西洋経済史レポート
…ひとつのヨーロッパへの道…
1.はじめに
2004年5月、EUは中東欧諸国をはじめとする10ヶ国を新たに正式のメンバーとして迎え、25ヶ国からなる体制を発足させた。この総人口4億5000万人の大所帯は、冷戦下の冷戦下の西欧に生まれた共同体が、ヨーロッパ大陸の分断を克服しようとする試みでもある。西欧諸国が、武力による支配ではなく、相互に独自性と多様性を尊重しつつ平和的な手段を用いて経済的復興と政治的復権を達成することを決意したのは、第二次世界大戦が残した荒廃の中においてであった。1950年代初めに、石炭鉄鋼部門について、続いて原子力の共同開発と関税同盟の共同体が、欧州の中央部に位置する6ヶ国(独・仏・伊・ベネルクス3国)によって設立され、国家統合への壮大な実験が始まった。共同体はそれ以来、加盟国の数を増やしながら、域内市場から外交・安全保障、司法・内務協力に及ぶ幅広い分野において政策を共通化させ、様々な問題を協力によって解決する仕組を構築し続けてきた。2002年には、共通通貨ユーロが加盟12ヶ国の3億人を超える人々の間で市中流通を開始し、最近では、NATO(北大西洋条約機構)とは別に、独自の編成部隊を用いた安全保障・防衛政策の枠組みが強化されている。
しかし、EUは国家を超えることができるのであろうか。戦後、福祉国家として市民から幅広い支持を享受した国民国家の起源が、宗教戦争の平定によって主権国家を生み出した近代以前の時代にまで遠くさかのぼることを考えれば、石炭鉄鋼共同体の設立以来、半世紀の歴史しか持たない共同体が、国家に並ぶ安定性を獲得できるかどうかは難しい問題である。また、この統合が、単独では解決困難な問題に直面した国家によって進められてきたことも事実である。このようなことを念頭にEUを考えてみる。
2.EUまでのヨーロッパ統合の足跡
第二次世界大戦後、ヨーロッパ大陸は鉄のカーテンが降ろされて東西に分断され、48年にはソ連がベルリンを東側に取り込もうとして危機が深まっていた。その一年後にはソ連のスターリンが原爆を手にして一段と西ヨーロッパを恫喝し始めた。この脅威の前に、「EUの始祖」ジャン・モネが提唱するヨーロッパ統一の夢物語は押しやられ、むしろ主権国家の確立を急いで共産主義との戦いへの備えを固めることがアメリカから提案された。焦点は西ドイツである。アメリカとイギリスは、西ドイツの占領状態を解いて少しでも早く対ソ連戦線に組み込みたいと考えたが、フランスには受け入れ難かった。この時モネは、フランス・ドイツ国境のアルザス・ロレーヌとザール地方をはじめとする両国の石炭と鉄鋼の生産を、独立した国際機関に管理させるというものであった。当時の石炭と鉄鋼は今日の核にも相当する、戦争を遂行する為の戦略物資であった。今日のEUの第一歩となったヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の構想は、モネが信頼するフランスのロベール・シューマン外相に提案され、西ドイツのアデナウアー首相とも密かに打ち合わせながら進められて、1950年5月9日にパリとボンで同時発表された。(この日は今、EUの祝日になっている)提案されてからほぼ1年後の1951年4月ECSCの条約が調印された。
3.マーシャル・プラン
アメリカは、戦時体制の下で分断された産業と交易の分業システムを復興させることこそが復興の鍵になると考え、援助の受入を表明したヨーロッパ諸国に対し、互いに協力して援助物資を効果的に分配する枠組みつくりを求めた。これが「マーシャル・プラン」である。この計画の公表後、英仏政府はソ連を招いて受け入れ計画を立案しようとしたが、ソ連側が参加を拒否したために、結局は西側の16ヶ国によって欧州経済協力機構の設立が48年4月に決定された。
4.フランスの事情
フランスは、戦争から大きな打撃を受け、疲弊した経済を再建する課題に直面した。しかし、イギリスとは異なり、フランスの戦後政権の基盤は脆弱であった。イギリスと同様に大規模な国有化を行なったが、イギリスと対照的であったのは、経済を近代化し整備するための計画を国家主導の下に実行した点である。復興計画を起草し、その実現に不可欠であった支援をアメリカから取り付けつつ、自ら計画委員長として力を注いだのはジャン・モネであった。また、歴史的な敵対国であったドイツに対する警戒を、ドイツとの石炭鉄鋼共同体の形成によって積極的に乗り越えるまでに時間を要した。
5.イギリスの事情
戦時の挙国一致内閣を率いた保守党のチャーチルは、ドイツとの休戦協定の締結をフランスに思い留まらせようとして英仏連邦案を提案したほか、戦後に創設されるべき国連を支える地域的枠組みの一つとしてヨーロッパ全体を包括する機構を構想した。しかし、次第に米ソ間で対立が深まり、英米仏が占領する西側の占領地区からの西ドイツ国家が創設される見通しが強まると、イギリスは、フランスとの提携よりはアメリカとの関係を重視するに至った。イギリスに対するアメリカからの援助は不可欠であり、また、イギリスが第三勢力の中枢として復興を成し遂げるため、大英帝国の遺産である植民地支配の継続も前提とされていた。すなわち、戦後の復興は、英連邦の結束や福祉国家の建設を前提として進められていたのであり、大陸諸国との提携は、あくまでも国家間の協調として考えられていた。
6.ドイツ問題の解決とローマ条約
1950年6月朝鮮戦争が勃発、アメリカは朝鮮半島へ軍事的介入した。そのために手薄となったヨーロッパ防衛を補うために、西ドイツのNATO加盟を急ぎ始めた。西ドイツのアデナウアー首相もこれを好機として、主権国家として不可欠と考えられた再軍備を積極的に要求し始めた。軍事的脅威として危惧したフランス政府は、西ドイツに対し、軍隊だけの設置を許しそれを全て欧州軍に編入する、という「プレヴァン・プラン」(1950年10月)が発表された。プレヴァン・プランを巡る交渉が進み、52年5月、石炭鉄鋼共同体の加盟国が防衛共同体を創設する条約を、西ドイツと英米仏が西ドイツの地位を新たに規定する条約をそれぞれ締結するに至った。1954年10月、NATOの一員としての西ドイツの地位を規定する「第二ドイツ条約」がパリにおいて調印された。占領状態は終結し、西ドイツはほぼ完全な主権国家となった。
モネは、石炭鉄鋼部門の共同体をその他のエネルギー部門や、石炭と鉄鋼の価格形成に関わる交通・輸送セクターへと拡大することを考えた。とりわけ原子力は、石油に代わるエネルギー源として注目されただけではなく、その共同開発はアメリカに対してヨーロッパの軍事的自立性を取り戻すうえでも有望であった。そして、57年3月、石炭鉄鋼共同体の6ヶ国は、欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(EURATOM)を設立する条約(ローマ条約)を調印した。
7.欧州共同体(EC)の誕生
石炭鉄鋼共同体(ECSC)に、欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体EURATOM)が1958年に加わった後、三つの共同体の機関は67年に一本化され、欧州共同体(EC)の機関として運営されることとなった。
8.単一欧州議定書(SEA)
域内市場の完成、予算改革、制度改革という三つの問題は、それぞれ深刻化していて単独では解決することが困難であった。複雑な利害関係におかれた政府間の合意を成立させる上では、85年に新委員長に就任したドロールが果たした役割が大きい。ドロール委員長によって調達された加盟国間の包括的な合意をきっかけとして、共同体は独特の政体の形勢を進めた。また、単一欧州議定書は、特定多数決による理事会の意思決定方式を導入した。議定書は、共通関税の税率、自由業の資格の相互確認、資本移動の自由化などの個別の事項と並び、域内市場を完成するために理事会が取るべき措置一般について、特定多数決をルールとする条項(95条)をローマ条約に加えた。特定多数決は、域内市場はもとより環境政策などにおいても適用の幅を広げていった。全会一致から特定多数決への移行は、南欧諸国の新規加入に備えて意思決定の効率化を図るためでもあったが、各国の決定行動に影響を及ぼした。合意形成がめざされる点に変りなかったが、特定国が拒否権を行使し続けることは困難になった。また、特定多数決の採用は、共同体が冷戦の終結に始まる歴史的変動の中で統合を進めようとする際に、統合の手法を見直す契機ともなった。
9.冷戦構造の解体と欧州共同体(EC)
ヨーロッパ大陸は、1989年、フランス革命にも比すべき歴史的な大変動に突入した。85年にソ連共産党の書記長に就任したゴルバチョフは、国内においてペレストロイカを推進し、東欧諸国に対しても自由化を促した。体制内改革派が十分に育っておらず、守旧的対応が続けられた国々においては、市民の中から反体制運動が生まれ、共産党政権を倒すに至った。東欧諸国における民主化の動きがこのように加速するとともに、冷戦構造そのものも解体に向かった。このような歴史的大変動を前にした欧州共同体とその加盟国は、統合の長期的構想を編み直し、全ての問題領域における条件の変化を慎重に探り、長期的目標を実現するために最適の政策手段を選ぼうとしたわけではない。欧州共同体は、東欧の一部の国々を相手として特別の協定を締結することを予定したに過ぎず、その加盟問題を意図的に排除したともいえる。しかし、統合の将来像の再設計を加盟国に迫る事態が急速に進行した。89年11月にベルリンの壁が崩壊した後に、東ドイツの社会主義体制は解体の道をたどり、誰も予期し得なかったほどの速度で国家統一が現実味を帯びるに至った。冷戦が終結しつつある情況の中でも、東西ドイツがどのような形で国家統一を果たすかという問題は、ヨーロッパにおける新秩序形成の問題から切り離して考えることは出来なかったのである。
10.マーストリヒト条約
共通外交・安全保障政策の創設を主眼としたこの条約は、目的を達成するために「共同行動」を規定しただけではなく、将来は西欧同盟を場として共通の防衛政策を策定することも唱えた。マーストリヒト条約が「欧州連合」と呼び改めた共同体は、従来の欧州共同体と並び、政府間主義のよって運営される共通外交・安全保障政策、そして、司法・内務領域における協力、という三つの柱に分節することになった。司法・内務協力は、域内における人々の自由移動を実現するために、各国の移民、難民、査証政策などを共通化させ、警察と司法協力を進める領域である。また、マーストリヒト条約は、加盟国の市民に対し、母国以外の国に居住している場合にも居住自治体での地方参政権を与えるなど、連合市民権という画期的な規定を置き、第一篇の共通規定では、EUが過去の共同体法の集積を守りつつ、対外的一貫性を確保すべきことを定めた。
11.経済通貨同盟(EMU)と共通通貨ユーロ
1990年同盟参加国の間で唯一の法定通貨となったユーロは、2002年には紙幣と効果として市中を流通し始めた。各国の中欧銀行に代わり、物価安定の維持を最優先させる欧州中央銀行(ECB)が、ユーロの利子率、流通量などに関する金融政策を自立的に遂行する体制が発足したのである。ユーロの登場には、考えられている以上に大きなインパクトがある。ユーロは、第二次世界大戦後の五十年におよぶヨーロッパ統合運動の所産であり、それによって生まれ変わった新生ヨーロッパの象徴である。
12.多様性の中の統一
拡大後のEUをめぐる加盟国間の対立は、権法条約草案をめぐる交渉においても表面化している。拡大後の25ヶ国の中では、ドイツ・フランス・イタリア・イギリスが相対的な大国であり、その他の多くは小国として僅かな持ち票しかない。実際、旧加盟国は、労働力の自由移動を述べながら、東方拡大が実現した後にも一定の移行期間を設け、新規加盟国から流入する移民の制限を確保している。その一方で注目すべきことは、それまでは西ヨーロッパ諸国に限定されていた価値が東方拡大の過程においてEUに共通するものとして確認され明文化されてきた点である。そして、基本的価値や基本憲章が示す規範が、EUの共同体としての一体性を強める。EUは、歴史上かってない課題を、新たな方法を用いて克服しようとする欧州国家の試みであり、その独特な政体は変化し続けるであろう。
13.ユーロの現状
景気停滞によるユーロに対する欧州市民の不信感はじわじわと広がっている。背景には、通貨統合に伴って金融政策の決定権を欧州銀行(FCB)に握られ、自国の景気を金利変更によって調整できなくなったことがある。5月から6月にかけてフランスとオランダでEU憲法が否決された時にはユーロ相場が急落したが、現在は落ち着きを取り戻している。1999年1月のユーロ発足から6年余、欧州通貨統合は課題と悩みを抱えながら一進一退の歩みを続けている。
市場統合や単一通貨ユーロの導入は、域内の人・物・金の流れを自由化し、域内分業を促進することによって、長く欧州経済の悩みの種であった失業問題の解決に繋がるという期待があった。しかし、独・仏・伊など主要国にとって、統合は逆に失業問題を深刻化させているように見える。理由の一つは、人件費が安い東欧諸国への「資本移動」に伴う産業空洞化の進行である。また、東欧からの労働者が高賃金を求めて西欧に流れ込む「人の移動」も失業を助長する一因となっている。失業という根深い構造問題には、まだ「統合」が解決策を出していない。
欧州域内の企業の合併・買収が急増し、企業収益の回復を背景とした前向きな事業再編が進んでいる。ユーロ導入の狙いの一つは、域内の競争激化を通じて企業再編を進め、経済活性化の原動力にすることである。狙いは実現化しているが、こうした企業統合の流れに抵抗する、保守主義的な産業政策が残る国もあり、「外資アレルギー」も根強い。
14.社会的な統合について
「全体として明確で持続的な、そして非常に進歩した社会的統合が西ヨーロッパに存在している。ここには、社会的発展の独自のヨーロッパ的な道がある。それは、北アメリカ・日本・オーストラリアあるいはソ連と往々にして違った経過を辿ったし、現在も違った歩み方をしている。ヨーロッパ社会はますます同一化している。同一化はいくつかの面では非常に進んでおり、そこでは西ヨーロッパの国々の間にアメリカ合衆国の州やソヴィエトの共和国の間にも見られるような類似性が生まれた。国民的な視野の排他性から離れてヨーロッパの共通の立場と同一性を意識する方向に西ヨーロッパ人は次第に転換している。」(H・ケルブレ)
ヨーロッパの社会的同質性と各国間の差異の縮小だけがひとつのヨーロッパ社会への道を切り開いた訳ではない。社会的交流に含まれるものとしては、職業及び教育の移動、各国間にまたがる結婚、消費と文化による交流関係であり、そして多分その土台となっているのは言葉の理解の進展であろう。このような交流と移動がヨーロッパ的な広がりにおいて研究されることは、これまで殆どなかった。
社会科学者と歴史家によって、社会的および文化的共通性やヨーロッパ間交流の進展の度合いが、これまで以上に精力的に研究され議論されなければならないと指摘されている。
15。考察および感想
ヨーロッパ統合の最大の目的は、国同士が互いに戦わないようにすることである。そして、EUはそれぞれの国が主権を移譲する形で成り立っている。加盟国が現在25ヶ国であるが、加盟国の増加はプラス面ばかりではない。国家と、国家を超えた政治体であるEUとの関係をどのように調整しながら、ヨーロッパの繁栄を確かなものにしていくのかが問題となってくる。ヨーロッパの人々は、単一市場を建設し、もはや国家主権や国境などにこだわらず、アメリカに始まったIT革命による新しい世界経済の動きにスムーズに乗ることができた。大きな目標を達成したヨーロッパ諸国には、これから揺り戻しの可能性があるだろう。異なる国と民族が結びついているという現実がその理由である。しかしながら、共通通貨ユーロを持つに至るヨーロッパの歴史にはそれなりの理由と必然性があり、簡単に壊れるような関係ではない。各国の通貨は、その国の歴史であり誇りでもあるが、ヨーロッパ全体を担うユーロには人々を結ぶ橋や門、また希望を象徴する星などが印刷されている。
ブリュッセルのEU本部によると、ヨーロッパへの世界の富は、1985年頃から徐々に、そして確実に進んでいる。同じ資本主義でもヨーロッパとアメリカでは経済理論が異なる。アメリカは徹底した市場原理の国であり、このことでアメリカ経済は景気の変動が激しいと云える。一方、ヨーロッパ(EU)は財政の健全化を求めてユーロの管理に取り組んでいる。ユーロ圏諸国とアメリカでは、このために景気のサイクルや企業の経営手段まで違ってくる。EUの一員であるイギリスはアメリカに近い、それがユーロを採用出来ない理由にもなっている。ベルリンの壁が崩れたことで、合体したのは東西ドイツだけでなく、東西に分かれていたヨーロッパも合体した。「ユーロ」のヨーロッパと超大国アメリカの関係、そして「円」の日本の攻防はグローバル市場での国際競争になっている。不況下の日本にとってユーロ流通に至るまでのヨーロッパの努力と経緯は、良い手本になる可能性を示していると思う。