunhst ganz in derselben

 

 

[Marx: Das Kapital, S. 800 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 4114 (vgl. MEW Bd. 23, S. 562 ff.)]



[1] 以下の邦訳は、大月書店版『資本論』(五分冊)の第二分冊からである。

[2]  [Marx: Das Kapital, S. 793- . Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 4107-  (vgl. MEW Bd. 23, S. 557-  .)]

[3] 社会的に需要され消費されるある商品を生産するために必要な労働時間が、価値の内実をなす。ある人が怠けてほかの人より何倍も時間をかけて、その商品を生産したからといって、価値が何倍にもなるわけではない。

 このようなごく当たり前の簡単なことが、多くの人、マルクスの資本論を何回かは読んだであろうような人々にさえ、理解されていない。恐るべきことである。

 「理解しない」「理解できない」→「マルクスの理論は間違っている」、といった思考回路が横行している。マルクスを批判すれば、ひとかどの経済学者にでもなったように思い込み、それを社会が許容しているからである。現代社会のゆがんだ観念から見れば、マルクスはまったく誤解される。ゆがみでいたり、亀裂が入っていたりする鏡は、対象を適切には写さない。澄み切った水面がはげしく波立つ水面と写る。荒々しい現実が、平穏な現実に見える。

ゆがんだ意識は、現実の客観的真実をけっして、しかるべき正確さでは反映しない。ゆがんだ意識は、自分は正確だと思い込んでおり、自分を基準に、現実こそがゆがんでいると思い込む。

 そのようなことが通用するのは、机上の議論の枠内に閉じこもっているからである。現実の厳しい反撃から逃げている限りで、そのようなゆがんだ観念が社会的批判にさらされることはない。

[4] (原注21)「リカード氏は、価値は生産に使用された労働の量によって定まるという彼の学説の一見、障害になるおそれがあるように見える難点を、きわめて巧妙に逃げている。もし、この原則を厳格に守るならば、労働の価値労働の生産に用いられた労働の量によって定まるということになるが、−これは明らかに不合理である。

そこで、リカード氏は、すばやく転回して、労働の価値は、賃金を生産するために必要な労働の量によって定まるということにする。または、彼自身の言葉で言わせれば。彼は、労働の価値は賃金を生産するために必要な労働の量によって評価されるべきである、と主張する。彼が労働の量というのは、労働者に与えられる貨幣または商品を生産するために必要な労働の量を意味する。これは、布の価値は、その生産に用いられた労働の量によってではなく、布と交換される銀の生産に用いられた労働の量によって評価される、というのと同じことである。」Ricardo, geistreich genug, vermeldet eine Schwierigkeit, die auf den ersten Blick seiner Theorie entgegenzustehen scheint, daß nämlich der Wert von der in der Produktion verwandten Arbeitsmenge abhängig ist. Hält man an diesem Prinzip streng fest, so folgt daraus, daß der Wert der Arbeit abhängt von der zu ihrer Produktion aufgewandten Arbeitsmenge - was offenbar Unsinn ist. Durch eine geschickte Wendung macht deshalb Ricardo den Wert der Arbeit abhängig von der Menge der Arbeit, die zur Produktion des Lohnes erforderlich ist; oder, um mit seinen eigenen Worten zu sprechen, er behauptet, daß der Wert der Arbeit nach der Arbeitsmenge zu schätzen sei, die zur Produktion des Lohnes benötigt wird; worunter er die Arbeitsmenge versteht, die zur Produktion des Geldes oder der Ware notwendig ist, die dem Arbeiter gegeben werden. Gerade so gut könnte man sagen, daß der Wert von Tuch nicht nach der zu seiner Produktion verwandten Arbeitsmenge geschätzt werde, sondern nach der Arbeitsmenge, die zur Produktion des Silbers verwandt wurde, gegen welches das Tuch eingetauscht wird.” ([S. Bailey,] “A Critical Dissertation on the Nature etc. of Value”, p. 50, 51.)

[Marx: Das Kapital, S. 1460 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 4774 (vgl. MEW Bd. 23, S. 0 ff.)]