商品の価値形態または交換価値
更新日:2004/08/19
はじめに一言注意
商品には使用価値と交換価値(その発展した形態として価格)がある。
価格は商品の価値の表現形態である。
商品の価値はどのように表現されるか?
その発展した形態、すなわち商品を貨幣で表現するやり方、すなわち商品の価値の価格表現は、歴史的なものである。
人間が生産物を交換する関係が発展するなかで貨幣は創出されてきた。商品の価値の表現に最も適しているものが、その時代その時代に、その社会の商品生産の成熟度に対応しつつ、商品交換者の間で選び出されてきた。
現在の世界では、資本主義的市場経済が発展し、国家と中央銀行制度が確立しているところでは、中央銀行券が「現金通貨」として、流通している。わが国の場合に関しては、日銀のHPを見ると、詳しい統計が公表されている。補助貨幣として、鋳貨(1円、5円、10円、50円、100円、500円)が「貨幣」の名称で流通している。
詳しくは、日銀の解説記事:「お金の製造、発行、流通」、「マネーサプライ統計について」、「マネーサプライ統計の解説」などを参照のこと。
わが国の現在の「お札」(日銀券)の平均流通高[1]は約59兆円、歳末の買い物など年越しの時期のように現金が普通より多く必要な時期には流通高が増え、大晦日では69兆円。現金は、現実の商取引の必要性の多少によって、流通量が規定される。(時期的変動要因と基本的長期的な流通必要量を確認すること)
現実に価値のある商品(財やサービス)を交換する手段として、現実の商品(財やサービス)の価値を表現するものとしての安定性があるがゆえに、紙に印刷された日本銀行券が流通している。ひとたび、現実の価値から乖離した銀行券増刷が行われれば、銀行券の価値はそれだけ減少する。すなわち、商品の価値の貨幣表現(価格表現)はそれだけ高くなり、インフレが起きる。
貨幣の根底にある現実の商品の価値=抽象的人間労働(貨幣額に応じたその一定量)を忘却して、紙幣(日本銀行券)増刷に走れば、悪性インフレとなる。貨幣に対する信頼はなくなる。
サラリーマンは、一定の時間を決めて商品として売った労働力の価値を通貨形態で給料によって支払われるが、その貨幣額(通貨額)と現実物価の乖離で、生活ができなくなる、あるいは苦しくなる。貨幣に対する社会全体の信頼が薄れる。通貨・貨幣の根底にあるもの(商品の価値)を忘れたばあいには、それが必然的結果となる。
現実的基礎(商品価値、膨大な商品量=価値とその価格、その貨幣表現の総体の相互関係)を欠いた強制的通貨発行量の増大によって「インフレターゲット」をもてあそぶとすれば、バブルのとき(土地神話=科学的地代論の欠如)とおなじように、経済法則無視であり、それは経済法則の鉄の必然性によって反撃され、打ち砕かれる。日銀の研究者行員のペーパーは、おおむね「インフレターゲット論」に批判的なようであり、通貨の安定という中央銀行の本来的使命にもとづいて研究を進めているようである。
しかし、為替相場への介入など、経済原則を無視したかに見える行動が、政府・財務省から押し付けられているようであり(2003年度には30兆円?)、日本経済に何をもたらしているかに関してはきちんと批判的な検証が必要となる。貿易関係への特別の配慮(経済法則を無視した為替介入)は、経済にゆがみをもたらすおそれがあるからである。
商品の貨幣表現は、歴史的なものであり、商品の交換関係の発展を背景にしている。現代世界は、商品交換関係が歴史上もっとも深く広範に地球上をおおい、しかも商品交換関係はますます広く深く地球全域の人々の生活の中に浸透している。
商品の価値を表現するための貨幣の歴史的な発展は、まさに商品の価値の本性との関係によるものである。
その歴史的発展と論理的発展の内在的関係を明かにしたのが、マルクスの『資本論』第1巻第1章第三節 価値形態または交換価値である。
以下、この節を詳しく紹介しておこう。
--------------------資本論・第一巻第一章--------------------------
第三節
価値形態または交換価値
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
一 価値表現の両極。相対的価値形態と等価形態
二 相対的価値形態
a 相対的価値形態の内実
b 相対的価値形態の量的規定性
三 等価形態
四 単純な価値形態の全体
-----------------------------
資本論・第一巻第一章
第三節 価値形態または交換価値
3. Die Wertform
oder der Tauschwert
「商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである。それゆえ、商品は、ただそれが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもつかぎりでのみ、商品として現れるのであり、いいかえれば商品という形態をもつのである。
Waren kommen zur Welt in der Form von
Gebrauchswerten oder Warenkörpern, als Eisen, Leinwand, Weizen usw. Es ist dies
ihre hausbackene Naturalform.
Sie sind jedoch nur Waren, weil Doppeltes, Gebrauchsgegenstände und zugleich
Wertträger. Sie erscheinen daher nur als Waren oder besitzen nur
die Form von Waren, sofern sie Doppelform besitzen, Naturalform und Wertform.
「商品の価値対象性は、どうにもつかまえようのわからないしろもの[2]だということによって、マダム・クイックリとは違っている。商品の感覚的に粗雑な対象性とは正反対に、商品の価値対象性には一分子も自然素材ははいっていない。それゆえ、ある一つの商品をどんなにいじりまわしてみても、価値物としては相変わらずつかまえようがないのである。
Die Wertgegenständlichkeit
der Waren unterscheidet sich dadurch von der Wittib Hurtig, daß man nicht weiß,
wo sie zu haben ist. Im graden Gegenteil zur sinnlich groben Gegenständlichkeit
der Warenkörper geht kein Atom Naturstoff
in ihre Wertgegenständlichkeit ein. Man mag daher eine einzelne
Ware drehen und wenden, wie man will, sie bleibt unfaßbar als Wertding.
「とはいえ、諸商品は、ただそれらが人間労働という同じ社会的な単位の諸表現であるかぎりでのみ価値対象性をもっているのだということ、したがって商品の価値対象性は純粋に社会的であるということを思い出すならば、価値対象性は商品と商品との社会的な関係の内にしか現れないということもまたおのずから明らかである。
Erinnern wir uns
jedoch, daß die Waren nur Wertgegenständlichkeit besitzen, sofern sie Ausdrücke
derselben gesellschaftlichen
Einheit, menschlicher Arbeit,
sind, daß ihre Wertgegenständlichkeit also rein gesellschaftlich ist, so versteht sich auch von selbst, daß sie nur
im gesellschaftlichen Verhältnis von Ware zu Ware erscheinen kann.
われわれも、じっさい、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている価値を追跡したのである。いま、われわれは再び価値のこの現象形態に帰らなければならない。
Wir gingen in der
Tat vom Tauschwert oder Austauschverhältnis der
Waren aus, um ihrem darin
versteckten Wert auf die Spur zu kommen. Wir müssen jetzt zu dieser
Erscheinungsform des Wertes zurückkehren.
諸商品は、それらの使用価値の雑多な現物形態とは著しい対照をなしている一つ共通な価値形態―貨幣形態をもっているということは、だれでも、ほかのことはなにも知っていなくても、よく知っていることである。
Jedermann weiß, wenn er
auch sonst nichts weiß, daß die Waren eine mit den
bunten Naturalformen ihrer Gebrauchswerte höchst frappant kontrastierende, gemeinsame
Wertform besitzen - die Geldform.
しかし、いまここでなされなければならないことは、ブルジョア経済学によってただ試みられたことさえないこと、すなわち、この貨幣形態の生成を示すことであり、したがって、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展をその最も単純な最も目立たない姿から光まばゆい貨幣形態に至るまで追跡することである。これによって同時に貨幣の謎も消え去るのである。
Hier gilt es
jedoch zu leisten, was von der bürgerlichen Ökonomie nicht einmal
versucht ward, nämlich die Genesis dieser Geldform nachzuweisen, also die
Entwicklung des im Wertverhältnis der Waren enthaltenen Wertausdrucks von
seiner einfachsten unscheinbarsten Gestalt bis zur blendenden Geldform zu
verfolgen. Damit verschwindet zugleich das Geldrätsel.
最も単純な価値関係は、明らかに、なんであろうとただ一つの異種の商品にたいするある一つの商品の価値関係である。それゆえ、二つの商品の価値関係は、一商品のための最も単純な価値表現を与えるのである。
Das einfachste Wertverhältnis
ist offenbar das Wertverhältnis einer Ware zu einer einzigen verschiedenartigen
Ware, gleichgültig welcher. Das Wertverhätnis zweier Waren
liefert daher den einfachsten Wertausdruck für eine
Ware.
A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
A) Einfache,
einzelne oder zuf舁lige Wertform
x量の商品A = y量の商品B または:
x量の商品A は、y量の商品Bに値する.(x量の商品Aは、y量の商品Bの価値がある)
(20 エレのリンネル= 1着の上着 または:20エレのリンネルは、1着の上着に値する.)
x Ware A = y Ware
B oder:
x Ware A ist y
Ware B wert.
(20 Ellen
Leinwand = 1 Rock oder:
20 Ellen Leinwand
sind 1 Rock wert.)
一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
1. Die
beiden Pole des Wertausdrucks: Relative Wertform und Äquivalentform
すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有の困難がある。
Das Geheimnis aller
Wertform steckt in dieser einfachen Wertform. Ihre
Analyse bietet daher die eigentliche Schwierigkeit.
ここでは二つの異種の商品AとB,われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。
Es spielen hier zwei verschiedenartige
Waren A und B, in unsrem Beispiel Leinwand und Rock, offenbar zwei verschiedene
Rollen.
リンネルは自分の価値を上着であらわしており、上着はこの価値表現の材料として役立っている。
Die Leinwand drückt
ihren Wert aus im Rock, der Rock dient zum Material dieses Wertausdrucks.
第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。
Die erste Ware
spielt eine aktive, die zweite eine passive Rolle.
第一の商品の価値は相対的価値として表される。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。
Der Wert der ersten Ware ist als relativer Wert
dargestellt, oder sie befindet sich in relativer
Wertform.
第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。
Die zweite
Ware funktioniert
als Äquivalent oder befindet sich in Äquivalentform.
相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である[3]。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。
Relative Wertform und Äquivalentform
sind zueinander gehörige, sich wechselseitig bedingende, unzertrennliche
Momente, aber zugleich einander ausschließende oder entgegengesetzte Extreme,
d.h. Pole desselben Wertausdrucks; sie verteilen sich stets auf die
verschiedenen Waren, die der Wertausdruck aufeinander bezieht.
たとえば私は、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネルは、けっして価値表現ではない。この等式が意味しているのはむしろ逆のことである。すなわち、20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルにほかならないということである。
Ich kann z.B. den Wert der Leinwand
nicht in Leinwand ausdrücken. 20 Ellen Leinwand = 20 Ellen Leinwand ist kein
Wertausdruck. Die Gleichung sagt vielmehr umgekehrt: 20 Ellen Leinwand sind
nichts andres als 20 Ellen Leinwand, ein bestimmtes Quantum des
Gebrauchsgegenstandes Leinwand.
つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。
Der Wert der
Leinwand kann also nur relativ ausgedrückt werden, d.h.
in andrer Ware.
それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにか別の一商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。
Die relative
Wertform der Leinwand unterstellt daher, daß irgendeine andre Ware sich ihr
gegenüber in der Äquivalentform befindet.
他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表しているのではない。それはただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。
Andrerseits, diese andre Ware, die als Äquivalent figuriert, kann sich
nicht gleichzeitig in relativer Wertform befinden. Nicht sie drückt ihren Wert
aus. Sie liefert nur dem Wertausdruck andrer
Ware das Material.
もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、という表現は、1着の上着=20エレのリンネル、または一着の上着は20エレのリンネルに値する、という逆関係を含んでいる。
Allerdings schließt der Ausdruck: 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder 20 Ellen
Leinwand sind 1 Rock wert, auch die Rückbeziehungen ein: 1 Rock = 20 Ellen Leinwand
oder 1 Rock ist 20 Ellen Leinwand wert.
しかし、そうではあっても、上着の価値を相対的に表現するためには、この等式を逆にしなければならない。そしてそうするやいなや、上着に代わってリンネルが等価物になる。だから、同じ商品が、同じ価値表現で、同時に、両方の形態で現われることはできないのである。この両極はむしろ対極的に排除しあうのである。
Aber so muß ich
doch die Gleichung umkehren, um den Wert des Rocks relativ auszudrücken, und
sobald ich das tue, wird die Leinwand Äquivalent statt des Rockes. Dieselbe
Ware kann also in demselben Wertausdruck nicht gleichzeitig in beiden Formen
auftreten. Diese schließen sich vielmehr polarisch aus.
そこで、ある商品が相対的価値形態にあるか、反対に等価形態にあるかは、ただ、価値表現のなかでのこの商品のそのつどの位置だけによって、すなわち、その商品が、自分の価値を表現される商品であるのか、それとも、それで価値が表現される商品であるのかということだけによって、定まるのである。
Ob eine
Ware sich nun in relativer Wertform befindet oder in der entgegengesetzten Äquivalentform,
hängt ausschließlich ab von ihrer jedesmaligen Stelle im Wertausdruck, d.h.
davon, ob sie die Ware ist, deren Wert, oder aber
die Ware, worin Wert ausgedrückt wird.
二 相対的価値形態
2. Die relative
Wertform
a 相対的価値形態の内実
a) Gehalt der
relativen Wertform
一商品の単純な価値表現が二つの商品の価値関係のうちにどのようにひそんでいるかと見つけ出すためには、この価値関係をさしあたりまずその量的な面からはまったく離れて考察しなければならない。
Um herauszufinden, wie der einfache
Wertausdruck einer Ware im Wertverhältnis zweier Waren steckt, muß man
letzteres zunächst ganz unabhängig von seiner quantitativen Seite betrachten.
人はたいていこれとは正反対のことをやるのであって、価値関係のうちに、ただ、二つの商品種類のそれぞれの一定量が互いに等しいとされる割合だけを見ているのである。
Man verfährt
meist grade umgekehrt und sieht im Wertverhältnis nur die Proportion, worin
bestimmte Quanta zweier Warensorten einander gleichgelten.
人は、いろいろな物の大きさは、それらが同じ単位に還元されてからはじめて量的に比較されうるようになるということを見落としているのである。ただ同じ単位の諸表現としてのみ、これらの物の大きさは、同名の、したがって通約可能な大きさなのである。
Man übersieht, daß
die Größen verschiedner Dinge erst quantitativ vergleichbar werden nach
ihrer Reduktion auf dieselbe Einheit. Nur als Ausdrücke derselben
Einheit sind sie gleichnamige, daher kommensurable
Größen.(原注23)
(原注23)
S.ベーリのように価値形態の分析に携わってきた少数の経済学者が少しも成果を上げることができなかったのは、一つには彼らが価値形態と価値を混同しているからであり、第二には、彼らが、実際的なブルジョアの粗雑さの影響のもとで、はじめからただ量的規定性だけに着目しているからである。「量に対する支配が・・・価値である。」(『貨幣とその価値の転変』ロンドン、1837年、11ページ)著者はS.ベーリ。
Die
wenigen Ökonomen, die sich, wie S. Bailey, mit der Analyse der Wertform beschäftigt
haben, konnten zu keinem Resultat kommen, einmal, weil sie Wertform und Wert
verwechseln, zweitens, weil sie, unter dem rohen Einfluß des praktischen Bürgers,
von vornherein ausschließlich die quantitative Bestimmtheit ins Auge fassen. „Die
Verfügung über die Quantität... macht den Wert.“ („Money
and its Vicissitudes“, Lond. 1837, p. 11.) Verfasser S. Bailey.
[Marx: Das
Kapital, S. 1163. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 4477]
20エレのリンネル=1着の上着であろうと、=20着の上着 であろうと、または =x着の上着であろうと、すなわち、一定量のリンネルが多くの上着に値しようと、少ない上着に値しようと、このような割合は、どれでもつねに、価値量としてはリンネルも上着も同じ単位の諸表現であり、同じ性質の諸物であるということを含んでいる。リンネル=上着 というのが等式の基礎である。
Ob 20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder = 20 oder = x Röcke, d.h., ob ein
gegebenes Quantum Leinwand viele oder wenige Röcke wert ist, jede solche
Proportion schließt stets ein, daß Leinwand und Röcke als Wertgrößen Ausdrücke
derselben Einheit, Dinge von derselben Natur
sind. Leinwand = Rock ist die Grundlage der Gleichung.
しかし、質的に等置された二つの商品は、同じ役割を演じるのではない。ただ、リンネルの価値だけが表現される。ではどのようにしてか? リンネルが自分の「等価物」または自分と「交換されうるもの」としての上着にたいして持つ関係によって、である。この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、価値物として、認められる。なぜならば、ただこのような価値物としてのみ、上着はリンネルと同じだからである。
Aber die zwei qualitativ gleichgesetzten
Waren spielen nicht dieselbe Rolle. Nur der Wert der Leinwand wird
ausgedrückt. Und wie? Durch ihre Beziehung auf den Rock als ihr „Äquivalent“
oder mit ihr „Austauschbares“. In diesem Verhältnis gilt der Rock als Existenzform
von Wert, als Wertding, denn nur als solches
ist er dasselbe wie die Leinwand.
他面では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくる。すなわち独立の表現を与えられる。なぜならば、ただ価値としてのみ、リンネルは等価物または自分と交換されうるものとしての上着に関係することができるからである。
Andrerseits kommt
das eigne Wertsein der Leinwand zum Vorschein oder erhält
einen selbständigen Ausdruck, denn nur als Wert ist sie auf
den Rock als Gleichwertiges oder mit
ihr Austauschbares bezüglich.
たとえば、酪酸は蟻酸プロピルとは違った物体である。とはいえ、両方とも同じ化学的実体―炭素(C)と水素(H)と酸素(O)とから成っており、しかも同じ百分比組成、すなわちC4H8O2をもっている。いま仮に酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係のなかでは、第一に蟻酸プロピルはただC4H8O2の存在形態として認められているだけであろう。そして第二に酪酸もまたC4H8O2空なっていることが示されているであろう。つまり、蟻酸プロピルが酪酸に等置されることによって、酪酸の化学的実体がその物体形態とは区別されて表現されていることになるであろう。
So ist die
Buttersäure ein vom Propylformat verschiedner Körper. Beide bestehn jedoch aus
denselben chemischen Substanzen - Kohlenstoff (C), Wasserstoff (H) und
Sauerstoff (O), und zwar in gleicher prozentiger Zusammensetzung, nämlich
C4H8O2. Würde nun der Buttersäure das Propylformat gleichgesetzt, so gälte in
diesem Verhältnis erstens das Propylformat bloß als Existenzform von C4H8O2 und
zweitens wäre gesagt, daß auch die Buttersäure aus C4H8O2 besteht. Durch
die Gleichsetzung des Propylformats mit der Buttersäure wäre also
ihre chemische Substanz im Unterschied von ihrer Körperform ausgedrückt.
われわれが、価値としては商品は人間労働のたんなる凝固である、というならば、われわれの分析は商品を価値抽象に還元しはするが、しかしh、商品にその現物形態とは違った価値形態を与えはしない。
Sagen wir: als Werte sind die Waren bloße Gallerten menschlicher
Arbeit, so reduziert unsre Analyse dieselben auf die Wertabstraktion,
gibt ihnen aber keine von ihren Naturalformen verschiedne Wertform.
一商品の他の一商品に対する価値関係のなかではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、他の一商品に対するそれ自身の関係によって現われてくるのである。
Anders im
Wertverhältnis einer Ware zur andern. Ihr Wertcharakter tritt hier
hervor durch ihre eigne Beziehung zu der andern Ware.
たとえば上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、上着に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働に等置される。
Indem z.B. der Rock als Wertding der Leinwand gleichgesetzt wird, wird die
in ihm steckende Arbeit der in ihr steckenden Arbeit gleichgesetzt.
ところで、たしかに、上着をつくる裁縫は、リンネルがつくる織布とは種類の違った具体的労働である。しかし、織布との等置は、裁縫を、事実上、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働の両方に共通な性格に、還元するのである。
Nun ist zwar die
Schneiderei, die den Rock macht, eine von der Weberei, die die Leinwand macht,
verschiedenartige konkrete Arbeit. Aber die Gleichsetzung mit der
Weberei reduziert
die Schneiderei tatsächlich auf das in
beiden Arbeiten wirklich Gleiche, auf ihren
gemeinsamen Charakter menschlicher Arbeit.
このような回り道をして、次には、織布もまた、それが価値を織るかぎりでは、それを裁縫から区別する特徴をもってはいないということ、つまり、抽象的人間労働であるということが、言われているのである。
Auf diesem Umweg
ist dann gesagt, daß auch die Weberei, sofern sie Wert webt, keine
Unterscheidungsmerkmale von der Schneiderei besitzt, also abstrakt menschliche
Arbeit ist.
ただ異種の諸商品の等価表現だけが、価値形成労働の独自な性格を顕にするのである。というのは、この等価表現は、異種の諸商品のうちにひそんでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通なものに、人間労働一般に、還元するのだからである。
Nur der Äquivalenzausdruck
verschiedenartiger Waren bringt den spezifischen Charakter der wertbildenden
Arbeit zum Vorschein, indem er die in den verschiedenartigen Waren steckenden,
verschiedenartigen Arbeiten tatsächlich auf ihr Gemeinsames reduziert, auf menschliche
Arbeit überhaupt.24
(原注24)
第二版への注。
一流の経済学者の一人であってウィリアム・ペティについで価値の性質を見抜いた有名なフランクリンは、つぎのように言っている。「およそ商業はある労働と他の労働との交換にほかならないのだから、すべての物の価値は労働によって最も正しく評価されるのである。」(『B・フランクリン著作集』スパークス編、ボストン、1836年、第2巻、267ページ。)フランクリンは、すべての物の価値を「労働で」評価することによって彼は交換される諸労働の相違を捨象し―したがってそれらの労働を同等な人間労働に還元しているのだということを意識してはいない。とはいえ、彼は自分の知っていないことを言っているのである。彼は、まず「ある労働」といい、次に「他の労働」と言い、最後に、あらゆる物の価値の実体としての、そのほか何も形容詞のない「労働」と言っているのである。
Note
zur 2. Ausgabe.
Einer
der ersten Ökonomen, der nach William Petty die
Natur des Werts durchschaut hat, der berühmte Franklin,
sagt: „Da der Handel überhaupt nichts ist als der Austausch einer Arbeit gegen andre Arbeit,
wird der Wert aller Dinge am richtigsten geschätzt
in Arbeit.“ (“The Works of B. Franklin etc.”, edited by Sparks, Boston 1836, v.
II, p.267.) Franklin ist sich
nicht bewußt, daß, indem er den Wert aller Dinge „in Arbeit“
schätzt, er von derVerschiedenheit der ausgetauschten Arbeiten abstrahiert -
und sie so auf gleiche menschliche Arbeit reduziert. Was
er nicht weiß, sagt er jedoch. Er spricht erst von „der einen
Arbeit“, dann „von der andren Arbeit“, schließlich
von „Arbeit“ ohne weitere Bezeichnung als
Substanz des Werts aller Dinge.
[Marx: Das
Kapital, S. 1163. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 4477f]
しかし、リンネルの価値をなしている労働の独自な性格を表現するだけでは十分ではない。流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし価値ではない。それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になるのである。リンネル価値を人間労働の凝固として表現するためには、それを、リンネルそのものとは物的に違っていると同時にリンネルと他の商品とに共通な「対象性」として表現しなければならない。課題はすでに解決されている。
Es genügt indes nicht, den spezifischen
Charakter der Arbeit auszudrücken, woraus der Wert der Leinwand besteht. Menschliche
Arbeitskraft im flüssigen Zustand oder menschliche
Arbeit bildet Wert, aber ist nicht Wert. Sie wird Wert
in
geronnenem Zustand, in gegenständlicher Form.
Um den Leinwandwert als Gallerte menschlicher Arbeit
auszudrücken, muß er als eine „Gegenständlichkeit“ ausgedrückt werden, welche
von der Leinwand selbst dinglich verschieden und ihr zugleich mit andrer Ware gemeinsam
ist. Die Aufgabe ist bereits gelöst.
Im Wertverh舁tnis der Leinwand gilt der Rock als ihr qualitativ Gleiches, als Ding von
derselben Natur, weil er ein Wert ist. Er gilt hier daher als ein Ding, worin
Wert erscheint oder welches in seiner handgreiflichen Naturalform Wert
darstellt. Nun ist zwar der Rock, der Krper der Rockware, ein
blo゚er Gebrauchswert. Ein Rock dr・kt ebensowenig Wert aus als das erste beste St・k Leinwand. Dies beweist nur, da゚ er innerhalb des
Wertverh舁tnisses zur Leinwand mehr bedeutet als au゚erhalb desselben, wie so mancher Mensch innerhalb eines galonierten Rockes
mehr bedeutet als au゚erhalb desselben.
In der Produktion des
Rockes ist tats臘hlich, unter der Form der Schneiderei,
menschliche Arbeitskraft verausgabt worden. Es ist also menschliche Arbeit in
ihm aufgeh舫ft. Nach dieser Seite hin ist der Rock サTr臠er von Wertォ, obgleich diese seine
Eigenschaft selbst durch seine gr゚te Fadenscheinigkeit
nicht durchblickt. Und im Wertverh舁tnis der Leinwand gilt
er nur nach dieser Seite, daher als verkrperter Wert, als Wertkrper. Trotz seiner zugeknpften Erscheinung hat die Leinwand in ihm
die stammverwandte schne Wertseele erkannt. Der Rock kann ihr
gegen・er jedoch nicht Wert darstellen, ohne da゚ f・ sie gleichzeitig der Wert die Form eines Rockes
annimmt. So kann sich das Individuum A nicht zum Individuum B als einer Majest舩 verhalten, ohne da゚ f・ A die Majest舩 zugleich die Leibesgestalt von B annimmt und daher Gesichtsz・e, Haare und manches andre noch mit dem jedesmaligen Landesvater wechselt.
Im Wertverh舁tnis, worin der Rock das トquivalent der Leinwand
bildet, gilt also die Rockform als Wertform. Der Wert der Ware Leinwand wird
daher ausgedr・kt im Krper der Ware Rock, der
Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. Als Gebrauchswert ist die Leinwand
ein vom Rock sinnlich verschiednes Ding, als Wert ist sie サRockgleichesォ und sieht daher aus wie ein Rock. So erh舁t sie eine von ihrer Naturalform verschiedne Wertform. Ihr Wertsein
erscheint in ihrer Gleichheit mit dem Rock wie die Schafsnatur des Christen in
seiner Gleichheit mit dem Lamm Gottes.
Man sieht, alles, was uns
die Analyse des Warenwerts vorher sagte, sagt die Leinwand selbst, sobald sie
in Umgang mit andrer Ware, dem Rock, tritt. Nur verr舩 sie ihre Gedanken in der ihr allein gel舫figen Sprache, der
Warensprache. Um zu sagen, da゚ die Arbeit in der
abstrakten Eigenschaft menschlicher Arbeit ihren eignen Wert bildet, sagt sie,
da゚ der Rock, soweit er ihr gleichgilt, also Wert
ist, aus derselben Arbeit besteht wie die Leinwand. Um zu sagen, da゚ ihre sublime Wertgegenst舅dlichkeit von ihrem
steifleinenen Krper verschieden ist, sagt sie, da゚ Wert aussieht wie ein Rock und daher sie selbst als Wertding dem Rock
gleicht wie ein Ei dem andern. Nebenbei bemerkt, hat auch die Warensprache, au゚er dem Hebr臺schen, noch viele andre mehr oder minder
korrekte Mundarten. Das deutsche サWertseinォ dr・kt z.B. minder schlagend aus als das romanische
Zeitwort valere, valer, valoir, da゚ die Gleichsetzung der
Ware B mit der Ware A der eigne Wertausdruck der Ware A ist. Paris vaut bien une messe!
Vermittelst des Wertverh舁tnisses wird also die Naturalform der Ware B zur Wertform der Ware A oder
der Krper der Ware B zum Wertspiegel der Ware A.25 Indem
sich die Ware A auf die Ware B als Wertkrper bezieht, als
Materiatur menschlicher Arbeit, macht sie den Gebrauchswert B zum Material
ihres eignen Wertausdrucks. Der Wert der Ware A, so ausgedr・kt im Gebrauchswert der Ware B, besitzt die Form des relativen Werts.
b) Quantitative
Bestimmtheit der relativen Wertform
Jede Ware, deren Wert
ausgedr・kt werden soll, ist ein Gebrauchsgegenstand von
gegebnem Quantum, 15 Scheffel Weizen, 100 Pfd. Kaffee usw. Dieses gegebne
Warenquantum enth舁t ein bestimmtes Quantum menschlicher
Arbeit. Die Wertform hat also nicht nur Wert ・erhaupt, sondern
quantitativ bestimmten Wert oder Wertgr゚e auszudr・ken. Im Wertverh舁tnis der Ware A zur Ware B, der Leinwand
zum Rocke, wird daher die Warenart Rock nicht nur als Wertkrper ・erhaupt der Leinwand qualitativ gleichgesetzt,
sondern einem bestimmten Leinwandquantum, z.B. 20 Ellen Leinwand, ein
bestimmtes Quantum des Wertkrpers oder トquivalents, z.B. 1 Rock.
Die Gleichung: サ20 Ellen Leinwand = 1 Rock oder: 20 Ellen Leinwand sind 1 Rock wertォ setzt voraus, da゚ in 1 Rock gerade so viel Wertsubstanz
steckt als in 20 Ellen Leinwand, da゚ beide Warenquanta also
gleich viel Arbeit kosten oder gleich gro゚e Arbeitszeit. Die zur
Produktion von 20 Ellen Leinwand oder 1 Rock notwendige Arbeitszeit wechselt
aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Weberei oder der Schneiderei.
Der Einflu゚ solcher Wechsel auf den relativen Ausdruck der
Wertgr゚e soll nun n臧er untersucht werden.
I. Der Wert der Leinwand
wechsle26, w臧rend der Rockwert konstant bleibt. Verdoppelt sich
die zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit, etwa infolge
zunehmender Unfruchtbarkeit des flachstragenden Bodens, so verdoppelt sich ihr
Wert. Statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock h舩ten wir 20 Ellen
Leinwand = 2 Rcke, da 1 Rock jetzt nur halb so viel
Arbeitszeit enth舁t als 20 Ellen Leinwand. Nimmt dagegen die
zur Produktion der Leinwand notwendige Arbeitszeit um die H舁fte ab, etwa infolge verbesserter Webst・le, so sinkt der
Leinwandwert um die H舁fte. Demgem葹 jetzt: 20 Ellen Leinwand
= 1/2 Rock. Der relative Wert der Ware A, d.h. ihr Wert ausgedr・kt in der Ware B, steigt und f舁lt also direkt wie der
Wert der Ware A, bei gleichbleibendem Wert der Ware B.
II. Der Wert der Leinwand
bleibe konstant, w臧rend der Rockwert wechsle. Verdoppelt sich
unter diesen Umst舅den die zur Produktion des Rockes
notwendige Arbeitszeit, etwa infolge ung・stiger Wollschur, so
haben wir statt 20 Ellen Leinwand = 1 Rock jetzt: 20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock.
F舁lt dagegen der Wert des Rockes um die H舁fte, so 20 Ellen Leinwand = 2 Rcke. Bei gleichbleibendem
Wert der Ware A f舁lt oder steigt daher ihr relativer, in der
Ware B ausgedr・kter Wert im umgekehrten Verh舁tnis zum Wertwechsel von B.
Vergleicht man die
verschiednen F舁le sub I und II, so ergibt sich, da゚ derselbe Gr゚enwechsel des relativen Werts aus ganz
entgegengesetzten Ursachen entspringen kann. So wird aus 20 Ellen Leinwand = 1
Rock: 1. die Gleichung 20 Ellen Leinwand = 2 Rcke, entweder weil der
Wert der Leinwand sich verdoppelt oder der Wert der Rcke um die H舁fte f舁lt, und 2. die Gleichung
20 Ellen Leinwand = 1/2 Rock, entweder weil der Wert der Leinwand um die H舁fte sinkt oder der Wert des Rockes auf das Doppelte steigt.
III. Die zur Produktion von
Leinwand und Rock notwendigen Arbeitsquanta mgen gleichzeitig, in
derselben Richtung und derselben Proportion wechseln. In diesem Falle nach wie
vor 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, wie immer ihre Werte ver舅dert seien. Man entdeckt ihren Wertwechsel, sobald man sie mit einer
dritten Ware vergleicht, deren Wert konstant blieb. Stiegen oder fielen die
Werte aller Waren gleichzeitig und in derselben Proportion, so w・den ihre relativen Werte unver舅dert bleiben. Ihren
wirklichen Wertwechsel ers臧e man daraus, da゚ in derselben Arbeitszeit nun allgemein ein gr゚eres oder kleineres Warenquantum als vorher geliefert w・de.
IV. Die zur Produktion von
Leinwand und Rock resp. notwendigen Arbeitszeiten, und daher ihre Werte, mgen gleichzeitig in derselben Richtung wechseln, aber in ungleichem Grad,
oder in entgegengesetzter Richtung usw. Der Einflu゚ aller mglichen derartigen Kombinationen auf den relativen
Wert einer Ware ergibt sich einfach durch Anwendung der F舁le I, II und III.
Wirkliche Wechsel der
Wertgr゚e spiegeln sich also weder unzweideutig noch erschpfend wider in ihrem relativen Ausdruck oder in der Gr゚e des relativen Werts. Der relative Wert einer Ware kann wechseln, obgleich
ihr Wert konstant bleibt. Ihr relativer Wert kann konstant bleiben, obgleich
ihr Wert wechselt, und endlich brauchen gleichzeitige Wechsel in ihrer Wertgr゚e und im relativen Ausdruck dieser Wertgr゚e sich keineswegs zu
decken.27
3. Die トquivalentform
Man hat gesehn: indem eine
Ware A (die Leinwand) ihren Wert im Gebrauchswert einer verschiedenartigen Ware
B (dem Rock) ausdr・kt, dr・kt sie letzterer selbst
eine eigent・liche Wertform auf, die des トquivalents. Die Leinwandware bringt ihr eignes Wertsein dadurch zum
Vorschein, da゚ ihr der Rock, ohne Annahme einer von
seiner Krperform verschiednen Wertform, gleichgilt. Die
Leinwand dr・kt also in der Tat ihr eignes Wertsein dadurch
aus, da゚ der Rock unmittelbar mit ihr austauschbar ist.
Die トquivalentform einer Ware ist folglich die Form
ihrer unmittelbaren Austauschbarkeit mit anderer Ware.
Wenn eine Warenart, wie Rcke, einer andren Warenart, wie Leinwand, zum トquivalent dient, Rcke daher die charakteristische Eigenschaft erhalten, sich in unmittelbar
austauschbarer Form mit Leinwand zu befinden, so ist damit in keiner Weise die
Proportion gegeben, worin Rcke und Leinwand austauschbar sind. Sie h舅gt, da die Wertgr゚e der Leinwand gegeben ist, von der Wertgr゚e der Rcke ab. Ob der Rock als トquivalent und die Leinwand als relativer Wert oder umgekehrt die Leinwand
als トquivalent und der Rock als relativer Wert ausgedr・kt sei, seine Wertgr゚e bleibt nach wie vor durch die zu seiner
Produktion notwendige Arbeitszeit, also unabh舅gig von seiner Wertform
bestimmt. Aber sobald die Warenart Rock im Wertausdruck die Stelle des トquivalents einnimmt, erh舁t ihre Wertgr゚e keinen Ausdruck als Wertgr゚e. Sie figuriert in der
Wertgleichung vielmehr nur als bestimmtes Quantum einer Sache.
Z.B.: 40 Ellen Leinwand
sind サwertォ - was? 2 Rcke. Weil die Warenart Rock hier die Rolle des トquivalents spielt, der Gebrauchswert Rock der Leinwand gegen・er als Wertkrper gilt, gen・t auch ein bestimmtes Quantum Rcke, um ein bestimmtes
Wertquantum Leinwand auszudr・ken. Zwei Rcke knnen daher die Wertgr゚e von 40 Ellen Leinwand, aber sie knnen nie ihre eigne Wertgr゚e, die Wertgr゚e von Rcken, ausdr・ken. Die oberfl臘hliche Auffassung dieser Tatsache, da゚ das トquivalent in der Wertgleichung stets nur die Form eines einfachen Quantums
einer Sache, eines Gebrauchswertes, besitzt, hat Bailey, wie viele seiner Vorg舅ger und Nachfolger, verleitet, im Wertausdruck ein nur quantitatives Verh舁tnis zu sehn. Die トquivalentform einer Ware enth舁t vielmehr keine quantitative Wertbestimmung.
Die erste Eigent・lichkeit, die bei Betrachtung der トquivalentform auff舁lt, ist diese: Gebrauchswert wird zur Erscheinungsform seines Gegenteils,
des Werts.
Die Naturalform der Ware
wird zur Wertform. Aber, notabene, dies Quidproquo ereignet sich f・ eine Ware B (Rock oder Weizen oder Eisen usw.) nur innerhalb des Wertverh舁tnisses, worin eine beliebige andre Ware A (Leinwand etc.) zu ihr tritt,
nur innerhalb dieser Beziehung. Da keine Ware sich auf sich selbst als トquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck
ihres eignen Werts machen kann, mu゚ sie sich auf andre Ware
als トquivalent beziehn oder die Naturalhaut einer
andren Ware zu ihrer eignen Wertform machen.
Dies veranschauliche uns
das Beispiel eines Ma゚es, welches den Warenkrpern als Warenkrpern zukommt, d.h. als Gebrauchswerten.
Ein Zuckerhut, weil Krper, ist schwer und hat daher Gewicht,
aber man kann keinem Zuckerhut sein Gewicht ansehn oder anf・len. Wir nehmen nun verschiedne St・ke Eisen, deren Gewicht
vorher bestimmt ist. Die Krperform des Eisens, f・ sich betrachtet, ist ebensowenig Erscheinungsform der Schwere als die des
Zuckerhuts. Dennoch, um den Zuckerhut als Schwere auszudr・ken, setzen wir ihn in ein Gewichtsverh舁tnis zum Eisen. In
diesem Verh舁tnis gilt das Eisen als ein Krper, der nichts darstellt au゚er Schwere. Eisenquanta
dienen daher zum Gewichtsma゚ des Zuckers und repr舖entieren dem Zuckerkrper gegen・er blo゚e Schwergestalt, Erscheinungsform von Schwere. Diese Rolle spielt das Eisen
nur innerhalb dieses Verh舁tnisses, worin der Zucker oder irgendein
anderer Krper, dessen Gewicht gefunden werden soll, zu ihm
tritt. W舐en beide Dinge nicht schwer, so knnten sie nicht in dieses Verh舁tnis treten und das eine
daher nicht zum Ausdruck der Schwere des andren dienen. Werfen wir beide auf
die Waagschale, so sehn wir in der Tat, da゚ sie als Schwere
dasselbe, und daher in bestimmter Proportion auch von demselben Gewicht sind.
Wie der Eisenkrper als Gewichtsma゚ dem Zuckerhut gegen・er nur Schwere, so vertritt in unsrem
Wertausdruck der Rockkrper der Leinwand gegen・er nur Wert.
Hier hrt jedoch die Analogie auf. Das Eisen vertritt im Gewichtsausdruck des
Zuckerhuts eine beiden Krpern gemeinsame Natureigenschaft, ihre
Schwere, w臧rend der Rock im Wertausdruck der Leinwand eine ・ernat・liche Eigenschaft beider Dinge vertritt: ihren
Wert, etwas rein Gesellschaftliches.
Indem die relative Wertform
einer Ware, z.B. der Leinwand, ihr Wertsein als etwas von ihrem Krper und seinen Eigenschaften durchaus Unterschiedenes ausdr・kt, z.B. als Rockgleiches, deutet dieser Ausdruck selbst an, da゚ er ein gesellschaftliches Verh舁tnis verbirgt. Umgekehrt
mit der トquivalentform. Sie besteht ja gerade darin, da゚ ein Warenkrper, wie der Rock, dies Ding wie es geht
und steht, Wert ausdr・kt, also von Natur Wertform besitzt. Zwar
gilt dies nur innerhalb des Wertverh舁tnisses, worin die
Leinwandware auf die Rockware als トquivalent bezogen ist.28
Da aber Eigenschaften eines Dings nicht aus seinem Verh舁tnis zu andern Dingen entspringen, sich vielmehr in solchem Verh舁tnis nur bet舩igen, scheint auch der Rock seine トquivalentform, seine Eigenschaft unmittelbarer Austauschbarkeit, ebensosehr
von Natur zu besitzen wie seine Eigenschaft, schwer zu sein oder warm zu
halten. Daher das R舩selhafte der トquivalentform, das den b・gerlich rohen Blick des politischen ヨkonomen erst schl臠t, sobald diese Form ihm fertig gegen・ertritt im Geld. Dann sucht er den mystischen Charakter von Gold und Silber
wegzukl舐en, indem er ihnen minder blendende Waren
unterschiebt und mit stets erneutem Vergn・en den Katalog all des
Warenpbels ableiert, der seinerzeit die Rolle des Waren舍uivalents gespielt hat. Er ahnt nicht, da゚ schon der einfachste
Wertausdruck, wie 20 Ellen Leinwand = 1 Rock, das R舩sel der トquivalentform zu lsen gibt.
Der Krper der Ware, die zum トquivalent dient, gilt stets als Verkrperung abstrakt menschlicher Arbeit und ist stets das Produkt einer
bestimmten n・zlichen, konkreten Arbeit. Diese konkrete Arbeit
wird also zum Ausdruck abstrakt menschlicher Arbeit. Gilt der Rock z.B. als blo゚e Verwirklichung, so die Schneiderei, die sich tats臘hlich in ihm verwirklicht, als blo゚e Verwirklichungsform
abstrakt menschlicher Arbeit. Im Wertausdruck der Leinwand besteht die N・zlichkeit der Schneiderei nicht darin, da゚ sie Kleider, also auch
Leute, sondern da゚ sie einen Krper macht, dem man es
ansieht, da゚ er Wert ist, also Gallerte von Arbeit, die sich
durchaus nicht unterscheidet von der im Leinwandwert vergegenst舅dlichten Arbeit. Um solch einen Wertspiegel zu machen, mu゚ die Schneiderei selbst nichts widerspiegeln au゚er ihrer abstrakten Eigenschaft, menschliche Arbeit zu sein.
In der Form der Schneiderei
wie in der Form der Weberei wird menschliche Arbeitskraft verausgabt. Beide
besitzen daher die allgemeine Eigenschaft menschlicher Arbeit und mgen daher in bestimmten F舁len, z.B. bei der Wertproduktion, nur
unter diesem Gesichtspunkt in Betracht kommen. All das ist nicht mysteris. Aber im Wertausdruck der Ware wird die Sache verdreht. Um z.B. auszudr・ken, da゚ das Weben nicht in seiner konkreten Form als
Weben, sondern in seiner allgemeinen Eigenschaft als menschliche Arbeit den
Leinwandwert bildet, wird ihm die Schneiderei, die konkrete Arbeit, die das
Leinwand-トquivalent produziert, gegen・ergestellt als die handgreifliche Verwirklichungsform abstrakt menschlicher
Arbeit.
Es ist also eine zweite
Eigent・lichkeit der トquivalentform, da゚ konkrete Arbeit zur Erscheinungsform ihres Gegenteils, abstrakt
menschlicher Arbeit wird.
Indem aber diese konkrete
Arbeit, die Schneiderei, als blo゚er Ausdruck
unterschiedsloser menschlicher Arbeit gilt, besitzt sie die Form der Gleichheit
mit andrer Arbeit, der in der Leinwand steckenden Arbeit, und ist daher,
obgleich Privatarbeit, wie alle andre, Waren produzierende Arbeit, dennoch
Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form. Ebendeshalb stellt sie sich dar
in einem Produkt, das unmittelbar austauschbar mit andrer Ware ist. Es ist also
eine dritte Eigent・lichkeit der トquivalentform, da゚ Privatarbeit zur Form ihres Gegenteils
wird, zu Arbeit in unmittelbar gesellschaftlicher Form.
Die beiden zuletzt
entwickelten Eigent・lichkeiten der トquivalentform werden noch fa゚barer, wenn wir zu dem
gro゚en Forscher zur・kgehn, der die Wertform,
wie so viele Denkformen, Gesellschaftsformen und Naturformen zuerst analysiert
hat. Es ist dies Aristoteles.
Zun臘hst spricht Aristoteles klar aus, da゚ die Geldform der Ware
nur die weiter entwickelte Gestalt der einfachen Wertform ist, d.h. des
Ausdrucks des Werts einer Ware in irgendeiner beliebigen andren Ware, denn er
sagt:
サ5 Polster = 1 Hausォ
(Klinai pente
anti oikias)
サunterscheidet sich nichtォ von:
サ5 Polster = soundso viel Geldォ
(Klinai pente
anti... hosou hai pente klinai.)
Er sieht ferner ein, da゚ das Wertverh舁tnis, worin dieser Wertausdruck steckt,
seinerseits bedingt, da゚ das Haus dem Polster qualitativ
gleichgesetzt wird und da゚ diese sinnlich verschiednen Dinge ohne
solche Wesensgleichheit nicht als kommensurable Gr゚en aufeinander beziehbar w舐en. サDer Austauschォ, sagt er, サkann nicht sein ohne die
Gleichheit, die Gleichheit aber nicht ohne die Kommensurabilit舩ォ (サout' isot黌 m・ous黌 symmetriasォ). Hier aber stutzt er
und gibt die weitere Analyse der Wertform auf. サEs ist aber in Wahrheit
unmglich ('t・men oun al黎heia adynaton'), da゚ so verschiedenartige Dinge kommensurabelォ, d.h. qualitativ gleich seien. Diese Gleichsetzung kann nur etwas der
wahren Natur der Dinge Fremdes sein, also nur サNotbehelf f・ das praktische Bed・fnisォ.
Aristoteles sagt uns also selbst, woran seine
weitere Analyse scheitert, n舂lich am Mangel des Wertbegriffs. Was ist
das Gleiche, d.h. die gemeinschaftliche Substanz, die das Haus f・ den Polster im Wertausdruck des Polsters vorstellt? So etwas kann サin Wahrheit nicht existierenォ, sagt Aristoteles.
Warum? Das Haus stellt dem Polster gegen・er ein Gleiches vor,
soweit es das in beiden, dem Polster und dem Haus, wirklich Gleiche vorstellt.
Und das ist - menschliche Arbeit.
Da゚ aber in der Form der Warenwerte alle Arbeiten als gleiche menschliche
Arbeit und daher als gleichgeltend ausgedr・kt sind, konnte
Aristoteles nicht aus der Wertform selbst herauslesen, weil die griechische
Gesellschaft auf der Sklavenarbeit beruhte, daher die Ungleichheit der Menschen
und ihrer Arbeitskr臟te zur Naturbasis hatte. Das Geheimnis des
Wertausdrucks, die Gleichheit und gleiche G・tigkeit aller Arbeiten,
weil und insofern sie menschliche Arbeit ・erhaupt sind, kann nur
entziffert werden, sobald der Begriff der menschlichen Gleichheit bereits die
Festigkeit eines Volksvorurteils besitzt. Das ist aber erst mglich in einer Gesellschaft, worin die Warenform die allgemeine Form des
Arbeitsprodukts, also auch das Verh舁tnis der Menschen
zueinander als Warenbesitzer das herrschende gesellschaftliche Verh舁tnis ist. Das Genie des Aristoteles gl舅zt grade darin, da゚ er im Wertausdruck der Waren ein Gleichheitsverh舁tnis entdeckt. Nur die historische Schranke der Gesellschaft, worin er
lebte, verhindert ihn herauszufinden, worin denn サin Wahrheitォ dies Gleichheitsverh舁tnis besteht.
4. Das Ganze der
einfachen Wertform
Die einfache Wertform einer
Ware ist enthalten in ihrem Wertverh舁tnis zu einer
verschiedenartigen Ware oder im Austauschverh舁tnis mit derselben. Der
Wert der Ware A wird qualitativ ausgedr・kt durch die
unmittelbare Austauschbarkeit der Ware B mit der Ware A. Er wird quantitativ
ausgedr・kt durch die Austauschbarkeit eines bestimmten
Quantums der Ware B mit dem gegebenen Quantum der Ware A. In andren Worten: Der
Wert einer Ware ist selbst舅dig ausgedr・kt durch seine
Darstellung als サTauschwertォ. Wenn es im Eingang
dieses Kapitels in der gang und g臙en Manier hie゚: Die Ware ist Gebrauchswert und Tauschwert, so war dies, genau gesprochen,
falsch. Die Ware ist Gebrauchswert oder Gebrauchsgegenstand und サWertォ. Sie stellt sich dar als dies Doppelte, was sie
ist, sobald ihr Wert eine eigne, von ihrer Naturalform verschiedene Erscheinungsform
besitzt, die des Tauschwerts, und sie besitzt diese Form niemals isoliert
betrachtet, sondern stets nur im Wert- oder Austauschverh舁tnis zu einer zweiten, verschiedenartigen Ware. Wei゚ man das jedoch einmal, so tut jene Sprechweise keinen Harm, sondern dient
zur Abk・zung.
Unsere Analyse bewies, da゚ die Wertform oder der Wertausdruck der Ware aus der Natur des Warenwerts
entspringt, nicht umgekehrt Wert und Wertgr゚e aus ihrer
Ausdrucksweise als Tauschwert. Dies ist jedoch der Wahn sowohl der Merkantilisten
und ihrer modernen Aufw舐mer, wie Ferrier, Ganilh usw.29, als auch
ihrer Antipoden, der modernen Freihandels-Commis-Voyageurs, wie Bastiat und
Konsorten. Die Merkantilisten legen das Hauptgewicht auf die qualitative Seite
des Wertausdrucks, daher auf die トquivalentform der Ware,
die im Geld ihre fertige Gestalt besitzt - die modernen Freihandelshausierer
dagegen, die ihre Ware um jeden Preis losschlagen m・sen, auf die quantitative Seite der relativen Wertform. F・ sie existiert folglich weder Wert noch Wertgr゚e der Ware au゚er in dem Ausdruck durch das Austauschverh舁tnis, daher nur im Zettel des t臠lichen Preiskurants. Der
Schotte Macleod, in seiner Funktion, die kreuzverwirrten Vorstellungen von
Lombardstreet mglichst gelehrt herauszuputzen, bildet die
gelungene Synthese zwischen den abergl舫bigen Merkantilisten und
den aufgekl舐ten Freihandelshausierern.
Die n臧ere Betrachtung des im Wertverh舁tnis zur Ware B
enthaltenen Wertausdrucks der Ware A hat gezeigt, da゚ innerhalb desselben die Naturalform der Ware A nur als Gestalt von
Gebrauchswert, die Naturalform der Ware B nur als Wertform oder Wertgestalt
gilt. Der in der Ware eingeh・lte innere Gegensatz von Gebrauchswert und
Wert wird also dargestellt durch einen 舫゚eren Gegensatz, d.h.
durch das Verh舁tnis zweier Waren, worin die eine Ware,
deren Wert ausgedr・kt werden soll, unmittelbar nur als
Gebrauchswert, die andre Ware hingegen, worin Wert ausgedr・kt wird, unmittelbar nur als Tauschwert gilt. Die einfache Wertform einer
Ware ist also die einfache Erscheinungsform des in ihr enthaltenen Gegensatzes
von Gebrauchswert und Wert.
Das Arbeitsprodukt ist in
allen gesellschaftlichen Zust舅den Gebrauchsgegenstand,
aber nur eine historisch bestimmte Entwicklungsepoche, welche die in der
Produktion eines Gebrauchsdings verausgabte Arbeit als seine サgegenst舅dlicheォ Eigenschaft darstellt,
d.h. als seinen Wert, verwandelt das Arbeitsprodukt in Ware. Es folgt daher, da゚ die einfache Wertform der Ware zugleich die einfache Warenform des
Arbeitsprodukts ist, da゚ also auch die Entwicklung der
Warenform mit der Entwicklung der Wertform zusammenf舁lt.
Der erste Blick zeigt das
Unzul舅gliche der einfachen Wertform, dieser Keimform,
die erst durch eine Reihe von Metamorphosen zur Preisform heranreift.
Der Ausdruck in
irgendwelcher Ware B unterscheidet den Wert der Ware A nur von ihrem eignen
Gebrauchswert und setzt sie daher auch nur in ein Austauschverh舁tnis zu irgendeiner einzelnen von ihr selbst verschiednen Warenart, statt
ihre qualitative Gleichheit und quantitative Proportionalit舩 mit allen andren Waren darzustellen. Der einfachen relativen Wertform
einer Ware entspricht die einzelne トquivalentform einer
andren Ware. So besitzt der Rock, im relativen Wertausdruck der Leinwand, nur トquivalentform oder Form unmittelbarer Austauschbarkeit mit Bezug auf diese
einzelne Warenart Leinwand.
Indes geht die einzelne
Wertform von selbst in eine vollst舅digere Form ・er. Vermittelst derselben wird der Wert einer Ware A zwar in nur einer Ware
von andrer Art ausgedr・kt. Welcher Art aber diese zweite Ware, ob
Rock, ob Eisen, ob Weizen usw., ist durchaus gleichg・tig. Je nachdem sie also zu dieser oder jener andren Warenart in ein
Wertverh舁tnis tritt, entstehn verschiedne einfache
Wertausdr・ke einer und derselben Ware.30 Die Anzahl ihrer mglichen Wertausdr・ke ist nur beschr舅kt durch die Anzahl von ihr verschiedner Warenarten. Ihr vereinzelter
Wertausdruck verwandelt sich daher in die stets verl舅gerbare Reihe ihrer verschiednen einfachen Wertausdr・ke.
[Marx: Das
Kapital, S. 76 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3390 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 62 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 84 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3398 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 67 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 85 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3399 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 67 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 93 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3407 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 72 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 101 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3415 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 76 ff.)]
[1] 通貨流通高は、少しずつ変化しており、その長期的趨勢は、通貨流通高のデータを見る必要がある。
通貨流通高(日銀券と政府硬貨)の総額は、高度に信用制度が発達して信用貨幣のウエイトが圧倒的な現代日本経済などでは、マネーサプライのごく一部をなすに過ぎない。
上記「マネーサプライ統計について」から以下の部分をコピーしておこう。
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マネーサプライ統計の定義
マネーサプライとは、一言で言えば「経済全体に供給されている通貨の総量」です。より具体的には、「一般法人、個人、地方公共団体など通貨保有主体が保有する現金通貨や預金通貨など『通貨』を集計したもの」です。銀行や保険会社など金融機関や中央政府は、この通貨保有主体には含まれません。このため、これらの主体が資産として保有する現金や預金等はマネーサプライ統計に含まれません。
日本銀行では、対象とする『通貨(マネー)』の範囲に応じて、M1、M2+CD、M3+CD、広義流動性の 4つの指標をマネーサプライ統計として作成・公表しています。これらの指標の定義は図表1のとおりです。
M1は、最も容易に決済手段として用いることができる現金通貨(紙幣や貨幣)と預金通貨(当座預金や普通預金など要求払預金)により構成されます。
M2+CDは、M1に国内銀行、信用金庫等の準通貨(大半は定期預金)およびCD(譲渡性預金)を加えたものです。定期預金は解約して現金通貨ないし預金通貨に替えれば決済手段になる金融商品です。このため、預金通貨に準じた性格を持つという意味で準通貨と呼ばれます。マネーサプライに関する 4指標の中では、M2+CDが、実体経済や物価との間における関係が相対的に安定的であるとされており、実際に注目度も高い指標です。日本銀行では、毎月の「金融経済月報」において、M2+CDの動向に言及しています。また、毎四半期の初めには、当該四半期におけるマネーサプライ(M2+CD前年比伸び率)の見通しも併せて公表しています。
M3+CDは、M2+CDに、郵便貯金のほか、信用組合、労働金庫、農業協同組合、漁業協同組合等の預貯金および金銭信託を加えたものです。これらはいずれも、M2+CDと同じような預金としての性格を備えた商品ですが、速報性や統計精度が劣るなどの理由で、別途M3+CDとして分類されています。
M3+CDまでが現金・預金ないし預金類似商品であるのに対し、広義流動性は、やや性格が異なります。広義流動性は、M3+CDに、何らかの「流動性」を有すると考えられる金融商品、具体的には、金銭信託以外の金銭の信託、投資信託、金融債、金融機関発行CP、債券現先・現金担保付債券貸借、国債・FB、外債を加えたものです。従って、かなり広い意味での"マネー"サプライ指標と位置付けられます。広義流動性は、このように幅広い金融商品を対象としていることから、それら金融商品間において預け替えの動きが生じた場合であっても、比較的安定的に推移するといった特色を有しています。実際、97年11月〜翌98年
2月にかけては、M2+CDが急速に伸びを高める一方、広義流動性は比較的安定的に推移しました。これは、97年11月に大手証券会社を含む金融機関が相次いで破綻し、金融システムに対する不安が高まったことから、投資信託を解約して預金に預け替える動きが急速に強まったことを反映したものでした。この時、投資信託からの資金流入を受けてM2+CDは急増しましたが、広義流動性は、預金、投資信託の双方を対象としていることから、そうした金融商品間における資金の流出入の影響を受けなかったわけです。
ところで、マネーサプライの見方や経済指標の中での位置付けについては各国である程度共通のものがありますが、統計として作成される指標やその定義は、金融制度の相違などもあって、国や地域によって異なります。図表1では、わが国と米国およびユーロエリアにおいて、マネーサプライ統計に含まれる指標やその定義を比較しています。この図表から、わが国のマネーサプライ統計には、広義流動性といった比較的広い範囲の金融商品を対象としているものが含まれていること、一般法人・個人別や参考系列等も含め公表項目がやや細かくなっていることがわかります(注2)。また、公表時期が翌月第 6営業日と極めて早いのも、わが国のマネーサプライ統計の特徴です。
(注2) このほか、米国やユーロエリアでは、我が国とは異なり、保険会社など預金を取扱わない金融機関の保有する現金・預金等がマネーサプライ統計に含まれるほか、外貨預金や非居住者預金等の取扱いも我が国と異なっています。一方、公表頻度については、我が国やユーロエリアが月次であるのに対して、米国は週次となっています。
(図表1)日本・米国・ユーロエリアにおけるマネーサプライ統計の指標および定義
[2] だが、現代社会では、また市場経済が発達すればするほど、はっきりとだれでも知っており日常経験することは、商品が価格をもっているということ、全商品が、それぞれに使用価値・効用はまったく違っても、共通のものさし(価格表現)をもっていることである。しかしなぜそうなのか?
マルクスが古典派経済学の1世紀半以上の研究史を批判的に検討して明らかにしたことは、諸商品には、諸商品に共通の実体が含まれていること、それは同じ人間労働だということである。その同じ人間労働という共通の実体に還元してこそ、商品相互の交換が行われる。人間は、無数の商品の交換関係において、それはと意識せずに、お互いが商品交換者としては、同じ人間労働の一定量を相互に交換している、と。同じ人間労働という同質の共通の実体を前提にして、その量的関係を問題にしている、と。
[3] つねに、念頭において分析対象としているのは、次の等式(価値表現)である。すなわち、
x量の商品A = y量の商品B または:x量の商品A は、y量の商品Bに値する.
この等式、この表現の分析、意味合いを詳細に検討しているのであって、叙述は、この等式(価値表現、交換関係)を離れては意味をなさない。