ベルリンの壁

I

 

プロローグ

ベルリンの壁 ベルリンのかべ Berlin Wall 1961年に建設が開始され、89年まで存続した東西ベルリンをへだてた壁。冷戦の象徴であった。

2次世界大戦後、敗戦国ドイツは社会主義圏に属するドイツ民主共和国(東ドイツ)と自由主義陣営に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)に分断された。東ドイツの中央に位置するベルリンは東西の2つにわけられ、東ベルリンは東ドイツの首都に、西ベルリンは事実上、西ドイツの飛び地となった。東ドイツは、ソ連を中心とする社会主義陣営の中でもっとも工業化がすすんだ国として位置づけられ、それなりの繁栄を保証された。一方、西ドイツはアメリカを中心とする経済援助をうけ、驚異的な経済復興をとげていった。西ベルリンは資本主義のショーウィンドーとよばれるほどに、高い生活水準をほこるようになった。

II

 

ベルリンに長い壁が出現

東西ドイツの経済格差は、東ドイツ国民を西ドイツへの移住へとむかわせた。工場における労働ノルマの引き上げと、進行しつつある農業集団化が、それに拍車をかけた。1949年に東西ドイツが建国されてから61年の壁の建設までに、移住者数は270万人にのぼっている。その半数は、往来規制の比較的緩やかな東西ベルリン間の国境線をこえた人々だった。労働人口の減少は、東ドイツ経済をおびやかし、ウルブリヒトを最高指導者とする東ドイツの政治指導者たちにとっては国家存亡の危機とうつった。

1961813日午前0時、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界線を突然鉄条網で封鎖し、すぐさまコンクリートの壁を建設した。ホーネッカーが壁建設の責任者だった。高さ4m、総延長166kmの壁がつくられた。45kmが東西ベルリンをへだてる境界で、残りは西ベルリンをかこむ境界となった。壁に接する建物の窓は煉瓦(れんが)でふさがれ、壁は以後28年にわたって東西ドイツ市民を隔離した。

西ドイツへの出国はきびしく規制され、離れ離れになった肉親があうこともむずかしく、壁をのりこえて西ベルリンに脱出しようとした人々は、東ドイツ警備兵に射殺された。壁をこえようとして死亡した人数は80人をこえる。

III

 

壁の崩壊と東西ドイツの統一

1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、改革路線を推進したことは、東欧社会主義諸国に大きな影響をあたえた。改革にあくまでも反対する東ドイツ政府の態度は、東ドイツ市民を失望させた。しかし895月、ハンガリーがオーストリアとの国境の鉄条網を撤去し、東ドイツ市民はハンガリーとオーストリアを経由して西ドイツに移住することが可能となった。そして7月下旬からの2カ月のうちに5万人が国外逃亡した。

これをおしとどめようとする政府の措置に反対して、東ドイツ各地で市民の大規模なデモがおこなわれ、19891018日、国家評議会議長ホーネッカーは退陣し、クレンツ政権が発足した。この間にもポーランド、チェコスロバキアがハンガリーと同様の措置をとり、ベルリンの壁は存在意義をうしないつつあった。

1989119日、東ドイツ政府は東西ベルリン間の交通を開放した。たちまちのうちに壁はとりこわされた。そして、9010月、東西ドイツは統一された。ベルリンの壁の崩壊は、東ドイツだけでなく、ソ連や東欧の社会主義体制の崩壊の幕開けとなった。

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