講義資料(メモ)20040330

更新日2004/03/30

 

経済史学からみた経営史の諸問題―マックス・ヴェーバーの社会理論に照らして―」大塚久雄全集9巻、pp.467-483

(本引用において、脚注は、永岑のもの)

--------「経済史学からみた経営史の諸問題―マックス・ヴェーバーの社会理論に照らして―」[1]------

研究史に一瞥をあたえるだけでも明らかなように、経済史の研究は従来おそろしく広範な分野を包括してきたし、また現に包括している。それは研究対象として、経済学の諸部門がそれぞれ自己の研究対象としてもっている諸分野のすべてを包括しているばかりでなく、時代的にみても、歴史の曙から現代にいたるまで―たとえば現代経済史という一部門が存するように―のすべてを包括しているといってよい。けれども、これまた研究史を少しく顧みるだけでも明らかとなるように、従来経済史学の最も重要な課題となってきたものが、「産業社会」indutrial societyとか「資本主義社会」kapitalistische Gesellschaftと呼ばれている近代経済社会の発生史的研究だということ、いや、少なくともそのあたりに一つの、しかし最も重要な焦点が集められてきたということは、いい得て誤りのないところであろう。実は、こういう近代経済社会の発生史的研究が進展する課程で、経営史研究の固有な領域と方法がしだいに形づくられてき、そして、それが経済史学という旧来の殻を破って、ついに独自な一分科としていちおう完成した姿を現わすにいたった。・・・・

ところで、この問題をときほぐしていくために、その手がかりとして、本稿ではマックス・ウェーバーの社会学ないし経済社会学の理論を援用したいと思う。それは、一つには彼が「経営」という語を、いやいっそう正確には》 Betrieb(ベトリープ)《―その立ち入った意味内容は後段で説明する―という語を、社会科学の術語として、ひじょうに意味深くもちいた最初の人だったからであるが、そればかりではない。彼の》Betrieb(ベトリープ)《理論の学界への影響は、意識されていると否とに関わらず、いまだにきわめて広くかつ深いものがあるように思われるからである。じっさい、経営学とりわけ経営社会学のさまざまの流れのなかに、したがって経営史学のさまざまな流れのなかにも、ヴェーバー的な思考様式が見えかくれしながら現われてくる。いや、ヴェーバーの名がほとんど出てこないばあいでも、彼の学説とのあまりにも大きい類似に驚かされることがしばしばであって、やはり「経営」概念の理論的把握にとって、最も重要な根源の一つとなってきている、といってよいのではなかろうか。本稿では、いわばそうした根源にひとたびたち返って、そこから問題の所在を照射してみたいと思うのである。・・・・・・

いままでは、ヴェーバーの》Betrieb(ベトリープ)《という術語にたいしていちおう「経営」という日本語をあててきた。けれども、ヴェーバーの概念規定に忠実であろうとすると、実はこの訳語は必ずしも十分に正確ではないのである。というのは、こういう理由からである。このごろ「運営」あるいは「運営体」という語がさかんに用いられているが、ヴェーバーのいう》Betrieb(ベトリープ)《はほぼこの語に照応するような広い適用範囲をもつものであって、必ずしも経済という文化領域に限定して用いられているわけではない。それに対して、日本語の「経営」は、決して必ずというわけではないが、主として、あるいは特に、経済に関連して使用されるのが通常のように思われるからなのである。以下いままでと同様「経営」の訳語を用いておくが、その場合、ヴェーバーの用語法にしたがって、「経営」のなかには、経済以外のさまざまな文化領域に姿を現してくる運営(ないし運営体)をも包含させて使用することにしたい。この点も、念のため、念頭に止めておいていただきたい。

さて、ヴェーバーの場合、「経営」とはいったい何であるのか。彼の言うところを紹介してみると、およそつぎのとおりである。「経営」とは、まず一定種類の持続的な有目的行為である。それは持続的であって、断片的ではない。いまはこのことを行うが、しばらくすれば別のことを行うというような、それぞれ異なった目的を持つ、バラバラな諸行為の単なる寄せ集めなどではなく、一定の目的のもとに一貫して続けられていく行為である。「経営」は、ヴェーバーのばあい、なによりもまずそうした人間の行為を意味している。ところで、こういう基礎的理解にもとづいて、彼はさらに「経営体」Betriebsverband(あるいは経営団体)という概念―普通はこれも「経営」と呼ばれているようだ―をも定義していく。すなわち、「経営体」とは、そういう持続的な有目的行為、つまり「経営」を行う「管理のスタッフ」Verwaltungsstabを具えているような「団体」Verbandである、と。言いかえるならば、団体の内部に管理のためのスタッフが存在し、そのスタッフの管理によって経営が行われる、そうした団体が「経営体」だというわけである。・・・・・

ところで、団体の内部に管理のためのスタッフが存在し、彼らの団体の成員すべてを率いて他ならぬ経営を行うという、そうした経営体にあっては、そのような事情からして当然に、その内部には一定の「規律」Disziplin[2]がそなわっていなければならない。言いかえるならば、経営体は規律のある団体でなければならない。したがって、また彼の表現をもってすると、経営体は「規律」の上にうちたてられた「組織」Organisationだということにもなる。

ところで、経営体の内部でそのような一定の規律が保たれているためには、経営を行う管理のスタッフが経営体の全成員に命令し、また全成員がそれに服従する、という関係がうちたてられていなければならない。その服従も、不当だとは思いながらも力に屈してというのではなく、内面的にともかくも進んでそれに服従し、協力する、という関係[3]でなければならない。つまり、ヴェーバーがいうところの「支配」Herrschaftの関係である。その点からすると、経営体は、内部にそのような意味での命令と服従の関係、つまり、「支配」の関係を含むような団体だということになる[4]

ところで、経営体の内部でそうした規律を作り出していく「命令権力」Befehlsgewaltが諸成員のあいだにどのように配分されているか、そうした命令権力の配分関係[5]を、ヴェーバーにしたがって「組織」Organisationと呼ぶとすると、経営体はまた一つの「組織」だということになる。が、先にも少しく言及したように、およそ「組織」を支えるものは、単なる「実力」Machtだけではなくて、さらにそれに加えて、一定の内面的な「支配原理」Herrschaftsprinzipがそれを裏づけていなければならない。もう少し詳しくいえば、管理のスタッフの命令に対して諸成員がみずから進んで服従する、そのような服従の意志を諸成員の内面に生みだしていくような一定の「正当性の意識Legitimitätsbewußtsein、そうした一定の内的原理が内面から支えていなければならない。そして「経営体」のばあいに、その「組織」を支える内的原理こそが、ヴェーバーのいう「官僚制支配」die bürokratische Herrschaftなのである[6]

 

 



[1] 初出は、中村常次郎・大塚久雄・鍋島達・藻利重隆編『現代経営学の研究』柳川昇先生還暦記念論文集、日本生産性本部、1968(1965年秋に東京大学で開催された第1回経営史学会大会における同名の研究報告の記録、『経営史学』1の1所載、に大幅に加筆と訂正をくわえたもの)

 

[2] 大学で言えば、学則がそれである。

 あるいは、公立大学法人の場合の「定款」もそれにあたる。設置者である地方公共団体(横浜市)が、大学にどの程度の自立性を保障するのか、これが「定款」の諸条項で明確に規定されなければならない。ところが、教員組合や「大学人の会」の「定款」批判が明らかにしているように、今回の「定款」は、大学の自立性・自主性・独立性を従来以上に狭く小さくするものである。行政当局・官僚の独裁化を容易にする制度である。

「定款」において、学部・学科・コース・そのカリキュラム編成などの改廃・新設において、研究教育の専門家集団としての教員の自立的・自律的な権限と責任がなければ、大学ではなくなるのである。それは、自立的自律的主体としての大学の否定だからである。

学則は、大学の規則であり、その規則が自主自律的であるためには、本来的にいって、大学人が選んだ評議会において制定され、大学人の自由な議論を経て、最終的には設置者(=地方公共団体)の同意と承認を得て制定されなければ、ならないだろう。その徹底度が民主主義的自立・自律の度合いを意味するだろう。

その場合に、支配は、従うもの(服従するもの)の民主主義的合意・同意によるものとして、精神的内面的に強靭なものとなろう。自らが決めたことにみずから従う、自ら決めたことは設置者の同意と承認を得たものである、ということこそ自律であろう。自治は、自ら決めたことによって自らを統治する、ということであろう。大学の規則・規律・意思の決定への大学人の参加権は、民主主義的服従の基本前提であり、主体的自発的責任はそこでこそ発生してこよう。

今回の「定款」は、その検討段階から一切大学人(教員)は排除されていた。評議会は教員等の意見があったにもかかわらず、審議事項としなかった。「定款」に関する意見を取りまとめることすらしなかった。かろうじて商学部と国際文化学部が意見を取りまとめ、学長に提示し、公開したにとどまる。

今回の「定款」は、大学の外の組織、市当局・行政当局が独裁的に制定したものであり、それを議会が承認したものであって、行政当局も市議会も、大学の自治の外部にあるものである。

今回の「定款」は、作成段階において大学(評議会)に検討を求め、その意見を十分にくみ上げる形で作成したものではなく、したがって、大学にとっては徹頭徹尾、他律的な「定款」であり、自律的要素はない。独裁的な官僚統制型「定款」になるのは至極当然である。

[3] 「内面的に進んでそれに服従し、協力する」ためには、定款や規則(学則等)が自主的・自発的・自律的・自治的検討を踏まえたものであることが必要不可欠であり、さらに制定後もつねに大学人の批判的検討の対象とされ、科学文化の研究教育の使命に合致するように、修正し改善されるべきものである。それでこそ、不断の同意=合意調達がなされたものとして、強靭な規則・生命力のある規則・生き生きとした規則となろう。

 「内面的に進んで」とは、まさに、「自主的自発的に」ということである。

 

[4] ウェーバーの経営体の規定は、民主主義が大学人と市民の中に深く根付いている場合には問題がないかもしれない。しかし、民主主義的原理をきちんと位置づけないと、独裁制正当化の議論となってしまうであろう。

今回の「定款」作成過程を見ても、その結果としての「定款」にしても、行政主義の全面化、悪しき官僚統制主義の「定款」となったことはあきらかであり、支配=服従関係における民主主義原理こそが、問題とされなければならない。民主主義的支配の原理こそが、大学では樹立され、充実されるべきなのである。それでこそ、大学の自律(それに伴う主体的責任)が高まったといえる。

民間企業に関する「人本主義」原理=従業員主権の原理、今一度、大学経営・大学法人の原理としても、捉えなおす必要がある。株主主権(資本所有者主権)ではなくて、人本主義=従業員主権の原理が日本企業の強みであるとすれば、今回の本学の「定款」は、株主主権原理=市当局主権=行政主権の原理が貫徹したものとして、大学の生命力・強みを弱めるものであろう。その意味で、時代錯誤的な「定款」、日本の民間企業においてさえ見られる民主主義の現代的到達点を逆戻しにする「定款」であろう。

 

[5] 命令権力が、「下からの命令」(下からの意思表明)に根源をもっている場合、すなわち、大学の規則、大学の「定款」が、大学人の慎重な自立的な検討を踏まえたものであり、その策定過程に大学人ができるだけ全面的に関与していれば、まさに自らが制定に関与し命令したことに自らが従う度合いが強まり、命令を発するものと命令に服するものとが同じ大学人であるということになる(その実質が大きくなる)。その場合に、一番、実質的に、命令=服従関係が実現され達成されることになるであろう。命令を出すものと命令を受けるものとが、画然と分離されていれば、それは独裁的専制的なものである。

 命令権力における民主主義原理の貫徹度が、問題となる。

 民主主義原理において、支配者は人民である。日本国憲法の原理は、国民主権であり、国民が支配者であり、また自分たちが作ったものとして正当性を承認し合意している限りで憲法や法律体系は生きたものとしてそれに内面的に生き生きと従うことになる。現実にはそうした内面的な制定意識・正当性意識・服従意識がどこまであるか、が問題になる。

 

[6] 大塚は、ここで、経営体=人間の「組織」を支える内的原理を「官僚制支配」としているが、ここには論理的な飛躍があるように思われる。これはウェーバー自身の説と大塚の解釈とそして現実の支配(統治・管理運営)を照らし合わせて検討すべき問題であろう。

『社会学文献事典』弘文堂、1998年の「ウェーバー『支配の社会学』192122年刊」(厚東洋輔・執筆、50-51ページ)によれば、「支配現象は2つの面からアプローチされる。ひとつは「正当性」の視角(被支配者の服従がいかなる根拠に基づき要求されるかを問う)、もうしとつが「組織」の視角(支配者とスタッフの間で命令権力がどのように配分されているかを問う)という2つで、支配は服従と強制の両面から社会学的に研究される・・・「正当性の三つの純粋型」では、・・・形式的に正しい手続きで定められた制定規則は正当である、という信念に基づき服従する「合法支配」、昔から存在する秩序と権力を神聖と信じて服従するのが「伝統支配」、支配者の人格とその人が持つ天与の資質とに対する情緒的な帰依によるのがカリスマ支配」である。「組織」=(命令権力の配分)の視角からは、2つの極類型が対比される。一人の支配者(ヘル)に権力が集中されるケースが「単一支配制」、逆にヘルとスタッフ(行政幹部)の間に権力が分有されるケースが「権力分割(あるいは合議制)」である。正当性の違いが権力配分にどのような影響を与えるかを検討することが、ウェーバーの議論のポイントになっている」と。  

ヴェーバーの場合、支配原理、正当性意識と関連するのは、有名な支配の3類型で、合法的支配(法律に基づく支配)、伝統的支配(慣習・経験蓄積の記憶などに基づく支配)、そしてカリスマ的支配(神や天から授かったと観念される説明のしようのない、非日常的な力によった支配)である。それぞれの正当化原理は、法律体系、伝統慣習体系、非日常的超絶的能力(その資質を持つ個人の発する発言・演説などの説得力・大衆掌握力などの総合)である。

上記、『社会学文献事典』p.51によれば、『支配の社会学』の「第3節 官僚制支配の本質、前提、展開」では、合法支配のもっとも純粋な型である「合理的=近代的な官僚制支配」が取り上げられ、機械とのアナロジーで近代の公式組織の本質を明らかにしたとされる。機械とのアナロジーが持つ問題性、人間組織としての、有機的な組織体としての現実の公式組織との乖離、むしろビヒモスやリヴァイアサンのような有機体とのアナロジーのほうが現実に近いといった問題があろう。ドイツの現実にあまりにも引き付けられた、あるいは民主主義の未成熟に規定された支配理論ではないだろうか。権力分割を見る目も、「ヘルとスタッフ(行政幹部)」との分割という狭い範囲であることも、問題だろう。いずれにしろ、ウェーバーの支配類型論は、今日的視点で、再検討の必要がありそうである。

 

個別経営の場合、個人経営の商店や企業が大きくなって大きな組織=経営体となっても創業者個人の指導力・経営力・人心収攬術等の個人的資質による経営が行われる場合、カリスマ的経営(カリスマを持った個人の命令とそれに従う従業員集団)ということになろう。株式会社で大きくなり、所有と経営が分離し、いわゆる雇われ重役が経営を行う場合、その経営者の資質(説得力・指導力・構想力など)とその成功実績・実力が、会社・企業統治の正当性原理となろう。企業の統治と管理は通常は、たとえば就業規則、その背後の労働関係諸法など法律や規則に基づくものであろう。

現実の政治的統治も企業統治も、いまでは、伝統、法律、カリスマの三つが融合して行われているというべきだろう。

そこで、どれだけ従業員全体の意志=同意=賛同=命令への自発的服従が得られる統治・命令システムになっているかで、その企業の総体としての生産力・営業力などが決まってくるであろう。従業員総体の力量のベクトルを全体として結集し融合している度合いがその企業の活力を意味するだろう。世界的な競争関係の中で、世界の人びと=社会の要求を最終的にターゲットにしつつ、時々刻々変化する競争条件と長期的競争条件・状況をどのように各経営体が敏感に、深くかつ広く認識できるかが、その企業・経営体の生命力・膨張力・社会的同意調達力となろう。

 

「統治の主体が王から人民へと変化していくなかで、統治の仕事を担当する官僚制の性格が大きく変わっていく。統治主体が人民であるということは人民が一番基本であり、主権者であるということであり、官僚制は国家奉仕階級ではなく、公僕的な職能集団ということになる。人民に仕える職能集団は職業を相続するのではなく、主として公募競争の上で選ばれる。これが官僚制を近代的なものにしていく大きな契機である。・・・

官僚制は20世紀に飛躍的に拡大した。それは主権国家が一定の領域と一定の国民を基盤にした形で強固になったことに伴うものである。・・・20世紀には、経済のルールの設定、社会政策、国家による事業経営等を日常的に行うものとなっていった。対外的にも、徴兵と公益を軸にしたものが、大戦争への動因・遂行、世界経済ルールの設定やそれへの適応、世界的な事業への大規模な参画などに、とどまることのないかのように拡大していった。・・・

20世紀初頭、マックス・ウェーバーが描いた官僚制についての理想像であるところの職能的な有能性、競争的な官僚の人的調達そして政治的中立性は、現実の展開のなかで疑問が挟まれることのほうが多くなった。(猪口孝)」『政治学事典』弘文堂、2000年、214ページ。

「有能さ」とはまさに個々人の能力・資質であり、法律を起案し、法律に従い、法律を運用する等の能力であり、またどのような法律体系が既存のものとして存在するかの知識をもち、その法律体系の生命力などに関しての現状認識力を持っていることであろう。さらには法的規律の土台や周辺にある法慣習などに関する認識・知識も必要であろう。