オスマン帝国
(山川・世界史小辞典より)
建国者はオスマン一世。
オスマン一世・・・1258頃〜1326(在位1299〜1326).
オスマン朝の初代君主。
アナトリア西部辺境の小君候であったが、ガージー(イスラーム戦士)集団を率いて隣接するビザンツ帝国の城塞を次々と奪取し、舅であったアヒー(宗教結社)の長老との結びつきを背景に、勢力を拡大した。
アナトリア西北部から台頭。
1326年ブルサを占領して都とし、ビザンツ勢力をアナトリアから駆逐した。
1353年頃、バルカンに進出し、14世紀末にはほぼ征服を完了。エディルネに遷都した。。
バヤジット一世のとき、アンカラの戦いで、ティムール軍に敗れ、一時後退するが、すぐに復興を果たした。
1453年、メフメト2世はビザンツ帝国を滅ぼして、コンスタンチノープル(イスタンブル)を首都とした。
1517年、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを手に入れ、メッカ、メディナの保護者となり、名実ともにスンナ派イスラーム世界の盟主となった。
16世紀中葉、スレイマン一世の治下で最盛期を迎え、その版図は、北はロシア南辺、南はサハラ砂漠、西はハンガリー、東はイラクに及び、さらに、黒海、エーゲ海と地中海の制海権を握ったが、
17世紀には拡大がやみ、西欧との力関係が逆転、体制の老朽化により衰退に向かう。
18世紀に入ると、ロシアの南下に苦しみ、領土は縮小し続けた。
18世紀後半以後、セリム3世、マフムト2世は西欧の技術を導入するなど一連の改革を試みるものの成果はすぐに得られず、被支配民族の反乱もあいついだ。
タンジマート期(1839〜76)には、近代化のための諸改革が行われ、一時立憲制も実現するが、すぐに専制体制に戻り、財政の破綻から、列強の経済的植民地と化す。
1908年青年トルコ人革命によって、立憲制が復活するが、親独政策の結果、第一次大戦に敗れ、滅んだ。