EUの雇用戦略 〜オランダでの成功例〜

 

はじめに

 ヨーロッパの失業率は1970年代の2度にわたるオイルショックを機に急速に上昇し、80年代では平均で10%を超える構造的失業が慢性化していた。強固な労働市場規制や手厚い失業保護が存在し、労働市場が硬直的だったことが原因と考えられた。そのため労働市場改革をおこなうことで労働市場の柔軟性を高めなければならなかった。高い失業率に直面し、今までの欧州福祉国家の在り方(失業者保護のために比較的高い失業給付を長期間支給してきたが、それはかえって労働へのインセンティブを低めてしまっていた)が批判されるようになって路線の転換が余儀なくされたのである。90年代末からEUでは雇用政策を、農業政策、経済通貨政策などと同じEUレベルでの共通政策として位置づけ協調体制で取り組むようになり、EU各国は統一された新雇用政策を通じてそれぞれの国の事情をふまえた労働市場改革を進めている。

 EUの労働思想は、仕事というものを所得を提供するだけのものではなく、個人の達成・社会との繋がり・生活の基礎として位置付け、個人が社会にいるべき場所を見出すためのものと考える。これからは社会的給付などではなく雇用政策に最優先順位を与え、仕事を通じて全ての人を社会に統合していくことが目標にならなければいけないと主張された。さまざまな原因から非労働力化している人々に、経済活動に参加する機会をより良く分配していこうとしている。特に女性と高齢者の就業率の引上げが重視されるようになっており、それぞれの就業率の数値目標まで具体的に設定されている。

EUの雇用政策のモデル(理想)となっているのが、80年代初頭からおこなわれているオランダの労働市場改革である。オランダはパートタイムを中心とするワークシェアリングを進めて、失業率の大幅な低下を実現させた国として世界から注目された。今回はそのオランダの改革モデルについて着目し、雇用改革が始められた経緯、パートタイム労働の拡充がもたらした変化、女性と高齢者の労働参加への影響を述べていく。

 

「オランダ病」から「オランダの奇跡」へ

 1960年代、北海海底に天然ガスがみつかり、オランダは一次産品ブームにわいた。豊富な天然ガス輸出で潤った財政を背景に、社会福祉制度が次々拡充された結果、70年代のオランダはヨーロッパの中で最も社会保障制度が充実した豊かな国となった。一方で好況の石油業界の賃金が高騰したあおりをうけて他の産業も労働力確保のために賃金を上昇せざるをえず、また一次産品の輸出に依存して他の貿易部門とくに製造業の国際競争力を低下させていった。そして2度のオイルショックを経て一次産品ブームが去り財政規模が縮小した後も高福祉のシステムは継続された。社会保障にかかる支出は増大し、オランダの財政赤字は拡大を続けた。企業は賃金水準の高止まりに苦しみ、総人件費を増やせないため雇用する人数を絞る結果になった。失業率はどんどん高まり、1983年には12%という最悪の状況に陥った。増大する財政赤字と賃金の高騰、拡大する失業率に悩まされた80年代初めのオランダの状況を表わす「オランダ病」という言葉が生まれたほどだ。

 しかしオランダはその後、改革を通じておよそ15年間かけてその病気を見事に克服したのである。失業率は83年に最悪の12%を記録したが、徐々に低下してゆき2000年には3%という極めて低い数値を誇った。その値は日本の4.9%、さらにEU15ヶ国(当時)平均7.6%よりも大きく下回っている。財政赤字もユーロ圏11ヶ国(当時)で最初に対GDP比マイナス3%以内の基準値を達成し、1999年には25年ぶりに財政黒字に転換した。このような奇跡をもたらしたオランダの改革モデルは世界の注目を集めたのであった。

 

政労使協調に基づいた雇用制度改革

 「オランダ病」克服への道は1982年に政労使3者間で結ばれた「ワッセナー合意」がその始まりである。ワッセナー合意は、政府は財政支出の削減と減税、労働組合は賃金の抑制に協力、企業は労働時間短縮と雇用確保という形で、政労使の役割分担を明確化したものである。合意に基づき、時短により賃金が抑制されても実質可処分所得を維持されるように、政府は所得税減税や社会保障負担の軽減を実施した。自発的パートタイム化によるワークシェアリングを促進するため、フルタイム労働者とパートタイム労働者との待遇均等化、勤務時間編成の弾力化、雇用形態の多様化に関する法的基盤の整備など、関連する諸制度において包括的な見直しも実施された。「オランダ病」と呼ばれた深刻な経済状況への危機意識から、国をあげての改革が目指されたのである。

 ・週48時間あった労働時間を徐々に週36時間にまで下げ、代わりに週2035時間のパートタイム労働を導入した。一日あたり平均10時間近く働いていたのを7時間ほどにまで下げ、一日あたりの労働時間を短くした勤務体系を生み出した。

 ・パートタイムへ切り替えた企業には奨励金を出している。

58歳以上には失業保険を給付することでリタイアの年齢を下げ、若い人達がその分、仕事に就けるようにしている。

・長期失業者を採用した企業には社会保障負担を軽減する措置をとっている。

 

パートタイム経済の国オランダ

 オランダは「世界初」「世界で唯一」の「パートタイム経済の国」(アムステルダム大学フィッサー教授、ハーバード大学フリーマン教授)となっている。オランダのパートタイム労働が世界で注目を集めているのは他国と比べてもパートタイム比率が非常に高いと同時に労働者1人あたりの年間労働時間もきわめて短いといった量的な面だけではない。フルタイムとの均等待遇が認められたり、労働時間の増減、言い換えればフルタイムとパートタイム労働の間の転換が従業員のライフサイクルや家庭の事情によって調整できるというような制度の質的な高さである。(例えば急に介護をしなければならなくなればパートに切り換え、また介護から解放されたらフルタイム労働に戻るといったように個人の生活事情に合わせて労働時間の短縮、延長が可能となった)

 

パートタイムによる女性労働者の増大

 改革のためパートタイム労働の拡充へ様々な取り組みがなされていったが、特に96年にパートタイム労働とフルタイム労働の格差撤廃が実施されてからパートタイマーが一段と増えたといわれている。以前から政労使の間で共通認識されていたフルタイムとの権利を同一にする均等待遇原則、すなわち労働の賃金・保険・社会保障も含むフルタイム労働との差別の禁止が96年に法制化されたのだった。よってオランダのパートは日本のパートとは実態が違い、同一視できない。オランダのパートは単に労働時間が短いだけの正社員なのである。

 注目すべきは、パートタイム労働の促進が多くの女性を労働市場に参加させたことである。オランダではカトリック社会ゆえ1970年代まで、男性は稼ぎ手として外で仕事をし、女性は家事・育児をこなして家庭を守るという伝統的な考え方が極めて強く、外で働く主婦は極めて少なかった。しかし70年代に入り、国際的にも女性の教育水準が高まり徐々に女性の社会進出が進んでいった。またこの頃は産業構造にも変化があらわれていた。70年代、80年代は工業部門で雇用が減少し、サービス部門が成長するというオランダ経済のリストラ期に当たっており、パートタイムの柔軟な臨時雇用を採用することでコストとリスクの削減を必死で図ろうとした企業も増加し、そうした労働の需給がうまくマッチして主に民間サービス部門(商業、運輸、金融、ホテル、レストラン、通信等)の雇用はパートタイムの女性労働者を中心に増大したのだった。

 

新しいオランダ型の共稼ぎ家族

 パートタイム労働が盛んになり女性が外に出て働くようになったといっても、男性の場合は大半がフルタイムで働き、彼らが家計の中心を支えていく構造は今でも変わっていない。それでもパートタイムで女性が働くようになったことで、オランダでは共稼ぎ家族の生活スタイルの変化が見られるようになった。アメリカのように夫婦で目一杯稼ぐというスタイルではなく、家事も仕事もほどほどにやっていくゆとりのある生活を選んでいる。オランダ型の共稼ぎ家族は「1.5型」の働き方をする。それは夫婦どちらかがフルタイムで1.0働けば他は0.5働く、あるいは夫婦それぞれが0.75ずつ働いて、二人合わせて1.5人分働くのを理想としたものである。1人分の稼ぎでも生活できるが、夫婦で1.5人分働くことで収入に若干のゆとりが生まれるし、育児や介護、家事の共有・分担も可能になったのである。

 

社会保障と高齢者の労働参加

 オランダに限らずヨーロッパの福祉国家では、低賃金で働いている人に対して保険料や税金がかけられて手取りが少なくなる一方で、失業給付や福祉給付は極めて手厚いため失業者や福祉受給者は就職するよりもむしろそのまま手当てを受け続けていたほうが収入が多いという現象がみられる。これでは労働へのインセンティブが働くはずがなく、社会保障の充実は「失業の罠」と言われている。

 オランダは手厚い社会保障制度の改革もおこなった。80年代に実施されたものでは、労働障害保険や失業保険の給付水準を引き下げ(社会保障の効率化は、そのための歳出を削減し、財政再建にもつながる)、さらに若年労働者の失業保険期間を短縮した一方で、58歳以上の高齢失業者には求職活動の有無に関わらず失業保険給付がなされた。つまり高齢者層には早期退職を奨励して若年者の就労機会の拡大を目指そうというものであった。さらに障害の認定が極めて緩やかで支給をうけやすかった障害保険制度もオランダの退職年齢を低下させた要因であった。たとえ仮病を使っても障害保険制度が受給でき、公的な一般老齢年金が支給される65歳までの間の収入を保障することができたからだ。しかし90年代に入ると高齢社会の到来をうけて、高齢者についても早期引退から継続雇用、再就職と労働参加率を高める政策が課題とされるようになった。

 

EUの新雇用政策

 このようにオランダでは政労使間のワッセナー合意に基づき、様々な構造改革が実行された。「団体交渉において、企業の収益性と競争力の強化、雇用増加にもっと努力を傾注すること」を最優先とした考え方はEUの欧州委員会においても認知されている。EUでは1997年末に、失業問題に対応するために臨時に開催された「雇用サミット」の合意を踏まえて、新雇用政策が採択された。オランダの労働市場の柔軟化改革はEUの新雇用政策の柱となった。

 EUの新雇用政策は「エンプロイヤビリティ(労働者の就業能力の)引上げ」、「企業家精神の育成」、「環境変化への(企業・労働組合の)適応能力強化」、「雇用機会の(男女、身体障害者の)平等」を四本柱とし、労使協調・職業訓練の向上・技術レベルの向上によって社内の配置転換や転職をスムーズに行えることを目指す。以下のような流れで、欧州委員会は新雇用政策を通じて各構成国に労働市場の改革を求めている。

 四本柱の諸目標に照らして、欧州委員会は毎年年初に統一的な雇用政策方針をまとめ、構成国ごとにいろいろな課題を明示する。これを受けて各構成国は個々の事情に適した形での具体的な行動計画を立案し、6月の欧州理事会までに欧州委員会に提出する。理事会と欧州委員会はその計画の実施状況を審査し、翌年の雇用政策指針に反映させる。

 

おわりに

  オランダの失業率は一時期10%を越え「病気」とまで言われていたものの、企業・労働組合・政府が互いにバランスをとりながら妥協、協調して雇用制度改革を実施してきた結果、奇跡的に低い水準に回復することができた。改革の成功はいわば「三方一両損」の発想であるオランダ独特のコンセンサス・システムに依ったが、この政労使の協調は経済が徹底的に疲弊して、これ以上それぞれが自らの利害を優先していたらどうしようもない、というぐらいの切羽詰まった状況から生まれたものだったので、他国がすぐ容易に真似できるものではないだろう。

 今回はフルタイム労働との差別をなくしたパートタイム労働の促進が、今まで家庭の中にいた多くの女性を労働市場に参入させ、それがサービス部門における雇用増大に結びついたことに注目した。オランダの大きな雇用の伸びのうち、34がパートタイムの雇用によるものなので、失業率の改善は就業する女性が増えたことを意味する。今回とりあげたオランダの例では女性の労働市場への参加は良い感じに実現されたが、高齢者層については逆に早期退職(労働からの撤退)をしやすい環境を与えてしまっていた。そのためオランダにおける高齢者の就業率は女性のそれと比べて低い。しかし今後はヨーロッパ全体で生産年齢人口の高齢化が見込まれ、多額になる年金負担の問題もあり、最近のオランダでも高齢者の労働参加率を高め、彼らを社会に再統合させることで活力ある高齢社会への転換が目指されている。

今まで労働市場から排除されてきた(働きづらい環境におかれていた)女性や高齢者にも就労機会を広げて、自助努力により仕事をさせる事で社会の一員として彼らを社会に統合していこうとするEUの思想は、「連帯」を重視する福祉国家の立場を維持している。必要以上に失業手当を与えて失業者の面倒を見る方法から、仕事に就けるような機会をちゃんと提供し且つ職業訓練を通じて個人の労働へのインセンティブを高める方法へ変わったことは評価すべきである。しかし現在でもEUにおける失業問題は深刻で、特にドイツやフランスでは対応に苦戦している。失業率の高さは市民の不信感を高め、フランス等におけるEU憲法の否決はEUの未来を危ぶませた。さらに積極的にEU加盟国が増やされていて(EU拡大)、東欧から廉価な単純労働者が流入してくる。とりあえず今直面している失業問題をなんとかしなければ、これ以上外国人労働者の受け入れは不可能であり、「平和・繁栄のための統合」なんて呑気に唱えている場合ではない。EUが一丸となって取り組む雇用政策はこれからますます重要になってくるだろう、明るいEUの未来へ向けて是非頑張ってもらいたいものだ。

 

 

参考文献

 『ワークシェアリング「オランダ・ウェイ」に学ぶ日本型雇用革命』根本孝著.ビジネス社.20022月発行 

 『オランダモデル』長坂寿久著.日本経済新聞社.20004月発行

  

 『ユーロ その衝撃とゆくえ』田中素香著.岩波書店.20024月発行

 

参考URL

 http://homepage3.nifty.com/hamachan/jilptkoyosenryaku.html

作成者:東京大学大学院法学政治研究科比較法政国際センター客員教授 濱口桂一郎

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