1990年夏期のヨーロッパ旅行




安い飛行機ということでアエロフロート利用
(90−07−30)

旅程
 1990年7月末ー8月末 フランクフルト→ベルリン→ミュンヘン→チェコスロヴァキア(ズデーテン地方→プラハ→ピルゼン)→ミュンヘン


旅の目的

 @ドイツ統一直前、すなわち、90年6月の通貨統合を受けて、まず経済的統合が進展し、90年10月の政治的統一に向けて進展中の激動のドイツをこの目で見ておくこと、
 
実際には、「痛い目」にあった。激変の痛み、を私も感じとらざるを得なかった

すなわち、東西ベルリンの通行が自由化すると同時に、通貨統一であらたなドイツマルクを手にする人々は、コインの小さな傷や紙幣の破れなどにも神経を尖らしていた。
 ペルガモン博物館の入場券購入の際、ちょっと破れている10マルク紙幣を出すと、じっくり裏表を見てから、受け取ってもらえなかった。別の紙幣を出した。

 それよりなにより、ペルガモン博物館を見た後、別の場所に移動するために、フリードリヒシュトラーセからS-Bahn(エス・バーン)に乗ったが、そこでスリの被害にあった。
 切符を買う時、「すりにご注意」との掲示が目に留まった。しかし、あまり気にせず、切符を買って紙幣を出し入れした財布をズボンの後ろポケットに無造作に入れてしまった。日本ならふつうにやっていることである。

 後から考えると、それをすりの集団は見逃さなかったようである。

 電車に乗り込むと入口付近でものすごく込み合った。ぎゅうぎゅうづめとなった。
 両手はビデオカメラと旅行荷物などでふさがっていて身動きできない状態となった。多分、スリの集団が私を取り囲んだのであろう。右前には背の高い腕の太い男がいた。左前には、老年(60歳くらいか)の女性もいた(後で思うと、スリの仲間だったのだろう、いや彼女も集団に巻き込まれたのかもしれない)から、なおさら動くことができない。

 後ろポケットに何かを感じてはっとしたときには次の駅の停車の瞬間であった。ドアが開き身動きできる瞬間に後ろポケットに手をやったら、財布がなくなっていた。中身は250マルクほどだったと記憶する。当時は円が強かったので、被害はせいぜい2万円程度だったかと思う。
 気分が悪く、警察(鉄道警察)にはホテルの名前など届け出た。もちろん、財布もお金もかえってはこなかった。鉄道警察の人には、「財布は前のポケットに入れてしっかり手で押さえておくように」、などと身振りまでして注意されてしまった。

 A「平和的な」東西ドイツの統一を可能にした条件を考えて見ること、

 Bそれと関連して、第二次大戦後のズデーテン・ドイツ人の追放問題・難民問題のため史料調査(ミュンヘン現代史研究所、ズデーテン文書館)と現地調査を行うこと。
 いったいズデーテン地方とはどういうところか、いまどうなっているか、と。

 このたびの現地調査と史料館調査などの研究成果は、業績リストの著書No.8遠藤輝明編『地域と国家』所収論文など。



 最近も南ズデーテン地方チェルスキー・クルムロフの町のことがNHKで放送されていたが、ズデーテン地方のドイツ系住民が圧倒的だったまちまちは、第二次大戦終末段階、敗戦時・敗戦直後のドイツ人追放で空っぽになった。 そのいくつかに東から来たチェコ人などが住みついた。しかし,、追放された人々の数だけやってきたわけではない。多くは空き家状態となった。

 いちいちの家を確かめることはできなかったが、車で走っているかぎり、90年夏、当時でも、空き家と思われる家が目に付いた。
 300万人から300数十万人のズデーテンドイツ人を追放した後に、同じ数だけのチェコ人が入らないかぎり、当然のことではある。


フランクフルト

   

  
      (フランクフルト・ゲーテ生誕の地)

ベルリン
   
(90年夏は、ブランデンブルク門が修復中で、みることができなかった)
   
(ベルリンの壁も、通行自由な状態であるが、残っていた−ブランデンブルク門のそば)
 

ペルガモン博物館

  
 (90年8月2日、ペルガモン博物館)            (ペルガモンの壁面タイル装飾の大きさ・壮麗さ)

  
        
博物館島のその他の美術館
   

     

 
ベルリン→ニュルンベルク(当初はワイマールを予定したが、疲れと乗り換えの面倒さ、まだワイマールは東ドイツだったことなどから、取りやめにして直ちにニュルンベルクに向かった。)



ニュルンベルク
8月4日
 
  (Marktlpatz市場)
  

  (ハンス・ザックス像)



ミュンヘンではフリッチュ教授の家を借りる
Prof.Fritschはフェーリエン(長期休暇)でギリシャへ:そのあいたところを借りた(90年8月5日から)
フリッチュ教授は理論物理学専攻で、書物もいただいたが、彼の啓蒙的な著書は日本でも翻訳されている。
       
フリッチュ教授の一家と庭で。  屋敷の入口。      家の玄関。            居間。
(屋敷の広さは確か500u、庭も広く、卓球台があり、楽しめた)
(週一回の芝生の刈り取りは私たちの仕事となった)


 フリッチュ教授の隣人は、私たちがいる間のことをフリッチュさんに頼まれていたようで、子供たちが一緒に遊び、最後にはお茶に招待されえた。
    



  
(8月8日)ミュンヘン工科大学オームOhm像、ニュンフェンブルク城と幼稚園



ズデーテン地方を経由してプラハへの自動車旅行

(オペルのライトバンのレンタカーでチェコに向かう) 
 
 ズデーテン地方の主要都市カールスバッド(カルロビバリ)で一泊(「ホテル・モスクワ」・・・予約してなかったのでホテル探しは困難を極めた。一度この確か5つ星のホテルにも断られたが、小さな子供もいると再度フロントで交渉し、なんとか、通常使わない部屋にとまることになった。部屋でほっと一息ついたのは9時過ぎだったと記憶)。
 
                  モルダウ川、プラハ城

 
  後方にヤン・フスの像。プラハ市庁舎前の広場
   
                     フス像のある広場の別の角度
   

 
(プラハでは、まだ旧体制でもあり、ホテル予約もうまくいかないと、
ボーフム時代に知り合ったドイツ人ぺトラさんの義理の妹の住宅を借りた)




プラハ→ピルゼン→ドイツ(レーゲンスブルク)
レーゲンスブルク
 ドナウ川沿いの町、オーストリア国境に近い町。

  

 


ドイツ国内各地の旅行

ローテンブルク・オプ・デア・タウバー
     
ドイツ国内旅行は別のレンタカーで。まずは、ローテンブルク。
 
   

  



コブレンツ
Ko=Co=合
Blenz=流れ

              
ライン(手前)とモーゼル(向こう側)の合流点  (第二次大戦末期破壊されたヴィルヘルム一世騎馬像の台座)


 
 (合流点のモーゼル川)        (モーゼル上流方向)
       
          (合流点のライン川)



    (合流点近くで船上から見上げた対岸のエーレンブライトシュタイン城)

   (遊覧船から見たエーレンブライトシュタイン城。合流点より少し上流地点)


 (ライン川遊覧船、ライン・モーゼル遊覧船の乗り場、後方の対岸にエーレンブライトシュタイン城)


cf.エーレンブライトシュタイン城から見た合流点の全景



ミュンヘン中心部

  
                 (ミュンヘンのホーフブロイハウス)


 (王宮レジデンツとオペラハウスNational Theater:ミュンヘン) 

  


    
 (ミュンヘン老舗百貨店ローデンフライとバイエルン連合銀行)


     
             (ミュンヘン新市庁舎・からくり時計、マリーエンプラッツ)

   
(マリーエンプラッツ・パサージュ)