ズデーテン問題
−チェコスロヴァキア共和国内部のドイツ系少数民族問題・国境問題・帰属問題−

以下の地図・統計の出所:拙稿「地域・民族・国家−両大戦間のズデーテン問題−」遠藤輝明編『地域と国家』日本経済評論社、1992年。


1938年3月オーストリア合併(民族自決・ドイツ人の統合国家、オーストリアの独立派自立派勢力の抑圧)
       →ドイツ民族主義・ナショナリズムの高揚
       →国民および周辺地域への刺激
       →国境を接したズデーテン・ドイツ人地域への波及


  


1938年8月ミュンヘン危機→ミュンヘン会談協定(1938年9月20日)「チェコスロヴァキア共和国解体)




 上の統計が示すように、1918年に成立したばかりのチェコスロヴァキア共和国は、国境を接する周辺諸国から領土を削り取られることになり、ドイツからズデーテンを、ポーランドハンガリーから一部地域に割譲させられて、解体されることになった。



チェコスロヴァキア共和国の国民経済の動向



チェコスロヴァキアの国別貿易関係の推移

   世界経済が相対的に安定した時には、ドイツとの経済関係(貿易関係)は順調に増大していた。
 しかし、世界恐慌を経て、1937年までに、非常に貿易関係は縮小してしまった。





  そうした世界恐慌の影響は、当然にも工業製品の輸出入に大きく影響し、失業者を増やす。
  失業者の増大は、世界経済との関連、ドイツ経済との関連の切断(縮小)に原因があった。

 しかし、民族主義・ナショナリズムの過激化の中では、失業の高い割合は、チェコスロヴァキア政府の民族主義的な政策の責任とされる。

  ズデーテンドイツ人にドイツ・ナショナリズムの火(排外的対立的ナショナリズム=大ドイツ主義ナショナリズム=ナチズム)が燃え上がる。
  チェコスロヴァキアから分離したい、ドイツと一緒になりたい・・・