194112

ポーランド・ユダヤ人、ドイツを初めとする西欧ユダヤ人の戦時下移送の強行政策絶滅政策への飛躍点

 

世界各地でいまだに戦争が起き、アメリカの対イラク戦争がちらつく現在、世界戦争の悲劇から学びなおす必要性は大きい。

 

戦時には民衆、とくにマイノリティと弱者、老人婦女子の悲劇が必然となる。ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の悲劇はまさにその典型的事例に他ならない。

それは、いつ、どのような状況と要因の組み合わせではじまり、拡大していったのか。この「ヒトラー命令」をめぐる論争は欧米で八〇年代以降続いている。ソ連東欧の崩壊後、独ソ戦研究の史料的心理的障害は大幅に取り払われた。若手世代が実証的研究を進め、ジェノサイド(皆殺し)のメカニズムをしだいに明らかにしている。

 

ホロコーストはドイツ第三帝国のソ連占領政策と独ソ戦の全体的推移の中に位置付けなければならない。この方法的見地に立って諸説と史料群を洗いなおしてみるとき移送政策から絶滅政策への飛躍点は、総力戦への移行の画期、すなわち194112月である。

 

電撃戦の挫折、ドイツ大軍の被害の増大、第三帝国の「冬の危機」、真珠湾攻撃に呼応する対米宣戦布告と世界大戦の対抗軸の形成。こうした諸要因・ベクトル群と力関係の下で噴出する報復の熱情と民族主義・人種主義の確信=妄想こそナチスに大々的な強制移送政策を、実際には絶滅収容所への「移送」を選択させることになった