上掲写真出所:HUMBOLDT-UNIVERSITÄT ZU BERLIN(大学公式HP:フンボルト大学より)
ベルリン大学(フンボルト大学)における講義
(ケルブレ教授の「1945年以降のヨーロッパ社会史―世界的比較の見地で―」の一こま)
私の今回の講義タイトルは、
「日本における新自由主義の潮流と大学改革」(レジュメ)
フンボルト大学正門(この写真は以前に写したもの)
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ケルブレ教授研究室は向かって左側3階、講義室も同じ3階の階段教室。
聴講者約100人。
ドイツ人学生の出席率が外国人学生の出席率より悪いので確実なことはいえないが、2-3割は外国人(イギリス人、フランス人、ポーランド人、ロシア人、日本人など)とのこと。
私の講義の時には、真正面最前列に二人の日本人(後で自己紹介があり確認)女子学生。一人は高校卒業後ロンドン大学留学中で、そこかれベルリン大学留学している人。もう一人は、早稲田大学国際教養学部の3年生で、ベルリン大学に留学中。
ケルブレのところにSFB研究でやってきているオランダ人教授も、聴講してくれて、質問もしてくれた。同じ傾向は、世界的なものではないか。その極端さにはていどのさがあるが、と。
聴講学生からは、新自由主義的大学改革に対し、「学生の反応はどうか。ドイツでは、ここベルリン大学でもかなり強い抗議の声が表面化しているが」といった質問、「教授たちは、どの程度改革に賛成しているのか」といった質問が出た。
新自由主義の荒波が日本における格差を大きく拡大したという説明に、驚く学生もいた。
授業料が日本では非常に高いことを説明したが、その点も、驚いているようだった。ドイツではいくつかの州で授業料が最近導入されたが(まだかなりの州では授業料ゼロ)、ベルリン大学の場合、年間500ユーロだということだった。1ユーロ=165円として、約8万円。
(ただ、消費税が、ドイツでは去年まで16%。今年から19%。日本では5%と税のあり方、財政負担のあり方がちがうので、単純な比較はできないがと、説明しておいた)
正門を入ったところ:玄関ホール。
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玄関ホールから2階に向かう階段。その中2階正面の壁面に、東ドイツ時代の名残:
有名な「フォイエルバッハ・テーゼ」(マルクス)のひとつが刻印されたのがそのまま維持されている。
10年前始めてケルブレ教授を訪ねたとき、このテーゼが壁に掲げられていることに驚いて、残されていますね、とたずねたら、19世紀の世界的学者としてのマルクスは、東ドイツ統治権力者ではなかったから、といった意味の説明を受けた。マルクスが19世紀の世界的思想家(19世紀半ば以降、死後も、20世紀後半に至るまで大きな思想的影響を世界に及ぼしたこと)であることは否定しようもない事実で、そのエピゴーネンや亜流、あるいはそれを看板に掲げただけの諸勢力・諸思想家たちとマルクス本人とは別物、というごく当たり前のことが確認できる。
(加藤周一の本だったかに「私はマルクス主義者ではない」とマルクスが言ったという話が書かれている。その発言をマルクスの原典に当たって確認したわけではないが、マルクスとそれを掲げる人々とは別だということを端的に表現する言葉として面白い。)
Die Philosophen haben die Welt
nur verschieden interpretiert,
es kommt aber darauf an,
sie zu verändern.
↓
「哲学者たちはこれまで世界をたださまざまに解釈してきただけだ。
だが、重要なことは、世界を変えることなのだ。」
現代ドイツは、東ドイツ時代のものは何でも破壊する、という一面的な姿勢ではないようである。
壁は破壊し、多くの建物を取り壊し、東ドイツ統治下の人権抑圧・民主主義抑圧に関してはいまだに回復措置を次々と講じている。今度の滞在中に話題となっていたのは、東ドイツ時代に半年以上投獄されていた人々に対する年金制度上の特別措置(補償措置)の導入であった。東ドイツ時代に苦労した人々のうち、数の上では多いのは投獄が半年以下のものが多く、投獄に至らない監視下の人々も多く、また、職業差別で就職できなかったという人々も多い。半年以上投獄された人々だけに補償することについては、不満も多いようだ。テレビでは、「かつての東ドイツの国家官僚などお偉いさんたちが今でもいい地位についている。われわれは東ドイツ時代に不遇だったが、現在でも不遇だ」という人が不満を語っていた。
大学本館正面(玄関ホール)を背に、ウンター・デン・リンデン通り、シュターツオ-パー(オペラ座)、ベルリン大学法学部などの建物を見る。
ベルリンには三つのオペラ座があり、ケルブレ先生の奥様の情報では、「ベルリンに三つも必要ないのではないか、財政負担が大変だ」、という声があり、各オペラ座の観客数などが市民と当局の関心の対象となっているということだった。それで、21日の夜、「高低ティートの慈悲」(モーツアルト)を見たと話したら、「どのくらいの入りでしたか」とたずねられた。「今季、最終回ということだったからか、満席でした」と話したら、ケルブレ夫妻がみた5月の時には、かなりの席が空いていたような話し振りだった。
背中が見える立像はヘルムホルツの像。
↓ ↓法学部(旧王立図書館・・・1933年5月、焚書)
↑Staatsoper ↑フンボルト像(弟or兄)
↓シュターツ・オーパー(Staatsoper) と
↓ヘルムホルツ像(背中・立像)。
↑フンボルト像
(Staatsoperの真向かいに、フンボルトの像・兄だったか弟だったかメモしてこなかった)
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ティアガルテン ライヒスターク・ブランデンブルク門からポツダム広場への途中に、石柱群:
ヨーロッパユダヤ人の悲劇を記念する石柱群(大小、高低のたくさんの石柱):2005年完成。
(この石柱、不ぞろいに少し傾いている。そんなものかと思い、変だとも感じた。2007年8月8日のドイツ語ニュースZDF070807:19:00を聞いていたら、「早くも亀裂が入っている石柱があり、修復が必要」、建設会社の責任・費用で12月までに修理する、と。傾きも修復されるのかどうか。なお、「見学者に危険はない」とのこと。))
この石柱群の下には、ユダヤ人の悲劇をたくさんの写真や手紙などで明らかにする歴史博物館。
今回初めて、入ってみた。
入り口で、日本語の案内パンフレットをもらった。
(旅行ガイドに日本語案内もあるとあったので、質問したら、出してくれた)
その展示物のカタログも購入。
ポツダム広場(後方、富士山の形の天蓋、DBの建物のあるところ)
ポツダム広場(Potsdamer Platz)のソニー・センター(富士山を模した天蓋-写真後方)。
ソニーセンターのなか・富士山を模した天蓋の下にある広場
そこのレストラン(Fosty)で。
真正面奥にあるビール醸造会社の店リンデンブロイ(Lindenbräu)の自家製ビール(Weißbier)がとてもおいしかった。
シュプレー川の遊覧船から見た国会議事堂(ライヒスターク)
(1933年2月末、国会は放火炎上、その後ドイツ統一で再び国会として利用されることになるまで、廃墟=遺跡)
ドイツ連邦文書館(ベルリン)
ヴァンゼー記念館―1942年1月20日にユダヤ人問題最終解決を議論した場所
展示は新しくなっていた。
新しい展示物カタログを購入。
ベルリンからアウシュヴィッツなどへユダヤ人が連行された集結駅の一つヴィッテンベルク・プラッツ駅:
その駅前の記念版(強制収容所名のリストがずらっと)
(付言すれば、このヴィッテンベルク駅のそばにあるベルリン(ドイツ最大)の百貨店カ・デ・ヴェ(「Kaufhaus des Westens西側の百貨店」の略)
最上階にある食堂は、セルフサービス形式なので、便利・安心・気楽(チップの心配などしなくていいので)。
記念版部分拡大
「恐怖の場所、われわれが決して忘れてはならない場所」
アウシュヴィッツ、・・・、マイダネク、トレブリンカ、テレージエンシュタット、
ブーヘンヴァルト、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ラーフェンスブリュック、
ベルゲンーベルゼン、・・・・・・、
ウィッテンベルク・プラッツ駅から(駅を背にして)、旧西ベルリン中心部・Zoologischer Garten駅方向、
KaDeWe(左手)、カイザー・ヴィルヘルム記念教会(後方、戦争記念②保存された「虫歯型」教会)をみたところ。
(「虫歯教会」は、広島の原爆ドームkと同じで、当時の破壊の様子を記憶にとどめるために、先頭部分の破壊をそのままにしている)
地下鉄駅ヴィッテンベルク・プラッツの駅舎
東ドイツ時代の名残といえば、市中央部南方には、ギャラリー化された壁が残されていた。
壁にはさまざまの絵が、描かれている。
ベルリンの壁、ということでは、ケルブレ教授の自宅に招待されて話していたとき、彼が、あの有名な1989年11月の写真、たくさんの市民が壁の上にあがって歓呼し踊っている場面の一つに写っているということだった。
その写真を見せてくれた。
小さな写真で、顔までは見えなかったが、彼のコートがはっきりわかる。拡大すれば、彼の顔もわかるだろう。
奥さんの話では、歴史家なのだから、現場を一度見てくるように、といって送り出したという。そのとき、家族は風邪を引いていたので一人で。
でも、奥さんは、家族がいるのだから、「危険なところには行かないように」、と頼んだという。
ところが、夫は、「壁の上に上っていたのですよ」、と。
学生には見せていたが、奥さんにはその写真をはじめて見せるような雰囲気であった。
「危険な場所に上っていたので、私には見せなかったのね」とは奥さんの言葉。
6月30日に招待されて訪れた「Onkel Toms Hütteアンクル・トムの小屋」駅のケルブレ教授のお宅
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庭には、大きな松のほかたくさんの木が植わっていた。奥様は、木苺、プラムなどを植えており、その熟した実をいくつか食べた。
ベルリンは、いたるところ、緑がいっぱいだが、とりわけ、西南地区のこのあたりは、緑の森や林、湖が多い。
ちょっと右手の道を行けば、水泳ができる湖だとのこと。
ケルブレ教授は、長い間、ベルリン自由大学の教授だったので、ベルリン自由大学の最寄り駅(Dahlem Dorf)から三つ目の駅のところに住居を構えたのであろう。
現在でも、ベルリン自由大学にある共同研究所で共同研究員で、セミナーなども主催している。25日にケルブレと、ダーレム駅そばの「カフェー・ルイーゼ」で講義の打ち合わせのために会ったとき、この後、ゲオルグ・イッガース教授の世界史に関する講演とセミナーがあり,自分が主催者なので行くのだ、と話していた。
そして、カフェでちょうど休憩にやってきたイッガース教授と出会い、挨拶を交わした。
イッガース教授の本は、日本でも10年以上前に翻訳されており、そのため、彼は、「日本にはいい友人がいる」といっていた。
奥様とも握手を交わし、挨拶した。
「ベルリンの壁」が「ここを」通っていた、と記念する銘板と連石
私が立っているのはかつての東ベルリン地区。
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「ベルリンの壁」跡
壁が道路を不自然に切断・分断していたことがわかる。
2006年完成のドイツ鉄道・ベルリン中央駅
(完成したばかりであり、内部は、最新式で機能的で無駄がなくモダンなイメージ。かつての宇宙船・宇宙基地のイメージに重なる)
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ドレスデン
ベルリン南方ザクセン州(かつてのザクセン王国)の州都ドレスデンは、1945年2月に壊滅的な空襲(80%破壊とか)を受けた。
現在では、世界遺産に登録されるまでにきれいな町として復活している。
ベルリン・テーゲル空港からゲステハウスに向かうとき、かぐわしい香りが非常に印象的だった。ここドレスデンでも、駅から町中心部のホテルまでのタクシーで走行中、同じかぐわしい強い香りがした。それで、「この香りは何か」とタクシー運転手に尋ねた。
「リンデンバウムだ」(菩提樹)と。
長期滞在も3回経験しているが、はじめてベルリンとドレスデンで、菩提樹の花の香りがこんなにも個性的で強烈なことを知った。
今回のドイツ出張の耳ならしに、春休みにドイツ民謡集、シューベルト歌曲集などを買い求め、「菩提樹」の歌(シューベルト作曲、ドイツ語のタイトルAm Brunnen vor dem Tor)も、mp3で聞いていたのだが、このベルリンとドレスデンの体験で、始めてこの歌と菩提樹とが強く結びついた。今回の最も印象的な経験の一つとなった。
町の中心だったフラウエンン教会(Frauenkirche)も、ドレスデン空襲で徹底的に破壊されていたが、
東西ドイツ統一後、再建が始まり、2006年に完成した。その教会の周辺は、建設ラッシュ。
フラウエン教会の壁面には、黒い色のもともとの壁面の一部が、再利用されてはめ込まれている。
(ホテルの部屋から撮影)
記憶の喪失、風化に抗して、歴史の悲劇を刻み込む!
新しい建築は、悲劇を包み込み乗り越えたことの象徴でもある。
再建に使いうる古い石がいかに少なかったかは、写真が示すとおり。
多くの石が爆撃で木っ端微塵となり、また長年の風雪にさらされたのだから、当然であろう。
↑ルター像
この写真のフラウエン協会の左側側面には、かつての古い黒色の壁面がかなり残っている。
教会前の黒色の銅像は、宗教改革の主導者マルティン・ルターである。
ザクセン王の宮殿(ツヴィンガー宮殿)にある美術館
その一郭にある美術館AlteMeister(アルテ・マイスター)
ゼンパー・オーパー外観
ゼンパー・オーパー内部(観劇をしなくても、見学ツアーが可能)
ゼンパー・オーパー天井
天井の部分拡大
エルベ川沿いのテラスに近い王宮(Reesidenz)および
「王の行列」(マイセン製磁器のタイル張り)
-----------宿泊先:ベルリン大学客員教授用ゲステハウス--------------------
ゲステハウス(Gästehaus)
大学本部まで7分ほど。
通りを少しいくと、オラーニエンブルガー・シュトラーセ(そこにはベルリンの巨大なシナゴーグがある。新しい現象として、インド料理店がたくさん開店していた)
ベルリン滞在中の宿舎は、旧東ドイツ時代に建設された客員教授用の宿舎ゲステハウス
(1996年夏休みに一度2週間ほど、翻訳の打ち合わせと史料調査のため滞在した際、ケルブレ教授の世話で、今回と同様、ここに宿を取った)
ゲステハウス(部屋214の居間)
(テレビ、肘掛け椅子、書棚など、天井には古いタイプの扇風機)
洗面所・シャワー(Dusche)