西洋経済史レポート
中産階級の娘たちの教育界への進出
はじめに
バブル経済崩壊後の日本の経済不況は、女子学生の就職に甚大な影響を与えているが、ドイツの大学生は卒業後にどのようなところに就職するのだろうか。ドイツでは、大学などの高等教育を終えた人々をアカデミーと呼んでいる。彼らは、日本人のように大学での専攻と関係なく企業に一般的な事務職として就職することはまずないという。それはドイツの企業が即戦力を求めているからでもあるが、学生も自分の専門分野が生かせるような仕事をしたいと強く願っているせいでもある。そこで文科系の学生は自分の専門分野を生かそうと研究機関の研究員や学芸員、もしくは教員になろうと思うのです。
現在ドイツの初等教育を担っている教員の70%近くは女性です。ドイツは日本と学校のシステムが異なっていて、日本の小学校に当たる基礎学校は四年間である。その後は各人の選択にゆだねられるが大きく分けて三種類の学校がある。将来学術的専門職に就こうとする生徒はギムナジウムと呼ばれる九年生の学校に行きます。秘書など一般事務職につきたいと思っている人は六年生の実科学校に進みます。またできるだけ早く社会に出て手に職を持ちたい人は4・5年間基幹学校に進み、見習い実習を経て職業訓練を開始することになります。教育段階としては、初等段階(六歳か九歳)、中等段階(十歳から十五歳)、高等段階(十六歳から十八歳)に分類されます。先にドイツの初等教育において教員の70%が女性だと書いてありましたが、正確には基礎学校と基幹学校における割合です。実科学校でも50%を超えているが、ギムナジウムでは約40%と男性教員のほうが多いです。それでも教育界全体としては女性が60%を占めています。一方女性の高等教育への進学率も80年代から徐々に増加し始めています。全大学生の40%近くになっています。
女性の教員や大学生は現在では珍しくないが、一世紀前のドイツ社会では、職場や大学そのものが女性にとって決して開かれたものではなかったそうです。それでは当時の女性たちがどのような動機や意図を持って教育界に進出しようとしたのだろうか。またその際にどのような障害、困難があったのだろうか。
本論
十九世紀のドイツでは、社会の経済的な領域と私的な生活領域で大きな変化が起こった。まず、経済的にはイギリスを先頭にして始まった産業革命が、ドイツにおいても十九世紀中ごろから本格化し社会構造の大きな変化をもたらした。それまでの家内制手工業やマニュファクチュアなどの小規模な生産様式が、機会制大工業に変わり、都市部では大規模な工場が次々と建てられた。このような生産様式の変化は生活様式も変化させた。従来生産活動はほとんど自宅で行われていたのに対し、大規模な工場ができると、人々は家を出て職場に向かい、そこで生産活動に従事するようになった。つまり労働をする生産領域と、家族とともに過ごす私的な生活領域が分離したのです。それに伴って家庭内での労働も大きく変化することになった。十九世紀のはじめごろまでは、市民層の家庭内労働はたいていの場合、徒弟や見習い・奉公人も居住していたため、生産活動を含んでいたしたとえ家族だけの場合でも購入した原料を加工したり、自家菜園や食料の貯蔵といった労働が女性の手によって行われていました。家の中で消費される品物はほとんど女性たちの手で作られていた。しかし工業化が進むとそれらのことは家の外で行われるようになり、家庭は単にそれらの商品を消費する場へと変化していった。かつて生産活動に加わり、夫の仕事を手伝うことが自明のこととされた「古き時代」とはまったく別の、生産活動とは切り離された、消費の場としての「家庭」が女性の領域とされるようになった。十九世紀の前半にはまだ質素でつつましかった生活が、十九世紀後半になると貴族の生活を真似るようになって派手になっていった。しかしそこには同時に「家庭」の生活様式も重要な要素として組み込まれていった。
このように「家庭」の生活様式が変化するにつれ、特に女性たちは苦労を強いられる事になる。上層階級のまねをして派手な生活様式へと変化していった中・下層階級の市民層は、対外的な対面のためにあたかも「遊惰な生活」を送っているかのように取り繕わなければならなかったのである。女中をおけるかおけないかのような状態でも、家事のほとんどを女中に任せているかのように振舞わなければならず、実際には彼女たちの精神的・肉体的負担は大きかったと思われる。夫の収入のみでは派手な生活を送っているようには見えないような経済状態でも、女性が収入を得るための労働をすることはタブー視されていました。そこで彼女たちは家でひそかに内職に励んだりしていました。また、経済的に余裕のない市民層の娘たちは、結婚に関しても明るい見通しは持てませんでした。中流以上の家庭の娘の25%が結婚できなかったとしている統計もあります。
それまでは彼女たちは結婚までの娘時代を親元で生産活動に参加しつつ過ごしていたのですが、商品経済が進むと、家庭内での消費財を以前のように自宅で生産したり加工したりする必要がなくなり、娘たちの仕事はほとんど無くなってしまいました。そこで経済的余裕のない家庭の娘たちは、いつまでも親の経済保護の元にいるわけにはいかず自活の道を探さなくてはならなかった。しかも労働者階級とは一線を画したい市民層の娘たちは、その社会的身分にふさわしい職業を選ばなければならなかった。そのとき彼女たちの社会的身分にふさわしい職業が教員でした。女性の就業権と女子教育の向上を求める女性運動はこのような市民層の女性問題を構造的背景としつつ、同時に「遊惰で無為な生活」に対する反抗が大きな推進力となって展開されていくことになる。しかも当時教員が不足していたこともあり、彼女たちは教師の職へつくことを促進することになった。
それ以前にも市民層の家庭の娘にとって、一種の教師的な職は存在していました。家柄はよいけど経済的に貧しい娘たちは自らの生活を支えるために、住み込みの家庭教師として、あるいは、高等女学校での付き添いとして、授業の手伝いを行ったり、幼い子供たちの保母として就学前の子供に読み書きを教えることもありました。しかしこうした職はまったくプライベートなものであって、職業として確立しておらず、便宜的に教師などという名前で呼ばれていただけだった。またたとえ教師と呼ばれるものであっても、女性の場合はその資格等にまったく規定がなかった点から見ると、家庭教師などとあまりかわりなかった。
民衆学校の教員へ
男性教員からの反発
女性教員の独身制をめぐる議論
終わりに
今回ドイツの女性の教育に関わる歴史の側面を見てみたが日本と類似する点が少なくないと思った。日本においても同じような現象が起こっているので機会があったら今度は日本の女性の教育についても調べてみたいと思う。
参考文献
『ドイツ女性の歩み』 河合節子 野口薫 山下公子 黒田多美子
『EUの男女均等政策』 柴山恵美子 中曽根佐織