補足説明メモ




   1941年4月日ソ中立条約・・・独ソ不可侵条約を信じた松岡外相、
         巨大帝国ドイツと巨大国家ソ連と組んで、米英に対決する、との構想

   ソ連は、西方で、ドイツとは独ソ不可侵条約を結び、
        他方、極東で日本と戦争になることを回避する政策。

   しかし、ドイツは、すでに1940年12月にバルバロッサ指令
        (1941年5月15日までに、対英戦争継続中でも、ソ連を短期に蹂躙せよ)で、対ソ攻撃準備にまい進。

   1941年6月22日、ドイツの対ソ奇襲攻撃開始。急激なドイツ占領地の拡大。
  

   日本の思惑・・・・ドイツが占領したフランスやオランダの植民地を手に入れよう
           ・・・資源豊富な仏領インドシナ、オランダ領インドネシア等への支配拡大=南進政策

              南北二正面の戦いを避けるためには、ソ連と中立条約を締結。

              中国大陸での泥沼の戦線拡大のなかで。


   1941年7月2日御前会議・・・天皇臨席の国家最高の政策決定
                  ・・・南進政策の実行

          仏領インドシナへの進駐・・・・米英との対決が先鋭化。

         アメリカの対日封鎖戦略

         日米の対決の激化

         日本の米英との戦争への道が次第に明確化する状況
             ・・・・41年9月から3か月かけて、シベリア軍団をモスクワ戦線へ。 




      先走りして、1945年のヤルタ会談(米英ソ)で、米英の求めに応じて
             スターリンは、日ソ中立条約を破って、満州で日本軍を攻撃することを約束。
             「ドイツ降伏後、3か月で、ソ連は対日参戦をする」と。

             大きな軍隊(30個師団の人員と武器・食糧など必要物資のすべて)を移動させるには、
             シベリア鉄道で、3か月はかかる。




  ホロコーストは、日本の真珠湾攻撃に伴うヒトラーの対米宣戦布告、
             世界戦争への突入で本格的に全ヨーロッパのユダヤ人が対象となる。

      1941年12月8日(現地時間7日)までは、 ヨーロッパ戦争とアジア太平洋戦争とは別に進行。

      1942年1月20日 ヴァンゼー会議開催;議題「ヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終解決」


      1942年末までにどのくらいの数のユダヤ人が、移送(疎開)の名目のもとに、絶滅収容所(ラインハルト作戦)に送り込まれ、殺害されたか?

        拙稿「ユダヤ人移送(疎開)と特別処理(ゾンダーベハンドルング)」