上掲の『独ソ戦とホロコースト』(日本経済評論社、2001年)のもとになる一連の論文原稿を執筆。
これら一連の論文をまとめて出版するための科研費出版助成の申請は、2回目で採択された。
連邦文書館で必死になって一次史料に没頭しながら書き溜めた原稿に手を入れつつ、順次、1993年秋から『経済学季報(立正大学)』に掲載し始めた。
それから、本になるまでに約8年かかったことになる。
1996年4月から横浜市立大学に移ったので、立正大学時代の研究成果を基礎にして新しい職場に移ってから、かなりの時間・労力をかけて書物に纏め上げたわけである。
(経済学研究科に博士課程が新設されるという関係で公募があり、新しい環境での刺激を求めて移籍した。博士課程は実際に97年4月に新設された。しかし、2年ほど前からの「改革」の嵐で結局04年度で、市大では経済学研究科そのものが廃止となった。2005年度からは大学院では国際総合科学研究科国際文化専攻でヨーロッパ社会論関係の研究指導を行うことになる)。
(90年当時の台座)
エーレンブライトシュタイン城から、ライン川(手前)とモーゼル川の合流点(コブレンツ)をみる。
上の写真は、騎馬像が再設置される前のものであり、その意味で記念すべきもの。
(1990年当時の合流点周辺は、1990年夏の旅行ファイル参照)
合流点には、1993年9月末に、ヴィルヘルム一世の騎馬像が再度、建造され設置された。
この写真はその設置直後、渡辺尚氏(当時、京都大学教授、現在は東京経済大学教授)とエーレンブライトシュタイン城に上ったとき撮影。
(エーレンブライトシュタイン城を背に、渡辺尚教授)
(騎馬像は、第二次大戦末期に、ドイツ軍国主義・膨張主義の象徴として、連合国の空襲により破壊された。その後、93年まで再建されなかった。再建に当たっても過去が問題となり、論争となった。しかし、ドイツ軍国主義の亡霊が影のようにかすんでしまったということか、EU統合の推進役としてのドイツに対する信頼の厚さからか、騎馬像は再建され、93年9月末、台座に載せられた。ヴィルヘルム一世の騎馬像は、普仏戦争に勝利して凱旋するベルリンの方角を向いている。)
(エーレンブライトシュタイン城にはユースホステルがある。写真の左手方向に歩いていくと門がある。)
(コブレンツ市中心部、後方の丘がカルトハウゼ:連邦文書館のある丘)
(エーレンブライトシュタイン城からライン下流方向を見る)
カルトハウゼの麓(中央駅近く)からエーレンブライトシュタイン城を見る
(マイクロフィルム・リーダー個室・キャビンKabine)
(近くの学校の校庭用具への落書き:
一方に、ネオナチ:「身を守れ、防衛せよ、 親衛隊」(SCHUTZET, WEHRET EUCH, SS)、
他方に、民主主義派:「ナチス、出て行け」)(NAZIS RAUS)
(下宿の居間)
(近くの公園、モーゼル川を見下ろしながら散歩する遊歩道・
パノラマヴェークにある)
(コブレンツのライオン門:ナポレオン戦争の勝利記念:同盟者ロシア皇帝アレクサンドル1世を称える)
レムシュテッケンの山の中には、
途中の山道から見下ろしたモーゼル川と対岸の風景
(レムシュテッケンの山に登る途中の山道からモーゼル川を見る)
(エーレンブライトシュタイン城から見る)
BAKoblenz93-03-10連邦文書館調査―その夏休み