1914-1917西部戦線、東部戦線の推移(地図・年表)
・・・「背後の匕首」伝説を支える「戦線」状況
ドイツの総体的軍事的経済的敗北状況は、この戦線配置からは分からないから伝説が形成される
1918年3月のブレストリトフスク講和では、
ドイツ帝国は、ボリシェヴィキ政権から広大な地域を奪い取った。
「勝利の美酒」・・・ロシアに対するヒトラーの観念の基礎にある世界大戦の記憶(錯誤)
1918年3月の中央同盟国の領土と占領地域(地図)(地図)
まさにヒトラーが『わが闘争』で述べた「ロシアとその周辺国」が、
このブレスト・リトフスク講和における中央同盟国占領地域と重なる。
連合国
1917年4月6日までの連合国と、
同日アメリカ参戦
終戦時連合国
連合国(27の勝利国)
・・・1918.01.18講和会議開会(パリ)・・敗戦国は招かれず、最終晩に、
ドイツ国民議会は連合国の自国進駐の危険があるため、不承不承調印へ。
国民議会で反対したのは138票:民主党、ドイツ人民党、ドイツ国家人民党。
賛成票は237票。
・・・・06.28ヴェルサイユ条約調印。
ドイツ(ワイマール期履行政策)は平和条約を不公正で非現実的なものとみなして、その修正を追求。
賠償問題・・・1921年パリ会議、
1921年ロンドン会議
1921年4月27日ロンドン最後通牒(5月11日、ドイツ受諾)
1922年第二回ロンドン会議
1923年木材・石炭供給不履行を確認。
1923年1月フランス軍のルール進駐
ハイパーインフレ、政治情勢先鋭化、ヒトラーミュンヘン一揆など
1924年 ドーズ案。
1930年ヤング案。
1932年ローザンヌ会議(賠償問題の解決)
安全保障問題…1925年ロカルノ条約
軍縮問題
1932年 第一回国際連盟軍縮会議・・・フランスの要求(安全保障、国連軍)と
ドイツの要求(同等の権利)
失敗。
1933年 第二回国際連盟軍縮会議・・・イギリスの提案(軍事力の縮小、国防軍の20万人への拡大)は、採択されなかった。
ドイツは、実際的な同権を拒否されたため、会議を退席。
ヴェルサイユ条約のドイツに対する厳しい軍備制限・禁止に対抗するものとして、
有名な独ソ接近・独ソ協力があった。
1922年ラパッロ条約、1926年ベルリン条約。
1920-1929独ソ協力関係の変遷(E.H.カー『ロシア革命』1979)
航空機産業の事例(Budraß1998,
1933-1940年のドイツと隣接諸国及び日本の関係
ロカルノ条約⇒ナチ体制下の膨張・・・ロカルノ条約解消通告(1936.3.7)=ラインラント非武装地帯への進駐(同日1936.3.7)
⇒オーストリア併合1938年3月13日⇒ミュンヘン会談1938年9月20日⇒ズデーテンへの進駐10月1日=ズデーテン地域併合
そして、
1939年3月16日「残部チェコ問題」解決=ドイツ保護領ベーメン・メーレンの設置
以上が、1939年春までの「ドイツ生存圏の拡張」
次は、ポーランドへ
ヒトラー・ドイツの諸同盟