2002年5月31日経済史A講義メモ
労働の生産力の発達:
必要労働と剰余労働とは何か?
必要生産物と剰余生産物とは何か?
その普遍的意味と時代ごと、生産様式ごとの相違
重農学派-(école physiocratique)[1]・・・「資本の最初の体系的な通訳」、
「剰余価値一般の性質を分析」[2]
彼らの時代では地代分析と一致(資本主義的発展が未成熟で、利潤、したがって利潤概念が未成熟)・・・地代こそは、剰余価値が彼らにとって存在する唯一の形態だった。
重農学派の正しい点・・・剰余価値の生産、したがってまた資本の発展が、自然的基礎から見れば、事実上すべて農業労働の生産性にもとづくことを発見・定式化。
「もし人間が一般に、一労働日に各労働者が彼自身の再生産に必要とするよりも多くの生活手段を、したがって最狭義においてより多くの農業生産物を、生産する能力がないならば、すなわち、各労働者の前労働力の支出が、彼の個人的必要に不可欠な生活手段を調達するに足りるだけならば、一般に剰余生産物も剰余価値も問題になりえないであろう。労働者の個人的欲望を越える農業労働の生産性は、あらゆる社会の基礎であり、またなかんずく資本主義的生 産の基礎である。というのは、資本主義的生産は、社会のたえず増大する一部分を直接的生活手段の生産から解放して、これをスチュアートの言うように手のすいた人free handsに転化し、他の諸部面における利用に充当されうるようにするものだからである。[3]」
働く人の個人的欲望を越える労働の生産性と剰余労働はこそは、人間の発達史の結果であり、長い時間かけて形成されてきたものである。まずは農業労働、食糧確保の労働が大前提としてあり、その命の根源としての食糧生産の確保の上で、多様な生産物の生産に労働が振り向けられる,という大局的な歴史の流れ。
剰余労働の生産物の多様性・・・必要労働の生産物の多様性・・・過去の諸社会から現代の諸社会に至るまで、生産力の発達にともなう多様性
中世などの自然経済(現物経済)においても、剰余労働は農業生産物(農業労働の産物)以外の多様な生産物からなっていた[4]。
封建時代の必要労働と剰余労働の形態とは?
土地所有=主要生産手段の所有と剰余労働の取得
労働地代
生産物地代(現物地代)
貨幣地代
1.労働地代[5]・・・・古典荘園時代
直接生産者が週の一部分は、事実的または法律的に彼に属する労働用具(犂、家畜など)をもって、事実上彼に属する土地を耕作し、週の他の日は領主の農地で、領主のために無償で労働する
ここでは地代(=土地所有者としての領主が取得)と剰余価値とが同じ。
ここで、働くもの、すなわち労働者(農民、身分的不自由を加味すれば農奴、自営的農奴self-sustaining serf)が、彼の不可欠の生存手段を超える超過分を、すなわち、資本主義的生産様式においてならばわれわれが労働賃金と呼ぶであろうものを超える超過分を、どの程度まで獲得しうるか、このことは他の事情が不変ならば、他の事情が不変ならば、彼の労働時間が彼自身のための労働時間と領主のための賦役の労働時間(=労働地代部分)とに分かれる比率にかかっている。したがって、最低必要生存手段を超えるこの超過分、資本主義的生産様式において利潤として現われるこのの萌芽であるこの超過分は、まったくただ地代の高さによって規定されている。
賦役民は、彼の生計のほかに彼の労働条件をも補填・・・労働条件の補填も、すべての生産様式を通じて変わることのない一事情=すべての連続的で再生産的な労働一般の自然条件
直接生産者・・・彼自身の生活手段の生産に必要な生産手段および労働条件の「占有者」、
彼は農耕と共に、それと結合された農村家内工業をも営む。
所有者は領主・・・所有者は、直接的に直接生産者を支配。直接生産者はこれに隷属。
直接生産者は、土地の付属物として土地に縛り付けられている・・・人的従属、人的非自由
領主のための労働=剰余労働=時間的空間的に必要労働と分離
農民的余剰の潜在的可能性(労働の生産力の上昇)とその実現・蓄積の可能性
伝統社会・・・伝統が社会秩序とその維持において重要で優勢な役割
社会の支配者・・・現存するものを法律として神聖化すること、そして慣習と伝統とによって与えられたその制限を法的制限として固定させる。
規律と秩序・・・これまたあらゆる生産様式の不可欠な契機・・・慣習と伝統の明文化=明文的法律
賦役・・・慣習法または成文法によって、法的に規制された不変的多いさ
直接生産者自身が自由に処分し得る自余の週日の生産性・・・・可変的多いさ・・・経験の進展=生産能力・労働能力の進展により増大、彼が知る新たな諸欲望と同じように、彼の労働力のこの部分を自由に処理しうる保証の増大とまったく同じように、彼を刺激して労働力の緊張を高める・・・農村家内工業の発展
2.生産物地代・・・全労働時間を直接生産者(農民)が自由に。賦役は一時的、部分的なものに減少。
彼自身に属する超過労働をなすべき時間をうるためのより大きな余地。
蓄積の可能性・・・他人を雇う可能性・・・初発的賃労働の可能性さえ。
3.貨幣地代・・・農村における市場関係の転化と農産物の貨幣への転化の可能性
近代的資本(近代に独自の資本)と前期的資本
「近代に独自の資本」の重要な要素は何か? 大塚テキスト6−7ページ、22-23ページ
生産手段?
生産主体?
前期的資本とは何か? 大塚テキスト、71−74ページ。
商業資本・商人資本
金貸し・高利貸し資本
なぜ「前期的」か?
寄生的性格
遠隔地間取引
異なった諸社会、分断され情報のない諸社会、交通情報システムの発達段階
資本の前提=商品と貨幣
商品・貨幣発生の基礎・前提
生産力の発達=分業の原理と分業発展の諸段階(詳しくは、下記HPページ参照)
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/kogikeizaishi20010611.htm
分業とはなにか? 日本語では、「業」を「分」ける。
その元になった英語では、division of labor、ドイツ語では、Teilung der Arbeit
すなわち、分業=労働の分割、仕事の分割。
現代社会を見ると、
1.無数の業種、職種への分化…分業の高度の発達
2.分業の広がりの世界化・地球化
3.精神労働と肉体労働の分化・・・現代的社会ほど精神労働の比重の増大、労働における肉体のウエイトの現象、頭脳労働の増大
4.生産における科学技術の分化・細分化の高度な進展、
科学技術の決定的役割、科学技術の担い手の多様で高度な分業・・・大学等における研究教育の細分化
分業、生産力発達による富の形成と社会階級の発生
原始社会・・・原始的共同社会・・・分業の低い段階・・生産から消費が、群れ、集団の共同体内でおこなわれる。→ 生産力の発達、生産手段の蓄積とともに富(生産手段、消費手段の蓄積・予備の一部のものによる所有)の発生 →富・所有をまもるための所有者の組織、生産組織の秩序=共同利益を維持するための国家の発生
歴史的な分業発達の狭さ=生産力発達の低い段階・・・現代世界の事例(「横倒しの世界史」)・・・少数民族・極小民族の消滅の危機と「消えゆく言語」・
狭い生活空間=狭い分業関係=狭い人間関係
文化人類学者と言語学者の共同研究=ダニエル・ネトル/スザンヌ・ロメイン著島村宣男訳『消えゆく言語たち―失われることば、失われる世界』新曜社、2001年。
「生物多様性(biological diversity)に満ちた地域とすぐれて言語多様性(linguistic diversity)に満ちた地域とは、非常に密接な関係がある。……最大の生物・言語多様性(biolingiuistic diversity)が見出だされるのは先住民族の居住する地域で、人口こそ世界総人口の4パーセントほどにすぎないが、そこでは世界の諸言語の少なくとも六〇パーセントが話されているのである。絶滅の危機に瀕している動植物の種や環境には、これまでも強い関心が寄せられてきたが、諸民族も同じように危機的な情況に陥っていることはほとんど知られていない。人間言語の多様性の消失以上に話題にのぼるのは、パンダやシマフクロウの生存の危機である。」
分業の狭さ=自給自足=非常に小規模な集団=言語集団の小ささ=人口の分散化
「なぜ、これほど多くの言語が低地地方や高地外縁地方に発達したのか・・・ひとつの重要な要因は、…生態学的な背景にある。生態系が持続して生産的であったことから、非常に小規模な集団でも、選択次第では、自給自足が可能になる。さらに、マラリアなどの疾病や土地を休ませておく必要性[6][4]のため、人口の分散化が助長される。」
ニューギニアにおける言語多様性=極小言語集団の並存・・・・「山地の多い地勢とその自給自足の可能性[7][6]」
ただし、「主食に供する食物については自給自足であったが、地域集団は他の物資との交易を広範囲に、また精力的におこなっている。貝類が海岸地域から、羽毛が内陸地域からやってくる。石製の道具類、陶器類、塩は中心産地から長い供給経路を経て到来し、国中に行きわたった。」
基本的生活物資における基本的な自給自足体制(現代社会になればなるほど、この自給自足的要因は極小化し、生活の基本領域から周縁・例外的部面・例外事象へと移行)とそれを補完する物資の広域的分業=交易圏
小共同体内の日常的基本的自給自足体制と共同体間の交換・交易・分業の非日常性=名産の交易=交易の場としての祭礼・祭事(=非日常的催し物)・・・・市(いち)の立つ日と宗教的行事の関係:
「このタイプの交易には」、すなわち非日常的な交換には、「しばしば祭事などの儀礼の機会が伴う。そこでは言語の境界を越えて、名産の物資が山のように交換された。これが地域集団間の協力を強固なものにし、争いごとが起これば互いに連合することもたびたび起こる。パプア・ニューギニアの争いごとは、とくに破壊的なものでないにしても、地方病のようなものであったように思われ、最も大きな協力網の支配権を掌握できた集団が、優位に事を運べたのである。[8][7]」
いくつもの小社会=小共同体=小言語集団の相互の協力関係を組織し、統一を樹立し、その市場関係=協力関係の秩序を維持し得た集団、その集団の長が支配者。
支配の基礎は協力関係=その広さと強さであり、協力関係をすべること(統べること=総べること)、その組織化……統治(すべおさめること)。
物資の交易関係=人間の交流=婚姻関係における交流=諸言語の交流=交流の武器としての言語能力の開発
「物資と同じように、人間も結婚のため言語の境界を越えて結びついた。どこの小社会も例外はないが、ニューギニアの集団も配偶者を自分のところから得るのが難しかったのである。全体的な社会組織は非常に流動的であった。地域集団は争いに負ければ、協力関係にある集団や近隣の集団へと散り散りになり、そこの文化の構成員となる。逆に、肥大化して手に負えなくなり分裂する集団もあったし、悪疾、政治的な駆け引き、あるいは資源の消耗などが、緊張状態を招くこともあった。
このように、地域集団のあいだには不断の相互交流があった。この結びつきをよく例証するのは、ほとんどの人々がいくつもの言語を話したという事実である。自分の地域集団の日常語はもちろん、多くの人びと、とくに男子は近隣の一、二の集団の言語や、おそらくは、谷あいや海岸線に幅広く流通するようになっていた言語を知っていたのである。」
交易・交流の広さ=広域で流通する言語
「この多言語併用の範囲はさまざまである。高地地方のように言語集団が大きければ、その縁辺区域の人びとだけが多言語併用者になる傾向があった。集団が小さければ、実際上誰もが縁辺区域の多言語併用者になるわけで、多言語の知識が当たり前であった。ドン・クーリックが研究したガプンという低地地方の村では、四〇歳以上の男子が理解している言語数の平均は、日常語と通用語に加えた三つほどの他の地域言語の計5個であった。[9][9]」
・ ・ 小集団、マイノリティの言語能力開発=生活・生存のための武器の必要性・・・ユダヤ人(エリート)、オランダ人・オランダ社会
多言語・多数言語能力の保持者=多集団間の協力関係の担い手=広い協力関係の担い手=豊かさと秩序の担い手
=精神的能力の大きさと支配の関係
別の地域の言語を話すのは、特殊な能力であり、それに基づいた「特権の源でもあった。勢力をもつ男たちは。他言語を修辞的にあやつり、それはまさに言語芸術であった。
分業と物々交換W-W →分業の発展、商品の発展
物々交換の諸困難を克服するものとしての貨幣G(一般的等価物)の発見・諸種の貨幣の発明:
→貨幣を媒介とする生産物・素材的富の交換、G―W(買い)、 W―G(売り)
買いと売りの一体性・相互性
市場社会の諸個人・諸法人・諸企業は、あるときは売り手、あるときは買い手
商品交換関係における売り手・買い手の不断の交替=平等性、不断の協力関係の側面
労働の生産力の発達 → 何らかの余剰生産物の生産 → その交換 → 余剰生産物のさらなる生産 → 交換の拡大
「自分自身の労働生産物の余剰部分のなかで、自分自身の消費をこえてあまりあるすべてのものを、他の人々の労働生産物のなかで、自分が必要とするであろうような部分と交換しうるという確実性が、あらゆる人を刺激して特定の職業に専念させ、この特定の種類の仕事についての彼の才能または天分がどのようなものであろうとも、それを発展させ、完成させるのである。」
都市と農村
分業の成熟のある段階で都市の成立(農産物を周辺農村に依存)
農村と都市(商業・手工業の専門化とそれらの集中立地)の分離、
中世都市の発達とギルド制度
[1] 18世紀後半、フランにおける経済学者、
「重農主義(physiocracy, physiocratie)」その経済思想、理論
ケネーを中心。ミラボー、デュポン・ド・ヌムール、チュルゴーらが代表者。
[2] マルクス『資本論』第3巻第47章 資本主義地代の生成、岩波文庫版、第8分冊、283ページ。
[3] 同、285‐286ページ。
[4] 古代ローマの多くの大土地所有地(ラティフンディウム9におけるように、またカール大帝の直領地(ヴィレン)におけるように、また多かれ少なかれ中世を通じて見られるように、農業生産物のいかなる部分も流通に入らないか、またはそのきわめて小さな一部分が入るにすぎず、また生産物中の土地所有者の収入を表す部分でさえ相対的に僅少なその一部分が流通に入るにすぎないという本来の自然経済にあっては、大所有地の生産および剰余生産物は、決して単に農業労働の生産物だけから成ってはいない。それは工業労働の生産物をも含んでいる。
家庭的な手工労働および製造労働は、基礎をなす農業の副業として、この自然経済がその上に立つ生産様式の条件なのであって、ヨーロッパの古代および中世においても、また今日なお、その伝統的組織がまだ破壊されていないインドの共同体においても、そうである。
資本主義的生産様式は、この連関を完全に破壊する。
すなわち大づかみには、ことに18世紀の最後の三分の一期にわたって、イギリスで研究されうる一過程である。多かれ少なかれ半封建的な社会で成長した人々、たとえばヘレンシュヴァントのごときは、18世紀末にいたってもなお、この農業と製造工業との分離を無法な社会的冒険と見、不可解に危険な一存在様式と見ている。」(マルクス、同、286‐287ページ
[5] マルクス、同、pp.292‐299.