株式・株式会社・株式市場と株価
株価が、二〇年ぶりの安値となったと報道されている。
そのようなとき、前田昌孝著『こんな株式市場に誰がした』日本経済新聞社の書評(池尾和人慶応大学教授)が『朝日新聞』2003年3月16日に掲載された。
書物は発注したのでいずれ読むことにしたい。
書評で紹介されているかぎり、「小手先の取り組みでは、日本の株式市場の『死に至る病』は治癒し得ないことを訴えている」という。
小手先ではない取り組みとはなにか? 抜本的な提案・対案を提出しているのか? 楽しみである。
他方、「小手先」の対策とはなにか?
「今年も、年度末に向けて株価の下落傾向が鮮明なものとなっている。こうした状況になると、政府に株価対策を求める大合唱になる。しかし、こうした一時しのぎの株価対策の積み重ねこそが、実は日本の株式市場をだめにしてきた元凶である」と。
だが、それでは、評者の池尾氏は、これまでどのような抜本的な解決策を提案してきたのだろうか? これを検証しなければならない。
それはおくとすれば、池尾氏は、著者の主張、すなわち、「株価だけに焦点をあて、それを動かそうとする試みは、『百害あって一利なし』といっていい」という主張に賛同している。その理由として、「そもそも、政府等の介入によって価格が動かされてしまうような市場を、投資家が信頼するわけがないではないか」と。
だが、それなら、なぜ、「大合唱」が起きるのか? 政府の政策が、需要を喚起し、市場と生産を刺激するということは、ありうることではないのか? ケインズ主義的政策は、まったくだめだというのが池尾氏の議論か? 新自由主義論が池尾氏の立場か?
「市場の生命線は、公正な価格形成にある。その公正に形成されるべき価格を引き上げるように操作することを求めれば、市場を壊してしまうのは、いわばことの道理である」というが、「大合唱」は、「不公正な」操作を望んでいるのか?
「株価は、その発行企業の価値を出きるだけ正確に反映するように形成される必要がある。企業価値が低ければ、その株価は低くなることが望ましい」と。
「したがって、株価をあげたければ、その実質である企業価値を向上させる必要がある。企業家血を向上させることは、第一義的には経営者の責任であるが、株式市場は、経営者にそうした努力を促すように機能しなければならない。ところが、株価対策は、株式市場が企業経営に規律づけ機能を発揮することも妨げてしまう」と。
しかし、このようなことはあたり前のことではないのか?
こんなことを経営者はなにも考えないで経営してきたのか?
本書を読んでみないと分からないが、「本書が報告している日本の実態は、右のような当然の事実に、政策当局者も、市場関係者もあまりにも無理解であることを示している」という。
もしその通りであるなら、長期不況は必然だということになる。
しかし、産業再生こそは、あるいは新しい産業の創出、新しい商品の創出、新しい市場の開拓こそが、重要だということは、多くの経営者が認識していることではないのか?
新しい将来性のある投資分野、新しい将来性のある商品の開発創出、新しい市場の開拓こそは、企業価値を高め、企業の利潤を拡大させることではないのか?
この基本が分かっていないとすれば、それは資本主義的企業ではないということになる。資本主義の市場原理をなにも分かっていない人々が経営を行っていることになる。その指摘はどこまで当っているのか?
現実の社会の多様な問題は、新しい市場の可能性を提示しているのではないか?
現実社会の深刻な問題に対するセンスの欠如こそが問題ではないのか?
現実社会に対する初々しい感覚、生き生きとした感受性がかけていることが、市場・製品開発を停滞させているのではないか?
個々人の生き生きとした感受性を活性化させ、発展深化させる社会になっていないことが根本問題ではないか?
そのような機械のような人間を大量生産してきた日本社会に根本問題があるのではないか?
この株式のような問題でも、一度は根本的理論的な把握をしなおす必要があることだけは確実である。
これは、本格的には、株価を規定する根本の原因、利潤率(利潤量)の変動要因を把握しなければならないことになる。たとえば、利潤率の傾向的低下の法則をきちんと理解しなければならない。