更新日200517()


    (ミュンヘン大学日本研究所掲示板)


2002年夏:ドイツ出張調査の概要(行動日程等)

 
ルフトハンザ・ミュンヘン直行便

 
  8
4日、1330分、成田発、最近運行が始まったルフトハンザ「ミュンヘン直行便(LH715)」で、11時間少し、同日、現地1730分にミュンヘン空港着。(夏の時差7時間)

直行便なので楽だった。

しかも、エコノミークラスは、オーバーブッキングだったようで、成田の待合室で待っていたとき呼び出しがあり、「ビジネスクラスにどうぞ」と伝えられた。私はルフトハンザのFrequent Travelersであり、それも関係しただろう。他にも数人このような「幸運」な人がいた。ビジネスクラスにはまだ空席がかなりあった。友人の話しでもそうだが、何回か往復していると、時にこのような「幸運」がある。往路だったか、ビジネスからファーストクラスに乗れたという人もいる。今回も「幸先よい」とうれしかった。

市中心部(北西)ミュンヘン現代史研究所に近いホテル・Rotkreuzplatz(目の前に赤十字Rotkreuzの建物,看護婦学校がある)


現代史研究所

85日(月)より現代史研究所で、最新のホロコースト研究文献を調査。

準備中の著作『ホロコーストの力学』(2003年8月に青木書店から刊行)の草稿の各所に適宜、推敲・添削の手を加える。

アイヒマン証言の問題性に関する最新の評価に接して、コブレンツ連邦文書館滞在日数を増やすことにした。

 

現代史研究所では文部科学省短期海外出張でミュンヘン滞在中の京都大学大学院経済学研究科・今久保幸生教授と一緒になった。7月末から9月末までの二カ月間の予定だそうで、うらやましいかぎり。昼食は、研究所の人と利用者のための軽食堂Cantineで。

 
ミュンヘン大学日本研究所 (ヴァルデンベルガー教授研究室)

89日午後2時から、今久保教授と一緒に

ミュンヘン大学日本研究所Japan-Zentrum

ヴァルデンベルガー教授(=写真向かって左端,中央は院生・助手Michae Haas)を訪ね

963月の日独シンポジウム(東京大学山上会館、私は当時、松田智雄先生の命により事務局長)について、コメントを引きうけてくれたお礼をいう。

秋の日独シンポジウムのこと、現代日本経済とドイツ経済のIT化の進展度のこと、ドイツの大学における外部評価のことなどを議論。

夏休みだが、ワルデンベルガー教授は院生・助手Michael Haas君(M.A.)と研究室HPの立ち上げで相談中だったとのこと。「私は忙しくて研究室HPの作成・維持はとてもできない」と教授の言。ハース君にはIT化の日独比較の研究テーマで指導中とか。

 

日本研究所は,イングリッシャー・ガルテン(英国式庭園)の中にあり、すばらしい立地。

おりから,ミュンヘン・オリンピック競技場で陸上競技・ヨーロッパ選手権大会の開催中で、外ではイタリア人など外国人多し。

 

810日は休養,市内見物と文献・資料・原稿整理。




オーバーザルツベルク・ヒトラー山荘(現在、歴史記念館) (ベルヒテスガーデン)

811日、ミュンヘン現代史研究所がオーバーザルツベルク(ベルヒテスガーデン)の旧ヒトラー山荘跡に最近開設した史料博物館Dokumentation Obersalzberg(Cf.展示概要)を訪れる。

 

雨の降る悪天候(それもそのはず、「100年に一度の大洪水Jahrhundertflutがパッサウ、レーゲンスブルク、ベルヒテスガーデンなど南ドイツ地域、ついでエルベ川に沿ってデッサウ、ヴィッテンベルク郡など中部ドイツ、上流のプラハ(チェコ)など、各地を襲ったのは812日から18日で、毎日、洪水場面の放映、特別報道番組の連続)だった。

しかし、かなりたくさんの訪問者で博物館はいっぱいだった。このように固い歴史博物館・史料展示館にこんなに大勢の人がくるとは!!

 

史料博物館Dokumentation Obersalzbergは、ミュンヘン現代史研究所の外部施設としての博物館だけあって、歴史的資料がきちんと整理されて展示され、最新の歴史研究の成果が生かされていた。ヨーロッパ戦争と太平洋戦争との関連性を示す地図や年表など、重要であり、ホロコーストを世界大戦の経過に沿ってみていこうとする私の方法意識からは説得的なものであった。

 

本物の啓蒙は、このようなしっかりした歴史研究に基づいた具体的な史料展示・史料解説でこそ達成されるであろう。ずっしりと重いその展示物解説書を買い求めた(拙著にもそのなかから何箇所かを引用)

入場料を払うとき出した1ユーロ・コインを、レジ受付の女性係員は確かめながら、箱に入れている。そのとき、「あ,これはスペインからだ」と。

つまり,ユーロは、小銭のレベルでもヨーロッパ中を流通しており、小銭の裏にそれぞれドイツ発行,スペイン発行,イタリア発行がわかるように別々の刻印があるが、それがスペインのものだったのだ。それを知って、ちょっと惜しい気がした。ドイツ刻印のユーロならたくさんあるが、他のユーロ参加国のコインはもっていなかったから。それで,これ以降は、できるだけまずコインを調べて,ドイツのもの出ないものを探した。しかし、帰国までに2枚見つけただけだった。小銭レベルではまだ各国刻印の通貨の相互浸透はそんなに進んでいないのだ。

(今回は、「100年に一度の洪水」のもとになる集中豪雨がバイエルンの山々に降ったため、写真も取れなかった。1985−86年ミュンヘン滞在の時のヒトラー山荘訪問写真を載せておこう。早くも加筆時点執筆現在2005年からすれば、20年も前のことになる)

        (ヒトラー山荘・記念館前)



ワイマール ゲーテ・シラーの町、 ブーヘンヴァルトの町

813日にはベルリンへの途上、ワイマールそのドイツ全図のなかでの位置に立ち寄った(駅前のホテルInterCityHotelに宿泊、その室内から中央駅をみたところ)

 

ゲーテの家・ゲーテ博物館

ゲーテの東屋・園亭Gartenhaus

シラーの家(黄色い建物)

ニーチェ・アルヒーフ(意識朦朧としたニーチェが最後の3年間を過ごした家・・・私は直接は見ていない)

国民劇場(手前のゲーテ・シラー像が有名、夏ではあり、観劇のチャンスはなかった)

 

 

郊外・北訳10キロメートルほど、バスで20分くらいのところにある強制収容所ブーヘンヴァルト。

郊外の山の中、ブナの森(BuchenWald)の奥深く、主要道路からは離れたところにあるブーヘンヴァルト強制収容所を見学。森の道はがたがた道。




@内側から玄関方向


  (ブーヘンヴァルト収容所・正門そばの監獄)

A玄関向かって右手側建物にある監獄


B
火葬場・処刑場

 

ゲーテとシラーの町ワイマールの郊外にあるブーヘンヴァルトはその対照性において、歴史に対する深刻な反省を迫る。







コッホが考案した
処刑設備(頚部射殺Genickschuß・・・身長計測時に、背後の秘密の隙間から頚部を射殺する装置・設備8000人のソ連人戦時捕虜を殺害したと解説にあった)は、オラーニエンブルク(ベルリン郊外)ザクセンハウゼン強制収容所でかつて見たことのあるものと類似のものだった。あらためて沈思黙考を迫るものだった。





ヴァルトブルク(アイゼナハ)  ルターとバッハの町
 

814日、「ユダヤ人とユダヤ人の嘘」で激しいユダヤ教攻撃をしたルター[1]がザクセン候の保護の下にギリシャ語聖書のドイツ語訳に没頭したアイゼナハ(その位置=ワイマールから約1時間、アイゼナハ市全図、ルターが若いとき、ラテン語学校通学の3年間下宿したコッタの家ルターが少年に聖歌隊で歌った教会、のちバッハが洗礼受けた教会)

ヴァルトブルクの城市の城の紹介紹介写真)をたずねた。[2]

@  玄関外側

A  城内から外の風景, その2

B   ルターの部屋

C   1817年ルター宗教改革300年記念・4年前のライプツィヒ勝利記念の学生祭開催・城内最上階祝祭の間。ドイツ11大学から約500人が参加したという。

 

イエス・キリストの福音の教えに帰れと説く強烈なカトリック批判・福音主義の精神は、狭い民族宗教としてのユダヤ教を批判するナザレのイエスの精神(諸民族宗教の狭さを超えた世界宗教の提起)をユダヤ教・ユダヤ人批判の側面においても、独特の形で生き返らせ継承するものだった。


 

ゴールドハーゲンの言う「400年以上の伝統を持つ反ユダヤ主義」はまさにルターの宗教改革・プロテスタンティズムにおける宗教的ユダヤ教批判、その意味での反ユダヤ主義の要素のことである。ドイツのプロテスタント地域,オストエルベ地域に継承された反ユダヤ主義の他の地域に比べての強烈さは、一つの歴史的要因としてはホロコーストの力学を考える際に考慮にいれるべきものである。




(アイゼナハにはバッハ[3]の生家もあり・バッハ記念博物館・バッハ像内庭



ピアノ小型オルガン小型ピアノ)(アイゼナハ市の紹介写真にみるバッハ生誕の家とその家の前のバッハ像)

 

適切なイデオロギー批判は、広い裾野を持った啓蒙の見地からして、不断に必要不可欠だということであろう。

ただし、ヒトラーがオーストリア出身であり、その反ユダヤ主義がウィーン仕込であること、第一次世界大戦とその革命による終結の過程で鍛えられた人種主義的反ユダヤ主義であったこと(ヒトラーの強烈なキリスト教批判・「弱いものの宗教」としてのキリスト教軽蔑を想起せよ)からも明らかなように、単線的に400年の反ユダヤ主義とホロコーストを結びつけるゴールドハーゲン流歴史観は歴史科学たりえない。

 

ルターシュタット・ヴィッテンベルク

815日、ワイマールからベルリンへの途上、ヴィッテンベルク(ルター派プロテスタンティズム、あるいはもっとひろくプロテスタンティズム全体のメッカとも言うべき町、町はLutherstadtの一つ)に途中下車した(町の地図)。エルベ川沿岸にあるヴィッテンベルクは、洪水(その一連の写真)の余波で町の中心部に入る道路の一部が使えなくなっていた。旧東独時代以来、一度は訪れたかった土地であるが、今回やっとそれを達成することができた。

ルターが生活し、結婚し、生涯を送った「ルターの家」は現在修復中で見学できなかった。

 



ルターが95か条のカトリック批判文書(教皇・皇帝批判)を張り出した城教会Schloßkirche


( 独英解説版 )城教会と城をみた。



95か条の論題



ルターは城主の保護
(ルターが95か条の論題を張りつけた扉)を受けていたのだ。


(ルターは農民戦争が勃発すると,それには批判的であった[4])



ルターはヴィッテンベルク修道院で長年生活し、余生もそこで送り、ヴィッテンベルク大学で教鞭を取った。ヴィッテンベルク市の説明書にはヴィッテンベルク大学は、「当時、最高水準の大学だった」と。

 

ヴィッテンベルクはメランヒトン[5]の町でもあった(メランヒトンの家)。



 

午後、ベルリン到着後、疲れをおして、郊外のポツダムまで出向いた。そして、第二次世界大戦終結記念日のポツダム会議場を再訪した。

特別記念の催しなどは見られなかったが、団体に対するガイドが「ポツダム会談終了後4日して、広島に原爆が投下された」と、ポツダム会議における対日無条件降伏の政策決定と広島原爆投下が関連していることを語る瞬間をたまたま耳にした。日本人(らしきもの)がその話の瞬間にその場を通り過ぎたことは、団体の何人かの私に対する視線(振りかえってみる視線)から、彼らに一種の感慨を引き起こしたとが感じられた。




ベルリン郊外 ザクセンハウゼン強制収容所
 

816日はベルリン郊外オラーニエンブルクのザクセンハウゼン収容所を調査。

博物館(写真は第三帝国ドイツ支配下全域の強制収容所所在を示す地図)

(全体俯瞰模型)

(正面玄関)

(玄関の門・「働けば自由になる」)Arbeit macht frei.

(種類別囚人服の一つ)

(囚人ベット)

(晒しもの処刑杭)

(1943年ザクセンハウゼンでも青酸ガス・ツイクロンB利用)

新しい収容所解説書を買い求めた。



今回は展示物の内容に新しい部分を発見するより、愕然としたことがあった。総選挙前だったこともあって町には選挙ポスター、プラカードがいたるところで目に付いたが、


収容所博物館前(写真奥の突き当たりが収容所入り口・案内所)にはNPD(極右・合法政党・ネオナチ的民族主義)選挙ポスターが街路樹ごとにずらっとかけられていたのである。

上の写真からわかるように、そこには政権党
(与党SPDや緑の党)、あるいは野党(保守派のCDUCSU)の選挙ポスターは見られなかった。

 

NPDのポスターの文句は、ドイツをわれわれドイツ人に(Deutschland uns Deutschen !,あるいは、
ドイツ人のためのドイツ
(Deutschland für Deutsche !)
(外国人はいやだ、出て行ってほしい、出ていけなど、外国人のためにわれわれドイツ人が苦しんでいる、失業は外国人のためだ[6]、などさまざまのニュアンスの排外意識・排外的民族意識を統合したスローガン)であった。

 国粋主義的民族主義的なNPDにとって、マルクは堅持すべき貨幣であり、それにたいして、「ドイツ・マルクの代わりはトイロ
Teuro」であった。
 トイロ(
Teuro)は、もちろん、まえよりも高い・物価高だという意味のteuer(トイアー)とEU統一通貨ユーロEuro(オイロ)とをひっかけたものである。
 ユーロ批判、ドイツ・マルク放棄批判のナショナリズムを一言で表現しようとしたものである。

 


ホロコーストの反省の上に立っているドイツ連邦共和国で、しかも、その強制収容所記念の門前で、あたかもホロコースト記念・反省・歴史認識に挑戦するかのように、堂々とNPD排外的ナショナリズムを宣伝していることにショックを受けざるを得なかった。

 

社会は,このような対立的諸潮流のせめぎあいの場なのだ。ユーロ導入が弱者に打撃となっているとすれば、それは適正に補正されるべきであり、排外的ナショナリズムの方向に大衆が動員されないようにする責任は政府や主要政党にあるだろう。また、排外的ナシナリズムの危険性と不毛さは、歴史の教訓を踏まえて、啓蒙さるべきことだろう。そこでは、歴史科学の役割が大きくなろう。

 

817日はベルリンを訪れるたびにかならず一度は調査に行くヴァンゼー記念館日本語説明書に出かけて調査(夏の大ヴァンゼー湖)

イギリス人の最新のホロコースト研究書のドイツ語訳が関内玄関脇に展示されていた。最新Haus der Wannsee-Konferenz Homepageの研究書から、原稿執筆最終段階に入った拙著『ホロコーストの力学』の関連論点を検証するため、これを買い求めた。新著原稿に、ヴァンゼー会議議事録・ドキュメント写真のページなど、何箇所か引用。(議事録はドイツ語原文の写真その英語訳などをヴァンゼー会議記念館HPでインターネット経由でみることができる)。



コブレンツの ドイツ連邦文書館(本部)

819コブレンツの連邦文書館でアイヒマン裁判関係史料の調査を開始。文書検索書をたよりに「ユダヤ人問題最終解決」などのキーワードに対応する文書・文書つづりを選び出す。

 

820日以降、830日までコブレンツ連邦文書館で仕事。

貸し出し書類には、利用者名の欄に私の名前がNagamine, Michitera となっていた。外国人には私の名前は女性形に見えるようで、文書館やホテルなどとの連絡でもFrau Nagamineと女性だと思い込んでの返事が多かったが、今回もそうであった。

しかし、今回は直接私の文書希望リストを受付の担当者に手渡したので,受付担当者には私が男性だということはわかっているわけで、文字の上で書類を作成し貸し出し手続きする人が勝手に語尾を読み間違えたのであろう。

 

アイヒマン裁判史料類は、連邦文書館が弁護士をひきうけたセルヴァティウスの所蔵文書を購入したものだった。裁判準備過程で執筆されたメモ類、弁護人の手書きの証拠分析文書などが多く、判読困難なものが多かった。客観的利用が可能なのは、活字化された膨大な証拠資料。「ホロコーストの力学」の諸論点にかかわるところをピックアップし、検証作業を行い、草稿に添削推敲を施す。

 

2週間目に入って仕事をしていたら、6月の出張準備中に利用に関してお願いしていたこともあって、アイヒマン関係の文書を整理している館員(アルヒバール、アーキビストHerr Gregor Pickro)がやってきて、問題はないかと尋ねた。いま見ている裁判証拠文書でもかなりたくさんあり、特に問題はないなどと話していたら、R.W.M.ケンプナーというニュルンベルク裁判検察官(主任検察官テルフォード・テイラーの代理)の「個人文書(ナハラス)があるので、それを見てみたら」と大きな検索書を渡してくれた。

それにより、キーワードで、ヴァンゼー会議の項目など、アイヒマン関連の文書つづりを探した。そうすると、今度の研究書を書く上で貴重ないくつかのすばらしい文書を含んでいた。この発見は非常にうれしいものだった。これも、著作原稿のなかに取り入れた。

 

「あとがき」を827日に書き、さらに残りの三日間を原稿全体の読み直し、チェック、推敲、史料点検、若干の補足史料検索などで過ごした。めぼしい史料が見つかるごとに,さらに原稿に加筆。きりがない。時間勝負。精神的余力の勝負。いい史料が見つかり、時間が迫ってくるとパニックになる。あきらめ。

 

7年越しの苦労の成果:『ホロコーストの力学』総目次)完成・・・時間があればいくらでも手直ししたくなる。史料も追加したくなる。しかし、時間と精神力には限界がある。

 

 

コブレンツのホテル

宿泊:

今回は、インターネットで見つけたHotel Haus Bastianに宿を取った。モーゼル川の渓谷を見下ろす斜面にあり、ライン川の渓谷も見えて、なかなかいい景色だった[7]。このサイトをクリックしてみればわかるが、連邦文書館はコブレンツの地図の上記ホテルの位置から右下4センチくらいのところにあり(黒く塗りつぶされた大きな建物)、実際には徒歩で1520分くらいの距離だった。

上の地図ではわからないが、連邦文書館はカルトハウゼ地区の高台にある。毎朝、上り坂を歩いて、1520分かけて通った。パソコン(かなり重たいものだが持参した、そのパソコン)と「220ボルト→100ボルト・コンバーター」(鉄の塊なので、これがかなり重い),それにノート類や持参図書などをいれた5キロ以上はあるショルダーかばんを持って,往復した。

93年の半年間滞在のときにもすでに私を含めかなりの研究者がパソコン持参だったが、今回は文書館利用者のほとんどがパソコン持参で仕事をしていた。

一度文書館に入ると、815分―20分から夕方六時半過ぎ―7時近くまで文書館でつめて仕事をする。涼しい気候(日中最高でも24-26度くらい)で、朝夕,往きかえりに重いかばんを持って歩くことは、その意味では、むしろ、健康的だった。

 

食事:

昼食は文書館内にある食堂でとった。これが安くてうまい,という実感。

付近の住民、大学や専門学校の学生,小学生なども昼食に来ていた。「安くてうまい」ということは、彼らの数から見てもわかる。基本メニューが三段階あり,そのいちばん高いのでも,3.70ユーロ(1ユーロ約120円として,せいぜい500円くらいか)。これにサラダ(各種あり、自分で盛り合わせる。入れる器の大きさによって値段がちがい、私の場合、いちばん小さな器70セント=約85円をよく利用。コーヒーは、40セント=約50円。盛り付けの係りの女性に「少し多めにいれてくださいな」などと頼んでいる中学生くらいの女の子を見かけた。かなり頻繁に利用しているのであろう。

夜は,ホテルと同じ場所の棟違いのイタリア・レストランをよく利用。ただ、一つ一つのメニューのボリュームが多くて、半分以上残すことも多かった。私の感覚では、「とてももったいない」。

 

日本人:

文書館では、日本の大学院生二人に出会った。一人は九州大学大学院の博士課程3年の江頭君というひとで、ミュンヘン大学との交換協定により、留学中とのことだった。ミュンヘン大学日本研究所のヴァルデンベルガー教授を知っているかと尋ねたら、もちとんとのことだった。ミュンヘン大学から九州大学に留学する人の多くは日本研究所の関係者だということだった。

コブレンツのユースホステル
  エーレンブライトシュタイン城の中
 彼は、コブレンツでは
ユースホステルに泊まっていた。それは、文書館とはライン川を挟んで向こう岸にあるエーレンブライトシュタイン城内にあるユースホステルだった。
 ライン川、モーゼル川の合流点を見下ろし、その三角形のところにある皇帝ヴィルヘルム一世の騎馬像(第二次大戦最終時点で連合軍の空爆で破壊、1993年再建)を見下ろす位置。

 
は、9月末には1年の期間を終えて帰国すると。ワイマール末期の教育学者の運動に関して、史料調査をしていた。帰国したら,論文をどんどん書きますとのことだった。もう一人は(多分日本人だと思うが),言葉を交わすチャンスがないまま、すれちがった。

いまや修士や博士の大学院時代にドイツに留学し,さらに一次史料を求めて文書館に通う時代になったのだ。すばらしいことだ。


 

帰路:

831日コブレンツを出発(ホテル810分,タクシーで駅まで。駅847分発,マインツ、フランクフルト、マンハイム経由イタリア行きのICに乗る)

フランクフルト空港駅着955分。

フランクフルト発1345分発、Lufthansa710

 

91日、成田に午前7時半着。

自宅には11時近くに到着。



[1] ルター【Martin Luther

ドイツの宗教改革者。ローマに使して教皇制度の不合理を知り、1517年免罪符濫売を憤ってこれに対する抗議書95ヵ条を公表、教皇の破門を受け、宗教改革の端を開いた。救いは行いによらず信仰のみによると説いた。1522年、聖書のドイツ語訳を行い、自ら幾多の讃美歌を作った。ルッター。ルーテル。(14831546[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

[2] ルターは、ザクセン選帝候領に属するマンスフェルト伯領内アイスレーベンで鉱夫の子として生まれる。

 

1501年、18歳、エルフルト大学入学。

 

1505年まで一般教育課程を履修。1502年文学士

 

1505年、文学修士。その後、修道士の道へ。

 

1508年、ヴィッテンベルク大学(1502年創設)人文学部で教鞭をとる。アリストテレスの道徳哲学(ニコマコス倫理学)を講義。

 

1512年、ヴィッテンベルク大学神学部教授に就任。一〇月4日、神学博士号を取得。

 

1517年、「95か条の論題」(贖宥論題)をマインツ大司教あるブレヒト宛ての手紙に同封。

 

1520年、教皇レオ10世は、ルターに破門威嚇の大教書を発した。対して、ルターは、8月中旬、「キリスト教会の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に与う」、8月下旬、「教会のバビロン捕囚」、11月下旬、「キリスト者の自由」を出版して反論。1210日、ヴィッテンベルクのエルスター門の広場で、教会法規集、道徳哲学の書、教皇の破門威嚇の大教書を焼く。

 

1521年、38歳のとき、ついに、ルターに正式の破門状が発せられた。127日、ヴォルムスで国会が開かれた。417日―18日、ルターはヴォルムス国会で審問を受けた。419日、皇帝カール五世は、自ら起草した判決文を読み上げ、ルターに異端を宣告した。ルターはヴォルムスよりの帰途、アルテンシュタインで「襲撃」を受け、夜、ヴァルトブルク城に到着し、152231日まで貴族ゲオルクと称して滞在した。526日、ヴォルムス勅令が発布された。121日、教皇レオ10世死去。12月、メランヒトンの「神学の主要概念」が公刊された。ルターはこれを激賞。

 

15222月、ルターは新約聖書のドイツ語訳を完了31日、ヴァルトブルクを出発し、ヴィッテンベルクに帰る。松田智雄編『世界の名著23 ルター』中公バックス、中央公論社、1979年、543-555ページ。

 

[3] バッハ【Johann Sebastian Bach

ドイツの作曲家。ワイマール・ケーテン・ライプチヒなどで教会のオルガン奏者、宮廷楽長、音楽監督などに任じ、受難曲・ミサ曲などの宗教音楽、種々のカンタータ、ソナタ・協奏曲・組曲などの器楽曲を多作し、対位法的作曲技術を以て多声様式を継承、バロック音楽を集大成した。息子のエマヌエル(17141788)、クリスティアン(17351782)を始め、一族に音楽家が多い。作「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」「ロ短調ミサ曲」「ブランデンブルク協奏曲」「フーガの技法」「平均律クラヴィア曲集」など。大バッハ。(16851750[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

 

[4] 正確に言えば、最初は、農民の窮状に同情的だった。詳しくは、前掲松田智雄編『世界の名著23 ルター』中公バックス、中央公論社、1979年の「農民戦争関係文書」を丁寧に見ていく必要がある。

ルターは、「全農民の不従順、否、それどころか、一揆すらも、キリスト教徒にふさわしい方法で弁明するため」、「シュワーベン農民の一二ヵ条に対して平和を勧告する」(15255)を書いた。農民の訴え、すなわち「農民の全箇条の基礎は、福音を聞き、それにふさわしい生き方をする方向に向けられている」とした。「農民たちは、彼らの諸箇条においてかかる福音書を、教えのために強く求めているのであって、その農民たちを不従順とか暴動的だなどと呼びえないことは明かである」と。

 

この前書きをつけて、ルターは農民の一二ヵ条をすべて掲げ、「キリスト教徒の読者よ、以下の箇条を入念に読み、しかるのちに判断せよ」と求めた。農民は、第1条で「今後、村中でみずから牧師を選任すべき権限を持ちたい」、「牧師に不法なふるまいあるときは、それをふたたび罷免する権限をもちたい」と。

 

第二に、農民は、正当な十分の一税は納めるが、「ただし、ふさわしい方法によって」であることを求めた。「村の任命した教会財産管理人が集めて受け取り、その中から、全村によって選ばれた牧師とその家族に、適切で十分な生計の資を、村の了解を得て与えるべきだ」と主張した。「残りは、事情に応じて、また村の了解を得て、・・・同村の貧しい人々に分けられるべきである」と。まさにこれは、村の主権、村の民主的権利、村民の民主的権利を宗教活動において要求したものであった。「小十分の一税を修めようとは決して思わない。・・・・それは人間がでっち上げた不当な十分の一税と考える」と。

 

第三に、「私たちを農奴と考えるのが従来からの習慣であったが、それは、キリストが尊い血を流して、私たちすべてを、羊飼いでも身分の高い人でも同様に例外なく解放し、贖いたもうたことを思えば、たいへんひどいことである。したがって、私たちが自由であり、自由であろうと望むことは、聖書からも明らかとなることである。私たちがまったく自由でありたい、いかなる支配者(Oberkeit)をももつまい、などということを神が教えたもうのではない。・・・私たちは神を愛し、隣人の中に主なる神を認め、私たちも喜ぶであろうようなことをすべて隣人のためにしなければならない。・・・私たちは、キリスト教徒にふさわしいことならたいていの場合、選ばれて任命された私たちの支配者(Oberkeit)に服しているのである。あなたがたが真の正しいキリスト教徒として、私たちを農奴の身分から喜んで解放してくださるか、そうでなければ、私たちが農奴であることを福音書によって教えてくださるであろうことを、私たちは疑わない」と。農奴制に対する痛烈な批判であり、今日の民主主義的諸国家ならば、誰もこれが不当だとは思わないことである。農民を農奴として貶め支配屈服させようとする諸侯・領主、その世俗的権威を宗教的に飾る「盲目な司教、愚かな司祭と修道士」への批判である。

 

第四に、「貧しいものが獣や鳥や流れの魚を獲ることは許されないというのが、これまでの習慣であったが。そのようなことは、まったくまちがっており、非同胞的であり利己的であって、神のみ言葉にあわないと私たちには思われる。また、ある場所では、当局(Oberkeit)が、私たちに迷惑と大きな損害をかけながら.獣を保護している。私たちは、獣どもが私たちの財産(畑の作物)を勝手気ままに食い荒らすのを我慢し、黙っていなければならないのである。それは神にもそむき隣人にもそむくことである。それゆえに、私たちの願いはこうである。もしだれかが水に対する権利をもっている場合、彼が十分な文書・・・証拠を差し出すことができない者は、適当な方法でそれを村に返還すべきである」と。

 

第五に、「私たちは伐木のことでも苦しんでいる。私たちの領主たち(Herrschaften)が森をすべて一人占めにし、貧しい者が必要なときには2倍のお金で買わねばならぬからである。聖界(領主)であれ俗界(領主)であれ、彼らが購入したのではなく占有している森がある場合には、ふたたび村に返されるべきであり、村は自由に、かつ適当な方法で、家で燃やすのに必要なものを、誰にでも無料でとらせるべきだ、というのが私たちの意見である。・・・」

 

第六に、「私たちの厳しい重荷は、日々増大する賦役Dienst)に関してである。…これほどまでにひどく苦しめられることがないように、寛大な配慮がなされることを切望」

 

第七に、「私たちは、以後、領主(Herrschaft)がこれ以上私たちを苦しめないように、適切な方法で土地を人に貸し与え、したがってその者は領主と農民の申し合わせどおりにそれを保有すべきである、と主張する。農民が苦しめられず、したがって平穏にかかる土地を使用できるよう、領主はこれ以上農民を苦しめたり圧迫したりすべきでなく、農民からこれ以上の賦役その他を無償で要求すべきではない。」

 

第八に、「私たちが苦しんでいるのは、土地を保有している者の多くが、その土地の貢租(Gült)に耐えず、そのために農民たちが彼らの財産を失って破滅してゆくことである。領主(Herrschaft)がこれらの土地を信頼すべき人々に調べさせ、公正に貢租をとりたて、農民がむだ働きをする結果にならないよう(私たちは希望する)。なぜならば、働き人は誰でも報酬を受ける資格があるからである。」

 

第九に、「私たちは、たえず新しい法規(Satzung)が制定されるという不法の故に苦しんでいる。・・・私たちは古来のかかれた罰則」に従い、事件の性質に応じて罰せられるべきで、えこひいきによって罰せられるべきではない・・・」

 

第十に、「私たちは、二、三の人たちが村に属している牧草地や耕地を自分の物にしてしまっていることで苦しんでいる。これらの土地(入会地)を私たちはふたたび村の手に取り戻すであろう。ただし、正当に買い取られたというのでなければである。だが、不正な方法で似せよ買い取られた場合には、事情に応じて穏便かつ友誼的に折り合いをつけなければならなない。」

 

第十一に、「私たちは、死亡税と呼ばれる慣習を完全に廃止してしまいたいと思う。私たちは、それを決して我慢しようとは思わないし、また多くの場所でさまざまの形で行われているようんひ、寡婦や孤児が彼らの財産を、神に反し名誉に反して、しかも彼らを保護し庇うべき人々によって破廉恥に取り上げられ、略奪されねばならぬということをゆるそうとは思わない。・・・・」

 

第十二に、以上の要求が、「神のみ言葉にふさわしくない旨が示されるときには、聖書にもとづいて説明されれば、それを取り下げよう・・・もし聖書の真理に照らして、さらに多くの箇条が神に逆らい隣人を苦しめるものであると分かった場合」には、つまり、「現在は私たちに容認されている箇条であっても、のちになって不当だと分かった場合には、そのときからそれは死文であり、廃止されたもの、効力のないものとなる」と。

 

こうした農民の窮状からくる訴えにルターは耳を傾けた。

 

そして、ルターは、本文で、「諸侯と領主に対して」、「このような困った事態とか暴動について、…あなたがた諸侯と領主、とりわけあなたがた盲目な司教、愚かな司祭と修道士」に責任があるとした。彼らが「この世の統治にあたっては、ただ苛斂誅求のみにつとめ、贅沢と尊大な生活行状をこととしているので、農民はいまや忍耐の限度に来ている」と。「あなた方こそこのような神の怒りの種となっているのであるから、その生活態度を改めないならば、早晩、あなたがたに対しても神の怒りが爆発することは疑う余地がない。愛する諸侯よ!天の徴と地の不思議は、あなた方に向けられているのだ。・・・愛する諸侯よ!…あなたがたの暴状に人々は長く耐えられないし、また絶えようとはしないし、また耐えてはならないというように神は仕向けておられるということである。・・・愛する諸侯よ!あなたがたに反抗しつつあるのは農民ではない。それは神御自身であって、あなたがたの搾取を罰するために、あなたがたに立ち向かっておられるのである。・・・愛する諸侯よ!「神を茶化してはいけない。ユダヤ人もまた、『われらには皇帝のほかに王はありません(ヨハネ1915)といった。そしてそれが現実となって、彼らは永久に王なしでいなければならなくなった」と。

 

ルターの教理が農民の反抗・暴動の原因だとする説に反駁して、「私はまったく静かに教えてきたし、暴動に対しては強く反対し、暴君的で悪いあなたがた当局に対してさえも、臣民が服従しまた尊敬を示すように努力し、またこのような暴動が私の影響を受けて起こることのないように全力をつくして訓戒してきた。私ではなく、あなたがたにとっても同じ程度に、私にとっても敵である殺人預言者たち(・・・これは武力行使によって改革をなそうとするトマス・ミュンツァーや熱狂徒をさしている:訳注)が、これら下層民の中にはいりこみ、そして彼らは下層民と一緒になって3年以上もうろつきまわっていたが、私が一人でなしたほどには誰もきっぱりと彼らを防がず、また反対しなかった」と。

 

ルターは「農民に対して」も、武力行使をいさめ、警告した。

「福音の説教を禁止したり、また民衆を耐えがたいほどに圧迫する諸侯と領主は、神と人に対して深く罪を犯した者として、神が彼らをその地位から引きずりおろすに値するし、またおそらくそれが当然であるということは、遺憾ながらまったく真実であり確かである・・・。それにしても、諸君は諸君で、よき良心と正義をもって、諸君の主張を申し出るよう、十分に注意しなければならない。・・・たとえ諸君がしばらくの間、苦しめられ、あるいは苦しみのあまり死んだとしても、最後には勝利をうるであろう・・・もし諸君が正義もよき良心ももたないならば、敗北するに違いない。・・・当局が邪悪で不正であるということは、徒党を組むことや反乱を起こすことの言い訳にはならない。悪を罰する権限は、すべての人が持っているのではない。それはただ、剣を帯びるこの世の統治者の職務だからである。・・・それからまた、誰も自ら審き人となってはならないし、また自ら復讐すべきではないという自然の法があり、これまた全世界に通ずる法である。・・・ところで諸君はみずから審き人となり、みずから復讐し、不正に耐え忍ぼうとする心がまえを示さず、反乱を推し進めてきたことを否定しえないだろう。それはキリストの掟と福音に反するばかりでなく、また自然とあらゆる公正にも反するのである。」

 

「キリストは、マタイ福音書6章(53941)において、次のように言っておられる。『悪人に逆らうな。1マイル行くことを強いる者には、ともに2マイル行け。上着を取ろうとする者には、下着をも与えよ。一方の頬を打つ者には、他方の頬をも向けよ』」

「パウロもまたローマ書12章で『愛するものよ、自分でし返しなさるな。(神の)怒りにまかせなさい』と述べている。」

 

キリスト者の掟というものは、不正に逆らわず、剣をとらず、みずから防ぐことも、復習することもしないで、かえって肉体と財産を犠牲にすることであり、それを奪おうとするする者には奪うにまかせるにある、ということである」と。

 

最後に、農民の一二ヵ条の要求のそれぞれに対して、当不当と述べている。たとえば、第二条の要求は、ルターからすれば、「盗人であり、公然たる追いはぎに他ならない」という。また、第三条の農奴解放に関しては、古い時代を持ち出して、「アブラハムや他の族長やや預言者もまた奴隷をもってはいなかったであろうか」と、奴隷や農奴を肯定する議論を展開する。第三条は「真正面から福音と対立するものであり、また略奪的なものであり、それによって主人から彼の所有に属するにいたった身体を奪うのである」と。

 

ここまで主張が展開してくると、ルターは農民の要求にまったく反することを主張していることがわかる。

それは、領主・諸侯の主張態度と重なり合う。

領主・諸侯と農民の対立は激化し、戦争状態になる。

そうするとルターは、「盗み殺す農民暴徒に対して」を発表し、「悪魔のわざ」だと弾劾し、「とりわけそれは、ミュールハウゼンを支配する悪魔の頭目(トマス・ミュンツァー)のしわざである」とした。「彼らのなすところは、強盗、殺人、流血以外のなにものでもない」と。そして、「公然たる暴徒に対しては、誰でも彼を審き、そして刑を執行してよい」と。

「いまや農民は、神と人間の両方より憤激を買い、すでに肉体とたましいは死に値してあまりあるものであり、また彼らは(仲裁)裁判に訴えず、またそれを待ちもせず、ただひたすらに荒れ狂っているだけである。・・・農民はいまや福音のために戦っているのではなく、彼らは反乱を惹起する、当てにならない、誓いを破る、不従順な殺人者、略奪者、涜神者であることが明瞭になったので、当局は彼らに対して十分な(罰する)権利をもつからである。異教的な当局でもなお」彼らを罰する権利と力をもっているものであり、それどころか、このような悪者を罰するのは(当局の)義務である(ローマ書134)」とまでいっている。「当局が剣を帯びているのは、まさにこの目的のためであるからである。当局はまた、悪をなすものを罰するための神の役者である(ローマ13・4)」と。

 

このような反農民的な主張は、当然にも、「おびただしい非難と詰問」を呼び起こした。ルターはそれに応えて、「農民に対する苛酷な小著についての手紙」を発表し、自説を正当化しようとした。

いまや諸侯・領主の「苛斂誅求」や「奢侈贅沢」などは問題にされないことになる。

 

[5] メランヒトン【Philipp Melanchton

ドイツの人文主義者。ルターの宗教改革運動を助けたが、のちにはルター正統派と対立した。(14971560[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

 

[6] ドイツの高度成長期に外国人労働者を「ガストアルバイター」(客人労働者)として招聘した。景気上昇、拡大再生産の時期には「ガストアルバイター」はドイツの成長の不可欠の人的要因だった。問題は、資本主義の必然性としての生産力拡大に伴う過剰生産が70年代中頃以降、恒常化したことであった。世界的競争の中で、この相対的過剰人口創出のメカニズムは一貫して継続している。世界的な資本主義的市場競争が相対的過剰人口の存在の基礎にある。世界的競争の中で、生産された製品を世界の市場が吸収できる以上に急速に生産力が拡大され、相対的生産過剰が創り出される。

 

世界的規模での相対的過剰生産メカニズム、相対的過剰人口創出メカニズムを統御できないのが、現在の人類である。他方で、その激しいグローバルな市場競争が、地球環境破壊の諸要因も創出する。どちらにおいても、人類の統御能力の抜本的向上が求められているのが現代だということであろう。激しい市場競争の中心的担い手・中心的推進者である先進資本主義国・先進諸国の企業群・財界群が、その統御能力を示さないかぎり、またその統御にまい進しないかぎり、過剰な富を前にしながら、貧困と非人間的汚辱・恥辱に放置される世界の諸地域の怨念は、WTOのような先進資本主義の象徴に向けられることになろう。資本主義的な企業群と財界群にその能力がないならば、地球的公共的統御は国家機構や世界機構を掌握する人々、それを支援し支える人々が担わなければならないだろう。現代的なグローバルな公共精神の人間的勢力が強大化することが求められているということだろう。必要は発明の母というが、そのような勢力は危機の明確化とともに、少なくとも潜在的にはすでに形成されてきているのであろう。

 

地球環境を配慮した生産システムの開発は、今後の世界市場競争でも非常に重要な競争要因となろう。それに成功しないかぎり、競争条件が厳しく規制されると(世界的統御の力が強まれば強まるほど)、地球環境を考慮した生産システムを送出していない企業群は市場から脱落せざるをえないだろう。

 

[7] コブレンツ=Koblenz=ko()+blenz()合流・・・ライン川とモーゼル川の合流地点