アウシュヴィッツのガス室の証拠にはどのようなものがあるか?
一番有名で、邦訳もあるもの・・・アウシュヴィッツ司令長官ルドルフ・ヘース(ヘスRudolf Höß)証言・記録
しかし、証言や証拠は、すこじずつちがっていたり(あまり重要でない細部の記憶違いはよくあること)、相互に矛盾している場合もあり、したがって、立体的に(加害者・被害者・傍観者など)複数のもので相互に照らし合わせ、確実なところ・真実を確定していく必要がある。
ビルケナウ敷地内の農家改造
アウシュヴィッツ(ビルケナウ):「ブンカー2」(Bunker2)のガス室の構造
(Szalma Dragon証言)・・・ドラゴンは、1942年12月7日アウシュヴィッツにつれて来られ、12月10日、ビルケナウのブンカー1のゾンダーコマンド(特務班)に配属された。それからブンカー2、さらにその後1943年には第V火葬場の特務班に配属された。最後は第IV火葬場と特務班に。彼は第三火葬場もよく知っていた。彼の証言は、1945年5月10日、ポーランド当局に対して。S.203
アウシュヴィッツの第二火葬場Krematorium(ガス室Gaskammer)
設計図
アウシュヴィッツ第Ⅳ火葬場(ガス室):建設に従事した民間企業リーデル社の文書
作業記録簿の仕事内容を記したなかで、第5行に、Gaskammer(ガス室)という言葉が明記されている。
ゾンダーコマンド生存者などの証言
-5人のビルケナウ逃亡囚人(スロヴァキア・ユダヤ人4人、1944年4月7日にVrbaとWetzlerの二人、5月27日にMordowiczとRosinの二人が逃亡、残り一人はポーランド人将校42年3月から囚人、43年11月逃亡)・・・1944年11月アメリカ合衆国で報告書出版
-ゾンダーコマンドだったひと4人の証言・・・ビルケナウで死んだが文書による証言を残した人たち
-3人のゾンダーコマンド員・・・すでに1945年にポーランド当局に証言をしていた人々(全員ポーランド出身)。Stanislaw Jankowski, Szalma Dragon, von
Henryk Tauber
-二人のフランス人医師(André Lettich; Sigismund Paul Bendel)・・・囚人医師として、違った時期に、ゾンダーコマンドに配属された。
ゾンダーコマンド(ユダヤ人特務班=ガス室関連の死体搬出などもっとも過酷な作業をやらされた)の証言
ビルケナウのふたつの「ブンカー」(農家改造ガス室)
収容所長官ヘースの証言
医師クレーマーの証言(ブンカーにおけるユダヤ人ガス殺「(カムフラージュ呼称:特別作戦(Sonderaktion)」の有様)・・・1942年9月2日の3時
クレーマーと共に自動車内部から、「特別作戦」を見ていた運転手ヘープリンガーの証言
ゾンダーコマンド・ドラゴンの証言
ブンカーの処理能力
Ⅱ・・・約2500
Ⅰ・・・約2000
「選別」(労働かガス室か)のやり方
クレーマー証言・・・「選別」について
クレーマーの日記の記述に関するコメント(1947年7月18日)
逃亡に成功したポーランド人将校の報告
Wellersの証言記録・・・モノヴィッツ(アウシュヴィッツ第三収容所で見た「選別」のこと)
コンクリート製大型火葬場(その一部にガス室)の完成
火葬場建設に携わった民間企業とのやり取り設計図類・書簡類(証拠焼却にさいして民間企業のものまで焼却できなかった)・・・・ガス室の証拠
W.リーデル&ゾーン社
アウシュヴィッツの・武装親衛隊建設本部長ビショッフからベルリンのハンス・カムラー工学博士宛の書簡:「第二火葬場が可能な限りの労働力で言語に絶する困難や凍結天候の悪条件を乗り越えて完成・・・」と知らせ、
その中の言葉・・・・「ガス室Vergasungskeller」
「ガス気密ドア(Gasdichte Türen)」
「第三火葬場の死体置き場Ⅰのガスドア(Gastür)」
ガス室であることを隠蔽するその他のカムフラージュ用語
特別宿泊Sonderunterbringung
S.B(Sonderbehandlung)
「特別処理のための材料」Zyklon Bの民間企業への発注書(電報)・・1942年8月26日
Zyklon B 製造会社宛(1942年10月2日)
「ユダヤ人移住のための材料」
ガス室の機能の仕方に関する証言
その筆頭は、収容所長官ヘースの証言
ブロードの証言(ヘースの証言以前、1年半ほど前、自由の身のとき)・・・ガス室Gaskammerに関して。
囚人だったブレンデル博士の証言
・・・「シャワーを浴びる・・・・消毒のため」
「シャワーを浴びに、そのあと熱いコーヒーが待っている」
ヴェッツラー証言(1944年出版の本の中で)・・・・「3分で静かに」
タウバー証言
換気装置について
カムフラージュのための「シャワー室と消毒室」
死体が大量すぎて発生する困難について
焼却炉の破損
「湿気の多いときに、墓穴で集めた体脂肪を焼却に利用・・・・」
昼夜を問わず焼却作業・・・大量の埋葬死体を掘り出し焼却(1942年11月末)
ブロード証言・・・ヒムラー、屋外死体焼却のやり方に不満・・・周囲への悪臭、、夜間遠方から見えることなど。
ベンデル博士証言: 死体焼却ででた人間の体脂肪を、次ぎの焼却に利用
モルドヴィッツとロジンの証言(二人は1944年5月27日、逃亡)・・・・ハンガリー・ユダヤ人の大量殺害・・・到着したハンガリー・ユダヤ人の10%程度を収容所で受け入れ、残りは到着後直ちにガス室へ(vergast)そして焼却へ(eingeäscht)。
ヘース証言:ヒムラー命令にもとづき、証拠資料の焼却
大量殺害施設:ガス室建設の歴史
約20年前(1983年)のスタンダードな研究書
『ナチスの毒ガスによる大量殺害』
(Fischer Taschenbuchの出版Frankfurt am Main 1985)
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英訳
(Yale University
Press, New Haven and London, 1993)