ニュルンベルク裁判

 

 

戦争犯罪

I

 

プロローグ

戦争犯罪 せんそうはんざい 戦争犯罪の概念には、古くから慣習国際法でみとめられていた狭義の意味と、2次世界大戦末期からいわれだした広義の意味2種類がある。

II

 

狭義の戦争犯罪

狭義の戦争犯罪は、日本では伝統的に「戦時犯罪」「戦時重罪」などとよばれてきたもので、「通常の戦争犯罪」ともいわれる。これはおもに従来の戦時法規に違反する犯罪で、その種類は、軍隊構成員による交戦法規違反(禁止兵器の使用、捕虜虐待など)、文民による武力敵対行為( ゲリラ)、スパイ活動、戦時反逆などにわけられる。これらの行為をした者も、命じた者も、交戦国にとらえられたとき処罰される。

2次世界大戦直後の連合国による大規模な戦争犯罪裁判が交戦法規違反を処罰したことをふまえ、1949年ジュネーブ諸条約はその定義する重大な違反行為について普遍的処罰制度をさだめ、さらに77年ジュネーブ諸条約第1追加議定書は重大な違反行為を戦争犯罪とみなす規定をおいた。

III

 

広義の戦争犯罪

広義の戦争犯罪は、第2次世界大戦後ニュルンベルクと東京( 東京裁判)において、連合国側がおこなった国際軍事裁判で処罰の対象とされた類型である。すなわち(1)平和に対する罪、(2)(通例の)戦争犯罪、(3)人道に対する罪、からなるが、このうち(1)(3)は両裁判ではじめて戦争犯罪とみとめられることになった新しい型の犯罪である。また(2)は狭義の戦争犯罪に属するが、戦争の法規慣例の違反と定義されるため、スパイ罪や戦時反逆のように国際法に違反していないものはのぞかれる。

国連は、ニュルンベルク裁判で承認された国際法規則を確認し、さらに、上記(1)(3)の犯罪は国際法上の犯罪であって、この犯罪についてたとえ国内法が処罰を規定していなくても犯人は国際法上直接に刑事責任を追及され、犯人は国家元首や公務員のような国家機関であるか私人であるかを問わず、処罰されるべきことなどを内容とする国際法原則の定式化をおこなった。また、通例の戦争犯罪と人道に対する罪については時効は存在しないとする「戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用に関する条約」が1968年に成立した。

IV

 

裁判機関

裁判機関としては、19987月に国際刑事裁判所設立条約が成立し、20024月に批准国数が発効要件をみたしたことにより、71日に同条約が発効した。この裁判所は管轄権が国家に制限されている国際司法裁判所とことなり、個人を起訴する権限をもつうえに、その管轄権は時期および地域についての制限をうけない。

またそれ以前の19935月に、国連の安全保障理事会決議が国連憲章第7章にもとづいて設立を決定した国際裁判所(旧ユーゴ国際刑事裁判所)は、旧ユーゴスラビアでおこなわれた国際人道法の重大な違反を処罰するための裁判所であり、49年ジュネーブ諸条約の重大な違反行為、戦争の法規慣例の違反、ジェノサイドおよび人道に対する罪を管轄対象としている。これは、国連において戦争犯罪に対する個人の刑事責任を追及するために設立された最初の国際裁判所であった。

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 ニュルンベルク‐さいばん【―裁判】

第二次大戦の結果、国際軍事裁判所がニュルンベルク法廷でドイツの主要戦争犯罪人22に対して行なった裁判。

19469月判決、有罪者19名、うち12名が絞首刑、3名が終身刑。[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

 

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 東京裁判

東京裁判

I

 

プロローグ

東京裁判 とうきょうさいばん 2次世界大戦で勝利した連合国が、敗戦国である日本の政治・軍事指導者の戦争責任をさばいた裁判。正式名称は極東国際軍事裁判(International Military Tribunal for the Far East)。東京の市谷旧陸軍士官学校大講堂を法廷にしたので、東京裁判と通称される。

II

 

戦争指導者への責任追及

連合国はポツダム宣言にもとづき、ナチス・ドイツ( ナチズム)の戦争指導者をさばいたニュルンベルク裁判にならい、連合国最高司令官の命令下で東京裁判をおこなった。問われた戦争犯罪は、従来の国際法による通例の戦争犯罪(B)だけでなく、侵略戦争の計画・開始・遂行など平和に対する罪(A)と、非人道的行為など人道に対する罪(C)で、A級に問われた主要戦犯が東京でさばかれ、その他のBC級戦犯は連合国各国の法廷でさばかれた。

裁判官は連合国12カ国から任命された11(裁判長はオーストラリアのウェッブ)、検事団はアメリカのキーナンが首席検事をつとめた。1928年の張作霖爆殺事件から敗戦までが訴追対象とされ、被告は日米開戦時の首相東条英機など28で、巣鴨拘置所に留置された。弁護には日米の50名があたった。

III

 

判決の内容

裁判は、1946(昭和21)53日にはじまり、417日の開廷で419人の証人をしらべ、481112日に判決の言い渡しがおわった。判決内容は、公判中に死亡・免訴となった3名をのぞいて全員有罪。絞首刑は、東条英機、土肥原賢二(元陸軍大将、満州事変の企画実行に参加)広田弘毅(元首相、南京虐殺の外交責任)、板垣征四郎(元陸軍大将、満州事変の実行)、木村兵太郎(元陸軍大将、ビルマ方面軍司令官)松井石根(元陸軍大将、南京虐殺時の中支那方面軍司令官)、武藤章(元陸軍中将、参謀本部作戦課長時に日中戦争拡大を計画)7名、その他は終身禁固刑16名、禁固刑2名。絞首刑は同年1223日に執行された。

IV

 

裁判の問題点

東京裁判は国内外で多くの問題を提起した。同じ植民地主義を実行しながら戦勝国だけがさばけるのかという根本的な問題、また戦後に制定された平和に対する罪や人道に対する罪で、それ以前の行為をさばくことができるかなどの法的問題も提出された。占領を円滑におこなうためという政治的理由から天皇の戦争責任を免責するという問題ものこした。戦争への共同謀議についても見解がわかれ、インドのパル判事は全員無罪の少数意見をだしている。

多くの日本人は、中国への侵略戦争、南京虐殺、日米開戦のいきさつなどをはじめて知ることになった。敗戦の痛手の中で生活におわれる日本人は、独自の立場からの戦争責任の追及はできず、連合国の裁判をうけいれるだけだった。

この裁判でしめされた歴史観は、その後の日本人の平均的な歴史観となったが、それに反対し戦争をアジア解放のためだったとする民族派の見方も、占領終了後ひきつづきのこることになる。自力で戦争責任を追及しなかったことによる課題も多く、捕虜虐待の罪に問われたBC級戦犯では、旧植民地の朝鮮・台湾出身の末端の軍関係者が責任をとらされる弊害も生み、のちの戦後補償要求の根をのこした。

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-------ニュルンベルク裁判・公式記録の第一巻冒頭---------------- 

Der Prozeß gegen die

Hauptkriegsverbrecher

vor dem

Internationalen Militärgerichtshof

Nürnberg

 

14. November 1945 - 1. Oktober 1946

 

 

 

 

 

 

 

Amtlicher Wortlaut in deutscher Sprache

[Der Nürnberger Prozeß: Der Nürnberger Prozess, S. 212]

 

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