ヨーロッパ統合と言語(S.M.No.2)

 

ここ十数年前から日本へも多くの外国人労働者が入国するようになって、日本語以外の様々な言語が日常的に聞こえてくるという、これまでにない現象が生じてきた。それに伴い、外国人児童・生徒が急増して、日本語教育を必要としている人の数が一万人を超す状況になっているといわれる。日本の経済発展に伴うさまざまさ社会的変化は、これまでほとんど考えられてこなかった言語の問題をわが国の社会にもたらしつつある。言語は個人の精神的な活動を左右するものであると同時に、まさに社会的な存在でもある。

ヨーロッパはわが国とは対照的に多民族が互いに征服し、征服されてきた歴史を持ち、それゆえさまざまな民族と文化の縮図といっても過言ではない。これは言語状況の上にも明らかに反映し、数多くの言語が存在するが、EU諸国に限ってみても、公用語ばかりではなく、地域で話されている言語も考慮に入れれば、域内でひとつの言語だけを使用している国はごく少数である。このような状況の中で言語はEU内でどのような存在となっているのだろうか。

 

もともと経済同盟を主眼としたEUの前身でもあるECには明確な言語・文化政策の規定はなく、官僚理事会の「規則第一号」にその言語規定が見られるのみであったが、欧州連合条約には、はっきりと文化と教育に関する章が存在している。文化に関する章の128条では、「共同体は、共通の文化的遺産を明らかにしつつも、各構成国と地域の多様性を尊重して、それぞれの国の文化を開花させることに寄与する」としているように、多文化の共存による発展をはっきりと文化政策の要としているのである。また126条第2項の共同体の行動目標の中にも「教育の中に、とりわけ構成国の諸言語の習得と普及によって、ヨーロッパの広がりを展開する」と謳われている。

そこから見られる基盤は、ローマ条約以来の基本的な理念とされている、各国、各地域の多様性をそのまま文化的な豊かさとして維持発展させていこうとする姿勢である。つまり、文化的にも言語的にも多くの違いが存在することこそがヨーロッパのあり方そのものと考えられているのである。

このような方針は現在のEUの公用語にもそのまま反映されている。スタートしたころのEU加盟国は、アイルランド、イタリア、イギリス、オーストリア、オランダ、ギリシャ、スウェーデン、スペイン、デンマーク、ドイツ、フィンランド、フランス、ベルギー、ポルトガル、ルクセンブルクの十五ヶ国であるがEUの会議・書類その他に用いられる言語、いわゆる公用語ならびに作業語は十一語である。すなわちイタリア語、英語、オランダ語、ギリシャ語、スウェーデン語、スペイン語、デンマーク語、ドイツ語、フィンランド語、フランス語、ポルトガル語である。言語の数と国の数が合わないのは、オーストリアではドイツ語が、ベルギーではフランス語とオランダ語とドイツ語が公用語であり、ルクセンブルクでは国語のレッツェブルグ語のほかにフランス語とドイツ語が公用語となっているためである。アイルランドでも同じようにケルト系のアイルランド語と英語が公用語であり、前者についてはアイルランドが辞退して、これが使われているのは条約文書だけになってるからである。またスペインでは1978年以来、いわゆるスペイン語以外に、各自治州ではカタルーニャ語、バスク語、ガリシア語が公用語となっているが、ここではスペイン全体の統一公用語たるスペイン語が採用されている。ちなみにたとえば国連加盟国は190近くあるが公用語は常任理事国の言語(英・仏・中・露)と2言語(西・アラビア)の2言語である。

 

言語は人間にとって外界を認識し、理解し、解釈し、意味づける、いわゆる認知活動に欠かせないものであると同時に、他者とのコミュニケーションの道具として社会的に重要な役割を果たしている記号体系でもある。また、後者の機能から、個人の社会集団への帰属を表すものとなり、社会的自己形成にとっても欠かすことのできないものとなっている。元来、同一コードの記号体系をひとつの言語というわけで、別のコードを持つ記号体系は別の言語ということになる。たとえば、英語と日本語は語彙の点でも、文法の点でも、音韻の点でもはっきりと異なっているから、別の言語ということになる。

ところで、同一の言語の中にもいろいろなバリエーションがある。普通これは方言と呼ばれるものであって、たとえば関西弁、青森弁などがそうである。

 

ヨーロッパを考える際に重要な問題が移民の問題である。移民人口の増加は経済的・社会的なレベルで大きな問題を引き起こしているが、これをヨーロッパとしてどのように解決していくかは、EUの今後の課題である。ここにも言語の問題が存在する。

今のところ、移民に対しては各国で対応の仕方が異なっている。ドイツのように基本的には血統主義で次世代でも国籍を与えることはせず、あくまでも一時的という形をとり続けている国もあれば、フランスのように次世代の国籍取得を容易に認め、フランスに統合していく形をとってきた国もある。ただし、この伝統は1993年の法律、いわゆるパスクワ法などによって規制されるようになった。

この人々の言語の問題についても二つの態度が存在する。一つはすべて当事国の言語に一元化していくもので、たとえば、フランスは基本的にこれで進めている。そのために小学校ならびに中学校で外国人のためのクラスを設けて、フランス語を母語としない児童・生徒にフランス語の教育を施し、その力の進展にあわせて徐々に普通のクラスへ編入させるように導いている。

もうひとつは国語は教えるがそれぞれの民族の相違を認め、母語の維持のための援助をしようという立場である。これはその国の言語による教育を受けながらも、それとあわせて、児童の母語の教育も行うプログラムを用意している場合で、オランダではこれが公教育で行われている。

またに言語併用教育といっても、一方への統合のための一段階と考える場合と、真に両方を生かすことを考える場合との二つがありうる。

 

インテリ層の集まる国際機関や共同機関では共通語が英語となっているケースが多い。ただ興味深いのははじめからすべて英語を用いるということではなく、まず自国語で話すことを原則としている点である。このような場では国際的なコミュニケーションにおいても各自の言語文化を否定することなく、それが通じない場合には補助手段として英語を用いている。

問題は一般市民における人的交流・移動に伴うコミュニケーションだろう。書き言葉の面ではあくまでもその国の公用語が使われ続けるだろうが、話し言葉のほうはその地域の言語が使われる可能性が大きい。それで通じなければ、その地域の属しているくにの公用語が用いられ、それでだめなら、何らかの媒介語が使用されるという可能性が強いと思う。

そうすると、現在の各国の言語状況についてヨーロッパ以外での使用趨勢をも考え合わせれば、英・仏・独・西といった言語が媒介語として使われる可能性が大きいと思う。その意味でルクセンブルク型の教育は今後のEU諸国の言語政策のモデルたりうるかも知れない。

ルクセンブルク大公国ではレッツェブルグ語が国語となっているが、このほかにもフランス語とドイツ語も公用語となっている。

現在では小学校の授業はレッツェブルグ語で行われるが、一年からドイツ語の読み書きが教えられ、二年からフランス語の授業が加わる。中学校では、レッツェブルグ語、ドイツ語、フランス語で授業が行われるようになるが、どれが用いられるかは科目によって異なる。たとえば数学はフランス語で教えられる。それと同時に、英語が外国語として導入される。高校ではほとんどの授業がフランス語で行われるようになり、その一方でドイツ語と英語が続けられるのである。

 またこのような事態が言語そのものにどのような影響を与えていくかも興味深い問題である。各国ともいわゆる外来語が増えていくだろうし、さらに外国語そのままの形が一部入ることが増えるかもしれない。特に単語や句のレベルでは、混交言語の出現も多くなってくる可能性があるだろう。情報や人の移動が各言語の干渉を促進するだろうし、またそれに伴って変化してくるかもしれない。教育の面でも言語に対する極度の純粋主義はいよいよその用をなさなくなっていく可能性もあるだろう。

 もちろん一方において、国家レベルでこれまでのようにそれらを阻止する動きが出てくるだろう。現にフランスは1994年に新しい「フランス語使用法」を提案し成立させた。ただ成立の過程ではかなりの反対にあい、当初意図していた外来語の使用禁止などいくつかの部分は憲法違反と判断され、その部分を削除し、手直しをした上での成立となったのである。